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平清盛 第42話「鹿ヶ谷の陰謀」

 延暦寺の山門衆徒の要求を全面的にのむかたちで決着をみた「比叡山の強訴」だったが、いったんは引き下がったものの腹の虫がおさまらない後白河法皇(第77代天皇)は、強訴の責任は延暦寺座主の明雲にあるといいはじめ、座主職の罷免と所領の没収を命じ、廷臣の反対を押し切って明雲の伊豆配流を断行する。しかし、山門の大衆はこの決定に反発し、護送中の明雲を力づくで奪還して比叡山に連れ帰った。これに激怒した後白河院は、平重盛平宗盛の兄弟に出撃を命じたが、二人は父の平清盛の指示を仰ぐといって態度をはっきりさせない。業を煮やした法皇は、福原に使者を送って清盛を呼び出し、比叡山総攻撃を命じた。平家にとって比叡山を敵に回しても得るものは何もなく、清盛はかねてから比叡山との協調姿勢をとっていたが、さすがの清盛も治天の君である後白河院直々の司令を拒むわけにはいかなかったようで、やむなくこれを受諾する。

 ところが比叡山攻撃直前の治承元年(1177年)6月1日、事態は急変する。明け方、明雲を讒言したという罪状で西光が捕縛されて拷問にかけられ、清盛を倒す計画を法皇や近臣と謀議したことを白状。翌日、五条坊門朱雀で斬首された。『愚管抄』によれば、ことの発覚は多田行綱の密告だったと伝えているが、事実かどうかは定かではない。行綱は摂津国多田荘を本拠とする摂津源氏の有力者で、摂津福原に拠点をおいていた清盛とは協調関係にあったと考えられており、その行綱が平家打倒の謀議の席に呼ばれるのは不自然であるという意見もある。また、ドラマでは囚われの身となった西光が清盛に向かって「無頼の高平太」と罵り、激高した清盛が西光を何度も蹴り倒すというシーンがあったが、このエピソードは『平家物語』の中に描かれている有名な逸話で、西光が「卑しい身分の出でありながら太政大臣にまで成り上がるなど過分である」と罵り、激怒した清盛は西光の顔を踏みつけた上でその口を切り裂かせ、首を打たせたと記されている。ドラマで描かれていた狂気の沙汰は、この逸話から連想した描写だろう。

 続いて、藤原成親藤原成経父子、法勝寺の執行・俊寛僧都、検非違使の平康頼など、院近臣が次々と逮捕されて解官・配流に処された。そして6月6日には明雲の赦免が決定され、法皇が清盛に命じた比叡山への武力攻撃は未然に回避されたのであった。

 以上が「鹿ヶ谷事件」または「鹿ヶ谷の陰謀」といわれる平家打倒未遂事件のあらましである。平家の専横が招いたクーデター未遂事件ともいえるが、一方で、タイミング的にあまりにも平家にとって都合がよすぎる展開だけに、清盛が院近臣の勢力を一網打尽にするため、あるいは比叡山との武力衝突を避けるために仕組んだ演出だったという見方も少なくない。実際、この事件によって後白河院近臣の実力者は一掃され、断るに断れなかった法皇の命令も回避することができた。まさしく平家にとっては渡りに船であり、願ったり叶ったりの事件だった。この陰謀が、清盛のでっち上げた謀略だったという説も頷ける気がする。ただ、捕まった西光が打倒清盛の謀議を白状したのは事実であり、このとき参加した院近臣の名簿まで作成されている。また『愚管抄』にも、「後白河院が静賢の鹿ケ谷山荘に御幸した際、藤原成親・西光・俊寛が集まりさまざまな議をこらした」とあるから、「火のないところに煙は立たぬ」で、何らかの謀議はあったようだ。

 だが、それが平家を武力で排除するような計画だったかどうかは甚だ疑問である。彼らの動かせる兵力が平家の足元にも及ばないことは火を見るより明らかであり、武力での政変など無謀極まりないことは、いくら軽率な院近臣にもわかることだったはずだ。謀議といっても、せいぜい反平家の貴族があつまって愚痴をこぼし合っていた程度のことだったのではないだろうか。『平家物語』によると、謀議が終わったあとの宴席で酔った成親が立ち上がった勢いで瓶子(へいし)が倒れ、後白河院が「あれはいかに」と問うと、成親が「平氏(瓶子)たはれ候ぬ」と答え、俊寛がそれをどうするか尋ねると西光が「頸をとるにしかず」と瓶子の首を折り割ったという。これが本当なら、何とも幼稚な行いで滑稽な話ある。いってみれば、サラリーマンが仕事のうっぷん晴らしの不平不満をいい合う程度の呑み会が「謀議」とされたというわけだ。酔った勢いで調子に乗って瓶子の首をもぎ取った西光は、のちに自身の首がもぎ取られることになろうとは、夢々思っていなかったことだろう。

 「そなたの国づくりは志ではない。復讐だからじゃ。おのれを犬と扱う王家への恨みつらみに突き動かされておるだけだからじゃ。さようなものにつきあわされて、よい面の皮じゃ。民も、公卿も、うぬらもな。」
 西光に罵られて激高する清盛。少なからず図星をつかれたということだろうか? 人臣の頂に立ち、酸いも甘いも噛み分けた清盛が、あそこまで我を忘れて狂態を晒した理由は? どうやらその辺にドラマの清盛の根っこの部分があるようだ。


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by sakanoueno-kumo | 2012-10-30 00:48 | 平清盛 | Comments(0)  

平清盛 第41話「賽の目の行方」

 建春門院滋子の崩御をきっかけとして、栄華を極めていた平家一門の前途に暗雲が漂いはじめる。事実、滋子の崩御後、後白河法皇(第77代天皇)は側近の藤原成親平康頼西光俊寛らを重用するようになり、次第に平家を疎んじるようになっていった。法皇の後ろ盾を頼りに出世を狙う近臣たちにとっては、平家の専横を崩すチャンスが巡ってきたように思えたかもしれない。

 滋子の崩御後まもなく、仏門に入っていた後白河院の第九皇子第十皇子を還俗させ、高倉天皇(第80代天皇)の猶子としたのはドラマのとおりである。後白河院にしてみれば、高倉帝が成人して自分の意志で政治を行うようになる前に退位させ、自身の意のままになる幼帝を立てて政治権力を維持しようとしたか、あるいは平家の血を引く帝の出現を阻もうとしたのか、いずれにせよ、高倉帝退位工作の一環であったことは間違いないだろう。しかし、平家にしてみれば高倉帝の中宮である徳子に皇子が生まれる前の退位は、絶対に認められるものではなかった。そんなこともあって、清盛、後白河院の両者の対立はいっそう深まっていく。

 反平家の機運が高まるなか、治承元年(1177年)3月に事件は起きた。のちの「鹿ヶ谷事件」の前哨戦とも言うべき「比叡山の強訴」である。ことの発端は、加賀守・藤原師高の弟で目代(国守に代わって現地に赴任する代官)を務める藤原師経が白山中宮の末寺・湧泉寺(ゆうせんじ)とイザコザを起こし、師経が末寺を焼き払ったことにあった。怒った白山衆徒は本寺である比叡山に訴え、これを受けた延暦寺の山門衆徒は師高・師経の解官と配流を求めて強訴の挙に出る。だが、師高・師経は後白河院の側近中の側近・西光の息子であったため、後白河院は師経だけを罰して事態を収拾しようとした。西光という人物は、もとは信西の家人で俗名を藤原師光といったが、信西が死んだのち出家して後白河院に仕え、「法皇第一の近臣」と言われるまでのし上がった人物である。

 しかし、延暦寺側は後白河院の処分に納得せず、4月13日には七基もの神輿を担ぎだして高倉帝の閑院内裏に押し寄せた。このとき、内裏を警備していた平重盛の軍兵の放った矢が神輿のひとつに命中し、延暦寺の衆徒にも死傷者がでる事態に発展した。怒った大衆は神輿を放置して帰山。しかし、武力攻撃を命じたのが後白河院自身であったということを知った大衆は、ふたたび強訴を行う姿勢を見せる。やむなく朝廷は祇園社に神輿を預けて対応を協議、師高の尾張国への配流を決定し、神輿に矢を射た重盛の家人を監獄へ送った。結局は大衆の要求を全面的に受諾することで事件は決着する。

 この事件に際して、平清盛と延暦寺が何らかの気脈を通じたいたという見方はあるようだが、師経が白山の末寺と起こしたイザコザまでもが清盛の仕組んだことだったというのは、ドラマの創作だろう。師経と延湧泉寺とは、かねてから所領問題でもめていたようだ。ただ、この事件の2ヶ月後に起きた「鹿ヶ谷事件」は、清盛が反平家勢力を一掃するために仕組んだ演出だったという見方が強い。おそらくはその伏線として、本話の設定となったのだろう。

「当人同士の思惑に関わりなく、たまたま出た目に突き動かされるが、双六というもの。おのれの番が巡って来た時に、よりよい目を出すよりほかに、勝つ道はござりませぬ。」
 乙前が後白河院に対して言った台詞。清盛と後白河院の出した賽の目の行方は・・・?
「賽の目は、目まぐるしく変わるものぞ・・・あがりじゃ。」
 このときの清盛の政治力は、たとえ相手が治天の君であっても敵ではなかった。あるいは賽の目さえ自在に操れたのかもしれない。



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by sakanoueno-kumo | 2012-10-22 23:21 | 平清盛 | Comments(0)  

KOBE de 清盛 史跡めぐり その3

その2で紹介した清盛塚から歩いて4〜5分の場所にある能福寺に、平清盛の墓と伝わる「平相国廟」があります。
e0158128_1342182.jpg清盛と能福寺の縁は、治承4年(1180年)の福原京遷都にともない清盛が能福寺で剃髪入道(浄海)し、平家一門の祈願寺に定められ大伽藍が建設され八棟寺と称されたそうです。
養和元年(1181年)に死去した清盛は京都で荼毘にふされ、その後この寺の住職・圓實法眼が清盛の遺骨を持ち帰り寺領内に葬ったと伝えられています。
その後、平家の滅亡により能福寺と共に「平相国廟」も灰燼に帰したそうですが、約100年後の弘安9年(1286年)、時の執権・北条貞時が平家一門の盛衰を哀れみ、石塔を建て清盛の霊を弔ったと伝えられています。
その2で紹介した「清盛塚」と同じ伝承ですね。
どちらかが本物でもう一方は間違いなのか、あるいはどちらも同時期に建てられたのか、定かではありません。
というのも、ここ能福寺は暦応4年(1341年))兵火により全焼したといわれていおり、その後、慶長4年(1599年))長盛法印によって再建されたと伝えられています。
現在ある「平相国廟」は、平清盛の800年忌を迎えるに際して、昭和55年(1980年)に再建されたものです(中央に建つ「十三重石塔」は、貞時が建設した当時のものだとか)。

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「平相国廟」の復興に伴い、「十三重石塔」の右側に、かつて能福寺の住職で清盛剃髪出家の師匠である圓實法眼を弔った「圓實法眼宝篋印塔」、左側には清盛の弟・平教盛の長子で圓實法眼の弟子であり、かつて能福寺の住職であった忠快を弔った「忠快法印塔(九重塔)」も同時に建てられたそうです。
これら両印塔は、いずれも鎌倉時代に作られたものだと伝わっています。

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実際には、清盛の遺骨はどこに埋葬されたのでしょうか?
『平家物語』「入道死去」『吾妻鏡』の記述によると、臨終直前の清盛は、自分が死んだ後は播磨山田の法華堂(神戸市垂水区)に埋葬するよう遺言を残しており、また、京都に立派な堂塔を建てたり、盛大な仏事を行ったりしてはならないと命じていたそうです。
法華堂は現存しませんが、播磨山田の地は明石海峡に面した風光明媚な場所で、おそらくは清盛が何度も船から眺めた地であり、平家にとって海陸の拠点のひとつであったと考えられています。
ところが、どういうわけか後継者となった平宗盛(清盛の三男)は、父の遺言を忠実に実行していません。
「入道死去」の記述によれば、宗盛は清盛の遺体を愛宕(京都市右京区)で荼毘にふした後、摂津の経ヶ島(神戸市兵庫区)へ埋葬したといいます。
経ヶ島とは清盛が大輪田泊を整備した際に、風浪を緩和するために築かれた人工島です(大河ドラマで兎丸が監督していた事業ですね)。
経ヶ島が築かれた詳しい場所はわかっていませんが、この説に基づいて、この付近の「清盛塚」「平相国廟」の伝承が後世に受け継がれてきたのでしょう。
それにしても、宗盛がなぜ父の遺言どおりに遺骨を法華堂に埋葬しなかったのかは謎です。
まあ、そもそもそんな遺言があったかどうかも定かではないですけどね。

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ちなみに清盛の墓碑と伝わるものとしては、京都市東山区にある六波羅密寺の境内にも存在するそうです。
六波羅密寺は清盛の父・平忠盛が堂宇を寄進した寺院であり、清盛の遺骨が埋葬されたとしても不思議ではありません。
ただし、だとすれば寿永2年(1183年)の平家都落ち以降は、そのままにしておくと源氏方の手で墓を暴かれる可能性があったでしょう。
事実、清盛の嫡子・平重盛の遺骨は都落ちの前後に平家側近の手によって掘り出され、紀伊高野山へ改葬されたとも伝わります。
あるいは清盛の遺骨も、都落ちの際に宗盛らの意向で掘り出され、どこかに改葬されたかもしれませんね。

「平相国廟」の隣には、「平家源氏将兵戦没者五輪供養塔」というものがありました。
説明看板のようなものがなかったため詳しいことがわからないのですが、これも鎌倉時代のもののようです。↓↓↓

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あと、清盛には関連しませんが、ここ能福寺に鎮座する兵庫大仏(胎蔵界大日如来像・毘慮舎那仏)を、ついでに紹介します。

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兵庫大仏は、兵庫港開港以来急速に増えたキリスト教信者に危機感を抱いた仏教徒らが、キリスト教に対抗して仏教徒のシンボルとなる大仏建立を進めたといいわれており、明治23年(1891年)に豪商・南条荘兵衛の寄進により建立されました。

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この兵庫大仏は身丈(像高)11m、重量約60t、蓮台高3m、台座高4m、総高18mあり、奈良の大仏(東大寺・蘆舎那仏)、鎌倉の大仏(長谷高徳院・阿弥陀如来)と並んで日本三大仏に数えられています。

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大仏座の下には永代祠堂があり、ここに安置されている十一面観世音菩薩立像は平安朝初期に作られた檜の一木造りで、滋賀県甲西町善水寺から請来したと伝えられ国の重要文化財に指定されています。
なかなか精悍な顔ですね。↓↓↓

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昭和19年(1944年)、第2次世界大戦金属回収令で兵庫大仏は解体されて国に供出され、また、翌年3月の神戸大空襲によって伽藍は全焼してしまいましたが、大仏建立100年目の平成3年(1991年)に再建されました。
金属回収の際、大仏の胎内に納められていた胎内仏は供出されることなく保存され、大仏が再建されたとき再び胎内に納められたそうです。

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日本三大仏といっても、他のふたつに比べてずいぶんと歴史は浅いものですけどね。

そんなこんなで、この辺でひとまず「KOBE de 清盛 史跡めぐりシーリズ」を終わります。
ただ、神戸にはまだまだ平家ゆかりの史跡が数多くありますので、折りをみてまた紹介出来たら、と思っています。

KOBE de 清盛 史跡めぐり その1
KOBE de 清盛 史跡めぐり その2


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by sakanoueno-kumo | 2012-10-17 18:37 | 神戸の史跡・観光 | Comments(0)  

平清盛 第40話「はかなき歌」

 承安元年(1171年)に平清盛の娘・徳子高倉天皇(第80代天皇)に入内して以来、後白河法皇(第77代天皇)の院政を平家が支える安定した政権運営が続いていた。嘉応元年(1169年)に起きた「嘉応の強訴」以来(参照:第36話)、清盛と後白河院の関係に暗雲が立ち込めはじめた観は否めなかったが、それでも清盛はその後もたびたび法皇を福原の千僧供養に招いたりして、表面上は蜜月ぶりを演出した。ドラマにもあったように、承安4年(1174年)には法皇が建春門院滋子とともに厳島に参拝した。厳島に治天の君や女院が赴くのは前代未聞であり、これにより厳島の権威は飛躍的に高まったと考えられている。

 そんな中、安元2年(1176年)3月には後白河院の50歳を祝う賀宴が行われた。この宴では清盛以下、平家一門をあげて法皇の50歳を祝い、これを受けた法皇は「此度の御賀に、一家の上達部、殿上人、行事につけても、殊にすぐれたる事おほし。朝家の御かざりと見ゆるぞ」と、特別に院宣を下して平家一門の働きを褒めたたえたという。清盛の孫・平維盛が青海波(舞楽の曲名)を華麗に舞って、「光源氏の再来」とたたえられたのはこのときである。

 しかし、平家と法皇の蜜月はこの催しまでだった。この賀宴からわずか3ヵ月後の6月に滋子が病に倒れ、法皇直々の看病も虚しく7月8日にこの世を去った。35歳という若さだった。死因はニ禁(にきび)と呼ばれる悪性の腫れ物が胸部に出来たためといわれている。今で言う乳がんのような病気だろうか?

 滋子が崩御すると、平家と後白河院をとりもつ人物がいなくなり、両者の関係は急速に悪化しはじめた。そもそも後白河院と清盛は、滋子の産んだ高倉天皇の擁立という点で利害が一致していただけで、治天の君である法皇にとっては、福原にいながらにして政界に隠然たる影響力をもつ清盛の存在は煙たいものだったに違いない。院近臣の間では、平家一門が権勢をバックに高位高官を占めることに対して、不満がつのる一方だった。その衝突を抑止して調整役を果たしていたのが滋子だったのである。滋子の死により、今まで隠されていた対立が一気に表面化することになった。

 安元3年(1177年)1月、平重盛が左近衛大将、平宗盛が右近衛大将になり、両大将を清盛の息子二人が占めたのは平家の栄華を象徴するものとなった。大将の地位を狙っていた藤原成親をはじめとする院近臣たちにとっては、面白いはずがない。そんな彼らによって引き起こされた打倒平家の陰謀「鹿ヶ谷事件」が起こるのは、滋子の死からわずか1年後のことだった。


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by sakanoueno-kumo | 2012-10-15 01:12 | 平清盛 | Comments(0)  

WBC参加は野球先進国である日本に課せられた使命。

来年3月に開催される第3回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)日本代表監督に、元広島カープ監督の山本浩二氏が正式に決まりましたね。
今回のWBCへの参加や代表監督選考を巡っては日本プロ野球界でなかなか気持ちがひとつになれずにすったもんだしていましたが、ようやくスタートラインに立てたといったところでしょうか。

大会参加については、昨年の時点で先に出場を表明したンNPB(日本プロ野球機構)と、大会の収益分配見直しなどを主張した日本プロ野球選手会が対立し、一時は選手会がWBC不参加を決議する事態になりましたが、主催者側から代表スポンサー権が条件付きながら認められたことで選手会が不参加決議を撤回、何とか出場できるに至りました。
この件に関していえば、選手会の主張はわからないでもないですが、野球ファンが置き去りになっている感は否めなかったですね。
選手会というのは労働組合のような組織だと思うので、選手側の立場に立って主張するのは当然のことかもしれませんが、2004年のプロ野球再編の際にストライキに踏み切ったときや、昨年の東日本大震災に伴う開幕延期の際には、選手会の主張は単に選手の利益・不利益のみの観点ではなかったはずです。
だから、世論と一体になれたんですよね。

サッカーのワールドカップと違って野球のWBCはまだまだ創成期
オリンピックの競技から除外されるなど、世界的に見ればマイナーな競技である野球を広く普及させるというのが、このWBCの大きなテーマのひとつだったはずです。
そのために野球先進国である日本がその一端を担うのは、当然の使命だと思います。
創成期であるがゆえに、システムに問題点があるのも否めないでしょう。
だから参加しない・・・では、第1回、第2回の覇者としてはあまりにも無責任であり、幼稚な態度といわざるを得ません。
だいいち、選手会にメジャーリーガーは所属していないわけで、彼らの出場権を奪う権利など選手会にあってはならないでしょう。
参加・不参加の決定権はNPBにあるべきで、そのNPBが参加を決定した限り、どうあれ選手は従うべきだと思います。
今回のことを踏まえて、次回以降の決定権の所在をはっきりさせておく必要があるでしょうね。

続いて揉めたのが監督人事でした。
当初NPBは、現役監督では負担が大きすぎるとの理由からOBに視点を向けたものの人選が進まず、再び現役監督から選ぶ方針に逆戻りしました。
そして、前年度日本一の福岡ソフトバンクホークス・秋山幸二監督に打診したものの、王貞治特別顧問の説得にも秋山監督は頑なに固辞、暗礁に乗り上げた状態となっていました。
この点で思い出されるのは、4年前の監督人事のときですね。
あのときも、第1回大会で世界一に導いた王貞治氏が体調面を理由に辞退したことから事態は紛糾し、一時は北京五輪の日本代表監督を務めた星野仙一氏で内定したという報道があったものの、「WBCは北京の雪辱の場ではない」というイチロー選手の海の向こうからの苦言から、人事は再び暗礁に乗り上げ、結局は前年度日本一の監督だった原辰徳氏に落ち着いたという経緯がありました。

日本代表の監督といえば野球人としては最高の誉れで、断る理由などどこにもないように思うのですが、なまじっか連覇など成し遂げてしまっているだけに、たいへんな重圧のかかる大役となってしまい、よほどの自信家かKYでなければ敬遠する気持ちもわからなくもないです。
もし3連覇を成し遂げたら英雄になれますが、3連覇を逃したら自身の指揮官としての株を下げることになりかねないですからね。
いってみれば、貧乏くじは引きたくない、という・・・。
あと、現役監督に関していえば、自軍のキャンプを代行監督に委ねるなど、確かにリスクが大きくハードでもありますからね。
でも、誰かがやらねばならない
毎回このような事態になることを避けるためにも、明確な規定を作るべきでしょうね(その意味では、私は前年度日本一の監督が代表監督を務め、もう一方のリーグ優勝監督が補佐するというのが、もっともわかりやすいと思いますけどね)。

で、第3次「サムライジャパン」を率いることになった山本浩二監督ですが、巷では広島の監督退任から7年、北京五輪のコーチからも4年というブランクから不安視する声があがっています。
なかには、北京五輪の戦犯扱いの声も・・・。
戦犯云々は見当違いにしても、ブランクという点でいえば不安材料であるのは否定できません。
でも、じゃあブランクが3年だったら?
2年だったら大丈夫だけど3年だったら不安?
であれば、何年までが許せるブランクで何年からがアウト?・・・などなど、つまるところそれも不明瞭な基準であって、それを言い出せば結局は現役監督でなければ・・・ということになります。
ともあれ、誰かがやらねばならないところを、覚悟を決めて引き受けてくれたのだから、野球ファンとしてはツベコベ言わずに応援すべきではないでしょうか。

さて、11月のキューバとの親善試合に向けてこれから選手の招集に入ると思いますが、4年前の名古屋のチームのように、打算的な理由で出場辞退なんて選手(あるいは球団)が出てこないことを願っています。
先にも述べましたが、WBCへの協力は野球先進国である日本に課せられた使命だと思いますから・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2012-10-12 16:29 | プロ野球 | Comments(4)  

鉄人・金本知憲選手が引退。~今日しか来られないファンのために~

阪神タイガースの鉄人・金本知憲選手が引退しましたね。
残念ながら仕事が忙しかったため、引退試合の中継をリアルタイムで観ることはできませんでしたが、私は阪神電車で通勤しており、残業を終えて帰宅の途につくため電車に乗り込むと、背番号「6」のタテジマのユニフォームやハッピを着た甲子園球場帰りの大勢の阪神ファンたちと乗り合わせ、それを見て思い出しました。
あぁそっか、そういえば今日が引退試合だったんだ・・・と
で、23時過ぎに帰宅してからすべてのチャンネルのスポーツニュースをハシゴし、さらに深夜に放送していた金本選手引退記念特番を観て、こんな時間になっちゃいました(ただいま深夜2時半)。

スタメン4番レフトで出場した引退試合は、4打数1安打1盗塁
残念ながら期待されたホームランや長嶋茂雄氏の記録にあと1と迫っていた打点は叶いませんでしたが、トリプルスリーを達成した広島カープ時代を彷彿させる抜群のスタートの盗塁や、ホームタッチアウトにはなったものの2塁からの全力疾走した姿は、常に全力プレーにこだわっていた金本選手らしい引退試合だったといえるのではないでしょうか。

そして引退セレモニー。
平易な言葉で、肩肘をはらずに、カッコつけずに、いかにも金本選手らしい挨拶でしたね。
「野球の神様、ありがとう!」
古い野球ファンなら周知のことですが、金本選手は入団当初から将来を嘱望されたエリート選手ではありませんでしたし、レギュラーに定着する道のりも決して速くはありませんでした。
彼がこれほどまでの実績を残す選手に成長するとは、当初はほとんどの人が思ってなかったでしょうし、金本選手本人も思ってなかったんじゃないでしょうか。
その意味での、「野球の神様、ありがとう!」だったのでしょうね。
金本選手の実直で真摯な人柄が満ちた言葉だったと思います。

金本選手の通算成績は2578試合に出場し、歴代7位となる2539安打歴代8位となる1521打点、それにホームランは歴代10位となる476本でした。
1492試合連続フルイニング出場の世界記録は今さら語るまでもないでしょうし、自身が引退発表会見のときに最も誇りに思うと語っていた1002試合連続無併殺という日本記録も、おそらくそう簡単に破られることはないでしょう。
まぎれもなく日本プロ野球史に燦然と輝く大打者となった金本選手ですが、彼の魅力はそういった数字の記録よりも、野球に対するひたむきさストイックな姿勢にあると思いますし、そこが後輩選手たちからリスペクトされるところですよね。
144試合のうち1試合たりとも手を抜かない・・・。
なぜそこまで金本選手が全力プレーにこだわるのか・・・最後に、彼の著書『覚悟のすすめ』の中から引用します。

「一年のうち今日しか来られないファンもいる。僕はそういう人のためにフルイニング出場を続けるんです。」

金本選手、あなたはまぎれもなくプロ中のプロでした。
21年間、お疲れさまでした。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121009-00000007-spnavi-base


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by sakanoueno-kumo | 2012-10-10 03:09 | プロ野球 | Comments(2)  

平清盛 第39話「兎丸無念」

 『平家物語』巻一の「禿髪」によると、平清盛が栄華を誇っていたとき、14歳から16歳までの少年を300人集めて、赤い直垂(ひたたれ)を着せて都中に放ったという。少年たちは髪を切り揃えたままで束ねていなかったため、「禿髪(かぶろ)」と呼ばれた。こういったおかっぱのような髪型の少年は、宗教的に神聖な存在と考えられていたらしい。そして、平家の悪口をいう者がいれば禿髪は徒党を組んで家へ乱入し、家財道具を没収した上で、その者を逮捕して六波羅へ連行したという。都人たちはこれを恐れて平家に対する不満を一切口にしなくなった。禿髪を見かけると牛車馬車も道を譲り、御所の諸門を守る門番でさえ禿髪をフリーパスで通すようになったとも伝えられる。平家の恐怖政治を象徴するエピソードである。

 この禿髪については『平家物語』のみに記されている逸話で、事実かどうかは定かではない。そもそも同物語巻一の「禿髪」は、平家による強権政治を象徴的に物語った章段であり、清盛の義弟・平時忠「平家にあらずんば人にあらず」と放言したとされる逸話も、この章で紹介されているエピソードである。史実としては清盛が都中に密偵を放って反平家勢力を弾圧したという裏付けはない。だいいち、禿髪頭に赤い直垂といった目立つ格好で密偵が務まるとはとても思えない。清盛独自の諜報部隊は存在していたかもしれないが、それが禿髪だったというのは『平家物語』の創作だと考えてよさそうだ。

 そんな禿髪の逸話が生まれた背景には、清盛が応保元年(1161年)から1年8ヵ月に長期間にわたって検非違使別当に任じられていたことに関係があると考えられている。検非違使別当とは、今で言う警察庁長官である。検非違使は犯罪者の追捕だけではなく、諜報員を操って情報収集にもあたった。その諜報員の中には、犯罪を犯して刑罰を受けたのち出獄した前科者や、少年たちも含まれていたという。もっとも、それは清盛が別当だったときのみ行われていたことではなく、検非違使としては当然の職務だった。

 ただし、このころ検非違使は平家によって掌握されていたのは確かだった。実際に犯罪者を追捕するのは検非違使尉(判官)だが、その多くが平家の有力家人に独占されていたという。さらに注目すべきは、平時忠が検非違使別当に3回も就任していることだ。同一人物が別当に3回も就任した例は歴史上初めてのことであり、九条兼実はその日記『玉葉』のなかで、「物狂いの至り」とまで酷評している。時忠の別当時代にはかなり強引な捜査が進められることもあったようで、今話のドラマより少し先の話だが、福原遷都が失敗に終わり京に還都してからは、反乱勢力の追討のために上級貴族への取締も厳しくなり、源頼朝に通じたと噂された貴族に対して、かなり強引な家宅捜索も行なっている。そんな風に、都の警察権力を一手に握った平家の権勢が、禿髪のような逸話を作る下地になったと言えそうである。

 元海賊の兎丸という男は本ドラマのオリジナルで架空の人物。したがって今話はほとんどがフィクションの回である。平成の物語で作られた架空の人物・兎丸が、800年近く前の物語で作られた架空の少年たち・禿髪に殺されるという設定は実に秀逸だった。兎丸という人物を登場させたときから、この最期を想定していたのだろうか・・・? 若き日の清盛が互いに夢を語り、40年近くも清盛の右腕として過ごしてきた兎丸を、“おごる平家”の象徴とも言うべき禿髪に殺させたのは、この後の平家の行く末を予見させるものといえるだろうか・・・。

 「今のわしは、白河院のようだと言いたいのか? ・・・わかるまい・・・お前にも、兎丸にも・・・誰にも」
 腹心である平盛国に諌められ際に言った清盛の台詞。
 「全ては殿が邁進するために起こったこと。どれだけ欲しても兎丸は戻りませぬ。それでも進みまするか? この修羅の道を」
 果たして清盛の邁進なのか・・・? あるいはその先に何かを見ているのか・・・?
 「そちはまだ知らぬ。のぼり切ったその果ての景色を・・・」
 第34話で白河法皇が言ったように、位人臣を極めた清盛は、その果ての景色を見ているのかもしれない。そこに何があるのか・・・。今後の展開を楽しみにしたい。


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by sakanoueno-kumo | 2012-10-08 02:20 | 平清盛 | Comments(0)  

平清盛 第38話「平家にあらずんば人にあらず」

 もはや朝廷における地位は盤石になりつつあった平清盛の次なる目標は、自身の血を分けた娘・徳子(のちの建礼門院)の入内であった。幸いにも先ごろ元服した高倉天皇(第80代天皇)の生母は清盛の義妹・建春門院滋子であり、清盛からみれば帝は義甥にあたる。そして入内した徳子が皇子を産めば、清盛が天皇の外戚になるのである。『愚管抄』によると、清盛が「帝ノ外祖ニテ世ヲ皆思フサマニトリテント」という望みを抱いたと記されている。代々、天皇家の外戚として政権を掌握してきた藤原摂関家が力を失いつつある今、新興勢力として平家が外戚になろうとする野望は自然のなりゆきだったといえるだろう。

 しかし、いかに政界を牛耳っていた清盛といえども、天皇家への輿入れとなると簡単にはいかなかった。ドラマにあったように、麝香など宋から輸入した珍しい品や動物を後白河法皇(第77代天皇)に献上したり、また法皇から馬を拝領した際、自ら手綱をとって臣下の礼をとったりと、治天の君の気を引くパフォーマンスを繰返した。後白河院にとっても、自身の政治基盤の強化のためには清盛の協力が不可欠だと考えていた。おそらくは、建春門院滋子の強力な後押しもあっただろう。そして承安元年(1171年)12月、徳子の入内が実現した。出家した清盛に代わって平重盛が父親役となり、さらに泊をつけるために後白河院の猶子とされたうえで、高倉帝に入内し、翌年、中宮に立てられたのである。徳子17歳のときだった。

 こののち徳子が産んだ皇子が即位すれば、清盛はいよいよ天皇の外戚になる。清盛の狙いがそこにあったのは明々白々だが、この清盛の婚姻政策がかつての摂関政治の焼き直しであり、のちの鎌倉幕府と違って平家政権は貴族的な古い政治だとする評価もある。しかし、院政が定着していたこの当時、天皇の外戚であることと政治の実権はすでに無関係といってよく、摂関政治のような政治形態が時代遅れであることを清盛は重々承知していたはずだ。清盛にとって徳子の入内は、最高権威である天皇の身内になることで、平家の権威を高める狙いに過ぎなかったと思われる。事実、鎌倉幕府樹立後の源頼朝も、晩年には娘の大姫を入内させようと血眼になったが、術策にたけた貴族たちにいいようにあしらわれて失敗した。逆に言えば、幕府樹立後の頼朝ですらかなわなかった入内を実現させたこのときの清盛の政治力が、並々ならぬものであったといえるだろう。

 清盛の義弟・平時忠が発言したと伝わる「平家にあらずんば人にあらず」。この言葉は言った時忠本人以上に知名度があり、時忠からひとり歩きして、いわゆる“おごる平家”の象徴のような言葉として人口に膾炙されてきた。この発言のオリジナルは『平家物語』に記されている、「此一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし」というもの。ただ、ここでいう「人」とは、いわゆる「人間」という意味ではなく、「しかるべき官職につける人」という意味のようだ。つまり、「平家にあらずんば人にあらず」を直訳すれば、「平家の者でなければ人間じゃない」と解釈しがちだが、実際には「平家の者でなければ要職に就けない」といった意味のようで、現代でいえば、「〇〇派でなければ大臣にはなれない」といったニュアンスの言葉だったようである。解釈次第でずいぶんと印象が違ってくる。しかし、たとえそうであったとしても、この放言は貴族内で大いに反感を買ったようで、平家一門のおごりととられても仕方がない浅はかな発言だったといえるだろう。この言葉を聞いた清盛は、きっと眉をしかめていたに違いない。


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by sakanoueno-kumo | 2012-10-01 02:04 | 平清盛 | Comments(2)