<   2013年 08月 ( 8 )   > この月の画像一覧

 

八重の桜 第34話「帰ってきた男」 ~新島襄と八重の出会い~

 前話で八重川崎尚之助の涙の別れが描かれたと思ったら、本話では早くも新島襄と急接近でしたね。なんとも節操のない話のようにも感じますが、実際にも、八重が襄と再婚したのは、尚之助の死から間もなくのことだったようです。偶然というには出来すぎの話ですね。八重の再婚は、兄・山本覚馬の後押しだったのでしょうが、尚之助の死も少なからず影響していたと考えても、無理はないかもしれません。

 ここまで当ブログでは、新島襄という人物にまったくふれてこなかったので、ここで少し、襄の人となりについて簡単に述べてみたいと思います。

 新島襄は、天保14年(1843年)に上州安中藩板倉家で祐筆を務める新島民治の長男として生まれます。幼名は七五三太(しめた)。八重の2歳上、尚之助の7歳下になります。七五三太という名前は、女子が4人続いたあとに生まれた待望の男子だったため、祖父が思わず「しめた!」と叫んだことから命名されたという説があるそうですが(ドラマでもそう言ってましたね)、いかがなものでしょうね。

 板倉家は三万石の小藩でしたが、歴とした譜代大名でした。その江戸屋敷で育った襄は、黒船来航から3年後の安政3年(1856年)に元服し、藩の命を受けて蘭学を学び始めます。オランダ語を学ぶことで海外情勢への関心を深めた襄は、さらに万延元年(1860年)からは幕府の軍艦教授所航海術を学び、さらにさらに、文久3年(1863年)には英語を学びはじめます。絵に描いたような秀才君だったわけですね。

 やがて襄は、英語を学ぶなかで聖書にふれ、アメリカに憧れを抱くようになります。そして元治元年(1864年)6月14日、箱館に停泊していたアメリカの商船ベルリン号に密かに乗り込み、日本を出国しました。言うまでもなく、当時、海外渡航重罪でしたが、それでも、海外への憧れの気持ちを抑えられなかったのでしょうね。このあたりの行動力は、ただの秀才君ではなかったようです。

 箱館を出てから約1年が経過した慶応元年(1865年)6月、憧れのアメリカの地に降り立った襄は、密航船の船主夫妻の援助を受けてフィリップス高校に入学します。その在学中に洗礼を受け、卒業後はアーモスト大学に入学し、理学士の称号を得ます。これは日本人初の学士の学位取得だったそうです。その後、アンドーヴァー神学校に入学し、キリスト教伝道のための教育を受け、学業を終えたのは明治7年(1874年)のことでした。実に充実した9年間だったわけですが、何の後ろ盾もない密入国者の襄が、これほどまでの充実したアメリカでの生活を過ごせたのは、熱心なキリスト教の信仰心と、彼の人柄によるものだったでしょうね。やはり、ただの秀才君ではありません。

 襄が学業三昧の生活を送っていた頃、日本では幕府が倒れ、明治政府が誕生していました。その明治政府の首脳たちで形成された使節団(岩倉使節団)が明治5年(1874年)にアメリカを訪れ、襄は彼らの通訳を務めることになります。使節団に同行してアメリカだけでなくヨーロッパ諸国への見聞も広げた襄は、その間、副使の木戸孝允からの厚い信任を得ます。このとき得た人脈が、のちの同志社創立の際に大いに役立ちます。

 襄が帰国したのは、明治7年(1874年)11月のことでした。その目的は、宣教師の一人として日本でキリスト教の布教活動を行うためです。江戸時代より禁止されていたキリスト教は解禁となり、日本語を話せる宣教師が求められていました。それと、もうひとつの目的が、キリスト教と近代科学を教える学校の創立だったのです。当時、大阪にいた木戸は、襄の学校創立に全面的にバックアップすることを約束してくれますが、大阪では思うようにことが運べず、京都府大惨事の槙村正直の後ろ盾でもあった木戸は、襄に槙村を紹介します。そこで、槇村の知恵袋的存在だった山本覚馬と知り合うんですね。かねてから西洋文明に明るく、キリスト教にも好意的だった覚馬と襄が意気投合したのは、当然のことだったといえるでしょうか。その後、覚馬は襄の学校創立に熱心に協力します。

 その覚馬の妹である八重と結婚することになる襄ですが、二人が最初に出会ったのは、覚馬や槇村の紹介ではなく、ドラマにあったように、八重が聖書を習いに通っていた宣教師・ゴードンの家だったようです。ある日、八重がいつものようにゴードン宅を訪れたところ、玄関で靴を磨いていた一人の男がいました。その男こそ襄だったわけですが、八重は彼をただのボーイだと思い、別に挨拶もしなかったそうです。あとでゴードン夫人から襄を紹介されて、ボーイではなかったことを知るわけですが、これが、二人の最初の出会いだったと、後年の八重が語っています。ってか、たとえボーイでも挨拶ぐらいしろよ・・・と、思わなくもないですが(笑)。

 八重が井戸の上に敷いた板の上に座っていたシーンがありましたが、あれも実話だったようで、後年の襄が語っていたエピソードだそうです。井戸の上に座れば確かに涼しいでしょうが、板が折れたら無事ではすみません。襄が覚馬にそのことを話したところ、「どうも妹は大胆なことをして仕方がない」と嘆いたとか。八重は兄のことを心からリスペクトしていましたが、だからといって兄のいうことをすべて聞いていたわけでもなかったようですね。覚馬が八重の行動に手を焼いていた様子がうかがえるエピソードです。

 そんな八重と襄が結ばれるのは明治9年(1876年)1月のこと。二人を結婚させたのは兄・覚馬だったでしょうが、結婚前のエピソードなどがこうして残っているところから見ても、決してさせられた結婚ではなかったようですね。生来の秀才君と根っからのお転婆娘の二人。一見、まったく釣り合いそうもない気がする二人ですが、かたや国禁を犯しての密航を実行し、かたや機関銃を肩に男性に混じって戦うという、大胆不敵という点においていえば、似たもの同士だったのかもしれませんね。二人の接近は必然だったのかもしれません。ちょっと、尚之助が気の毒な気がしないでもないですが・・・。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2013-08-29 22:55 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(2)  

イチロー選手の日米通算4000安打達成に見る、5000安打の夢。

【ニューヨーク共同】米大リーグ、ヤンキースのイチロー外野手(39)=本名鈴木一朗=は21日(日本時間22日)、ニューヨークで行われたブルージェイズ戦で、日米通算4千安打の偉業を達成した。歴史が1...
イチロー選手が日米通算4000安打の偉業を達成しましたね。
過去、4000の大台に達しているのは、4256本のピート・ローズと4191本のタイ・カッブの2人しかおらず、そんな伝説のビッグネームの次に名を連ねることになりました。
いまさらながら、とてつもない男ですね。
試合前のインタビューでイチロー選手は、「2つのリーグでの記録であり、ローズとカッブは1つのリーグでのものだ。2人と同じ範ちゅうで扱うべきではないと思う」と述べていたそうですが、それでも、偉業であることに変わりわありません。
たしかに両者は全てMLBでの記録であり、イチロー選手は日本で1278安打を打ってからのメジャー移籍だったわけですが、MLB通算2000安打には史上2位の速さで到達していますし、MLBでの2722安打だけを見ても、ローズやカッブよりはるかに試合数も打席数も少なく、決して卑下することはありません。
まあ、イチロー選手にしてみれば、両者に敬意を払ってのコメントだったのでしょうが、ガッカリなのは、ピート・ローズ氏も同じようなコメントをしていたこと。
イチロー選手が敬意を払って謙虚なコメントをしているのだから、同じく敬意を払って称賛してこそローズ自身の価値も上がるってもんでしょう。
・・・って、日本人的感覚でしょうか?

イチロー選手はこの4000本目の安打でMLB通算2722安打となり、同時にルー・ゲーリックの2721安打を抜いたそうです。
次々に伝説のビッグネームが出てきますね。
それは、既にイチロー選手自身が伝説の域に達しているということに他なりません。
次の目標は、いうまでもなくローズの持つ世界記録4256安打
全盛期の彼なら約1年で狙える数字ですし、今のペースで行っても、1年半ほどで到達できる数字です。
ローズがその数字に達したのは45歳だったことを思えば、39歳のイチロー選手にとっては余裕とも思えてしまいます。
その次にはMLB通算3000安打が待ってますね。
あちらには3000本安打クラブというものがあるそうで(日本でいうところの名球会のようなものでしょうか?)、そこに名を連ねたのは、100年を超える長い歴史の中でたった28人だそうです。
ぜひ、そこに日本人イチロー選手の名を連ねてほしいですね。
あと、300本弱の数字ですから、不通にいけば、十分達成できる数字だと思います。
ただ、あちらは日本のプロ野球と違って、調子を落としたりケガをしたりすれば、たとえ実績のあるビッグネームといえども容赦なく切り捨てられますから、イチロー選手とて安泰ということはありません。
ここからは、加齢による衰えとの戦いになると思いますが、今日の試合後のインタビューで5000安打の可能性について聞かれたとき、「僕以外で、年齢に対する偏った見方がなければ、可能性はゼロではない」と語っていたそうです。
これ、イチロー選手でなきゃ言えないコメントですよね。
多少はリップ・サービスも入っているかもしれませんが、まったく自信がなければこんなことは言いません。
以前、NHKの『プロフェッショナル』に出演したときに、50歳で現役という夢を語っていたことがありました。
それが可能なら、5000安打だって狙えない数字ではありません。
たぶん、彼も本気でそう思っているのでしょう。
となれば、いっそのことMLBだけでローズの記録を塗り替えてしまえば、名実ともに世界一ですね(笑)。
いくらなんでも、あり得ない?・・・でも、あり得ないことを実現してきたイチロー選手ですからね。

とにもかくにも、4000安打という金字塔も、イチロー選手にとっては通過点でしょう。
とてつもなく、すごいやつです。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 ニュースブログ 時事ニュースへ
にほんブログ村 野球ブログ プロ野球へ

[PR]

by sakanoueno-kumo | 2013-08-22 22:20 | プロ野球 | Trackback(1) | Comments(0)  

八重の桜 第33話「尚之助との再会」 〜征韓論争と明治六年政変〜

 時代は一気に征韓論争まで進みましたね。この「征韓論」を詳細に解説するとめちゃめちゃ長文になっちゃいますし、いろんな解釈があるのでたいへん難しいのですが、ここではできるだけ簡単にまとめます。

「征韓論」とは、読んで字のごとく、お隣の朝鮮に出兵して征服する、あるいは、武力を後ろ盾に政治体制の変革を迫るという主張です。このときより遡ること約20年前、日本も米国ペリー艦隊の来航によって開国を迫られ、それをきっかけに幕末の動乱がはじまり、長く続いた封建国家体制が崩れ、近代国家を目指すべく明治政府が樹立されましたが、今度は、そのペリー艦隊の役目を日本が行おうというもので、このときまだ鎖国攘夷の策をとっていた朝鮮にとっては、ありがた迷惑な話だったわけです。朝鮮側は日本の新政府の要請を頑なに拒絶し、そんななか、明治6年(1873年)ごろから急速に日本国内で征韓論が沸騰し始めます。

 その頃、岩倉具視大久保利通木戸孝允ら政府首脳陣は欧米諸国を外遊中(岩倉使節団)、その留守政府を預かっていたのは西郷隆盛板垣退助江藤新平後藤象二郎副島種臣らでした。西郷以外は土佐藩肥前藩の出身者で占められており、明治初期の政府としては、唯一、薩長閥政府ではなかった時期でした。その留守政府が征韓論を推し進めます。

 まずは板垣が閣議において、居留民保護を理由に朝鮮への派兵を主張。しかし、留守政府の実質首相的立場だった西郷は派兵に反対し、自らを大使として朝鮮に派遣するよう求めます。この意見に後藤、江藤らも賛成し、いったんは閣議において使節として西郷を派遣することを決定しますが、ときを同じくして順次帰国の途についた岩倉具視や大久保利通ら外遊組は、時期尚早だとしてこれに猛反対。留守番組と外遊組の対立の板挟みとなった太政大臣・三条実美は病に倒れてしまい、最終的には、太政大臣代理となった岩倉の工作により(大久保の書いたシナリオとも)、明治天皇のご裁断で遣韓は中止されます。閣議でいったん決定しながら土壇場で覆されるという異常事態に、西郷をはじめ板垣や江藤ら征韓論派は一斉に参議を辞職してしまいます。

 この征韓論争に始まった政変を明治六年政変(征韓論政変)といい、やがてこれが、明治7年(1874年)の佐賀の乱から明治10年(1877年)の西南戦争に至る内乱につながっていくわけです。

 なぜ、この時期に「征韓論」が沸騰したのか、また、彼らの主張した「征韓論」の真の目的は何だったのか、あるいは、「征韓論」が政変の真の火種だったのか、などなど、この政変については専門家の間でも様々な解釈があり、いわゆる史実・通説というものがありません。ドラマで西郷が朝鮮出兵の理由について、「不平士族(行き場を失った元武士たち)の目を国内から外に向けるため」といった意味の説明をしていましたが、それとて、後世の歴史家が説いたひとつの説であって、西郷自身がそのような記述を残しているわけではありません。後世に征韓論の首謀者的扱いとなっている西郷ですが、一説によれば、西郷はあくまで平和的な交渉を目的とする遣韓論者だったという人もいますし、いやいや、西郷の目的は武力を用いて朝鮮を植民地化しようというものだった、という歴史家もいます。結局のところ、いまもって真意はわからないんですね。

 ただ、外遊組と留守番組の間に、激しい温度差があったということは間違いなさそうです。近代文明国家を目の当たりにしてきた大久保たちと、ずっと国内にいた西郷たちとでは、見えているものが違ったんでしょうね。結果的に政局は外遊組に軍配が上がり、西郷や江藤らは政界を去ってしまうわけですが、それが、後世の日本にとって良かったのか悪かったのか、今となっては確認のしようがありません。

 さて、本話のタイトルは「尚之助との再会」でしたが、八重川崎尚之助が離縁後に再会したという記録は残っていません。そもそも八重は尚之助との結婚、離婚についてほとんど何も語っていないそうですから、実際のところは何もわかってないんですね。ただ、斗南藩の罪を被って訴訟を起こされた尚之助が東京で暮らしていたというのは事実のようです。時代が時代ですから、たぶん、八重と会うことはなかったでしょうね。のちに尚之助は、裁判の判決を受けることなく明治8年(1875年)に病死します。ドラマには、たぶんもう出てこないでしょうね。八重の女紅場での活躍を尚之助が知っていたかどうかは、知る由もありません。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2013-08-21 18:57 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(0)  

サザンオールスターズ復活LIVE in 神戸なう!

神戸総合運動公園ユニバー記念競技場からスマホにて投稿です。

e0158128_1856373.jpg

以下、翌日追記。

ザザンオールスターズの復活LIVE神戸会場に行ってきました。
題して、『サザンオールスターズ SUPER SUMMER LIVE 2013灼熱のマンピー!! G☆スポット解禁!!』だそうです(笑)。
活動を休止していたサザンにとっては5年ぶり、わたし個人的には十数年ぶりのライブでした(以前は、サザンが関西に来たら必ず夫婦で足を運んでいたのですが、子どもが出来て以降、子どもを放ったらかして夫婦で夜遊びというのはなかなか難しく、断念せざるを得ない十数年でした)。
このたびは友人と妻とわたしと、そして小6の娘を連れてのライブ。
娘にとっては、コンサート初体験です。
初ライブがサザンとは、ちと贅沢ですよね。

e0158128_185815100.jpg

会場のある神戸総合運動公園は、昭和60年(1985年)に開催されたユニバーシアード神戸大会の際に作られた公園で、陸上競技場、野球場をはじめ、あらゆるスポーツ施設が集合する公園です。
このたびライブ会場となった陸上競技場は、以前はJリーグ・ヴィッセル神戸のホームになっていたスタジアムです。
その横には、これまた数年前までオリックス・バッファロースのホームグラウンドだったグリーンスタジアム(ほっともっとフィールド神戸)があり、毎年年始にはイチロー選手が自主トレを開始する場所です。
(その野球場もサザンファンのため開放されていました)
      ↓↓↓
e0158128_2026458.jpg

ということで、かつてはJリーグやプロ野球のゲームが行われていたところですから、大勢の人が集うイベントには慣れた場所ではあるのですが、それでも、これだけの人が一気に押し寄せたことは初めてなんじゃないでしょうか?
駅からライブ開放までは、通常なら徒歩5分ほどの距離ですが、この日は大きく遠回りさせられた上に牛歩状態で、入場ゲートまで30分以上掛かりました。

e0158128_2040112.jpg
      ↑↑↑
街頭に取り付けられたバナー。
他にも提灯やのぼり、横断幕など、公園内はサザン装飾でいっぱいです。

e0158128_20414713.jpg

いうまでもなく、会場は超満員です。
野球場でのライブは何度も行ったことがありましたが、陸上競技場でのライブは今回がはじめて。
やっぱ、球場よりアリーナがデカイですね。
わたしはスタンド席だったのですが、アリーナの後ろの方は見えなかったんじゃないでしょうか?
e0158128_20494688.jpg

今回、久しぶりのコンサートだったので知らなかったのですが、いまはチケット購入時には座席の位置がわからないシステムになっているんですね。
まずチケットを購入すると座席指定券引換券が送られてきて、そこには申込者の氏名が記載されていて、当日その券と本人確認用の身分証明書を持っていって、そこで初めて座席指定券をもらえるという運びで、つまり、ネットオークションなどの転売が出来ないシステムというわけですね。
なるほど、昔はダフ屋行為はその筋の人の専売特許だったものですが、いまは誰でもダフ屋になれますからね。
たしかによく出来たシステムですが、そのせいもあって、余計に入場口が混雑していたのも事実です。
便利と不便は常に背中合わせですね。

e0158128_2174457.jpg

ライブの内容はネタバレになるので言わないでおきますが、約3時間、まったくダレることなく満足度120%です(他のアーチストは、だいたい2時間〜2時間半くらいですが、サザンはいつも3時間くらい演ってくれるんですよね)。
あいかわらず、桑田佳祐さんの泣き節は最高です。
これもいつものことですが、サザンならではの小ネタも満載でした(これも、桑田さんのソロライブでは絶対やらない、サザンだけのものですよね)。
いままでと違うことをしいて言えば、以前ならステージの端から端まで走り回っていた桑田さんでしたが、このたびは終始中央にいたことくらいでしょうか(歳のせいか、それとも、やはり病み上がりの身体を労ってのことでしょうか)。
客層を見ても、MCで桑田さんが年代別に呼びかけていましたが、30〜50歳代が圧倒的に多かったのは当然としても、下は10歳代から上は60歳代まで(70歳代も少数いました)幅広くいて、さすがだなぁと、あらためて思いましたね。
わたしの娘も満足していたようです。

お盆休みの最後の夜は、最高の夜でした。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村 ニュースブログ 時事ニュースへ
にほんブログ村 野球ブログ プロ野球へ

[PR]

by sakanoueno-kumo | 2013-08-18 21:36 | 芸能 | Trackback | Comments(2)  

おかげさまで、訪問者数30万件突破のご報告。

本日は8月15日、終戦記念日ですね。
お勤めの方々は、お盆休みの真っただ中といったところでしょうか?
(わが社は昨日14日から18日までの5連休です)
連日、猛烈な暑さが続いていますが、くれぐれも熱中症に気をつけて、充実した夏休みをお過ごしください。

さて、本日起稿したのは、そんな話題とはまったく関係なく、まことに手前味噌なご報告です。
去る8月12日夜(たぶん21時ごろ)、当ブログに訪問いただいた件数が
30万件を突破しました(これはユニークユーザー数なので、アクセス数とは違って、同じパソコンから1日に何度ご訪問いただいてもカウントは1ということになります)。
2008年11月に開設して以来、4年と9ヵ月での達成です。
どなた様も、素人のとりとめもない駄文にお付き合いいただき、まことにありがとうございました。

●2013年8月12日 23時過ぎのレポートデータ↓↓↓
e0158128_0144556.jpg

数日前から、そろそろ30万件が近づいていることに気づき、ぜひとも30万ぴったしのタイミングでプリントスクリーンに保存しようと思っていたのですが、不覚にもちょっと油断している間に、80件もオーバーしていました(苦笑)。
このところ、だいたい1日300人前後の訪問者数だったのですが、この日に限って400人以上の方に訪問いただいていたようで、実にありがたいことではありますが、実に痛恨の極みです(笑)。
まあ、キリ番保存できたからといって、何がどうということもないんですけどね(笑)。

30万件といいましても、上の画像にPC訪問者数とありますように、パソコンからのご訪問のみの数です。
ブログを始めた当初は、結構あてになる数字だったのかもしれませんが、昨今はスマホタブレット端末からの訪問のほうが多くなってきている気がしますし、この数字もあまり目安にはならなくなってきたかもしれませんね。
別料金を払えば、スマホやケータイからの訪問者数もわかるようですが、そこまでする必要も感じられませんしね。
いずれにせよ、たくさんの方々にご訪問いただいていることは確かです。
嬉しいかぎりですね。

今年はアベノミクスが少しは影響しているのか、例年になく仕事が忙しく、そのせいで当ブログの更新頻度は例年より落ちているのですが、それでも訪問者数は年々増加傾向にあり、恐懼に堪えません。
これからも週1~2回ほどのペースでしか起稿できませんが、なんとか頑張って続けていこうと思っていますので、今後ともよろしくお願いいたします。
以上、手前味噌なご報告でした。

明日からわが家はプチ旅行です。
その話題は、また後日。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村 ニュースブログ 時事ニュースへ
にほんブログ村 野球ブログ プロ野球へ

[PR]

by sakanoueno-kumo | 2013-08-15 00:51 | コネタ | Trackback | Comments(4)  

八重の桜 第32話「兄の見取り図」 ~山本覚馬の人物像~

 明治4年(1871年)、八重は処刑されたと思っていた兄・山本覚馬が生きていたことを知り、兄を訪ねて京都に訪れます。実に9年ぶりの再開でした。これまで当ブログでは、山本覚馬についてあまりふれて来なかったので(本筋である戊辰戦争に添っていくと、どうしても覚馬の話は横道にそれてしまうため)、ここで改めて、覚馬についてお復習してみましょう。

 鳥羽・伏見の戦いのとき、既に視力を失いかけていた覚馬は、戦争には参加していませんでしたが、京都近郊で薩摩藩兵に捕らえられ、薩摩藩邸内の獄舎に入れられます。しかし、覚馬の優秀さは諸藩の間で知られており、また、薩摩藩代表の西郷隆盛とも面識があったことから、決して粗略には扱われなかったようです。ただ、それでも獄中生活であることに変わりはなく、覚馬の身体は次第に衰弱し、やがて視力は完全に失い、脊髄も損傷し、ついには自力で歩行できないほどの身体になってしまいます。

 そんな過酷な獄中生活のなか、覚馬は自身の考えを口述して筆記させ、『管見』というタイトルの建白書を薩摩藩主宛に提出します。「管見」という単語を辞書で調べると、「知識や考え、意見などが狭くてつまらないものであること」とあります。つまりは、自分の意見を謙遜して使う古い言葉ですが、その内容は決して狭くてつまらないものではなく、政治、経済、外交、教育など、今後の日本のとるべき道が実に明確に示されていました。その先見性に、西郷隆盛や小松帯刀は大いに感服したといいます。

 やがて釈放された覚馬は、明治3年(1870年)4月14日付けで京都府に登用され、京都府権大惨事として府の実験を握っていた長州藩出身の槇村正直の顧問として、府政に関わります。当時の京都は、東京遷都のあおりをモロに受け、寂れかけていました。御所の周りの公家屋敷や武家屋敷が無人となり、それらの需要で成り立っていた京都の経済は一気に冷え込み、京都を去る町人らも続出します。

 明治政府は、荒廃していた「千年の都」をどうにか経済で立て直そうと、明治2年(1869年)には「勧業起立金」として15万両、翌明治3年(1870年)には「産業起立金」として10万両をつぎ込みます。京都府はこの資金を元に、殖産興業を推進して京都再生を図るのですが、その中心にいたのが槇村正直で、その知恵袋として活躍したのが覚馬でした。八重たちが京都にやってきたのは、そんなときだったわけです。

 「兄さまは人が違ったみてえだ。長州の者と笑って話して平気なのがし? 憎くはねえのですか?」

 槙村の下で働く覚馬を理解できない八重がいった台詞ですが、そんな八重に覚馬はこういいます。

 「殿は徳川を守り、都を守り、帝をお守りするその一心で京都守護の御役目を続けてこられた。だけんじょ、もっと大きな力が世の中をひっくり返した。薩摩や長州が会津を滅ぼしに行くのを、止められなかった・・・・。これは俺の戦だ!会津を捨石にしてつくり上げた今の政府は間違ってる。だけんじょ、同じ国の者同士、銃を撃ちあって殺しあう戦は、もうしてはなんねえ!」

 覚馬とて、故郷の会津が滅んだ無念さは同じだったでしょう。でも、その憎しみの矛先が薩摩や長州じゃないことがわかっていたんでしょうね。会津を滅ぼしたのは薩長ではなく、大きな歴史の波にのまれて押しつぶされたということを・・・。だから、薩長を憎んだところではじまらない。覚馬のみならず、元徳川方にいて新政府に仕えた者たちは、皆、わかっていたかもしれませんね。むしろ、わかっていなかったのは薩長閥のなかにいた人たちだったのではないでしょうか。自分たちの力のみで幕府を倒したという思いあがりが、のちの薩長閥政府を作り上げたといえるかも知れません。

 「何かひとつ違うちょったら、薩摩と会津は立場が入れ替わっちょたじゃろう。そげんなっちょったら、薩摩は全藩討死に覚悟で征討軍と戦をした。新しか国を作るため、戦わんならんこつになったどん、おいは会津と薩摩はどっか似た国じゃち思うちょった。武士の魂が通う国同士じゃち・・・。」

 この人は、わかっていたかもしれませんね。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2013-08-13 19:26 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(0)  

八重の桜 第31話「離縁のわけ」 ~挙藩流罪の斗南藩~

 明治2年(1869年)末に待望の御家再興となり、会津藩斗南藩として生まれ変わりましたが、23万石あった所領は3万石に大幅減封。藩士全員を移住させるのは到底無理なことでした。それでも、約半分の藩士が移り住んだといいますから、財政が成り立たないのは当然です。さらに、斗南藩の所領の大半を占める下北半島の地は、火山灰土の風雪厳しい不毛の土地で、実際には石高3万石にはまったく及ばず、せいぜい7千石程度だったといいます。

 斗南藩大惨事として幼君・松平容大をサポートしていた山川大蔵は、懸命に農地開墾施策を展開しますが、慣れない農業と寒冷な自然の前に生産高はあがらず、飢えと寒さで病死者が続出します。斗南藩士の一人でのちに陸軍大将にまでのぼる柴五郎は、後年この斗南への転封を「挙藩流罪」と表現しています。彼らにとっては、籠城戦より過酷な日々だったといえるかもしれません。会津戦争は、明治になってもまだ終わっていませんでした。

 このとき八重は、斗南には移住せずに会津に残り、その後、ドラマのとおり米沢に出稼ぎに行っていたようです。鶴ヶ城開城後に東京にいた夫の川崎尚之助は、かつては東京でそのまま暮らしたといわれていたそうですが、近年に発見された史料によれば、斗南藩士として下北半島に移住していたようですね。いずれにせよ、八重と尚之助はこれ以後、会うことはなかったようです。なぜ八重が尚之助について行かなかったかはわかりませんが、このとき離縁したのは八重と尚之助だけではなく、多くの会津藩士らが斗南に移住するにあたって家族との縁を切っていました。離縁された妻たちは、知縁を頼って出稼ぎに行くなど苦しい生活を強いられることになるのですが、それでも、挙藩流罪の地に夫と連れ添うよりマシだったのかもしれません。八重と尚之助の離縁の理由は、そうせざるを得なかったということでしょうね。

 そんな斗南藩も結局は明治4年(1871年)の廃藩置県によって斗南県となり、わずか2年足らずで消滅。その後、財力のある弘前県に吸収合併され、さらに周辺の5県と合併して、現在の青森県となります。これを機に会津藩士は全国に散っていき、斗南での藩再建の思いは、彼らの無念とともに歴史の闇に消えていきます。でも、全国に散った会津スピリッツは決して消えることはありませんでした。八重もまた、そのひとりだったといえます。

 その八重の兄・山本覚馬が生きているという知らせが八重のもとに届いたのは、廃藩置県が行われた明治4年のことでした。誰よりも兄をリスペクトしていた八重にとっては、これ以上の朗報はなかったでしょう。父と弟を失い、故郷を離れ、夫と離別し、そんな筆舌に尽くし難い喪失感のなか、兄の生存の知らせは、彼女の心に一筋の光明を差し込み、生きる希望を与えたであろうことは想像に難しくありません。生まれ育った家を失ったいま、兄を訪ねて京都に向かう決意を固めたのは当然だったでしょうね。

 ところが、覚馬の妻・うらは八重たちの京都行きに同行しませんでした。娘のみねを八重と母・佐久に預け、自らは会津にとどまる道を選択します。それは、離縁を意味していました。その理由はわかりませんが、おそらくドラマのとおりだったのでしょうね。当時、覚馬には身の回りの世話をする時恵という女性がいて、その時恵との間に娘も生まれていました。9年前、覚馬が松平容保京都守護職就任に付き添って上京して以来、あまりにも長い別居生活が招いた必然だったかもしれませんね。それも、ただの9年間ではなく、互いに死の淵を生きた別居生活だったわけですから・・・。

 その後のうらは、、会津に戻ったとも、仙台または青森に移り住んだともいわれますが、正確なことはわからないそうです。その後、娘のみねと会うことがあったかどうかも、定かではありません。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村
[PR]

by sakanoueno-kumo | 2013-08-07 22:21 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(2)  

松井秀喜氏のワンデー・コントラクトでの引退式典に感銘。

昨年12月に引退を表明し、今年5月に東京ドームで引退セレモニーをした元メジャーリーガーの松井秀喜氏が、先日、今度はヤンキースタジアムでの引退セレモニーを行いましたね。
なんでも、2009年まで7年間在籍したニューヨーク・ヤンキース1日限りのマイナー契約を結んでの式典だったとか。
これを「ワンデー・コントラクト」というそうで、メジャーリーグではときどき行われるはからいだそうですが、スター選手が終身在籍することが多いヤンキースでは、2007年のジェフ・ネルソン投手以来2人目のことだそうです。
日本人としては、引退セレモニーを行うこと自体、松井氏が初めて。
ヤンキースもなかなかなことをしてくれますね。

なかには、松井氏とワンデー・コントラクトを結んでまで式典をするなら、他にも松井氏以上の実績をあげた元ヤンキースの選手はたくさんいる・・・と批判する人もいるようですが、それをアメリカ人が言うならまだしも、日本人がそれを言うのは無粋というものですね。
引退セレモニーは引退していく選手だけのものではなく、ファンのためのものでもあるのです。
ファンから愛された選手のみに許される特権ともいえるでしょうか。
松井選手は、それだけニューヨークのファンから愛されていたことの証で、それを同じ日本人として称えるのではなく、数字や記録だけを見て難癖つける人たちは、本当の野球ファンとは言いがたいと私は思いますけどね。

それにしても、このワンデー・コントラクトというシステムは実にいいですね。
日本のプロ野球球団も見習ってみてはどうでしょうか?
昔は、チームの顔のようなスター選手が球団を渡り歩くことは少なかったので、その選手が長きにわたって活躍したスタジアムとユニフォームで式典を行うことがほとんどでしたが、FA制度が導入されて以降は日本プロ野球の傾向も変わってきて、むしろ、ビッグネームのほうが、複数のチームのユニフォームを着るようになりましたよね。
その賛否は別にしても、ドラフト1位入団のビッグネームが、生え抜きのまま終身同じ球団で引退を向かえるという例は少なくなりました。
それも、最後に身をおいたチームではたいした活躍もせず、注目されずにユニフォームを脱いでいく例も少なくありませんし、たいした活躍をしていない球団で引退セレモニーを行なっても、なんかシックリ来ませんよね。

近年でいえば、清原和博氏などがその例で、最後は大阪ドームでのセレモニーで引退しましたが、最後の2年間だけ在籍したオリックスでは、ほとんど活躍らしい活躍はしておらず、オリックスのユニフォーム姿自体、馴染まないままの引退だったように思います。
清原選手といえば、やっぱ、ジャイアンツライオンズですよね。
そんな選手と、この度の松井氏のようにワンデー・コントラクトを結んで古巣での幕引きを演出すれば、その選手はもちろん、ファンも大喜びだと思いますけどね。
私は阪神ファンですが、新庄剛志選手の縦縞のユニフォーム姿を最後にもう一度見たかったものです。
そんな例はたくさんありますよね。
ぜひとも、日本のプロ野球界にも真似てほしいシステムです。

とにもかくにも、松井秀喜氏は日本人の誇りですね。
巷では、ジャイアンツの次期監督として名前が上がっているようですが(どこまで事実かは知りませんが)、それも去ることながら、将来、ヤンキースのピンストライプのユニフォームを着て指揮をとる・・・なんてことにならないかな~・・・と、過大な期待を注ぎたくなっちゃいます。
また、無粋な方々に批判されそうですが・・・。
なにはともあれ、松井秀喜氏の今後の更なる活躍を期待します。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 ニュースブログ 時事ニュースへ
にほんブログ村 野球ブログ プロ野球へ

[PR]

by sakanoueno-kumo | 2013-08-02 17:45 | プロ野球 | Trackback | Comments(0)