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夏休み丹波路紀行 その3 「かやぶきの里・北村」

京都府は南丹市美山町にある山村集落『かやぶきの里・北村』に行ってきました。
ここはその名のとおり、今では珍しくなった茅葺き屋根の家屋が数多く残っているところで、現在50戸ある家屋のうち38棟が茅葺き屋根の建築だそうで、集落での茅葺き屋根数でいえば、世界遺産として有名な岐阜県白川郷、福島県下郷町大内宿に次いで全国第3位だそうです。

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その伝統的技法による建築物群を含めた歴史的景観の保存度への評価も高く、平成5年12月には国の重要伝統的建造物保存地区に選定されたそうです。

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田園風景と茅葺き屋根の集落の風景が、まるで1枚の絵画映画の1シーンを切り取ったかのようです。
実際にこの村は、何度か映画のロケ地にもなっているそうで、あのドラマシリーズ『水戸黄門』の最終回のロケ地にもなったそうです。

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われわれ都会人にとっては、こんな稲穂の絨毯を目にすることが少ないですから、たまにはこういった景色を見て目の保養が必要でしょうね。

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この昔懐かしいポストから見た景色が、絵葉書などにもなっているロケーションです。

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なかには資料館や店舗、民宿もありますが、白川郷と同じくそのほとんどが今も実際に生活されている住居だそうです。
ですから、茅葺き家屋の庭にハイブリッドカーを駐車している家もありました(笑)。
生活スペースが観光地になるってのは、どんな気分でしょうね。

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ここ北村は、谷間のゆるい傾斜地にあります。
地理的には昔の丹波国に属しますが、京都と日本海の玄関口の若狭小浜との中間に位置するので、建築や生活文化にはいろいろな地域の影響が見られるところだそうです。

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現存する茅葺き家屋は寛政8年(1796年)建築のものが最古だそうですが、19世紀中頃までに建てられた家屋が18戸と江戸時代に建てられたものが多く残っているそうで、歴史的価値が高いものばかりです。

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写っているのは私の妻ですが、彼女の身長は158センチほどです。
茅葺き家屋の高さは、現代の家屋でいえば3階建てくらいの高さはあるでしょうか。

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このパン屋さんの看板もなかなかレトロですね。
「西湖堂パン」とは、昔、京都のあった老舗のパンメーカーだそうです。

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集落内にある美山民俗資料館では、茅葺き家屋の内部の造りを見ることができます。
囲炉裏を囲んで、はいチーズ!

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縁側からみた茅葺き屋根の裏側です。

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風呂場です。
ここでおりょうは幕府の追手に気づき、裸で階段を上がって龍馬を助けに行きました・・・って、もちろんですよ(笑)。

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屋根裏に上がると小屋組の構造、屋根のふき方を見ることができます。
外から見る以上に広くて高く、屋根裏部屋というより、といってもいいほどです。

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村の外れにある観光客用のお食事処、手打ち蕎麦の「きたむら」です。
私が食した「地鶏せいろ」は、なかなか上品な味で美味でしたよ。

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最後にもう一度、ポストのところで記念撮影。
この日は気温35度を超える猛暑日だったため、集落を散策すること約2時間、さすがに汗びっしょりとなってしまいましたが、本来であれば山際で標高も高く、都会よりははるかに涼しいところだと思います。
ネットで調べてみると、このあたりの冬は京都でも有数の豪雪地域のようですね。
雪景色のなかの茅葺き家屋もまた風情があるんじゃないでしょうか。
集落には茅葺き家屋の民宿もあるので、今度は雪景色の季節に訪れてみるのもいいかもしれませんね(茅葺き家屋に泊まって囲炉裏で鍋料理ってのもいいかも)。

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そんなこんなで、夏休みの丹波路紀行シリーズを終わります。
明日から9月ですが、今年は1日・2日が土日なので学生の夏休みは例年より長いそうですね。
まだまだ厳しい残暑が続きますが、そろそろ夏休み気分は終わりにして、秋に向けて気持ちを切り替えていきましょう。


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by sakanoueno-kumo | 2012-08-31 00:25 | 京都の史跡・観光 | Comments(2)  

夏休み丹波路紀行 その2 「質志鍾乳洞」

船井郡京丹波町にある京都府唯一の鍾乳洞、質志(しずし)鍾乳洞に行きました。
昭和2年(1927年)に発見されたというこの質志鍾乳洞は、高屋川最上流部の標高約400メートルに位置し、洞の長さは約120メートル、入り口から最深部までマイナス25メートルと規模は大きくありませんが、竪穴型の珍しい鍾乳洞です。
発見された当時は鍾乳石石筍も多くあったそうですが、今ではその多くが折損、破壊されてしまっています。

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現地の観光客用の説明看板によると、はるか昔(約2億6千〜7千年前)このあたりは海の底だったそうで、貝殻やサンゴといった石灰質の生物の死骸が積もって堅い石灰岩が作られ、やがて陸地になると二酸化炭素を含む雨水により、何万年もかけて石灰岩が溶かされ、この鍾乳洞が出来たのだとか。
ここ京丹波町は京都府の中部にあり、日本海と瀬戸内海のほぼど真ん中あたり。
このあたりが海の底だったとすれば、その頃の近畿地方はほとんどが海だったのかもしれませんね。

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中に入るとひんやりとした空気に身体が包まれます。
この日は気温35度以上の猛暑日でしたが、洞の中は季節に関係なく8度から12度あたりの気温を保っているそうです。
ここまで来る道中はかなりキツイ山道を登ってきて汗びっしょりでしたから、その汗が一気に冷やされて気持ちいいのなんのって、天然クーラーですから節電も関係ありませんしね(笑)。

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大人は屈まないと潜れない狭い場所を進むと、ほぼ垂直にかけられた梯子を降りていきます。
これが結構ヘビーな梯子で、小さい子どもや高所恐怖症の人は無理かも。

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梯子を降りて写真を撮影していると、目の前を何か黒い物体が横切りました。
どうやらコウモリだったようです。
驚きました。

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ここが発見された当時、この辺りに住む古老たちが、はたしてこの鍾乳洞は何処まで続いているかと話題になったそうで、とりあえず犬と鶏を洞内に入れたところ、犬は途中で引き返し、鶏は3kmほど離れた大原神社の下の洞穴に出てきて大きな声で鳴いた・・・という伝承が残っているそうです(これも現地の説明看板に紹介されていた話です)。
犬と鶏にしてみれば迷惑な話ですけどね(笑)。

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どこがどう地蔵なのかよくわかりません(笑)。

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周辺は質志鍾乳洞公園としてキャンプ場やバーベキュー施設などがあり、釣り堀ではニジマス釣りが楽しめるようです(小さい子供はつかみ取りもできるようです)。
洞の中は涼しくて気持ちがよかったんですが、道中がハードな山道のため駐車場に戻ったときには結局汗びっしょりでした(笑)。
もう少し心地よい季節に訪れることをおすすめします。

そんなこんなで、もうちょっと続きます。


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by sakanoueno-kumo | 2012-08-29 18:46 | 京都の史跡・観光 | Comments(0)  

夏休み丹波路紀行 その1 「府民の森ひよし」

お盆休みに京都府は南丹市に行ってきました。
南丹市は京都府の中部に位置する市で、小泉政権時代の市町村合併に伴い、船井郡園部町・八木町・日吉町、北桑田郡美山町が合併して2006年に誕生した新しい市です。
南丹の語源は丹波の南という意味で、丹波とは言うまでもなく、かつての丹波国のことですね。
丹波国は大きく分けて現在の京都府中部と兵庫県北東部の一部に分かれます(一部、大阪府北部も含まれます)。
明治維新後の廃藩置県によって令制国は廃止され、いくつかの編制を繰り返しながら今の47都道府県になりましたが、旧令制国の区分が複数の県に分かれてしまった例は珍しいんじゃないでしょうか(複数の令制国がひとつの県になった例はたくさんありますが)。
なぜそうなったかは詳しくは知りませんが、明治初年、中央集権体制を進める明治政府の大久保利通らによって、但馬・丹後を含め似通った地域性を無視して2府県に分けられたそうです(Wiki参照)。
そのため現在でも、京都丹波・兵庫丹波と分類されたりします。
今回訪れたのは、その京都丹波地方です。

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この日の宿は、日吉町の天若湖畔に広がる森林公園『府民の森ひよし』内にある宿泊施設。
ここ『府民の森ひよし』は、128ヘクタールの広大な森林公園で、美しい緑に囲まれて自然に親しむにはたいへん良い場所です。
ここを訪れたのは7年ぶり2度めのことでした。

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この日一緒に宿泊したのは3家族12人
子供が幼い頃から毎年夏休みにはどこかのアウトドア施設に泊りにいくことを恒例としてきたのですが、いつの間にやら子どもたちも大きくなり、スケジュールを合わせるのもたいへんになってきました。
我が家の愚息も、高校生になってからはずっと野球部の練習があり不参加だったのですが、この夏はれて引退したため久々の参加です(もし甲子園にでも行っていたらここにはいなかったでしょうが・・・笑)。

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アウトドアといえばバーベキューですよね。
これも十数年ずっと続けてきましたが、炭加減などなかなか難しいものです。
あと、食材の量も毎年買いすぎちゃって大量に余っちゃうんですよね(汗)。
学習能力がありません(苦笑)。

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スイカ割りも毎年恒例です。
と言っても子供たちは大きくなり、小学生は二人だけ。
数年前までは最も盛り上がるイベントだったんですが、さすがにそろそろ限界かもしれません。

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もともと子供たちが小さかった頃、上げ膳据え膳の観光旅行よりも、自然の中に放牧しておもいっきり遊ばせてやったほうが子供たちにとっては良いと思って始めた夏キャンプでしたが(費用も安上がりですしね)、あと数年後には爺婆だけの老人会になりそうです(笑)。

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揃って記念撮影。
ここは宿泊費用も安く、子供連れや団体で泊まるにはたいへん良いところです。
例年はもう一家族いて、もっと大人数になるのですが、残念ながら今年は野暮用にて不参加、この3家族12人でした。
盆正月くらいのんびりと過ごしたいという人も多いと思いますが、こうして気心知れた仲間と賑やかな夏のひとときを過ごすのもいいもんですよ。

明日に続きます。


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by sakanoueno-kumo | 2012-08-28 23:58 | 京都の史跡・観光 | Comments(2)  

平清盛 第33話「清盛、五十の宴」

 仁安2年(1167年)5月17日、就任わずか3ヵ月にして太政大臣を辞任した平清盛だったが、それはあくまで形式的な引退に過ぎず、前大相国(前太政大臣)という権威をかさに、これまで以上に国政に影響を及ぼすようになった。まず、嫡男の平重盛に対して東山、東海、山陽、南海四道の賊徒追討を命じる宣司が朝廷より下された。この宣司は、それまで清盛が握っていた軍事、警察権を重盛に譲ることが公認されたことに他ならない。これにより重盛に家督が譲られ、清盛の後継者としての地位を名実ともに確立した。ときを同じくして清盛の弟・平頼盛大宰大弐となり、清盛の義弟・平時忠参議となったのもドラマのとおりである。平家一門は今、絶頂期を向かえようとしていた。清盛50歳のときであった。

 清盛の弟・平忠度(忠教)が新たに登場したので、今さらではあるが、ここで改めて清盛の兄弟についておさらいしてみたい。第1話でも触れたとおり(参照:第1話)、清盛の生母については正確なことはほとんど何もわかっていないが、わかっているのは、清盛が2、3歳の頃に亡くなり、清盛以外に子どもを産んだという記録はないことである。つまり、清盛には父母を同じくする兄弟姉妹は一人もいなかったようだ(ドラマでは、清盛の実父は平忠盛ではなく白河法皇(第72代天皇)の御落胤という設定になっているが、この説については賛否両論があって事実とは言い難い)。清盛の生母の死後、忠盛は宗子(池禅尼)を継室に迎えて平家盛平頼盛といった男子をもうけ、また他にも三人の側室や妾との間にそれぞれ、平経盛平教盛平忠度(忠教)という男子をもうけた。次弟の家盛の生年は正確には不明なのだが、これらの異母弟の長幼の順は、家盛、経盛、教盛、頼盛、忠度というものであったと考えられている。さらに、生母も長幼の順も不明だが、清盛には少なくとも3人の異母妹がいた。

 本話で登場した忠度は清盛の末の弟で、ドラマのとおり紀伊国熊野で生まれ育ったと言われている。天養元年(1144年)生まれという説を信じれば、甥にあたる重盛より6歳年下ということになる(この時代、年下の叔父などさほど珍しいことではない)。ドラマの雰囲気では、とてもそうは見えなかったが・・・(笑)。忠度がこの頃はじめて清盛に会ったかどうかはわからないが、清盛の兄弟のなかでも出世が遅れがちだったのは事実である。ただ、歌人としては優れた人物で、当代随一の歌人・藤原俊成に師事した文人武将として後世に名高い。『平家物語』の中でも、経盛の子・敦盛が落命する「敦盛最期」とともに、「忠教最期」の場面は涙を誘う話として知られる。そんな忠度の人物像を上手く表した設定だった。もっとも、あんな山男のような風貌だったかどうかは定かではないが・・・。

 兄弟の話になったついでに、本話で大宰大弐となった頼盛についても少しだけ。ドラマでは、あまり兄弟仲が良くないように描かれている清盛と頼盛だが、実際にも不仲だったという見方がある。一般にいわれているのは、家盛亡きあと頼盛は正室のただ一人の子として、忠盛の死後、清盛の家督相続を快く思っていなかったとする説だが、それ以前の逸話としても、忠盛が伊勢平氏の「伝家の宝刀」である「小烏丸」を清盛に与え、同じく「抜丸」を頼盛に与えたところ、両方を貰えると考えていた二人は、このことがきっかけでその後仲違いしたというエピソードがある。この話の当否はともかく、「保元の乱」の際に池禅尼が頼盛に対して、兄の清盛と同一行動をとるように命じたという『愚管抄』の記述もあり、母親がそんな言わずもがなのことを忠告せねばならなかったことから考えても、ドラマのとおり、二人の仲は決して良好なものではなかったようだ。その後、兄弟の間にはこれといったトラブルはなかったが、清盛の死後、頼盛が平家一門と行動を共にしなかったことから見ても、清盛の子供たちと頼盛の関係も同じく溝があったのかもしれない。

 本話の清盛の「五十歳の宴」は、ドラマのオリジナルである(たぶん)。ただ、この時期の平家一門の繁栄と結束の強さを上手く描いた創作だったと思う。清盛が扇で夕日を招き返したという逸話は宴の席のことではなく、音戸の瀬戸の工事にあたり、清盛は一日で工事を終わらせるために沈みゆく夕陽を扇で招き返し、工事を完成させたというエピソード。もちろん、荒唐無稽な伝承であることは言うまでもない。ただ、この時期の清盛はそれほど力を持っていた、思いどおりにならないものは何ひとつなかった、ということはいえるだろう。ところが、そんな清盛を思わぬ病が襲う。清盛、51歳のときだった。


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by sakanoueno-kumo | 2012-08-27 18:00 | 平清盛 | Comments(2)  

韓国の竹島親書返送の非礼に対する、金持ち喧嘩せず外交の日本。

竹島問題がややこしいことになっていますね。
こういう問題であまり軽はずみな意見を述べると、当ブログまでややこしいことになってしまうのでずっと静観していましたが、今日のニュースを聞いて少しだけ私見を。
野田佳彦首相が李明博大統領宛てに送った親書を同国が返送してきた問題について、日本政府は郵便返送されたこの親書を受け取り、再び送り返すことはしない方針を決めたそうですね。
その理由について「これ以上、親書を巡るやりとりが続くのは我が国の外交の品位を考えた場合、好ましいものでない」とのこと。
つまり、「金持ち喧嘩せず」ですね。

私はこれで正解だと思いますよ。
韓国が親書を突き返すといった国際外交上例のない非礼な行為に出たことに対し、日本側は親書を持参した在日韓国大使館職員に対して、外務省敷地内への立ち入りを拒否するという日本にしては珍しい喧嘩腰の態度を示しました。
それに対して韓国は、今度は親書を郵便書留で送り返すといった考え難い非礼に出たわけですが、これをまた日本が受取拒否などしたら、それこそ韓国と同じレベルで、幼稚な子どもの喧嘩になります。
どちらかが大人になって事の収拾を図るべきで、この場合、向こうより先にこっちが折れたほうが、諸外国からのイメージも良くなるでしょう。
この日本政府の対応について、おそらくまた「弱腰外交」といった批判の声が上がるでしょうが、少なくとも今回は、韓国大統領の数々の行き過ぎた言動に対して遺憾の意を表す親書を送り、突き返されたものの日本側の毅然としたメッセージは向うに伝わったはずです。
これ以上、感情的な対立姿勢で事に臨んでも、日本にとって得することは何ひとつありません。
それとも、「弱腰外交」と批判する方々に聞きますが、これ以上事を荒立てて、戦争でもおっぱじめますか?
その場合、あなた方が戦線の最前線に立ってくださいよ!
それが嫌なら、この辺で大人の対応をすべきですよ。
韓国が通常あり得ない非礼な態度で突き返した親書を日本は粛々と受け取ることで、韓国の礼節をわきまえない19世紀レベルの幼稚な外交能力を世界に知らしめ、同時に日本の成熟した国家としての姿勢をを世界にアピールすることになります。
外交は感情論で臨むべきではありません。
わが国にとって何が国益に繋がるかで、事にあたるべきなんじゃないでしょうか。

私は、竹島は日本の領土だと思っています。
なぜそう思うのかと聞かれたら、鬱陵島云々の歴史解釈など色々とありますが、突き詰めれば、「日本人だから」です。
日本人である以上、日本人の一般的歴史観を信じるのは普通のことですよね(一部そうでない方もいますが)。
でも、同様の質問を韓国人にしたら、きっとこう答えるでしょう。
「韓国人だから」だと。
そんな問題を日本側の理屈で解決しようなんて、どだい無理な話なんですよ。
そもそも国際社会の場で正論なんてものは存在しませんし、正史なんてものもありません。
平たく言えば、強い方の主張が正論になるのです。
憲法で戦争を禁じられているわが国が外交の場でできることは、ひたすら事を荒立てないように務め、どんな言いがかりをつけられても感情的にならず、大人の態度で臨んで国際世論を味方につけることしかないでしょう。
まさしく「金持ち喧嘩せず」です。
その意味で、今回の日本政府の対応を私は支持します。

もうひとつ東シナ海でもややこしい問題を抱えていますが、あちらの方は現状わが国が実効支配しているわけですから、竹島問題よりもっと大人の対応ができるはずです。
とかく過激な論調になりがちな領土問題ですが、国の指導者たちは、冷静になってとるべき道を選んでほしいと思います。

毎年8月になると聞こえてくる「戦争反対」の叫びや「戦争責任」の追及の声。
一方で、この度のような近隣諸国の非礼な行いには過激な論調があとを絶ちません。
こういった話題になると、私はいつも思うことがあります。
戦後生まれの私たちには、先の戦争の戦前責任も戦後責任もありませんが、未来に起こるかもしれない戦争の戦前責任は、私たちにもある・・・と。


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by sakanoueno-kumo | 2012-08-24 18:50 | 政治 | Comments(2)  

平清盛 第32話「百日の太政大臣」

 二条天皇(第78代天皇)が崩御する前年の長寛2年(1164年)、平清盛は娘の盛子を関白・藤原基実のもとに嫁がせ、摂関家とも深い関係を結んでいた。盛子は北政所(正室)として迎えられたが、これが明らかに政略結婚であることは、基実21歳に対して盛子はわずか9歳だったことからもわかる。保元・平治の乱によって力を失いつつあったとはいえ、貴族社会の中で最高の権威を持つ摂関家との婚姻関係は、平家にとっては大きな名誉であり、反平家勢力を抑えるという意味でも大きな意味を持つ婚姻だった。さらに魅力だったのは、摂関家が全国に所有する膨大な荘園だった。清盛は配下の家人を預所に任命したり、荘園領主を下司に任じたりして在地支配にあたらせ、摂関家領荘園からの中間搾取を行おうとしていた。

 しかし、その目論見はその2年後の永万2年(1166年)に基実が24歳という若さで急逝したことで頓挫してしまう。基実の嫡男・藤原基通は11歳とまだ若く、代わりに基実の弟で後白河上皇(第77代天皇)の信任あつい藤原基房が摂政に就任した。このままでは摂関家領は基房の手に渡ってしまう。このときの清盛の様子を『愚管抄』では、「清盛ノ君、コハイカニトイフバカリニナゲキニテアル」と伝えている。

 そんな清盛に知恵を授けたのは、参議で長年摂関家の家司を務めた藤原邦綱だった。邦綱の提案では、摂関家領は嫡流である基通が継承すべきもので、基通が成人するまでは基実の正室である盛子が管理することも可能だという。『愚管抄』によると、この献策を受けた清盛は「アダニ目ヲサマシテ」喜び、摂関に付属する一部の所領だけを基房に相続させ、残りの大部分の摂関家領は盛子に相続させることに成功した。ドラマでは、邦綱の献策は後白河院が仕組んだことだという設定になっていたが、これはドラマのオリジナルである(だと思う)。

 基実の死は政界に与えた影響も大きかった。二条帝の死後、まだ乳飲み子の六条天皇(第79代天皇)を支えるかたちで摂政の基実が政治の主導権を握り、清盛も大納言として政権を支えていたが、その基実の死去によって六条帝政権は後ろ盾をなくし、5年ぶりに後白河院による院政が復活した。しかし、この政権交代にあっても平家の財力・軍事力が朝廷にとって不可欠であることには変わりなく、清盛の政治的地位は揺るがなかった。基実の死から3ヵ月後の仁安元年(1166年)10月、清盛の義妹・滋子(のちの建春門院)を生母とする憲仁親王が皇太子となった。3歳の天皇に対して6歳の皇太子という異例なかたちではあったが、後白河院にとっては二条帝の皇統を排除しようという意志の表れで、清盛にとっても妻の甥の即位を反対する理由はなかった。ここに平家一門と後白河院の事実上の政治同盟が成立したのであった。

 これによりさらに政治的地位を高めた清盛は、翌月に内大臣に昇進、その3ヵ月の仁安2年(1167年)2月には左右大臣を飛び越えて従一位・太政大臣にのぼりつめる。太政大臣は朝廷の機関・太政官の長官で、律令制においては最高の官職である。「王家の犬」と蔑まれた武士の棟梁が位人臣を極めた瞬間だった。ところがそのわずか3ヵ月後、突如清盛は太政大臣を辞任する。太政大臣は人臣最高の官職ではあったが、これといった職務はなく、摂関以外の上級貴族が晩年に賜る名誉職としての性格が強かった。そのため、ドラマにもあったように、清盛の太政大臣就任は朝廷が清盛を実権の伴わない地位に祭り上げて力を奪おうとした、という説もある(ドラマでは、その手ぐすねを引いていたのが後白河院だったという設定だったが、これはドラマのオリジナルである)。しかし、この説には否定的な見方が多い。なぜなら、大臣就任によって清盛の政治的影響力が弱まった事実はなく、むしろ大臣辞任後の清盛は前大相国(前太政大臣)として、これまで以上に国政に影響を及ぼすようになるのである。清盛にしてみれば、実権を伴わない官職は不要だが、平家の権威を高めるために肩書きだけはありがたく頂戴しておこう・・・そんな軽い気持ちでの太政大臣就任だったのかもしれない。

 源頼朝とその監視役の伊豆国豪族・伊藤祐親の娘・八重姫との悲恋物語は有名で、頼朝の物語には欠かせな逸話である。祐親が上洛中にふたりは通じ合い、やがて男子を一人もうけて千鶴御前と名付けた。その千鶴御前が3歳になったとき京から戻った祐親は、その子を存在を知って激怒。この事実が平家に知れることを恐れ、柴漬(柴で包んで縛り上げ重りをつけて水底に沈める処刑法)にして殺害したという。ドラマでは、どのように殺されたのかわからない描き方になっていたが、八重姫の泣き叫ぶ声のみの演出がいっそう想像力を掻き立て、悲しみを深くさせていた。実に秀逸な演出だったと思う。

 ただ、この八重姫と千鶴御前の悲劇は虚構の多い『曽我物語』でしか見られない話で、それも100年後に書かれたものであり、伝承の域を出ない。



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by sakanoueno-kumo | 2012-08-21 17:04 | 平清盛 | Comments(2)  

ロンドンオリンピック総括

16日間に渡って繰り広げられたロンドンオリンピックが閉幕して5日が過ぎましたが、いまだ日本中がその余韻に浸っているようで、連日のようにマスコミでは凱旋したメダリストたちの動向を報じています。
この度、日本が獲得したメダルの数は、金7、銀14、銅17の計38個
この成績は、これまで最多だった2004年のアテネ大会の37個を超えて史上最多だそうですね。
開幕以来、当ブログでもほぼ毎日オリンピックネタを起稿してきましたが、気がつけばこの16日間で日本人選手がメダルを獲得できなかった日は1日もなかったわけで、当然といえば当然の結果ですね。
某TV番組風にいえば、まさに“あっぱれ”な大会でした。

その中でもとりわけ“あっぱれ”だったのが、開幕早々からメダルラッシュで日本勢に勢いをつけてくれたといっていい競泳陣の活躍ですね。
今大会で競泳陣が獲得したメダルの数11個は、これまたアテネ大会の8個を超えて戦後最多となったそうです(史上最多は1932年のロサンゼルス大会の12個)。
残念ながら「金」はありませんでしたが(アテネ大会では金3)、個人競技ではこれまでずっと競泳界を引っ張ってきた北島康介選手抜きでの9個で、最後には男女ともメドレーリレーでのメダル獲得で締めくくり、見事というほかない結果でした。
メダリストはこれからの若い選手が多く、日本の競泳界の未来は明るいですね。

大会序盤の日本勢を盛り上げてくれたのが競泳陣ならば、大会終盤に有終の美を飾ってくれたのはレスリングでした。
とりわけ女子にいたっては、4階級中3階級制覇という圧倒的な強さを見せてくれましたし、男子も最終日に米満達弘選手が「金」を獲得して今大会すべての日本人選手の“締めメダル”となりました。
今大会、史上最多の38個のメダルを獲得しながら「金」は7個と少なめだったのですが、そのうち4個がレスリングですから、レスリング陣さまさまですね。
とくに伊調馨選手と吉田沙保里選手の3大会連続制覇の偉業達成は見事でした。
もはや日本は「女子レスリング王国」といっても過言ではないでしょうね。

一方で、その「金」の少なさの原因には、日本の「お家芸」だったはずの柔道の不振が挙げられます。
とくに男子柔道は1964年の東京大会で柔道が五輪種目に採用されて以来、史上初の「金ゼロ」となり、男女あわせても「金」獲得は松本薫選手ただひとりという結果に終わりました。
2004年のアテネ大会時の日本の「金」獲得総数は16個で、そのうち8個が谷亮子選手や野村忠宏選手をはじめとする柔道陣だったことを思えば、この度の日本勢の「金」7個という結果は、柔道の結果がそのまま反映された数字といえるでしょう。
柔道の場合、メダル獲得は最低限、「金」でなければ喜ぶべからず、といった空気の中で戦わないといけませんから、少々気の毒な気がしないでもないですが、先人たちもそんな中で結果を残してきたわけですから、そこは柔道家として仕方がない宿命ですね。
日本柔道が勝てなくなったのは、それだけ柔道という競技が世界的に普及した表れだから仕方がない、とする声もありますが、でもそれは日本から言うべきではないでしょう。
世界のレベルが上ったのか日本のレベルが下がったのか、いずれにせよ、柔道が日本発祥の競技である以上、日本は世界のトップであり続ける使命があると思います。
今回の結果をふまえ、柔道界は猛省して再建に臨んでほしいですね。

メダル常連組で不振に終わった競技といえば、シンクロナイズドスイミングもそうですね。
シンクロが正式採用された1984年のロサンゼルス大会以降、日本がメダルを獲得できなかったのは初めてだそうです。
私はシンクロには詳しくないので、メダルを逃した原因はよくわからないのですが、聞くところによると、かつて日本チームのコーチとして日本シンクロ界の基礎を築いた優秀な指導者が何らかのもめごとで退任し、その後その方が監督に就任した中国の躍進によって、日本がメダル圏外に押し出される結果となったといいます。
素人考えではありますが、シンクロのような競技は選手の能力よりも指導者の能力によって大きく左右するものなんじゃないですかね。
そんな優秀な指導者を手放したことが痛かったんじゃないでしょうか。
間違っていたらスミマセン。

あと、オリンピックの花形である陸上競技でも、ハンマー投げの室伏広治選手の「銅」1個だけでしたね。
かつて4大会連続でメダルを獲得した女子マラソンは惨敗に終わり、北京大会に続いて2大会連続メダルを期待された男子400メートルリレーも、残念ながら5位に終わりました。
陸上トラック競技の場合、非ネグロイドが入賞することがいかに難しいことであるかは理解していますが、それでも近年、伊東浩司選手や朝原宣治選手、為末大選手などの活躍で、確実に世界との差が縮まりつつある観があっただけに、今回の結果は一歩後退といった観が否めません。
4年後の巻き返しを期待したいですね。

そんな中で史上最多のメダル獲得数に至った背景には、“史上初”“◯◯年ぶり”といった嬉しい誤算のメダルが数多くあったことが挙げられます。
“史上初”のメダル獲得でいえば、女子サッカー「なでしこジャパン」をはじめ卓球女子団体フェンシング男子フルーレ団体バドミントン女子ダブルスアーチェリー女子団体など、団体競技での活躍が目立ちましたね(個人競技では女子重量挙げの三宅宏実選手が史上初でしたね)。
“◯◯年ぶり”を挙げると、先述したレスリング男子の米満達弘選手が24年ぶりの「金」を獲得したことをはじめ、男子ボクシングの村田諒太選手が48年ぶりの「金」、女子バレーボール28年ぶりの「銅」、体操個人総合の内村航平選手も28年ぶりの「金」でした(あと、史上最多を記録した競泳陣の中でも、種目別に見れば“史上初”や“◯◯年ぶり”が多くありました)。
この結果は実に喜ばしいことだと思いますが、これを今回のみのフロックに終わらせず、次回以降も継続できるよう力を維持していくことが大切だと思います。
次は、◯大会連続を期待したいですね。

さて、連連と振り返ってきましたが、最後に私の独断と偏見でロンドンオリンピック日本人選手のMVPを男女ともに挙げたいと思います。
まず男子は、何といっても体操個人総合で「金」を獲得した内村航平選手ですね。
その理由は、今大会の「金」7個のうち、唯一格闘技以外の競技で獲得したのが内村選手だったことと、大会前の下馬評で、「金メダルに一番近い男」と評されながら、見事その期待に答えたことです。
これって簡単なようで、なかなか出来ることではありません。
続いて女子では、金メダリストの4選手の中から選びたいところですが、ここではあえて卓球女子団体の3人娘、その中でもとくに福原愛選手を挙げたいと思います。
理由は、同競技で男女通じて初のメダルを獲得したことはもちろん、福原選手の場合、幼いときから世間の注目と期待をずっと浴び続け、見事その期待どおりメダリストとなったことです。
「天才◯◯少女」などと持て囃される幼い子どもは珍しくありませんが、その期待どおりに成長した例は稀といっていいのではないでしょうか。
その意味で、彼女が日本の卓球のレベルを底上げしたといっても過言ではないでしょう。
そんな理由で、私はあえて福原選手にMVPを贈りたいと思います。

報道によると、五輪開催期間中のオンライン視聴率ランキングでは福原愛選手がダントツの1位で、推定視聴者数は237万5千人だったそうです。
内村航平選手も3位にランクインで推定視聴者数169万8千人だとか。
内村選手にしても福原選手にしても、注目度も期待度も絶大な中で結果を出した・・・。
これは私の個人的な意見ですが、注目された中で結果を出してこそ、真の実力者だと思っています。
その意味で、両選手はまさに真の実力者でした。
両選手ともに23歳、まだまだ今後も期待したいですね。

私の好きな野球ソフトボールが除外されたこともあって、開幕前には私の中で今ひとつテンションが上がらなかったロンドンオリンピックでしたが、終わってみればどっぷりオリンピック漬けとなった半月間でした。
オリンピックの魅力は、競技そのものではなく、4年に一度の舞台にかける選手たちの姿にありますから、その競技自体に興味があるなしはあまり関係ないんですね。
メダルを獲得した選手もメダルに届かなかった選手も、本当にお疲れさまでした。
そして感動をありがとう。
まだまだ余韻に浸りながらも、ひとまず当ブログでのロンドンオリンピックの稿を終えることにします。


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by sakanoueno-kumo | 2012-08-17 01:33 | 他スポーツ | Comments(4)  

ボクシングの村田諒太選手とレスリングの米満達弘選手の「金」で、なんとか保てた男の面目。

【ロンドン共同】ロンドン五輪最終日の12日、レスリング男子フリースタイル66キロ級で米満達弘が金メダルを獲得した。日本のメダルは金7、銀14、銅17の38個となり、アテネ大会(37個)を抜いて1...
半月以上に渡って繰り広げられてきたロンドンオリンピックですが、終盤になって日本に金メダルが連発しましたね。
実は私、お盆休みを利用して家族旅行に出かけており、最後の2つの金メダルをリアルタイムで観ることができなかったのですが(閉会式も観れませんでした)、ここまでずっとオリンピックネタを起稿してきて、最後のこの2つの「金」のみスルーというのは何となく気持ち的に納まりが悪く、今さらではありますが、自身の記録という意味で起稿しておきたいと思います。

まずは日本時間の12日早朝、男子ボクシング・ミドル級で村田諒太選手が金メダルを獲得しました。
ボクシングでの「金」獲得は、1964年の東京大会のときの桜井孝雄(バンタム級)以来48年ぶりの快挙で、通算でも2人目のことだそうですね。
日本のアマチュアボクシングの競技人口がどのくらいいるのか知りませんが、私たち素人はボクシングといえばどうしてもプロを連想してしまうので、アマチュアのことをあまり知りません。
素人考えでいえば、実力者はプロに転向してしまうためアマのレバルはさほど高くないように思ってしまうのですが、実際にはプロとアマは全く別のもので、どちらが上というものでもないそうですね(プロレスとアマレスも全く違うものですが、あれと同じようなものでしょうか)。
考えてみれば、プロボクシングの世界チャンピオンは同階級でもWBCWBAの2人いますし、その実力さえあればいつでもチャンピオンに挑戦できるチャンスはありますが、アマボクシングの金メダリストは同階級では1人しかいませんし、チャンスも4年に一度しかありません。
そう考えれば、プロボクシングの世界チャンピオンになるよりアマボクシングの金メダリストになる方が難しいともいえます(あくまで見方によれば・・・です)。
今回、村田選手の数日前にバンタム級でも清水聡選手が銅メダルを獲得しましたよね。
この度の2人の活躍で、アマボクシングが見直されるきっかけになるんじゃないでしょうか。

続いてレスリング男子フリースタイル66キロ級で米満達弘選手が金メダルを獲得。
レスリング男子での「金」獲得は、1988年ソウル大会以来6大会24年ぶりのことだそうです。
24年前のレスリング男子金メダリストといえば、帰国後に上野駅の電話ボックスに金メダルを置き忘れたことで知られる小林孝至選手ですね(同大会ではもうひとり佐藤満選手も「金」でした)。
かつてはお家芸といわれていたレスリング男子でしたが、近年では女子にそのお株を奪われ、大活躍の女子の「おまけ」的扱いとなっていました。
これでなんとか威信を守りましたね。
どうか、置き忘れることのないように気をつけてください(笑)。

米満選手の「金」によって、3人の「金」が出たレスリング女子に何とか顔向けできます。
また、つい先日まで日本の男子の金メダリストは体操個人総合の内村航平選手ただひとりでしたが、村田選手と米満選手のふたりが加わったことで日本の金メダルの総計7個のうち男子3女子4と、なんとか男の面目を保てました。
同じ男として、この両人には今まで以上に多くの拍手を贈りたいですね。
最後の最後に男の意地を見せてくれて、本当にありがとうございます。

近日中にロンドンオリンピックの総括を起稿したいと思っています。


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by sakanoueno-kumo | 2012-08-14 21:58 | 他スポーツ | Comments(0)  

日本バレーボル女子の28年ぶりの銅メダルと、メダルを賭けた戦いと領土問題を区別できない韓国という国。

【ロンドン共同】国際オリンピック委員会は11日、日本―韓国のサッカー男子3位決定戦後に、韓国選手が竹島(韓国名・独島)領有を主張するメッセージを掲げたとして調査を始めたと発表。表彰式に当該選手を...
ロンドンオリンピックバレーボール女子3位決定戦で日本チームはライバルの韓国チームをセットカウント3-0(25-22、26-24、25-21)で破り、みごと銅メダルを獲得しました。
日本女子バレーボールのメダル獲得は、1984年のロサンゼルス大会以来、実に28年ぶりのことだそうです。
ロサンゼルス大会といえば、あの名セッター中田久美さんが17歳でオリンピックデビューしたときですね(私は中田久美さんと同じ歳で、当時ファンだったもんで・・・)。
いや~、長かったですね。

女子バレーボールはオリンピック競技に採用された最初の女子団体種目で、正式種目としてはじめて行われた1964年の東京大会で、あの伝説の「東洋の魔女」をして「金」を獲得して以降、68年メキシコ大会が「銀」、72年ミュンヘン大会が「銀」、76年モントリオール大会が「金」、辞退した80年のモスクワ大会を挟んで、84年のロサンゼルス大会が「銅」と、約20年間メダルを逃すことなく常に世界のトップクラスであり続けた日本のお家芸でした。
しかし、88年のソウル大会ではじめてメダルを逃して以降(4位)、ずっと上位にくいこめない低迷期を向かえることになります。
そしてとうとう2000年のシドニー大会では、日本女子バレー初となるオリンピック出場権を逃がすに至ります。
そのときチームのセッターだったのが、当時まだ若かった竹下佳江選手でしたね。
当時、オリンピックの切符を逃した責任追及の矛先として「セッターが159センチの身長では世界を相手に通用しない」と、彼女が批判の矢面に立たされていたことを思い出します。
あれから12年、チーム最年長の司令塔として臨んだこの度のロンドンオリンピックで、みごと28年ぶりのメダル獲得。
もちろん、メンバー12人すべての力で手にした栄光ですが、シドニーの落選の悔しさを唯一知っている竹下選手の心境は、おそらく他の選手とは比べ物にならないほどの、感無量の境地ではないでしょうか。
本当におめでとうございます。

宿敵韓国に完勝したバレボール女子ですが、もうひとつの日韓戦、サッカー男子の3位決定戦は残念ながら日本は韓国に0-2で敗れ、1968年メキシコ大会以来44年ぶりとなる銅メダルには届きませんでした。
勝っても負けても、終わったあとは両軍讃え合って終わるのがスポーツの醍醐味ですが、今回に限ってはなんとしても負けたくなかった・・・。
というのもすでに周知のとおり、この日、韓国の李明博(イ・ミョンバク)大統領が島根県の竹島に上陸し、日韓の関係がいつになく緊迫した状況となっています。
なぜこの日に竹島を訪れる理由があったのかはわかりませんが、昨日、今日とオリンピックの舞台で銅メダルを賭けたふたつの日韓戦があるのはわかっていたことで、あえてこの日に日本を刺激するような行為に出たのは、何らかの政治的挑発とみなして間違いないでしょう。
事実、サッカーの試合中には韓国選手は執拗にエキサイトしてましたからね(とくに韓国の背番号13番の選手は終始喧嘩腰でしたよね)。
聞けば、試合終了後に韓国選手が竹島領有を主張するメッセージを掲げていたとか。
これも、大統領の行動が選手を煽ったと考えていいでしょうね。
実に寒いものを感じます。
日本はスポーツをしようとしていたのに、どうやら韓国は戦争を仕掛けてきていたようです。

本当は純粋にスポーツとして拍手を贈るべきなのでしょうが、せっかくのアジア対決、メダルを賭けた一戦に水をさすような行為を大統領自身が率先して行うような国に、2連敗だけはしてほしくなかった。
その意味でも、女子バレーボルの勝利は大きかったですね。
ただ、実に後味の悪いものを感じているのは私だけでしょうか。


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by sakanoueno-kumo | 2012-08-12 02:16 | 他スポーツ | Comments(0)  

ウサイン・ボルト選手がカール・ルイス氏を超えて「伝説」になった日。

陸上の男子200メートルはボルト(ジャマイカ)が19秒32で制し、史上初めて100メートルとの2大会連続2冠を達成した。ジャマイカ勢が3位までを独占。同800メートルはルディシャ(ケニア)が世界...
ロンドンオリンピック陸上男子200メートルで、ジャマイカ代表のウサイン・ボルト選手が19秒32をマークして優勝し、先日行われた100メートルと合わせてスプリント2冠を達成しました。
ボルト選手は4年前の北京大会でも2冠を達成しており、2大会連続で100、200メートルの2冠はオリンピック史上初の快挙だそうです。
あの、オリンピック通算9個の金メダルを獲得した伝説のスプリンター・カール・ルイス選手(米国)ですら、2大会連続の2冠は達成していなかったんですね(ルイス選手は84年ロサンゼルス大会で100、200ともに金の2冠だったものの、その4年後のソウルでは100が金で200が銀)。
大会前に「最も偉大な選手として名を残す」と、自ら「伝説」になることを公言していた彼でしたが、まさしく今、ボルト選手は「生きる伝説」となりました。
私たちは、その伝説の男と同じ時代を生きた「伝説の証人」となったのです。
いや、マジで・・・(笑)。

ボルト選手が尊敬するスプリンターは、意外にも100メートルの選手ではなく、90年代に200、400メートルで無敵を誇ったマイケル・ジョンソン選手(米国)だそうです。
ジョンソン選手は96年のアトランタ大会で200、400メートルの2冠を達成、4年後のシドニーでも400メートルを制しています。
どちらも当時の世界記録を持っていましたが、とくに400メートルでの強さは抜きん出たもので、他の選手に影を踏ませない圧倒的な強さを誇りました。
黒人選手には珍しく、脚が短くて重心が低く、上体を起こしたピッチ走法のスプリンターで、どちらかと言えば、ボルト選手とは対極に位置するタイプのスプリンターだったのですが、そのジョンソン選手をボルト選手が尊敬するというのは、おそらくスタイル云々ではなく、他を寄せ付けない圧倒的な強さでしょうね。
戦績だけで見ればルイス選手のほうが上でしょうが、「無敵」というインパクトの強さで言えば、ジョンソン選手だったように思います(あくまで私見です)。
奇しくも今回ボルト選手が優勝した200メートルのタイム19秒32は、96年のアトランタ大会でジョンソン選手がマークした当時の世界記録と同タイムでした。
当時、この記録は「向こう100年は破られることはないだろう」といわれていましたが、それから12年後の北京大会でボルト選手が19秒30をマークし、塗り替えられました。
不思議な縁を感じますね。

4年後のリオデジャネイロ大会時には30歳となるボルト選手。
彼の尊敬するジョンソン選手は30歳を過ぎてもなお、自身の持つ400メートルの世界記録を更新しました。
ルイス選手も30歳で世界陸上の100メートルを制しています。
次回、もしオリンピック3大会連続2冠を達成したら、伝説を通りこして「神話」となるでしょうね(笑)。
でも、彼ならやっちゃいそうな気がしませんか?
期待しましょう。


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by sakanoueno-kumo | 2012-08-11 00:01 | 他スポーツ | Comments(0)