<   2013年 01月 ( 9 )   > この月の画像一覧

 

八重の桜 第4話「妖霊星」 ~井伊直弼と徳川斉昭~

 安政5年(1858年)4月、近江国彦根藩の藩主・井伊直弼が幕府大老に就任します。大老職とは幕閣の最高職で、常置の職ではありません。通常、将軍自らが政務を執り行うことは少なく、その一切を取り仕切っていたのは老中でした。老中は常に4~5人いて、その中の筆頭を老中首座といい、行政機関のトップとして政務を執り行います。いまでいえば内閣総理大臣のような役職といえばいいでしょうか。将軍はというと、「よきにはからえ!」といっていればよかったわけです。この時期の将軍は第13代将軍・徳川家定で、家定は生まれつき病弱だったとも暗愚だったとも言われていますが、老中たちさえ有能な人物を揃えておけば、将軍はバカ殿様でもよかったわけですね。

 で、その老中のさらに上の役職が大老で、国難非常事態に際して置かれる臨時職でした。平時のそれは多分に名誉職的な意味合いが強かったそうですが、実質、老中首座より強い権限を与えられた役職だったわけですから、その権限をフルに発揮すれば独裁政治も可能だったわけです。井伊直弼が就いた大老とは、そういう椅子でした。

 彦根藩主である直弼が幕府内で頭角を現したのは、嘉永7年(1854年)の2度目の黒船来航のときでした。当時、有力藩主が集まって幕政に関与する溜間詰(たまりのまづめ)大名という集いがあり、直弼はその筆頭という立場でした。ペリー艦隊来航に際して直弼は、溜間詰大名筆頭として開国を主張します。しかし、その直弼の主張に真っ向から反対する人物がいました。前水戸藩藩主・徳川斉昭です。水戸藩といえば、尊皇攘夷論のさきがけ的存在の藩。ときの老中首座・阿部正弘によって幕政への参与を許されていた斉昭は、鎖国の維持と攘夷を主張し、直弼と激しく対立します。結局、幕府は米国総領事ハリスから迫られた日米修好通商条約の調印を、朝廷の勅許を受けるということで事態の打開を図ろうとします。

 折から幕府内では、将軍継嗣問題よる対立も深まります。幕政改革を求める雄藩藩主らは、斉昭の子で英明と噂されていた一橋慶喜(のちの第15代将軍・徳川慶喜)を支持し、一橋派と呼ばれていました。これに対して、系統重視の幕府主流派は紀伊藩主・徳川慶福(のちの第14代将軍・徳川家茂)を推し、南紀派と呼ばれます。一橋派は、斉昭を中心に福井藩主・松平慶永(春嶽)や薩摩藩主・島津斉彬らで形成され、一方の南紀派は、直弼をはじめ、会津藩主・松平容保、高松藩主・松平頼胤ら溜間詰大名が中心でした。直弼と斉昭の対立関係は、条約調印問題と将軍継嗣問題という2つの政治的対立によりさらに深まっていきます。そんななか、直弼は大老職に電撃就任します。

 大老となった直弼は、その権限を遺憾なく発揮して、かなり強引な政務を執り行います。孝明天皇(第121代天皇)の勅許が得られずに止まっていた日米修好通商条約は、「国家存亡のときにあってやむなし」という直弼の判断により、勅許のないまま調印が行われました。そして、その直後には、自らが推していた徳川慶福を次期将軍に決定します。当然のごとく、この強引な手法には大きな反発がありました。しかし、直弼はその反発に対して、反対勢力を徹底的に処罰するというさらに強引な手法で答えます。その強引さたるや、抵抗勢力に刺客を送った小泉純一郎元首相の比ではなく、幕臣、大名はもちろん、市井の学者や志士に至るまで、あらゆる抵抗勢力の一切排除を断行しました。そのなかに、政敵である斉昭がいたのは言うまでもありません。斉昭は国許永蟄居の処分となり、政治生命を断たれました。世に言う、「安政の大獄」です。

 ドラマに出てきた彗星は、この年の10月に観測された「ドナティ彗星」という名の彗星だとか。肉眼でも見ることができたほど大きく輝く彗星だったようで、世界各国で観測された記録が残っているそうです。タイトルの『妖霊星』とは、当時、凶事の前兆として不吉とされていた「ほうき星」のこと。奇しくもこの彗星がもっとも地球に近づいた頃から、日本は殺伐とした時代に入っていくんですね。それは日本にとってのことか、あるいは直弼にとってのことか、でも確かに、「ドナティ彗星」は凶事の前兆、「妖霊星」でした。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村

by sakanoueno-kumo | 2013-01-31 02:33 | 八重の桜 | Trackback(2) | Comments(0)  

旅ゆけば、駿河の国に茶の香り…なう!

ケータイからの投稿です。062.gif
e0158128_2222486.jpg朝からJR東静岡駅にいます。
ぷらっと旅に来ました・・・と言いたいところですが、残念ながら仕事できています。
朝日を浴びた富士山がなかなか絶景ですね。
といっても、駅を行き交う地元の方々は誰も見向きもしていませんが・・・。
写メなんか撮ってると、よそ者というのがバレバレですね(笑)。
出張族の方々にしてみれば、富士山など新幹線の車窓から見慣れた風景なのでしょうが、普段あまり関西から出ない私は、富士山を見ると結構テンションが上がっちゃいます。
とくに今日は雲ひとつない快晴で空気も澄んでいて、めちゃめちゃ近く感じますね。
ちょっとラッキーな朝です。

タイトルのくだりは特に意味はありません。
静岡を訪れて、森の石松の清水次郎長親分が頭を過ぎってしまうのは、私がオッサンだからでしょうか(笑)。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村 ニュースブログ 時事ニュースへ
にほんブログ村 野球ブログ プロ野球へ

by sakanoueno-kumo | 2013-01-29 07:56 | 静岡の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

スポーツ指導における体罰問題について思うこと。

大阪市立桜宮高校で体罰を受けていた体育科の男子生徒が自殺した問題で、大阪市教育委員会は、体育科などの募集を停止して普通科に変更したうえで、同校の入学試験を実施することを決めたそうですね。
これは、入試の中止を求めていた大阪市の橋下徹市長の意見をのんだかたちですが、ただ、結局は便宜上普通科として入学するだけで、スポーツの技能を重視した教科や配点などについても変更しないとのことですから、何が変わったのかイマイチよくわかりません。
つまりは、「受験生には罪はない!」といった世論と、「体罰容認の実態が改まっていない現状では新入生を迎えられない。」といった橋下市長の双方の顔を立てた折衷案ということでしょうか?
でも、だったら、従来の体育科のままで良かったんじゃないの?・・・と思わなくもないです。
「人ひとり殺しているような学校に子どもたちを入学させるわけにはいかない」という観点ならば、たとえ世論がどうであれ、問答無用で中止すべきだったのではないでしょうか?
なんとなく、中途半端で消化不良な決定です。
まあ、橋下市長の場合、何も策を講じずにただ陳謝するだけではなく、たとえ早計でも敏速に対策を講じるところが彼の政治スタイルであり売りですから、市教委の決定はどうあれ面目は保てたといったところでしょうか。
ただ、本当に同校の改革を迫るなら、当初橋下市長が言っていたもうひとつの対策である同校体育科教員の総入れ替えが必要でしょう。
もっとも、その案に関しては市教委が賛成可決することはまずあり得ないでしょうけどね。
大津のいじめ問題のときでもわかるように、教育委員会ってところは、身内にぬる〜い体質ですから・・・。

それはさておき、今回の事件をきっかけに、あらためて学校教育の場における体罰問題について議論が深まっているようです。
教師の体罰問題が声高に責められるようになって久しいですが、一方で、運動部の強豪校などでは依然として「強くするためには体罰は必要」といった声も少なくありません。
教育の専門家ではない私には、どちらの主張が正しいかはよくわかりませんが、私の個人的な考えを言わせてもらえば、学校生活における教育の観点でいえば、ときには体罰も必要だと思いますが、スポーツ指導の観点で言えば、体罰などまったく無意味だと思います。
教育上、体罰が必要な場合とは、たとえば集団リンチいじめなど卑劣な行為があったときや、あるいは法を犯すような事件を起こしたときなど、人として許し難い行為に及んだときには、体罰指導もやむを得ないと思います。
そういう奴らには口で言っても伝わらないでしょうし、他の真面目な生徒たちの学校生活に害を及ぼす可能性もありますからね。
ところが、そんな場合でも、ひとたび手を出せば「体罰教師」の烙印を押されてしまういまどきの教師の方々は、気の毒な気がしてなりません。

一方で、スポーツ指導における体罰はまったく別問題。
昭和の時代に体育会系で育った私などは、日々、先生から殴られるのはあたりまえでしたが、いま思い出してみても、殴られて体得したものなどなかったように思います。
スポーツ指導の基本は技術指導です(ときには精神論も必要な場合もありますが)。
出来ないのは技術がないから出来ないわけで、技術がない者をいくら殴っても出来るようにはなりません。
出来ないのなら、出来るようになるまで繰り返し技術を教えるべきでしょう。
その意味では、野球の千本ノックなどに代表される、いわゆる「しごき」という名の体罰は、それが技術向上筋力強化などの利点を目的とするものならば、ときには有りなのかもしれません。
ですが、指導者の暴力行為というのは、ただ選手を威嚇して従わせるためだけのツールでしかなく、それは体罰というより暴行といっていいもので、およそ指導といえる類のものではないと思います。
このたび問題となった高校のバスケットボール部の顧問は、試合中にも選手を怒鳴りつけて殴っていたそうですね。
言語道断です。
とくに、強豪校の顧問の先生の場合、卒業後の進路の推薦の権力を持っていたりしますから、スポーツで大学や就職を考えている子どもたちは、ひたすら耐えるしかないんですよね。
これはいうまでもなくパワハラです。
このような顧問の教師にあたった生徒は、不運としかいいようがありませんね。

ただ、このたびの桜宮高校体育科を少しだけ擁護するとすれば、この高校の部活動で体罰指導が日常的に行われているということは、生徒や保護者も、入部前からまったく知らなかったわけではなかったのではないでしょうか?
おそらく、そういう情報はこの高校を志望するときから知っていたことで、それを知った上であえて桜宮高校体育科を選んだ・・・。
であれば、学校だけを責めることも出来ないんじゃないかという気もします。
高校は義務教育と違って、学校を選べるわけですから。
高校側も、もし体罰指導を是とした方針ならば、事前に受験生や保護者にそれを公言しておくべきだったでしょうね。
「わが校の運動部では体罰を認めています。殴ります。蹴ります。わが校の運動部に入部するには、生徒も保護者もそれなりの覚悟を持って入部してください。それが耐えられないなら、他校への入学をおすすめします。」
どうしても体罰指導が必要と考えるなら、入学前にこのような説明が必要でしょう(実際に体罰指導をするスポーツクラブなどでは、入部前にこのような説明会を行うところもあります)。
それでもこの高校を選ぶのなら、あとは自己責任かと・・・。

体罰指導を行なっているスポーツ強豪校は、このたびの桜宮高校だけではないでしょう。
そういった古い体質の指導方針を改めるには、指導者ライセンス制などの検討も含めた指導者側の質の向上が必要でしょうね。
桜宮高校体育科の入試をとりやめたところで、とりあえずの間に合わせの対処でしかないことは、橋下市長も承知の上だと思います。
市長が出来るのはここまで・・・あとは政府と文科省の仕事ですね。
指導者育成の抜本的な改革を望むところです。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 ニュースブログ 時事ニュースへ
にほんブログ村

by sakanoueno-kumo | 2013-01-26 18:38 | 時事問題 | Trackback | Comments(4)  

八重の桜 第3話「蹴散らして前へ」 ~山本覚馬と八重~

 八重の生まれ育った山本家は、会津藩砲術指南役を務める家でした。山本家は、八重の祖父にあたる山本左兵衛の代より砲術指南の家柄となったようです。八重の生家の辺りは、家禄が百石~百五十石クラスの藩士たちの屋敷が立ち並んでおり、山本家もそんな中級クラスの家柄でした。山本家の祖先は、2007年の大河ドラマ『風林火山』の主人公で、あの武田信玄に仕えた軍師・山本勘助だという説があるそうです。系譜をたどれば、会津藩祖の保科正之に仕えた、武田家ゆかりの山本道珍なる人物にいきあたるそうで、その道珍の祖先が山本勘助だというのですが、いかがなものでしょう。道珍は保科正之が信州高遠藩主だったころ、遠州流の茶師として江戸で召し抱えられた人物だとか。後年、八重は茶道に深く傾倒していきますが、遠祖である道珍のDNAだったのかもしれません。

 祖父の左兵衛には跡取りがいなかったため、娘・佐久の婿として養子を迎え入れ、砲術指南役を継がせました。それが、八重の父・山本権八です。権八と佐久の間には三男三女が生まれましたが、次男、長女、次女は夭折し、成人したのは長男の覚馬、三男の三郎、そして三女の八重だけ。八重の人生に大きな影響を及ぼすことになる兄の覚馬は、17歳も年上でした。

 藩校・日新館で神童と呼ばれた秀才・山本覚馬は、嘉永6年(1853年)、22歳で江戸に出て蘭学を学びます。このとき、佐久間象山勝海舟と出会うのは前話までにあったとおりですね。嘉永6年といえば言うまでもなく黒船来航のあった年。覚馬がその目で黒船を見たかどうかはわかりませんが、この出来事が当時の若者たちに与えた衝撃ははかり知れず、おそらく覚馬もその例外ではなかったでしょう。この江戸出府の期間中、覚馬は蘭学や西洋砲術の研究に没頭していたようです。そして28歳のとき会津に帰国、このとき八重はかぞえで11歳でした。綾瀬はるかさんでは、まだちょっと無理があるかも・・・(笑)。

 帰国後、覚馬は西洋式の砲術や兵法の重要性を説き、軍備の近代化を推し進めようとします。しかし、執拗に軍制改革を主張したことが保守的な上層部の反感を買ってしまい、1年間ほどの禁足処分を受けてしまうのはドラマのとおりです。戦国時代、鉄砲は身分の低い足軽が持つ武器でした。それから時代は200年以上経っていましたが、依然として武士の世界では剣術槍術弓術が重んじられ、砲術に対する評価は低いものでした。軍制改革とは、すなわち武士が鉄砲を持つこと。とりわけ会津藩は宝蔵院流の槍術で知られた藩で、鉄砲にしても、戦国時代以来変わらず火縄銃。刀槍の時代ではないという覚馬の主張が容易に受け入れられるはずはなかったことは、想像に難しくありません。しばらくは不遇をかこつ覚馬ですが、しかし、時勢が覚馬を必要とするときが、こののちやってきます。

 お転婆娘の八重が柄にもなく裁縫を習っていましたね。でもこれは当時の武士の娘としては当然のたしなみで、幼少期の女子は、小笠原流の作法手芸機織り女今川、そして薙刀も習います。針仕事の稽古は、最初は雑巾、次は足袋の底、続いて袖口や褄、そして着物が一枚仕立てられるようになれば、嫁入りの資格ができたとみなされたそうです。もちろん八重も例外ではなく、幼馴染の日向ユキの談によれば、一緒に近所の高木のおばあさんから針仕事を習っていたとか。でも、どうやら裁縫はあまり得意ではなかったようです。

 立派な兄を慕い、兄のようになりたいと願っていた八重は、活発で男勝りの幼少期だったようです。駆けっこ石投げでも男の子に負けていなかったらしく、ドラマであったように、13歳の頃には四斗俵を掴んで肩に上げ下げできたとか。世が世ならば運動選手になっていたかもしれないと、後年の八重自身が語っていたそうです。現代ならば、重量挙げのオリンピックメダリストになっていたかもしれませんね。

 会津藩随一の秀才の兄と、会津きってのお転婆娘の妹。なんとも不つりあいな組み合わせの兄妹ですが、八重は兄・覚馬を生涯慕い、覚馬は妹・八重を生涯頼りにします。そんなふたりの強い絆の話は、今後の物語の展開にゆずることにしましょう。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村

by sakanoueno-kumo | 2013-01-21 01:04 | 八重の桜 | Trackback(2) | Comments(0)  

阪神・淡路大震災から18年、いま思うこと。

本日1月17日は、私の誕生日
そして今日は、私たち神戸市民には忘れようにも忘れられない『阪神・淡路大震災』の発生した日です。
地震発生当日28歳の誕生日だった私も、今日で46歳になりました。
当時生後4ヵ月だった我が愚息も、明後日にはセンター試験を受験します。
気がつけば18年もの年月が流れていたんですね。

e0158128_0474580.jpg

神戸市灘区琵琶町の公園にあるモニュメントです。
偶然きのう通りかかって目に止まり、ちょうど震災記念日の前日だったこともあってスマホで撮影しました。
私の会社の近くの公園なんですが、国道から一筋北に上がった住宅街にあるため、何度か横を通りながらもいままでこのモニュメントに気が付きませんでした。
公園のまわりを見渡せば、整備された道路真新しい住宅ばかりが立ち並ぶ閑静な住宅街
美しく整然とした街並みからは、あの日の惨状を想像することは難しいですが、見渡す限り新しい家ばかりということは、それだけこの地域の家屋倒壊率が高かったこと伝えているといえます。

このモニュメントは震災から7年が過ぎた2002年に建てられたそうです。
円型の石碑の裏には、琵琶町1丁目と2丁目だけで犠牲になった61名の方々の氏名が刻まれていました。
円形と三日月の形は月の満ち欠けを表しているそうで、終わりのない「永遠」を意味するそうです。
石碑に刻まれたとおり、「あの刻を忘れない」といった思いが込められているのでしょうね。

e0158128_0484387.jpg

震災から18年経った神戸のまちは、当時の惨状が想像もつかないほど美しく蘇りました。
その街並みの片隅に目を向けると、このような慰霊碑が各地に建てられています。
その数、230を超すとか。
犠牲者を悼み、街の復興を見守り続けて、そして後世に震災を伝えるモニュメント。
普段、神戸に住んでいながらも、こういった慰霊碑になかなか目がいかずに通りすぎてしまいがちですが、今日1月17日だけは、ちょっと立ち止まって思いを馳せる日にしたいものです。
それが、あの日、幸運にも命を落とさずに、こうして18年経ったいまを生きている神戸市民としての、犠牲になった方々に対する最低限の礼儀じゃないかと・・・。
あの刻を忘れないために。

震災から14年。そして私の誕生日。今、思うこと。
今日は私の誕生日。そして阪神・淡路大震災から15年。
誕生日に思う。~阪神・淡路大震災から16年。
阪神・淡路大震災から17年、今思うこと。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村 ニュースブログ 時事ニュースへ
にほんブログ村 野球ブログ プロ野球へ

by sakanoueno-kumo | 2013-01-17 00:51 | 日常 | Trackback | Comments(2)  

八重の桜 第2話「やむにやまれぬ心」 ~黒船来航~

 嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国のマシュー・ペリー提督率いる艦隊が江戸湾浦賀沖に来航し、200年以上鎖国政策を続けてきた政権・江戸幕府に開国を迫りました。一般に「黒船来航」と呼ばれるこの事件から、「幕末」といわれる時代が始まります。

 「黒船来航」といえば日本にとって突然の出来事だったように思いがちですが、実はその1年前に幕府は、長崎のオランダ商館長・ヤン・ドンケル・クルティウスから黒船来航の詳細な情報を得ていました。時の老中首座・阿部正弘はその情報に接してすぐさま対応策を幕府内に働きかけますが、協議の結果、「オランダ人は信用ならない」という根拠のない理由で一蹴されてしまいます。そして1年後に黒船艦隊が浦賀沖に現れ、幕府内は大慌てになるんですね。「想定外」といって原発事故が発生してから右往左往する現代の政府と似たものを感じます。

 突如出現した黒船艦隊を見た下田の人々の驚きは大変なものだったでしょうね。これが現代であれば「黒船来航なう!」とか言ってツイッターなどで瞬時に伝わるでしょうが、ときは160年前の江戸時代。当然ながら伝達手段は口コミか手紙しかありません。にも関わらず黒船来航のニュースは、わずか2週間足らずで北は八戸から南は薩摩までほぼ日本中に知れ渡ったそうですから、この出来事がいかにビッグニュースだったかがわかります。当時の日本人にとっては、進んだ科学力を持った異星人が現れたような恐怖だったのでしょう。その驚きは、予てより西洋文化にあかるかった佐久間象山吉田寅次郎(吉田松陰)とて同じでした。

 黒船という西洋の先進文明を目の当たりにした寅次郎は、その知識を得るため同郷の金子重之輔とともに黒船に乗り込んで密航を試み失敗。その罪によって投獄され、阿部正弘のはたらきかけによって死罪こそ免れたものの、郷里の長州へ檻送され野山獄に幽囚されてしまいます。そして寅次郎の師であった佐久間象山も連座して投獄、さらににその後は文久2年(1862年)まで、松代での蟄居を命じられます。ドラマ内で勝麟太郎(勝海舟)が言っていたとおり、これから日本にとって最も役に立つであろう二人を、幕府は罪人にしてしまいました。こののち二人が歴史の表舞台で活躍することはついにありませんでしたが、二人の意思を継承した門下たちが、幕末の時代を大いに暴れ回ります。おそらく本ドラマで吉田松陰と佐久間象山の出番はこの先あまりないでしょうが、この二人の知識人が幕末の歴史に残した影響は大きく、この時代の物語を描くにあたって欠かせない人物といえます。

 さて、ドラマの本筋に戻って山本八重。砲術師範の家に生まれた八重は、女子ながらに砲術を学びたいと言います。そんな八重を父・山本権八は鳥撃ちに同行させ、八重の目の前で野鳥を殺生します。
 「弾に急所さ射抜かれたら必ず死ぬ。鳥も獣も人間もだ。鉄砲は武器だ。殺生する道具だ。戦になれば人さ撃ち殺す。角場の的撃ちは面白く見えっかもしんねえ。だけんじょ的さ撃ちぬくちゅうことは、すなわち人間の心の臓さ撃ちぬくちゅうことだ。恐れることを知らず、形だけ真似ていては、いつか己の身が鉄砲に滅ぼされる。だから砲術をやる者は学問と技を磨かねばなんねえ。何より立派な武士でなければなんねえ。おなごのお前には到底背負いきれねえ。二度と鉄砲の真似事はするな。」
 あえて残酷な殺生を見せることによって、命の重み、武器を手にする怖さを諭す。これ以上説得力のある教育はないんじゃないでしょうか。

 それにしても、八重の幼少期を演じた子役の鈴木梨央ちゃんは上手かったですね。『天地人』の加藤清史郎くん、『江~姫たちの戦国~』の芦田愛菜ちゃんに続いて、またまたスターになるのでしょうか。今話で出番が終わりなのが残念です。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村

by sakanoueno-kumo | 2013-01-14 02:12 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(0)  

八重の桜 第1話「ならぬことはならぬ」 ~什の掟~

 幕末から明治、大正、昭和を生き抜いた“ハンサム・ウーマン”山本八重ことのちの新島八重の物語が始まりました。第1話は八重の生まれ育った会津藩の藩風が描かれた回でしたね。のちの戊辰戦争の悲劇の象徴である会津藩ですが、なぜそのような末路になってしまったかは、会津藩とはどのような藩であったか、そして会津松平家の徳川将軍家に対する立ち位置から知るべきでしょう。

 会津松平家の初代藩主は徳川三代将軍家光の異母兄弟である保科正之。一昨年の大河ドラマの主人公・お江の夫・徳川二代将軍秀忠が女中に手を出して産ませた人物です。もっとも、秀忠存命中は正之を公式に実子と認めることはなく、その事実が公然となったのは秀忠の死後、家光の代になってからでした。一説には、恐妻家だった秀忠が妻・お江の嫉妬を恐れ、譜代大名の保科正光の養子としたともいわれますが、いかがなものでしょう。正之は謹厳実直で有能な人物だったといわれ、秀忠の死後、家光はこの異母弟をことのほか可愛がり、会津23万石に引き立てました。そして家光の死後はその遺命により、第4代将軍となった徳川家綱の補佐役となって幕政の安定に寄与していくこととなります。

 慶安4年(1651年)家光は死の淵に臨んで枕頭に正之を呼び出し、「宗家(徳川家)を頼みおく」と言い残したそうです。これにたいそう感銘した正之は、のちに『会津家訓十五箇条』を定めました。その第一条に、「大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず、面々決して従うべからず。」と記されています。
 意味は「徳川家への御恩を忘れることなく、ひたすら忠勤にはげみ、決して他藩の動向に流されてはならない。もし、徳川将軍家に対して逆意を抱くような会津藩主があらわれたならば、そんな者は我が子孫ではないゆえ、家臣は決して従ってはならない。」といったところでしょうか。つまり平たく言えば、「どんなことがあっても会津藩士は徳川家をお守りせよ!」ということですね。以降200年、会津藩主・藩士はこれを忠実に守り、そしてドラマの舞台である幕末を向かえました。そしてこの家訓が、会津藩の運命を決めることになります。

 会津藩は教育熱心な藩風としても知られていました。会津藩士の子は皆10歳になると日新館に入学することが義務付けられていましたが、入学前の6歳から9歳までの子どもたちを10人前後のグループに分け、これを「什(じゅう)」と呼びました。子どもたちは毎日、什の仲間のいずれかの家に集まり、会津藩士としての心得を学びます。それが、有名な「什の掟」です。

 一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ
 一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
 一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ
 一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
 一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
 一、戸外で物を食べてはなりませぬ
 一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ
 ならぬことはならぬものです


 何年か前のベストセラー『国家の品格』の中で紹介されて全国的に有名になりましたね。現代でも福島県の子どもたちは皆、暗誦できると聞きます。江戸時代、什の子どもたちは毎日これを暗誦し、そして今日一日これに背いた者がいなかったか皆で反省会を行いました。そして掟に背いた者がいれば、子どもたちの間で話し合い、「竹篦(しっぺい)」などの制裁を決めたそうです。子どもたちに心得を持たせ、子どもたちの問題は子どもたちの手で解決させる。6歳から9歳といえば、今で言えば幼稚園から小学校低学年ですよね。そんな幼いときから徹底的に心得を叩き込み、藩士としての自覚を持たせる。藩あげての人材育成だったわけですね。現代の教育現場も見習うべきところがあるような気がします。

 「什の掟」の7条のうち、最後の7条目を除いた6条は、現代でもまったくもって通用する心得ですし、昔に比べて現代人に欠落している心得ですね。もう一度教育の場で見直してみてもいいんじゃないでしょうか。なぜイケナイかという理屈ではなく、問答無用でダメなものはダメ。
「ならぬことはならぬ!」
躾の基本のような気がします。

 そんなお国柄の会津藩で、八重は生まれ育ちました。その後の八重の人生に、会津の心得は大きく影響したであろうことは想像に難しくありません。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村

by sakanoueno-kumo | 2013-01-07 03:05 | 八重の桜 | Trackback(2) | Comments(6)  

八重の桜 キャスト

 2013年の大河ドラマは幕末から明治、大正、昭和を生き抜いた “ハンサムウーマン” 新島八重(山本八重)の生涯を描く『八重の桜』です。八重は、戊辰戦争の悲劇の象徴である会津藩の砲術指南の家に生まれ、白虎隊の戦いに代表される鶴ケ城の攻防戦では、男装して自らスペンサー銃を取って銃撃戦に参加したと伝えられる豪傑女性で、のちに「幕末のジャンヌ・ダルク」とか、「会津の巴御前」などと称されたそうです。

 維新後、のちに同志社大学の創始者となるアメリカ帰りの新島襄と結婚した八重でしたが、男尊女卑の世の中で、夫を「ジョー」と呼び捨てにしたり、夫より先に車に乗ったりしていたそうで、世間からは「悪妻」と評されたそうです。夫の死後は赤十字社の社員となり、日清戦争日露戦争時には篤志看護婦として従軍。戊辰戦争時にはスペンサー銃を取って政府軍と戦った彼女は、今度は従軍看護婦として戦場の後方支援をしました。その功績から、皇族以外の女性として初めて政府より叙勲を受けたそうです。そんな女傑の物語が、今年の大河ドラマ『八重の桜』です。

***********************************************************************
主人公とその一族
山本八重→新島八重・・・・・・・・綾瀬はるか(少女期:鈴木梨央)
山本家
山本覚馬・・・・・・・・・・・・・西島秀俊
山本佐久・・・・・・・・・・・・・風吹ジュン
山本権八・・・・・・・・・・・・・松重豊
山本うら・・・・・・・・・・・・・長谷川京子
山本三郎・・・・・・・・・・・・・工藤阿須加
お吉・・・・・・・・・・・・・・・山野海
徳造・・・・・・・・・・・・・・・戸田昌宏
会津の人々
会津松平家
松平容保・・・・・・・・・・・・・綾野剛(幼少時:山下哲平)
照姫・・・・・・・・・・・・・・・稲森いずみ
松平容敬・・・・・・・・・・・・・中村梅之助
敏姫・・・・・・・・・・・・・・・中西美帆
会津藩士及びその家族
西郷家
西郷頼母・・・・・・・・・・・・・西田敏行
西郷千恵・・・・・・・・・・・・・宮崎美子
山川家
山川与七郎→山川大蔵・・・・・・・玉山鉄二
山川二葉・・・・・・・・・・・・・市川実日子
山川兵衛・・・・・・・・・・・・・山本圭
山川艶・・・・・・・・・・・・・・秋吉久美子
山川登勢・・・・・・・・・・・・・白羽ゆり
山川健次郎・・・・・・・・・・・・勝地涼
山川咲→山川捨松→大山捨松・・・・水原希子
山川美和・・・・・・・・・・・・・澤田汐音
山川常盤・・・・・・・・・・・・・信太真妃
神保家
神保修理・・・・・・・・・・・・・斎藤工
神保雪子・・・・・・・・・・・・・芦名星
神保内蔵助・・・・・・・・・・・・津嘉山正種
その他の会津藩士たち
佐川官兵衛・・・・・・・・・・・・中村獅童
萱野権兵衛・・・・・・・・・・・・柳沢慎吾
田中土佐・・・・・・・・・・・・・佐藤B作
林権助・・・・・・・・・・・・・・風間杜夫
横山主税・・・・・・・・・・・・・国広富之
梶原平馬・・・・・・・・・・・・・池内博之
秋月悌次郎・・・・・・・・・・・・北村有起哉
広沢富次郎・・・・・・・・・・・・岡田義徳
梁瀬三左衛門・・・・・・・・・・・山野史人
黒河内伝五郎・・・・・・・・・・・六平直政
古川春英・・・・・・・・・・・・・小市慢太郎
竹村幸之進・・・・・・・・・・・・東武志
小出鉄之助・・・・・・・・・・・・白石朋也
会津の女たち
中野竹子・・・・・・・・・・・・・黒木メイサ
日向ユキ・・・・・・・・・・・・・剛力彩芽
高木時尾・・・・・・・・・・・・・貫地谷しほり
高木澄江・・・・・・・・・・・・・宮下順子
江戸幕府
徳川家
一橋慶喜→徳川慶喜・・・・・・・・小泉孝太郎
徳川慶恕→徳川慶勝・・・・・・・・金子賢
徳川斉昭・・・・・・・・・・・・・伊吹吾郎
徳川慶篤・・・・・・・・・・・・・杉浦太陽
幕閣
松平春嶽・・・・・・・・・・・・・村上弘明
井伊直弼・・・・・・・・・・・・・榎木孝明
松平定敬・・・・・・・・・・・・・中村隼人
久世大和守・・・・・・・・・・・・津村和幸
幕臣
勝麟太郎→勝海舟・・・・・・・・・生瀬勝久
榎本釜次郎→榎本武揚・・・・・・・山口馬木也
朝廷
孝明天皇・・・・・・・・・・・・・市川染五郎
岩倉具視・・・・・・・・・・・・・小堺一機
三条実美・・・・・・・・・・・・・篠井英介
近衛忠煕・・・・・・・・・・・・・若松武史
中川宮・・・・・・・・・・・・・・小須田康人
薩摩藩
西郷吉之助→西郷隆盛・・・・・・・吉川晃司
大山弥助→大山厳・・・・・・・・・反町隆史
島津斉彬・・・・・・・・・・・・・林与一
大久保一蔵→大久保利通・・・・・・徳重聡
長州藩
吉田寅次郎→吉田松陰・・・・・・・小栗旬
桂小五郎→木戸孝允・・・・・・・・及川光博
久坂玄瑞・・・・・・・・・・・・・須賀貴匡
槇村正直・・・・・・・・・・・・・高嶋政宏
土佐藩
板垣退助・・・・・・・・・・・・・加藤雅也
京都の人々
大垣屋清八・・・・・・・・・・・・松方弘樹
小田時栄・・・・・・・・・・・・・谷村美月
新選組
斎藤一・・・・・・・・・・・・・・降谷建志
近藤勇・・・・・・・・・・・・・・神尾佑
土方歳三・・・・・・・・・・・・・村上淳
沖田総司・・・・・・・・・・・・・鈴木信二
永倉新八・・・・・・・・・・・・・水野直
藤堂平助・・・・・・・・・・・・・住吉晃典
諸藩の志士たち
佐久間象山・・・・・・・・・・・・奥田瑛二
宮部鼎蔵・・・・・・・・・・・・・宮内敦士
真木和泉・・・・・・・・・・・・・嶋田久作
その他の人々
川崎尚之助・・・・・・・・・・・・長谷川博己
新島七五三太→新島襄・・・・・・・オダギリジョー
***********************************************************************

 主演の綾瀬はるかさんは大好きな女優さんですが、女傑とは180度逆のイメージの可憐な方だけに、新島八重という女性をどう演じるか見ものですね。『JIN~仁~』咲さんとは全く違った幕末の女性を見せてもらえそうで楽しみです。新島襄役のオダギリジョーさんは、写真で見る限りでは笑っちゃうほどイメージぴったりですね。「ジョー」という名がそのままなのも、偶然とはいえ面白いところです。ミスター大河俳優と言っても過言ではない西田敏行さんは福島県出身だそうで、今回の作品に臨む思いは並々ならぬものだろうと思います。あと、おそらく出番は少ないでしょうが、勝海舟役の生瀬勝久さん、徳川慶喜役の小泉孝太郎さん、佐久間象山役の奥田瑛二さんはハマリ役っぽいですね。興味深いのは西郷隆盛役の吉川晃司さん。正直いって「???」です。楽しみにしてみましょう。

 さて、当ブログでは毎年大河ドラマのレビューを全話起稿してきましたが、今年はおそらく不可能だと思います。というのも、私は今年の主人公である新島八重という女性のことをまったく知りませんでした。過去の白虎隊のドラマで機関銃を持って戦う女傑が登場することは知っていましたが、その女性が山本覚馬の妹で、のちに新島襄の妻となる女性だとはまったく知らなかった・・・。だいいち、新島襄という人物のことすらよく知りません。ドラマの制作発表があってから慌てて本を何冊か読みましたが、そんなにわか知識でウンチクを垂れるのは限界があります。それと、昨秋より個人的な事情でブログ更新の時間がなかなか作れなくなったという理由もあります。正直いって『平清盛』の後半は起稿がめちゃめちゃ重荷になってました。そこで今年は、無理をせずに自分のペースで、起稿したいと思ったときだけ更新しようと思います。だから文体も肩の力を抜いたものにしようかな・・・と。基本はドラマを楽しむためのブログですから。そんな気まぐれブログですが、よろしければまた覗いてやってください。今年もよろしくお願いします。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村

by sakanoueno-kumo | 2013-01-04 03:22 | 八重の桜 | Trackback | Comments(4)  

2013年元旦はケータイより新年のごあいさつ。

新年あけましておめでとうございます。
旧年中はひとかたならぬご厚情を賜り、誠にありがとうございました。
本年も相変わらず、よろしくお願いいたします。
e0158128_2151740.jpg近所のショッピングセンターのエントランスに飾られた門松です。
「松飾り」とも言いますよね。
昔と違って今は元旦から店があいてますから、年々正月らしさが薄れてきましたが、門松やしめ飾りなどを見ると多少は正月気分になりますね。
門松とは、古くは木のこずえに神が宿ると考えられていたことから、年神を家に迎え入れるための依り代という意味合いがあるそうです。
ただの正月ディスプレイではなかったんですね。
新年に松を家に持ち帰る習慣は平安時代に始まったそうで、室町時代には現在のように玄関の飾りとする様式が決まったと言われているそうです。

あと、関西関東は門松の形が違うって知ってました?
本来、関西では根元を竹で包み、竹の切り方も「寸胴(ずんどう)」といって、節を残して真っ直ぐ平に切る形だそうで、関東では、根元は藁で包み、竹の切り方は「そぎ」といって、斜めに切った形だそうです。
関東風の「そぎ」は徳川家康が始めたものだと言われているそうで、家康の生涯唯一の敗北として知られる元亀3年(1573年)の「三方ヶ原の戦い」のあと、敵将である武田信玄に対して、「次は斬るぞ」という念を込めたのが始まりといわれているそうです。
ということは、関東風より関西風のほうが歴史があるということですね。
でも、ここは神戸ですが、どういうわけか写真の門松は関東風ですよね。
調べてみると、今は寸胴よりも関東形の「そぎ」が全国で一般的になっているのだとか。
たしかに、関西にいても関西風の門松はあまり見かけないような気がします。
なんででしょうね。
何もそんなものまで全国共通にしなくても、地域独自の伝統を継承していって欲しいと思うのは私だけでしょうか?

と、ウンチクはこでくらいにして、何はともあれ2013年の始まりです。
昨年は私にとって転機の年でした。
今年は、出来れば飛躍の年にしたいですね。
昨秋以降、ブログの更新頻度も減っていますが、ボチボチと続けていきますので、本年も引き続きよろしくお願いします。

平成25年1月1日


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村 ニュースブログ 時事ニュースへ
にほんブログ村 野球ブログ プロ野球へ

by sakanoueno-kumo | 2013-01-01 21:05 | 日常 | Trackback | Comments(2)