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八重の桜 第30話「再起への道」 ~萱野権兵衛の切腹~

 鶴ヶ城白旗が掲げられる2週間前の9月8日、元号が「慶応」から「明治」へと改元されていました。この約2ヶ月前には、江戸の名称も「東京」と改められ、会津藩が新政府軍と降伏交渉を進めていた同じ頃、明治天皇(第122代天皇)は京都を発ち、東京に向かっていました。翌月、天皇が江戸城に入ると「東京城」と改められ、皇居と定められました。こうして、将軍のお膝元であった江戸が消滅し、天皇を迎えた新都「東京」に変わろうとしていました。中学校の歴史授業的にいえば、250年続いた江戸時代が終わり、以後40年以上続く明治時代が始まります。

 実際には、どこまでが江戸時代で、どこからが新時代の幕開けかの線引は難しく、人によって見解のわかれるところだとは思いますが、こうして見ても、佐幕派の象徴的存在であった会津藩の敗北というのは、ひとつの節目ではあったといえるでしょう。世は足早に変わろうとしていました。

 城を出た松平容保喜徳父子、そして照姫は、滝沢村の妙国寺に入り、約1ヶ月の謹慎生活を送ります。その警備を土佐藩越前福井藩が担当。しかし、容保らを守るための警備のはずが、その大砲の砲門は容保らがいる本堂に向いていました。容保父子の奪還を画策する旧会津藩士たちの動向を警戒していたのです。降伏・開城したとはいえ、政府軍と会津藩の緊張状態は依然として続いていたようです。

 その後、容保父子の身は東京に移され、12月7日、政府の処分が下ります。その内容は、死一等を免じて、容保は鳥取藩、喜徳は久留米藩に永のお預けというものでした。しかし、これで一件落着というわけにはいかず、政府としては、藩主に代わって戦争を引導した首謀者の出頭を求めます。となれば、その対象は藩の指導的立場にある家老職となるわけですが、すでに筆頭家老である田中土佐神保内蔵助は自害しており、西郷頼母は藩首脳部との対立によって領外追放処分で行方知れず、そこで、家老としては4番目の地位にあった萱野権兵衛が、ひとりで責めを負うことになります。
 「松平容保公の代わりに首を討たれるのは、それがしの役目だった・・・・。萱野権兵衛殿ひとりに、責めを負わせてしまった。」
ドラマでの頼母の台詞ですが、そういう背景からの言葉だったわけですね。

 権兵衛が処刑されたのは、降伏・開城から8ヶ月後の明治2年(1869年)5月18日、場所は照姫の実家である飯野藩保科家の下屋敷でした。政府の命令は「斬首」だったようで、公文書などには「刎首」とあるそうですが、実際には、保科家のはからいによって「切腹」のかたちが取られ、武士らしい最後を遂げることができたようです。権兵衛の処刑に際して照姫は、次のような和歌を贈ったそうです。

 「夢うつゝ思ひも分す惜むそよ まことある名は世に残るとも」

 この歌と容保からの親書を受け取った権兵衛は、「まことに光栄である」と感涙したといい、親書を持参した梶原平馬山川大蔵の熱涙をさそったといいます。

 「では、さらばだ!」
 柳沢慎吾さんのいつにないシリアスな演技、なかなかなものでしたね。
 「あばよ!」・・・じゃなかったのが、少々残念ではありましたが・・・(笑)。

 萱野権兵衛の処刑から4ヶ月後の9月28日、容保の罪が許され、松平家の家名も再興となります。この年、容保は側室との間に長男(松平容大)をもうけていました。こんなときに、よくまあ子作りに励めたものだ!!!と思わなくもないですが、殿様なんてそんなもんでしょう。ドラマでの容保は、少し美しく描かれ過ぎかと・・・。

 11月4日、容大は家名の相続を許され、陸奥国の旧盛岡藩南部家領において3万石が与えられました。ここに、会津藩は斗南藩として生まれ変わります。御家再興を待ち望んだ旧会津藩士たちにとっては朗報だったわけですが、斗南での暮らしは、彼らが待ち望んだものとは程遠いものでした。そのあたりは、また次回以降で・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2013-07-30 22:16 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(2)  

八重の桜 第29話「鶴ヶ城開城」  ~会津戦争終結~

 奥羽越列藩同盟の諸藩は次々と新政府軍に降伏していきましたが、9月に入ると、同盟結成の中心的役割を果たした大藩、米沢藩仙台藩までもが新政府軍の軍門に下ります。これで残った同盟国は会津藩庄内藩だけとなりました。孤立無援状態となった鶴ヶ城内の会津兵は懸命に抗戦を続けますが、新政府軍の攻撃力は増すばかりでした。ある史料によれば、城内の会津兵約3千人に対し、城を包囲した新政府軍は3万人ともいわれます。そんな圧倒的な兵力差のなか、9月14日の総攻撃では、約50門もの大砲が火を吹き、八重の記述によれば、午前6時から午後6時までの間に1208発も城内に着弾したといいます。

 山川大蔵の妻・トセが落命したのもこの日でした。本丸にある照姫の部屋を警護していたトセは、「焼き玉押さえ」で爆発に巻き込まれ、命を落とします。「焼き玉押さえ」とは、着弾しても爆発していない砲弾を、水に浸した着物や布団で包み、爆発を防ぐというもの。ドラマでは八重が婦女子たちに指南していましたね。これは言うまでもなく極めて危険な仕事でしたが、八重のように武器を持って戦えない婦女子たちにとっては、お役に立てる大きな役割でした。彼女たちも男たち同様、みごとに死に際を飾ることを常に考え、もしものときは自分を介錯してくれる女性をあらかじめ決めていたといいます。

 追い詰められた会津兵は、9月15日、最後の大規模な攻撃を仕掛けます。一瀬要人萱野権兵衛らに率いられた部隊は、兵糧補給路を絶とうとする新政府軍と、城南の一ノ堰村で激突します。この「一ノ堰の戦い」と呼ばれる戦闘で、八重の父・山本権八が命を落とします。享年60歳。鶴ヶ城に白旗が上がるわずか5日前の9月17日のことでした。

 この一ノ堰の戦いの裏側で、実は降伏・開城の手はずが進められていました。一時は降伏・恭順を主張した西郷頼母を領外へ追放するほど強硬姿勢を崩さなかった藩首脳部でしたが、9月に入ってその姿勢は軟化し始め、さらに、先に降伏した米沢藩から降伏を促す書面が送られてきたことも相まって、とうとう、降伏論で固まります。そして、一ノ堰の戦いが行われていた15日には、秋月梯次郎手代木直右衛門が米沢藩の陣所に向かい、そこで米沢藩を介して新政府軍の陣所に護送され、19日、新政府参謀の板垣退助と会見、降伏交渉に入ります。

 降伏の嘆願を受けた板垣退助は、次のような条件を示します。

一、大旗に降伏の二文字を大書きし、追手門外に立てる。諸隊はこれを合図に発砲をやめる。それから一時間後に重役は礼服を着し、兵器を一切持たずに罷り出る。
二、肥後父子(容保・喜徳)、刀を小姓に持たせ、嘆願書を持参する。病気の場合は駕籠でよい。
三、肥後父子、出城の節は二十人ずつ随従、臣下は脱刀のこと。
四、城中の兵士は追々、出城苦しからず。
五、城中男幾人、女幾人、他邦脱走者幾人を、帳面に差し出すこと。
六、肥後家内へ随従の者は一人が五人、女子随従の儀は幾人でもよい。
七、十四歳以下と六十歳以上ならびに婦女子は城外に退いてよい。
八、男子は追々出城の上、猪苗代に移る。
九、城中滞在の患者は青木村(小田山西麓)に退く。


 そこには、これまで新政府軍が要求してきた松平容保斬首はありませんでした。もちろん誰もお咎め無しというわけにはいかないので、家老の萱野権兵衛がその責任を負って切腹するのですが(これは次週描かれるようですね)、会津藩にとっては、のめる条件を提示されたといえます。新政府軍にしてみれば、まだまだ基盤が不安定な新政府において、戦後の安定した政権運営のためにも、必要以上の遺恨を残したくないといった思いがあったかもしれませんし、あるいは、新政府軍も早く戦を終結させたかったのかもしれません。いずれにせよ、会津側にしてみれば、この寛大な条件をのまない理由はなく、20日に交渉がまとまり秋月らが帰城。22日に白旗が掲げられ、ここに、約1ヶ月続いた会津籠城戦は幕を閉じます。

 白旗の大きさは長さ三尺(約90cm)、幅二尺(約60cm)で、城中の女性たちが小布を縫い合わせて作ったものでした。その作業の指揮をとったのが照姫だったといいます。八重はその針仕事には加わっていなかったそうですが、晩年になっても、このときのことを思い出すと無念極まりない思いでいっぱいだったと語ったそうです。

 明日の夜は 何国(いずこ)の誰かながむらん なれし御城に残す月かげ
 (明日の夜になれば、慣れ親しんだこの城を照らす月のあかりを、どこの国の誰かが眺めるのだろう)


 降伏前夜に、八重が三の丸の白壁にかんざしで刻みこんだといわれている歌です。あるいは辞世の句のつもりだったのかもしれませんね。弟が死に、そしてまた父を失い、兄はいまだ生死不明で、城を追われ、明日の運命もしれず、無念と不安の思いでいっぱいだったのでしょうね。そんな心の叫びがひしひしと伝わってきます。こののち会津の人々にとっては、籠城戦以上に過酷な日々が訪れようとしていました。


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by sakanoueno-kumo | 2013-07-23 22:34 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(5)  

自民大勝の参院選に思う、最優先課題は改憲にあらず。

予想どおり自民党の圧勝でしたね。
昨年末の衆院選で政権を奪還してから7ヶ月、とりあえずは現政権の継続を国民が望んでいるという結果と見ていいのでしょう。
国民のいちばんの望みである景気回復対策が、今のところ上手くいってますしね。
ただ、経済には疎い私ではありますが、急激な円安や株価上昇の声を聞いても、不況の世があまりにも長すぎたため、こういう報道に慣れていないせいか、どうも信用しきれないでいます。
こんなもん、いつまで続くか・・・的な。
アベノミクスは一時的な景気刺激にはなっているものの、根本的な実体経済の成長には結びつかないという専門家の人もたくさんいますし、来年の消費税増税によって急に消費が冷え込む懸念も拭いきれません。
だって、アベノミクスの恩恵を受けたのは一部の大企業だけで、まだまだ中小企業まで降りてきてませんしね。
デフレ傾向に歯止めが効いていないのも、私のように、まだ信用しきれないでいる国民が大半をしめているからではないでしょうか。

このたび自民党が圧勝したのは、今はまだ景気回復の実感がなくても、近い将来、きっと自分たちの生活に浸透してくるはず・・・その期待以外のなにものでもないと思います。
昨日の選挙で与党は“ねじれ”を解消しました。
これでほぼ思いどおりの政策を進められるわけです。
改憲論が選挙の争点になっていたようですが、自民党に投票した人すべてが改憲に賛成というわけでもないでしょう。
自民党に投票したのは、改憲への期待ではなく、アベノミクスへの期待が大半なんですね。
そのことを、安倍さんは間違えないでほしいものです。
自民大勝という国民の声に応えるには、何をすべきか・・・。
改憲の必要性も否定はしませんが、最優先課題というわけでもないでしょう。
一に景気対策、二に災害復興、その他、消費税社会福祉日中・日韓関係の改善など急務の課題は山積みです。
改憲は安倍さんの政治生命を賭けた理念なんでしょうが、国民が安倍政権を支持しているのは、まずは景気回復への期待だということを忘れないでほしいですね。
それを忘れて、今回得た多くの議席を乱用するような政策を進めると、民主党政権の二の舞になるということを肝に銘じてほしいと思います。
「おごる平家は久しからず」です。

一方で、野党勢力を見てみると、国民の失望感を背負った民主党が大幅に議席を減らしたのは大方の予想どおりでしたが、昨年末の衆院選で台風の目となった日本維新の会が、イマイチ振るいませんでしたね。
やはり、橋下徹代表の一連の問題発言がまずかったんでしょうね。
こちらはまさに、「口は災いの元」という言葉がピッタリです。
ただ、わたしが思うに、維新の会が伸びなかったのはそれだけが理由ではないようにも思います。
消費税にしても改憲にしても公共事業にしても、自民党との違いがよくわからないんですよね。
だったら、自民でいいんじゃないの?・・・的な。
そのあたりは、自民党がこれほど大勝しているにもかかわらず、まったく対極に位置するはずの共産党が議席を増やしたという結果を見てもわかるんじゃないでしょうか。
つまり、有権者が求めているのは「白か黒か」で、わかりにくいグレーにはあまり魅力を感じないということでしょうね。
ひたすら「脱・原発」を訴え続けたタレントの山本太郎氏が当選したのも、同じ理由だと思います。

山本太郎氏で思い出しましたが、今回はタレント候補者が少なかったですね。
昔は選挙の目玉になったりもしてましたが、近年は有権者側もウンザリしていたところでしたから、どの政党もそんな空気をよんだのでしょう。
そんななか、維新の会からは、いまさらながら元プロレスラーのあの人が出馬していましたね。
「元気ですかぁ?! 元気があれば何でもできる。1、2、3、ダァー!!!」・・・って、もう勘弁してくれって感じです(苦笑)。
この方を擁立しても、維新の会としてはマイナスイメージでしかなかったように思うんですけどね。

あと、今回は小沢一郎氏の影が薄かったですね。
テレビの党首討論会などでもほとんど目立たなかったし、マスコミの取り上げられ方も寂しいものでした。
良きにせよ悪しきにせよ、平成の選挙の歴史はずっとこの人と共にあったといっても過言ではないと思いますが、前回の衆院選といい今回といい、さすがに小沢神通力も賞味期限切れのようですね。

とにもかくにも、おそらくこれからしばらく国政選挙はありません。
久しぶりの長期政権になりそうな予感がする安倍晋三内閣
決して過信することなく期待することにしましょう。



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by sakanoueno-kumo | 2013-07-22 18:48 | 政治 | Trackback | Comments(0)  

八重の桜 第28話「自慢の娘」 ~西郷頼母と佐川官兵衛~

 山川大蔵ら主力部隊が入城して、一時的に活気づいた鶴ヶ城内でしたが、戦況は悪化の一途をたどっていくばかりでした。会津国境に出陣して守備していた主力兵が城に戻ったことで、新政府軍は続々と会津領に侵入します。日に日に増強されていく新政府軍に対して、会津藩には援軍の見込みもなく、まったくの孤立無援状態でした。それでも、会津軍首脳は徹底抗戦の姿勢を崩しません。そんななか、家老・西郷頼母はひとり降伏恭順の道を主張します。

 頼母の説くところによれば、この城はもはや保ち難く、ここら辺で、主君・松平容保をはじめ、自身も含めた重臣全員が腹を切り、それで事態を収拾させよというものでした。しかし、他の重臣たちは「そのようなことは、まだ早い」といって聞き入れず、主君の自害などとんでもないとはねつけます。負け戦をこれ以上続けて無益な血を流すより、戦争責任のある幹部の首と引き換えに戦を終結させ、残った者に会津再建を託そうという主張で、いま聞けば真っ当な主張のような気がしますね。しかし、当時の美徳はそうではなく、主君のために玉砕するは誉れ高きことで、ましてや主君に自害を推めるなど武士の風上にも置けないことでした。結局、頼母の主張に賛同するものはひとりもおらず、そればかりか、西郷は自制心を失っているとして軍議から外されました。そんな頼母に、容保は追い打ちを掛けるように、城外に駐留する部隊への伝令と、米沢藩への救援要請に向かうよう命じます。本来、この程度の任務は家老の役目ではなく、つまりは主命にかこつけた追放処分でした。

 「頼母、生きよ・・・。」

 頼母が会津を去ったあとに容保がひとり呟いた台詞ですが、つまりドラマの設定としては、このまま降伏を主張した頼母が会津にいては、藩内主戦派から命を狙われる恐れがあり、そうならないために容保が頼母を逃したという設定でしょうか? なるほど、そう解釈できなくはないですし、そのほうが感動的なシナリオではありますが、はたしてどうでしょうね。頼母を追放したあと容保は、家老・梶原平馬に命じて頼母を暗殺するよう刺客を送らせたという説もあります(結局、刺客の任にあたった者たちは、敢えて頼母を追わずに暗殺は実行されませんでした)。どうもこのドラマでは、容保という人が美しく描かれ過ぎているような気がします。

 籠城戦が始まって1週間が過ぎようとしていた慶応4年(1868年)8月28日夜、会津軍は城下の敵を一掃すべく大作戦を発令します。田中蔵人率いる朱雀士中二番隊、原田主馬率いる朱雀三番隊、春日佐久良率いる別撰隊、杉浦丈右衛門率いる正奇隊、田中左内率いる砲兵隊、小室金吾左衛門率いる進撃隊、辰野源左衛門率いる歩兵隊、間瀬岩五郎率いる朱雀足軽二番隊など約1000人の部隊が編成され、29日早朝を期して突撃するというものでした。戦況劣勢の会津軍にとっては、起死回生の作戦でした。

 出撃の前夜、壮行会が催され、容保より隊員一同を励ますためにが下賜されます。この席で総督の佐川官兵衛は、
「臣誓って西兵を撃攘せん、若し不幸にして利あらずんば再び入城して尊顔を拝せず」(『會津戊辰戦史』)
と、感涙にむせびながら並々ならぬ決意を述べ、これに感激した容保は、官兵衛に正宗の刀を下賜して激励します。ところが、その官兵衛が痛恨のミスを犯します。なんと、酒を飲み過ぎて寝過ごしてしまい、奇襲の機を逸してしまいます。なんともお粗末なミステイクですね。結果的にこの「大寝坊」がアダとなって会津軍はこの戦い(長命寺の戦い)に惨敗、この日の会津側の戦死者は110人とも170人ともいわれ、城下での戦いがはじまった8月23日以降、最大の死傷者を出す結果となりました。「失敗したら二度と城内には戻らない」と豪語した官兵衛。その言葉どおり、これ以後、降伏開城まで二度と入城することはなかったといいますが、当然ですよね。大事な大一番の決戦当日に主将が深酒で寝坊なんて、これこそ切腹ものか、軽くて追放処分ですよ。現代のサラリーマンでも、大切なプレゼン当日に責任ある立場の者が前夜の深酒で寝坊なんて、よくて降格・左遷、ヘタすりゃクビもんですよね。そんな官兵衛が最後まで会津藩兵を指揮し、恭順を唱えた頼母が追放された歴史を、後世の私たちはどう見るか・・・ですね。やっぱ、どう見ても、藩主の無能に尽きるのではないかと・・・。

 「自慢の娘」というタイトルでしたが、八重が容保の前で不発弾を分解して弾の仕組みを説明したというエピソードは、先走って前話の稿(参照:第27話)でふれてしまったので、よければそちらもご一読ください。



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by sakanoueno-kumo | 2013-07-16 16:57 | 八重の桜 | Trackback(2) | Comments(0)  

八重の桜 第27話「包囲網を突破せよ」 ~女たちの武勇伝~

 籠城戦の足手まといにならぬよう自刃する婦女子が大勢いたなか、鶴ヶ城に入城して籠城戦を男たちと共に戦う道を選んだ婦女子もたくさんいました。八重をはじめ山本家の女性たちも、籠城の道を選びます。城内での女性たちの主な役目は、兵たちの食事の世話や負傷者の看護でしたが、八重の場合は、鳥羽・伏見の戦いで戦死した弟・三郎の形見である着物と袴を身につけて男装し、腰には大小の刀を帯び、元込め七連発のスペンサー銃を肩に担いで入城します。彼女は、自らも男たちに混じって前線で戦う決意でした。

 入城後、八重は戦いやすくするため髪を切ります。最初は自分で切り落とそうとしたそうですが、どうにも上手くいかず、幼馴染の高木時尾に切ってもらったそうです。このあたりの細かいエピソードも、ちゃんと描かれていましたね。当時の女性にとって髪を切るというのは、現代の女性のそれとは違って、腕を一本切り落とすような覚悟が必要でした。「髪は女の命」なんて言いますが、まさしく八重も、髪を切った瞬間から、城を枕に殉死する覚悟だったのでしょう。

 八重の銃撃の正確さは周囲を驚かせ、たちまち砲撃の指揮をとるに至ります。そればかりではなく、敵陣への夜襲にも参加したとか。また、政府軍が撃ち込んだ新型四斤砲の不発弾を、藩主・松平容保の前で分解し、弾の仕組みを説明したというエピソードも残っています。薩長に比べて軍政改革が立ち遅れていた会津藩のなかで、八重の他に最新式の大砲の知識を持った人物がいなかったことがわかります。さすがに砲術指南役の娘といった活躍ですね。

 八重という女性が歴史上の史料に登場するのは、この籠城戦が初めてです。よほどの家柄でないかぎり、婦女子の幼少期の記録など残っているものではありません。ドラマは折り返しを過ぎましたが、これまで物語にでてきた八重の言動や人物像は、すべて後年の彼女が語ったものや、あとは想像でしかないんですね。ただ、想像といっても、決してドラマのために作られた虚像というわけではないでしょう。銃撃戦の指揮を任されたエピソードや、藩主の前で新型大砲の指南をした逸話からも、彼女がただのお転婆娘ではなく、砲術家としてかなりのレベルの技術と知識を持っていたことがわかります。その彼女を作ってきたプロセスを想像すれば、おそらく物語のような少女期を過ごしてきたのでしょうね。

 女だてらに政府軍と戦ったのは、八重だけではありませんでした。なかでも、中野竹子らによって組織された婦女隊が後世に有名です。娘子軍とか娘子隊とも言いますね。もっとも、白虎隊などとは違って藩が正式に組織した隊ではなく、照姫を警護するための有志たちによって自然発生した組織だったので、部隊の名称はすべて後世に名付けられたものです。隊には、竹子の母・こう子と妹の優子もいました。母姉妹3人ともたいへん美人だったといいます。とくに妹の優子が美しかったようで、その美貌を心配した母と姉が、敵の手にかかって辱めをうけるくらいなら、いっそこの手で殺してしまおうと相談していたところを、同じく隊士の依田菊子が懸命にやめさせたというエピソードがあるほどです。女性にとって敵の手に掛かるということは、死以上の恐怖を意味しました。

 彼女たちは薙刀を手に奮戦します。しかし、その戦いのなか、中野竹子は顔面に銃弾を受けて絶命します(ドラマでは胸に銃弾を受けていました)。敵とわたりあいながら妹の優子が介錯し(母が介錯したという説もあります)、首級は白羽二重に包んで運ばれました。優子はこのとき16歳。いまで言えば中学3年生ですね。そんな少女が実姉の首を斬って運ぶなんて、想像を絶する光景です。あと、神保修理の妻・雪子も、この戦いで死亡したとも、敵に捕まった際に自刃したともいわれますが(ドラマでは後者の設定でしたね)、経過は不明だそうです。ほかにも、銃や薙刀を手にとって政府軍と勇ましく戦い、散っていった婦女子はたくさんいました。さすがは、武勇で名高い会津藩の女性たちです。

 山川大蔵が会津の伝統芸能・彼岸獅子を舞わせて入城するという離れ業を演じたエピソードは、後世までの語り草となっています。彼は緊迫した包囲網のなかを笛と太鼓の音色を先頭に進ませ、敵があっけに取られている間に、一兵の血も流すことなく入城しました。なんとも大胆不敵にして痛快。山川大蔵という人物は、実に肝の座った、しかもやわらか頭の人物だったのでしょうね。

 山川たちの入城によって城内の人数は約5000人にも膨れ上がり、一気に活気づいたといいます。そして、八重たちの籠城戦は、こののち約1ヶ月も続くことになります。



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by sakanoueno-kumo | 2013-07-08 21:27 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(2)  

心に残る名曲 No.14 『愛しき日々』 堀内孝雄

大河ドラマ『八重の桜』が、前半の最大のクライマックスである会津戦争のくだりに入っていますね。
前話では、あの白虎隊の悲劇が描かれました。
白虎隊といえば、滅びゆく会津藩の象徴的存在となっていて、これまでも数々のドラマなどで描かれてきましたが、わたしのなかで強く印象に残っているのが、昭和61年(1986年)の年末時代劇として放送された、6時間の超大作『白虎隊』です。
当時、わたしは19歳で、いまほど歴史小説などにハマっていたわけでもなく、会津戦争についても、通り一遍の知識しかありませんでした(幕末史というと、どうしても薩長目線で描かれた作品のほうが多いですしね)。
そんななか、はじめて滅びゆく側からの視点で幕末史を見たのがこの作品でした。
若かったせいもあってか、実に感動したのを覚えています。
で、本日紹介する思い出の名曲は、そのドラマ『白虎隊』の主題歌だった、堀内孝雄さんの『愛しき日々』です。



ドラマの影響というのは実に大きいもので、以後わたしは、白虎隊といえばこの曲を思い出しますし、会津藩と聞けばこの歌が頭の中に流れます。
作詞は小椋佳さん、作曲は堀内孝雄さんですが、はじめからドラマの主題歌として作られたのか、それとも先にこの歌があった上で主題歌として使われたのかわかりませんが、
歌詞の内容があまりにもドラマと、いや幕末における会津藩とマッチしすぎてるんですよね。

♪ かたくなまでのひとすじの道 愚か者だと笑いますか ♪

これ、会津藩の無念を代弁してるとしか思えないですよね。

♪ 生まじめ過ぎた真っすぐな愛 不器用者と笑いますか ♪

これもまた、幕府孝明帝のために忠節を貫いた松平容保の姿とラップします。

♪ ひたすら夜を飛ぶ流れ星 急ぐ命を笑いますか ♪

これは、飯盛山で自刃する前夜の白虎隊士たちのことでしょうか?
白虎隊の少年たちの純粋無垢な忠義の精神は胸を打つものがありますが、後年かれらの行動は忠君愛国の模範のように称えられ、教育に利用され、やがては特攻隊などに繋がっていったことを思えば、必要以上に美化されるのも抵抗を感じますね。
自国を愛する心は美しくても、美しい戦争などありません。
参院選を目の前に憲法改正の論調がますます激しくなってきましたが、わたしも改正することを否定はしませんが、よくよく議論を交わして慎重に行なってほしいものです。

♪ 愛しき日々の儚さは 消え残る夢 青春の影 ♪

若者たちの愛しき日々が儚く終わることのないよう・・・。



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by sakanoueno-kumo | 2013-07-06 00:52 | 音楽 | Trackback | Comments(0)  

八重の桜 第26話「八重、決戦のとき」その2 ~西郷頼母一族の悲劇~

 自ら命を絶ったのは、白虎隊士たちだけではありません。年老いた藩士や、病気や怪我を負った藩士、さらには藩士の妻や娘たちも、籠城後の足手まといになるとして、死の道を選びました。女性は籠城戦の役に立たないばかりか、自分たちが城内に入れば、その分、備蓄した食糧が減ることになり、それは、主君に対する不忠にあたる・・・と。この日自害した者は、230人余りにも及んだとか。そのなかでも悲惨を極めたのが、ドラマで描かれていた家老・西郷頼母一族の集団自決でした。

 西郷家で自刃したのは妻・千恵子をはじめ母、祖母、妹、娘など9人。また、隣室では縁者12人も自刃します。そのなかには、幼児3人もいました。幼い子どもたちが自らの命を絶つとは考えられません。ドラマでは描かれていませんでしたが、当然のことながら、その幼児たちは母親の手で刺し殺し、我が子の死を見届けたあと、自らの喉を刺して果てたのでしょう。悲惨としか言いようがありません。

 一族が自刃して間もなく、新政府軍の一隊が西郷邸に突入します。ドラマでは突入したのは土佐藩士で新政府軍参謀の板垣退助となっていましたが、通説では、同じく土佐藩士で元海援隊士の中島信行だったといわれています(異説あり)。西郷邸に入った中島は、一族の集団自決という悲惨な光景に目を覆いますが、そのなかで、まだ死にきれずに悶え苦しんでいる16~7歳の少女を見つけます。年の頃から、おそらく頼母の娘・細布子だったでしょうか。少女は人の気配を感じて、「敵か?味方か?」と聞きました。もし敵ならば、死にきれず敵の手に掛かるなど、彼女たちにとって屈辱の極みです。中島はとっさに「味方だ!」と答えます。武士の情けですね。それを聞いた少女は安心して、力を振り絞って懐刀を差し出し、介錯を頼んだそうです。まだ16~7歳の少女に介錯を頼まれるという惨状・・・。中島は涙を流しながら少女の首を落としたといいます。ドラマでもこの逸話どおりに描かれていましたね。

 会津の女性が皆、死を選ぶよう教育されていたわけではありません。すべては一家の主人や妻の考え方いかんでした。思えば6年前、藩主・松平容保京都守護職受諾に断固として反対したため要職を解かれた頼母の思いが、決して我が身可愛さからの主張ではなかったことを、一族が身を持って証明したといえます。これほど壮絶な「内助の功」が他にあるでしょうか?

 西郷千重子 辞世
 「なよ竹の風にまかする身ながらも たわまぬ節はありとこそきけ」
 「風が吹けばしなるほど細いなよ竹のようなわが身ですが、どんなに細い竹でも、強風に吹かれても折れない節があると聞きます。私たち女にも、どんな逆境にも屈しない節義があることを、わが殉死によって知ってください」(拙訳)

 同じ日、家老の田中土佐神保内蔵助が共に自刃します。田中は6年前、頼母と同じく容保に京都守護職受諾を辞退するよう諫言したひとりですが、頼母と違って容保の頑な決意を知るや、以後は容保の片腕として都で働きます。神保内蔵助は、先の鳥羽・伏見の戦いの責任を負わされ切腹した神保修理の実父。二人の早々の自刃は、混乱の責任をとった決意だったと見るべきでしょう。

 「いま斬る腹を、あんときに斬っておけば・・・。家老一同、腹斬ってお断りすれば、会津はこげな道をたどらずにすんだ・・・。」

 おそらく、実際もこの台詞のような心境だったに違いありません。まさしく覆水盆に返らず・・・しかし、後世の誰もそれを責めることはできませんね。彼らは彼らなりに、皆、自国のために尽くした結果だったわけで、少なくとも、現代の政治家のように私利私欲で国を食い物にしたわけではありません。

 「おら、最後に、徳川のためでも幕府のためでもなく、会津のためのいくさをしたのだ。これ以上の名誉なことはねえ。」

 もうすぐ平成の我が国も憲法が改正されそうです。自国のために戦うことを名誉と思う心・・・私たちにあるでしょうか?

 さて、ようやく八重が歴史の表舞台に登場して来ましたね。八重の活躍も書こうと思っていたのですが、本稿もまた長くなってしまったので、次週に送ることにします。実に内容の濃い第26話でした。


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by sakanoueno-kumo | 2013-07-02 23:50 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(2)  

八重の桜 第26話「八重、決戦のとき」その1 ~白虎隊の悲劇~

 白虎隊士中二番隊が出陣した慶応4年(1868年)8月22日の夜から、鶴ヶ城下は雨が降り始めました。台風の影響だったといいます。急な出陣だったため雨具も食糧も持っていなかった白虎隊士たちにとっては、最悪の出陣でした。彼らは激しい雨のなか滝沢峠を越え、強清水を経て、午後5時に戸ノ口原に到着します。夜になって雨はさらに激しさを増し、そんなハードな条件のなか、少年たちは寒さに震えながら野営することとなります。

 通説では、この夜、隊を率いていた隊長の日向内記が、食糧を調達してくるといって陣地を離れたといいます。しかし、激しい雨のせいか、すぐもどると言って隊を離れた日向が戻らず、そのまま夜が明けます。夜明けとともに新政府軍は砲撃を開始。やむなく若い篠田儀三郎が代わって指揮をとりますが、如何せん戦闘経験のない少年たちで、しかも彼らの持っていた銃は旧式のしかも中古品で、撃つと銃身がすぐ熱くなり、とても使える代物ではなかったといいます。隊長とはぐれパニック状態となっていた彼らは、戦闘が始まるやいなやバラバラになってしまいます。当然のことだったでしょうね。

 やむなく篠田は残った隊士を率いて退却することを決断します。いつしか隊士は20人に減っていました。そのなかに、八重がゲベール銃の操作を教えたという伊東悌次郎もいました。彼らは、滝沢峠が占領されたため、間道を経て城下が一望できる飯盛山に向かいます。その頃、新政府軍は一気に城下に攻め入っており、しかも各所に火を放ちながら突入したため、城下は火の海になっていました。飯盛山に登った白虎隊士たちは、そんな城下を目の当たりにします。砲声が響き渡るなか砲煙が天を覆う光景を見た彼らは、鶴ヶ城も落城し、君公も難に遭ったと早合点したといいます。ドラマでは、お城はまだ燃えていないことに気づきながら、それでも、自分たちの退路が絶たれたと判断し、自決の道を選ぶ設定になっていましたね。実際はどうだったのかわかりませんが、いずれにせよ、空腹恐怖疲労で、正常な判断力を失っていたのかもしれません。生き恥を晒すより城と運命を共にしようと考えた彼らは、城に向かってひざまずき、あるものは腹を切り、またある者たちは互いに刺し違えて自刃しました。ひとり、飯沼貞吉のみが生き残り、白虎隊の悲劇を後世に伝えることとなります。

 「人を愛して我が身を愛さず、あるいは君を諌め、あるいは国家の大事をはかり、たとえ、その事なしおおせがたく、たちまち危険身に迫るとも、死をかえりみず、身を殺して、仁をなさん事を思うべし。生をむさぼり来りて、なすべき義に当たっても、身を愛し、家を願いて、その事をなさざるは、不忠不孝のいたりなり。」

 会津藩校日新館にて教えられていた会津武士の精神だそうです。白虎隊の少年たちも当然、この言葉を唱和しながら育ちました。我が身を犠牲にしてでも、人のため、国のために尽くせ・・・。そんな没我奉仕の精神を、純粋な少年たちは忠実に守って死んでいったわけです。世が「明治」と改まるわずか16日前の、あまりにも若すぎる死でした。白虎隊の悲劇は、後世に戦争の虚しさと教育のあり方を伝えてくれます。

 長くなりそうなので、明日に続きます。


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by sakanoueno-kumo | 2013-07-01 22:49 | 八重の桜 | Trackback(2) | Comments(0)