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心に残る名曲 No.11 『セパレイト・ウェイズ』 ジャーニー

今月は、野球ファンにとって4年に一度のお楽しみ、ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)月間でしたが、われら日本代表のサムライジャパンは惜しくも3位という結果に終わりましたね。
大会3連覇の夢が潰えて残念でしたが、ともあれ一生懸命戦った代表選手の面々には、心から拍手を送りたいと思います。
オリンピックでもそうですが、やはり日の丸を背負った戦いは見ていて興奮しますね。

そんなサムライジャパンの激闘を演出していたのが、WBC公式テーマソングになっている、ジャーニー『セパレイト・ウェイズ』でした。
たしか、4年前の第2回大会でもこの曲が使われていましたよね(第1回はどうだったか覚えていないのですが)。
ワイルドな曲調とサムライジャパンの漲る闘士が重なって、めちゃめちゃカッコよく感じたのは私だけでしょうか。



この『セパレイト・ウェイズ』という曲はアメリカのロックバンド・ジャーニーの大ヒット曲で、1983年にリリースされてプラチナディスクとなったアルバム『フロンティアーズ』の1曲目に収録されている曲です。
当時、私は高校生で、ジャーニーの大ファンでした。
ハードロックなのに美しいメロディーラインの曲が多く、ボーカル・スティーブ・ペリーの透き通った歌声がたまんないんですよね。
1981年に全世界で1000万枚を売り上げたアルバム『エスケイプ』を聞いてジャーニーのファンになり、次のアルバム『フロンティアーズ』のレコードを買って、ワクワクしながら針を落とした瞬間、全身に電流が流れるほどシビレたのが、この『セパレイト・ウェイズ』のシンセサイザーのイントロでした。
ああいう感動って忘れられないんですよね。

私は学生時代、陸上部に所属していましたが、大会前には必ず気持ちを高めるために、ウォークマンでこの曲を聞いていました。
だから、私にとってこの曲は戦闘モードの曲、WBCのテーマソングとしてはピッタリの曲なんです。
ただ、実はこの曲の歌詞は、別れた彼女への思いを歌ったラブソングなんだそうで・・・(笑)。
英語がわかる人や外国人の方々からすれば、サムライジャパンのバックに流れるこの歌は、なんともミスマッチな歌詞なんでしょうね。

WBCのテーマソングとしてでしかこの曲を知らない若い世代の方々は、ぜひ一度とおして聴いてみてください。


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by sakanoueno-kumo | 2013-03-26 22:13 | 音楽 | Trackback | Comments(11)  

八重の桜 第12話「蛤御門の戦い」 ~禁門の変~

 「八月十八日の政変」によって、長州藩を中心とする尊攘派は都を追放されていましたが、京都大坂に潜伏していた残党と提携しながら、しきりに失地回復をはかり、ふたたび都への進出と勢力の奪還を目指していました。そして元治元年(1864年)に入って、なんとか天皇をもう一度手中に取り戻そう、そのために京都に乗り込もうとの進発論が盛んになります。といっても、この論に関しては、長州藩内でも必ずしも挙党一致ではありませんでした。

 進発論の急先鋒は、来島又兵衛真木和泉らであり、久坂玄瑞高杉晋作らは慎重派、桂小五郎(木戸孝允)は反対派でした。来島や真木は、いわば古い尊攘論者であり、桂や高杉などはそこから脱皮して、小攘夷をすて、外国との交易をおこない、富国強兵をはかり、諸外国と対等に対峙する力をつけるべきだとする考えに変わりつつありました。いわゆる「大攘夷論」というやつですね。そしてその道は、やがては倒幕へとつながっていきます。

 そんな情勢のなかで、6月には「池田屋の変」の報がもたらされます。来島や真木ら進発論派がいきりたったことは言うまでもありません。6月中旬から翌月上旬にかけて、長州藩の益田右衛門介福原越後国司信濃の三家老は諸隊を率いて東上、真木和泉をはじめ久坂玄瑞、入江九一らも行をともにし、7月中旬、長州藩兵および諸藩尊攘志士らは伏見、嵯峨、山崎方面に集結しました。

 当初、慎重派だった久坂は、長州藩の罪の回復を願う嘆願書を朝廷に奉っていました。これを受け、長州藩に同情して寛大な措置を要望する藩士や公卿もいましたが、一方で、断固として長州勢の駆逐を求める強硬派の声も大きく、朝廷内でも対立が起こります。そんななか、7月18日には有栖川宮幟仁熾仁両親王、中山忠能らが急遽参内し、長州勢の入京と京都守護職・松平容保の追放を訴えますが、一貫して容保擁護の姿勢をとる孝明天皇(第121代天皇)の意見を尊重し、最後は強硬姿勢でまとまります。そして翌7月19日、御所の九門のひとつ・蛤御門付近で長州藩兵と会津・桑名藩兵が衝突、ここに戦闘が勃発します。

 一時、長州勢は中立売門を突破して御所内に侵入するといった善戦をみせますが、薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢が逆転。結果、長州藩は圧倒的多数の幕府および諸藩兵に撃退されます。このときの様子を、長州勢に与していた公卿の中山忠能はその日記に、「九重(宮廷)の内外、甲冑の武士、切火縄・抜身充満。常御殿の御庭同断」「親王(祐宮南殿において御逆上・・・近臣新水を走り参り進上、御正気」と記し、また橋本実麗も、「今晩、先ず長州勢石山家裏より乱入、蛤門固の会津と戦争、此のところ殊に流れ玉激しく、宮中に及ぶ、浅猿き次第也」と記しています。ドラマにあったとおり、山本覚馬率いる会津藩の十五ドエム(口径15センチ)砲が猛烈な音を立てて打ち込まれ、殿上の公卿たちを震え上がらせた様子がうかがえますね。

 戦いはわずか1日で終わりましたが、落ち延びる長州勢とそれを追う幕府勢の放った火で、晴天続きで乾燥状態にあった京のまちは、たちまち火の海と化します。その戦火は3日に渡って燃え続け、堀川と鴨川の間、一条通と七条通の3分の2が焼き尽くされました。「甲子兵燹図」に描かれたそのさまは地獄絵図のようで、命からがら逃げおおせた人々も、山中から呆然と市中の火の海を眺めるばかりだったといいます。焼失戸数は4万2千戸ともいわれ、後世に伝わる「禁門の変」「蛤御門の変」といった呼び名は、のちの明治政府がこの戦いをなるべく小さくみせるためにつけた名称で、当時の呼び方では、干支をとって「甲子(きのえぬ)の戦争」といわれたそうです。
 「西洋の学問をしても、家焼かずにすむ戦のやりようは、わからんもんでっしゃろか?」
 ドラマ中、大垣屋清八が山本覚馬に対して言った台詞ですが、残念ながら家を焼かずにすむ戦のやりようは、21世紀の今になってもわかっていませんね。もっとも辛い思いをするのは何の罪もない庶民だということも、今も昔も変わっていないようです。

 この戦いにより、久坂玄瑞寺島忠三郎来島又兵衛真木和泉など、尊攘派のそうそうたるメンバーが戦死、あるいは自刃しました。ここで古い攘夷派は壊滅、激情的な猪突猛進型の攘夷運動は、このときに終わったといえるでしょう。覚馬たち会津藩の隆盛もまた、この頃が絶頂期でした。こののち、歴史は足早に展開していきます。


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by sakanoueno-kumo | 2013-03-25 20:52 | 八重の桜 | Trackback(2) | Comments(2)  

好走塁で勢いに乗って走塁ミスで終わったWBC・サムライジャパン。

第3回ワールド・ベースボール・クラシックは、優勝候補筆頭と前評判の高かったドミニカ共和国の優勝で幕を閉じました。
史上初の全勝優勝という結果ですから、文句のつけようがありませんね。
これにより大会3連覇の夢が潰えたサムライジャパンでしたが、それでも堂々の3位
ライバルの韓国キューバアメリカなどが、次々と予選で姿を消していくという波乱含みの大会のなか、2連覇中のディフェンディングチャンピオンとしてキッチリ決勝リーグまでコマを進めたわけですから、最低限の合格点といったところじゃないでしょうか?
まあ、もとより3連覇なんて夢のまた夢だと思っていたのですが、強豪国が次々と姿を消していってくれたので、もしかして3連覇あり???と色気を出した途端、足元をすくわれたといった感じです。
プエルトリコですか・・・(正直、眼中になかった・・・)。
おそらく、10回戦ったら8回までは日本が勝てる相手だと思うのですが、一発勝負だとこういうことが起こるんですよね。
ましてや、実力以上の結果を得て勢いに乗った格下の相手ほど、怖いもんはないですから。
まさしく、勝つと思うな、思えば負けよ・・・ですね。

ともあれ、結果を堂々の3位ですから、何も言わず拍手を贈りたいところですが、どうしても見逃せない話題は、プエルトリコ戦のあのダブルスチール崩れの挟殺プレーですよね。
ここ数日、TVもラジオもネットも、ありとあらゆる場所でこの話題がつきません。
そこで素人ながら私も少しだけあのプレーについて言わせてもらうと、正直言って「ありえない」という批判になっちゃいます。
挟殺された内川聖一選手やスタートを切らなかかった井端弘和選手に対してじゃないですよ。
いわばベンチワークに対してです。

あのプレーについて試合後の山本浩二監督は、「ダブルスチールをしてもいいというサインだったが、二塁ランナーの井端選手のスタートが遅れて、ああいう結果になった。」と説明していましたよね。
この談話を聞いて、素人の私にはよくわからないのですが、単独スチールならともかく、ダブルスチールで「してもいい」といった曖昧な指示なんてあるんですかね?
だって、二人の走者が打合せなく同時にスタートを切らないとダメなわけでしょう?
高校野球レベルではまずあり得ないサインだと思うのですが、仮にプロの世界では普通にあることだったとしても、走者二人の息が合わなければ、こういう結果になりますよね。
1年間ペナントレースを戦う同じチームの選手同士だったらまだしも(仮にシーズン中の井端・荒木コンビなら、あるいはアイコンタクトなどで意思の疎通ができるのかもしれませんね)、即席メンバーで構成された代表チームのメンバーでは、そこまでのコンビネーションは無理でしょう。
4番・阿部慎之助選手の打席でダブルスチールはないだろう、といった批判もあるようですが、私はそれ自体はいいと思うんですよ(相手投手は牽制やクイックも下手だったようですしね)。
でも、大事な逆転のチャンスだったわけですから、「してもいい」なんて選手任せの曖昧なサインではなく、「走る」なら「走れ」「待つ」なら「待て」といった、ハッキリした作戦でよかったんじゃないですかね。

あのプレーがあってもなくても、日本は負けていたかもしれませんが、あのプレーで意気消沈してしまったことは確かですよね。
できれば、そういった「たられば」が残る負け方はして欲しくなかったというのが率直な感想です。
思えば、波に乗れないままからくも2位通過で2次ラウンドに駒を進めたサムライジャパンを勢いづけたのは、延長まで突入した台湾戦で、9回土壇場で同点のホームを踏んだ鳥谷敬選手の盗塁だったと思います。
あの盗塁も、「いけたらいけ」というサインだったそうですが、あの場合、単独スチールですからそれもありでしょう。
あの鳥谷選手の盗塁が成功してあの試合に勝利して以降、日本チームは急激に強くなりましたよね。
もし逆に、あの盗塁がアウトで負けていたら、日本の決勝リーグ進出はなかったかもしれません。

一方で、日本の勢いを止めてしまったのは、このダブルスチールの走塁ミスだったといっていいでしょう。
野球というスポーツは、投手成績や打者の結果がどうしても注目されがちですが、実はこの「走塁」というのが結構キーポイントで、走塁が勝敗を左右することもままありますし、走塁がチームの雰囲気もガラッと変えます。
好走塁はチームを活気づかせますし、走塁ミスはチームの士気を一気に下げます。
その意味では、このたびのサムライジャパンは、好走塁で勢いに乗って走塁ミスで終わった・・・といっても過言ではないかもしれません。
内川選手の涙を見ていると、そう言ってしまうのは気の毒な気がしないでもないですが・・・。

ここで内川選手をフォローすると、4年前の世界一に輝いた決勝戦は、イチロー選手の逆転打ばかりが目立って記憶されていますが、その前に、内川選手のレフト守備でのスーパーファインプレーがあったから優勝できたんですよ。
そのことを思い出せば、差し引いてもあまりあります。
っていうか、今回の挟殺プレーも内川選手のせいじゃないですしね。
これを引きずらずに、ペナントレースに臨んでほしいものです。

とにもかくにも、4年に一度のWBCが終わりました。
また4年後に向けて日本野球も再出発となりますが、今大会前にも、一時は選手会が出場をボイコットしようとしたり、監督人事で揉めに揉めたり、メジャー移籍組がまったく参戦できなかったりと、まだまだシステムが確立されていない部分が多々見られました。
そういった経緯があったからか、心なしか第1回、第2回大会時より盛り上がりに欠けていた気がしないでもないのですが、私の思い過ごしでしょうか?
野球ファンの私としては、オリンピックの競技から除外されるなど、世界的に見ればマイナーな競技である野球を広く普及させるためにも、このWBCをぜひとも盛り上げて、サッカーのW杯のような位置づけの大会にしてほしい。
そのためには、第1回、第2回の覇者である日本が率先して大会を引っ張っていく・・・これは野球先進国として日本に課せられた当然の使命だと思います。
また4年後に同じようなゴタゴタを起こさないように、今から準備していく必要があるでしょうね。
WBCの今後の発展を心から願ってやみません。


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by sakanoueno-kumo | 2013-03-21 18:42 | プロ野球 | Trackback(1) | Comments(4)  

八重の桜 第11話「守護職を討て!」 ~佐久間象山暗殺~

 元治元年(1864年)7月11日、当時のわが国でもっとも開明的な知識人だったであろう、佐久間象山暗殺されました。享年54歳。象山は、これより遡ること10年前の嘉永7年(1854年)、来航したペリー艦隊に乗り込んで密航を企てた門弟の吉田松陰に連座して蟄居させられており(参照:第2話)、その罪が許されたばかりでした。

 信濃国松代藩士の佐久間象山は、儒教を東洋の道徳、科学を西洋の芸術と称し、この2つの学問の融合をはかり、早くから海防の必要性を説き、開国を論じ、公武合体を説きました。彼の論じるところは、分裂した国論を統一し、それによって国権の伸長をはかり、五大州をわが手に収め、その盟主となって、全世界に号令するという、実に気宇壮大なものでした。そんな象山の知識を吸収しようと、全国各地の優秀な人材が彼のもとに集いました。

 一方で、象山は自信過剰傲慢なところがあり、たいへん敵が多かったといわれています。彼の門弟であり義弟にもあたる勝海舟ですら、後年の回顧談で傲慢な象山のことをあまり高く評価していません(もっとも、海舟もまた、一癖も二癖もある人物ではあったようですが)。身分制度の厳しい封建社会において、若い頃より上者に対しても自身の意見を曲げず、不遜な態度がたびたびあったようで、何度か閉門などの罰を受けています。おそらく、自分以外の者がすべて馬鹿に見えるといった性格の持ち主だったのでしょうね。ただ、彼がこの時代の先覚者として、実に優れた人材であったことは間違いなく、彼の門弟からは、上述した吉田松陰や勝海舟をはじめ、橋本左内河井継之助、八重の兄の山本覚馬、さらにはあの坂本龍馬など、のちの日本を担う人物が数多く輩出されています。彼の存在が、幕末の動乱期に多大な影響を与えたことは紛れもない事実でしょう。

 蟄居がとかれた象山は、元治元年(1864年)3月、一橋慶喜(のちの第十五代将軍・徳川慶喜)に招かれて上洛し、朝廷内に公武合体論や開国論を説いてまわります。しかし、当時の京都のまちは、前年の「八月十八日の政変」によって尊攘派は表立った行動ができなくなっていたとはいえ、未だ尊攘派志士たちが数多く潜伏しており、勢力の奪還をはかっていました。そんななかを、象山は馬上洋装で都大路をさっそうと闊歩していたといいますから、その姿が尊攘派にとって格好のターゲットとなったことは想像に難しくありません。しかも、共も連れずに移動することもしばしばだったとも・・・。このあたりも、彼の自信過剰な性格を表しているといえるでしょうか。

 都で目立ちすぎた象山は、7月11日午後5時、刺客のために非業の最期を遂げました。刺客は、肥後の河上彦斎、隠岐の松浦虎太郎の二人だともいわれていますが、確たる証拠はありません。象山が殺された現場には、次のような斬奸状が残されていました。

 松代藩 佐久間修理
 この者、元来西洋学を唱え、交易開港の説を主張し、枢機の方へ立入り、御国是を謝り候。大罪捨て置き難く候の処、あまつさえ奸賊の会津藩、彦根の二藩に与党し、中川宮と事を謀り、おそれ多くも九重(天皇)御動座、彦根城へ移し奉り候。儀を企て、昨今しきりにその機会窺い候。大逆無道、天地に容るべからざる国賊に付、即ち、今日三条木屋町に於い、て天誅を加え畢りぬ。但し、斬首梟木に懸くべき処、白昼其の儀も能わざる者也。
 元治元年七月二十一日  皇国忠義士


 象山の死後、彼の妾が生んだ恪二郎家禄を相続すべく松代藩に申し入れますが、藩はこれを受け入れず、佐久間家の家禄を召し上げました。その理由は、殺された象山が背中に深傷を負っていることにふれ、「敵に背中を見せるとは、武士としてあるまじきことなり。」というものだったそうです。むろん、これが真の理由でなかったことは言うまでもありません。真の理由は尊攘派に対する体裁だったことは間違いないでしょうが、もし、象山が日頃から敵が多い人物でなければ、また違った扱われ方をしたかもしれませんね。最後は人格がものをいう、といったら、少し酷でしょうか。

 ドラマではおそらく描かれないでしょうが、相続を退けられた象山の息子・佐久間恪二郎は、八重の兄・山本覚馬に仇討ちを勧められて、新選組に入隊します。でも結局は、父譲りの傲慢な性格が露呈して上層部から目をつけられ、隊を脱走することになるんですね。明治維新後は「象山の息子」であることを利用して司法省に出仕するも、警察官との喧嘩沙汰で免職となります。父は傲慢ではあったものの、時代の先覚者としての裏付けがありましたが、恪二郎は傲慢なだけのただのドラ息子だったようです。後進に多大な影響を与えた象山でしたが、自身の息子には悪影響しか与えていなかったようですね。

 話がすいぶんとそれちゃいました。本日はこのへんで・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2013-03-18 23:43 | 八重の桜 | Trackback(2) | Comments(2)  

銭形のとっつぁんこと、昭和の名アテ師・納谷悟朗さんの逝去を悼む。

アニメ『ルパン三世』銭形警部などの声で活躍した納谷悟朗さんが亡くなられましたね。
たしか、一昨年放送の同作品から、銭形警部の声は山寺宏一さんに交代していたと思いますが、そのときは峰不二子役の増山江威子さんや石川五エ門役の井上真樹夫さんらも一緒に揃って交代していたので、単なる世代交代だと思っていました。
実は体調を崩されていたんですね。

納谷さんといえば、銭形警部をはじめ『宇宙戦艦ヤマト』沖田十三艦長や、『風の谷のナウシカ』ユパ・ミラルダなど、たいへん存在感のある役どころの声優さんとして人気を集めましたが、意外にもご本人は、「声優」と呼ばれることに激しい抵抗を感じていたそうです。
もともと俳優畑から洋画の「アテレコ」を始めた納谷さんは、「声優である以前に俳優である」という姿勢とポリシーを持っていたそうで、「声優という呼び方は許さない」というのが口癖だったそうです。
インタビュー取材の際に「“声優の”納谷悟朗さん」と呼ばれたことに憤慨し、取材を断ったこともあったとか。
いまでは声優業というものがしっかり確立されていて、「声優になりたい」という人もたくさんいるそうですが、納谷の世代の方々にとっては、「声優=俳優くずれ」「声優<俳優」といったイメージが強かったのでしょうか?

昨今では声優さんがアイドルのような扱いを受けたりしていますが、声優ブームのきっかけとなった『宇宙戦艦ヤマト』のとき、アフレコスタジオの外でよくファンが出待ちをしていたこともあったそうで、そのときのことを振り返って、自身は「キャラクターの声を当てているだけであり、それがスターみたいな扱いをされるのは不思議でしょうがなかった」と語っていたそうです。
スターになるべくはキャラクターであり、その声の主がスター扱いされるのは本末転倒だ・・・ということでしょうね。
言わんとすることはわかります。
ただ、まあ、魅力的なキャラクターだからこそ、その声の主に興味がわくのもまた、当然のファン心理なわけで・・・。

納谷さんといえば、主役ではなく重要な脇役の声を担当していることが多かったと思いましが、その作品のもっとも重要な台詞を担当していることが多いんですよね。
e0158128_15271752.jpgその代表的なものが、映画『ルパン三世~カリオストロの城~』のなかの、有名すぎるほど有名なあのラストシーンのくだりです。
銭形警部 「くそっ、一足遅かったか! ルパンめ!まんまと盗みおって!」
クラリス 「いいえ。あの方は何も盗らなかったわ。私のために戦って下さったんです。」
銭形警部 「いや、ヤツはとんでもないものを盗んでいきました・・・あなたの心です。」
何十回と観たシーンですが、何度聞いてもシビれる台詞ですよね。

e0158128_15275622.jpgそれから、『宇宙戦艦ヤマト』ファンにとっては伝説的となった第一シリーズのラストシーン。
「地球か・・・何もかも懐かしい。」
はるか29万6千光年の旅を終えて地球に帰還する直前、死の間際に言った有名な台詞ですね。
この台詞を思い出すだけで、いまでも目頭が熱くなってしまいます。
沖田艦長の声を出していたとき、納谷さんはまだ40歳代、あの重厚な存在感は、どうやって醸しだしていたのでしょうか?

e0158128_15281188.jpg『ルパン』『ヤマト』がラストシーンの重要な台詞なら、『風の谷のナウシカ』では、作品最初の台詞を担当しています。
「また村がひとつ死んだ・・・。行こう。ここもじき腐海に沈む。」
物語はユパ・ミラルダのこの一言から始まります。
観る人をぐっと引きつけるための最初の台詞は、『ナウシカ』という作品の象徴ともいえる台詞でした。
ユパさまのカッコ良さ=納谷さんの魅力といっても過言ではないでしょう。

こうして見ても、何十年経っても語り継がれるような名台詞を数多く担当しているんですよね。
もちろん、台詞は脚本があるわけであって、納谷さん自身の言葉ではないのですけど、想像するに、脚本家あるいは演出家が、重要な台詞を納谷さんに語らせたいと思わされるような、そんな存在の方だったんじゃないかと・・・。
これだけ多くの名台詞を担当していたというのは、声優冥利に尽きるのではないでしょうか?
おっと、“声優”という名称はタブーでしたね。

納谷さんは、「声優」という言葉が一般的でなかったころに使われた「アテ師」という言葉には、それほど抵抗はなかったそうです。
またひとり、昭和の名アテ師がこの世を去りました。
謹んでご冥福をお祈りいたします。


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by sakanoueno-kumo | 2013-03-13 15:38 | 映画・小説・漫画 | Trackback | Comments(0)  

八重の桜 第10話「池田屋事件」 ~池田屋の変~

 新選組が日本史のなかに大きく名を刻むきっかけとなったのが、元治元年(1864年)6月の「池田屋事件(池田屋の変)」といっていいでしょう。前年の「八月十八日の政変」以後も、尊攘派志士は京都・大坂に潜伏して、勢力の挽回をはかっていました。新選組や所司代・町奉行の配下の者は、きびしくその行動を取り締まっていましたが、ことに諸藩邸や旅館、料亭などの出入者に対して目を光らせていました。そして、かねてからマークしていた三条木屋町の武具商・桝屋喜右衛門を検挙し、家宅捜索を行いました。

 喜右衛門の本名は古高俊太郎、近江国栗太郡出身の尊攘志士でした。捕縛された俊太郎は新選組の手によって厳しい拷問にかけられ、結果、力尽きて自白してしまいます。その内容は、数十人が徒党して、風向きを考えた上で御所に火を放ち、佐幕派公卿の中川宮朝彦親王を幽閉して京都守護職の松平容保ら佐幕派大名を殺害し、天皇を長州へ連れ去ろうという恐るべきもので、しかも、すでに計画実行の志士が多数上洛、潜伏しており、近々市中で同志の集会があることも判明します。

 古高俊太郎捕縛の報を受けた尊攘志士たちは、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)をはじめ、肥後藩の宮部鼎蔵ら約20名が、旅館・池田屋に集合して善後策を協議します。この会合を知った新選組は、京都守護職および所司代に報告し、五ツ時(午後8時)に協力して襲撃することとしますが、守護職、所司代ともに部下の援軍がなかなか来ないので、四ツ時(午後10時)、新選組の単独行動で襲撃を決行しました。不意をつかれた尊攘派は懸命に応戦し、旅館の内外は大混乱。新選組局長・近藤勇は、その夜の様子を次のように記しています。

 「かねて徒党の多勢を相手に火花を散らして一時余の間、戦闘に及び候処、永倉新八郎の刀は折れ、沖田総司刀の帽子折れ、藤堂平助の刀は刃切出でささらの如く、倅周平は槍をきり折られ、下拙刀は虎徹故にや無事に御座候、藤堂は鉢金を打ち落され候より深手を受け申し候」
(徒党の多勢相手に火花を散らし、一時あまりの間、戦闘におよんだところ、永倉の刀は折れ、沖田の刀は帽子折れ、藤堂の刀は刃切れ、ささらのようで、倅の周平は鑓を切り折られ、下拙(自分)の刀は名刀虎徹であるからだろうか、無事であった。藤堂は鉢鉄を撃ち落とされたので、深手を受けた)

と、戦闘の激しさを仔細に伝えたうえで、

 「実にこれまで度々戦ひ候へ共、二合と戦ひ候者は稀に覚え候へ共、今度の敵多勢とは申しながら孰れも万夫不当の勇士、誠にあやふき命を助かり申候」
 (じつにこれまで、たびたびの戦いをしてきたが、二合わせ戦った者はまれに覚えているほどであるが、今度の敵は多勢であるとはいえ、いずれも万夫の勇者で、まことに危ういところを助かった)

と、戦った尊攘派志士たちに対しての感想を綴っています。

 戦闘のあと、守護職・所司代配下の者など約3000人もが駆けつけましたが、その時には多くの志士たちの息はなく、池田屋の女将までもが死にました。幸運に命が残った者は捉えられ、わずかに桂小五郎、渕上郁太郎らがからくも脱出します。小五郎は一旦池田屋を出て対馬藩邸で大島友之允と談話していたため、襲撃時に池田屋におらず難を逃れたと言われていますが、別の話では、小五郎はこのとき屋上に出て間一髪逃げ去ったという記録もあります。芸者の幾松が、夜の暗闇にまぎれて二条大橋の下に握り飯を運んで、小五郎を助けたという有名な逸話も、このときの話とされています。いずれにせよ、このときもし小五郎が新選組とまともに戦っていたら、のちの維新三傑に名を連ねることもなかったでしょうし、明治維新における長州藩の立ち位置も違ったものになっていたかもしれません。

 一方、この事件で宮部鼎蔵をはじめ、尊攘派の多くの有能な人材が命を落としました。もし、彼らが明治の世まで生きていたら、新政府高官として大いに尽力したことでしょう。しかし、彼らの死がまったくの犬死だったかといえば、そんなことはなく、この事件をきっかけに尊攘派の反幕思想はより激しくなり、討幕の気運を一気に高めたことは想像に難しくありません。歴史の犠牲となった宮部鼎蔵と、歴史に生かされた桂小五郎。この紙一重の運命の違いも、歴史の面白いところですね。


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by sakanoueno-kumo | 2013-03-12 15:40 | 八重の桜 | Trackback(2) | Comments(0)  

尾張名古屋城なう!

062.gif
スマホからの投稿です。
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今日は仕事で早朝から名古屋に来ています。
仕事の合間に少しだけ時間が空いたので、名古屋城を訪れました。
出張先に女あり…とはよく聞きますが、色恋ごとに縁の薄い私は、出張先にお城あり…です(笑)。
ケータイからでは長文は無理なので、詳しくはまた後日。

ところで、今日の名古屋市街は名古屋ウィメンズマラソンが開催されており、カラフルなユニホームで走る女性ランナーや沿道の応援客で賑わっていました。
写真は名古屋城の外堀沿いの道です。
   ↓↓↓
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優勝したのは、昨年のロンドン五輪で悔しい思いをした木崎良子選手だったようですね。
そして、アテネ五輪金メダリストの野口みずき選手が3位に入ったとか。
野口選手と言えば、たしかもう30代半ばですよね。
女王復活といったところでしょうか…?
たいしたもんですね。

さてさて、そろそろ仕事に戻ります。


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by sakanoueno-kumo | 2013-03-10 13:36 | 愛知の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

八重の桜 第9話「八月の動乱」 〜八月十八日の政変〜

 文久3年(1863年)8月18日、朝廷内にクーデターが起きました。世に言う「八月十八日の政変」です。長い日本史のなかには、古くは「大化の改新」から近代では不成功に終わった「二・二六事件」まで数多くクーデターが起きましたが、幕末にも2回のクーデターが行われ、いずれも成功しています。そのひとつは、これより4年後となる慶応3年(1867年)12月の尊王討幕派による「王政復古」のクーデターで、もうひとつが、今話の「八月十八日の政変」です。

 この8・18クーデターとはどのようなものだったのかというと、一口にいえば、京都を制圧しているかのように見えた尊皇攘夷派勢力に対し、公武合体派が巻き返しを行い、尊攘派を京都から一掃し、政局の主導権を奪取したというものです。同年5月10日の攘夷決行(下関戦争)によって朝廷から褒勅の沙汰を享けた長州藩でしたが、以後、朝廷の政に何かにつけ口を出すようになり、暴徒の激しさも増していきます。しかし、あまりにも過激な長州藩の行動を持て余した公武合体派の中川宮朝彦親王近衛忠熙近衛忠房らが、この当時御所の警備を任されていた薩摩藩・会津藩と手を結び、攘夷派の三条実美をはじめとする7人の公卿を朝廷から一掃(七卿落ち)、長州藩の軍勢たちも公卿を守って京から落ちていったというものです。

 孝明天皇(第121代天皇)は強烈な攘夷論者でしたが、政治体制の変革などは望んではいませんでした。天皇の考えは、あくまで幕府を中心に公武合体で行う攘夷だったわけです。一方の尊攘派は、天皇の意志が攘夷にあるからと、その「攘夷」をたてにとって行動してきました。攘夷さえ行えば天皇の意志を尊重することになると考え、天誅で猛威をふるい、やがてはそれが討幕論にまで及びはじめます。しかし、当の孝明天皇はそんな尊攘派に恐怖すら感じていたようで、次第に彼らを疎んじるようになっていくんですね。孝明天皇にしてみれば、過激なラブコールを贈る尊攘派は、ある種、ストーカーのような怖さがあったのかもしれません。

 クーデターは成功に終わり、公武合体派は朝廷での主導権を完全に掌握しました。クーデター成功の原因のもっとも大きなポイントは、公武合体派が天皇を手中に収めたことでしょう。のちに天皇は尊攘派などから「玉(ぎょく)」と呼ばれましたが、この「玉」を手にすれば天皇の名で命令を出すことができ、これに反抗することは、とくに「尊王」攘夷派であるかぎり不可能でした。天皇を尊び、天皇のために命をも賭けた尊攘派たちは、天皇の意志によって「朝敵」にされるという、なんとも皮肉な話といえます。

 この政変をいたく満足した孝明天皇は、8月28日に京都守護職・松平容保や京都所司代・稲葉正邦ら在京の諸藩主らが参内した際、次のような宸翰(しんかん)を発布しました。

 「是迄、彼是、真偽不分明之義有之候へ共、去る十八日以後申出候義は、朕が真実の存意に候。此辺、諸藩一同心得違無之様之事」
 (意訳:これまでは、かれこれ真偽不明分の儀があったけれども、去る18日以後に申し出ることが、朕の真実の存意であるから、このあたり諸藩一同、心得違いのないように)


 つまり、これまで言ってきたことは全部インチキで、18日の政変以降にいったことが本心だよ・・・と。政変で失脚した尊攘派にしてみれば、ふんだり蹴ったりのお言葉ですね。とくに、松平容保に対する孝明天皇の信頼は厚く、ドラマにもあったように、ご宸翰(ごしんかん:天皇直筆の手紙)と御製(ぎょせい:天皇の和歌)を下賜されます。

 「堂上以下、疎暴の論、不正の処置増長につき、痛心に堪え難く、内命を下せしところ、すみやかに領掌し、憂患掃攘、朕の存念貫徹の段、まったくその方の忠誠にて、深く感悦のあまり、右一箱これを遣わすもの也  文久三年十月九日」 
 (意訳:堂上以下が、乱暴な意見を連ねて、不正の行いも増え、心の痛みに耐えがたい。内々の命を下したところ、速やかにわかってくれ、憂いを払い私の思っていることを貫いてくれた。全くその方の忠誠に深く感悦し、右一箱を遣わすものなり)


 文中にある「一箱」とは御製の入ったもので、次の2種の和歌が記されていました。

 たやすからざる世に 武士(もののふ)の忠誠の心をよろこびてよめる
 「和らくも たけき心も相生の まつの落葉の あらす栄へむ」
 「武士(もののふ)と こころあはして いはほをも 貫きてまし 世々の思ひて」

 (意訳:難しき世に武士(容保のこと)の忠誠の心を喜びて詠む
 「世にやすらぎを求める心も、敵に立ち向かう猛々しい心も相生の松のように根は一つ。松の葉が落葉しないように共に栄えようではないか。」
 「もののふと心を合わせて岩(困難)をも貫き通すことを私(朝廷)は末永く願う。」


 しかしその容保も、5年後の戊辰戦争では逆に朝敵第一とされたのも、歴史の皮肉といえるでしょうか。容保は終生、このご宸翰と御製を肌身離さなかったといいます。


 「八月十八日の政変」については以前の稿でも書いていますので、よければ一読ください。
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 「八月十八日の政変」と、幕末における長州藩の役割。
 

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by sakanoueno-kumo | 2013-03-08 23:08 | 八重の桜 | Trackback(2) | Comments(0)