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打撃の神様、川上哲治氏のご逝去を悼む。〜昭和は遠くなりにけり〜

元読売巨人軍の川上哲治氏が亡くなられたそうです。
川上氏といえば、日本プロ野球の草創期を支えた大選手で、「打撃の神様」との異名を取った天才打者だったそうですが、昭和42年生まれのわたしにとっては、そんな氏の現役時代を知るはずもなく、前人未到のV9を成し遂げた昭和の名将といった認識でしかありません。
そのV9時代ですら、最後の年が小学校1年生のときですから、指揮官としての氏の姿もかろうじて知っている程度で、いうなれば、伝説の人物のような存在です。

選手時代を調べてみると、日本初の2000本安打日本初の逆転満塁サヨナラ本塁打など、まさに打撃の神様という異名に相応しい成績を残していますが、その中でもとくに驚かされたのは、昭和26年(1951年)に.377という高打率で首位打者を取ったとき、シーズン424打席、374打数で三振がわずか6個だけだったという驚異的な記録です。
この年の空振りはわずか7回だったそうで、783球連続空振りなしという記録も打ち立てたそうです。
「ボールが止まって見えた」という有名な名言は、この年のシーズン前の打撃練習で言った言葉だそうですが、決して大げさな表現ではなかったのでしょうね。

指揮官としての功績は、ここであらためて語る必要もないでしょうが、あれだけの結果を残していたにもかかわらず、批判的な声が多かったのもよく知られるところです。
初回からバントを多用した手堅い野球に、巨人ファンですら「川上野球は面白くない」というバッシングが多く、なかには「川上哲治がプロ野球をつまらなくした」と酷評する専門家もいたそうです。
まあ、当時の巨人ファンは勝つことに飽きていたのかもしれませんが、そんな川上野球のなかにあったからこそ、長嶋茂雄選手の明るさが余計に際立っていたのかもしれませんね。
川上氏と長嶋氏は不仲だったという説もありますが、本当でしょうか?
あと、川上氏へのバッシングの遠因は湯口事件にもあると思いますが、何よりも、氏はマスコミが嫌いだったそうです。
マスコミを大事にした長嶋さんとは対極にありますね。
あるいは長嶋さんは、そんな川上氏を反面教師にしていたのかもしれません。

王貞治氏に打者転向を強く薦めたのも、コーチ1年目の川上氏だったそうですね。
もし、川上氏の助言がなければ、世界の王は誕生しなかったかもしれません。
そう考えれば、のちのON時代はコーチ時代から下地が作られていたんですね。

川上氏が監督を勇退したのが昭和49年(1974年)。
氏は享年93歳だったそうですから、あのときまだ54歳、今の原辰徳監督より若かったんですね。
めちゃめちゃ大御所の貫禄でしたけどね。
ということは、『侍ジャイアンツ』に出てくる川上監督は今の栗山英樹監督くらいで、『巨人の星』に出てくる氏は、今のわたしと同じ歳くらい?
なんか、不思議な気分です(笑)。
ということは、星一徹も現在93歳ですね(笑)。

またひとり、昭和を彩った英雄がこの世を去りました。
昭和は遠くなりにけり・・・です。

日本プロ野球は今、日本シリーズの真っただ中。
アンチ巨人のわたしは、いうまでもなく楽天を応援しているのですが、川上氏の訃報を受けた巨人が、弔い合戦とばかりに奮起して逆転Vという、出来すぎのドラマのシナリオが見えてきたような気がします。
もし、巨人が日本一になれば40年ぶりの連覇で、V9時代の川上巨人軍以来のことだそうですから。

謹んで、ご冥福をお祈りします。


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by sakanoueno-kumo | 2013-10-30 22:36 | プロ野球 | Comments(0)  

八重の桜 第43話「鹿鳴館の華」 ~大山巌と捨松の結婚~

 今話は山川浩の妹・捨松大山巌の結婚話でしたね。そこで今回は、大山捨松という女性についてふれておきます。

 捨松は山川家の末娘として生まれ、幼いころの名を咲子といいました。彼女が生まれたとき山川家には既に父は亡く、15歳上の長兄・浩が父親代わりだったそうです。会津藩家老の家に生まれ、世が世ならなに不自由なくお嬢様として育ったであろう彼女でしたが、彼女が数えで8歳のとき、運命は一変します。会津戦争ですね。ドラマでもあったように、幼いながら彼女も八重たちと一緒にあの過酷な籠城戦を戦った婦女子のひとりです。このとき鶴ヶ城に大砲を打ち込んでいた官軍の砲兵隊長が、のちに夫となる大山巌だとは夢にも思わなかったでしょうね。

 戦後、兄たちと一緒に斗南に移った咲子でしたが、斗南での生活は想像以上に厳しく、彼女だけ函館に里子に出されます。明治4年(1871年)、彼女のもう一人の兄・山川健次郎が、政府主導の官費留学生として岩倉使節団に随行することが決まります。これに便乗するかたちで、彼女も留学することになりました。このとき一緒に留学した女子は5人。そのなかに、のちに津田塾大学の創立者となる津田梅子もいました。彼女たちは、日本人初の女子留学生だったわけです。留学期間は10年。このとき咲子は満11歳ですから、ほとんど子どもから大人になる期間といえるでしょう。このとき、彼女の母は「娘のことは一度捨てたと思って帰国を待つ(松)のみ」という思いを込め、「捨松」と改名させます。

 捨松が再び日本の地に降り立ったのは、日本を発って11年が過ぎた明治15年(1882年)のことでした。おそらく日本人初の女子の帰国子女だったといえるでしょうか。しかし、そんな彼女を日本は決して歓迎しませんでした。近代国家に向けて進歩していたとはいえ、まだまだ日本では男尊女卑の社会は根強く、彼女の力を発揮する場は与えられません。欧米で身につけた知識を持って故国に錦を飾ろうと帰国した彼女にとっては、失意以外のなにものでもなかったでしょうね。そんななか持ち上がったのが、大山巌との縁談話でした。

 このとき大山は、妻に先立たれて独り身となり、後妻を探していました。当時、参議・陸軍卿だった大山は、自身も西欧で4年間暮らした経験があり、フランス語やドイツ語を流暢に使って外国人と直に談判できる貴重な存在でした。そんな大山の後妻として白羽の矢が立ったのが、アメリカの名門大学を優秀な成績で卒業し、同じくフランス語やドイツ語に堪能だった捨松だったわけです。政府高官の夫人として外交の場で活躍できる女性など、当時は日本中探しても彼女しかいなかったでしょうね。しかし、この結婚には大きな障害が立ちはだかったことは言うまでもありません。

 薩摩は会津の宿敵。旧薩摩藩出身の軍人で、しかも会津戦争時に砲兵隊長として鶴ヶ城への砲撃を指揮していた大山との結婚を、山川家が許すはずがありません。兄の浩は猛烈に反対します。当然ですよね。浩にしてみれば、亡き妻の仇でもあったわけですから。しかし、大山もまた諦めずに粘ります。大山にしてみても、捨松ほど自身の求める妻にふさわしい女性はおらず、これもまた当然の粘りだったかもしれません。このあたり、ドラマにもあったとおりですね。さらに大山は、従兄弟で農商務卿西郷従道にも助太刀を頼んで山川家への説得にあたり、そのうち、大山の誠意が伝わり、最終的に浩は「本人次第」という回答をするに至ります。八重の腕相撲ではなかったようですね(笑)。

 捨松自身は、最初からこの縁談に消極的ではなかったようです。希望に胸を膨らませて帰国したものの、当時の日本ではまだまだ女性の社会進出の壁は厚く、結婚するしか生きる道はないのではないか・・・そんな気持ちになっていたのかもしれません。その意味では、政府高官の夫人という椅子は、ある意味活躍の場ととらえたのかもしれませんね。彼女は大山とのデートを何度か重ねたのち、大山の人柄に惹かれて結婚を決意します。この頃、彼女がアメリカの友人アリスに送った手紙に、「たとえどんなに家族から反対されても、私は彼と結婚するつもりです」と記されているそうです。障害が多いほど恋は燃える・・・というやつでしょうか(笑)。

 結婚後、社交界に華々しくデビューした捨松は、アメリカ仕込みの立ち振舞い、流暢な外国語、日本人ばなれしたプロポーションなどで、たちまち人々の注目を集め、「鹿鳴館の華」と呼ばれるようになります。鹿鳴館とは外国人の接待所として作られた洋館で、毎晩のように晩餐会舞踏会が開かれていました。彼女にとっては願ってもない活躍の場で、まさに水を得た魚の気分だったのでしょうね。

 その後、彼女は一緒に帰国した津田梅子の進める日本の女子教育の支援や、日本初の看護婦学校の設立などに貢献していきます。明治初期に国家が女子の人材を作るべく留学させた官費は、決して無駄ではなかったわけですね。国をつくるには、まず教育から。平成の政治家さんたちも、学んでほしいものです。


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by sakanoueno-kumo | 2013-10-29 15:36 | 八重の桜 | Comments(0)  

『ほこ×たて』のヤラセ問題と『笑っていいとも!』の終了発表に見る、テレビ番組のマンネリズム。

フジテレビの人気バラエティ番組『ほこ×たて』“ヤラセ演出”問題が話題になっていますね。
どうやら制作サイドもこの事実を認めたようで、同番組の放送を当面自粛するそうです。
信憑性が命といってもいい番組内容ですから、かつての『発掘!あるある大辞典』がそうだったように、こうなってしまえば打ち切りもやむを得ないでしょうね。
面白い企画の番組だっただけに残念です。

といっても、私も以前は楽しみに観ていましたが、ここ最近は飽きてしまってて、同番組にチャンネルを合わせることが少なくなっていました。
どれもすでに観たようなものばかりになってきて、マンネリズムが避けられない観がありましたからね。
ていうか、頻繁に観ていたときから、企画は斬新で面白いけど、そのうちネタが尽きるだろうと思ってましたよ。
矛盾対決のアイデアを絞りだすのもたいへんだったでしょうし、企画した矛盾がいつもいつも白熱した対決になるとも限りません。
いつも同じような対決では視聴者に飽きられるでしょうし、どちらかが一方的に強いようでは企画として成立しないわけで、結果、斬新で白熱する勝負を捏造する・・・。
容易に想像できた末路ですよね。
まさしく『あるある大辞典』のときと同じです。

この種のドキュメンタリー教養娯楽が混在するバラエティ番組は、やがてネタが尽きるのは明白なことで、毎週放送を何年も続けるというのは無理があるのでしょうね。
日本テレビの『行列のできる法律相談所』は10年以上続いているそうですが、あの番組なんかも、放送開始当初は、法律をベースに複数の弁護士が見解の違いを戦わせるという斬新な企画が面白かったのですが、最近では法律問題などほとんどやらず、単なるトーク番組になっちゃってますよね。
たぶん、どんなネタをやってもデジャブになっちゃうんでしょう。
フジテレビの『ほんまでっかテレビ』なんかも、明石家さんまさんがMCでなければマンネリになっちゃってたかもしれません。
結局は、MCの技量次第ということでしょうか。
でも、いずれの番組も、企画は実に優れていると思いますし、とくに『ほこ×たて』に限っていえば、さんまさんのようなビッグなタレントさんをまったく使わず、まさしく企画の面白さだけで支持されていた番組だったと思うので、この度のようなかたちで打ち切りになるのはたいへん残念なことです。
面白い企画だからこそ、たとえ高い視聴率を得ていたとしても、マンネリ化を避けるために、一定の充電期間を作ってネタを貯めてからまた再開する、といった方法はとれないんでしょうかね。
人気番組だからこそ難しいんでしょうね。

話はかわって、『笑っていいとも』が来春に終わることも今週明らかになりましたね。
私の仕事場にはテレビがありませんので、同番組はほとんど観たことがないのですが、ときどき祝日などに観るともなしに観ていても、とくに気を引く内容や企画があるわけでもなく、タモリさんを中心にタレントさんたちがただ遊んでるだけの他愛もない番組ですよね。
でも、そんなダラダラとした中身のない番組が、マンネリといわれながらもなんと32年も続いてたんですね。
一方で、斬新な企画で中身の濃い番組は、わずか数年でマンネリズムに勝てず打ち切りになる。
お昼の番組と夜のゴールデンタイムの番組の違いがあるにしても、なんか釈然としないものがあります。
これこそ、まさしく“矛盾”ですよね。

ちなみに、『いいとも』打ち切りの発表は、笑福亭鶴瓶さんが生放送中に突然現れて、タモリさんに「いいともが終わるという噂を聞いたけど本当か?」と詰め寄り、それにタモリさんが答えるように同番組の終了を発表していましたが、あれだって、いってみれば“ヤラセ演出”ですよね?
この“ヤラセ”の場合は、とくに誰かに迷惑をかけたえわけでも不愉快にさせたわけでもありませんが、つまるところ、テレビ番組なんて所詮は嘘だらけの世界なんですよね。
そこんとこを、観る側もちゃんとわかっておくべきでしょう。
『ほんまでっかテレビ』の最後にこんなメッセージが流れますよね。

「この番組に登場する情報・見解は あくまでも一説であり、その真偽を確定するものではありません。『ホンマでっか!?』という姿勢でお楽しみ頂けると幸いです」

これ、同番組に限らずで、テレビ番組すべてをこのスタンスで観るべきなんでしょうね。


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by sakanoueno-kumo | 2013-10-25 16:15 | 芸能 | Comments(0)  

八重の桜 第42話「襄と行く会津」 ~岐阜事件と八重と襄の里帰り~

 明治15年(1882年)4月6日、自由党総裁の板垣退助が岐阜の中教院岐阜の中教院で暴漢に襲われます。世にいう「岐阜事件」です。このとき板垣が叫んだといわれる「板垣死すとも自由は死せず」の言葉は、あまりにも有名ですね。ドラマでは、「わしが死んだち、自由は死なんぜよ!」と、土佐弁で叫んでましたが、たしかに、こっちのほうが信憑性があります。ただ、この言葉、本当に板垣が発したかどうかは微妙のようです。一説には、このとき横にいて暴漢を押さえつけた、同じ自由民権家の内藤魯一が叫んだ言葉で、その内藤が、板垣が叫んだことにしたともいわれていますし、その他も諸説あるようです。その真相はわかりませんが、結局は板垣は死なず、自由も死にませんでした。

 同じ年の夏、新島襄八重は、それぞれの故郷である安中会津に里帰りします。といっても、その目的は伝道活動でした。襄は、前年に山本覚馬の娘・みねと結婚した伊勢時雄(横井時雄)徳富蘇峰とともに、中山道を東へ徒歩で旅します。八重は襄とは別行動で、みねを連れて神戸から海路にて横浜へ向かい、安中を目指しました。

 襄たち中山道組の一行は、道中に立ち寄った長野県の「寝覚の床(ねざめのとこ)」で、名物蕎麦の大食い対決をおっ始めます。襄は無類の蕎麦好きだったそうです。のちの襄自身が八重の語ったところによれば、襄が12杯で蘇峰が11杯だったそうで、襄の勝ちだったとか。一方、蘇峰が残した記録によれば、襄が9杯食べたのに対して蘇峰は9杯半食べて、負けた襄が2人分の蕎麦代を払ったとあります。結局のところ勝負の真相は、いまとなっては歴史の闇の中・・・って、どっちが勝とうがどうでもいい話ですけどね(笑)。いずれにせよ、双方自分が勝ったと主張しているところが、なんとも滑稽で可愛くもあるエピソードです。

 そんなこんなで、京都を出発してから1週間後に安中に着いた襄たちは、先に着いていた八重たちと合流します。そこで1周間ほど滞在したあと、いよいよ八重とみねの故郷、会津に向かいます。襄や時雄はもちろん初めて、八重とみねにとっては12年ぶりの会津でした。故郷の景色を目にしたときの感情は、えも言われぬ思いだったに違いありません。ドラマのように、いろんな思いがこみ上げて、過去の出来事が走馬灯のように頭を駆け巡ったことでしょうね。

 「大事なものは皆、ここにあったんです。」

 山本家の角場跡があったかどうかはわかりませんが、未だ会津戦争の爪痕が残る故郷の姿を目の当たりにして、筆舌に尽くしがたい思いだったことでしょう。

 「必ず蘇ります・・・八重さんたちの美しい故郷は。」

 襄の言葉どおり、やがて会津は復興を遂げるのですが、その約140年後に、かつてない天災人災に襲われようとは、ゆめゆめ思わなかったことでしょう。

 みねの母・うらと再会したという記録は残っていません。つまり、本話の設定はドラマオリジナルの創作というわけですが、でも、会わなかったという記録もないわけですから、会ったかもしれません。ていうか、会っててほしいですね。この数年後、みねは短い生涯を終えることになります。


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by sakanoueno-kumo | 2013-10-21 23:22 | 八重の桜 | Comments(0)  

八重の桜 第41話「覚馬の娘」 ~山本覚馬vs槇村正直~

 槇村正直に登用されて京都府政に尽力してきた八重の兄・山本覚馬でしたが、同志社設立をめぐってふたりの関係に亀裂が入り、槇村が京都府知事となった明治10年(1877年)、覚馬は京都府顧問の職を解雇されます。しかし、そこで終わってしまう覚馬ではありませんでした。その2年後に行われた第1回京都府議会選挙において、上京区で51票を獲得して府議会議員に選出されます。西南戦争を最後に武力での反政府運動は終わりを告げ、自由民権運動などの追い風に乗って議会政治が始まろうとしていました。国会が開設されるのはこれより10年ほど先のことですが、府県会などの地方議会は先行して各地で開設されます。京都では95名の府議会議員が選出され、そのひとりが覚馬でした。

 府会議員の被選挙資格は、3年以上京都に住む満25歳以上で、地租10円以上を納める者だけでした。また、選挙権の資格も、満20歳以上の男子で、地租5円以上を納める者だけ。つまり、ごくひと握りの富裕層の男子だけの特権だったんですね。しかし、それでも、市民が市民の中から入れ札によって代表者を選ぶというのは画期的なことで、大きな前進だったといえるでしょう。

 初めて開かれた府会で、覚馬は初代議長に選出されます。選挙で議員は選出されたものの、議会制度自体を知る者は少なく、その運営方法についての知識も、ほとんどの議員が持っていませんでした。そこで、覚馬の知識が求められたのでしょう。たとえ盲目で不自由な身体でも、覚馬をおいて他にいなかったのでしょうね。覚馬も、それがわかっていたから引き受けたのでしょう。議長席の横には付き人を書記として就かせ、議事を進行させたそうです。

 府会には議案の提案権決算の審査権もありませんでした。一方で、知事には議事の停止権など強い権限が与えられていました。議会は立ち上がったものの、あくまでイニシアティブは知事にあったわけですが、ただ、地方税の審議権は府会にあったため、知事の権限を掣肘することは不可能ではありませんでした。ところが、明治13年(1880年)5月、知事の槇村は府会の権限を無視し、12年度の税収の不足を理由に、地方税5万8千円の追徴を府会にはかることなく布達してしまいます。当然ながら、無視された府会は猛反発します。そして府会は知事の横暴な越権を責め、内務卿に伺書を提出します。知事vs府会の対立は、槇村vs覚馬と言いかえてもよかったかもしれません。かつての同志は、完全に対峙する関係になってしまいました。

 この紛争の結末は、槇村が一旦布達を取り下げた格好で、あらためて議会に地方税追徴の議案を提出、結果的に原案どおり可決、執行されます。かたちだけでも府会を通したということですね。事実上、敗北となった覚馬は、この騒動のあと、議長および議員を辞職します。一方の槇村も、一連の横暴な越権行為が世論の反感を買い、その責任をとるかたちで知事を退任します。ここに、長く続いた槇村&山本府政は終わります。

 覚馬の娘・みねが結婚しましたね。お相手の伊勢時雄(横井時雄)は、幕末の知識人・横井小楠の長男で、熊本バンドのひとりです。みね19歳、時雄24歳のときでした。ただ、ふたりの幸せな結婚生活は、そう長くは続かないんですね。そのあたりは今後のドラマに譲ることにしましょう。


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by sakanoueno-kumo | 2013-10-15 23:51 | 八重の桜 | Comments(0)  

八重の桜 第40話「妻のはったり」 ~自責の杖事件~

 明治13年(1880年)春、同志社英学校でひと悶着が起きます。それは、学生たちによる授業ボイコットでした。ことの発端は、当時、学力別に分かれていた2クラスを、学校側が一方的に合併しようとしたことにありました。開校して5年が経とうとしていた同志社英学校でしたが、耶蘇教(キリスト教)を教える学校への風当たりはまだまだ厳しく、入学生の確保もままならない状態でした。そんな状況から、当時の同志社では本来の9月の入学にこだわらず、途中入学も認めていました。学校を経営していく上ではやむを得ない策だったのでしょう。ただ、当然のことながら、正規入学者と途中入学者では学力差が生じます。そのため、学生を上級組下級組に分けて授業を行っていました。

 しかし、ただでさえ学生の数が少ないなかで、クラスを分けて授業を行うのは効率的ではないとの意見が教師会で上がり、合理化を図るためクラスの合併を決定します。これに反発したのは上級組の面々。下級組のレベルに合わせた授業など御免だ!・・・と言わんばかりに、授業をボイコットするという抗議行動に出ます。より高いレベルを求めていた学生らにしてみれば、当然の主張だったかもしれませんね。この抗議行動の中心的存在だったのが、徳富蘇峰、蘆花兄弟でした。

 ボイコット発生時、出張により不在だった校長の新島襄は、戻ってくるなり懸命に学生たちを説得します。はじめは頑なだった学生たちでしたが、襄の熱意に心を動かされてか、間もなくボイコットをやめ、騒動は一応の決着をみます。しかし、これにて一件落着とはいきませんでした。というのも、ボイコットした学生たちを処罰せよとの意見が、同じ学生のなかからあがったのです。その主張の是非はともかく、学生が授業を無断欠席するというのは、同志社の校則違反でした。規則を破った学生を処罰するのは、当然のことです。

 襄は悩みます。該当の学生たちに罰を与えれば、ただでさえ不満を募らせている彼らのことだから、退学しないとも限らない。しかし、これを大目にみれば、校内の秩序が保てない。悩みに悩んだ末に襄は、4月13日の朝、礼拝で壇上に立ちます。そこで彼は、集まった学生たちを前にしてこう言ったそうです。
 「罪は教師にも生徒諸君にもない。全責任は校長の私にあります。したがって校長である私は、その罪人を罰します。」
 そう話し終わると襄は、右手に持っていたを振り上げ、自身の左手を叩き始めたそうです。何度も何度も激しく叩き続けたため、襄の左手は赤く腫れあがり(おそらく骨折してたでしょうね)、杖が折れてもなお叩き続ける襄の姿に、学生たちは心を動かされ、涙ながらに襄の自責を制止したそうです。有名な「自責の杖」事件ですね。

 多少の脚色はあるかもしれませんが、襄の自責に感銘した学生が折れた杖を宝物のように保管していたという話からも、だいたいは実話なんでしょうね。少々芝居がかった感がなきにしもあらずな襄の行動ですが、それでも、腫れ上がってもなお叩き続けるなど、常人にできることではありません。新島襄という人は、実はたいへん激情家だったのかもしれませんね。教え子たちの罪は、師である自分の罪・・・口で言うのは簡単ですが、なかなか実行できることではありません。自分のミスは部下の責任、自身の犯した罪は秘書がやったこと、などなど、現代の指導者たちとは正反対です。「指導」という名目で、教え子が自殺するまで理不尽な体罰を与えていたどこかの体育会系の教師とも、えら違いですね。この1世紀ほどで、指導者の質はすっかり低下してしまったようです。襄を真似ろとは言いませんが、かつてはこんな指導者がいたということを、とくに今の「先生」と呼ばれる職業の人は、知っておいてほしいものです。


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by sakanoueno-kumo | 2013-10-08 22:21 | 八重の桜 | Comments(0)  

八重の桜 第39話「私たちの子ども」 ~同志社女学校開校と徳富初子~

 明治8年(1875年)に開校した同志社英学校男子校でした。しかし、欧米の教育を受けてきた新島襄は、女子の教育機関も設立すべきと考えていました。そこで彼は、アメリカの伝道会社に女性宣教師の派遣を要請し、アリス・ジェネット・スタークウェザーという女性が来日します。彼女は、八重が洗礼を受けた宣教師・ジェローム・ディーン・デイヴィスの邸に寄留し、明治9年(1876年)10月、八重とともに4~5人の女子学生を集め、英語教育を始めました。そのなかに、山本覚馬の娘・みねもいました。

 当初は同志社分校女紅場と称したそうですが、「女紅場」とは、あくまでも殖産のための学問所で、襄の目指す学校は男子と同じ知識教育でした。翌、明治10年(1877年)4月に京都府から「女紅場」ではなく「女学校」として認可され、同年9月に、正式に同志社女学校が開校します。現在の同志社女子大学の前身ですね。

 校長は男子校と兼任で襄が務めました。また、八重も小笠原流の礼法を教える教員として勤務します。校舎は常盤井殿町にあった二条関白御殿に置かれました。建物は2階建てで、2階が寄宿舎となっており、八重の母・佐久が舎監を務めたそうです。襄校長の妻が教員で義母が宿舎の舎監、義兄は学校設立の後見人で姪が学生という、新島一家総出で学校を運営していたんですね。これぞ、まさしく私立学校です。

 ドラマで、アリス先生に対してすごい剣幕で反抗していたのは、徳富蘇峰の姉・徳富初子ですね。彼女は熊本バンドの面々と一緒に熊本洋学校で学んできており、弟に勝るとも劣らない優秀な学生だったようですが、男のなかに混じって学んできただけあってか、気の強さもハンパじゃなかったようで、ドラマのとおりのアマゾネスだったようです。そんな初子の逸話を少しだけ。

 あるとき、初子に縁談話が持ち上がります。話を持ってきたのは蘇峰だったとか。この話を受けた初子は、見合いの席を待つことなくひとりで相手の男のところへ出向き、初対面の相手に面と向かって「あなたは一夫一婦についてどう考えますか」と質問したそうです。相手は驚いたでしょうね。時代はまだ、一夫一婦制が定着していなかった時代、妾の数も男の甲斐性でした。いきなりの質問を受けた男は、「いずれは女の一人や二人は持ちたいものだ」と答えたところ、初子は怒って家に帰ってしまいます。そして、せんべいを食べながら「失礼千万な男だ!」と貶したとか。八重といい、この初子といい、明治の女性が皆、慎ましやかだったわけではないんですね。いうまでもなく、この縁談話は不調に終わりました。ちなみにこのときの相手の男は、のちの内閣総理大臣・犬養毅だったそうです。逃した魚は大きかったですね(笑)。

 本話は特筆すべきことがなかったので、ちょっと、よもやま話でした。


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by sakanoueno-kumo | 2013-10-01 23:07 | 八重の桜 | Comments(0)