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KOBE de 清盛 史跡めぐり その2

兵庫運河にかかる清盛橋のそばに、「清盛塚」と呼ばれる史跡があります。

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高さ8.5mの石造十三重塔は県の重要文化財に指定されており、平清盛の死後100年以上経った弘安9年(1286年)に、北条貞時が清盛を弔うために建立したと伝わっています。
北条貞時とは、元寇のときの執権・北条時宗の嫡子です。

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かつては現在より南西11メートルの場所にあったそうですが、大正12年(1923年)に旧神戸市電の道路拡張工事に伴い移転されたそうです。
長い間この石塔は清盛の墓所と伝えられてきたそうですが、大正12年の移転に伴い発掘調査が行われ、その際に遺骨は発見されず、墓ではなく供養塔だと判明したそうです。

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石塔は平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災の際に倒壊し、修繕しているそうです。
写真をよく見ていただくと、上から3番目の石と最上部の細い部分の色が違うのがわかるかと思いますが、これは震災によって破損したため新しい石にしたためだそうです。
史跡としての価値が下がったようで惜しい気もしますが、ある意味これも、阪神・淡路大震災という歴史の史跡ともいえるでしょうか?

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石塔が移設される以前、ここはもともと「琵琶塚」と呼ばれていました。
伝承によると、『平家物語』のなかで琵琶の名手として謳われている平経正の墓だと伝えられており、仁和寺の覚性法親王から拝領した琵琶の名器「青山」をともに埋葬したとされています。
経正は清盛の弟・平経盛の長男で、平敦盛の兄にあたります。
しかし、もとは前方後円墳だったそうで、その形が琵琶に似ていることから琵琶の名手である経正と結び付けられたのではないか、とも言われています。

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十三重の石塔の隣に建っている清盛像は、昭和43年(1968年)に神戸開港100年記念で建てられたものだそうです。
意外と新しいものだったんですね。

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清盛塚の前の道路を挟んで向かい側に兵庫運河があり、そこに清盛橋という名の橋がかかっています。
昭和62年(1987年)の架け替えの際に、市民の要望により清盛橋と名付けられたそうです。
橋には源平合戦平家物語絵巻などの真鍮板が飾られています。

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兵庫運河に沿って歩くと、「清盛くん」がいました。
これは史跡ではありません(笑)。

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古代、中世を通じて現在の神戸港の西部に当たる地域に、「務古(武庫)」、あるいは「大輪田の泊」、もしくは「兵庫」などと呼ばれる港湾がありました。
ここに清盛は、ライフワークだった日宋貿易の拠点として大修築工事を行い、人口の島「経ヶ島」の築造に着手し、港湾としての機能を強化させました。
そののち鎌倉時代以降、「兵庫島」「兵庫津」と呼ばれるようになります。
『平家物語』によって後世に大悪人としての評価が拭い切れない清盛ですが、ここ兵庫では昔から港を開いた大恩人扱いだったわけです。

気が向いたときの「その3」に続きます。
「その1」はこちら。
    ↓↓↓
KOBE de 清盛 史跡めぐり その1
KOBE de 清盛 史跡めぐり その3


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by sakanoueno-kumo | 2012-09-26 22:58 | 神戸の史跡・観光 | Comments(2)  

平清盛 第37話「殿下乗合事件」

 嘉応2年(1170年)7月3日、平清盛から棟梁の座を譲られた平重盛の次男で、当時13歳だった平資盛が家臣30騎ばかりを連れて鷹狩りに出かけた帰路、寺院に参詣する途中の摂政・藤原基房の一行と鉢合わせになった。本来、貴族社会では身分の高い人にあったとき、下位の者は下馬して礼をしなくてはならない。しかし、このとき資盛一行は下馬の礼をとろうとしなかった。基房の従者たちはその無礼を咎めたが、資盛たちは下馬するどころか行列をかけ破って通りぬけようとした。怒った基房の従者たちは、その人物が清盛の孫であることを知ってか知らずか、資盛とその共の者たちを馬から引きずり降ろし、さんざんに辱めを加えるという出来事が起こった。

 これに怒った平家は、その3ヶ月後の10月21日、基房が高倉天皇(第80代天皇)の元服の打合せのために牛車で御所へ参内しようとしたところを襲撃。このとき、基房方では複数の家臣が前駆をつとめていたが、そのうち5人が馬から引きずり降ろされ、4人がを切り落とされた。当時の社会において、髻を切られるというのはこのうえない恥辱であり、平家の怒りの大きさがうかがえる事件である。

 「殿下乗合事件」と呼ばれるこの報復事件について『平家物語』では、「平家の悪行のはじめ」といい、報復を命じたのは清盛だとしている。そもそも事の発端は平家の権勢をバックにおごり高ぶっていた資盛一行の無礼から始まったにもかかわらず、これを聞いた清盛は「いかに摂政といえども清盛の身内にこのような恥辱を与えるとは許せぬ」と大いに怒った。しかし重盛は「そもそも下馬の礼をとらなかった資盛に非がある」と諌めたという。それでも清盛の怒りは収まらず、重盛に内緒で300騎余りの兵を動員して基房を襲撃。上述したとおり従者の髻を切り落とし、さらに基房の牛車にまで弓を突き入れ、簾を落とすなどの狼藉を加えたという。このことを知った重盛は大いに驚き、関係した侍たちを罰した。そして資盛に対して「このような無礼な振る舞いをして、入道の悪名を立たせるとは不孝のいたりだ」として、資盛を伊勢国に下して謹慎させた。この重盛の公明正大さに人々は大いに感心したという。

 と、おごり高ぶる清盛と平家一門の横暴のなかで、ひとり道理をわきまえた重盛の姿が描かれている『平家物語』だが、のちに摂政となる藤原兼実の日記『玉葉』などをはじめとする当時の良質の史料では、ずいぶんと話が違っている。それらによれば、実際に基房への報復を命じたのは、清盛ではなく重盛だったというのだ。資盛一行と基房の行列が鉢合わせになって乱闘に及んだのは事実だが、それが重盛の子であると知って慌てた基房は、事件にかかわった家臣らを解雇した上で、重盛に引き渡して事件をおさめようとした。しかし重盛はそんな生温い謝罪では許さず、謝罪に訪れた従者たちを追い返した。震えあがった基房は、さらに多くの家臣らを検非違使に引き渡して処罰し、事態の収拾をはかった。それでも腹の虫がおさまらない重盛は、あくまで基房本人に報復を加えようとし、7月16日には二条京極に武者を集めて襲撃しようとしたが、企てを察知した基房が外出を取りやめたため、不首尾に終わっている。その後、しばらくは何事もなく過ぎていたが、重盛が報復を断念したわけではなく、事件から3ヶ月経った10月21日に事件は起こった。あとは、『平家物語』の描写と大同小異である。

 清盛が報復を命じたという『平家物語』と重盛が報復を首謀したという『玉葉』の記述。資盛の無礼が招いた事件であるという点では同じだが、その後の経過がまるで違う。どちらの説に真実味があるかといえば、同時代の史料である『玉葉』と見るのが正しいだろう。このとき清盛は福原にいて、事件には一切かかわっていなかったらしい。それどころか、むしろ重盛の尻拭いをしていたようで、この年の12月に基房が太政大臣を兼ねるようになったのも、基房の憤りをしずめるために清盛が根回ししたものと考えられている。また、資盛は事件翌年に越前守を重任(任期終了後も続けて任命されること)しており、重盛が資盛を伊勢で謹慎させたという事実もなかったようだ。そもそも『平家物語』は清盛を悪人に仕立て上げるために作られた物語といってよく、対照的に重盛は思慮分別のある聖人君子として描かれている物語である。しかし実際の重盛は、清盛と同じく荒々しい武人の血が流れた人物だったということだろう。

 ドラマではそのどちらの説でもなく、清盛がほのめかして実行したのは平時忠という設定。『平家物語』と同じく道理を通した重盛だったが、それによって人々に感心されることはなく、むしろ父・清盛との器の違いに打ちひしがれるという展開だった。これはこれで、実に面白い脚本だったと思う。ドラマではいつも汚れ役にされている時忠には少々気の毒な気がしないでもないが、野心家策謀家だったとされる時忠のキャラとしては、あながち的外れでもないかもしれない。そんな時忠がいった本話の名言。
 「正しすぎるということは、もはや間違うているも同じことにござります。」
 公明正大さだけでは人は束ねられない。リーダーたる者、ときには交渉の手段として、あるいは配下の者の立場を守るため、清濁併せ呑む必要がある・・・と。実に深い言葉である。


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by sakanoueno-kumo | 2012-09-24 22:53 | 平清盛 | Comments(0)  

平清盛 第36話「巨人の影」

 仁安四年(1169年)3月20日、平清盛は隠棲生活を送っていた福原に後白河上皇(第77代天皇)を招き、千人供養を催した。千人供養とは、読んで字の如く千人の僧侶によって行われる法会で、極めて功徳の大きい仏教儀式として古代より尊重された。清盛主宰の供養は、こののちたびたび催されたようで(少なくとも6回催されたことが記録に残っている)、特別な理由がない限り後白河院も臨席していた。ときには後白河院自身が千僧のひとりとして供養に参加したこともあったというから、清盛と後白河院の蜜月ぶりを演出するイベントでもあったといわれている。後白河院の第二皇子・守覚法親王や、亡き鳥羽法皇(第74代天皇)の第七皇子・覚快親王などの名だたる高僧も数多く参加しており、千人供養は清盛の権勢をアピールする一大セレモニーでもあった。

 改元した嘉応元年(1169年)12月23日、延暦寺大衆が後白河院の近臣・藤原成親配流を求めて強訴を起こした。事の発端は延暦寺の末寺・白山と尾張目代の紛争で 、やがて中央に波及して後白河院と延暦寺の全面衝突となった。成親を守ろうとする後白河院は、福原にて隠棲している清盛に変わって武士を率いる平重盛に3度に渡って出動命令を下すものの、ドラマのとおり重盛はこれを拒否して動かなかった。重盛は成親の義弟にあたる。これにより強訴の武力鎮圧をあきらめた後白河院は、いったんは延暦寺の要求をのんで成親の流罪を決めたものの、その直後あっさりと決定を覆して成親を呼び戻し、成親の流罪を主張した平時忠たちを配流、天台座主・明雲を処罰した。延暦寺の大衆は激怒し、再び強訴を行う姿勢を見せ、またもや法皇と延暦寺の間に一触即発の雰囲気が漂った。

 そんな京の情勢を見かねた清盛は、年が明けた嘉応2年(1170年)1月13日に嫡男の重盛、14日に弟の平頼盛を福原に呼び寄せて状況を報告させると、17日に上洛。成親の解官や時忠の召喚などを次々と断行してあざやかに政局を収拾してみせた。後白河院といえども清盛がいなければ延暦寺の強訴相手に為す術もないことがここに明確となり、清盛が京にいないことが、かえって清盛の存在感を高めることとなったのである。まさしく、今話のタイトルどおり「巨人の影」であった。

 なぜ清盛が延暦寺の意向に沿うかたちで解決をはかったかについては、様々な理由が考えられる。ひとつには、清盛の出家の戒師が明雲だったこと。明雲は清盛からあつい信頼を受けており、福原の千僧供養では法華経供養の導師を務めるなど、その親密ぶりは「平氏の護持僧」といわれるほどであった。また、別の見方では、若い頃に引き起こした祇園闘乱事件の苦い教訓から、延暦寺を敵に回すことの恐ろしさを知っていたから・・・ともいわれる。他にも、成親ら後白河院の近臣たちの力を削ごうとした・・・などともいわれており、いずれにしても、清盛にとっては延暦寺側に付くほうが得策だったことは明らかだ。一方で、「治天の君」である後白河院にとって、自身の意向に従わず、福原にいながらにして政界に隠然たる影響力をもつ清盛の存在が煙たくなってくるのは、当然のなりゆきだったといえるだろう。この頃を境に、清盛と後白河院の相互不信は深まっていく。

 今話はほぼ通説どおりの脚本で、清盛の巨人ぶりが実に見事に描かれていたと思う。


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by sakanoueno-kumo | 2012-09-19 11:10 | 平清盛 | Comments(2)  

KOBE de 清盛 史跡めぐり その1

今年の大河ドラマ『平清盛』のゆかりの地として、わがまち神戸では「KOBE de 清盛2012」と称する観光PR事業が実施されています。
その一環として開催されている「ドラマ館」「歴史館」に先日ようやく行ってきました。
毎週、大河ドラマのレビューを当ブログで起稿している私としては、話のネタに一度は覗いてみようと思っていたのですが、地元であるがゆえ、いつでも行けると思うと逆になかなか足が向かず、気がつけばドラマも終盤に差し掛かってしまっていたので、夏休みの終わりに嫌がる娘を無理やり連れて行ってきました(笑)。

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まずは、ハーバーランドにて開催されている「ドラマ館」です。
ここはその名称のとおり、NHKのドラマの進行に合わせて撮影で実際に使用された衣装などが展示されているほか、福原京を再現したジオラマコンピューターグラフィックスを見ることができるスペースが用意されています。

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入口でいきなり、ドラマで最初に登場したときの時子のような衣装(“笠としびら”というそうです)を着たお姉さんに烏帽子を渡され、船のセットの上で記念撮影。
その写真を帰りに販売するといったイベント会場お決まりの商法です。
ただ、手持ちのカメラでも渡せばそれでも撮影してくれるので、そこは良心的といいますか・・・。
まあ、こんなところで撮影するのは子供連れか嬉しがりだけでしょうけどね(笑)。

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松山ケンイチさんの高平太等身大人形です。
近くで見てもなかなかリアルに出来てましたよ。
希望すれば衣装を着て撮影してくれるのですが、娘が嫌がったのでやむなくそのままで撮影(Tシャツの汗のシミが見苦しくてスミマセン)。
会場内で写真撮影が許されているのはここだけでした。

つづいて「ドラマ館」から地下鉄で一駅の場所にある「歴史館」に足を運びました。
ここでは、清盛が生きた平安時代の暮らしや神戸港の発展、福原京に関する遺跡出土品の展示などを見ることができます。

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巻物をイメージしたオブジェのようなグラフィック看板が目を引きました。

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裏側から見たらこうなってます。

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会場内はこんな感じです。

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十二単衣長刀の重さ体験コーナーです。
長刀の重さは約3kg、兜は約4kg、十二単衣はなんと約10kgもあるそうです。
企画としては悪くはないと思いますが、写真のように十二単衣の重さを体感するバーの位置が高くて、身長130センチ強の小学5年生の娘ですら肩に乗せることができませんでした。
こんなもん、子ども対象に設定しないでどうするの!・・・と。

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そんなこんなで平清盛「ドラマ館」「歴史館」を巡りましたが、率直な感想をいえば、小中学生なら楽しめるレベルで、大人が入場料払ってまで観に行くほどのものでもないかな・・・と。
まあ、おそらくそんなもんだろうと思って私も娘を連れていったんですけどね。
神戸以外でも清盛関連の観光PR事業は各地で展開されているようですが、大河ドラマに便乗した期間限定の観光PRパビリオンなんて、どこも似たようなもんなんじゃないでしょうか。
ドラマ開始当初、「画面が汚い」といったわけの分からないクレームをつけていた馬鹿な知事がいましたが、ああもあからさまに観光事業への影響を懸念した発言をするのであれば、もうちょっとマシなもん作れよ・・・と言いたくなりますね。

近日中に「その2」に続きます。
     ↓↓↓    
KOBE de 清盛 史跡めぐり その2
KOBE de 清盛 史跡めぐり その3

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by sakanoueno-kumo | 2012-09-12 16:52 | 神戸の史跡・観光 | Comments(0)  

平清盛 第35話「わが都、福原」

 出家して入道相国(入道は出家した人、相国は太政大臣)と呼ばれるようになった平清盛は、仁安4年(1169年)春、六波羅の邸宅を嫡男の平重盛に譲り、摂津国福原に山荘を作って隠棲した。これ以後、日常の政権運営は京にいる一門にゆだね、清盛自身は必要に応じて上洛し、政局を収拾すると福原に戻るといった政治スタイルを貫くことになる。これは鳥羽院政時代、藤原忠実が宇治に別荘を構えて隠居したことにならったといわれており、中央政界から距離をおくことで、かえって自身の存在感を高めようとする人心掌握の策だったとも考えられている。

 清盛と福原の関係は、「平治の乱」後ほどなくして始まったといわれている。背後にそびえる六甲山地と南に広がる海原の間に挟まれた風光明媚なロケーションに魅せられ、そして何よりも古代から良港として知られている大輪田泊(奈良時代に行基が開いた五泊の一つ)が、かねてから日宋貿易に意欲を燃やしていた清盛にとっては大きな魅力だったのだろう。九世紀末の遣唐使廃止以後、中国との正式な国交は途絶えていたが、博多を始めとする九州沿岸では有力な荘園領主による密貿易が盛んに行われていた。平家も清盛の父・平忠盛の時代から日宋貿易に携わり始め、保元2年(1157年)に清盛が太宰大弐(太宰府の実質的な長官)に就任して以降は、さらに積極的に関与するようになった。そしてそれをさらに大規模に推し進めるために、清盛は福原の外港である大輪田の泊を修築し、ここに宋船を迎え入れようと考えたのである。『愚管抄』「平相国ハ世ノ事シオホセタリト思ヒテ出家シテ、摂津国ノ福原ト云所ニ常ニハアリケル」とあるとおり、これ以後、清盛は福原を本拠として日宋貿易に注力しながら、京都の政治を遠隔操作していくことになる。

 清盛の弟・平頼盛が甥の重盛より出世が遅れていたのはドラマにあったとおりで、27歳で正三位、28歳で早くも参議となった重盛に対し、頼盛は33歳で正四位下・修理大夫に過ぎず、重盛の叔父という立場にありながら甥に遅れをとっていた。その理由については、清盛と頼盛の異母兄弟という間柄からくる確執といわれたりもするが、事実はどうだったのだろうか。もっとも、頼盛と重盛は叔父、甥の関係とはいえ、年齢差はわずかに5歳差。棟梁の嫡男である重盛が先に出世するのは当然のことだという見方もある。事実、頼盛はかつて清盛が自身が就いていた太宰大弐に任命され、重盛に遅れること3年後には従三位に叙せられ、重盛以外の清盛の息子たちよりは先に平家では3人目の公卿となった。参議となったのは平宗盛平教盛に次いで5人目だったものの、清盛の福原隠棲後は、重盛とともに清盛の代理人的立場として頼盛を重用していた。清盛は決して頼盛を疎んじていたわけではなかったようである。

 そんな頼盛が、参議就任直後に解官されたのはドラマのとおりである。その理由についてもドラマで描かれていたとおり、後白河上皇(第77代天皇)への出仕を度々怠ったことだといわれており、後白河院の怒りは激しいものだったようで、息子の平保盛ともども全ての官職を奪われてしまった。なぜ後白河院への出仕を怠ったのかは定かではない。摂政・藤原基房八条院暲子内親王、後白河院の第二皇子・以仁王の策略だったというのはドラマのオリジナルである(たぶん)。ドラマでは描かれていなかったが、この時期、重盛は病により健康がすぐれず、権大納言を辞任する事態に至っている。そんな中、もうひとり京を任せていた頼盛の軽々な行動を、清盛はきっと苦々しく思っていたことだろう。頼盛の失脚は長きに渡り、出仕が許されたのは1年後のことだった。


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by sakanoueno-kumo | 2012-09-10 00:55 | 平清盛 | Comments(4)  

宮本武蔵も築城事業に関わったといわれる「明石城」を散策。

本日はJR明石駅北側の明石公園内にある、明石城跡を紹介します。

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別名、喜春城(きはるじょう、きしゅんじょう)、または錦江城(きんこうじょう)とも呼ばれる明石城は、元和3年(1617年)に信州松本城主より明石藩主となった小笠原忠真が、江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の命により、岳父にあたる姫路城主・本多忠政の協力を得て築城したものです。

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明石城に天守閣はありません。
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣を最後に戦乱の時代が終わり天下太平となったという、いわいる「元和偃武」の時代に築かれた城には天守閣のないものが多いそうです。
ただ、いつでも天守閣を建てられるように大きな天守台は設けられていました。

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「坤櫓」(ひつじさるやぐら:左) と 「巽櫓」(たつみやぐら:右)です。
国の重要文化財に指定されています 。

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空の色が青かったら、もっといい写真になったんですけどね・・・残念でした。

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「坤櫓」の石垣です。
天守閣が造られなかった明石城では最大の規模の櫓で、たいへん立派な石垣です。

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「坤櫓」と「巽櫓」を結ぶ長大な塀(帯廓)は、明石市街地を見渡せる展望台となっています。
「巽櫓」の向こうに見えるのは、本州と淡路島を結ぶ明石海峡大橋です。

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「坤櫓」の向こうに見えるのは明石球場です。
この写真を撮影したのは7月のことで、実はこの日ここを訪れたのは、わが愚息の高校野球兵庫県予選の観戦が目的でして、その試合開始までの待ち時間で城跡を散策していました。

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球場内から見ると、こんなロケーションとなります。
プロ野球のオープン戦も行われるいい球場です。

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明石の地は播磨国に位置し、山陽道が通り、北には丹波国但馬国への道が分かれ、淡路島四国のルートがあり、古来より交通の要衝でした。
そのため徳川幕府は、西国の外様大名の抑えの城として、姫路城についでこの明石城を重要視していたといいます。

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苦心して明石城を築城した小笠原忠真は、15年ほどで豊前国小倉藩(小倉城)に転封となり、それ以後わずか50年の間に城主が目まぐるしく入れ替わりましたが、天和2年(1682年)に越前家の松平直明が6万石で入城し、以後、明治維新まで10代189年間親藩として松平氏の居城となりました。
そして明治7年(1874年)の廃城令により廃城となり、その後、明治16年(1883年)に明石町の有志によって整備されて明石公園となり、大正7年(1918年)には兵庫県立明石公園となって現在に至ります。

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話は築城当時に戻って、ちょうどそのころ小笠原忠真の客分として姫路にいた剣豪・宮本武蔵が、明石城築城に伴う明石城下町の町割り(都市計画)を指導したと言われています。
享保年間(1716〜36年)の地誌『明石記』には、「宮本武蔵ト云士町割有之ト云」とあり、小笠原家に伝わる『清流話』には、城内の庭園や藩主の御屋敷の建設を武蔵に命じたとされており、武蔵が何らかのかたちで築城事業に関わったことは事実だと考えていいのかもしれません。

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公園内は緑に囲また自然豊かな環境で、私も子どもが小さかった頃はたびたび自転車を車に乗っけて弁当持参で訪れました。
春には桜の名所として、たくさんの花見客で賑わいます。
今度は桜の季節にでも、また取材して紹介してみたいと思います。


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by sakanoueno-kumo | 2012-09-06 17:28 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(4)  

平清盛 第34話「白河院の伝言」

 仁安3年(1168年)2月2日、平清盛が突如に倒れた。「寸白(すばく)」という名の病で、寄生虫によって引き起こされる病である。一般にサナダムシのことだといわれている。おそらく当時は治療といえるような手立てはなく、ドラマのように祈祷するぐらいしか打つ手はなかっただろう。その寸白によって高熱にうなされた清盛は、1週間後には「危篤」といわれるほどの重体に陥った。事実上、政界のトップである清盛の危篤の報が朝廷に与えた衝撃は大きく、六波羅の清盛邸には多くの人々が見舞いに訪れたという。平家に批判的な九条兼実ですら、清盛の病を「天下の大事」として、もし万が一のことがあれば「天下乱れるべし」と、日記『玉葉』に記していることから見ても、この当時の政界における清盛の存在の大きさがうかがえる。

 清盛が病に倒れたとき熊野詣に赴いていた後白河上皇(第77代天皇)は、清盛危篤の報を聞いて予定を切り上げて帰京し、清盛を見舞った。このとき後白河院は、ドラマのとおり参詣の際に着る浄衣のままで清盛の枕元に現れたというから、二人の親密ぶりがうかがえるエピソードである。さらに上皇は近臣に「大赦」を行うように命じたという。「大赦」とは、国家の慶事凶事に際し、天皇・上皇の大権により罪人の刑罰を免除する律令制の既定である。摂関家以外の臣下の病で大赦を行った例はなかったが、国家の重臣であるという理由で特例扱いとなったとか。このエピソードからも、当時の清盛が後白河院からいかに期待されていたかがわかる。もっとも、ドラマのように二人の友情からくるものではなかった。このとき後白河院は憲仁親王を天皇に即位させる考えがあり、その計画には義理の叔父である清盛の協力が必要だと考えていたからである。熊野詣から急ぎ引き返してきた後白河院は、病床の清盛と相談しで5歳の六条天皇(第79代天皇)を退位させ、高倉天皇を即位させることを決めた。そして4日後には早くも天皇位を継ぐ践祚の儀式が行われ、平家と血縁関係を持つ天皇が初めて誕生したのであった。

 ドラマでは、清盛は次週に出家するようだが、実際には病床のなか死を覚悟した清盛が、最後の手段として妻・時子とともに出家したという。つまりは、仏に仕えることによって病を追い払おうとしたのだ。実際にこの時代、出家することで病が癒えると信じられていたようで、時子の叔父である平信範の日記『兵範記』では、清盛の出家について「除病延寿菩提」は疑いないと記されている。出家した清盛の法名は静蓮、のちに静海(浄海)と改めた。その甲斐あってか、清盛の病は死の淵から奇跡的に回復する。こうして「天下の大事」は終わった。

 清盛の病に際して描かれていた嫡男・平重盛平宗盛の確執はドラマの創作で、清盛はあくまで重盛を嫡男として扱っており、少なくともこの時期にはこうした対立関係はなかったと思われる。おそらく今後の展開の伏線だろう。それにしても、毎度のことながらこのドラマでの平時忠は絵に描いたようなトラブルメーカーである。「平家にあらずんば人にあらず」の言葉を発した人物として後世に知られる時忠だが、実際にも野心家だったようで、三度も配流となるなどかなりの曲者だったようである。ただ一方で、二度の配流を経験しながらも復帰した後は高い官位、官職に昇っていることを思えば、ドラマのような単なる浅知恵のトラブルメーカーではなかったようだ。実際に後年、清盛亡き後の平家の実質的な指導者は、この時忠であったという。ドラマでも、そのあたりをもうちょっと留意した描き方はできないものだろうか・・・と、少しばかり時忠の名誉のために擁護しておくことにしたい。

 今話は清盛の病床でその半生を振り返った。ただ単に過去のシーンをフラッシュバックしただけではなく、これまでなかった話や過去のシーンと今が重なりあう描き方など、どれも秀逸な演出だったと思う。清盛の母・舞子白河法皇(第72代天皇)の命により処刑された場面に、50歳の清盛が現れてむせび泣く。あのシーンは、第1話のシーンと並行して撮影されたのだろうか・・・。とすれば、清盛役の松山ケンイチさんは清盛の50歳を演じたり15歳を演じたり、1年間の長丁場の中で何度も年齢を行ったり来たりしていたことになる。俳優さんの役作りも大変だなあ・・・と、そんなことを思った今話だった。そのあたり、もうちょっと視聴率アップに結びつかないものだろうか・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2012-09-03 01:47 | 平清盛 | Comments(0)