<   2012年 07月 ( 17 )   > この月の画像一覧

 

ロンドンオリンピック体操男子団体の銀メダルに見る、後味の悪さ。

昨夜(正確には本日未明)、柔道と卓球の観戦記を起稿したあと寝るつもりでしたが、やはり体操男子団体の動向が気になり、結局最後まで観てしまいました。
結果は残念ながら痛恨の4位・・・と思いきや、内村航平選手のあん馬の採点について日本側が抗議した結果、審議後に逆転で銀メダル獲得となりました。
「おめでとう!」と言っていいのかどうか・・・でも、公正な審議の結果の逆転ですから、やはり「おめでとう!」でいいですよね。
ただ、なんとなく後味の悪い思いを抱いてしまっているのは私だけでしょうか?
選手たちは全力を尽くして戦っているわけですから、本当は素直に拍手を贈りたいんですけどね。

先日の柔道男子66キロ級の海老沼匡選手のときといい、今回の体操男子団体といい、ジャッジの見直しによって日本側に有利にはたらいてはいるものの、なんとも後味の悪さを感じてしまいます。
なんか、ラッキーでメダルを貰ったみたいじゃないですか!
柔道のときに再判定によって敗者となった韓国の選手は、現実を受け入れられずにしばらく畳から下りようとしませんでしたが、今回の体操男子団体でも、日本が繰り上がったことでメダル圏外に押し出されてしまったウクライナの選手は、きっと納得がいかなかったことでしょう。
銀から銅に格下げとなったのが開催国イギリスだったのも日本にとっては不運でしたね。
別に彼らが悪いわけじゃないのに、会場内のブーイングを一身に受けて気の毒なかぎりでした。
それもこれも、最初から審判が正確にジャッジしてくれていたら、感じずに済んだ後味の悪さです。
オリンピックでしか体操競技を観ない私にはわからないことですが、審議によって判定が覆るような事例は頻繁にあることなのでしょうか?
採点を競う競技は、どうも釈然としない結末が多いように思えてなりません。

それにしても、金メダルに最も近い男といわれた内村航平選手が苦しんでいるようです。
予選での鉄棒演技での落下を精神的に引きずっているのか、それとも何か身体的原因を抱えているのか、いずれにせよ、大会前の自信に満ちた内村選手でないのは確かです。
やはり、4年に1度しかないオリンピックの舞台に、心身ともにベストの状態を作るのは難しいことなんですね。
団体戦終了後のインタビューで彼は、「メダルはとれたが、後味の悪いチーム戦だった。」と述べていましたが、彼のいう後味の悪さは、私たちが思う審判のジャッジに対するものではなく、自分の演技に対する後味の悪さでしょう。
審判のジャッジがどうあれ、自分として納得いく演技ができなかったのは事実。
納得いく演技ができた上でメダルを逃したのなら諦めもつくでしょうし、納得いかない演技でメダルを獲得しても、素直に喜べない思いがあるのでしょうね。
メダルの色というのは目標のひとつの指標であって、本来の目的は世界の大舞台で自分の持てる力を最大限に発揮することにあります。
今回、4位から2位に判定が覆ったからといって、自身の演技が変わったわけではありませんからね。
団体戦は終わってしまいましたが、でもまだ個人戦があります。
気を取り直して、本来のダイナミックな演技を見せてほしいものです。

体操団体の観戦を終えて就寝しましたが、朝起きたら競泳女子100メートル背泳ぎで寺川綾選手が、男子100メートル背泳ぎでは入江陵介選手が、さらに女子100メートル平泳ぎでも鈴木聡美と、3人の競泳陣が揃って銅メダルを獲得していました。
なかでも、自身の持つ日本記録を更新して銅メダルとなった寺川綾選手は27歳でのメダル獲得で、これは日本の女子競泳史上最年長のメダリストだそうです。
なにより、美人ですよね~。
オジサンはファンになっちゃいそうです(笑)。

それにしても、先日の男子400メートル個人メドレーの萩野公介選手に続いてメダルラッシュの競泳陣ですが、決勝の時間があまりにも深夜(早朝?)すぎて、リアルタイムで観れていません。
そろそろ寝不足がピークを向かえそうです。


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by sakanoueno-kumo | 2012-07-31 12:11 | 他スポーツ | Comments(0)  

日本人金メダル第1号は柔道女子・松本薫選手。中矢力選手は惜しくも銀メダル。

ロンドンオリンピック柔道女子57キロ級で松本薫選手が金メダルに輝きましたね。
連日のテレビ観戦で寝不足のため、今夜はブログをアップするつもりではなかったのですが、金メダル獲得となれば黙ってはいられません。
一進一退の攻防で延長に突入した決勝戦でしたが、試合はルーマニアのカプリオリウ選手が危険行為を犯したということで、一発反則負けという結末となりました。
柔道のルールに詳しくない私は、一瞬なにが起きたのかよくわかりませんでしたが、松本選手の喜ぶ顔を見てようやく事態を把握しました。
せっかくの日本人選手初の金メダルの瞬間だったので、反則なんかじゃなくスカッと勝って欲しかったという思いがなきにしもあらずですが、何はともあれ金メダルは金メダル、胸を張って欲しいと思います。
それにしても、決勝を待つ間の彼女の獲物を狙うような眼光は怖かった(笑)。
あの目で睨まれたら、大の男でもすくみ上がって動けなくなるかもしれません(笑)。
ところが試合に勝った瞬間の、目尻が下がって涙目になった彼女の笑顔は、それまでの鬼の形相の彼女とは別人のようなチャーミングな女の子でした。
やはり格闘技で金メダルを獲るには、あれくらいの気迫が必要なんですね。
松本薫選手! 金メダルおめでとう!
そして世界の舞台での「君が代」をありがとう!

しばらくは、目尻の下がった笑顔でいてください(笑)。

一方で、男子73キロ級でも中矢力選手が決勝に駒を進めましたが、惜しくもロシアのイサエフ選手に敗れ、銀メダルという結果に終わりました。
男女揃っての同日金メダルとはいきませんでしたが、それでも男女揃っての同日メダル獲得はお見事。
とくに男子柔道は、今のところ銀・銅・銀と、3日連続すべての階級でメダルを獲得しています。
このまま全階級メダル奪取といきたいですね。
何はともあれ、中矢力選手!銀メダルおめでとう!

他にも、女子卓球シングルスでは、福原愛選手と石川佳純選手が揃って4回戦を突破し、ベスト8に駒を進めました。
とくに福原選手は相手に3ゲームを先取された劣勢からの逆転劇で、底力を感じましたね。
石川選手は危なげない試合運びで、このまま2人揃ってベスト4進出の期待が高まります。

あと、体操男子団体の動向も気になりますが、さすがに明日も仕事なので今夜はもう寝ることにします。
ニッポン頑張れ!!!


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by sakanoueno-kumo | 2012-07-31 02:25 | 他スポーツ | Comments(0)  

平清盛 第30話「平家納経」

 後白河上皇(第77代天皇)と二条天皇(第78代天皇)の対立関係は深まりつつあったが、それでも重要な国政は天皇と上皇、摂関家の合議によって行われていた。そのバランスが崩れたのは、応保元年(1161年)9月、平清盛の義妹で後白河院の寵姫となった滋子(のちの建春門院)が、皇子の憲仁親王(のちの第80代高倉天皇)を産んでからである。

 全話の稿(参照:29話)でも述べたとおり、滋子は清盛の妻・時子の異母妹で、実兄には稀代な野心家として名高い平時忠がいた。妹が皇子を出産したことで有頂天になった時忠は、清盛の弟・平教盛と結託して憲仁親王を皇太子の座に据えるべく画策した。しかし、彼らの陰謀はあえなく露見し、激怒した二条帝は時忠たちを解官、後白河院は政治から排除され、国政は天皇と摂関家の合議によって行われることになった。さらに翌年6月、時忠は源資賢ら後白河院政派と共に二条帝を呪詛したという罪をきせられ、出雲国へ流罪となった。このとき後白河院の近臣が多数処罰され、こうして、後白河院政は完全に停止に追い込まれたのである。

 「保元の乱」の敗北によって讃岐国に配流となっていた崇徳上皇(第75代天皇)は、その後、二度と京の地を踏むことはなかった。『保元物語』によると、崇徳院は讃岐国での軟禁生活の中で仏教に深く傾倒し、五部大乗経の写本づくりに心血を注いだという。そして完成した写本を、先の乱での戦死者の供養と反省の証に京の寺に収めてほしいと朝廷に送ったところ、後白河院が「呪詛が込められているのではないか」と疑って送り返したという話はドラマのとおり。これに怒り狂った崇徳院は自らの舌を噛み切り「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」と写本に血で書き込み、爪や髪を伸ばし続け夜叉のような姿のなり、生きながらにして天狗になったとされている。まさしく、ドラマの鬼気迫る演出そのものの伝承である。

 崇徳院が崩御したのは長寛2年(1164年)8月で、「保元の乱」から8年後のことである。ドラマでは、最後は穏やかな顔で逝った崇徳院だったが、実際には死後も怨霊として恐れられ続けた。こののち時の為政者たちは、事あるごとに崇徳院の呪いを意識するようになり、慰撫に躍起となっていったという。そうして怨霊としての崇徳院のイメージは武士の時代になっても歴史の中に定着し、死後700年以上経った慶応4年(1868年)には、明治天皇(第122代天皇)の即位に際して勅使を讃岐に遣わし、崇徳院の御霊を京都へ帰還させて白峯神宮を創建するに至った。さらに崇徳天皇800年祭に当たる昭和39年(1964年)には、昭和天皇(第124代天皇)の意向によって香川県坂出市の崇徳天皇陵に勅使を遣わし、式年祭を執り行わせている。まさしくその予言どおり、崇徳院は日本史の中で800年近くもの間「日本国の大魔縁」であり続けた。その生前、天皇・上皇という立場にありながら一度として実権を持てなかった崇徳院だったが、死後、日本史の中に強烈な存在感を残した。

 清盛の次男・平基盛が死去したのは崇徳院の怨霊ではなく、同じく「保元の乱」の敗北者である藤原頼長の怨霊に祟られ溺死したと、『源平盛衰記』には記されている。享年24歳。先に述べた時忠の教盛の憲仁親王皇太子擁立の企てに関わっていたようで、彼らと同日に解官されていたが、その人となりは兄の平重盛に勝るとも劣らない有能な人物だったとか。その早世に、さぞや清盛は嘆き悲しんだことだろう。

 長寛2年(1164年)9月、清盛は一門の栄達を感謝し来世の冥福を祈るため、厳島神社に写経を奉納した。今も同社に伝わる国宝『平家納経』である。『平家納経』は平家の繁栄を願って一門同族郎等が1人1巻を分担して書写したもので、清盛の自筆願文に「書写し奉る妙法蓮華経一部廿八品、無量義、観普賢、阿弥陀、般若心経等各一巻」とあるように、32巻の経典のことで、願文を合わせると33巻になる。清盛を始め、重盛とその子息、頼盛教盛経盛等、32人にそれぞれ1品1巻ずつを当てて制作にあたった。ドラマでも描かれていたように、表紙絵や経典の外装、それらを収める経箱の工芸美など、当時の技巧の粋を集めた豪華な巻物で、平安末期美術工芸史上の代表作品とされている。その善美を尽くした経典は平家の絶頂を示すものといわれ、その栄華のほどを物語っている。今まさしく、平家は全盛期を向かえようとしていた。


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by sakanoueno-kumo | 2012-07-30 21:34 | 平清盛 | Comments(0)  

海老沼匡選手の銅メダルおめでとう!と、やり直し判定の是非。

連日目が離せないロンドンオリンピック男子柔道ですが、昨日銀メダルを獲得した60キロ級の平岡拓晃選手に続いて、66キロ級の海老沼匡選手が銅メダルを獲得しました。
日本の柔道選手にとって銅メダルという結果は、決して目指していたメダルの色ではないのかもしれませんが、それでも世界3位という称号は立派なもの、胸を張ってメダルを掛けて欲しいですね。
準決勝で不本意な負け方をして3位決定戦に回ってしまったときには、昨日の女子48キロ級の福見友子選手の例が思い浮かんで、イヤ~な雰囲気が漂いましたが、結果は鮮やかなつり腰で一本を決め、銅メダルを手中にしました。
よく短時間で気持ちを切り替えてきましたね。
もし、準決勝の失意を引きずったまま福見選手に続いて3位決定戦も不本意に終わっていたら、明日以降、日本人選手がもしまた3位決定戦に回ってしまったとしても、二人のトラウマに襲われていい結果が残せなくなったかもしれません。
悪いジンクスというのは連鎖しますからね。
その意味では、海老沼選手の銅メダルは、悪い流れを断ち切った大きな勝利だったと思います。
見事でしたね。

それにしても、あの準々決勝の二転三転した判定は何だったのでしょうね?
韓国のチョ・ジュンホ選手と対戦した準決勝で、延長に入って海老沼選手の小内刈りが決まったかに見えたものの、センターテーブルに座っているジュリーと呼ばれる審判委員から物言いが出て、審判の協議によってポイントが認められず、そのまま勝負は判定に持ち込まれました。
その判定で審判3人の旗はチョ・ジュンホ選手に軍配を上げましたが、場内は大ブーイングが沸き起こって異様な雰囲気となりました。
ここでまたまた畳の外のジュリーからクレームがつき、再び協議となって今度は海老沼選手に旗3本が上がり、彼の勝利となりました。
旗判定のやり直しなんて前例のない珍事だとか。
たしかに、素人の私が見ても海老沼選手の優勢に思えましたから、最初の青旗3本の判定には驚きと疑問を隠せませんでしたが、ああまでハッキリとしたジャッジが覆るなんてことなどあり得ないと思っていましたから、やり直し判定で白旗3本が上がったときはもっと驚きましたね。
いや、べつに海老沼選手の勝利にケチをつけるわけではありませんよ。
ただ、審判委員の一言でそんな簡単に判定が覆るのだったら、審判は何のためにいるんだ?・・・とも思ったりします。
判定やり直しで敗者となったチョ・ジュンホ選手は、現実を受け入れられずにしばらく畳から下りようとしませんでしたが、彼の立場からすれば当然ですよね。
だって、いったんは勝ち名乗りをあげられて、拳を上げて喜んだ後ですからね。
なんか、シドニーオリンピックのときの篠原信一選手(現柔道男子日本代表監督)を思い出しました。
あのときは、当時の山下泰裕監督がどれだけ猛抗議をしても、判定が覆ることはありませんでしたよね。
あのときの騒動がきっかけとなって、各試合場とセンターテーブルにジュリーと呼ばれる審判委員を配置して 審判員のミスをチェックする制度が生まれたそうです。
その趣旨から考えれば、今回のやり直し判定はその制度に法った公正な結果といえるかもしれませんが、再協議によって勝者から敗者となってしまった側に立てば、釈然としない思いがあるでしょう。
誤審は防ぎたいことですが、ああも簡単に審判のジャッジが覆るようでは、審判への不信感となってかえって試合を混乱させる結果にもつながりかねないと思います。
いすれにせよ、ミスジャッジはどちらにもいい結果をもたらしません。
毎度毎度いわれていることですが、各国の審判員のクオリティを高める対策が必要ですね。

その後、判定で勝ち上がった海老沼選手はその次の準決勝で敗れ、3位決定戦に回って銅メダルとなりましたが、判定負けしたチョ・ジュンホ選手も敗者復活を勝ち上がり、3位決定戦を制して銅メダルとなりました。
結局、海老沼選手とチョ・ジュンホ選手ともに同じ高さの表彰台に立つことになったわけです。
ある意味、角が立たない結果といえるでしょうか(笑)。
もし、あのとき判定が覆らなくても、ひょっとしたら二人の銅メダルという結果は同じだったかもしれませんね。

柔道以外でも、競泳男子400メートル個人メドレーの萩野公介選手が銅メダル、重量挙げ女子48キロ級の三宅宏実選手が銀メダルを獲得しましたが、いずれもリアルタイムでは見れませんでした。
早くも寝不足気味、やっぱり全てを追っかけるのは不可能のようです(笑)。


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by sakanoueno-kumo | 2012-07-30 02:25 | 他スポーツ | Comments(0)  

ロンドンオリンピック開幕!日本人選手メダル第1号は平岡拓晃選手。

ロンドンオリンピックが開幕しましたね。
さっそく寝不足の方もおられるのではないでしょうか?
私も今朝は早起きして開会式を見るつもりだったんですが、うっかり寝過ごしてしまいました(泣)。
オリンピックの見どころといえば、競技はもちろんですが、開催国の歴史と文化を感じることができる開会式と閉会式も楽しみのひとつ。
とくに今回は、ポール・マッカトニー「ヘイ・ジュード」を歌うという事前情報が流れていましたから、ぜひとも生で見たいと思っていたのですが・・・。
痛恨の寝坊です(涙)。

さて、私たち日本人にとってオリンピック初日といえば、柔道男子60キロ級女子48キロ級において「日本人選手メダル獲得第1号」という速報に始まるというのが、ずいぶん長い間の定番となっていました。
それ、すなわち、オリンピック3大会連続金メダルという柔道史上初の偉業を成し遂げた野村忠宏選手と、オリンピック5大会連続メダル獲得という離れ業を成し遂げたヤワラちゃんこと谷亮子選手の二人が活躍していたからですね。
今回、その偉大な先輩のあとを継いで大会初日の畳の上に立ったのは、平岡拓晃選手と福見友子選手でしたが、結果は平岡選手が銀メダル、福見選手は5位という結果でした。
まずは平岡選手におめでとうと言いたいですね。
平岡選手は前回の北京オリンピックに続いて2度目の出場ですが、前回は4大会連続金メダルを目指す野村忠宏選手の夢を打ち砕いての出場だったにもかかわらず、痛恨の1回戦敗退という結果だったことで、「野村が出ていたら」といった世間の冷たいバッシングに晒されたそうです。
それだけに、今回に賭ける思いは並々ならぬものがあったようで、その闘士と集中力はテレビ画面を通してもビンビンに伝わってきましたね。
とくに、準々決勝の残り7秒からの巻き返しは見事でした。
決勝は残念ながら一本負けを許したものの、4年前のリベンジは十分に果たせたんじゃないでしょうか。
お家芸の柔道では、「金メダル以外では喜べない」といった雰囲気が選手たちにも応援する側にもありますが、戦っている選手はそうだとしても、見ている私たちは賞賛すべきだと思いますけどね。
何と言っても銀メダル、世界も2位なんですから。

一方の福見選手は、自分の力を出し切れないまま終わってしまった感があり、たいへん悔しい結果となってしまいました。
とくに3位決定戦に回ってしまってからは、流れをつかめそうでつかみきれず、気力の持続が出来てなかったように見えました。
そう考えれば、前回の北京で、同じく準決勝で敗退して3位決定戦に回った谷選手でしたが、気持ちを切り替えてキッチリ銅メダルを獲得したのはさすがといえるでしょうか。
福見選手は、実力はありながらも谷選手と同じ階級だったためにオリンピックは今回が初出場
ようやく掴んだ念願の舞台でしたが、その分プレッシャーも大きかったことでしょうね。
でも、だからこそ彼女にはいい結果を残させてあげたかった・・・。
たいへん残念です。

平岡選手も福見選手も、ただでさえ平常心で臨むのは難しいオリンピックで、しかも偉大な先輩の後継という重圧は計り知れないものだったことでしょう。
今はただ、お疲れさまでしたと言いたいですね。


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by sakanoueno-kumo | 2012-07-29 02:21 | 他スポーツ | Comments(0)  

イチロー選手のヤンキース移籍に見る、イチロー流ルーティン法。

イチロー選手がニューヨーク・ヤンキースに移籍したそうですね。
MLBに渡って11年余り、幾度となく移籍の噂はあったものの、ずっとシアトル・マリナーズ一筋できた彼だっただけに、このシーズン途中での突然の移籍は驚きの一言です。
それも、イチロー選手自身の希望だとか。
2007年にマリナーズと5年契約122億円とも言われる条件で再契約したイチロー選手でしたが、たしかその当時も、破格の条件でヤンキースへ移籍といった報道が盛んにあったと記憶しています。
「なぜもっと強いチームに移籍しないのか?」
「移籍市場に名乗りを上げればもっと高い報酬を得ることができるのでは?」

といった巷の声に耳を傾ける素振りも見せず、これまで頑なにマリナーズを離れなかったイチロー選手が、なぜこのタイミングで移籍を希望したのでしょう。

イチロー選手がこれまでマリナーズを動かなかった理由は、マリナーズを愛しているからとかシアトルが好きだからといった感情的なものではないと思いますし、また、アンチの人がよく言うような、個人プレーに徹しやすい環境だからといった打算的なものでもなく、イチロー選手なりの“こだわり”だったんじゃないかと思います。
おそらく、上手くいっているときのリズムを変えたくなかったんじゃないかと・・・。

イチロー選手は試合のとき、ネクストバッターズサークルからバッターボックスに入り投手と向かい合うまで、いつも同じ動作に徹していますが、これはいわゆる“ゲン担ぎ”的な意味だけではなく、同じリズムを作ることで心身ともに自分の型を作っていくというひとつのプロフェッショナルな手段です。
いわゆる“ルーティン”というやつですね。
これはイチロー選手だけの特別なやり方というわけではなく、ルーティンを取り入れているスポーツ選手は珍しくありません。
有名なところでは、ゴルフのタイガー・ウッズ選手などもこの方法を取り入れており、どれだけプレッシャーがかかった場面でも毎回同じルーティンをこなします。
一流のアスリートにとって、リズムは大切なものだというのはわかるような気がしますね。
ただ、イチロー選手の場合、その徹底ぶりはグラウンド内に留まらず、毎日同じ時間に起床して、同じ時間に食事をとり、同じ時間に家を出て、同じ時間に球場に入り、同じアップメニューをこなして、同じ時間にユンケルを飲んで(笑)、同じ状態で試合に臨むといった徹底ぶりで、1日の生活すべてがルーティン化されているそうです。
彼が渡米してからずっと、ほぼ毎日奥さんの作るカレーを食べているという話は有名ですよね。
よく飽きないものだと思ってしまいますが、毎日同じ行動をすることで、自分の身体のほんの僅かな変調にも気づくことができるというメリットもあるのだとか。
「僕は朝、家を出てからグラウンドに上がるまですべて行動が決まっているんです。それをひとつひとつこなしていくうちに鈴木一朗からイチローへと切り替わっていくんです。」
何年か前の「NHKプロフェッショナル仕事の流儀」に出演したときの彼の言葉ですが、そうやって徹底的に自己管理してきたことが、数々の金字塔を打ち立ててきた秘訣なんでしょうね。

また、イチロー選手は毎年、1年の始まりはいつも神戸にある古巣オリックスの室内練習場での自主トレからスタートしますよね。
ほとんどのプロ野球選手が一流になるとハワイグアムなどで自主トレを開始するなかで、イチロー選手は今でも頑なにルーキー時代と同じスタイルを貫いています。
これもおそらく彼なりのリズム、いわゆるルーティンなんでしょうね。
この頑固さは誰にも真似できません。

ツラツラと述べてきましたが、つまり、イチロー選手がずっとマリナーズから出なかったのは、彼のこだわるルーティンだったと思うんですね。
上手くいっているときのリズムを変えたくないという・・・。
そんなイチロー選手が、この度自ら移籍を希望した理由・・・それは言うまでもなく“上手くいかなくなった”からでしょう。
昨シーズン、10年続けていた200本安打が途切れましたが、それ以外にも、打率・出塁率ともに自己ワーストイヤーとなりOPSも急落、起死回生で臨んだ今シーズンも、これまで思うような結果が残せていません。
ここに来て、さすがのイチロー選手も加齢による衰えには逆らえない・・・といった声もにわかに聞こえ始めました。
「環境を変えて刺激を求めたい、という強い思いが芽生えた。」
移籍発表の記者会見の席でイチロー選手はこう述べていましたが、これはおそらく、現状上手くいっていないリズムを変え、新しいルーティンを求めた言葉だと思います。
とはいえ、これまで生活すべてをルーティン化してきたイチロー選手ですから、そのリズムを変えるというのは、たいへん勇気のいる決断だったことでしょう。
今回の移籍、ぜひともいい結果に結びついてほしいですね。

「小さいことを重ねることが、とんでもないところに行くただひとつの道」
2004年、メジャー年間最多安打記録を84年ぶりに更新したときのイチロー選手の言葉です。
あれから8年が過ぎたとはいえ、まだまだ38歳、もうひと踏ん張り出来る歳だと思います。
ここで一旦リセットして、改めてヤンキースのイチロー選手として小さいことを重ね、もう一度とんでもないところに行って欲しいですね。


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by sakanoueno-kumo | 2012-07-24 20:52 | プロ野球 | Comments(2)  

平清盛 第29話「滋子の婚礼」

 「平治の乱」後の政局は、後白河上皇(第77代天皇)と二条天皇(第78代天皇)による主導権争いにあった。「保元の乱」で摂関家の勢力は低下し、その後実権を握った信西も「平治の乱」で倒れ、代わって政権を掌握しようとした藤原信頼も短期間で滅ぼされた。本来であれば、後白河院が天皇家の長の立場で院政を行うところだったが、もともと中継ぎとして擁立された天皇であったことや、乱を通じて信西、藤原信頼という有力な側近を失ったこと、さらに、今様(当時の流行歌)にうつつをぬかす軽薄さから“治天の君”としての権威に欠けていた。そんな中、「末の世の賢王」と称されたほどの聡明な二条帝は自分で政治を行うことを望み、後白河院も権威がないなりに院政に意欲を見せていたことから、両者の対立が生まれたのである。

 ドラマでは描かれていなかったが、両者の対立関係を象徴する事件が乱の3か月に起きた。藤原経宗藤原惟方ら二条親政派の配流事件である。永暦元年(1160年)正月6日、後白河院が八条堀河の藤原顕長邸に御幸した折、後白河院が桟敷から大路を見物していると、経宗・惟方の命により突然桟敷に板が打ち付けられ、外が見えないようにされてしまった。経宗は二条帝の生母の兄、惟方は二条帝の乳母子という間柄で、「平治の乱」では当初、信頼のクーデターに加担していたものの、形勢不利と見るやたちまち清盛方に与したという節操のない二人である(参照:第27話)。乱のなかで巧みに立ち回り、まんまと信西、信頼を排除した二人は、天皇主導による政治を目指し、後白河院政を阻もうとしていた。この桟敷の一件も、そうした後白河院に対するあからさまな嫌がらせだった。

 『愚管抄』によると、このとき後白河院は清盛を呼んで、「ワガ世ニアリナシハコノ惟方、経宗ニアリ。コレヲ思フ程イマシメテマイラセヨ」(私の地位は惟方と経宗に握られている。捕らえて思う存分懲らしめてくれ)と泣きながら懇願したという。命を受けた清盛は平忠景平為長の二人の郎等を派遣して二人を捕らえ、連行して後白河院の前に引き据えて責め立てた。このとき清盛は二人を拷問にかけ、その悲鳴を後白河院に聞かせたという。このふたりの逮捕劇の背景には、当初信頼のクーデターに加担しながら、まるで乱収拾の立役者であったかのように振る舞うふたりに対する貴族たちの反発があった考えられる。独断で天皇の側近を処分できるほど、後白河院や清盛の力は強くなかっただろう。やがて経宗は阿波へ、惟方が長門に配流され、「平治の乱」の戦後処理はようやく終止符を打った。

 その翌年、清盛の義妹・滋子(のちの建春門院)が後白河院の子を身ごもった。滋子の父は公家平氏の平時信で、母は中納言・藤原顕頼の娘・祐子。清盛の正室・時子とは異母姉妹という間柄である。父・時信が鳥羽法皇(第74代天皇)に仕えていた関係で、滋子も鳥羽院の娘で後白河院の同母姉にあたる上西門院に仕えていた。滋子は貴族の中でも絶世の美女と謳われるほどの美貌の持ち主だったようで、当時の女官の日記にも、「あなうつくし、世にはさはかかる人のおはしましけるか」(なんと美しい、この世にはこのような人がいらしたのか)と記されているものや、「言ふ方なくめでたく、若くもおはします」(言葉にできぬほど美しく、若々しい)などと絶賛されているほどである。さらに滋子はその美貌だけにとどまらず、「大方の御心掟など、まことにたぐひ少なくやおはしましけん」(心構えが実に比類なくていらした)と評されるほどの聡明で心配りの行き届いた女性だったようで、その美貌と聡明さが後白河院の目に留まり、寵愛を受けるようになったという。ドラマでは気の強い風変わりなギャル風の女性に描かれていたが、実際の滋子は、どうやら人物、容姿ともに非の打ち所がない優等生だったようだ。巻き髪だったというエピソードはドラマのオリジナルである(たぶん)。

 滋子の懐妊によって後白河院と縁戚関係となった平家一門だったが、政局は依然として後白河院と二条帝の対立状態にあり、どちらかといえば二条親政派だった清盛は後白河院とは距離を置いて付き合っていたことから、この縁戚関係が清盛にとって歓迎すべきことだったかどうか微妙だ。いずれにせよ、こののち滋子は平家と後白河院をつなぐ太いパイプとなり、清盛、後白河院の両者の関係も否応なしにに深まっていく。


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by sakanoueno-kumo | 2012-07-23 18:00 | 平清盛 | Comments(0)  

『ドラえもん』は子ども社会の縮図。

e0158128_0191659.jpg唐突ですが、私は常々『ドラえもん』というマンガは実によく出来た作品だと思っています。
というのも、あそこに登場する、のび太、ジャイアン、スネ夫の関係は、まさしく子ども社会、ひいては男社会の縮図だといってよく、男3人以上が集まれば必ずこの型にはまるといっても過言ではないと思うからです。
のび太ばかりが集まれば平和になるかというと、その中からジャイアン的存在になる者が必ず出てきますし、ジャイアンばかりが集まれば、その中で弱い者はのび太になる。
で、上にも下にもならずにすんだ(あるいはなれなかった)者は、長いものに撒かれてスネ夫になります。
子供社会においてはさらに顕著で、誰もが皆、ジャイアンになったりのび太になったりしながら大人になっていくものだと思うんですね。
女の子のことはわかりませんが、男の子であれば、大人になる過程で少なからずジャイアン、のび太のどちらにもなった経験があるんじゃないでしょうか(どちらが多かったかはあると思いますが)。
誰もが共感できるこの縮図が、『ドラえもん』という作品が長く支持されてきた理由のひとつかなと・・・。

ところが最近のアニメでは、昔に比べてジャイアンが優しくなっているようです。
特に映画でのジャイアンは、乱暴者だけど仲間思いのいいヤツで、藤子不二雄氏の原作漫画のような横暴で理不尽なイジメっ子ではありません。
これは、教育現場や子どもを持つ親からの声を反映し、「いじめ」という社会問題への配慮だとか。
理解に苦しみますね。

「いじめ」は昔から存在しますし、「いじめ」を世の中からなくすことは不可能だと思います。
であれば、教育現場は「いじめ」をなくすことを考えるのではなく、「いじめ」はあるものだと考えて、それによる被害を少しでも小さくする考え方に対策を切り替えるべきでしょう。
その意味では、ジャイアンを優しく描くことが「いじめ」対策になるとは思えません。
だって、現実の子どもたちの社会には必ず横暴なジャイアンがいるのに、アニメの世界ではみんな仲良しでいいヤツしか出てこないのですから、そんな“非現実的”な物語に誰が共感するでしょうか。
浄化された空気や水の中では生き物は強く育ちません。
きれいなものだけを見せていれば、きれいな心に育つというものではないと思います。

昔の『ドラえもん』の中に出てくるジャイアンはあくまで横暴なイジメっ子で、虫の居所が悪いと暴力を振るい、自分に従わないヤツは仲間はずれにし、自分が欲しいと思ったものは力づくで取り上げます。
でも、物語ではそんなジャイアンが必ず最後にしっぺ返しを食う結末が待っていました。
それを見て子どもたちはカタルシスを感じ、一方で、意地悪をすれば必ずバチが当たるといった教訓を得るわけです。
『水戸黄門』と同じですね。
そんな「勧善懲悪」的ストーリーこそが、子どもには最もわかりやすく効果的だと思いますし、この場合ほとんどの子はのび太に感情移入するでしょうから(ジャイアンに感情移入する子はまずいないでしょう)、弱者の気持ちになって考えるという学習効果を得ることができます(ジャイアン=悪玉のび太=善玉という考えは短絡的だというご意見もあろうかと思いますが、それはひとまず置いといて、ここでは、弱い者いじめをすれば必ずしっぺ返しを食うという意味での勧善懲悪です)。

はっきり言って、みんなお手手つないで仲良しこよし・・・なんて、世の母親の幻想にすぎません。
少なくとも男の子の友だち関係は、大なり小なり“力関係”で成立しているといっていいでしょう。
その延長線上にあるのが「いじめ」だと思います。
その「いじめ」による被害を少しでも小さくするためには、いじめる側に、「いじめることの怖さ」を教えるべきだと思います。
そのためには、ジャイアンにはもっと悪玉であってもらわねばなりません。
「ほら見てごらん。ジャイアンは弱い者いじめばかりしているから、最後は結局痛い目にあうだろう!君もジャイアンのようになりたくなかったら、弱い者いじめはやめようね!」
優しいジャイアンを見せるよりも、このほうが断然子どもの心に響くと思いますけどね。


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by sakanoueno-kumo | 2012-07-20 16:44 | 時事問題 | Comments(8)  

平清盛 第28話「友の子、友の妻」 その2

 その1の続きです。
 父兄とはぐれてしまった源頼朝は、平頼盛の家人・平宗清に捕らえられる。永暦元年(1160年)2月9日、京の六波羅へ送られた頼朝の処罰は、その20日ほど前に兄の源義平斬首されていることから考えても死罪が相当かと思われたが、平清盛の継母・池禅尼こと宗子のたっての懇願により死一等を減ぜられ、伊豆に流刑と決まった。『平治物語』によると、当時13歳だった頼朝が、宗子の実子である亡き平家盛(清盛の弟)に生き写しだったことから、彼女は自分の命に代えても頼朝を助けたいと清盛に懇願したという。もとより清盛は斬首するつもりだったが、継母のたっての願いに負けて、伊豆への配流にとどめたというのである。

 本当に頼朝が家盛と似ていたかどうかは確かめようがないし、そもそもそれが助命の理由だったのかどうかもわからない。ただ、宗子の厚意によって頼朝の首がつながったことは『愚管抄』にも記されており、後年の平家都落ち以後、頼朝が宗子の実子である平頼盛にだけは厚遇をもって接したというエピソードを見ても確実のようだ。清盛にしても、頼朝ひとりを斬ったところでどうなるものでもないし、これ以上血を見たくない思いもあっただろう。「保元の乱」で死刑の復活を命じた信西の首が獄門に晒されたばかりでもあり、復讐の連鎖が繰り返されることを恐れたのかもしれない。何より、清盛がいくら家督であっても、亡き父の正室である宗子の意向を簡単に無視できるものではなかっただろう。加えて「保元の乱」の際、去就に迷う清盛に助言し、平家一門の結束が一枚岩になるよう導いてくれた恩義(参照:第20話)を思えばなおさらだ。

 「頼朝殿を見ておると、家盛を思い出すはまことじゃ。されど、いっそう痛々しいは清盛。もとより、あのようなけなげな若者の命を奪いたいはずもなかろう。」(宗子)

 清盛の気持ちを代弁するために宗子が一芝居打ったというドラマの設定は、実に秀逸だった。清盛とて、13歳の少年を殺して気持ちいいはずはない。しかし、平家の棟梁という立場上、情にほだされるわけにはいかない。その清盛の苦悩を察し、清盛のために頼朝の助命を嘆願した宗子。いかにも一族思いの平家らしい話だが、この措置が、平家にとって最大の失策であったことは20年後に明らかになる。

 源義朝の愛妾である常盤御前今若乙若牛若の3人の子どもたちも捕らえられたが、頼朝を助けた以上、さらに幼い子どもたちを殺すわけにもいかず、出家を条件に許された。このとき乳飲み子だった牛若がのちの源義経である。常盤は近衛天皇(第76代天皇)の中宮である九条院雑仕女(雑事に従事する下級女官)だったといわれているが、『平治物語』によると、九条院が中宮にたてられる際、都中の美女を選んだ1000人の中から100人を選び、その100人の中から10人、その10人の中からもっとも美しい女性として選ばれたのが常盤だったという。それが事実なら、都一の美女だったというわけだ。その類い稀なる美しさに目を奪われたのか、清盛は常盤を閨に招き入れ愛妾とした。

 古来、戦いの勝利者が敗者の妻や愛人を我がものにすることは珍しくない。いわば「戦利品」である。敗者・義朝の愛妾で、しかも絶世の美女だった常盤御前を清盛が自分の妾としたのは、3人の子どもの助命に関係なく当然のことだった。ところが清盛の場合、常盤を自分の妾とする代わりに彼女の3人の子どもの命を助けた、というふうに描かれることが多い。事実はどうだったのだろうか。

 『平治物語』によると、3人の子どもたちを助けた理由は、このとき数えで6歳の乙若が死ぬ覚悟をしていた姿に清盛が心を打たれたことと、六波羅で開かれた会議で「兄の頼朝を助けておいて、それより幼い弟たちを殺すのはおかしい」という結論に達したためと伝えている。ところが『平治物語』よりも後に成立した『義経記』によると、清盛は「子孫の敵になろうとも常盤が自分の妾になるなら子どもを助けてやろう」といっており、自分の欲望のために子孫を危険にさらす愚将として描かれている。どちらが正しいかは知るすべもないが、『義経記』の説のほうが信憑性に乏しいのはいうまでもない。


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by sakanoueno-kumo | 2012-07-18 17:37 | 平清盛 | Comments(2)  

平清盛 第28話「友の子、友の妻」 その1

 「平治の乱」平清盛率いる平氏軍の前に敗北を喫した源義朝は、再挙を図るべく東国へ下った。『平治物語』によると、当初、長男・源義平(悪源太)、次男・源朝長、三男・源頼朝の3子が義朝に同行していたが、幸か不幸か、頼朝は途中で父兄とはぐれてしまう。一方、義朝と義平、朝長の父子三人は、美濃国の青墓に達したところで、息子二人にある提案をした。それは、
「同一行動をとると目立つ!ここは三人が別々に東国へ向かい、再挙を目指そう!」
というものだった。義平と朝長はこの義朝の提案に同意し、三人はそれぞれ別々に東へ進んだと伝えられる。

 そのうち次男の朝長は合戦で深手を負っていたため、たちまち単独行動がとれなくなり、やむなく朝長は義朝の前に姿を表して保護を求める。しかし、剛毅で知られる義朝はその朝長の言動を軟弱と決め付け散々に罵倒し、なおも朝長が保護を求めるや、義朝はにわかに抜刀して朝長を刺殺したと伝えられる。なんとも哀れな話だ。また、別の説では、深手を負った朝長を義朝は同行させようとしたが、朝長は傷の悪化を理由にそれを拒否し、
「どうか父上の手で私をお討ちになり、後の憂いのないようにしてください」
と頼み込み、父の手によって殺害してもらったという。ドラマではこちらの説を採用していた。前の説は、義朝の剛毅さを強調するための伝説と見たほうがよさそうで、ドラマで描かれていた後の説のほうが人間らしく真実味がある。だが、いずれの説から考えても、朝長が父の手にかかって絶命したのは事実のようである。

 息子を手にかけてまで再挙を目指した義朝は、乳兄弟で側近の鎌田正清と共に尾張国野間の長田忠致の屋敷を訪ねた。忠致は正清の舅という間柄で、その縁を頼ってのことだった。しかし、事前に平氏方に唆されていたのか、忠致は息子の長田景致と図って義朝、正清の殺害を計画。『平治物語』によれば、義朝は入浴中に襲撃されて殺害されたという。正清も酒を飲まされて斬り殺された。京を離れてわずか3日後のことだった。尾張地区の伝承によれば、義朝は入浴中に襲撃を受けた際、最後に、
「ここに一ふりの太刀ありせばかかる遅れはとらぬものを」と無念を叫んだとされる。また『愚管抄』では、忠致・景致父子の陰謀を察知した義朝が正清に自らの首を打つよう命じ、義朝を斬首したのちに正清は自害したとされる。義朝と正清が刺し違えて果てたというドラマでの設定は、『愚管抄』の説からアレンジしたものだろう。ドラマの義朝らしいみごとな最期だったと思う。享年38歳。忠致によって京にもたらされた義朝の首級は、年が明けた正月9日、東の獄舎の門上の木にかけて晒されたという。

 ちなみに、このときから25年後の文治元年(1185年)、「壇ノ浦の戦い」で平家を滅ぼした源頼朝は忠致を捕らえ、父・義朝の墓前で処刑した。鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』では、処刑の方法は「土磔」にしてなぶり殺しという残忍な方法だったと伝えている。

 父・義朝の横死を伝え聞いた長男・源義平は、平氏方にリベンジするべく危険を承知で京へ舞い戻った。しかし、ほどなく平氏方の難波経房の手で捕縛され、父の横死から約半月後の1月19日、六条河原にて斬首される。処刑の際、介錯人の経房をにらみ、「雷となって汝を蹴殺さん」と云い残して死んだと伝えられる。それから7年後の仁安2年(1167年)、清盛一行が摂津国の名瀑「布引の滝」に詣でた際、一天にわかにかき曇り雷神となった悪源太義平があらわれ、清盛に同行していた経房は雷に打たれて死んだという。このとき京の都にも六波羅にも雷が落ち、多くの人々が命を失ったという。これを深刻に見た清盛は、大般若経を僧に読経させ、義平の霊を鎮魂したと伝えられる。

 頼朝といい悪源太義平といい、源氏の執念恐るべし・・・である。

 また長くなってしまったので、明日に続きます。


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by sakanoueno-kumo | 2012-07-17 18:05 | 平清盛 | Comments(2)