<   2013年 05月 ( 6 )   > この月の画像一覧

 

八重の桜 第20話「開戦!鳥羽伏見」 ~勝てば官軍、負ければ賊軍~

 王政復古のクーデターの報告を受けた徳川慶喜は善後策に苦慮します。辞官はともかく、納地の命令は、徳川家15代当主として簡単に受け入れられるものではありません。それならば薩摩と一戦交えるか・・・・。幕兵、会津兵、桑名兵を合算すれば、薩長の在京兵力を打ち破れないことはない・・・。しかし、いったん朝敵となってしまえば、尾張、越前、土佐が推し進める調停が水の泡になる・・・・、さりとて、激高した部下たちを鎮めるにも限界がある・・・そんな具合に、慶喜は迷っていたことでしょう。そんなとき、松平春嶽らより、ひとまず京都を去って大阪に下り、事態の沈静を待ってほしいと勧められます。慶喜はこの勧めをうけ、迷ったすえ下阪を決意。それを阻止しようとした会津藩兵・佐川官兵衛林権助らに、「余に深謀あり」と言ってなだめます。このあたり、ドラマにあったとおりですね。慶喜は松平容保松平定敬板倉勝静らを従え、二条城の裏門から抜け出し、翌日大坂城に入ります。まさしく、「都落ち」といっていいでしょう。

 以後、薩摩と幕府の睨み合いは1ヶ月ほど続きます。その間、慶喜は形成の巻き返しを図るため、朝廷への工作を働きかけますが、一方で、大坂城に籠っていた旧幕府兵や会津、桑名兵らのフラストレーションは積もるばかりで、暴発は時間の問題になりつつありました。そしてついに、慶応4年(1868年)1月2日、京に向けて旧幕府軍の進撃が開始され、翌3日、京都南郊の鳥羽・伏見で両軍は激突します。世に言う「鳥羽・伏見の戦い」です。

 旧幕府軍の進撃の導火線となったのが、前年に江戸で勃発した徳川家と薩摩藩の軍事衝突でした。王政復古前の11月頃より、江戸市中では薩摩藩の三田屋敷を拠点として、強盗騒ぎが頻発していました。これは、慶喜の大政奉還によって武力討幕の口実を失った薩摩藩が、江戸に浪士・無頼者を集めて治安を乱し、後方撹乱を狙ったものだと言われています。その首謀者は西郷隆盛でした。西郷の思惑は、騒乱状態を作ることによって、旧幕府兵力を関東に釘付けにし、京阪への集結を妨げるとともに、幕府の権威がもはや衰弱しきっていることを諸藩および江戸市中の民衆に強く印象づけ、さらには、幕府をして薩摩藩討伐の兵を起こさざるをえないように仕向けようというものでした。そして、ことはその狙いどおりに進みます。

 江戸城の留守を預かる旧幕府首脳部と江戸市中の警備を任されていた庄内藩は、一連の騒ぎを薩摩の挑発とみすえ、じっと我慢し続けていましたが、12月に入って、大風の吹く日に市中数十箇所に火を放ち、その混乱に乗じて江戸城を襲い、静寛院宮(和宮)天璋院(篤姫)を連れ去る計画が進められているという風評が流れ、その風評が流れるさなか、天璋院の住む江戸城二の丸が全焼する騒ぎが起きます。さらに浪士たちは徳川家を挑発して、この夜、庄内藩屯所に向けて発砲。これには庄内藩も怒り浸透となり、ついに旧幕府首脳部もしびれを切らして、庄内藩兵とともに薩摩藩邸を包囲。三田屋敷はたちまち火に包まれました。その報が大阪に伝わると、城内は一気に沸き立ち、ただちに薩摩を討って一挙に幕府勢力を回復せよといきり立ちます。

 「この声を聞け! 一万五千の猛り立つ兵をどうやって鎮めるのだ! 薩摩を討たねば、この怒りはわしに向かってくる。主君のわしが殺される。もはや戦うしかない。」

 ドラマ中の慶喜の台詞ですが、まさにこの台詞どおりの心境だったんじゃないでしょうか。ことここにいたっては、もはや慶喜にはその勢いを抑える力はありませんでした。

 戦のあらましは長くなるのでここでは省略しますが、徳川方の指揮不統一戦術の拙さが相まって、旧幕府兵、会津兵、桑名兵ともに各所で後退を余儀なくされ、初日の戦いは薩長軍の優勢で終わりました。この初日の戦況が、結果的に決め手となります。

 開戦の報が届いた京都では、すぐさま御所で会議が開かれ、大久保一蔵の意向を受けた岩倉具視は、仁和寺宮嘉彰親王を軍事総裁職兼任・征討大将軍に任命し、錦旗・節刀をさずけることと、諸藩に慶喜討伐を布告することを求めますが、慶喜を朝敵とすることに異論が続出し、なかなか結論が出ませんでした。しかし、前線から薩長軍優勢の報告が入ると、会議の空気が一変し、慶喜討伐が決定します。薩摩・長州が官軍、旧幕府軍をはじめ会津、桑名が賊軍に転落した瞬間でした。翌日、仁和寺宮が錦旗を掲げて東寺まで進み、ここに慶喜討伐の大本営を置きます。これまで形勢を展望していた諸藩も、これを見た途端になだれを打って旗幟を鮮明にしていきます。ここに、鳥羽伏見の戦いの大勢は決したといえます。まさに、「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉どおりの展開だったわけですね。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2013-05-25 16:50 | 八重の桜 | Trackback | Comments(0)  

続、雨の紀の国、さくら舞い散る和歌山城。

一ヶ月以上経っちゃいましたが、先日、3日間ほど仕事で和歌山市を訪れていた際、寸暇を惜しんで和歌山城に行ってきました(参照:雨の紀の国、さくら舞い散る和歌山城なう!)。
この日は4月6日で、ちょうどが綺麗な時期だったのですが、残念ながらこの日は朝からガッツリ雨で、前日まで満開だった桜を一気に散らしてしまいました。

e0158128_0495129.jpg

和歌山城のある紀州藩は、徳川家康の十男・徳川頼宣を始祖とする徳川御三家のひとつで、8代将軍・徳川吉宗や14代将軍・徳川家茂を排出した名家ですね。
和歌山城と県庁の間の交差点には、吉宗の銅像があります。

e0158128_054859.jpg

吉宗は、徳川の8代将軍として知られていますが、元々は紀州の2代藩主・徳川光貞の四男として生まれ、兄が相次いで亡くなるなどしたため、5代紀州藩主となります。その後、32歳で将軍に推され、30年近く将軍職を務めます。「享保の改革」を成し遂げた徳川将軍家、中興の祖として、後世に名高い名君ですね。

e0158128_0582863.jpg

「南海の鎮」として徳川御三家の一角をなす和歌山城ですが、元は豊臣秀吉の時代、天正13年(1585年)に羽柴秀長によって築城されました。築城を担当したのは城作りの名人として知られる藤堂高虎で、このとき「和歌山」という名称に改められたんだそうです。

e0158128_135397.jpg

本丸御殿跡から撮影した天守です。
おそらくここからが最もきれいに撮影出来るポイントかと。
天守は弘化3年(1848年)に落雷によって焼失してしまい、嘉永3年(1850年)に再建された天守は、昭和20年(1945年)の和歌山大空襲で焼失するまで残っていました。

e0158128_15236.jpg

和歌山城は、虎伏山の山頂部に天守曲輪本丸が並列された縄張りが特徴で、天守曲輪は、南東隅に天守、北東には玄関が付けられた小天守、北西隅には乾櫓、南西隅には、二の門櫓を多聞櫓で連結した姫路城伊予松山城と同様の連立式天守群です。

e0158128_192661.jpg

天守からは市街地を360°見下ろすことができ、大パノラマが広がります。

e0158128_19424.jpg

西の丸庭園(紅葉渓庭園)です。
その名のとおり、紅葉の季節に来ればきっと綺麗なんでしょうね。
この日はあいにくの雨で、片手に傘をさしながら片手で撮影していたので、ゆっくり庭園を散策する余裕はありませんでした。

e0158128_1124542.jpg

向こうに見えるのは、藩主の生活の場である二の丸と、紅葉渓庭園のある西の丸を行き来するために架けられた御橋廊下の復元です。

e0158128_115018.jpg

実際になかを通ることができます。

e0158128_1205042.jpg

e0158128_121316.jpg

上の写真が坂の下から、下の写真は上からの撮影です。
上からの写真を見ると、床板にがついているのがわかるでしょうか?
おそらくこれは、急勾配の坂の廊下で滑り落ちないように工夫されているのでしょうね。
階段とは逆の段になっているので、歩くと角が足の裏を刺激して結構痛かった。
足つぼマッサージに最適です(笑)。

e0158128_1302655.jpg

外から撮影した御橋廊下です。
結構な傾斜でしょう?

e0158128_1372672.jpg

現存として残る貴重な岡山門です。↑↑↑
国の重要文化財に指定されています。

e0158128_140367.jpg

本当はもっとゆっくり取材したかったんですが、仕事の合間だったことと、とにかく雨が激しかったこともあって、滞在は約1時間。
足早に歩き回っただけでした。
今度はもっと天気のいい日に、仕事ぬきで訪れたいと思います。
といっても、和歌山市って、神戸に住む私にとって同じ関西でありながら、なかなか縁がない場所なんですよね。
神戸から車で1時間ほどですから、来ようと思えばいつでも来れるんですが、いままで仕事以外できたことはなく・・・。
旅行となると、もっと南へ足を伸ばして、白浜とか那智勝浦とかまで行っちゃいますもんね。
和歌山市内に遊びにくるという発想になかなかならない(和歌山市に住む方々スミマセン)。
近くて遠い和歌山市です。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2013-05-18 01:50 | 和歌山の史跡・観光 | Trackback | Comments(4)  

八重の桜 第19話「慶喜の誤算」 ~王政復古の大号令~

 慶応3年(1867年)10月15日、徳川慶喜から受けた大政奉還の上表を承認した朝廷でしたが、やはり慶喜が考えていたとおり、ただちに政権を運営できる能力が朝廷にはなく、どうにも手のうちようがありませんでした。したがって、ことごとに慶喜の意見を聞き、指示を仰ぎ、結局は政務を慶喜に委託するしかありませんでした。慶喜の思惑どおりにことが運んでいたといえるでしょう。

 薩摩を始めとする討幕勢力は、なんとしても諸大名を京都に召集し、列藩の衆議によって今後の政治のあり方を決定したいと考えていました。そこで朝廷は諸大名に京都参集を命じますが、旧幕府の顔色をうかがって容易に足並みが揃いません。大政奉還という事態を前にして、諸藩主がどう対処すべきか迷うのも、当然といえば当然のことだったでしょう。これを薩長の陰謀と考える藩主、あくまで幕府に対して忠節をまっとうすべしという藩主、あるいは病気と称して上京の延期を願い出る藩主、あるいは藩主に代わって重臣の上京を出願する藩主など、さまざまでした。

 これでは諸藩主会議による国是決定など、とてもできるものではない・・・そう考えた討幕側は、こうした状況を打開するために、次なる手立てを画策します。それは、武力を背景として王政復古の大号令を出すという宮廷クーデターでした。この計画を中心的に進めたのは、薩摩藩士・大久保一蔵(利通)岩倉具視。まず、大久保は討幕の盟約を結んでいる長州藩と芸州藩に京へ派兵するよう依頼し、自身もすぐさま藩地に帰って藩兵を促します。さらに大久保らは、土佐藩にも強力を仰ぎます。土佐藩は大政奉還論の中心的存在であり、彼らにクーデター計画を漏らすのは危険なことでしたが、しかし、土佐藩が反対側に立ってはあとあと面倒なことになると考えたのでしょう。

 大久保は西郷吉之助や長州藩士・品川弥二郎などと協議して、このクーデターをの決行日を12月8日に決定します。列席者は薩摩藩を中心に、土佐・尾張・越前・安芸(広島の浅野)の5藩でした。長州藩は、長州戦争が正式に終結していないので、京都に兵力を動員できず参加できませんでした。また、西郷と大久保も下級藩士のため朝廷の会議には参加できません。クーデター実行部隊で会議に参加できるのは公卿である岩倉のみ。岩倉を会議に出席させるには、まず出仕を停止させられている岩倉の罪を解かなければなりません。

 そして決行日の12月8日。この日、朝廷内では会議が開かれていました。その議題は、朝敵となっている長州藩主父子の罪の赦免と復位、先の八月十八日の政変によって追放されている三条実美を始めとした公卿の赦免についてでした。昼夜を通して行われた話し合いの結論は、長州藩主父子の罪の赦免が決定、罪人となっている公卿の赦免も認められ、このとき、蟄居の身であった岩倉具視の罪も解かれます。じつはこの徹夜の会議は、そのために行われた伏線だったんですね。

 翌朝、朝議を終え摂政ら親幕府メンバーが御所から退出するのを待って、薩摩藩を初め5藩の藩兵が御所を封鎖しました。そして、たったいま罪を解かれたばかりの岩倉が、かねてから用意していた王政復古の大号令なる文書を読み上げ、これを天皇に献上しました。その内容は、徳川幕府を廃止すること、摂政などの旧制度を廃止し、代わりに総裁・議定・参与の3職を置くことを置くことなど。そして、ただちにその3職による会議を開きます。これが小御所会議と呼ばれる会合です。メンバーは岩倉のほか、越前藩主・松平春嶽、土佐前藩主・山内容堂、尾張藩主・徳川慶勝ら。3職でない西郷と大久保は、別室で控えていました。

この会議のポイントは、徳川慶喜が出席していなかったことでした。春嶽、容堂、慶勝らは、幕府が廃止されても新政府の一員として慶喜が参加すると考えていました。彼らは事前にこのクーデターのことは了承していましたが、まさか、慶喜抜きの展開になるとは考えていなかったんですね。3人は岩倉の示す新政府案に難色をしめします。特に容堂の反論は激しく、クーデター政権を批判します。さすがの岩倉も押されぎみになり、会議は一旦休憩に入ります。この休憩時間が、歴史を大きく変えることになるんですね。

 会議の経過の報告を受け、助言を求められた西郷が、「短刀一本で用は足りもす」と答えたという有名な話。要は「刺し違える覚悟で臨めばことは自然と開ける」といった意味の言葉だったのでしょうが、この言葉を聞いた岩倉は、「容堂と刺し違える覚悟で臨む」と周囲の者に言い放ち、それを聞いて驚いた土佐の後藤象二郎は、主君である容堂に伝えます。これには容堂もビビったようで、再開された会議の席では、容堂はすっかり沈黙のひととなってしまいます。これで全ては決着。新政府に慶喜を加えないこと、慶喜に幕府領を差し出させること、慶喜が就任していた内大臣の官職を辞退するよう要求することなどが決定します。ここに、討幕勢力のクーデターは成功します。

 ドラマにあったように、慶喜自身はこの日、自分が出席すればかえって不利になると考えたらしく、ずっと二条城にいたようです。これが、本話のタイトルどおり、「慶喜の誤算」でしたね。もっとも、出席していたら違う結果になっていたかどうかは、今となってはわかりませんが。あるいは、本当に「短刀一本」でケリを付けられていたかもしれません。そう考えれば、やはり欠席は正解だったのかもしれませんね。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2013-05-15 19:57 | 八重の桜 | Trackback | Comments(0)  

八重の桜 第18話「尚之助との旅」 ~大政奉還~

 いよいよ幕末史の大詰、物語は慶応3年(1867年)の後半期を迎えました。この時期になると、あくまで幕権強化を是とする佐幕派と、武力で幕府を倒そうという倒幕派の緊張がますます高まるなか、そのどちらでもない第三の道として、幕府自ら政権を朝廷に返還し、武力を用いないで、平和的に幕府専制を解消して、新たな政治機構を作ろうとする運動が活発になります。いわゆる「大政奉還論」ですね。この3つの運動が並行的にからみ合いながら進展していたので、政局はきわめて複雑な様相を示します。

 大政奉還論を中心的に推進したのは土佐藩でした。その土佐藩の代表者は前藩主の山内容堂であり、その腹心である後藤象二郎が藩内でもっとも実力を持っていました。その後藤に大政奉還論を教えたのが、あの坂本龍馬ですね(参照:龍馬伝第43話「船中八策」)。龍馬の示した構想は、上下二院制など外国の立憲制にのっとった近代的な統一国家の構想で、これまで薩摩藩の西郷隆盛らが推し進めてきた列藩会議の構想よりもずっと進んだものでした。しかし、これを受けた後藤はあくまで列藩会議のかたちをとり、その列藩会議の議長に旧将軍が就任し、徳川本家の権威は持続させる、名目は朝廷の一元政治である、という妥協方針を立てます。山内容堂も、これならば賛成であり、後藤らはこの案を慶応3年(1867年)10月3日、老中に提出し、大政奉還を説きます。

 土佐藩から大政奉還論を上申された幕府でしたが、すでに将軍・徳川慶喜やその側近にはその論は入説されていました。したがって慶喜以下幕府首脳は、これをどうするか、すでに検討を加えていたのです。これまで幕権強化に力を注いできた慶喜も、ここにきて、なんらかのかたちでこれまでの幕府政治の形態を変えなければならないと感じとっていたのでしょう。薩長を中心に討幕運動が進められていることは明らかであり、しかもイギリスがその後押しをしていることもわかっている。第二次長州征伐では、長州一藩相手でも歯が立たなかった。そのほかの諸大名も幕府にソッポを向き始めている。民心の動向を見ても、幕政に対して非難が集中している。そんななか、この際なんらかの思い切った手だてが必要と考えたのも、当然だったといえるでしょう。

 そこへ飛び込んできたのが、土佐藩の大政奉還論でした。迷った慶喜はこの案を採り入れる決意をします。そして慶応3年(1867年)10月14日、慶喜は大政奉還の上表を朝廷に提出しました。これにより、250年続いた徳川政権は名目上終わりとなったわけですが、それは名目上であって、事実上はそう簡単なことではないと慶喜はふんでいたと考えられます。政権を返されたとて、250年もの間政治から遠ざかっていた朝廷に政権運営能力はなく、実質的にはこれまでどおり徳川家が運営していくこととなる。慶喜はこの大政奉還に便乗して、あるいはこれを利用して、これまで以上に幕権を強化していこうとさえ考えていたといわれています。天皇を隠れ蓑にして実権を握る・・・つまり、名を捨てて実を取るというわけですね。たしかに、内乱を回避して、なお且つ徳川本家を守るという道は、この時点ではもはや大政奉還しか道はなかったでしょう。その意味では、慶喜の選んだ道は最良の方策だったといえます。しかし、大政奉還後の構想は、慶喜が考えるほどあまいものではありませんでした。慶喜が考えるほど、討幕側は馬鹿じゃなかったんですね。そこが、来週のタイトルどおり、「慶喜の誤算」だったのでしょう。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2013-05-07 00:16 | 八重の桜 | Trackback | Comments(0)  

長嶋茂雄氏と松井秀喜氏の国民栄誉賞W受賞に思う。

長嶋茂雄氏と松井秀喜氏への国民栄誉賞の表彰式は観られましたか?
私は、たまたま休日ということもあって、ゆっくりテレビ中継を視聴させてもらいました。
同賞の表彰式が官邸以外の場所で行われるのは、このたびが初めてだそうですが、LIVE中継されるというのも初めてのことだったんじゃないでしょうか?
松井氏の引退セレモニーも兼ねた舞台だったから実現したことでしょうが、これを企画した方に感謝したいですね。
いいものを観せていただきました。

国民栄誉賞の授与は、長嶋・松井両氏で22、23人目だそうで、プロ野球選手では、1977年の王貞治氏と1987年の衣笠祥雄氏に次いで3人目、4人目となります。
これまで、「なぜ長嶋氏に授与しないんだ」といった声はずっと叫ばれてきましたが、ようやくの受賞といったところでしょう。
今年2月に受賞した大相撲の元横綱大鵬(故・納谷幸喜氏)のとき、「なぜ生前に授与しなかったのか!」といった批判の声が多くあがっていましたから、それも後押しになったかもしれませんね。

一方の松井氏への授与に関してですが、こちらは賛否両論の声があったようで、両氏のW受賞の報道があって以降、いろんな意見を耳にしました。
松井氏への授与に否定的な方々の意見としては、
「まだ早い」「長嶋と同格扱いなんておこがましい」などなど。
でもね・・・私はそうは思わないですけどね。
「まだ早い」という意見についていえば、王貞治氏が受賞したのは37歳で、38歳で現役引退した松井氏が受賞してもなんら不思議ではありませんし、「長嶋と同格扱い」について否定的な意見についていえば、通算安打数、本塁打数、打点数と、どれをとっても松井氏の方が長嶋氏を上回っており、記録の上では決して劣っていません。
というと、長嶋氏の偉大さは記録では語れない・・・という反論になると思うんですが、でもそれって主観的な話になりますから、それを言い出せば、キリがないんですね。
私は、長嶋氏がもらえるなら松井氏ももらっていいと思うし、松井氏がダメなら長嶋氏にも授与すべきではないと思います。

そもそも国民栄誉賞とは、通算本塁打の世界記録を樹立した王貞治氏を称えるために出来た賞で、その後の衣笠祥雄や横綱・千代の富士関などの受賞から見ても、前人未到の何かを成し遂げた人に対して授与していた賞だったはずです。
つまり、渥美清氏が受賞して石原裕次郎氏が受賞していないこと、長谷川町子氏が受賞して手塚治虫氏が受賞していないことなどのように、“記憶”だけではなく“記録”を残していることが重要な条件だったはずなんですね。
だから、王さんが受賞して長嶋さんが受賞していないことも、ある意味うなずけたんです。

ところが今回、その長嶋さんへの授与が決定した・・・私はむしろ、そのほうが違和感を覚えました。
だって、ただでさえ選考基準の曖昧さを指摘されてきたこの賞が、さらに曖昧になったような・・・。
広く国民に夢と希望を与えた・・・というならば、手塚治虫氏だってもらっていいですよね。
国民栄誉賞は、あの長嶋さんですらもらえない賞だったからこそ、権威のある賞だったように思います。

せっかくのめでたい話に水を差すようなことを述べましたが、私は決して二人の受賞に否定的なわけではありません。
ただ、長嶋氏の受賞は納得できるが松井氏は疑問・・・といった的外れな意見に対して一言述べたまでです。
昭和のヒーロー平成のスターを比べること自体、ナンセンスですよね。
国民栄誉賞を受賞すると、国が認める国民的英雄となるわけで、残された人生をその地位に相応しい生き方をせねばならず、その意味では、長嶋氏の何倍も人生が残っているであろう松井氏の方が、受賞者としての重圧ははるかに大きいでしょうね。
長嶋氏においてはこれからもお元気で、そして松井氏には更なる活躍を期待したいところです。

国民栄誉については以前も拙稿で述べていますので、よければ一読ください。
    ↓↓↓
なでしこジャパンの国民栄誉賞授与に思う。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 ニュースブログ 時事ニュースへ
にほんブログ村 野球ブログ プロ野球へ

[PR]

by sakanoueno-kumo | 2013-05-06 02:41 | プロ野球 | Trackback | Comments(0)  

八重の桜 第17話「長崎からの贈り物」 〜孝明天皇の死〜

 慶応2年(1866年)12月25日、孝明天皇(第121代天皇)が36歳という若さで崩御しました。その5ヶ月前には、江戸幕府第14代将軍・徳川家茂も急逝しており、奇しくも慶応2年後半期に、公武の最高位にある天皇将軍が相次いでこの世を去ることとなりました。政局が混沌としていたこの年、将軍家茂が死んだときにも暗殺の風説が流れたといいますが、孝明天皇の死については、暗殺説がかなり流布していたようです。現代の学者さんたちの中にも、孝明天皇暗殺説を支持する方もいます。はたして真相はどうだったのでしょう。

 従来の定説となっている病状を見ると、亡くなる半月ほど前の12月11日、風邪気味であった孝明天皇は、宮中で執り行なわれた神事に医師たちが止めるのを押して参加し、その翌日からひどく発熱します。12日、13日と熱は下がらず、14日に診察した医師によると、「痘瘡(天然痘)か陰症疫の疑いあり」と診断されます。睡眠も食事も満足にとれず、うわ言を発し、16日になると全身に発疹があらわれ、17日正式に痘瘡と公表されました。そこで七社七寺への祈祷が命じられ、将軍以下、京都守護職の松平容保らも見舞いに参内したようです。ドラマでは、天皇の急逝の報を受けて、「青天の霹靂」といった感じの容保でしたが、実際には、まったく予期せぬ出来事というわけではなかったようです。

 ただ、18日以降、少しずつ病状は回復に向かっており、その意味では寝耳に水だったかもしれません。病状が急変したのは24日夜からで、翌25日の公卿・中山忠能の日記に「何共恐れ入り候御様子」と書かれるほどの病状となります。嘔気をもよおし、痰は多く、しだいに体力を失い、脈も弱まり、25日亥の刻(午後11時ごろ)に、ついに崩御となりました。

 このような病状の急変が、さまざまな風説を生む原因となったようです。なかでも多くささやかれたのが毒殺説。私は医学については門外漢ですので、このような病状の急変についての知識はありませんが、専門家によると、何かに中毒したことによる急死の症状に酷似しているらしく、毒を盛られた可能性は否定出来ないとのことです。もっとも、当然のことながらそれを立証できる証拠はなにもなく、全ては憶測に過ぎません。

 ただ、当時このような風説が流布される客観的な条件はじゅうぶんそろっていました。この当時、政局は混沌としており、公武のトップである天皇と将軍の死は、佐幕派倒幕派ともに大きな政治的意味があったことはいうまでもありません。当時、日本に駐在していたイギリスの外交官・アーネスト・サトウが後年に書いた日記でこう述べています。

 「当時の噂では、帝の崩御は天然痘によるものだと聞いていたが、しかし数年後、その間の消息によく通じているある日本人が、わたしに確言したところによれば、帝は毒殺されたのだという。この帝は所信をもって、外国人に対していかなる譲歩にも断固として反対してきた。そのために、きたるべき幕府の崩壊によって、否が応でも朝廷が西欧諸国と直接の関係に入らざるを得なくなることを予見した人々によって、殺されたというのだ。この保守的な帝がいたのでは、戦争を引き起こすような事態以外のなにものも期待できなかったであろう。重要な人物の死因を毒殺に求めるのは、東洋諸国ではごくありふれたことであり、前将軍(家茂)の場合にも、一橋のために毒殺されたという噂が流布した。しかし当時は、帝についてそのような噂は聞かなかった。帝が、ようやく15、6歳になったばかりの少年(睦仁親王)を継承者に残して、政治の舞台から姿を消したということが、こういう噂の発生にきわめて役だったであろうことは否定できない」

 これによると、倒幕派が攘夷論者である孝明天皇を毒殺したということになりますね。攘夷論では朝廷が外国と関係を持つようになっては大障害になるという観点からの毒殺説ですが、イマイチ理由としては弱い気がします。それよりも、佐幕派の天皇では、倒幕を遂行するにはどうにも邪魔である、というほうがまだ説得力がある気がしますね。事実、岩倉具視がこれを画策したという風説があります。岩倉具視の義妹である堀河紀子が宮中女官として入っており、その紀子を操って痘瘡の薬のなかに毒物を混入させた・・・と。もちろん風説であって、岩倉にしてみれば迷惑千万なはなしかもしれませんが、岩倉の場合それ以前の和宮降嫁問題のときにも、天皇毒殺をはかったという評判がたったことがあった人物で、疑惑の目で見られたのも無理はなかったかもしれません。

 薩摩藩士・大久保利通は、「玉(天皇)をわが方に抱えることが、千載の一事で、もし幕府に奪われては藩の滅亡」としていました。天皇を味方につけた方が勝つということですね。しかし、ときの天皇である孝明天皇は、はっきりとした政治的発言をおこない、しかもそれは佐幕説でした。倒幕派にとっては、孝明天皇は邪魔な存在で、その死が倒幕派にとって有利なことであったのは明らかでした。だからこそ毒殺説が生まれたのでしょう。実際に毒殺が行なわれたのか、あるいは本当に痘瘡による病死だったのか、今となっては真相は闇の中ですが、いずれにせよ、孝明天皇の死が倒幕派を大きく勢いづかせたことは間違いありません。古代・中世はさておき、孝明天皇は日本の近世以降の天皇のなかで、珍しく政治的行動・発言をおこなった、ただひとりの天皇といえるかもしれません。そのため、36歳の若さでこの世を去ることとなってしまった・・・かどうかは定かではありませんが・・・。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2013-05-02 23:26 | 八重の桜 | Trackback | Comments(2)