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朝ドラ『あまちゃん』に、後半2ヵ月だけハマったおじさんの「じぇじぇじぇ!」

好評だったNHK朝ドラ『あまちゃん』が終わりましたね。
私も後半2か月ほどハマっちゃいました。
朝ドラにハマるのは、昨年の『カーネーション』以来です。
あのときも、後半の2~3か月だけハマったんですよね。
以前は朝ドラの時間はすでに家を出ていたのですが、いまはBSで7時半からやってますよね。
それだとギリギリ観れたり観れなかったりで・・・。
で、最初は妻が観ている横で観るともなしに見ていたものが、いつの間にか、家を出たあと通勤途中の車の中で『潮騒のメモリー』を口ずさんでいて・・・。
気が付けば、観れない日は録画してまで観てしまってました(笑)。
でも、いつもハマっていたわけじゃなく、『カーネーション』のあとの2作も、妻は観ていたけど私は興味がわきませんでしたから、やはり好評を得た作品というのは、どこか引きつけるものがあるんでしょうね。
で、最終回を観終えて、思ったことを場当たり的に綴ってみます。

わたしがこのドラマにハマった理由のひとつは、キョンキョンこと小泉今日子さんと薬師丸ひろ子さんのキャスティングですね。
わたしら世代にとってはドストライクのアイドルふたりで、このふたりの共演というだけでも目を引くわけですが、物語はまさしく80年代にアイドルを目指した女の子とスーパーアイドルだった女の子の因縁の話で、それを当時、本当にトップアイドルだったふたりが演じているというところに、ストーリーを超えた面白さがありました。
とくに薬師丸ひろ子さんの場合、当時は角川映画のかかえる箱入りアイドルでしたから、なんとなく役どころの鈴鹿ひろ美というキャラクターに、遠からずといったところがあり・・・。
昨日の最終回で、天野春子の若き日の部屋で春子とひろ美が語るシーンがありましたが、その横に大きな松田聖子のポスターが貼ってあって、あれを観て、小泉今日子と薬師丸ひろ子と松田聖子の夢の共演だ!!!・・・と思っていたのは私だけでしょうか(笑)。
薬師丸さんが箱入りアイドルでしたから、当時では絶対ありえない3ショットだったと思います(あそこに中森明菜さんがいたら悶絶ものです・・・笑)。
ちなみに、あの聖子ちゃんのポスターとまったく同じものが、中学生時代の私の部屋にも貼っていました(笑)。

若いときの春子役だった女優さんも可愛かったですね(有邨架純ちゃんていうんですね)。
たしかに、デビュー当時のキョンキョンに似てなくもなかったです。
でも、ネットで調べてみると、やっぱあの髪型はかつらなんですね。
わたしら40歳代後半のおじさんたちは、あの髪型(いわゆる聖子ちゃんカット)を見ただけで、ちょっと胸キュンになっちゃうんですよね。
だって、卒業アルバムに写ってる女子のほとんどが、あの髪型ですから(笑)。

あと、余談ですが、松田龍平くんと薬師丸ひろ子さんの共演を見て、映画『探偵物語』を思い出していたのは私だけでしょうか?
「ドジな探偵さん」ならぬ「ドジなマネージャーさん」って言ってほしかった(笑)。

本作は近年で最も視聴率が高かったそうですが、それにしても、朝ドラもずいぶん変わりましたよね。
わたしもすべて見てきたわけではないのですが、かつて60%以上の視聴率を記録した『おしん』のように、以前の朝ドラはもっと硬派な物語ばかりだったように思います。
このたびのようなコメディータッチの作品はあまり記憶にありませんし、ましてや、どう見ても秋元康氏やAKB48パロディーとしかとれないキャラクターを登場させるなど、かつての朝ドラではあり得ない演出が目立ちました。
これも、朝ドラを観る世代が変わってきたということでしょうが、これがあまりエスカレートしてしまうのもどうかな・・・と。
歴史と伝統のある枠ですから、大河ドラマと同じく、ただ面白ければいいという性質のものでもないでしょう。
本作はたしかに面白かったですが、朝ドラが朝ドラでなくなってしまうような危機感を少し感じました。
もっとも、いま『おしん』を放送して高い支持を得られるかといえば、難しいかもしれませんけどね(映画やるそうですけどね)。
朝から重い話を観るよりも、1日が元気になるような物語を観たい、いまはそんな思いの人が多いのでしょうね。
『あまちゃん』のオープニング曲は、たしかに朝から元気が出ましたから。

なんか、文章の組み立てなどまったく考えず、思いついたままを綴ってきましたが、気が付いたらずいぶん行数を費やしていました(笑)。
とにもかくにも、『半沢直樹』とともに、この夏の話題作をめずらしくしっかり観ていたので、今年の流行語大賞にはついていけそうですね。
「じぇじぇじぇぇぇぇ!!!」
聞くところによれば、この着ボイスが、なんと10万ダウンロードされたとか。
岩手の人にしてみれば、まさに「じぇじぇじぇ」でしょうね。


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by sakanoueno-kumo | 2013-09-29 02:29 | その他ドラマ | Comments(2)  

東北楽天イーグルスのリーグ優勝にみる、「戦闘型」「教育型」指揮官の適正。

東北楽天イーグルスが悲願のリーグ優勝を果たしましたね。
あの球界再編でチームが誕生してから9年、1年目のぶっちぎり最下位から思えば、あれから“たった8年”でよくここまで強くなったものです。
だって、100敗しそうなチームだったんですからね(笑)。
優勝の立役者は、なんといってもマー君こと田中将大投手だとは思いますが、でも、2008年に岩隈久志投手が21勝をあげて最多勝、沢村賞の活躍をしたにもかかわらずチームは5位だったことを思えば、エースひとりの力で優勝できるわけではないということがわかります。
今年はホント、バランスのとれた強いチームでした。

星野仙一監督は中日、阪神に続いて、これで3球団目の優勝監督ですね。
これは3人目の快挙だそうで、あとの2人は三原脩氏(読売、西鉄、大洋)と、西本幸雄氏(毎日大映、阪急、近鉄)という伝説の名将ですから、まさしく星野さんも伝説の域に達したということになります。
スゴイ人ですね。
ただ、興味深いのは、阪神も楽天も、星野さんの前に野村克也氏が監督をしているということ(楽天は1年だけマーティー・ブラウン監督を挟んでいますが)。
これって、やっぱ、ノムさんの種まきも少なからず貢献していると考えていいですよね。
いずれもノムさんで結果が出せなかったチームを星野さんが引き継ぎ、2〜3年でみごと優勝させていることから、巷では、「星野>野村」といった評価の声がときおり聞こえますが、それってちょっと短絡的すぎではないでしょうか。
万年最下位のチームを優勝させるのは容易なことではありません。
「種をまき、水をやり、花を咲かせる」
とは、ヤクルトの監督時代のノムさんの言葉ですが、まさしく、ノムさんが監督に就任したチームはいずれも万年最下位のリーグお荷物球団で、まずはその土台作りからでした。
ノムさんの土台作りがあってこそ、星野監督の活躍があるといえるのではないでしょうか。

といっても、なにも星野さんが「おいしいとこ取り」をしたと言ってるわけではありません。
指揮官には、「戦闘型」「教育型」があると思うんですね。
戦力が整っていないのに、いきなり「戦闘型」の指揮官が来ても空回りするだけだと思うし、まずは「教育型」の指揮官で土台をつくって、戦えるチームになった上で「戦闘型」の指揮官を招聘する。
かつて、広島、西武、ダイエーの3球団の監督を務めた根本陸夫氏は、いずれも監督として目立った成績は残せなかったものの、後任に戦闘型の監督を招聘して、いずれも数年以内に優勝させており、根本さんのチームの基礎をつくり上げる手腕は高く評価されています。
ノムさんは根本さんほど「縁の下の力持ち」というイメージではありませんが、ミーティングなどで野球頭を鍛える指導法から見ても、やはり「教育型」の監督さんだと思います。
星野さんは、誰が見ても間違いなく「戦闘型」ですよね(笑)。
そう考えれば、「星野>野村」なんて評価は間違いで、「野村→星野」のバトンタッチが、実に理にかなった人事だといえるのではないでしょうか。
これから監督になるであろう若い指導者の方々も、「教育型」か「戦闘型」かを見極めて、適正に招聘されれば、きっと力を発揮できるでしょうし、チームも強くなれると思うんですけどね。
星野仙一&野村克也に「あっぱれ」です。


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by sakanoueno-kumo | 2013-09-28 00:52 | プロ野球 | Comments(2)  

夏休み丹波路紀行2013 その5 「旧九鬼家住宅」

最後に、三田市街地にある旧九鬼家住宅を訪れました。
九鬼氏とは、九鬼久隆を初代とする三田藩主で、この旧九鬼家住宅は、その三田藩家老職の九鬼隆範の邸跡だそうです。
この日、本当は、同じ三田出身の人物で、日本人で初めてビール醸造に挑戦した蘭学者・川本幸民の邸跡を目当てに三田市街地に来たのですが、誘導看板にそって来たはずが、どういうわけか間違ってここに来てしまいました(笑)。
まあ、これも何かの縁と思い、立ち寄ってみることに・・・。

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九鬼氏は南北朝時代から続く名家で、戦国時代には志摩国鳥羽藩を拠点に水軍を統率し、豊臣秀吉の九州征伐や朝鮮出兵で水軍総督を務めた大名でした。
ところが、当時の鳥羽藩主・九鬼守隆の死後、五男の久隆と三男の隆季との間に家督争いが起こり、九鬼氏の水軍力を恐れた江戸幕府三代将軍・徳川家光は、この家督争いを理由に九鬼氏の石高5万6千石を分割。内陸の三田と綾部に移封させます。これにより九鬼氏は鳥羽の地と水軍を失い、宗家を三田に移し、廃藩置県までの約240年間、三田藩を統治することになります。

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九鬼隆範は幕末の天保6年(1835年)に越賀六兵衛隆影の二男として生まれ、 明治3年(1870年)に三田藩家老・九鬼伊織隆継に養子縁組で迎えられました。
翌年には神戸に出て砲術や測量術等を学び、東京横浜間鉄道工事や東京高崎間鉄道線路の測量等に従事し、日本の鉄道開発に貢献した人物です。
川本幸民の塾でも学んでいいたようですね。

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明治8年(1875年)頃に建てられた、全国でも数少ない擬洋風建築だそうで、兵庫県指定重要有形文化財に指定されています。
2階のベランダ部分と窓が洋風の作りで、母屋と道路に沿って建つ土蔵は純和風
商家の佇まいと洋風の造りが一体となった建物は、当主の九鬼隆範が自ら住宅として設計したものだそうです。
和洋折衷のデザインは、不思議な雰囲気ですね。

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中は、いわゆる一般的な日本家屋の造りでした。
でも、この日は公開されていませんでしたが、おそらく2階は洋風なんでしょうね。
明治初期の人たちにすれば、なんとも不思議な建物だったでしょうが、考えてみれば、現代では同じ家屋内に和室と洋室があるのは、何ら珍しくない設計です(外観の和洋折衷はあまり見かけないでしょうか)。
そう考えれば、ここは現代の日本人の住宅の“はしり”といえるかもしれませんね。

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子供たちの気を引いたのはこのテレビ
もちろん映りません。

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そしてもう一つ、子供たちのお気に入りだったのは縁側でした。
都会の子供たちにとって縁側なんて、「サザエさん」の中だけの世界ですもんね。
ただ、この九鬼家と磯野家の違いは、縁側の上にテラスがあるところです。
これも不思議なロケーションですよね。
でも、考えてみれば、縁側ってジャパニーズテラスですよね。
ここは建物南側ですから、どちらも同じ目的を持つ理にかなった造りということになります。
和洋テラスの融合ですね(笑)。

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結局、ここで日が暮れ始めたので、当初の目的だった川本幸民の邸跡には行きませんでした。
ここに来るまで九鬼隆範という人物のことはまったく知りませんでしたが、でも、きっと何かの縁でここへ引き寄せられたのでしょうね。
覚えておくことにします。

さてさて、それではこの辺りで夏休みシリーズを終わります。
今日は9月26日、明日から涼しくなるそうですね。
なんとか衣替えの前に終われてよかった(笑)。

夏休み丹波路紀行2013 その1 「丹波篠山渓谷の森公園」
夏休み丹波路紀行2013 その2 「お菓子の里丹波」
夏休み丹波路紀行2013 その3 「丹波竜化石工房ちーたんの館」
夏休み丹波路紀行2013 その4 「三田ガラス工芸館」
夏休み丹波路紀行2013 その5 「旧九鬼家住宅」


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by sakanoueno-kumo | 2013-09-26 23:15 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(4)  

八重の桜 第38話「西南戦争」 その2 ~日本史上最後の内戦~

 明治6年(1873年)の政変によって鹿児島に帰郷した西郷隆盛は、翌7年6月、旧薩摩藩の居城であった鶴丸城の厩跡に「私学校」を設立しました。ここに篠原国幹の主宰する銃隊学校と、村田新八の主宰する砲隊学校を付属させ、また県内各地に分校を置き、幼少年を集めて軍事・思想教育を施します。その費用は、すべて鹿児島県の公費でまかないました。

 鹿児島県では、県令以下の県庁の役人や、区長、戸長の名称は中央政府が定めた名称を用いていましたが、県令・大山綱良以下の役人には一人も県外人を入れず、すべて私学校とその分校の幹部を就かせて、県政は中央政府の法令には一切従わず、私学校の指導で行われていました。県下の租税はいっさい中央にあげず、県下では秩禄処分もなく、太陽暦も採用せず旧暦を守り、士族は相変わらずを帯び、ひとたび西郷の命令が下ればただちに戦闘状態に入れるよう組織され、訓練されていました。つまりこれは、日本国内において事実上中央政府から独立した政権、鹿児島国だったといっていいでしょう。そしてそのなかで、西郷自身はなんの役職にも就かず、それらを超越した最高権威として君臨していました。

 彼らは、熊本・秋月・萩の乱にも、なお自重して動きませんでした。おそらく、西郷が軽挙を抑えていたのでしょう。しかし、中央の政権に一切従わない彼らを、政府は放っておくわけにはいきませんでした。政府・内務卿の大久保利通は、内乱を避けるべく鹿児島県士族に限って特別の優遇をしてきましたが、それに対する木戸孝允らの反対は強く、鹿児島県のみを特殊あつかいすることに対して、大久保を避難する声が高まります。さすがの大久保もこの声を無視するわけにはいきませんでした。

 明治9年(1876年)12月末、大久保は腹心の大警視・川路利良に依頼し、十数人の警察官を帰省という名目で鹿児島に送り、スパイ活動及び私学校の解体活動をさせます。さらに、鹿児島にたくわえていた武器・弾薬の一部を汽船で大阪に運ばせまました。これが私学校党を大いに刺激。明治10年(1877年)1月29日夜から、火薬局および海軍省の造船所を襲い、武器・弾薬を奪い取ります。そして2月3日、スパイ活動をしていた政府警察官を捕らえ、彼らが政府の密命を受けて、私学校党をつぶし、西郷を暗殺する計画であったことを自白させます。本当にそのような任務が与えられていたかは、いまとなってはわかりません。あるいは決起するためにでっち上げた作り話だったかもしれません。いずれにせよ、ここまでくれば、もはや西郷の力を持ってしても、彼らを抑えられなくなっていました。決起日は2月17日、兵力は1万3000人。これまでの叛乱とは規模が違います。こうして、近代日本最大、そして日本史上最後の内戦、世に云う西南戦争が起こりました。

 ここでは、戦いの詳細は省きますが、結果的に西郷率いる私学校党が敗れるのは周知のところでしょう。決起から7ヶ月後の9月24日、鹿児島は城山にて西郷は自刃します。ドラマで描かれていたとおり、股間を撃たれて歩けなくなった西郷は、肩を負っていて別府晋介に、「晋どん、もうここらでよか」と語り、その場で別府に自身の首を討たせました。享年50歳。その後、反乱軍幹部たちはめいめいに戦死をとげ、ここに、わが国最後の内戦は終わります。

 なぜ、西郷はこのような無謀な反政府軍の首領に身をおいたのでしょうか。おそらく西郷は、わずかに九州の一角の力を持って中央政府に勝てるとは思っていなかったでしょう。ただ、全国各地で燻っていた不平士族の不満の火種をなんとか消したいという思いはあったかもしれません。彼は、挙兵を迫る篠原国幹や桐野利秋らに対して、「おいの命は諸君にあずけ申す、存分にするがよい」と言ったといいます。西郷は彼自身が不平士族の頂点に立って滅びることで、彼自身の作った維新の総仕上げを行ったのでしょうか。あるいは、中央政府にいるマブダチ・大久保への援護射撃?・・・どれもこれも、結果を知っている後世から見たドラマチックな解釈でしょうか?

 「おいが、みな抱いていく」

 ドラマ中の西郷の台詞ですが、まさしくこの境地だったのかもしれません。
 ナレーションはいいます。

 内戦は深い傷を残した。 しかし、そこから立ち上がり、苦しみの先に未来を見つめた人々が、やがて新しい国づくりに向けて歩き出してゆく。


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by sakanoueno-kumo | 2013-09-25 21:35 | 八重の桜 | Comments(2)  

八重の桜 第38話「西南戦争」 その1 ~神風連・秋月・萩の乱~

 明治維新によって近代国家の扉を開いた日本でしたが、その最大の革命は、士農工商の世襲身分を廃止し、四民平等一君万民としたことでした。しかし、それによって最も困ったのは、維新の原動力となった身分の低い元武士たちでした。江戸時代、国民の約1割が武士だったといいますが、士族で明治政府に役人として仕えたのはごく僅かで、ほとんどの侍たちが職を失うことになります。武士は今でいう公務員ですから、平成の小泉改革なんて比較にならない公務員大リストラだったわけですね。新国家成立のために命をかけた武士たちでしたが、新国家で最も不要とされたのも武士たちでした。皮肉ですね。彼らは、やがて明治政府に対して不満をつのらせていきます。

 失業状態となった士族でしたが、それでも明治初頭は、わずかな俸禄(家禄)を政府から与えられていました。いうなれば、武士時代の年金みたいなものですね。ところが、これが国家財政の30%を占め、財政圧迫の大きな要因となります。そしてとうとう政府は、明治9年(1876年)に俸禄支給の廃止に踏み切ります。これによって士族は完全に収入源がなくなったわけですね。なかには商売に手を出す者もいたようですが、いかんせん役人上がりですから、上手くいく例は少なく、没落する者も出てきます。さらに同じ年、追い打ちをかけるように「廃刀令」が出されます。軍人と警察官以外は帯刀を許さぬというのです。収入を失った上に、士族の名誉の象徴「武士の魂」までも奪われたわけですから、彼らの怒りは頂点に達し、西日本各地で爆発します。

 10月24日、熊本で太田黒伴雄を中心とする「神風連」と名のる熱狂的な攘夷主義士族の一団約200人が決起。彼らは県庁と兵営を襲撃し、県令の安岡良亮、鎮台司令長官の種田政明らを殺害します(神風連の乱)。暴動はただちに鎮圧されましたが、つづいて同月27日、福岡県の旧秋月藩士族・宮崎車之助らが、400人の同志を結集して神風連に呼応します。しかしこれも、乃木希典率いる小倉鎮台によって鎮圧され、多くが戦死、斬首になります(秋月の乱)

 さらに28日には、山口県の萩で前原一誠が200人余りを率いて挙兵します。前原は吉田松陰の開いた松下村塾の門下生で、幕末には久坂玄瑞高杉晋作らと共に討幕運動で活躍し、維新後は政府の参議兵部大輔を務めた人物。しかし、政府の商人と結託する不潔官僚主義に反感を持ち、さらに徴兵令に反対して同藩の先輩・木戸孝允とも衝突し、明治3年、いっさいの官職を辞めて萩に帰郷し、やがて山口県の不平士族の首領となっていきます。そして神風連の決起に呼応するかたちで兵を挙げ、一時は500人を超えた前原党でしたが、結果は三浦梧楼少将率いる広島鎮台などによって鎮圧。前原は出雲に落ち延びる途中で捕らえられ、斬首されます(萩の乱)

 こうして暴動は瞬く間に鎮圧されましたが、しかし、政府要職の経験もあり、士族仲間の徳望が高かった前原の叛乱は、政府にとってはかなりの脅威でした。そして政府は、おそらくこのつぎにくるものは、士族の大棟梁・西郷隆盛をかつぐ大叛乱であろうと予想します。そのため、西郷の身辺には、常に政府の密偵がつきまとっていました。

長くなったので、近日中の「その2」につづきます。



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by sakanoueno-kumo | 2013-09-24 23:18 | 八重の桜 | Comments(2)  

ドラマ『半沢直樹』に見る、視聴者が求めるカタルシス効果。

なるほど、そういう結末でしたか!!!
つまり、半沢大和田常務を失脚させるために、中野渡頭取に利用されてたってわけですね。
その上で、大和田常務は最低限の処分に留めて恩を売り、それによって大和田派の人脈を取り込み、結果、行内での頭取の実権をより強固にした・・・と。
そして利用し終わった半沢は頭取にとってもむしろ目障りな存在となり、切り捨てられた・・・ってことですね。
まさか、ラスボスは大和田常務ではなく中野渡頭取だったとは(笑)。
見るからに悪人面した大和田常務は、むしろ雑魚にすぎず、本当の“悪”“悪”の顔を隠しているもの。
お決まりの設定ではありますが、見事な終わり方だったと思います。
「100倍返し」を見事成功させたと思ったら、最後に大どんでん返しの「1000倍返し」のカウンターをくらいました。
この「1000倍返し」は、続編の「10000倍返し」の伏線となるのでしょうね。
観ていたわたしも、美味しい料理をお腹いっぱいご馳走になったあと、とんでもない額の請求書を突きつけられた気分でした(笑)。
「え〜、そりゃないよ〜」的な(笑)。

さて、ちょっとした社会現象にまで発展していたドラマ『半沢直樹』ブームでしたが、わたしも珍しく第1話から通して観させてもらいました(大概わたしの場合、話題になっていることを知って途中から観るというパターンなんですが)。
たしかに、毎週手に汗握る展開で、ストーリーは単純明快ながら実に観ごたえがありましたよね。
信念を曲げず、納得いかなければ上司にも牙を向くという半沢直樹の痛快な生き方に、大いに魅せられていた人が多く、だから、これほどまでに支持されたのでしょうね。
でも、実際にこんなサラリーマンがいたら、確実に軋轢が生じることは必至で、半沢のような男が上司でも部下でも、厄介者でしかないでしょう。
ところが、物語の中だと、そんな半沢がカッコよく見え、彼が次々に権力者をぶった切るのを観てカタルシスを得るんですね。
原作者の池井戸潤氏は同作品について、「経済を使ったチャンバラ活劇、時代劇である」と語っていたそうですが、まさしくその表現がぴったりで、チャンバラのように善が悪をバッタバッタぶった切るといった勧善懲悪的ストーリーが、単純明快で痛快な気分を与えてくれるんでしょう。
言うなれば、『水戸黄門』です。
ネットでコメントなどを閲覧していると、「サラリーマンがこんなことできるはずがない」とか「現実離れし過ぎている」といった声が目立ちますが、わたしは、だから面白いんじゃないかと思うんですけどね。
リアリティある「あるある話」もそれはそれで面白いですが、それではおそらく、ここまでの支持は得られないでしょう。
視聴者が映画やドラマに求めているのは、非現実的な「あり得ないけどあって欲しい話」で、そこで視聴者は疑似体験をして、カタルシスを得るわけです。
半沢のようには絶対なれないし、半沢のような部下も上司もほしくないけど、物語のなかの半沢直樹には憧れる。
そんな思いが、本作の高視聴率につながったのでしょう(最終回の視聴率は50%近かったようですね)。

ドラマ関係者は続編の製作を明らかにはしていないようですが、これだけ話題になった作品で、しかもあの終わり方ですから、続編がないはずがないでしょうね。
出向になった(であろう)半沢をどのように復活させるのか、降格になった大和田はその後のストーリーにも絡んでくるのか、絶対権力者である頭取相手に倍返しは叶うのか、次作への楽しみはつきません。

「やられたらやり返す。倍返しだ!」
わたしも倍返しされないよう、身を正さねば・・・(笑)。


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by sakanoueno-kumo | 2013-09-23 14:09 | その他ドラマ | Comments(0)  

夏休み丹波路紀行2013 その4 「三田ガラス工芸館」

ちょっと間が空いちゃいましたが、夏休みシリーズの続きです。

丹波篠山から神戸に帰る途中、三田市ある「三田ガラス工芸館」に立ち寄りました。
ここでは、さまざまなガラス工芸の技法が体験できます。
冒頭で「立ち寄った」といいましたが、決して思いつきで寄り道したわけではなく、数日前に予約を入れての訪問でした。
夏休みだったので、小中学生の宿題目当てでの体験者が多いらしく、この時期、事前予約なしの体験は難しいとか・・・。
で、我々も子供たち(といっても、かなり大きい子どもも混ざっていますが)を中心に体験することに・・・。

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男子チーム(約1名おばさん込み)は吹きガラス体験
先生のサポートのもと鉄パイプの先端に巻きつけたガラスを溶解炉で溶かして飴状にし、事前に好きな色を選んでいたガラス粉をつけます。
これが模様になるみたいです。

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冷めないうちに息を吹き込んで大きくします。
そしてまた溶解炉へ。

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棒を回してかたちを整えます。
炉から出たばかりのガラスはとても柔らかく、回していないとすぐにかたちが崩れてくるんですね。

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そうやって、炉で熱しては吹き、また熱してはかたちを整えていくという繰り返し。
根気がいる仕事ですね。

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おばちゃんも頑張りました(笑)。

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とにかく吹きガラスの工房は暑いのなんのって、だって炉のなかの温度は1300℃だそうですからね。
夏真っ盛りのお盆に、わざわざ汗をかきにいったようなものでした。

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これで完成!・・・ではなく、これを冷却炉に入れてしばらく冷やし、数日後に家に送られてきます。

一方の女子チームは冷房の効いた部屋で「とんぼ玉」づくり体験。

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ガラス棒をガスバーナーの炎で水飴状に溶かして作る「バーナーワーク」という技法で、オリジナルアクセサリーづくりにチャレンジです。

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2色のガラスの棒をバーナーで溶かして、それを熱した鉄の棒にくるくる巻き、マーブル模様の玉にしていきます。
これが結構むずかしいようで、手先の器用さが求められます。

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小学生から大学生まで、皆、普段はなかなか見せない真剣な表情で向き合っていました。

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細かい作業です。

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ピアスイヤリングが出来あがりました。

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こちらは、イヤリングストラップの完成です。
いずれも、自らが丹精込めて作ったものだけに、みんなご満悦です。
その気持ちを忘れずに、将来、高価なブランドのアクセサリーを男に貢がせるような女にならないよう願いたいものです。
えっ?・・・それはそれ、これはこれ?・・・さもありなん(笑)。

そんなこんなで、ガラスとふれあった夏の日の午後でした。
気が向いたときの「その5」につづく。

夏休み丹波路紀行2013 その1 「丹波篠山渓谷の森公園」
夏休み丹波路紀行2013 その2 「お菓子の里丹波」
夏休み丹波路紀行2013 その3 「丹波竜化石工房ちーたんの館」
夏休み丹波路紀行2013 その4 「三田ガラス工芸館」
夏休み丹波路紀行2013 その5 「旧九鬼家住宅」


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by sakanoueno-kumo | 2013-09-21 21:44 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(2)  

八重の桜 第37話「過激な転校生」 ~熊本バンドと悪妻・八重~

 熊本バンドが登場しましたね。「バンド」とは、キリスト教を信仰し、その布教と教育活動をする結盟集団のこと。彼らは明治4年(1871年)に創設された熊本洋学校の出身者たちで、アメリカ人のリロイ・ランシング・ジェーンズという軍人講師から学び、洗礼を受けていました。熊本は以前から、横井小楠らの影響もあって西洋の知識を学ぶことには先進的な考えがありましたが、キリスト教にはまだまだ寛容ではありませんでした。

明治9年(1876年)、熊本洋学校の生徒35名が花岡山で集会を開き、キリスト教によって日本を導こうという奉教趣旨書に署名、誓約します(花岡山事件)。ところが、これが世間から大きな反発を買い、結果、熊本洋学校は廃校、ジェーンズも解雇になります。行き場を失った生徒たちのために、ジェーンズは同志社英学校で受け入れてほしいと手紙を書き、その要請を受けた新島襄は受け入れを快諾します。ところが、これが襄にとって思わぬ試練となるんですね。その理由は、彼ら熊本バンドが求める教育レベルにありました。

 熊本バンドと同志社の学生たちとの学力の差は歴然たるものでした。熊本バンドの面々は熊本洋学校時代にジェーンズから英語での授業を受けており、日本語での講義で英訳するといった同志社の授業のレベルに不満を覚えます。現代の学力でいえば、中学生と大学生が一緒に授業を受けているようなものだったでしょうか? 不満が出るのはやむを得ないことだったでしょうね。やがてその不満は校長である襄に向けられました。成績優秀な生徒に教師が軽んじられるという、学校としての秩序を崩しかねないこの状況を、襄はどのように克服したのでしょうか。

 不満を募らせた熊本バンドの面々は、襄に同志社の改革案を提示します。この改革案は、彼らから相談を受けたジェーンズのアドバイスだったそうです。ジョーンズ曰く、「不満があるならば、まず自分たちで改革しなさい」と。同志社を辞めようとまで考えていた彼らは、ダメ元で襄に改革案を示しますが、これを受けた襄は大いに喜び、彼らの提案をすんなり取り入れたそうです。学校運営に試行錯誤していた襄にとっては、彼らの提案は願ってもないことだったのかもしれません。自分たちの意見など聞き入れられないと思っていた熊本バンドの面々は、襄の懐の深さに感服し、同志社英学校に残ることを決意しました。襄の人間性が彼らの心を掴んだんですね。ある意味、教師のあるべき姿といえるかもしれません。

 熊本バンドと八重の関係も芳しくなかったようですね。ドラマ中、徳富蘇峰が八重のことを鵺(ぬえ)と呼んでいましたが、実際にもそうあだ名していたと後年の蘇峰が語っています。鵺とは、平安時代に源頼政が討ち取ったと伝えられる伝説の怪物で、頭はで、胴は、尾は、手足はという正体不明のバケモノのことです。つまり、八重はバケモノだと言うわけですね。というのも、この頃の八重の格好は、衣服こそ和装であったものの、頭には西洋帽子を被り、を履いていました。当時、政府は文明開化の名のもとに洋式化を推進しましたが、明治も10年ほどしか経過していないこの頃では、まだまだ日本人のほとんどが和服であり、とくに洋装する女性は皆無でした。そんななか、和洋折衷の奇妙な格好をする八重は、まさしく鵺というあだ名がピッタリだったのでしょうね。

 八重への批判は服装だけでなく、その振る舞いも攻撃の対象となりました。夫を「ジョー」呼び捨てにする。夫と人力車に相乗りする。それも、襄が手を差し伸べて八重を先に乗せている。街なかを夫と並んで歩く。などなど、レディーファーストの欧米社会では当たり前の行為ですが、男尊女卑の日本では驚天動地の光景だったのでしょう。もちろん、これらはすべて襄が望んでいたことでしょうが、学生の彼らの目には悪妻としか映らなかったようですね。徳富蘇峰はその自伝で、当時のことをこう回顧しています。

 「新島先生夫人の風采が、日本ともつかず、西洋ともつかず、所謂る鵺(ぬえ)の如き形をなしてをり、且つ我々が敬愛してゐる先生に対して、我々の眼前に於て、余りに馴れ々しき事をして、これも亦た癪にさはった」

 襄はその人柄で、熊本バンドの面々の心を瞬時に掴みましたが、八重と彼らの対立関係はずいぶんと続いたようです。蘇峰と八重がお互いをわかりあったのは、襄の死後だったとか。ドラマでは、早くも心通じあったような感じでしたけどね。秀才で自尊心の高い面々だったから、なおさら自己主張の強い八重とはそりが合わなかったのでしょうね。それにしても、鵺とは上手くあだ名したものです。


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by sakanoueno-kumo | 2013-09-19 00:02 | 八重の桜 | Comments(3)  

バレンティン選手のシーズン最多本塁打記録更新に見る、“聖域”の呪縛から解き放たれた日本プロ野球。

東京ヤクルトスワローズウラジミール・バレンティン選手が、日本プロ野球のシーズン最多本塁打記録をとうとう塗り替えましたね。
昭和39年(1964年)に読売ジャイアンツ王貞治選手が55本をマークして以来、実に49年ぶりのことです。
この日バレンティン選手は、56号、57号と2本の本塁打を放ち、韓国プロ野球サムスンの李承ヨプ選手が持つアジア最多本塁打記録も塗り替えました。
今シーズン、スワローズはまだ残り18試合あり、どこまで記録を伸ばせるか注目ですね。

とにもかくにも、このたびバレンティン選手によって歴史が塗り替えられたことで、ようやく日本プロ野球も悪しき呪縛から解き放たれるのではないかと期待しています。
悪しき呪縛とは、日本人選手の残した記録を外国人選手に塗り替えられたくないという、つまらない島国根性のことですね。
私も同じ日本人として、その思い自体は理解できなくもないですが、問題なのはその思いがプレーに結びついてしまうことです。
かつて3人の外国人選手が、この記録を塗り替えそうな勢いで本塁打を量産したことがありましたが、いずれも55本の“聖域”に迫るにつれ、球界全体に「それ以上打つな」という妙な空気が漂い始め、いよいよ記録更新となると、相手投手が勝負を避け、記録更新を阻みました。

最初に“聖域”を脅かしたのが、昭和60年(1985年)の阪神タイガースの助っ人ランディー・バース選手でした。
バース選手はシーズン残り3試合の時点で54本、プロ野球記録にあと1本まで迫っていましたが、最後の2試合は記録保持者の王貞治監督率いるジャイアンツ戦で、結果は2試合で6四球
バース選手いわく、最初の打席でジャイアンツの捕手(たぶん山倉和博捕手)に「ごめん」と言われ、事態を悟ったといいます。
おそらく王監督の指示ではなかったと思いますが、球界全体に漂った空気がそうさせたのでしょうね。

次に“聖域”に迫ったのが、平成11年(2001年)当時近鉄バファローズにいたタフィ・ローズ選手。
残り5試合で王選手の55本に並んだローズ選手でしたが、その後の福岡ダイエーホークス戦で怒涛の四球攻めにあい、結果、記録更新はなりませんでした。
このときも対戦相手のダイエーの指揮官は王監督でしたが、王さん自身は試合前にローズに対して本塁打新記録達成を望む声を掛けていたそうです。
ところが、当時ホークスのバッテリーコーチだった若菜嘉晴氏が敬遠を指示していたことがのちに発覚。
若菜氏は報道陣に対しても、「王・長嶋は野球の象徴。いずれ彼(ローズ)はアメリカに帰るんだから、オレたちが配慮して、監督(王貞治)の記録を守らないといけない。うちが打たれるわけにはいかない」と発言していたそうです。
この件はアメリカのマスコミで大きく取り上げられ、結果、当時のコミッショナーまでもがフェアプレーを訴える声明を発表するという騒ぎとなりました。

その翌年には西武ライオンズアレックス・カブレラ選手が同じく55本に並びましたが、バースやローズのときほど露骨ではなかったものの、やはり四球攻めにあって記録更新には及びませんでした。
バースやローズのときは、たまたま対戦相手が王監督指揮のチームでしたが、たとえそうでなかったとしても、外国人に記録を塗り替えられたくないという空気は同じだったと思います。
その思いが闘志となって表れるのならいいのですが、ブザマに逃げて記録を守るようでは、かえって王選手の記録の価値を下げているように思えてなりませんでした。
そもそも球団が助っ人外国人打者を雇うのは、本塁打を量産して欲しいがためなわけで、でも、その外国人打者が期待以上の働きをして“聖域”に迫ると、途端に「打ってほしくない」というのはなんとも滑稽な話です。
外国人打者からすれば、梯子を外された気分だったでしょうね。

今年、バレンティン選手が本塁打量産体制に入ったとき、また性懲りもなく同じ愚行が繰り返されるのか・・・という懸念もありましたが、今回はたぶん大丈夫だろうと思っていました。
というのも、過去3人の外国人選手と比べても、今年のバレンティン選手の本塁打のペースは驚異的で、55本に並んだ時点で残り22試合。
いくらなんでも全打席敬遠なんてあり得ないですからね。
時間の問題だと思っていました。
このペースだと、65本くらい打つんじゃないでしょうか。

せっかく新記録が出たと思ったら、今度は「飛ぶボール」がどうとか「神宮球場の狭さ」がどうとか、記録にケチをつける論調の記事をいくつか見かけました。
あと、王選手が記録を作った1964年と今とでは、投手の平均防御率被本塁打率もまったく違い、そのあたりを計算したなんとか指数ってやつで比較すると、王選手のほうが遥かに上だそうです(なんでも、王さんの55本をいまのプロ野球に当てはめると、70本以上の価値があるとか)。
くっだらないですね。
そこまで言うなら、そもそも球場の広さも相手投手のレベルも気候も、何もかもが違う条件のなかで数を競うこと自体ナンセンスなことです。
もし、王さんの記録をジャイアンツ時代の松井秀喜選手が塗り替えていたら、だれもケチはつけなかったと思いますよ。
時代が違うからこそ、新しい歴史を作ったバレンティン選手に素直に拍手を贈るべきなんじゃないでしょうか。

平成22年(2010年)には、イチロー選手が持っていたシーズン最多安打記録を、阪神タイガースのマット・マートン選手が塗り替えましたが、だからといってイチロー選手の価値が下がることはまったくありません。
このたび王貞治氏の記録が半世紀ぶりに塗り替えられましたが、王さんの残した功績が曇ることはないでしょう。
むしろ、くだらない“聖域”の呪縛から解き放たれたことで、今度はバレンティンの記録を日本人選手に破って欲しいという楽しみができますし、その結果、日本プロ野球全体のレベルアップに繋がるという相乗効果が得られるかもしれません。
私が生きてる間にこの記録を塗り替える選手が現れるか・・・楽しみにしたいと思います。


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by sakanoueno-kumo | 2013-09-16 16:48 | プロ野球 | Comments(6)  

夏休み丹波路紀行2013 その3 「丹波竜化石工房ちーたんの館」

前稿で紹介した「お菓子の里丹波」でプチタイムスリップをしたあと、今度はもっと大きなタイムスリップをしに訪れたのが、丹波竜化石工房「ちーたんの館」でした。
丹波竜とは、平成18年(2006年)にこの地域で発見された恐竜の化石に付けられた名称だそうです。
ここを訪れるまで知らなかったのですが、発見された恐竜の化石は、国内最大級の大型草食恐竜だそうで、学術的にもたいへん価値ある発見だったらしく、当時大きく報道されていたそうです。
ふだん歴史好きを自称している私ではありますが、さすがにそこまで古い歴史は門外漢でして、たぶん発見当時の報道は見てたのでしょうけど、興味がないせいか、記憶に残っていませんでした。

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発見された丹波竜は、その後の専門家の鑑定により中生代白亜紀に繁栄したティタノサウルス形類の恐竜と考えられているそうで、世界的にみてもたいへん希少な発見だったそうです。
1億4千万年前~1億2千万年前の当時、日本は大陸の一部であったため恐竜が生息していた・・・と考えられてはいたそうですが、これまで恐竜の化石は見つかっておらず、あくまでひとつの学説に過ぎなかったとか。
それが、この発見によってかなり信ぴょう性が増したそうです。

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このあたりはとにかく、町役場から小学校から道路標識に至るまで、右を向いても左を向いても恐竜のイラストキャラクターだらけでした。
世界的大発見だったわけですから、これを町おこしのネタにしない手はないですよね。
今や丹波は黒豆よりも恐竜のようです(笑)。

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館内では、恐竜図鑑の復元画の第一人者である画家・小田隆氏の原画展が開催されていましたが、印刷された図鑑で観るのとは違って、実物原画を観ると、緻密さに魅入ってしまいますね。

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丹波竜発掘現場前も通ったのですが、時間の都合上、この日は立ち寄りませんでした。
ただ、発掘現場近くの川代公園にある吊り橋は面白そうだったので、車を止めて渡ることに・・・。

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まあ、なんてことはなかったですけどね(笑)。
言うまでもありませんが、恐竜生息時には、この吊り橋はなかったでしょう(笑)。

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黒豆の里丹波、お菓子の里丹波、恐竜の里丹波、勉強になりました。

近日中の「その4」に続く。

夏休み丹波路紀行2013 その1 「丹波篠山渓谷の森公園」
夏休み丹波路紀行2013 その2 「お菓子の里丹波」
夏休み丹波路紀行2013 その3 「丹波竜化石工房ちーたんの館」
夏休み丹波路紀行2013 その4 「三田ガラス工芸館」
夏休み丹波路紀行2013 その5 「旧九鬼家住宅」

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by sakanoueno-kumo | 2013-09-14 22:47 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)