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八重の桜 第8話「ままならぬ思い」 〜新選組登場〜

 勤王佐幕の渦巻く幕末史のなかで、佐幕派の象徴ともいえる新選組が登場しましたね。会津藩を中心とするこの物語では、なおさら新選組を無視することはできません。ところで、この新選組についてですが、「新選組」と書くか、「新撰組」と書くかについて一定していません。どうも、幕末においても両方の文字が使われていて、どちらが正しいとはいえないようです。そこで、当ブログではNHKの公式HPにしたがって「選」を使用することにします。

 いまさら新選組について説明するまでもないかもしれませんが、今週は特筆することが他にないので新選組結成の経緯について簡単にふれます。新選組の前進は、江戸で結成された浪士組。文久2年(1862年)頃、京都で尊攘浪士が気勢をあげたように、江戸でもまた尊攘浪士と称する者たちが集まり、あるいは尊攘に名を借りて悪事を行う輩もあったりで、幕府はこの統制に苦しんでいました。そんな折、出羽国庄内出身の尊攘志士・清河八郎が、浪士を集めて俸禄を与え、幕府のために働かせる案をもって幕臣を説きます。浪士統制に苦しんでいた幕閣はこの案を採用し、第14代将軍・徳川家茂の上洛に際して、将軍警護の名目で浪士を集めます。

 幕府は、この浪士組によって京都の尊攘派を牽制させようと考えます。文久3年(1863年)3月、集まった約200人の浪士組は京都に入り、洛西壬生村に宿営しました。ところが京都に入るやいなや、隊の発起人である清河八郎が同地の尊攘派と提携し、幕府の意図とは逆に、反幕的行動をとろうとします。もともと清川は、一時は幕府の捕吏に追われるほどのガチガチの尊攘派であり、この行動は清川の計画どおりでした。幕府の名を借りて反幕組織を作ろうとした清川でしたが、そんな浪士組の動静に不安を抱いた幕府は、清川ら浪士組を江戸へ呼び戻します。その後も清川は浪士組を動かそうとしますが、彼のスタンドプレイは各方面に敵を作ることとなり、文久3年(1863年)4月13日、幕府の刺客によって暗殺されます。

 まさしく「策士策におぼれる」を絵に描いたような清川でしたが、彼の奇策によって、彼の意とは反した奇妙な団体を生むことになりました。浪士組上洛の折、清川と意見を異にした24人の浪士たちが京都に残留し、「壬生浪士組」(誠忠浪士組ともいう)と称する組織を結成します。これが、のちに新選組となっていくんですね。やがて彼らは会津藩主で京都守護職松平容保の配下となり、主に不逞浪士の取り締まりと市中警護を任されます。そして、おそらくドラマでは次週描かれるであろう「八月十八日の政変」以降、新選組は歴史の表舞台に登場することになります。

 通常、新選組といえば近藤勇土方歳三沖田総司らがクローズアップされますが、おそらくこの物語でスポットが当たるのは斎藤一でしょう。斎藤一は「新選組屈指の剣客」といわれる人物ですが、明治維新後、会津藩と深く関わりを持つことになる人物です。ネタバレになりますが、ドラマでは八重の幼馴染という設定の高木時尾と結ばれることになるんですね(もっとも、斎藤にとって時尾との結婚は再婚でしたが)。そのとき上仲人を務めたのが松平容保だったと言います。一国のお殿様一介の浪人上りの剣客の仲人を引き受けるなど、明治の世に変わっていたとはいえ、考えられないことだったでしょうね。「一生嫁に行かない」と言っていた時尾でしたが、そんな幸せな未来が待っています。

 ところで、斎藤一役の降谷建志さんは、ドラゴンアッシュのボーカルで古谷一行さんの息子さんだそうですね。今日聞くまでまったく知らなかった私はオジサンでしょうか? ちなみに古谷一行さんといえば、私が子供の頃見たドラマで(大河ドラマではなかったと思いますが)、土方歳三役を演じておられたのを覚えています。同じ斎藤役だったら面白かったのにね~・・・って、ドラマとはあまり関連性のない今話のレビューでした。


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by sakanoueno-kumo | 2013-02-25 22:44 | 八重の桜 | Trackback(2) | Comments(4)  

ロシアの隕石落下と日本の隕石の歴史。

先週末、ロシア南部に落下した隕石の話題で世界中がもちきりのようですね。
また、同じ日に直径45メートルの小惑星が地球に史上最も接近したという報道もあり、「隕石災害」への関心がにわかに高まっています。
NASAの発表によると、ロシアに落下した隕石の大気圏突入前の大きさは直径約17メートル、重さ約1万トンと推計しているそうで、爆発の威力は広島型原爆の30倍以上に相当するとか。
現地では約1200人の負傷者が出たそうですが、よくその程度ですみましたね。
これがもし日本の・・・しかも東京や大阪など大都市に落下していたら・・・考えるだけでも身の毛がよだちます。
ユーチューブで映像を見ましたが、まるでミサイルが攻めてきたようでしたね(といっても、ミサイル落下を見たことはありませんが)。
聞くところによれば、地球には直径10メートル以内の小さな隕石は、ほぼ毎日のように落下しているそうで、でも、そのほとんどが大気圏に突入した際に、空気の摩擦によって個体を維持できず、燃え尽きてしまうそうです(それが流れ星ですね)。
歴史的にみれば、巨大な隕石が落下したという記録はたくさんあるそうですし、地球規模でいえば、このたびの隕石落下なんて小さな石ころがちょっとかすったレベルでしょう。
恐竜が絶滅したのは隕石落下によるという説もありますしね。

古代から隕石落下を意味しているであろう伝承は数多くあるそうですが、立証されている世界最古の隕石は日本にあるそうですね。
貞観3年(841年)に現在の福岡県直方市に落ちた隕石がそれで、伝承によれば、同地区にある武徳神社(今の須賀神社)境内に光り輝く物体が落下し、翌日、深くえぐられた土中から黒く焦げた石が掘出され、桐箱に納めて保存したという記録が残っているそうです。
現代になって研究者の調査により、世界最古の隕石だと立証されたのだとか。
隕石は現在も須賀神社に保管されているそうで、祭りの際に一般公開されるそうです。

根拠を伴わない俗説レベルの話で言えば、5世紀後半から6世紀の前半頃、関西地区に巨大な隕石が落下し、当時の政治・文化がほぼ絶滅するほどの被害を受けたという説があるそうです。
その被害は甚大なものだったそうで、この出来事によって日本の文明は実質的にいったんリセットされた・・・と。
そしてそれは当時の王朝、つまり天皇家も例外ではなく、それまでの王朝が滅び、新たな王朝が始まった・・・それが、継体天皇(第26代天皇)だというのです。
もちろん、これはひとつの説であり、正史ではありません。
ただ、まったくもって荒唐無稽な話ともいえない気がします。

万世一系といわれる天皇家ですが、この継体天皇のときに一度途絶えていたとみる研究者が多いのは確かで、実際に系図を見ても、武烈天皇(第25代天皇)の代で直系の血筋は一旦途絶え、応神天皇(第15代天皇)の5世子孫にあたる継体天皇が即位しています。
応神天皇とは、実在性が濃厚な最古の天皇といわれていますが、2代3代ならともかく、5代前まで遡った血筋なんて、どこまで信頼出来るかあやしいものです。
そんなことから、武烈天皇までのヤマト王権と、継体天皇以降の大和朝廷とは別もの、という見方はあながち否定できません。
たしかに、6世紀以降の歴史は、年代など詳らかな記録がたくさん残っていますが、5世紀以前の歴史は、古墳といい邪馬台国といい詳細な記録はほとんどなく、ほぼ謎といっていいですよね。
それが隕石落下により歴史がリセットされたせいだとしたら・・・ありえない話でもないんじゃないでしょうか。

話がそれましたが、いずれにせよ、私たち人間がのさばっている歴史など、地球規模の歴史でみれば、ほんのひとときにすぎず、この数万年間、たまたま大きな隕石が地球をそれてくれていただけに他なりません。
この先、恐竜が絶滅したといわれるほどの隕石が、いつ地球を襲うとも限らないですもんね。
それは隕石に限らず、地震にしても津波にしても、自然現象すべてにいえることでしょう。
人類が絶滅するほどの自然災害に見舞われたら、そのときは素直に諦めるしかないですね。

もし、局地的な被害ですむのなら、ヤマト王権が滅んで大和朝廷ができたように、永田町を一掃してほしいものです。
政権が変わって少しはマシになった気がしないでもないですが、いずれにせよ、いまの日本の政治形態も、一度リセットが必要なんじゃないでしょうか。


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by sakanoueno-kumo | 2013-02-19 21:25 | 時事問題 | Trackback | Comments(0)  

八重の桜 第7話「将軍の首」 ~足利三代木像梟首事件と言路洞開~

 文久2年(1862年)から翌3年にかけて、都では攘夷を唱える不逞浪士たちによる天誅騒ぎが相次いでいました。「天誅」とは、天に代わって罪あるものを誅伐するということですが、このころ尊王攘夷派激徒が行った天誅は、天の名を借りた猛烈なテロ行為であったというべきでしょう。標的となったのは、安政の大獄に関わって尊攘志士の怨みを買った者たち、また、公武合体運動、とくに和宮親子内親王降嫁に関係した公卿などでした。

 天誅の第一陣は、文久2年(1862年)7月の九条家の家士・島左近の暗殺でした。左近は、安政の大獄に活躍した人物です。犯人は「人斬り新兵衛」こと薩摩藩士・田中新兵衛らで、左近の首は四条河原に晒されました。翌月には目明しの文吉本間精一郎などが凶刃に斃れます。いずれも、新兵衛と同じく「人斬り以蔵」と恐れられた土佐藩士・岡田以蔵の犯行といわれていますが、目明しの文吉は、島左近とともに安政の大獄の際に志士の逮捕に当たった人物ですが、本間精一郎の場合は、尊皇攘夷派であったにもかかわらず、同志から疎んじられて暗殺されました。このことからも、「天誅」とはもはや正義の刃ではなく、利己的なテロリズムだったことがわかります。時代は殺伐としていました。

 京都守護職に就任した松平容保が1000人の会津藩士を率いて京都に入ったのは、文久2年も押しつまった12月24日のことでした。容保は黒谷の金戒光明寺内に本陣を構え、屋敷は御所のすぐ西隣に置きます。そして年が明けた正月2日、容保は御所に参内し、孝明天皇(第121代天皇)に拝謁します。小御所で孝明帝に拝謁した容保は、天盃および御衣を賜ります。武人に御衣が下賜されたのは異例のことで、徳川政権になってからは前代未聞のことでした。その後も孝明天皇は、容保にきわめて厚い信頼を寄せます。そんな容保が、やがては朝敵扱いとなってしまうのですから、なんとも不憫な話ですね。

 入京当初、容保は「言路洞開」を掲げて尊攘派公家や志士たちとの融和を目指します。しかし、そんな容保の考えを一変させる事件が起きてしまいます。「足利三代木像梟首事件」ですね。2月22日夜、尊攘激派の一味は、洛西等持院に押し入り、そこにあった足利尊氏足利義詮足利義満三代の木像の首と位牌を持ち出し、これを賀茂川原に晒しました。その立札には、「逆賊足利 尊氏・同義詮・名分を正すや今日にあたり、鎌倉以来の逆臣一々吟味を遂げ謀戮に処すべきところ、この三賊臣巨魁たる似よって、先ずその醜像天誅を加える者なり」と記し、また別に三条大橋の制札場に、足利将軍十五代の罪を攻撃する一文を貼り、その文章の終わりには、次のような意味の文が記されていたといいます。

 「今の世に至り、この奸賊になお超過している者がある。それらの者の罪悪は足利尊氏などよりも、はるかに大きい。もしそれらの者どもが、ただちにこれまでの罪を悔い改めなければ、満天下の有志は、追い追い大挙してその罪を正すであろう」

 この一文は、明らかに足利氏にかこつけて「倒幕」の意味を含むものであり、第14代将軍・徳川家茂の上洛が目前に迫るなか、幕府首脳部を脅迫するものでした。この事件に容保は激怒し、尊攘派取締対策を強硬路線に切り替えます。こうして、当初容保が目指した「言路洞開」絵空事に終わってしまうんですね。

 「言路洞開(げんろとうかい)」とは難しい言葉ですが、話し合いで解決の道を開くといった意味の言葉だそうです。平成の現代にも、「友愛」をもって近隣諸国と対話しようとしたものの、逆に相手につけ入る隙を与えて、尖閣諸島問題やら竹島問題やら北方領土問題やら、好き放題に荒らされて崩壊した政権がありましたね。「言路洞開」「友愛」・・・どちらも美しい言葉ですが、主義主張の違う相手に通用する言葉ではないようです。もっとも、だからといって容保のように強硬手段をとるのも賛成はできませんが・・・。強硬手段の行き着くところは「戦争」ですからね。戦争に持ち込まずに強硬な姿勢をとるにはどうすればいいか・・・歴史に学べ!・・・ですね。


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by sakanoueno-kumo | 2013-02-18 21:33 | 八重の桜 | Trackback(2) | Comments(2)  

仕事ついでの駿河国紀行 その2 ~徳川慶喜公屋敷跡~

駿府城跡を離れ、土産を買うべくJR静岡駅近くのビル街を散策していると、偶然、徳川慶喜公屋敷跡と書かれた石碑が目に止まりました。

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石碑の横には堂々の門構えがあり、「浮月楼」とあります。
公共の史跡ではなさそうだったので、おそるおそるなかを覗いてみると、どうやらそこは高級料亭のようでした。
徳川慶喜隠棲の屋敷が、いまでは料亭として残されているんですね。

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徳川慶喜といえば言うまでもなく、徳川幕府最後の将軍となった人物。
「権現様(徳川家康)の再来」と期待された英明な将軍・徳川慶喜でしたが、その実力を発揮しないまま、将軍就任わずか1年で大政奉還を行い、徳川幕府三百年の幕を引きます。
その後の王政復古戊辰戦争により朝敵となった慶喜でしたが、江戸総攻撃の前に行なわれた旧幕臣・勝海舟と新政府軍参謀・西郷隆盛との交渉により死罪を免れ蟄居の身となり、自身の故郷である水戸で謹慎した後、ここ駿府に移されました。
そのとき慶喜32歳。
現代で言えばバリバリ働き盛りの歳ですが、慶喜はその後、ほぼ隠居のような人生となります。

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説明看板によると、ここは元の代官屋敷で、近くに鉄道が通りうるさいというので西方へ転居するまで、慶喜は21年間ここに住んだそうです。
慶喜転居ののち払い下げられ、料亭となって現在に至っているそうです。
明治時代には、伊藤博文西園寺公望、井上馨、田中光顕など、錚々たる元勲たちに贔屓にされていたとか。
私は・・・、そんな由緒ある料亭の敷居をまたぐ甲斐性などあるはずもなく、こっそり外から眺めて写真だけ撮ってきただけです(笑)。
(看板によると、庭園はたいそう有名な庭師の作庭だそうです。)

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ところで、その後の慶喜は、明治30年に静岡を離れ、東京に移り住みました。
将軍就任、大政奉還と波乱に満ちた前半生の慶喜でしたが、32歳から約30年の後半生を静岡で目立たぬよう暮らしたことになります。
静岡隠棲の間、多くの女性との間に男10人女11人という子を持つ一方、鉄砲、自転車、写真など、多彩な趣味を楽しんだといいます。
一方で、旧幕臣や明治政府に不満を持つ元士族などには、決して会わなかったとか。
さすがは英明と称された慶喜、自身がそれらの者たちに担がれたら、どんな混乱を起こすか、自身の言動がどう政治的に利用されるか、ちゃんとわかっていたんですね。

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明治政府の足元が固まるまで、じっと30年間逼塞していた慶喜。
ある意味では、明治政府にとって最大の功労者の一人だったといえるかもしれません。
作家・司馬遼太郎氏は慶喜の半生を描いた小説『最後の将軍』のなかで、松平春嶽談として慶喜のことを「百の才智があって、ただ一つの胆力もない」と評していますが、はたしてそうでしょうか?
32歳という血気盛んな年齢から隠居の身となり、その後、新政府に対してことを荒立てるような行動をいっさい起こさなかったことこそが、百の才智であり、胆力であったといえなくもないです。
通常、歴史上の偉人は何事かを成して歴史に名を刻みますが、慶喜の場合、何もしなかったことが最大の功績だったという、歴史上たいへん稀有な存在だといえるでしょうか。


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by sakanoueno-kumo | 2013-02-16 16:32 | 静岡の史跡・観光 | Trackback(1) | Comments(2)  

仕事ついでの駿河国紀行 その1 ~駿府城跡~

先日、仕事で静岡に行ったのですが(参照:旅ゆけば、駿河の国に茶の香り…なう!)、普段あまり関西を出ることのない私としては、せっかくなので仕事を早めに切り上げて、少しだけ市内中心部を彷徨いてきました。
静岡県は、旧令制国時代いえば、駿河国、遠江国、伊豆国に別れますが、県庁所在地である静岡市は駿河国になります。
駿河といえば、徳川家康の最後の居城・駿府城があった国。
現在では、駿府城跡は県庁公園になっているんですね。

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もともと駿河国は室町時代、今川氏守護職として治めていましたが、9代・今川義元の頃、家康は人質として8歳から10歳の間を駿府で暮らしました。
しかし、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元が織田信長の手によって討たれると、今川氏は急速に衰退し、永禄11年(1568年)、武田信玄によって駿府を追われます。

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その信玄亡き後の武田氏を、家康が天正10年(1582年)に追放し、天正13年(1585年)には駿府城の築城を開始し、浜松城から移り住みました。
しかし、天正18年(1590年)、家康はときの天下人・豊臣秀吉に関東への移封を命じられ、駿府城の城主には豊臣系の中村一氏が配置されます。

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しかししかし、秀吉亡き後の関が原の戦いに勝利した家康は、征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開くと、わずか2年で将軍職を息子の徳川秀忠に譲り、慶長12年(1607年)に三たび駿府に入りました。
この時に城が拡張リニューアル工事され、駿府城は壮大な城として生まれ変わります。
大御所となった家康の居城として、築城に際しては「天下普請」として全国の大名が助役を命じられ、各地から優秀な職人や良質の資材が集められたと伝わります。

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家康の死後20年近く経った寛永12年(1635年)の火災により、天守閣など殆どの建物が焼失し、櫓、門等の建物は再建されますが天守閣は再建されませんでした。
以後、駿府城に城主はおらず、建物の規模も次第に縮小していくこととなります。

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ちなみに駿府城の火災はそれ以前にも幾度となくあったらしく、家康の生前中にも、リニューアル工事が完成した慶長12年(1607年)からわずか3年の間に、小火も含めると3度も火災に遭ったという記録が残されています。
これにはさすがの家康も辟易していたようで、とくに慶長14年(1609年)の火災では、原因となる火を出した女中が火罪で処刑され、その上司の女中も島流しの刑に処せられています。
たしかに3年間で3度の火災は多すぎですよね。
この辺りが、特に空気が乾燥した地域だとも思えないのですが・・・。

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本丸跡には家康の銅像が建っています。
なかなか凛々しい顔の家康でした(たぬきオヤジではありませんでした)。
左手にとまっているのはです。
家康が鷹狩りマニアだったことは有名ですね。

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よく、縁起のいい夢として「一富士、二鷹、三茄子」と言いますが、これはすべて家康が好きだったものだという説があります。
であれば、本丸から富士山が見えるはず・・・と見渡してみたら、言わずもがなでした。

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ここにあった天守閣は、5層7階で約55m×48mという城郭史上最大の天守閣だったと言いますから、さぞかし美しい眺めだったことでしょう。
いまから400年前、この場所で家康は富士山を眺めながら、鷹を片手に茄子を食していたのでしょうか(笑)。

ちなみに家康の銅像はJR静岡駅前にも建っていて、それがこちらです。
こちらの像は胴長短足でとっつぁん坊やの家康ですが、こっちのほうが本当の家康に近いんじゃないかという気がするのですが、いかがでしょうか?

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他にも近くには、家康の幼年期・竹千代像もありましたし、駅の南側には、大正4年に建てられた久能山東照宮三百年祭の塔が残されていました。
信長、秀吉、家康の戦国三英傑の中では、他の2人に比べてどうしても後世の人気に劣る家康ですが、お膝元であるここ静岡市のまちでは違うようですね。


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by sakanoueno-kumo | 2013-02-15 15:57 | 静岡の史跡・観光 | Trackback(1) | Comments(0)  

PC遠隔操作事件の容疑者逮捕で見えた課題。

他人のパソコンを遠隔操作して殺人予告を書き込んだ事件の容疑者が逮捕されましたね。
まるでドラマか映画のように警察を手玉に取ったサイバー犯罪でしたが、最後は防犯カメラに写って逮捕という、なんともありがちでお粗末な結末でした。
映画『踊る大捜査線』など物語の世界では、頭脳を駆使したサイバー犯罪を崩すのは、最後は捜査員の足だったり目だったりと、デジタルより最後はアナログが勝つのがお決まりのパターンです。
でも、物語はそれでいいのかもしれませんが、現実の世界もそれでは、一抹の不安は拭いきれませんね。
この度の事件はたまたま犯人がマヌケだっただけで、結局のところ警察は、インターネット上で犯人の足跡にたどり着くことは出来ませんでした。
犯人がもうちょっと賢かったら、防犯カメラに写るようなヘマはしなかったでしょう。
いまのところ容疑者は容疑を否認しているそうですが、実際のところ、防犯カメラ以外の証拠をどれだけ立証できるでしょうね。
防犯カメラは最先端の機器だったそうですが、どんなに優れたカメラでも現実の世界しか写せません。
サイバー犯罪の犯人はバーチャルな世界にいますから、ネット上で犯人にたどり着かなければ、本当の解決にはならないと思うんですね。
おそらく、これからこの種の犯罪は増える一方でしょう。
容疑者の逮捕で一件落着とはいかない事件です。

それにしても、逮捕された容疑者の風貌を見て、いかにも・・・と思ってしまった私は、偏見頭でしょうか。
風貌も去ることながら、その経歴を見ても、都内の有名私立中高に通うも内向的で友達は少なく、理工系大学に進学するもネットゲームに没頭して大学を中退、専門学校を経てIT関連会社に務めるも続かず・・・といった、教科書どおりの絵に描いたようなオタク君のようです。
おそらく、この種の若者はゴマンといるでしょう。
もちろん、オタク君が皆、犯罪者になるわけではないですし、なんでもゲーム世代というくくりで批評する風潮も私は好きではありませんが、逮捕されたこの度の容疑者を見ていると、やはり偏見の目で見てしまいます。
だって、彼が没頭していたというネットゲームも、警察を翻弄したこの度の犯罪も、同じパソコン上で行われていたわけで、彼にとってみれば、どちらも同じゲームだったのでしょう。
警察は右往左往するは、世間は騒ぐは、さぞかし楽しいゲームだったでしょうね。
今後心配されるのは、彼を真似た犯罪が次々と続出するということ。
かつて日本中を震撼させた神戸連続児童殺傷事件のあと、犯人の酒鬼薔薇聖人と名乗る少年が一部の少年少女の間でカリスマ的存在と化し、第二第三の残虐な少年犯罪が連続したという例があります。
この度のあのオタク君が、同じ種のオタク君の間でカリスマ扱いにならなければいいのですが・・・。

あと、忘れてはならないのは、この度の事件で4人もの誤認逮捕者を出して、しかも、そのうちのひとりは、やってもいない犯罪を一旦は自供したということ。
たびたび取り沙汰される冤罪事件で取り調べの可視化が声高に叫ばれている昨今、まだこのような自白強要が行われていることが浮き彫りになりました。
日本の警察のサイバー犯罪対策の強化も急を要しますが、もっと必要なのは、戦前の特高警察思考から未だ抜け切れない日本の警察の体質改善です。

いろんな意味で、課題を多く残した事件でした。


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by sakanoueno-kumo | 2013-02-12 22:41 | 時事問題 | Trackback(1) | Comments(0)  

八重の桜 第6話「会津の決意」 ~公武合体論と京都守護職~

 「桜田門外の変」で大老・井伊直弼が暗殺されると、幕府の権威は急速に失墜していきました。そこで幕府は、朝廷と手を結ぶことで権威の回復を図ろうとします。従来、朝廷は政治との関わりを規制されていましたが、黒船来航以来、にわかに高まった尊王思想大政委任論などにより次第に潜在的地位が高まり、さらに日米修好通商条約をめぐる論争・政治工作のなかで、老中・堀田正睦が反対勢力を抑えるために孝明天皇(第121代天皇)から勅許を得ようとしたことから、天皇および朝廷の権威は急速に上昇していきました。

 そんななか、朝廷と結束することで幕府の権威低下を防ごうという「公武合体論」が浮上します。ドラマでは割愛されていましたが、井伊直弼の死後、幕政の中心となっていた老中・久世広周安藤信正らは、第14代将軍・徳川家茂の正室に、孝明天皇の妹・和宮親子内親王を降嫁させます。皇女を将軍家御台所に迎えたいという案は井伊直弼生存中からありましたが、当時の案は幕府が朝廷を統制する手段として考えられていたもの。しかしこの段に及んでの婚姻の意図は、いわゆる「公武合体」、すなわち、朝廷の権威を借りて幕府の権威を強固にしようという考えであり、幕府にとってみれば藁をもつかむ策だったわけです。

 一方、幕府の権威低下に伴い、これまで幕政から遠ざけられていた親藩有力外様大名の政治力が急速に高まり始め、有力諸侯を国政に参画させて国難を乗り切るべきであるという公議政体論が台頭しはじめます。文久2年(1862年)6月には、かつて将軍継嗣問題一橋慶喜擁立を推した島津斉彬の実弟で、同藩最高実力者の島津久光が兵を率いて上京し、朝廷から勅使を出させ、その権威を後ろ盾として幕府の最高人事に介入し、一橋慶喜を将軍後見職に、福井藩前藩主・松平春嶽を大老職に相当する政事総裁職に起用することを幕府に認めさせます。いわゆる「文久の改革」です。

 その頃、京都では攘夷を叫ぶ志士が勢いづいており、朝廷内でも破約攘夷論を唱える公家たちが台頭していました。その結果、開国論をとる薩摩藩は朝廷での支持基盤を失ってしまいます。京のまちでは攘夷論を唱える過激な志士たちによる「天誅」と称した殺傷事件が頻発しており、その対象は、攘夷論に反対する幕府よりとみなされた公家やその家臣たちでした。幕府はそうした状況を見かね、京都守護職という軍事職の新設を決めます。そこで白羽の矢が立てられたのが、八重たちの会津藩だったのです。

 京都には、朝廷の監視を任務とする京都所司代が置かれていました。通常、十万石前後の譜代大名が任命される役職でしたが、「天誅」と称したテロの嵐が吹き荒れる京都の治安は、所司代レベルの力で抑えられる域を超えていました。そこで幕府は、二十三万石の会津藩の武力を持って京のまちを鎮撫しようと考えたのです。

 時の藩主は9代目の松平容保。尾張藩の分家・美濃高須藩主・松平義建の六男として生まれた容保でしたが、叔父に当たる会津藩8代目藩主・松平容敬の養子となります。容保が容敬に変わって藩主の座に就いたのは、黒船来航の前年、嘉永5年(1852年)のことでした。藩主になって10年。容保は大きな決断を迫られることになります。

 容保に京都守護職就任を求めたのは、ドラマのとおり政事総裁職の松平春嶽でした。要請を受けた容保が頑なに固辞したのもドラマのとおりです。家老の西郷頼母をはじめ家臣たちも猛反対。いわば無政府状態に陥っていた京都で守護職を務めるということは、ドラマで頼母が言っていたとおり、薪を背負って火に飛び込んでいくようなもの。自ら死地に飛び込むのと同じというわけでした。しかし、春嶽はなおも容保を説得します。もし、藩祖の保科正之が存命ならば、必ず引き受けただろう・・・と。これは容保にとっては殺し文句でした。将軍家への絶対的な忠誠を歴代藩主に求めた『会津家訓十五箇条』(参照:第1話「ならぬことはならぬ」)にしても、養子という立場での藩主であるがゆえに、なおさら容保の心に重くのしかかっていたに違いありません。ここに至り、容保は京都守護職就任を引き受けてしまいます。文久2年(1862年)8月1日のことでした。この決意により、八重たち会津藩の人々の運命は大きく変わることになります。


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by sakanoueno-kumo | 2013-02-11 02:33 | 八重の桜 | Trackback(2) | Comments(2)  

八重の桜 第5話「松蔭の遺言」その2〜桜田門外の変〜

 安政の大獄の嵐が吹き荒れた安政6年(1859年)が暮れて、翌万延元年、大老・井伊直弼の独裁専制と志士弾圧に反発する空気はいよいよ緊迫し、「除奸」すなわち奸物・井伊を暗殺しようという計画が、水戸藩士と薩摩藩士のあいだで進められました。

 政敵の弾圧に成功した直弼は、さらに水戸藩に圧迫を加えます。幕府は水戸藩を威嚇して、安政6年(1859年)に朝廷より同藩に下った勅諚(条約締結断行など、幕政に対して天皇が不満に思っているということが記された書状)の返上を迫りました。「勅諚」とは天皇直々のお言葉のことですが、この時代、天皇が政治的発言を行うことはほとんどなく、ましてや、幕府を介さずに直接水戸藩に勅諚が下されるなど、前代未聞の出来事でした。ときの帝・孝明天皇(第121代天皇)は元来、異国人の入国を病的なまでに嫌い、直弼が勅許を得ずに調印した日米修好通商条約締結を知って激怒しました。そんな天皇の意志を利用し、薩摩の西郷吉之助(隆盛)や水戸藩士など先の将軍継嗣問題において失脚した一橋派の志士たちは、公卿への工作を行い、直弼の大老職の免職、徳川斉昭の処罰の撤回などを呼びかけ、形成の挽回をはかろうとします。その工作により天皇を動かして出されたのが、この勅諚でした。これが幕府にとって面白くないことであったのは言うまでもありません。この勅諚は「戊午(ぼご)の密勅」と呼ばれ、直弼をはじめ幕府首脳部に強い危機感をもたらし、安政の大獄の引き金になったとも言われています。

 幕府の水戸藩に対する勅諚返上命令を受けて、水戸藩内では大紛争が巻き起こり、幕府の指令に忠実に従おうとする鎮派と、断固として返上反対を訴える激派とに二分します。鎮派は主に藩首脳陣で、激派の者たちは主として下級の藩士層でした。藩内の対立が激化するなか、激派の中心人物だった高橋多一郎金子孫二郎関鉄之介らは、ひそかに脱藩して江戸に入り、薩摩藩士・有村次左衛門らとともに、3月3日上巳の節句の日、登城する井伊直弼を桜田門外において襲撃する手はずをととのえます。

 この年の3月3日は、現在の暦でいえば3月24日で、早ければ桜が咲き始める時期でしたが、この日は季節外れの大雪でした。雪のため視界が悪かったのか、あるいは警護が杜撰だったのか、井伊を乗せた駕籠の行列総勢60余人は、たった18人の水戸脱藩浪士たちの手によってさんざんに切りつけられます。駕籠内にいた直弼は、最初に短銃で撃たれて重傷を負っていたため駕籠から動けず、供回りの彦根藩士は狼狽して多くが遁走、駕籠は地上に捨て置かれたままでした。襲撃者たちは駕籠の外から何度も刀を突き刺した後、瀕死の直弼を駕籠から引きずり出し、首を刎ねました。享年46歳。幕府大老となって、わずか2年足らずの命でした。

 この暗殺によって、直弼が守ろうとした幕府権力ならびに独裁的政治秩序は急速に失墜していきます。水戸の名もなき下級藩士たちの手によって時勢が動いたという現実。この「桜田門外の変」が全国の攘夷派志士たちに与えた衝撃ははかり知れず、これをきっかけに、「天誅」と称した血なまぐさい暗殺が繰り返されるようになります。その意味では、直弼の強権政治は新しい反幕・倒幕勢力を生み出す要因となり、またその死は、幕府の権威を落とすことになったといえるでしょうか。

 井伊直弼に対する後世の評価は真二つにわかれます。ひとつは、現実味のない攘夷論に与せず、客観的な視野を持って開国にふみきった開明的な政治家という評価と、もうひとつは、外圧に屈して違勅調印を行い、安政の大獄を起こして有能な人材を殺した極悪非道の政治家という批判です。はたしてどちらが正しい評価でしょうか。

 私は、そのどちらでもないと思います。開国にふみきった経緯で言えば、彼は決して積極的に通商条約に調印したわけではなく、外圧におされてやむなく調印したのであり、その証拠に、条約はいわゆる不平等条約でした。彼が行った開国は、決して先見の明といえるものではなかったでしょう。一方で、勤王の志士たちを殺した悪逆無道の政治家という評価は、これもまた、客観性を欠いた批判といえるでしょう。幕府大老として幕権を守ろうとするのは当然のことで、違勅調印に対する批判にしても、のちの王政復古史観皇国史観の立場からの見方で、天皇の意志を絶対視する考えの上からの批判といえます。幕閣である直弼の立場では、天皇の意思よりも幕府を重んじるのは当然のことでした。

 私は、井伊直弼批判の声をもっとも大きくしたのは、吉田松陰を殺したことだと思います。松蔭の教育を受けた者たちが、やがて明治の世の元勲となり、長州藩閥が形成されたとき、彼らの恩師である松蔭を殺した井伊直弼という人物は、極悪人というレッテルを貼られ、それに対する異論は封じられたのでしょう。その意味では、直弼の最大の失策は、松蔭の処刑だったように思います。もし、島流しぐらいにしておけば、後世にそれほど避難されることはなく、現代の小説やドラマでも、違った描かれ方をしていたかもしれません。

 いずれにせよ、「安政の大獄」「桜田門外の変」という2つの大きな出来事を引き起こした井伊直弼は、歴史を大きく動かした人物であることは間違いありません。


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by sakanoueno-kumo | 2013-02-05 20:30 | 八重の桜 | Trackback(2) | Comments(0)  

八重の桜 第5話「松蔭の遺言」その1〜安政の大獄と吉田松陰〜

 江戸幕府大老・井伊直弼の断行した安政の大獄により、多くの志士たちが切腹死罪などの極刑に処せられましたが、そのなかのひとりに吉田松陰(寅次郎)がいました。松蔭は、このとき重罪を科せられた志士のなかでは、もっとも異彩を放つ人物といえます。というのも、安政の大獄によって処罰された者のほとんどは将軍継嗣問題で一橋派に与した者たちでしたが、松蔭の場合、その問題にはまったく関係しておらず、そればかりか、彼は安政期を通じてほとんど長州藩で幽囚生活を送っています。そんな彼が、なぜ死罪に処せられたのでしょうか。ここで少しばかり吉田松陰について触れてみます。

 嘉永7年(1854年)の2度目の黒船来航の際、黒船に乗り込んで密航を試みた罪で、郷里の萩へ送られ投獄された松陰でしたが、翌年には釈放され、自宅蟄居となりました。蟄居という身であるため、家から出ることは許されなかったものの、自宅で叔父の玉木文之進が開いていた「松下村塾」を引き継ぎ、後進指導にあたりました。蟄居の身である松蔭のこのような活動を黙認していたことに、長州藩の松蔭に対する寛大さがうかがえます。

 松下村塾の門下からは幕末維新から明治にかけての多数の人材が輩出されました。おもな門下生には、高杉晋作久坂玄瑞伊藤博文山縣有朋前原一誠品川弥二郎などがおり、木戸孝允もまた、松蔭の強い影響を受けたひとりです。松蔭がのちの明治維新に与えた影響は多大なものであったといえるでしょう。

 松蔭の松下村塾における教育方針は、厳正な規則を立てて生徒を率いるというものではなく、師弟相互に親しみ助け合い、尊敬信頼し、たがいに腹を割って交わるといったものでした。通常の塾のように師匠が一方的に教えるというかたちではなく、松蔭も弟子も一緒になって意見を交わし合うディスカッション方式をとり、机上の学問だけでなく、登山や水泳なども共にしたといいます。しかも、武士の者も足軽の子も平民の子も差別なしの教育でした。松下村塾における平等思想は、幕府を中心とする封建制の否定を意味していたのかもしれません。
 「かくすれば かくなるものと知りながら 已むに已まれぬ大和魂」
とは、松蔭の心情を述べた句として有名ですが、己の信ずるところを突き進む熱狂的な松蔭の教育は、当時の若者たちの心を大きく震わせるものでした。

 松蔭は、お隣の清国アヘン戦争によって西欧列強の植民地になった現実を知り、日本も同じ道を辿るのではないかと危惧し、藩単位でバラバラな日本の体制を憂います。そして、天皇を中心とした挙国一致体制をとるべきだと考えるようになるんですね。夷狄(異国)を打ち払い、天皇を中心とした政治を行うという、いわゆる尊皇攘夷思想です。やがてその思想は、幕府を否定する論調にまで及んでいきます。幕府にとっては、松蔭の存在自体が危険だったわけです。

 安政の大獄によって再び捕らえられた松蔭は、長州から江戸へ送られて取り調べを受けます。このときの幕府の取り調べは別の嫌疑についてでしたが、どういうわけか彼は、幕府の志士弾圧に憤慨し、老中・間部詮勝暗殺しようと計画したこと、公卿・大原重徳を長州に迎え、藩主をして重徳を擁立させようと計画したことなどを、自らすすんで告白しました。しかも、自身を死罪にするのが妥当だと主張したとか。このあたりが、後世に“狂人”と言わしめるところでしょうか。結局これが井伊の逆鱗にふれるところとなり、安政6年(1859年)10月27日に斬首となります。享年30歳。

 「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」
 (私の命がたとえ この武蔵野の野で終えることになっても、私の心はここに留めておこう。)


 ドラマでも使われていた松蔭の辞世の句ですが、これは彼の最期の著書となった「留心録」の冒頭に記されている句です。この言葉は、日本中の草莽の志士たちの心を奮い立たせました。自身の死をもって時勢を先導した吉田松陰。その過激さは、やはり“狂人”の域だったのでしょうか。

 ドラマでは出てきませんでしたが、もうひとつ松蔭の辞世の句として有名な言葉があります。

 「親思ふ心にまさる親心 けふのおとずれ何ときくらん」
 (子が親を思う気持ちより、親が子を思う気持ちのほうがはるかに大きい。私が処刑されたことを知ったら、親は何と思うだろう。)


 こちらの上の句は後世に有名ですね。先述の句が弟子たちに宛てたものだったのに対し、こちらの句は家族に宛てた言葉だと言います。親思う心にまさる親心・・・この句を聞けば、松蔭が決して狂人ではなかったことがわかりますね。

 「至誠にして動かざるものは 未だこれあらざるなり」
 (誠意を尽くしてことにあたれば、動かせないものはない。)


 松蔭にとっての「至誠」とは、この時点では死をもって訴えることしかなかったのかもしれません。その彼の誠の意志は、やがて後進に引き継がれて行きます。

 思いのほか長文になってしまったので、明晩、その2~桜田門外の変~に続きます。


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by sakanoueno-kumo | 2013-02-04 21:06 | 八重の桜 | Trackback(2) | Comments(0)