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平清盛 総評

 2012年NHK大河ドラマ『平清盛』の全50話が終わりました。ブログで大河ドラマのレビューを始めて4年、私自身の率直な感想をいえば、近年(今世紀)の大河作品の中では三本の指に入れてもいいほど優れた出来だったと思っています。しかしながら世間の評価は私とはどうも違ったようで、大河ドラマ歴代最低の視聴率を記録したそうですね。そんなこともあってか、巷では本作品を酷評する記事が乱立していました。歴史ドラマといえどもドラマである以上、大衆娯楽ですから、視聴率をひとつの指標として評価することは間違っていないと思います。ですが、高視聴率=名作低視聴率=駄作というレッテルの貼り方は、いささか短絡的すぎるのではないでしょうか。そこで今日は、なぜ『平清盛』が視聴者の支持を得られなかったかを考えながら、物語を総括してみたいと思います。

 ドラマ開始早々物議を醸したのが、「画面が汚い。鮮やかさのない画面ではチャンネルを回す気にならない」といった兵庫県知事のクレームでしたね。これに対してNHK側の回答は、「時代考証を忠実に再現した映像」との説明だったと記憶しています。県知事という立場の人が公の場でこのような発言をしていいものかとは思いますが、それはここでは横において、知事の苦言が的を射たものだったかどうかを考えます。

 まず、このようなフィルム調の暗い映像は今回に始まったことではなく、『龍馬伝』『江~姫たちの戦国』そしてスペシャル大河ドラマ『坂の上の雲』でも使われていた手法です。夜は暗く、昼間でも決して俳優の正面から光を当てず、光源は常に斜め上か真後ろ。だから、ときには逆光となって、役者の顔がまったく見えなくなったりもします。時代劇といえば、俳優さんはドウランをテカテカに塗って、照明は常に俳優さんの顔に当たるというのが当たり前でしたが、近年の大河ではその常識を覆しました。その深みのある画面は、そこにスタッフの存在を匂わせないリアリティあふれる映像世界を作り出していると私は思います。この映像に対する好き嫌いはあると思いますが、兵庫県知事のクレームは、近年の大河作品を全く見ていなかったゆえに出た言葉で、時代劇に対する知事の固定観念からきた意見でしょう。それ自体が視聴率に影響したとは思えません。

 ただ、コーンスターチというとうもろこしの粉を使ったホコリ演出は、少々やりすぎだったんじゃないでしょうか。「荒廃したホコリ臭い時代を表現するため」というのがNHKの説明でしたが、その点についてある方のブログでの指摘を読んで、なるほど・・・と頷きました。空気が乾燥した大陸の西部劇ならともかく、日本の湿潤な気候では、あんなにホコリは立たないのでは?・・・と。たしかにそうですよね。リアリティを追求するなら、時代考証だけではなく、日本の風土も考証すべきだったのではないでしょうか。ホコリ演出は戦闘シーンだけで良かったんじゃないかと・・・。

 次に、俳優さんたちに目を向けると、主演の松山ケンイチさんはもちろん、父・平忠盛役の中井貴一さん、藤原頼長役の山本耕史さん、信西役の阿部サダヲさんなど演技派の実力派揃いで、完璧なキャスティングだったと思っています。とりわけ松山ケンイチさんにいたっては、清盛の12歳から64歳という半世紀以上を演じきっておられ、その演技力は見事というほかありません。特に平家政権を樹立した後の暴君・清盛像の演技は素晴らしく、本当に60歳を超えた老人に見えました(決してメイクの力だけではなかったと思います)。気の毒なことに、主役の役者さんは低視聴率の責任を負わされるのが宿命ですが、この作品に限って言えば、松山さんと低視聴率はまったく関係ないと思うのですが、いかがでしょうか。

 ただ、清盛の描き方については、多少の不満がなきにしもあらずです。物語の設定は吉川英治著の『新・平家物語』と同じく白河院ご落胤説をベースにしており、その境遇に対する反発から、攻撃的な性格の異端児として成長するストーリーでした。その設定そのものは悪くなかったと思うのですが、その反発の矛先が父・忠盛や平家内部という幼稚な演出で、あれではただの反抗期を迎えた駄々っ子でしかありません。のちに忠盛の死によって覚醒する清盛ですが、忠盛が死んだとき清盛はすでに35歳。いつまで反抗期やってたんだ?・・・と。

 これは本作品に限ったことではなく、『龍馬伝』『天地人』など近年の作品に共通していえることですが、若き日の主人公の姿を、無理に現代のありがちな少年像にラップさせて描く傾向にあるようです。そのほうが視聴者の共感を得られるという意図かもしれませんが、それでは偉人としての本来の魅力を削ぐことになるんじゃないでしょうか。偉人は少年時代から良きにせよ悪しきにせよ非凡な人物であったほうが魅力的だと思います。第1話で描かれた清盛の生母の壮絶な最後や、忠盛が清盛に語った「心の軸」の話。そして「死にたくなければ強くなれ!」のラストシーンを観て、「今年の大河は違うぞ!」と思ったのは私だけではないのではないでしょうか。ところが第2話以降、繰り返し描かれていたのは、いつまでもウジウジとスネている反抗期の少年の物語で、第1話を超える回はしばらくありませんでした。このあたりで見限って離れていった視聴者がたくさんいたように思います。保元・平治の乱のあたりから物語はぐっと面白くなるのですが、そこまで視聴者を引きつけておけなかったことが、後半の低視聴率に大きく影響したように思います。

 あと、天皇家のドロドロした人間模様も今までになく踏み込んで描いていたと思いますし、本筋とは直接関係のない当時の貴族社会のエピソードなども、細やかに拾って描いていました。実に丁寧な演出だったと思いますし、作り手の作品にかける情熱がうかがえました。しかし、矛盾したことをいうようですが、いささか丁寧すぎた。きめ細やかにエピソードを描きすぎたことで、かえって視聴者に要点が伝わらない結果になったように思えます。これはおそらく、近年の作品で史実を歪曲した虚構ストーリーや割愛されたエピソードなどを批判する声が跡を絶たなかったことから、できるだけ通説に添ったかたちで作品づくりに臨んだ結果だと思われます。史実かどうかはともかく、『平家物語』『愚管抄』『玉葉』などに記された有名なエピソードをたくさん採用していましたよね。ところが、平家や源氏をはじめ天皇家や摂関家など、あらゆる角度からいろんなエピソードをくまなく描ききったことから、結局何が描きたかったのか視聴者に伝わりにくかった。やはりこういったドラマでは、ある程度大胆な省略や簡素化が必要なんでしょうね。毎年、史実云々と照らしあわせて浅薄な知識をひけらかすだけの批判者たちは、今回の結果をみて一度考えなおしてみてもいいんじゃないでしょうか。

 あと、前半の演出(特に天皇家の人間模様)は少々陰気臭かったですね。たしかに白河院鳥羽院待賢門院璋子の関係など、ドロドロしたエピソードが多かったのですが、物語全体を通して陰気なイメージを拭いきれなかった。やはり大河ドラマでは、歴史上の偉人の颯爽とした姿を観たいもので、視聴者はそこにカタルシスを感じるものだと思います。残念ながら今回のドラマでは、颯爽と武家の頂点への階段を駆けのぼっていくような清盛像はありませんでした。そのあたりも、視聴者が離れていった理由のひとつではないでしょうか。

 最後に、ドラマ開始前から話題になっていた「王家」という呼称の問題について少しだけふれます。天皇家を「王家」と呼ぶことは皇室に対する侮辱であるという意見で、一部の過激な右傾の方々の抗議がNHKに殺到したようですね。この問題については、以前の拙稿(大河ドラマ『平清盛』の王家問題について。)で述べましたので、ここで繰り返し述べることは控えますが、彼らの言い分では、ドラマの視聴率が悪かったことまでイデオロギー的な理由にされているようです。正直、実に不愉快でくだらないですね。「王家」という言葉に不快感を抱いていたのは、戦前の「皇国史観」から脱却できていない一部の化石のような方々だけです。彼らにしてみれば、ドラマの内容などどうでもいいことで、自分たちのイデオロギー論争をドラマに持ち込みたいだけです。純粋にドラマを楽しみたいと思っている者にとっては、迷惑千万な話ですね。

 さて、連連と私見を述べてきましたが、冒頭でもお伝えしたとおり、私にとって『平清盛』は名作とまではいかなくとも良作でした。少なくともここ2~3年の作品の中では最も良かったと思っています。それだけに、歴代最低の視聴率という結果は残念でなりません。大河ドラマといえば、戦国時代幕末維新の物語が圧倒的に多く、清盛のような中世を描いた作品は数えるほどしかありません。それだけ戦国と幕末の人気が高いということでしょうが、私が危惧するのは、今回の結果でまた中世を描くことを躊躇するようになることです。たしかに視聴率を狙うのなら、戦国モノや幕末モノが鉄板でしょう。だからといってそればかりやってたんでは、今後の大河ドラマの発展はありません。その観点からも、冒頭で述べたとおり、視聴率をひとつの指標として評価することは間違っていないとは思いますが、視聴率が全てではないと思うのです。特にNHKの場合、民放と違って視聴者やスポンサーに媚びることなく作品づくりが出来ることに良さがあると思います。今回、歴史上あまり人気のない平清盛という人物と、同じく歴史上あまり人気のない中世を描くことにNHKはチャレンジしました。その意気込みは高く評価したいと思います。結果は残念ながら万人にウケるものとはなりませんでしたが、私のように支持する視聴者も少なからずいます。制作者の方々はこの結果に怯むことなく、この作品をベースとして、次はどうやったら中世という時代を多くの人に楽しんでもらえるかを考え、また挑んでほしいものです。

 とにもかくにも1年間楽しませていただき本当にありがとうございました。このあたりで私の拙い『平清盛』のレビューを終えたいと思います。毎週のぞきにきていただいた方々、時折訪ねてきてくれた方々、コメントをくださった方々、本稿で初めてお会いした方々、どなたさまも本当にありがとうございました。

●1年間の主要参考図書
『平清盛のすべてがわかる本』 中丸満
『平清盛をめぐる101の謎』 川口素生
『日本の歴史6~武士の登場』 竹内理三
『日本の歴史7~鎌倉幕府』 石井進
『新・平家物語』 吉川英治



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by sakanoueno-kumo | 2012-12-31 02:14 | 平清盛 | Comments(8)  

松井秀喜選手の引退に思う、日本人が誇れる日本人の姿。

松井秀喜選手が現役引退を表明しましたね。
まあ、ここ2~3年の状況からみてそう遠くないとは思っていましたが、それでも正式に引退表明の言葉を聞くと、一抹の寂しさは拭いきれません。
松井選手といえば日本が誇るスラッガーであることはもちろん、その真摯で謙虚な人柄も含め、チームの枠を超えて誰からも愛された選手だったと思います。
私は熱烈な阪神ファンでアンチ巨人ですが、松井選手が日本にいた頃、「巨人は負けて松井だけ頑張れ!」と思っていたものです。
奇しくも松井選手の恩師である長嶋茂雄氏も、かつてはチームの枠を超えて誰からも愛された選手でしたよね。
スターとしての要素というのは、もちろん実力と実績があった上で、最後は人間的魅力なんでしょうね。
アンチイチローはよく耳にしますが、アンチ松井はあまり聞いたことがありません。
そんな松井選手のメジャーリーグでの活躍は、日本人が誇れる日本人の活躍だったといっても過言ではないと思います。

もちろん、松井選手の人気は人柄だけではなく、残した功績の大きさは言うまでもありません。
メジャーリーグに挑戦した日本人野手で、シーズン100試合以上出場を5年以上記録したのは、イチロー選手と松井選手だけ。
米通算175本塁打は、言うまでもなく日本人歴代最多です。
昭和の野球界ONに支えられた時代なら、平成の野球界は間違いなく松井選手とイチロー選手によって支えられたといっていいでしょう。
その一角が今シーズン限りでユニフォームを脱ぐ・・・。
ひとつの時代が終わろうとしていることを実感させられます。

米球団との契約が進まない松井選手に対して、複数の日本球団からオファーがあったようですが、彼の選択肢に日本球界復帰の道はなかったようです。
おそらく松井選手なら、きっとそうだろうと思っていました。
それでこそ一流だと私は思います。
これは私が予てから思っている個人的な意見ですが、メジャーに挑戦するのは個々の勝手だけど、ダメだったからと言って安易に帰ってくるな!・・・と言いたい。
日本プロ野球は米野球のマイナーリーグではありません。
誰とはいいませんが、ちょっと日本で活躍したからといって安直にメジャー志向になって、引き止める球団を背にメジャーに渡ったものの、たいした結果を残すことなく帰国し、その選手を日本球団が高値をつけて獲得するという現状に、一プロ野球ファンとして大いに不快感を持ちます。
あっち(米国)で通用しなかった選手はこっち(日本)でも通用してほしくない。
落ち武者が腕をふるえるほど、日本のプロ野球のレベルは低くないと思いたいですね。
簡単に帰国する選手もそれを高値で獲得する日本球団も、どちらも日本プロ野球をバカにしているとしか思えないのですが、いかがでしょうか。
来季から我が愛する阪神タイガースにも、そんな選手がひとり入ります。
ハッキリ言って、あまり応援する気にはなれません。

松井選手は日本球界復帰のオファーを断った理由について、「巨人の4番打者ということに対して非常に誇りと責任を持ってプレーしてきた」と前置きした上で、「ファンの方は『10年前の姿を見たい』と期待してくれると思うが、その姿に戻れる自信は強くは持てなかった」と語っていましたね。
この言葉からも、メジャーで10年間それなりの実績を残しながらも、松井選手は決して日本プロ野球を低く見ていない、日本プロ野球に敬意を払っていることがわかります。
こういうところが松井秀喜の松井秀喜たる所以ですね。
まさしく野球選手としても人間としても、一流の中の一流だと思います。
今、メジャーリーグに所属する日本人選手たち、あるいは今後メジャーに渡ろうと考えている選手たちも、松井選手の言葉をよく噛み締めてほしいものです。

何はともあれ、20年間の現役生活、本当にお疲れさまでした。
いつの日かまた、指導者・指揮官としてグラウンドに戻ってきてくれることを楽しみにしています。


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by sakanoueno-kumo | 2012-12-30 02:53 | プロ野球 | Comments(2)  

平清盛 第50話(最終回)「遊びをせんとや生まれけむ」

 平清盛が病に倒れたのは、治承5年(1181年)2月末ごろ。福原京から平安京還都して3ヵ月後のことだった。同年閏2月に入るとますます病状は悪化をたどり、やがて危篤状態に陥ったという。『平家物語』「入道死去」によると、清盛は発病以来、湯水ものどをとおらず、身体の熱いこと火の如くだったと伝えている。病床の清盛の口から出る言葉は「あた、あた(熱い、熱い)」だけで、あまりの熱さのため水風呂につけて身体を冷やそうとしても、たちまち水が沸き上がって湯になってしまい、筧で水を引いて注ぎかけても、熱した石に水をかけたときのように、水がはじけて一瞬で蒸発したという。

 にわかに信じがたいエピソードではあるが、物語では清盛の病死を、治承4年(1180年)に南都の興福寺東大寺焼き討ちした報いだとしているため、このような大げさな描写になったのだろう。ただ、清盛が高熱を発して苦しんだという記述は当時の貴族の日記や寺社の記録などにも見られるそうで、全くの作り話でもなさそうだ。そして物語では、「悶絶躃地してついにあつち死にぞし給ける」と続けている。「あつち死に」とは難しい言葉だが、発作、痙攣をするうちに高熱や激痛にたえられずに飛び上がり、悶え苦しんだ末に息絶えたという意味らしい。まさしくドラマの描写のとおりだ。

 九条兼実の日記『玉葉』によると、発病当初、清盛は「頭風」すなわち頭痛に悩まされたという。頭痛やめまいが起こり、高熱を発した末に痙攣を起こして死に至ったという症状から、死因は髄膜炎だったのではという説もある。また、清盛の盟友である藤原邦綱も同じ時期に似たような症状で死去していることから、同じ感染症で死んだのではないかとも考えられ、肺炎インフルエンザマラリアなどの可能性も指摘されている。いずれにせよ、当時の貴族たちの間では清盛の死は南都焼討の仏罰であるという認識が強かったようで、九条兼実は『玉葉』のなかで「清盛は本来骸を戦場に晒すべきところを、戦乱を免れて病没するとは運がよい」と述べつつ、その死が「神罰・冥罰によることは疑いない」と述べている。清盛の死をあからさまに喜ぶ者も少なくなかったようだ。

 『平家物語』の「入道死去」によると、死を目前にして妻・時子が、「此世におぼしめしをく事あらば、少しもののおぼえさせ給ふ時、仰をけ(この世に言い残しておきたいことがありましたら、意識がある間に仰ってください)と語りかけたところ、清盛は「今生の望一事ものこる処なし」と前置きした上で、「思ひをく事とては、伊豆国の流人、前兵衛佐頼朝が頸を見ざりつることこそやすらかね。(中略)やがて打手をつかはし、頼朝が首をはねて、わが墓の前に懸くべし」と語ったという。太政大臣天皇の外祖父と位人臣を極め、「わが人生に悔いなし」としながらも、どうにも気がかりなのは挙兵した源頼朝の動向、そして自身の死後の平家の行く末だったのだろう。

 さらに清盛は、側近の円実法眼後白河法皇(第77代天皇)のもとに送って「愚僧(清盛自身)の死後のことは万事宗盛に命じておいたので、いつでも宗盛と申し合わせて取り計らってほしい」と伝えた。しかし、それに対する法皇の返答は清盛が満足するものではなかった。これに怒った清盛は「天下のことはひとえに宗盛が取り計らうようにしたので異存はございますまい」と恫喝したという。死を目前にした清盛の言葉が脅しになるはずはなかったが、自身の死後も平家を守りたいという清盛の悲壮な思いが伝わってくる。しかし、はからずもこれが清盛の発した最後の言葉となった。清盛が八条河原の平盛国邸で息を引き取ったのは、その日の戌の刻(午後8時ごろ)であった。享年64歳。遺骸は荼毘に付され、播磨国山田の法華堂におさめられたとも、福原の経ヶ島に埋葬されたともいわれているが、正確な墓所は今もわかっていない。

 清盛によって栄華を極めた平家は、清盛の死を境に没落の一途をたどり、そして4年後の「壇ノ浦の戦い」に破れ、安徳天皇(第81代天皇)とともに滅亡する。これをわずか4年で滅んでしまったと見るか、4年も持ちこたえたと見るかは意見の分かれるところだが、いずれにせよ、平家の栄華は平清盛という巨星ひとりの存在によって維持されていたものだったということは、その死後の一族の動揺ぶりから見ても明らかである。まさしく「おごる平家は久しからず」、清盛の築いた平家政権は、その権威にあぐらをかき、結局清盛一代で終わってしまった。

 ただ、清盛の築いた平家政権は久しからずだったが、清盛が築こうとした武家政権は久しからずではなく、こののち鎌倉、室町、織豊、江戸と、約600年間もの長きに渡って継承されていく。その最初の扉を開けたのが平清盛で、その意思を受け継いだのが源頼朝だったというのが、このドラマの最大のテーマだったようだ。その意味では、平清盛はわが国史上随一の革命児だったといえよう。ドラマでの西行の台詞を借りれば、日本随一の武士(もののふ)だったと・・・。

 まさしく、平清盛なくして武士の世はなかった。


 1年間、拙稿にお付き合いいただきありがとうございました。秋以降、仕事が忙しく、起稿が遅れがちになっていましたが、なんとか最後までやり遂げることができてホッとしています。近日中に総括を起稿したいと思っています。


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by sakanoueno-kumo | 2012-12-25 02:20 | 平清盛 | Comments(0)  

平清盛 第49話「双六が終わるとき」

 治承5年(1181年)1月14日、福原遷都以来、病に冒されていた高倉上皇(第80代天皇)が崩御し、東山の清閑寺に葬られた。享年21歳。8歳で天皇に即位して13年間、父の後白河法皇(第77代天皇)と義父である平清盛の政争に翻弄され続けた生涯だった。

 色白で美しい容姿だったと言われる高倉上皇。ドラマでは描かれていなかったが、なかなかの女好きだったようで中宮・徳子の他にも多くの側女がいたらしい。その中でもとりわけ入れ込んでいたのが、美貌の上に箏曲の名手であったといわれる小督局という娘だった。一説には、寵姫を亡くして悲嘆に暮れていた高倉帝を見かねて、徳子が小督を充てがったとも言われている。高倉帝の小督に対する寵愛ぶりはたいへんなものだったようである。

 これに怒ったのは義父の清盛だった。自身の娘である中宮・徳子との間にまだ皇子が出来ないのに、中宮を差し置いて小督に溺れる高倉帝に怒り狂い、小督を宮中から追い出し、東山・清閑寺で無理失理に剃髪出家させたという。『平家物語』などで伝えられる、有名な高倉帝と小督の悲恋話である(実話かどうかは定かではない)。

 そんな気の多い高倉院だったが、中宮・徳子との仲も悪くなかったようで、九条兼実の日記『玉葉』によると、高倉院の死後、清盛と時子夫妻が徳子を後白河院の後宮に入れようと画策したところ、「いっそ出家したい」とこれを拒絶したという。従順だった徳子が両親の意向に逆らったのは、後にも先にもこのときだけだったといわれる。やむなく清盛は代わりに厳島内侍との間にできた娘を後白河院に送ったが、法皇はそれほど喜ばなかったという。色好みの法皇といえども、そんなみえみえの懐柔策にのるほど愚かではなかった。

 高倉院の崩御により後白河院政の復活は避けられないものとなり、朝廷内における平家の立ち位置も微妙なものになった。清盛はその打開策として、惣官職というポストを新設して平宗盛に就かせた。この職は畿内(山城・大和・河内・和泉・摂津)と近江・伊賀・丹波の9ヵ国を統括する任で、強力な軍事指導権兵糧米の徴収権が与えられた職だといわれている。畿内を中心とする広域の軍事指導権を平家が掌握することで、朝廷内で実権の維持と、各地の反乱軍に対する牽制が目的だったようだ。

 また、福原遷都に失敗して還都した清盛だったが、今度は京の九条周辺に六波羅に続く新しい拠点づくりを開始した。この付近には九条兼実や皇嘉門院崇徳天皇(第75代天皇)の中宮)などの上級貴族の邸宅もあったが、所領の一部を強制的に没収して、武者たちの宿所にあてた。さらに安徳天皇(第81代天皇)の内裏も八条に移した。これには南都や宇治に通じる交通の要衝をおさえる戦略的な意味があったと考えられるが、あるいは福原遷都に代わる首都移転プランの一環だったのではないかという説もある。しかし、このプランが進められることはなかった。安徳天皇の八条行幸から1ヶ月も経たない治承5年(1181年)2月、突如清盛が病に倒れ、帰らぬ人になってしまったからである。清盛の死後、宗盛はふたたび六波羅を平家の拠点にした。清盛の新都構想は、またしても幻のまま終わったのである。


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by sakanoueno-kumo | 2012-12-21 01:50 | 平清盛 | Comments(0)  

衆院選の自民圧勝に思う、小選挙区比例代表並立制の是非。

自民党圧勝でしたね。
勝敗の結果は大方の予想どおりでしたし、私も民主党政権には一刻も早くピリオドを売って欲しいと思っていたひとりですが、これほどまでの大差がついたのには驚きました。
これを「小選挙区の怖さ」と言って片付けてしまっていいんでしょうかね。
この度の選挙で全480議席中、自民、公明両党で325議席を獲得し、衆院で再可決が可能な3分の2を上回る議席を確保したわけですが、小選挙区の結果をよくよく見てみると、得票数約6000万票中、自民党の獲得票数は約2500万票
得票率にして約43%に過ぎません。
ところが獲得議席数で見ると、小選挙区300議席中、自民党が237議席ですから、なんと79%の占有。
つまり、4割の得票で8割の議席を確保したわけです。
3年前の政権交代のときも、民主党は5割に満たない得票で7割の議席を獲得しましたが、今回はあのとき以上の結果です。
これってどうよ!・・・と思いません?

比例区に目を移してみると、自民党の得票率は約28%にすぎず、獲得議席数は57議席で獲得議席率にすると31%ほど。
前回の55議席から2議席だけ伸ばしたに過ぎず、3年前の民主党の42%にははるかにおよびません。
こうして見ると、比例区の方がまだ民意に近い結果といえるでしょうか?
どう見ても、自民党がこれほどまでに圧勝するような世論ではないことがわかります。

勘違いしないでほしいのは、私は自民党の政権奪回を快く思っていないわけではなく、むしろそれを望んでいたひとりです。
ずいぶん前から民主党政権には辟易していましたし、橋下徹大阪市長の率いる日本維新の会にも(あえて石原慎太郎氏といわず橋下徹氏といいます)期待はしたいところですが、民主党政権でガタガタになってしまった外交面を建てなおしてもらうためには、経験不足な第三極よりも海千山千の自民しかないだろう・・・といった思いです。
その意味では、望みどおりの結果になったといえるのですが、しかしながらこの圧勝の結果はいかがなものか・・・とも思ってしまうのです。

3分の2議席を占有したということは、やろうと思えばなんでも出来ちゃうわけで、原発の問題もTPP参加の是非も憲法改正も、民意がどうあれ思うがままです。
国民の4割しか支持していない政権に、それほどの力を与えていいのでしょうか?
これってひとつ間違えれば、めちゃめちゃ怖いことだと思いませんか?

これは予てから思っていることですが、私は国会議員に選挙区があること自体おかしいと思っています。
国のために働く代議士に地元なんて必要ないんじゃないの?・・・と。
選挙区なんてものがあるから、地元利益主義利権政治が生まれるんじゃないか・・・と。
その意味では国会議員は皆、比例区でいいんじゃないか・・とまで思うわけです。
よく、「比例代表制なんていらない」といった声を耳にしますが、それは選挙区で死んだはずの人が比例区で復活するといったゾンビ議員を生む制度に問題があるわけで、比例区そのものの制度に問題があるわけではないと思います。
たしかに当選順位など決め方には多少の問題点はありますが、少なくとも比例区の場合、地元に媚びを売る必要はないわけで、そのほうが純粋に国政に臨めるんじゃないでしょうか?
巷では選挙区による1票の格差が問題視されていますが、それ以前に、このような民意に沿わない極端な結果を生む小選挙区制度を見直す必要があるんじゃないでしょうか?

いずれにせよ、第二次安倍晋三内閣が間もなく発足します。
「日本を取り戻す」のスローガンのとおり、一刻も早く日本を建てなおしてほしいものです。
繰り返しますが、新政権は獲得議席ほどの期待を国民から得たわけではないということを肝に銘じておくべきでしょう。
それ、すなわち、ひとたび期待を裏切るような政治になると、たちまち逆風に晒されることになる・・・と。
今度はお腹が痛いとかいって途中でケツを割らないように・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2012-12-18 02:04 | 政治 | Comments(0)  

平清盛 第48話「幻の都」

 富士川の敗戦による平家の威信の低下は深刻だった。平清盛にとって一世一代の大事業だった福原遷都事業は思うようにはかどらず、平安京に都を戻す「還都」を望む声が日増しに高まっていた。もともと福原遷都に意欲的だったのは清盛ひとりで、朝廷内はもちろん、平家一族内でも反対意見が多かっただけに、ひとたび権威が落ち始めると「還都」の声が大きくなるのは当然の成り行きだったといえよう。なかでも京周辺の寺院の反発が激しく、以仁王に味方した園城寺興福寺はもちろん、長年平家と協調関係を保っていた延暦寺の衆徒までが東国の反乱勢力に呼応して、還都の要求を激化させた。彼ら寺院たちの国家的使命は、儀式や祈祷によって朝廷を守ることにあり、その守るべき朝廷が福原に引っ越してしまえば、自身の存在価値はなくなる。京周辺の寺院が還都を要求するのも当然の主張だった。

 さらに清盛にとって不運だったのは、高倉上皇(第80代天皇)のだっただろう。福原に移って以来、遷都による心労や慣れない海辺の環境によるストレスなどが重なってか、上皇の健康状態は悪くなる一方だった。高倉院政を傀儡として権力の基盤を保っていた清盛にとって、上皇の存在は無視できないものだった。なんとしても健康状態を回復してもらわねばならない。「このような辺土で死にたくない」という上皇の願いに、さすがの清盛も耳をかさざるを得なかっただろう。

 清盛の三男・平宗盛が生涯一度だけ清盛に反抗したといわれるのも、このときだったといわれる。死んだ兄・平重盛と比べて凡庸無能と酷評される宗盛だが、このときばかりは一族の前で還都をめぐって清盛と激論を交わし、周囲を驚かせたと九条兼実の日記『玉葉』に記されている。宗盛にしてみれば、おそらく相当な覚悟で清盛に意見したに違いない。従来であれば、清盛の威厳で一蹴されたであろうが、上皇の病など悪条件が重なり、もはやこの時点で清盛の主張を理解する者はおらず、清盛の孤立は明らかだった。

 数日後、ついに清盛は平安京への還都を決意した。清盛の描いた福原京の構想は、わずか5ヶ月で幕を閉じた。

 福原遷都の失敗は清盛の権威をますます失墜させた。人望も権威も失いつつあった清盛が威信の回復を図るには、武力によって反乱勢力を潰すしかない。清盛はまず手始めに近江の園城寺を焼き討ち、続いて畿内最大の反平家勢力・南都興福寺を討伐すべく、平重衡を総大将とする追討軍を南都に差し向ける。南都に攻め入った追討軍は、興福寺、東大寺など七寺院に火を放った。興福寺では金堂や南大門をはじめ堂舎38ヶ所が燃え尽き、東大寺も正倉院を除いてほとんどの堂舎が消失。大仏もむざんに焼きただれた。『平家物語』によると、大仏殿の2階には老僧や子供などが避難していて、追手が来ないよう梯子をはずしていたため迫り来る炎から逃れられず、無惨極まりない地獄絵図が繰り広げられたという。焼死者の数は数千人にものぼったとか。このとき討ち取られた悪僧49人の首級は、ことごとく溝や堀に打ち捨てられたという。

 この「南都焼討」について『平家物語』では、夜戦となり明かりが必要になったため民家に火を放ったところ、風にあおられて瞬くまに燃え上がったとある。あくまで過失だったというのだ。しかし、南都攻めの手始めとして追討した園城寺を焼き討ちしていることを思えば、この南都焼討も計画的だったと考えていいのではないだろうか。

 「それこそが、もはや運が尽きたということよ。天は平家を見放したのじゃ」

 平家の悪行の最たるものとして後世に伝わるこの南都焼討。計画的だったにせよ過失だったにせよ、天が平家を見放し始めていたのは確かだった。それは歴史の示すとおりである。



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by sakanoueno-kumo | 2012-12-10 21:09 | 平清盛 | Comments(0)  

平清盛 第47話「宿命の敗北」 その2 〜富士川の戦い〜

 石橋山の戦いで大敗した源頼朝だったが、その後安房国に逃れ、そこで千葉常胤上総広常ら在地の有力豪族を従えてまたたく間に関東を制圧。そして父祖ゆかりの相模鎌倉に入った。その動きを知った平家方では、平清盛の孫(平重盛の嫡子)・平維盛を総大将とする討伐軍が編成され、治承3年(1180年)9月21日に福原を発った。しかし、京の六波羅に到着した後、縁起の良い日を選んで出発しようという侍大将の伊藤忠清と維盛の間で意見がぶつかり、そうこうしているうちに1周間ほどの時間が過ぎた。これが命取りとなった。

 平家方が時間を空費している間に、頼朝の元には続々と諸国の兵が集まり、数万騎の大軍に膨れ上がった。さらに甲斐国では甲斐源氏の武田信義が、信濃では頼朝の従兄弟にあたる木曾義仲が挙兵。維盛率いる討伐軍がようやく京を出立したのは9月29日だったが、軍勢が駿河に到着する頃には、すでに平家方の先発隊や在地の平家勢力は武田信義以下の甲斐源氏に滅ぼされており、頼朝軍の優勢が出来上がりつつあった。鎌倉時代の正史『吾妻鏡』によると、このとき頼朝の軍勢は20万騎にも及んでいたという。石橋山の戦いで敗走した際、わずか6名となっていた頼朝主従が、たかだか2ヶ月足らずの間でのこの膨れ上がりようには驚きである。これは、頼朝に対する忠誠心カリスマ性と言うよりも、それだけ平家政権に対する不満が諸国に蔓延していたからにほかならない。つまりは、頼朝も担ぎ上げられた神輿にすぎなかったのである。そのことは、後に頼朝も痛感することになる。

 『平家物語』によると、一方の平家軍は7万騎ほどだったとあるが、そのほとんどが進軍しながら招集した兵(駆武者)が中心であったため戦意に乏しく、さらに折からの西国の大飢饉で兵糧の調達に苦しみ、士気は低かったという。そんななか先発隊のい敗北を聞いて恐れおののき、続々と源氏方に寝返ってしまったという。実際に戦える兵力は、平家方3千騎に対して源氏方は4万騎ほどだったとか。勝負は戦う前から決していたといえよう。この状況をみて侍大将の伊藤忠清は撤退を進言したが、総大将の維盛は頑としてこれを聞き入れなかったという。このあたり、ドラマにあったとおりである。

 10月24日夜、武田信義の部隊が平家の後背を衝くため富士川の浅瀬に馬を乗り入れたところ、その軍勢の動きに驚いた水鳥の大群が一斉に羽ばたいた。この音を敵の奇襲だと錯覚した平家軍は、大混乱に陥ったという。『吾妻鏡』によると「その羽音はひとえに軍勢の如く」とあり、『平家物語』『源平盛衰記』によると、兵たちは弓矢、甲冑、諸道具を忘れて逃げまどい、他人の馬にまたがる者、杭につないだままの馬に乗ってぐるぐる回る者、集められていた遊女たちは哀れにも馬に踏み潰されたという。この話がどこまで事実かはわからないが、水鳥の羽音のことは当時の貴族の日記にも記されているそうで、何らかの混乱はあったと考えてよさそうである。

 結局はこの混乱を立て直すことができず、さすがの維盛も忠清の進言を入れて撤退を決意。平家軍は総崩れとなって逃走した。退却中、全軍散り散りになり、維盛が京へ逃げ戻ったときにはわずか10騎になっていたとか。詳細を知った清盛は激怒し、激しく叱責したうえ維盛の入京を許さなかったという。さらに清盛は忠清に死罪命じたが、ドラマのとおり、平盛国の執り成しで許されたという。

 以上が平家の連戦連敗のきっかけとなった「富士川の戦い」の経緯だが、水鳥云々の話は別にしても、討伐軍にの総大将に戦知らずの維盛を立てたり、兵力の招集方法がずさんだったりと、平家軍は負けるべくして負けた感がなくもない。石橋山の戦いで大勝した油断があったのか、あるいは太平の世の慢心からきた惰弱ぶりだったのか、いずれにせよ、この敗戦による平家の威信の低下は著しかった。この敗戦から、「おごる平家は久しからず」の物語がはじまる。


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by sakanoueno-kumo | 2012-12-06 00:44 | 平清盛 | Comments(0)  

平清盛 第47話「宿命の敗北」 その1 〜石橋山の戦い〜

 治承3年(1180年)初夏、以仁王の発した平家打倒の令旨を受け取った源頼朝は、8月17日に伊豆の目代・山木兼隆の館を奇襲し、たやすく兼隆を討ち取った。これに勢いづいた頼朝は坂東各地の武士を味方につけながら、東方への進撃を開始する。やがて、兼隆討死の報に接した平氏方は、同月23日、相模の大庭景親が総大将となって源氏を迎え撃つ構えをみせた。このとき、頼朝を総大将とした源氏方には、岳父の北条時政をはじめ佐々木定綱土肥実平などの伊豆や坂東南部の武士が馳せ参じており、兵力は約300人ほどだったと推測されている。兼隆を襲撃した際の兵力は約30人ほどだったといわれており、わずか6日間で多くの武士が頼朝のもとに馳せ参じたことがうかがえる。

 一方の平氏方は、総大将の景親の下へ熊谷直実渋谷重国梶原景時らが馳せ参じ、兵力は約3千人にも達していたとか。ただし、坂東をはじめとする東国は、平治の乱までは源氏の配下にあり、景親麾下の将兵のなかには、かつては頼朝の父・源義朝の家臣だった者も多数いたという。

 そんななか、源氏方と平氏方は相模湾に面した石橋山で激突する。しかし、もとより兵力の差は歴然としており、結果はいうまでもなく平氏方の圧勝。総崩れとなった源氏方約300人の将兵は、蜘蛛の子を散らすように戦場から姿を消した。このとき頼朝に従った武士は、土肥実平をはじめわずか6名だったという。兼隆の襲撃に成功した頼朝は、わずか6日後に完膚なきまでに叩きのめされたのだった。

 翌日、平氏方は頼朝の探索をした。『源平盛衰記』によると、まもなく、大庭景親が山中に怪しい洞穴を見つけ、これを受けた梶原景時が洞穴のなかに入ると、そこには頼朝とおぼしき武将と、それを取り囲む側近たちの姿が目に入った。景時と目があった頼朝は自害しようとするが、景時はこれを制止し、「こうもりばかりで、誰もいない。向こうの山があやしい」と叫んだという。なおも景親か怪しんで洞窟に入ろうとすると、景時が立ちふさがって、「わたしを疑うか。男の意地が立たぬ。入ればただではおかぬ」と詰め寄ったという。この剣幕に景親は諦めて立ち去り、頼朝主従は捕縛されなかった・・・という有名な逸話で、ドラマでもこの逸話にそって描かれていた。

 この話が実話かどうかはわからないが、もし事実ならば、まさしく頼朝は景時のおかげで九死に一生を得たことになる。おそらく洞穴の近くには景時以外にも多数の平家方将兵がいたはずで、もしこのとき景時が、「右兵衛佐(頼朝)がいたぞ!」と叫んでいたら、頼朝主従は立ちどころに討ち取られるか、捕縛されていたことだろう。なぜ景時は頼朝を見逃したのか・・・? 一般には、仮に頼朝の所在を景親に告げてわずかな恩賞を得るよりも、ここで頼朝に恩を売ることで、この先もし源氏の巻き返しがあった際には自身のプラスになると判断した、と考えられているが、果たして瞬時にそんな判断が可能だろうか? もともと平家政権に不満を抱いていたのか、あるいは洞穴のなかで見た頼朝の姿にただならぬカリスマ性を感じたのか、いずれにせよ、平氏方に身を置きながらも予てから源氏に心を寄せていたのかもしれない。もとは景時も義朝の家人だった。頼朝は死んだ父に助けられたといえるだろうか。

 こののち平氏方を離脱した景時は頼朝に仕え、大いに信任された。しかし、結局は頼朝の死後に謀反を企て、一族と共に滅亡する。頼朝には命の恩人として厚遇された景時だったが、源氏方の他の家人たちとは折り合いが良くなかったようである。後世の物語などでも、頼朝の弟・源義経を陥れた陰険な人物として描かれることが多い。これも、頼朝に恩を売って立身出世を遂げたしたたかな人物としてのイメージが強からだろうか。いずれにせよ、景時が洞穴に潜む頼朝を見逃していなければ、のちの頼朝による鎌倉幕府の樹立はもちろん、平家一門の滅亡もなかったかもしれない。景時の瞬時の判断が、歴史を大きく変えたといえよう。

続きは近日中の「その2」にて。


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by sakanoueno-kumo | 2012-12-04 14:45 | 平清盛 | Comments(0)