<   2013年 04月 ( 10 )   > この月の画像一覧

 

八重の桜 第16話「遠ざかる背中」 ~徳川慶喜は二枚舌?~

 「徳川にかけそこなった一橋」
 安政5年(1858年)、第14代将軍が一橋慶喜のライバルだった徳川慶福(家茂)に決まると、ときの人々はこのような川柳を詠んで嘲弄したといいます。その家茂が死に、いよいよ慶喜が徳川宗家の相続者となると、今度は次のような狂歌が作られました。
 「大木をばたおしてかけし一橋 渡るもこわき徳川のすえ」
 「二つ箸持つとも喰えぬ世の中に 一ツ橋でも喰えなかるらん」

 この時期、すでに庶民は幕府の瓦解を予見しはじめていたのでしょうか。

 慶喜は徳川本家相続を承知したとき、自分の意のままに政治を改革することを条件とし、これを老中らに承認させます。そして慶応2年(1866年)9月には、人材の登用、賞罰の厳正、冗費の節約、陸海軍の充実、外交の刷新、貨幣・商法制度の改革など、8箇条の施政方針を示し、その線に沿って改革が行われますが、まず当面解決しなければならない問題は、第二次長州征伐をどう処理するかということでした。

 慶喜は当初、自ら長州征伐に出陣し、あくまで武力によって長州藩を屈服させるべく強硬な態度で臨みました。出陣を前に旗本を集めて、「毛利大膳父子は君子の仇である、このたび出陣する以上、たとへ千騎が一騎になろうとも、山口城に攻め入り、勝敗を決する覚悟でいる。」と、勇ましく述べています。しかし、いよいよ出陣しようとしたときに、小倉落城の報が伝わり、戦局が絶望的となっていることを知ると、たちまち態度を軟化させて自身の出陣を取りやめ、朝廷にはたらきかけて、将軍の死を理由に休戦命令を出させることに成功します。

 続いて慶喜は、軍艦奉行・勝海舟を広島へ派遣して、長州藩との休戦交渉に当たらせます。もともと慶喜は勝のことを快く思っていませんでしたが、この局面で長州藩と口がきけ、また薩摩藩との対立も緩和させ、しかも幕府の立場を守る交渉ができる人物は、勝以外にいなかったでしょう。勝は厳島で、長州藩代表の広沢兵助(真臣)井上聞多(馨)らと会談し、幕府軍が撤退するとき、長州藩が追撃しないことで協定を成立させます。さすがは勝海舟といったところですが、実はもう一方で、慶喜は朝廷にも同時にはたらきかけ、休戦から更に進んだ停戦の勅命の引出しに成功します。勝の派遣は、いわば時間稼ぎに利用されたかたちになってしまいました。しかも、結果的に交渉の席についた長州藩にも不義理をはたらくことになってしまい、これに怒った勝は、辞表を提出して江戸へ帰ってしまいます。こうして、第二次長州征伐は、なおいくつかの問題を残しながら、一応の決着をみたのです。

 二点三点したこれらの行動から、「二心殿」「二枚舌」などと揶揄され、後世にあまり人気がない慶喜ですが、果たして本当に「二枚舌」だったのでしょうか? たとえば当初の勇ましい態度にしても、事実上幕府軍の総裁という立場で、兵の士気を高めるためには必要な態度だったでしょうし、一方で、戦局を冷静に判断して引き際を模索するのもまた、立場上、必要なことだったのではないでしょうか。長州藩との交渉にしても、結果的に勝を裏切るかたちになってしまったものの、もし勝の交渉が不成功に終わったときのことを考え、次の手を準備するのもまた、総裁という立場上、当然の行動だったように思います。ただ、あまりにも頭が良すぎて、その思考のスピードに周りの者がついていけなかった・・・。そんなところだったんじゃないでしょうか?

 「太平の世にあぐらをかいた幕府など、一度、壊れた方がよいのだ。幕府を鍛え直さねばならぬ。カビの生えた軍制から職制の大元に至るまで、全てを作り直す。それが将軍の勤めだ。」 
 ドラマ中、将軍職継承宣言をした小泉孝太郎さん演じるところの徳川慶喜が言った台詞ですが、ちょっと待って!!!・・・どっかで聞いたことある台詞ですよね!
 「自民党をぶっ潰す!」
 そうです・・・小泉孝太郎さんの実父・小泉純一郎元首相の掲げた「聖域なき構造改革」のキャッチフレーズですね。この台詞を聞いて思わず吹き出してしまったひと、多かったんじゃないでしょうか? どう考えても、この台詞は作者の意図的にしか思えません(笑)。ぜったい小泉慶喜にこの台詞を言わせたかったのでしょうね(笑)。でも、だったら、せっかくだからこう言わせたほうが良かったんじゃないでしょうか?
 「幕府をぶっ潰す!」
 実際の慶喜に、そこまでの気概があったかどうかはわかりませんけどね。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2013-04-22 19:29 | 八重の桜 | Comments(8)  

八重の桜 第15話「薩長の密約」 ~将軍・家茂の死と慶喜の相続~

 薩長同盟第二次長州征伐、将軍・徳川家茂の死、一橋慶喜の将軍就任と、本来の幕末モノであれば3話ぐらいに分かれそうな話を、かなり駆け足に描きましたね。まあ、八重の生涯を描くドラマですから、幕末はあくまでプロローグに過ぎず、ここで時間を割いてはいられないといったところでしょうか。おそらく前半のクライマックスを会津戦争にもってくるのでしょうね。ではでは、当ブログも駆け足でいきます。

 慶応2年(1866年)1月、長年の宿敵であった薩摩藩長州藩の間に提携の密約が結ばれます。世に云う「薩長同盟」ですね。この二藩を仲介した立役者は、ほかならぬ土佐藩の坂本龍馬中岡慎太郎であることは周知のところでしょう。言わずと知れた幕末のヒーローですね。ところが今回のドラマでは、ナレーションで「土佐の脱藩浪士」と語られただけで、龍馬の存在をほとんどスルーしました。なんで?・・・と思った人も多かったかもしれませんが、考えようによっては、これはこれで正しいでしょうね。物語の中心である会津藩視点でみれば、坂本龍馬などあくまで「名もなき土佐の脱藩浪士」に過ぎません。人気者の龍馬を無理やり登場させて視聴者を惹きつけようという作為が感じられず、逆に良かったんじゃないでしょうか。(龍馬ファンのために桔梗の家紋の後ろ姿を映したのは、なんとも憎い演出でした)

 薩長同盟については過去の拙ブログで書いていますので、よければそちらを一読ください。
 (参照:龍馬伝 第35話「薩長同盟ぜよ」

 多くの反対や慎重論などがあって足並みが揃わないまま強行した第二次長州征伐は、ドラマにあったとおり幕府にとって厳しい戦いとなりました。そして、幕府が長州相手に敗北を重ねているとき、幕府にとってさらなる痛手となったのは、大坂在陣中の第14第将軍・徳川家茂の死でした。慶応2年(1866年)7月20日、将軍在職8年余り、若き将軍・家茂は脚気衝心でこの世を去ります。享年21歳。この日の大坂城中の様子を、家茂から厚い信頼を受けていた幕臣・勝海舟は、次のように記しています。
 「七月十九日夜、医官松本良順より隠密の報あり、将軍危篤、ついに薨去ありと。余、この報を得て、心腸寸断、ほとんど人事を弁ぜず。忽ち思うところあり、払暁登城す。城内寂として人無きがごとし。余最も疑う。奥に入れば諸官充満、一言も発せず。皆目をもって送る。惨憺悲風の景況、ほとんど気息を絶せんとす。」
 大坂城中、寂として声なき様子がよくうかがえます。家茂の死はしばらく秘密にされ、約1か月後の8月20日に正式に発表されました。

 後継者は一橋慶喜以外、適当な人物はほとんどいませんでした。家茂は死に際して田安亀之助(家茂の従兄弟)を後継者とする遺言を残したといわれますが、このとき亀之助はわずか4歳、国事多難な情勢のなか、幼君では舵取りが困難との理由で多くの大名らが反対、老中・板倉勝静稲葉正邦、前福井藩主・松平春嶽、京都守護職・松平容保、所司代・松平定敬らが、こぞって慶喜を推します。

 ところが当の慶喜は、徳川宗家の相続は承知したものの、将軍就任は容易に受けようとはしませんでした。この態度は、困難な政局を前にして、多くの人々の推薦を得てから将軍職に就き、恩を売ったかたちで将軍になることで、政治を有利に進めていく狙いがあったのでは・・・と言われています。だた、実際にはその真意は定かではありません。いわば、幕府=沈みかけの船の船頭となるのを拒んでいただけかもしれません。支持率を落とした政権与党の党首になるようなもので・・・。慶喜は後年の回想録で、このときの気持ちを次のように語っています。
 「遂に板倉・永井を召し、徳川家を相続するのみにて、将軍職を受けずとも済むことならば足下等の請に従わんといいしに、それにてもよしとの事なりしかば、遂に宗家を相続することとなれり。されども一旦相続するや、老中等はまた将軍職をも受けらるべしと強請せるのみならず、外国との関係などもありて、結局これをも諾せざるを得ざるに至れり。かかる次第にて、予が政権奉還の志を有せしは実にこの頃よりの事にて、東照公(家康公)は日本国のために幕府を開きて将軍職に就かれたるが、予は日本国のために幕府を葬るの任に当るべしと覚悟を定めたるなり。」と。

 慶喜がすでにこの頃から大政奉還の志を持っていたという述懐は眉唾ものですが、英明な慶喜のことですから、この局面での将軍職就任が「貧乏くじ」であることは、直感的に感じていたのかもしれませんね。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2013-04-16 17:24 | 八重の桜 | Comments(2)  

出張ついでの尾張国紀行 その2 ~清洲城~

先日の続きです。(参照:出張ついでの尾張国紀行 その1 ~名古屋城~
名古屋城を訪れたその足で、おとなりの清須市にある清州城に足を運びました。
時刻は午後6時を過ぎて暗くなり始めていたのですが、せっかく名古屋に来たので無理やりやってきました。
まあ、あくまでこの日の目的は仕事なので、贅沢は言ってられませんね。
立ち寄れただけでもラッキーかな・・・と。

e0158128_2140533.jpg

清洲城は、名古屋城が築城される前の尾張国の中心で、若き日の織田信長の居城としても知られています。
清須城とも書きますね。
信長は、この城から「桶狭間の戦い」に出陣するなど、20歳代の約10年間、この城を拠点として活動しました。
永禄5年(1562年)に徳川家康との間で結ばれた軍事同盟、いわゆる「清洲同盟」も、この城で結ばれたわけですね。
いうなれば、信長の天下取りはここから始まったといっても過言ではないでしょう。

e0158128_2149930.jpg

清州城といえば、もうひとつ思い出されるのが、天正10年(1582年)の「本能寺の変」で信長が落命したあと、織田家の後継者と領地の分配が話し合われた、有名な「清州会議」ですね。
信長の三男・織田信孝を擁立する柴田勝家と、信長とともに落命した嫡男・織田信忠の嫡男で、信長から見れば嫡孫にあたる三法師(織田秀信)を擁立する羽柴秀吉との対立のエピソードは、この時代の物語には欠かせない舞台です。
秀吉の天下取りもまた、この城が大きなターニングポイントになったわけですね。
名古屋城や大坂城に比べると小さな城ですが、歴史上では大きな存在価値の城といえます。

e0158128_21513366.jpg

現在の天守閣は平成元年(1989年)に想像で復元されたものだそうで、その向かいにある本来の城跡は、「清洲古城跡公園」として整備されています。
そこには、若き織田信長の銅像がありました。

e0158128_215417100.jpg

現地案内看板によれば、この銅像は信長26歳の永禄3年(1560年)、「桶狭間の戦い」に出陣する姿をイメージした銅像だそうで、桶狭間の方向を見据えているそうです。
そしてその傍らには、心配そうに見つめる濃姫の銅像が・・・。
まるで、貫一・お宮のようです(笑)。

e0158128_2156763.jpg

地元ではここを「始まりの地〜二人の愛と希望の丘」と称し、夫婦円満、恋愛成就のパワースポットとなっているそうですが、実はこの濃姫という女性、斎藤道三の娘で信長と政略結婚したということ以外、何もわかっていないんですね。
正室でありながら史料がほとんど残っておらず、嫁いだ後の消息は早世説離婚説など諸説あって、一説には、その実在性すら疑問視する研究者もいるほどで・・・。
夫婦円満のパワースポットとしてどれほどの効力があるか微妙ですけどね(笑)。

e0158128_21594166.jpg

永禄6年(1563年)にこの城を出て小牧山城に移った信長は、その後も岐阜城安土城と拠点を移していきますが、ここ清洲城はその後も織田氏のものとして、次男の織田信雄が相続します。
信長にとっては、本当に「始まりの地」という思い入れがあったのかもしれませんね。
戦国一の英傑の、若き日の思いに少しだけふれたような気がした、夕暮れどきでした。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2013-04-14 00:05 | 愛知の史跡・観光 | Comments(2)  

「あの日」の記憶が呼び起こされた春の朝。

今朝の地震は驚きましたね。
震源の淡路島では「震度6弱」の揺れだったそうで、私の住む神戸では「震度4」との発表でしたが、感覚的にはもっと強かったように感じました。
私の住むまちは神戸市の最西端の垂水区で、淡路島と本州を結ぶ明石海峡大橋があるところですから、あるいは神戸市のなかでも揺れが強かったかもしれません。
揺れてる時間も長く、感覚的には20〜30秒ほどあったでしょうか?
それに、なによりも恐怖を掻き立てられたのは、午前5時33分という地震発生の時刻でした。
早朝の地震といえば、私たち神戸市民は、どうしても「あの日」の記憶を呼び起こされます。
(私の家の玄関先から見える淡路島と明石海峡大橋の景色です。写真は今日のものではありません)
       ↓↓↓
e0158128_11523419.png

「あの日」というのはいうまでもなく、平成7年(1995年)1月17日に起きた「阪神・淡路大震災」ですね。
あれから18年が過ぎましたが、あのときの恐怖というのは、いまでも感覚として残っています。
「ゴーッ」という地鳴りの音で目が覚めたのも「あの日」と同じ。
あの音の怖さはいまも潜在的に脳に残っていて、たとえば普段の生活の中でも、大型トレーラーが通り過ぎるときに起こる振動と音を地震の地鳴りと勘違いして、足がすくむことが時折あります。
冒頭で「震度4」より強かったように感じたと述べましたが、「震度4」クラスの余震は当時たびたびあって、揺れを体が覚えてるんですよね。
今朝の揺れは、それ以上だったように感じました。

あと、スマホの警告音にも驚きましたね。
一昨年の「東日本大震災」の折に関東の知人からは聞いてはいましたが、実際に体験したのはこのたびが初めてでした。
揺れ始めとほぼ同時に鳴り始めましたよ!
すごいシステムですね。
しかも。画面には「播磨灘で地震発生、強い揺れに備えてください」と表示。
瞬時に震源地まで知らされるんですね。
18年前の震災のときには、何が起きたのかさっぱりわからずパニックになったことを思えば、危機管理システムの進歩は著しいものがありますね。
ただ、寝ぼけてたせいもあってか、「播磨灘」「玄界灘」と勘違いしてしまい、「震源地は九州か・・・」と思っちゃいました(笑)。
玄界灘が震源地で関西であの揺れだったら、博多は壊滅してますね(笑)。
「播磨灘」とは、淡路島と小豆島のい間の兵庫県南部の海域のことを指しますが、普段は地元の人間でもあまり使わない言葉です。
もうちょっと、わかりやすい地域名で伝えたほうがいいのではないでしょうか?

いま、阪神間ではまだ鉄道等が不通になっているようですが、とにもかくにも大きな災害にならずに良かったですね。
今日は土曜日だったので、ゆっくり昼前まで寝て午後から会社に出社するつもりだったのですが(ここんとこずっと深夜帰りだったので)、地震でとび起きてからなんとなく胸騒ぎが治まらずに熟睡できず、やむなく早めに出社して、パソコンに向かって起稿しています。
まだ安心はできませんが、その後、体感できる余震はありません。
このまま収まってほしいですね。
取り急ぎ、神戸からのご報告でした。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 ニュースブログ 時事ニュースへ
にほんブログ村
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2013-04-13 12:01 | 日常 | Comments(2)  

出張ついでの尾張国紀行 その1 ~名古屋城~

もう1ヶ月ほど経っちゃったんですが、先月、名古屋出張の折、仕事の合間を縫って名古屋城に行ってきました(参照:尾張名古屋城なう!)。
今更ではありますが、そのときの旅記録です。

e0158128_2213207.jpg

名古屋城のある尾張藩は、周知のとおり徳川御三家のひとつで、慶長17年(1612年)、東海道の要所として、徳川家康が九男・徳川義直の居城として築城したものです。
以降は尾張徳川家17代の居城として明治まで利用されました。
名古屋城は、姫路城熊本城と並んで日本三名城のひとつとして数えられます。

e0158128_22145421.jpg

名古屋城は桜の名所でもあるそうですね。
ここを訪れたのは3月10日、残念ながら桜にはまだ少し早かったのですが、桜に似た花が咲いていたので撮影しました。
花には詳しくないので名前はわかりません。
(この日はあいにくの天気だったので、残念ながら暗い写真ばかりです)

e0158128_22191277.jpg

名古屋城が築城される以前にあった那古野城(なごやじょう)は、織田信長が生まれた城だといわれています。
那古野城は信長が清須城(清洲城)に本拠を移したため廃城になります。
その跡地に家康が名古屋城を建てました。

e0158128_22221792.jpg

名古屋城の築城は徳川家康から命じられた20名の助役大名たちによって工事が進められました。
いわいる「天下普請」による建築土木工事の一貫です。
なかでも、最も高度な技術を要した天守台石垣は、加藤清正の担当だったそうです。
清正は城づくりの名人として有名ですよね。
天守台石垣は、上部で外側に反り出した「扇勾配」の技法が採り入れられ、別名「清正流三日月石垣」とも言われているそうです。
この技法は、石垣を内側に湾曲させ石の重みと内側の土圧による力を分散させ、はらみを避けるため・・・と、現地案内看板に書いてありました(笑)。
一級建築士さながらの構造計算がなされているんですね。

e0158128_2223674.jpg

加藤清正の銅像です。
築城に関わったのは清正だけではないんですけどね。
やっぱ、知名度と後世の人気度の違いでしょうか・・・。

e0158128_22232159.jpg

あと、名古屋城といえば思い出すのが、金の鯱ですね。
名古屋城は別名「金鯱城」「金城」とも呼ばれ、大天守に上げられた金鯱(きんこ)は、名古屋の街の象徴的存在といえます。
現在のものは復元ですが、400年前の築城当初の金鯱は、215キログラム純金が使用されたといわれているそうです。
今の時価に換算すると、いくらになるのでしょう?・・・・見当もつきません。
(実物大だそうです↓↓↓)

e0158128_2225279.jpg

もっとゆっくり見たかったのですが、仕事の合間を縫って訪れただけに、小一時間ほど足早に見て回っただけでした。
このあと、清洲城にも行ったので、また後日起稿します。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2013-04-11 22:28 | 愛知の史跡・観光 | Comments(0)  

八重の桜 第14話「新しい日々へ」  〜岩倉具視登場〜

 岩倉具視が出てきましたね。岩倉卿といえば、現在40歳代以上の人は、まず500円札を思い出すでしょう。その肖像の人相が悪かったこともあってか、明治維新の元勲のひとりでありながら、後世にあまり人気がありませんね。かく言う私も、子供の頃は500円札を見て、「目つきの悪いガマガエルオヤジ」だと思っていました。実際にはどんな人物だったのでしょう。

 岩倉具視は下級公家の出身でしたが、1858年(安政5年)、幕府が日米通商条約締結の勅許を朝廷に求めてきた際、岩倉は幕府の苦境に乗じて朝廷の権威回復を図ろうと考え、中山忠能をはじめ条約調印に反対の考えを持つ公卿88人に呼びかけ、勅許を阻止すべくデモを起こします(八十八卿列参事件)。本来、朝廷内での列参(デモ行為)は許されていませんでしたが、岩倉はそんなことは一切頓着せず、このとき彼は、一晩で100人以上もの公卿のもとに訪問して説得して回ったといいますから、公卿には珍しい豪胆な人物だったことがうかがえます。結果、岩倉の起こした運動は受け入れられ、幕府大老・井伊直弼の独断での条約調印となってしまうんですね。これが、幕末動乱の銃爪になっていったのは、これまでのドラマで観てきたところです。

 その後、幕府と朝廷の対立が深まると、今度は「公武合体論」を掲げて幕府と朝廷の仲介に乗り出します。それが、孝明天皇(第121代天皇)の妹・和宮親子内親王と第14代将軍・徳川家茂との婚姻でした。これを機に岩倉は、「公武一和」を天下に示すべきとし、政治的決定は朝廷、その執行は幕府があたるという体制を構築すべきだと画策しますが、ことは思うように運ばず、あまりにも派手に立ち回り過ぎたため、尊攘派の志士や廷臣の反発を買って失脚、京都の北に位置する岩倉村に隠遁せざるを得なくなります。そこでの生活は困窮を極めたものだったといいます。

 蟄居生活約5年、慶応元年(1865年)あたりから、次第に反幕派の志士たちが岩倉のもとを訪ねるようになり、土佐藩士・坂本龍馬、同・中岡慎太郎、薩摩藩士・大久保利通らとの交流を重ね、やがて政界復帰の準備をはじめます。本話で大久保と面会していた場面がこの頃ですね。大久保と岩倉は、こののちの王政復古から明治維新にかけて、深く関わっていくことになります。そういえば、岩倉同様、大久保も後世に人気がありませんよね。ふたりとも権謀術数の人というイメージが強いからでしょうか。マキャベリストという点で言えば、この時期の西郷隆盛も大同小異なんですが、どうもこの二人は人気がない。やはり、人相が大いに影響しているでしょうね(笑)。少々気の毒な気がしないでもないです。

 事実、権謀術数をたくみに操った人ではあったのでしょうが、明確な意思表示を避けて遠回しな表現を好む公卿たちのなかにおいて、岩倉のような豪胆な人物が公家社会にいたことが、明治維新の追い風になったことは間違いありません。もうちょっと評価してあげてもいいような気もしますね。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2013-04-08 23:42 | 八重の桜 | Comments(4)  

雨の紀の国、さくら舞い散る和歌山城なう!

emoticon-0161-phone.gif
スマホからの投稿です。
e0158128_15312367.jpg

一昨日より仕事で紀州和歌山市に来ています。
昨日、一昨日の二日間は終日仕事だったのですが、最終日の今日は少しだけ時間が空いたので、和歌山城に来ました。
ただ、残念ながらあいにくのemoticon-0156-rain.gifemoticon-0106-crying.gif
昨日まではめっちゃいい天気だったんですけどねぇ…。
今日の雨で、がおおかた散っちゃうんじゃないでしょうか。

和歌山城のある紀州藩は徳川家康の十男・徳川頼宣を始祖とする徳川御三家のひとつで、8代将軍・徳川吉宗や14代将軍・徳川家茂を排出した名家ですね。

スマホからなので、長文はしんどいです。
詳しくはまた後日の起稿にて。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2013-04-06 15:31 | 和歌山の史跡・観光 | Comments(0)  

八重の桜 第13話「鉄砲と花嫁」 〜八重と川崎尚之助の結婚〜

 ずいぶん遅れてしまいましたが、第13話のレビューです。八重川崎尚之助が結婚しましたね。二人が結婚したのは、慶応元年(1865年)のことだったそうです。八重は数えで21歳、尚之助が30歳のときでした。ただ、二人の馴れ初めや夫婦仲など、そのあたりの事情を伝えてくれるエピソードは何も残っていません。というのも、“最初の夫”となる尚之助について、晩年の八重はいっさい人に語らなかったそうです。言うまでもなく、八重はのちに新島襄の妻になるわけで、尚之助との結婚生活は戊辰戦争後にピリオドが打たれます。八重にとっては、尚之助との結婚の事実は触れられたくない重い過去だったのかもしれません。

 川崎尚之助という人物は、但馬出石藩の医家の生まれで、蘭学舎密術(理化学)を修めた有能な洋学者でした。同じ出石藩士で尚之助と同世代に、のちに帝国大学(現・東京大学)の総長にまで登りつける加藤弘之という学者がいますが、尚之助はその加藤と並んで称されるほどの屈指の洋学者として知られていたそうです。おそらく藩では将来を嘱望されていたのでしょう。加藤とともに江戸に遊学して蘭学を学ぶとともに、人脈を広げていました。その際、八重の兄である山本覚馬と知り合ったと思われます。このあたりはドラマで描かれていたとおりですね。

 その後どういうわけか、尚之助は覚馬を頼って会津を訪れます。尚之助が覚馬を慕ってきたのか、覚馬が尚之助の才能を買って招聘したのか、その辺りの事情はよくわかりませんが、覚馬の口利きにより会津藩校日新館の蘭学所で教授を務めることとなります。その縁で、尚之助は山本家に寄宿するようになり、八重と同じ屋根の下での生活が始まります。八重は10代前半、尚之助は20代前半のことでした。結婚前からずいぶん長い間、ふたりは家族として暮らしてきたんですね。英明な兄を尊敬していた八重は、その兄が認める尚之助に自然と心惹かれていたとしても、なんら不自然ではありません。

 いずれにせよ、兄の覚馬がとりもった仲であったことは間違いありませんが、いくら覚馬を慕っていたとはいえ、なぜ、尚之助ほどの優秀な人物が自藩に戻らずに会津にきたのか、そのあたりの事情がよくわかりません。あるいは自藩に戻れない何らかの事情があって脱藩してきたのでしょうか。だとすれば、脱藩浪人と八重を結婚させた?・・・それも考えにくいですね。藩士が別の藩に招聘される例は珍しくはなく、例えば熊本藩士の横井小楠が幕府政事総裁職を務める松平春嶽にその才を買われ、福井藩に招かれて政治顧問となったり、出身藩の承諾さえ得られれば、他藩士の召抱えは可能でした。

 ただ、尚之助については、会津藩に召し抱えられることなく戊辰戦争を迎え、落城とともに八重と離別して会津を去ったと言われています。であれば、八重はやはり脱藩浪人と結婚していたのでしょうか? ところが最近になって、尚之助が会津藩士として召し抱えられていたと解釈できる史料が見つかったとも聞きます。結局のところ、川崎尚之助という人物のことは、まだまだ謎だらけなんですね。大河ドラマで注目されたことをきっかけに研究が進み、あらたな史実・通説が詳らかになった例はたくさんあります。このドラマをきっかけに、こののち川崎尚之助という人物の人となりが、浮き彫りになってくるかもしれませんね。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2013-04-05 14:43 | 八重の桜 | Comments(0)  

高田屋嘉兵衛の石灯籠と平経俊之墳

昨日紹介した神戸市中央区にある鎮守稲荷神社には(参照:通勤途中の桜の木の下で思う、アベノミクス効果による春の訪れ。)、高田屋嘉兵衛が献上したと伝わる石灯籠があります。
高田屋嘉兵衛は江戸時代後期の豪商で、あの司馬遼太郎著の小説『菜の花の沖』の主人公として広く知られていますよね。

e0158128_18211233.jpg

千五百石の大船・辰悦丸蝦夷地経営へ乗り出し、廻船業で富を築いた嘉兵衛は、幕府が行ったロシア軍艦のゴローニン艦長幽囚事件の報復でロシアにとらえられ、一身を投げ出して事件を解決させたことでも知られています。
嘉兵衛は淡路島出身の人物ですが、このすぐ近くに高田屋本店の跡地があり、神戸市兵庫区とは深い縁があります。

e0158128_18221429.jpg

案内看板によると、この石灯籠は文政7年(1824年)に海上交通安全を願って鎮守稲荷神社に嘉兵衛が献上したものだそうです。
文政7年というと、嘉兵衛はすでに淡路に引退しているのですが、育ててくれた兵庫を忘れることはなかったのでしょう。
嘉兵衛の西出町を思いやるこころが感じられます・・・と看板にあります(笑)。

e0158128_18223813.jpg

同じく鎮守稲荷神社の境内には、平経俊塚があります。
平経俊は平清盛の甥で、一の谷の合戦で華と散った平敦盛の兄にあたります。
弟は有名ですが、兄はイマイチ知られていませんね。

e0158128_18232213.jpg

ですが、経俊も弟と同じく一の谷の合戦で落命しました。
有名な源義経鵯越逆落しで混乱した平家軍において、従兄弟の平知盛軍に属していた経俊も、たまらず長田の森から西出の浜に敗走、海に向かう途中のこの地で郎党に討たれたとされています。

e0158128_18245137.jpg

e0158128_18252745.jpg

経俊の記述は「平家物語」にもほとんどありません。
名を上げる前の悔しくも悲しい死だったようです。

e0158128_18284487.jpg

昨日もいましたが、この鎮守稲荷神社は神戸の中心部であるハーバーランドのすぐ近くにあり、向かいは国道2号線、上には阪神高速道路が走るオフィス街で、車を走らせていると見逃してしまいそうなほどの小さな神社です。
高田屋嘉兵衛と平経俊。
600年以上違う時代を生きた二人ですが、そんな見逃してしまいそうな小さな神社の境内に、ひっそりと名を連ねています。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2013-04-02 18:44 | 神戸の史跡・観光 | Comments(0)  

通勤途中の桜の木の下で思う、アベノミクス効果による春の訪れ。

今日から4月、新年度のスタートですね。
今朝、出勤途中の街を見渡すと、初々しいスーツ姿のフレッシャーズたちを大勢見かけました。
毎年目にする光景ですが、彼らの姿を見ると、こちらまで身が引き締まる思いです。
今年は我が家にもひとりフレッシャーズがおりまして、今朝、我が愚息も、なれないネクタイを絞めて大学の入学式に向かいました。
つい先日まで着崩れた学ラン姿だった息子のスーツ姿を見ると、なんとも感慨深い思いがありますが、それよりも、先日妻から渡された入学金と授業料の振込用紙を見て、身が引き締まる思いでした(笑)。

はたらけどはたらけど 猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る・・・(笑)。

そんなフレッシャーズたちを彩る風物詩は、なんといっても『桜』ですよね。
今年は全国的に開花が早く、わが神戸でもすでに見頃を過ぎようとしています。
来週の小中学校の入学式には散ってしまっているかも知れませんね。
該当のお子さんをお持ちの方は、今のうちにランドセルを背負って写真を撮っていたほうがいいかもしれませんよ。

さて、当ブログでも桜の写真を毎年アップしており、今年も恒例の桜シリーズといきたいのですが、如何せん今年は、この時期としては例年になく仕事が忙しく(アベノミクス効果かどうかはわかりませんが)、ゆっくり桜見物に足を運ぶ時間がありません。
で、今年は、通勤途中の車中から目にした桜を撮影してご紹介します。

e0158128_18441361.jpg

写真は神戸市中央区にある鎮守稲荷神社
周囲は高層ビルが立ち並び、昼夜を通して車が途絶えることのない国道2号線沿い位置する、なんともミスマッチな場所に鎮座している小さな神社です。

e0158128_1845385.jpg

鳥居の朱色とソメイヨシノの淡いピンクが、ビル街の一角に不思議な和のテイストを彩っています。

e0158128_18453298.jpg

      ↑↑↑本日のベストショット・・・いかがでしょうか?

e0158128_18472879.jpg

残念ながら撮影時は曇っていて、写真が少し暗くなっちゃってます。
バックが青空なら、もっと綺麗な写真になったでしょうけどね。

e0158128_18493987.jpg

今年は、花見弁当の売れ行きも好調だというニュースを耳にしました。
これも安倍晋三内閣の推し進めるアベノミクス効果の現れでしょうか?
花見の経済効果は景気を如実に反映するといいますから、いずれにせよ良いニュースです。
花見にお金を使う経済的余裕というよりも、花見をしようという精神的ゆとりが出はじめているのかもしれません。
日本人が桜を好きなのは、きっと“はじまり”を感じるからでしょうね。
春のはじまり、新年度のはじまり、新生活のはじまり・・・。
桜の花は、寒い冬を耐えしのいだ後だからこそ、美しく色づくそうです。
日本もかなり長い冬を耐えしのいでいますよね。
そろそろ、春の訪れ、新時代のはじまりを感じたいものです。

鎮守稲荷神社にはこんな史跡がありました。
    ↓↓↓
高田屋嘉兵衛の石灯籠と平経俊之墳

ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村 ニュースブログ 時事ニュースへ
にほんブログ村 野球ブログ プロ野球へ

[PR]

by sakanoueno-kumo | 2013-04-01 18:55 | 神戸の史跡・観光 | Comments(0)