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平清盛 第46話「頼朝挙兵」

 「以仁王の乱」祇王仏御前の逸話については、全話の稿でほとんど述べてしまったため(参照:第45話その1その2)、今回は福原遷都について。

 平家の軍事力によって「以仁王の乱」は、発覚から10日あまりという短さで鎮圧されたが、この乱が銃爪となってか、平清盛はある大きな決断をした。鎮圧から4日後の治承4年(1180年)5月30日、とつじょ安徳天皇(第81代天皇)の福原行幸が発表されたのだ。世にいう「福原遷都」である。いうまでもなく福原には清盛の別荘があり、その近くには清盛の手によって大輪田泊が整備されている。福原は清盛の街といっても過言でなく、その地に都を移すということは、清盛が名実ともに人臣の頂に立ったということだった。当初、安徳帝の行幸は6月3日に予定されていたが、遷都に反対する声がくすぶっていたためか、予定より1日早い6月2日、安徳天皇以下、高倉上皇(第80代天皇)、後白河法皇(第77代天皇)、平家一門や公卿たちとともに福原に向かった。

 しかし、「遷都」と呼ぶにはあまりに衝動的で無計画なものだったようで、安徳帝は清盛邸、高倉院は清盛の弟・平頼盛邸が仮の御所に充てられ、随行した人々は宿所が足りず、路上に座り込むありさまだったいう。本来であれば、新都を整備したうえで天皇の行幸を仰ぐのが遷都の手順であろうが、清盛の行った遷都は、まず天皇の移住ありきで、そののち新都を建設しようという、これまでの清盛らしからぬ無計画なものだったようだ。そんな状態であったため、遷都に対する反対派の声は日増しに大きくなっていった。新都の建設地も二転三転し、迷走のすえ、ようやく結論が出たのは1か月半後。とりあえず平安京を残したまま福原をしばらく皇居とし、道路や宅地を開発していくという路線に落ち着く。遷都を進めたい清盛と、平安京を維持したい反対派の双方の顔を立てる妥協的な結論だった。

 清盛がなぜ遷都に思い至ったかについては、さまざまな理由が考えられるが、一番の狙いは、平家の血を引いた安徳天皇を始祖とする「新王朝」の幕開けを見据えてのことだったのだろう。京都が都である限りは、摂関家藤原氏をはじめとする公家を無視して国政を運営することはできず、また、興福寺東大寺延暦寺といった大寺院の影響力も大きい。こういった点を勘案した清盛は、「新しい時代の国政を展開するには、遷都以外に道はない!」・・・そう考えたのではないだろうか。当然、激しい反発は予想していただろう。なんといっても平安京には、古より継承された歴史と伝統が刻み込まれている。しかし、清盛にとってその伝統は、武士が貴族の武力として利用され続けた屈辱の歴史でしかなかったのだろう。ドラマの表現を使えば、「王家の犬」の歴史である。平安京の歴史は貴族の歴史であり、清盛の目指した「武士の世」を作るには、歴史と伝統は悪しき旧弊でしかなかった。清盛の目指した遷都は、旧弊を払拭した新しい国家体制を宣言する・・・そのためには、遷都という荒療治が必要だったのだろう。ただ、計画があまりにも衝動的でずさんすぎた。

 桓武天皇(第50代天皇)により建都されて以来、380年以上日本の都として栄えた京都を捨て、辺鄙な福原に遷都したことを、『平家物語』「平家の悪行の極み」と評している。遷都の着想自体が悪行だったかどうかはわからないが、もし悪行だとするならば、計画のずさんさにあっただろう。清盛は何を焦っていたのだろうか・・・。

 「助けてくれ・・・誰か、助けてくれ・・・。暗闇ばかりじゃ・・・ここからの眺めは。果てしない・・・暗闇。手に入れても手に入れても、光は・・・光には・・・届かぬ・・・。」

 上りきったその果ての景色とは、どうやら孤独の暗闇だったようだ。孤独が清盛を狂気にさせた・・・? 古今東西、多くの独裁者がたどり着いたであろう境地に清盛も立っていた。頂に立つ者の孤独は、頂に立ったことのある者にしかわからないのだろう。


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by sakanoueno-kumo | 2012-11-26 20:45 | 平清盛 | Comments(2)  

越前北ノ庄なう!

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ケータイからの投稿です。
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ただいま福井県は福井市にいます。
写真は北ノ庄城の復元模型。
北ノ庄城といえば、あの織田信長の妹・お市の方が、2人目の夫・柴田勝家と共に最期を遂げた場所として有名ですね。
勝家は天正11年(1583年)の「賤ヶ岳の戦い」豊臣秀吉に敗れ、妻のお市と共に自害して果てますが、その際、城には火が放たれ、建造物のほぼ全てが焼失してしまったため、いまでは本丸の正確な位置もわかっていません。
写真の模型は本丸の推定位置とされている柴田神社に展示されているもので、この城跡を柴田公園と称して観光スポットになっています。
といっても、今日の私は観光のために福井を訪れたわけではなく、出張で来ているのですが、せっかくなので仕事の合間を縫って足を運びました。
残念ながら夜になっちゃったので、写真じゃわかりにくいですけどね。

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柴田勝家の銅像です。

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いかにも「鬼柴田」と呼ばれた勇猛果敢な戦国武将の面構えですね。

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こちらはお市の方です。
戦国時代一の美女といわれたお市の像は、どこか寂しげな顔をしていました。

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そんなお市を霊を慰める慰霊碑です。

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お市の娘たち、お茶々、お初、お江です。
昨年の大河ドラマ『江~姫たちの戦国』で活躍した三姉妹ですね。
夜のバカチョンカメラでの撮影なので、ちょっと不気味な写真になっちゃいました(苦笑)。

今日、私は神戸から車で福井を訪れたのですが、北陸自動車道を走ってみて、あらためて勝家がなぜ秀吉に勝てなかったかがわかったような気がしました。
名神高速から北陸道に入ってすぐのあたりに長浜市がありますが、そこから高速を約1時間北上したところが福井市で、その間ずっとトンネルに次ぐトンネルで、ほとんどが山岳地帯でした。
天正10年(1582年)6月の清州会議から半年後の同年12月、越前にいる勝家が雪で動けないと見た秀吉は、勝家の甥である柴田勝豊の居城・長浜城を攻めて降伏させますが、なるほど、これほど険しい道程であれば、勝家が動けなかったのも頷けます。
長浜と越前は、現在では北陸道で約80キロほどの距離。
車でたかだか1時間ほどで移動できちゃいます。
もし、勝家の時代に北陸道があれば、歴史は大きく変わっていたかもしれません。

ちなみに今日の私は西宮から名神高速にのって、秀吉軍が明智光秀を下した「天下分け目の天王山」でお馴染みの天王山トンネルを抜け、京の都を横目で見ながら、彦根、長浜を通り過ぎ、越前は北ノ庄を訪れました。
その間、約3時間半の戦国ツアーでした。


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by sakanoueno-kumo | 2012-11-24 20:00 | 福井の史跡・観光 | Comments(2)  

平清盛 第45話「以仁王の令旨」 その2

 平清盛悪人イメージを決定的に定着させる役割を果たしているのが、『平家物語』のなかの「祗王」の章の逸話である。物語よると、都で評判の白拍子だった祗王・祗女の姉妹が清盛の目に止まり、姉の祗王は清盛の邸に迎えられて寵愛を受けるようになった。清盛は二人の母親・とじにまで家を与え、手厚く面倒をみたという。清盛に見染められた祗王の名声は高まり、彼女にあやかろうと「祗」の字をつけた白拍子が急増したとか。祗王の存在は、当時の白拍子たちの憧れともいうべきシンデレラ・ストーリーだった。

 ところが、それから3年ほどたったころ、加賀生まれの16歳で名を仏御前という白拍子が現れた。たちまち都の売れっ子白拍子となった仏御前は、今をときめく祗王に対向すべく自ら清盛のもとを訪れたという。しかし清盛は「遊び女は呼ばれてから来るものだ。祗王がいる以上、神も仏も出入りは無用、さっさと帰れ」と追い返そうとした。しかし、それを見て同情した祗王が清盛に掛け合い、それならばと仏御前を招いて舞わせたところ、祗王に勝るとも劣らない芸達者だったという。清盛はたちまち仏御前に心を移し、邸にとどめようとする。しかし仏御前は、「祗王御前のとりなしで舞を観ていただいたのに、邸に召し置かれたら祗王御前に申し訳がたちません」と固く拒んだ。すると清盛は、「祗王をはばかるのならば、祗王を追いだそう」といって祗王を邸から追い出してしまったという。

 しばらくは母とともに都にとどまっていた祗王だったが、その後も「仏が退屈そうだから」といって邸に呼びつけられて仏御前と清盛の前で舞わせられるなどの屈辱を受け、やがて世の無常を悟った祗王・祗女の姉妹は髪を剃ってとなり、嵯峨野の奥に庵をむすんで母とともに念仏三昧の日々を送った。祗王21歳、祗女19歳だった。ところがその年の秋、驚くことに仏御前までもがその庵を訪れた。彼女は「いずれ自分も同じ身になると思うと、嬉しく思うことはなかった。娑婆の栄華は夢のまた夢、むなしいだけだ」といい、かぶっていた布をとると既に尼姿となっていた。それから4人は一緒に念仏を唱えながら日々を送り、いずれも往生を遂げたといわれている。

 この逸話が実話かどうかという点においては、そもそも祗王や仏御前が実在の人物であるかどうかも確かな史料は確認できず、伝説の域を出るものではない。ただ、史実かどうかという以前の問題として、この逸話における清盛の描かれ方はひどいものである。『平家物語』における「祗王」の章段は、ひとわたり平家の勃興と栄華が語られた後に、話の筋とは関係なく唐突に現れる。また、伝本によっては章の置かれている場所が違っていたり、載せていないものもあったりする。そもそも『平家物語』は事実を曲げてまで清盛を悪人に仕立てようとしている意図の物語であることは明確であり、この「祗王」の逸話も、仮にまったくの作り話ではなかったとしても、多分に虚構性の高いエピソードであると考えていいのではないだろうか。さらに言えば、寵愛していた遊び女を取り替えたり追い出したりすることが、当時の芸能者のパトロンである貴族社会でどれほどの罪悪だったのだろうか、という気もする。この逸話で清盛ひとりを悪人と評するのは、いささか短慮すぎやしないか・・・と。清盛にしてみれば、祗王の芸に惚れ込んでパトロンとなったが、それ以上に優れた仏御前の芸に魅せられ、祗王の支援をやめた。モーニング娘の追っかけをやめてAKBに乗り換えた・・・ただそれだけのことだったんじゃないか・・・と(笑)。


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by sakanoueno-kumo | 2012-11-23 23:58 | 平清盛 | Comments(0)  

平清盛 第45話「以仁王の令旨」 その1

 「治承三年のクーデター」を敢行して覇権を掌握した平清盛は、翌年2月には高倉天皇(第80代天皇)に譲位をせまり、孫の安徳天皇(第81代天皇)を即位させた。天皇には自身の孫が、上皇には義理の甥が、そして摂政には娘婿の近衛基通が就き、平家の縁戚で朝廷中枢を固める体制を確立した。いうまでもなく高倉院と基通は平家の操り人形にすぎず、事実上、清盛の独裁政治が始まったといえた。ただ、そんな清盛もその専制体制を強める段階でいくつかのミスを犯した。この政変によって失脚した後白河法皇(第77代天皇)の第3皇子・以仁王の領地を奪った点もそのひとつといえるだろう。

 清盛の義妹であり高倉帝の生母である建春門院滋子の妨害によって、親王の地位さえも得られぬまま成長した以仁王は、かねてから平家の専横に並々ならぬ反感を抱いていた。そんななか領地を奪われ、さらに翌年の春には甥の安徳帝が即位したことで、自らの皇位継承の道が完全に断たれたことを悟った以仁王は、これまで以上に清盛に敵愾心を抱くようになったに違いない。以仁王は打倒平家の令旨を諸国の源氏に発し、決起を呼びかけたのである。

 この決起に至る経緯にはいくつかの見方があって、『平家物語』によると、源頼政が以仁王に挙兵するよう説得したことになっている。これを受けた以仁王は熟慮の末に頼政のすすめに従った・・・と。ドラマで描かれていた、頼政の嫡男・源仲綱の所有する名馬「木下(このした)」平宗盛が欲しがり、強引に借り受けたまま二度と返さず、その馬の名前を「仲綱」と改めて尻に「仲綱」の焼印を押して、源仲綱に屈辱を味わわせたという話も『平家物語』の中にあるエピソードで、その恨みが頼政を平家打倒の挙兵に向かわせたと物語っている。いってみれば、社長のドラ息子が親の権力をかさに部下の息子のスポーツカーを借りパクして傷をつけたようなもので、この話が本当なら許し難い愚行である。

 しかし、頼政はこの2年前に清盛の推薦によって公卿に昇進し、しかもこのとき既に77歳にもなっていた頼政が、乾坤一擲の勝負に出るとは考えづらい。ドラマのとおり、以仁王に頼み込まれた頼政が、やむなく立ち上がったという見方のほうが真相ではないだろうか。いずれにせよ、以仁王の令旨には、自らを最勝親王と称し、自身を「壬申の乱」に勝利して即位した天武天皇(第40代天皇)になぞらえ、王権を我がものにした平家を倒して自らが天皇になる決意が述べられていた。

 結局のところ、この謀反はすぐに平家の知るところとなり、以仁王も頼政もあえない最期を遂げることとなる。結果的にこの一件だけみれば、彼らの起こした行動は平家にまったくダメージを与えられなかったが、この出来事きっかけに、源頼朝木曾義仲を始めとする反平家勢力が各地で勢いづくこととなる。その意味では、平家打倒の原動力となったという意味においては、以仁王の令旨は歴史的にみて実に大きな意義があったといえよう。


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by sakanoueno-kumo | 2012-11-22 23:57 | 平清盛 | Comments(0)  

平清盛 第44話「そこからの眺め」

 治承3年(1179年)、平清盛の身辺をふたつの悲劇が襲う。まずは6月17日、清盛の娘で前関白・藤原基実の未亡人である盛子(白河殿)がこの世を去った。奇しくも亡き夫と同じ24歳という若さだった。彼女は先に病没した清盛の義妹・建春門院滋子や、高倉天皇(第80代天皇)の中宮となり安徳天皇(第81代天皇)の生母となった建礼門院徳子と並んで、清盛の権力上昇に大きく貢献した女性だった。9歳で基実の継室となり、わずか11歳で未亡人になった薄幸の娘の死に(参照:第32話)、さすがの清盛もひとりの親として暗澹たる思いだったことだろう。

 ところが、そんな清盛の気持ちを逆撫でするかのように、後白河法皇(第77代天皇)は「内の御沙汰(天皇の命令)」と称し、盛子が亡き夫から相続していた領地を没収し、高倉帝の管理下に置いた。背後で糸を引いていたのは、関白・藤原基房だったようだ。摂関家領を我が子・藤原師家に相続させたいと考えた基房は、後白河院をそそのかして平家から領地を横領したのである。同時にこの措置は摂関家の後継者が師家であるというアピールでもあった。娘婿である近衛基通を摂政関白につかせるつもりだった清盛としては、この事態は受け入れられるものではなかった。

 さらに7月28日、清盛より平家の棟梁の座を継いでいた嫡子・平重盛が死去した。享年42歳。鹿ヶ谷事件以降、気力を失い臥せりがちだった重盛は、この年の3月の熊野詣の途中に吐血して倒れたという。死因は胃潰瘍とも脚気、腫瘍とも。幾度となくぶつかりながらも平家の後継者として最も頼りにしていた息子の死は、清盛にとって大きなショックだったに違いない。清盛を悪玉として描く『平家物語』ですら、さすがにこのときばかりは清盛に同情的で、子に先立たれた親の悲しみを代弁している。親が子を思う心は、いつの時代でも、たとえ清盛でも同じだろう。

 しかし後白河院は、またしても清盛の悲しみを逆撫でするかのように、重盛が10年以上知行国主を務めた越前国を没収して院の直轄地とし、近臣の藤原季能を越前守に任じた。さらに、『平家物語』によると、後白河院は重盛の喪が明けないうちから石清水八幡宮へ遊びに行き、嘆きの色さえ見せなかったという。長年に渡って後白河院に忠実に仕えた重盛の死に対して、まったく痛みを感じていない様子で、これは明らかに平家への挑発行為だった。これに激昂した清盛は10月14日、大軍を率いて摂津福原から上洛。15日には徳子と皇太子・言仁親王(のちの安徳天皇)を自邸に移し、二人を伴って福原に引き籠ると脅した。清盛の怒りの大きさに恐れをなした法皇は、すぐさま清盛のもとに使者を送り、今後は国政に関与しない旨を伝えた。しかし清盛は許さず、17日には太政大臣・藤原師長をはじめ、公卿、殿上人、院近臣など39名を解官、法皇を平安京南郊の鳥羽殿に幽閉した。そして、娘婿である近衛基通を関白・内大臣にすえ、大量解官によって欠員となった知行国主や受領に、平家一門や家人を任じた。世に言う「治承三年のクーデター」である。

 承久の乱に敗れた後鳥羽法皇(第82代天皇)のように島流しになったわけではないが、実質的には治天の君が臣下である清盛によって配流されたのも同然のことで、武力が朝廷の秩序を破壊した瞬間だった。この政変により、約13年続いた後白河院政は終わり、平家による独裁政治が幕を空ける。ここに、日本史上初の軍事政権が誕生し、いわゆる“武士の世”が訪れたといえる。まさしく人臣の頂にたった平清盛。そこからの眺めはどのようなものか? 白河法皇(第72代天皇)が言った、のぼりきったその果ての景色とは・・・? もうすぐ答えが見えてきそうだ。


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by sakanoueno-kumo | 2012-11-13 23:44 | 平清盛 | Comments(0)  

平清盛 第43話「忠と孝のはざまで」

 一週間遅れのレビューです。

 平清盛にとって娘の徳子高倉天皇(第80代天皇)の皇子を生み、天皇の外祖父になることが大きな願いであったが、徳子が入内してから2年、3年と過ぎても一向に懐妊の兆しはなかった。この結婚が朝廷と平家を結びつける重要な意味を持つことは高倉帝自身も承知のことだったが、いかんせん高倉帝はなかなかの女好きだったようで、次から次へと側女を作り、子どもまでもうけてしまう高倉帝の行動に(幸運にもみな皇女だった)、清盛は気をもんでいたに違いない。徳子の懐妊が知らされたのは、入内から7年が過ぎた治承2年(1178年)6月のことだった。

 徳子のお産はたいへんな難産だったらしい。出産に際しては、後白河法皇(第77代天皇)も一僧侶として祈祷に加わったという逸話も残っている。前年に鹿ヶ谷事件があり、清盛と後白河院の関係は修復不可能な程に悪化していたが、それでも皇子の出産をひたすら祈った後白河院の胸中は、どのようなものだったのだろう。一方の祖父である清盛はというと、ただうろたえるだけだったという。『平家物語』によると、一向に進まないお産に清盛は途方にくれ、人が何かを言っても「とにかくよきにはからえ」と言うのがやっとだったとか。やがて重衡が皇子出産の報を告げると、清盛は感極まって大声で泣いたという。いかに清盛がこの日を待ち望んでいたかがうかがえるエピソードである。皇子は言仁(ときひと)と名付けられ、翌月には早くも皇太子にたてられた。誰にとっても孫は可愛いものなのだろうが、清盛にとっては外祖父の地位が約束されただけに、ことのほか皇子が愛おしく思えたのだろう。

 後白河院を幽閉しようとする清盛に対して、嫡男・平重盛が涙ながらにその不忠を諌め、清盛を思い止まらせたという逸話は、『平家物語』に見られるエピソードである。ドラマでは言仁親王を皇太子に立てたあとに、「機は熟した」として法皇を捕らえるよう号令を発していたが、『平家物語』によると、鹿ヶ谷事件の際に怒りに任せて行おうとした暴挙として描かれている。臣下である清盛が法皇を幽閉するなどの不忠が許されるはずもないが、清盛のあまりの剣幕に圧倒され、平家一門だれひとり異を唱える者がいなかった。『平家物語』の「教訓状」によると、平家一門がみな甲冑に身を纏うなか、重盛はやや遅れて平服で伺候し、こう述べたという。
「悲しきかな、君の御為に奉公の忠を致さんとすれば、迷盧八萬の頂よりもなほ高き父の恩たちまちに忘れんとす。痛ましきかな、不孝の罪を遁れんとすれば、君の御為には、不忠の逆臣ともなりぬべし。進退これ窮まれり。是非いかにもたとえ難し。申請る所詮は、唯重盛が頸を召され候へ。」
(法皇に忠義を尽くそうとすれば親不孝となり、親不孝をしてはならないと思って行動すれば不忠者となってしまいます。進退は極まりました。もはや私の首をはねていただくしかありません。)


 この重盛の涙ながらの懇願に追い詰められた清盛は、自分の非を認めてほこを収めるしか術はなかった・・・というのが、『平家物語』に記されたエピソードで、ドラマでも採用されていた筋立てである。ただ、『平家物語』は清盛の暴君ぶりを誇張した物語で、その対比として重盛が必要以上に聖人君子として描かれているきらいがなくもない。実際に清盛は重盛の病没後に後白河院の幽閉を実行しており、その伏線として、清盛の横暴ぶりを際立たせるために作られた話だと見る人も多いようだ。ただ、このような重盛像は全くの虚像でもなく、『愚管抄』では「小松内府ハイミジク心ウルハシクテ」と述べられており、その他、当時の公家の日記などにも、重盛の人物を高く評価する記述が認められる。『平家物語』で見られるような聖人君子だったかどうかはわからないが、誠実で立派な人物ではあったようだ。

 ちなみに、このとき重盛が発した言葉、「忠ならんと欲すれば即ち孝ならず」は、明治維新以後の国定教科書に記載されることとなる。


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by sakanoueno-kumo | 2012-11-12 00:09 | 平清盛 | Comments(0)  

ブログ開設4周年と近況のご報告。

みなさん、こんばんは。
本来であれば、大河ドラマ『平清盛』第43話のレビューを起稿するところですが、現在めちゃめちゃ仕事が忙しくて連日深夜の帰宅で、土日もずっと休みがなく、それに加えて少々体調も崩してしまい(咳が止まらなくて声が出ません・・・泣)、録画したドラマもまだ観ていません。
したがって、申し訳ありませんが大河ネタの起稿はしばらく掛かりそうです(今日もまだ会社で、まだまだ帰れません)。

そんな多忙のなか、寸暇を惜しんでブログを立ち上げたのは、手前味噌なご報告で恐縮ですが、本日11月6日をもちまして当ブログも4周年を迎えることが出来ました。
これもひとえに皆々様のご厚情あってのことと、厚く御礼申し上げます。
この間に起稿した拙文数は608本(本稿で609本目)、いただいたコメント数は1,654件(このうち約半分は自身の返答ですが)、トラックバック数は698件でした。
この4年間に当ブログに訪問していただいた件数は231,547件(パソコンのみの訪問者数)で、1年前の3周年のときの訪問者数が144,390件でしたから、この1年間で8万7千件もアクセスいただいたことになります(これはユニークユーザー数なので、同じパソコンから1日に何度アクセスいただいてもカウントは1ということになります)。
どなた様も、素人のとりとめもない駄文にお付き合いいただき、まことにありがとうございました。

●2012年11月6日 23時過ぎのレポートデータ↓↓↓
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もともと気まぐれで始めたブログが、こんなに長く続いたのは、ひとえに訪問していただいたりコメントを残していってくれた方々のおかげなんですが、ここへ来て少々更新をサボりがちです。
というのも、この秋より私自身が今まで以上に多忙な環境に身をおくことになったことと、さすがに4年も続けると少々飽きモードに入っている感も否めません。
大河ドラマのレビューのように、毎週必ず起稿するってのも結構キツイんですよね。
来年はどうしよっかなぁ・・・と、ただいま思案中です。
ブログ自体は、せっかくここまで続けてきたんだから続けたいとは思いますけどね。
ただ、もうちょっとペースダウンして時間のあるときだけ起稿する・・・みたいな感じにしないと、趣味で始めたことに苦痛を感じるようになったら意味がないですもんね。
ちょっと肩の力を抜こうかな・・・と。

おっと、実はまだ仕事中なんです。
今日のところはこのへんで・・・今週の大河のレビューは遅れます。



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by sakanoueno-kumo | 2012-11-06 23:33 | コネタ | Comments(4)