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八重の桜 総評

 遅ればせながら、2013年NHK大河ドラマ『八重の桜』の総括です。最終回が終わって2週間が経ちましたが、なかなかまとめの稿をアップできなかったのは、年の瀬で多忙だったこともあるのですが、イマイチ起稿意欲がわかなかった・・・というのも正直なところです。その理由は、これといった感想が思い浮かばない、特筆すべき点が見当たらない、というのが率直な感想なんですね。じゃあ今年の大河は駄作だったのか・・・というと決してそうではなく、わたしの中ではけっこう良い評価です。だけど、終わってみればとくに何も印象に残っていない・・・。矛盾したことを言っていますが、わたしにとって『八重の桜』は、そんな作品となりました。

 演出は実に丁寧できめ細やかでしたね。映像も綺麗でしたし、史実時代考証も、近年の他の作品と比べれば丁寧に描けていたと思います。脚本もしっかりしていましたし、でも決して作者の主観を押しつけるようなクドさもなく、丁寧なストーリーだったと思います。そう、このドラマを一言でいえば、とても「丁寧」に作られたドラマだったと思うんですね。ただ、丁寧=面白い作品となるかといえば、必ずしもそうではないということでしょう。ドラマがエンターテイメントである以上、観る人を引きつける「魅力」がなければ「名作」とはなりません。その魅力が、本作には足りなかったような気がします。

 魅力に欠けたのは、新島八重というマイナーな人物を主役にしたからだ・・・と言う人もいるでしょう。たしかに、わたしもこの作品の制作発表時に、はじめて新島八重という人物を知ったひとりです。でも、無名だから魅力がないという見方は短絡的だと思うんですね。たとえば、2008年の『篤姫』なども、決してメジャーな人物ではありませんでしたが、あれほど多くの支持を受けました。逆に、誰もが知ってる『平清盛』が、視聴率的には超低空飛行でしたよね(わたし個人的には評価は高いですが)。要は有名か無名かではなく、どれだけ主人公の魅力を引き出せるか・・・だと思うんですね。

 このドラマで、会津藩士たちの無念さはよくわかりましたし、定番の薩長史観の幕末史とは違う、会津視点の幕末史を楽しめました。詳しく知らなかった山本覚馬の維新後の活躍も知ることが出来ましたし、新島襄という人物のことも、同志社の成り立ちも深く知ることができました。でも、どれもこれも丁寧に描きすぎたがゆえに、八重の存在感がイマイチなかったですよね。別に八重がいなくても物語は成立していたのでは?・・・と言ったら言い過ぎかもしれませんが、物語は丁寧な会津史であり同志社史ではありましたが、新島八重史ではなかったというか・・・。だから、八重に感情移入したり共感したりすることが難しかった・・・というのが正直なところです。

 魅力に欠けていた・・・というのは、そういうところだと思うんですね。たとえば、先述した『篤姫』などは、あのドラマをきっかけに篤姫を好きになった人や、篤姫という女性に興味をもったひとが大勢いたと思いますし、もっとわかりやすく言えば、司馬遼太郎氏の小説『竜馬がゆく』を読んで、坂本龍馬ファンになった人は世の中に山ほどいるでしょう。もちろん、素材そのものの持つ魅力もあるでしょうが、作家さんの力も大きいと思います。このたびのドラマで新島八重ファンになった人がどれだけいたでしょうね。そのあたりが、丁寧に作られた作品なのに、イマイチ支持が得られなかった大きな理由ではないでしょうか。

 ちょっと辛口のまとめとなりましたが、俳優さんたちは皆、素晴らしかったですね。とくに主演の綾瀬はるかさんは、あらためてスゴイ女優さんだと思いました。綾瀬さんといえば、同じ幕末を舞台としたドラマ『JIN -仁-』が思い出されますが、あのときのという女性の役と、今回の八重役とでは、表情発声姿勢もまったく違ったもので、同じ女優さんが演じているとは思えないほど別人になりきっていましたね。素人が知ったようなことを言って恐縮ですが、何を演じても同じ人物に見える俳優さんもたくさんいます。その点、綾瀬さんは素晴らしかった。もはや大女優といっていいかもしれません。普段は超天然だそうですが(笑)。

 それと、新島襄役のオダギリジョーさんもさすがでしたね。容姿も去ることながら、実際の新島襄という人物も、きっとこんな人だっただろうと思わされました。あと、山本覚馬役の西島秀俊さんは、ちょっとカッコ良すぎた気がしないでもないですが、今回のドラマでもっとも興味を持ったのは、山本覚馬という人物でした。もっと覚馬という人物のことを知りたい・・・と。その意味では、いちばん魅力的に描かれていたのは山本覚馬かもしれません。あと、忘れてはならないのが、小泉孝太郎さん演じるところの徳川慶喜。わたしの知る限り、これまでの慶喜のなかでもっとも慶喜っぽい慶喜でした(笑)。

 さて、来年は黒田官兵衛孝高が主人公ですね。そして、先ごろ発表された再来年の大河は、吉田松陰の妹が主人公だとか。来年の官兵衛は、戦国ファンなら誰もが知っている人物でしょうが、再来年の吉田松陰の妹なんて、大河ドラマ史上もっとも無名な人物かもしれません。ただ、先般申し上げたように、大切なのは有名無名ではありません。その人物の魅力をどれだけ引き出せるか・・・ですね。もちろん、だからといって虚像で固めた人物であってはいけないでしょうし、たぶんそれでは魅力的な人物にはならないでしょう。素材の持つ魅力をどれだけ描けるか・・・これって、決して簡単なことではないんでしょうけどね。でも、視聴者はそれを待っています。作り手の腕の見せどころですね。

 いささか辛口なことばかり述べてきましたが、冒頭で申し上げたとおり、わたしにとって本作は、けっして評価の低いものではありません。名作とはいえませんが、良作ではあったと思います。ただ、少し塩コショウが足りなくて、薄味な物足りなさがあった・・・というのが率直な感想です。昨年、今年と低視聴率が続いていますが、わたし個人的には、一昨年までの作品から一変した大河ドラマの方向性としての趣旨は間違っていないと思います。あとは塩コショウの加減だけかと・・・。ともあれ、1年間楽しませてもらえました。このあたりで、『八重の桜』のレビューを終えたいと思います。

●1年間の主要参考書籍
『新島八重の維新』 安藤優一郎
『新島八重 愛と闘いの生涯』 吉海直人
『会津落城』 星亮一
『幕末史』 半藤一利
『日本の歴史19~開国と攘夷』 小西四郎
『日本の歴史20~明治維新』 井上清
『明治という国家』 司馬遼太郎
『幕末維新のこと』 司馬遼太郎
『明治維新のこと』 司馬遼太郎



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by sakanoueno-kumo | 2013-12-28 22:04 | 八重の桜 | Comments(4)  

阿波国徳島のクリスマスイブなう!!

スマホからの投稿です。

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ただいま、出張で徳島市に来ています。
写真は徳島駅ではなく、徳島城址の徳島中央公園内にある駅看板です。
詳しくはまたの機会に。


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by sakanoueno-kumo | 2013-12-24 12:41 | 徳島の史跡・観光 | Comments(0)  

八重の桜 第50話(最終回)「いつの日も花は咲く」

 新島襄の死から3ヵ月後の明治23年(1890年)4月、八重日本赤十字社に入社し、看護婦の資格を得ます。このとき八重は45歳。この時代、夫に先立たれた45歳といえば、そろそろ老後の準備にとりかかろうといった年齢だと思うのですが、八重にとってはまだまだ余生ではなかったのですね。なぜ八重が看護婦の道を選んだのかはわかりませんが(ドラマでは兄の山本覚馬に勧められてでしたが)、あるいは襄の生前から胸に秘めていたのかもしれません。

 赤十字とは、いうまでもなく戦時における傷病者や捕虜の保護を目的とする国際協力組織のことですが、この赤十字の思想を日本に伝えたのは、佐賀藩出身の佐野常民という人物でした。佐野は明治10年(1877年)の西南戦争の際、赤十字をモデルにした博愛社という組織を立ち上げます。そして10年後の明治20年(1887年)5月に、博愛社は日本赤十字社と名を改め、総裁には有栖川宮熾仁親王、社長には佐野が就任します。八重が入社するのはその3年後のことですね。このヨーロッパで始まった赤十字の活動を、新島襄が知らなかったとは考えづらく、むしろ、同志社に医学部を設置するべく病院や看護学校を立ち上げていた襄としては、赤十字の活動は大いに興味があったに違いありません。あるいは、八重に赤十字の考え方や戦地での看護婦の働きを教えたのは、襄だったかもしれませんね。襄の死後たった3ヵ月で従軍看護婦の道を目指したのは、生前の襄が後押しした背景があったのかもしれません。

八重を従軍看護婦の道に突き動かした理由をもうひとつあげれば、やはり会津戦争における鶴ヶ城籠城戦の体験でしょう。八重の籠城戦といえば、スペンサー銃を肩に男性に混ざって戦ったところばかりがクローズアップされますが、野戦病院と化した鶴ヶ城内で看護の任にあたったのは藩士の婦女子たちで、当然ながら八重もそのひとりでした。凄まじい戦場の実態を知っている八重としては、戦場における看護の重要性を充分理解していたことでしょう。そんな実体験も、八重の背中を押した大きな理由のひとつだったに違いありません。

 そうして従軍看護婦の資格を得た八重は、日清戦争時には広島陸軍予備病院で、日露戦争時には大阪予備病院で、傷病者の看護にあたると同時に、看護婦を監督する立場でもありました。その功績に対して、明治29年(1896年)に勲七等宝冠章、明治39年(1906年)には勲六等宝冠章が授与されます。ドラマでも言っていましたが、皇族の女性を除く民間の女性としては、初めての受賞だったそうです。これは八重自身にとっても、そして当時の女性たちにとっても、さらには逆賊の汚名を着せられた旧会津藩士たちにとっても、大きな栄誉だったことでしょう。

 しかし、八重は日清、日露戦争そのものは肯定していましたが、その悲惨さを伝えることも忘れませんでした。戦場で手足を失った兵士や、精神に異常をきした兵士の姿を見るにつけ、国家のためとは言いながら気の毒でならない・・・。名誉の負傷と慰めるものの、病室を出れば涙が止まらなかった・・・と、後年語っていたそうです。きっと、鶴ヶ城内で見た凄惨な光景と重ねあわせていたに違いありません。

 少し余談になりますが、ここ数話のドラマ中、八重が戦争に否定的な発言をするようになりましたが、それについて、後世の反戦史観だ!・・・といった批判の書き込みをいくつか目にしました。そうでしょうか? たしかに、この時代の世論は日清、日露戦争に肯定的で、日本中が戦争に熱狂していた時代であることは事実です。しかし、国民すべてでは決してありません。各地で反戦運動が行われていたのもひとつの側面としてありますし、それらに対する政府の弾圧も、昭和の戦争時に比べれば甘いものでした。作家の与謝野晶子は、日露戦争を批判した「君死に給うことなかれ」という歌を、堂々と発表していますしね(その与謝野晶子も、太平洋戦争時には戦争を賛美する歌を作っています)。決して挙国一致だったわけではありません。

 ただ、大きな歴史の捉え方として国全体が戦争を支持していた時代だったのは事実で、新聞がそれを煽っていたのも事実です。そのあたりは、徳富蘇峰の言動でちゃんと描かれていたのではないでしょうか? でも、実体験として戦争の凄惨さを目の当たりにした人たちは、必ずしも全面的に賛成だったわけではなかったんじゃないかと思うんですね。それが普通ではないでしょうか。その思いに、現代価値観もクソもありません。ましてや、維新後キリスト教徒となった八重が、反戦論者に転じていたとしても何ら不自然ではないですよね。近年の大河ドラマにあった安っぽい反戦思想の刷り込みとは違って、無理のない描き方だと思いました。あれを観て反戦だの現代価値観だのと批判する人のほうが、むしろ寒いものを感じます。戦争に肯定的な意見を持つ人たちは、実体験として戦争の恐ろしさを知らない者たち、つまり、ドラマでいうところの徳富蘇峰たちであり、現代に生きる戦後生まれの私たちです。そんな人たちばかりになったとき、国は進む方向を間違えるんですね。

 ドラマにもどって、八重の最後の一発について、どのように解釈すればいいのか私なりに考えてみましたが、明快な答えを得られていません。おそらく、目の前の敵ではなく、もっと大きな敵を意味しているのでしょうね。それは、争いが消えない世の中かもしれませんし、争いを作り出す人間の心かもしれません。解釈は観る人によって様々だと思いますが、ひとつだけいえるのは、目の前の敵を撃って人をひとり殺しても、世の中は何も変わらないということでしょう。

 「花は、散らす風を恨まねえ」

 老いた西郷頼母の言った台詞ですが、この台詞に尽きるのではないでしょうか。幕末、歴史の綾で逆賊となってしまった会津藩でしたが、歴史の大局の中では、産みの苦しみの代償でしかありません。薩長が悪かったわけでも、幕府に罪があったわけでもなく、ひとつの時代が終わり、新しい国が生まれるための陣痛の役割を、会津藩が負うはめになった・・・。ひとつボタンを掛け違えれば、その役目は薩長だったかもしれません。たまたま、会津はになってしまい、それを散らすになったのが、薩長だったんですね。

 「花は散っても、時が来っと、また花を咲かせる」

 昭和に入って松平容保の孫娘と昭和天皇の弟である秩父宮雍仁親王との婚儀が成立し、会津藩はもはや朝敵ではないことを世に知らしめ、名誉を回復しました。まさしく、花は散っても、時が来るとまた花を咲かせます。東日本大震災を受け、被災地の復興を支援するとして制作されたこのドラマでしたが、新島八重という女性の人生を通して伝えたかったのは、この言葉だったのでしょうね。きっとまた、花を咲かせる・・・と。


 1年間、拙い文章にお付き合いいただきありがとうございました。今年は最後までレビューを続ける自信はなかったのですが、なんとか完走出来ました。年内には総括を起稿したいと思っています。


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by sakanoueno-kumo | 2013-12-17 22:41 | 八重の桜 | Comments(4)  

倍返しの「お・も・て・な・し」は、いつやるの? 今でしょ! じぇじぇじぇ~!

ちょっと旬ネタを過ぎた感はありますが、先ごろ、今年の流行語大賞が発表されましたね。
結果は、かねてより大賞候補といわれていた、
『今でしょ!』
『お・も・て・な・し』
『じぇじぇじぇ』
『倍返し』

の4語が大賞に選ばれました。
この“みんな一等賞”の結果について、巷ではドッチラケ的な不満の声が多くあがっていたようですが、過去にも複数の大賞受賞はあったそうですから(4語というのは初めてだそうですが)、私はこれでいいと思いますけどね。
それだけ甲乙つけがたい豊作の年だったということでしょう。
流行語大賞は、文学賞や音楽賞のように「優秀な作品」に対する賞ではありませんから、これに選ばれたからといって優秀と評価されたわけでもなく、何年かのちに振り返って懐かしむ・・・ただそれだけのものですから。
たくさん流行語があればたくさん選出していいんじゃないでしょうか。

それにしても、今年の4語はどれも、久々に流行語らしい流行語だったんじゃないでしょうか。
わたしがこういったものにあまり敏感でないからかもしれませんが、ここ近年の大賞受賞のことばを聞くと、これってほんとに流行したの?と思うものや、これを流行語というのかどうか・・・といったものが多く見られたように思います。
昨年の『ワイルドだろぉ』はまだいいにしても、一昨年の『なでしこジャパン』なんて流行語のカテゴリに入る言葉ではないと思いますし、その前の年の『ゲゲゲの』なんて、ドラマはヒットしましたが言葉は流行してませんよね。
さらにその前の年なんて、『政権交代』が大賞ですからね。
よく耳にした言葉と流行語とは意味が違うと思います。
流行語とは、ただ耳にしただけではなく、大衆が多く「口にした」言葉だと思うんですね。
上述したここ数年の大賞はすべて、よく耳にしただけですよね。
その論でいえば、平成20年(2008年)の『アラフォー』なんかは流行語といえるのかもしれませんが、はずかしながら当時わたしは、この言葉が大賞候補にノミネートされて初めて知ったという・・・(苦笑)。
でも、そういうオジサンは結構いたと思いますよ。
近頃の女子高生語なんかを見てもそうですが、世代限定業界限定地域限定などの流行語はたくさんあるものの、広く大衆に親しまれた流行語というのは、近年はなかなか生まれにくくなっているように思います。

その意味では、今年の4語はまぎれもなく流行語だったと思います。
だって、このわたしが全部知ってますからね(笑)。
その出処を見ても、TVドラマから2つ、TVCMからひとつという、これまたいかにも大衆的な流行語の生まれ方だと思います。
ドラマの台詞が流行語大賞に選ばれたのは、平成6年(1994年)の『同情するなら金をくれ』以来、19年ぶりだそうですね。
CMからの選出も久々なんじゃないでしょうか。
わたしが子供の頃など、CMは流行語の宝庫だったものですが・・・。
『う~ん、マンダム』
『ちかれたびー』
『クリープを入れないコーヒーなんて』
『ファイト~!いっぱ~つ!』

例をあげればキリがないですね。
近年のCMは、連続ドラマのようにストーリーがあったり、アイキャッチ的な映像で魅せたりが主流となって、流行語を生むようなキャッチコピーはあまり使われないのかもしれませんね。

流行語はその時代背景や世相を反映しているともいわれます。
たしかに、過去を振り返ってみれば、政治的、経済的に時代を見て取れるものも多くあります。
でも、それらの言葉って、なんか無理に流行語を作った観がありありなんですよね(すべてとは言いませんが)。
本当の流行語っていうのは、もっと自然発生的な、軽薄なものなんじゃないかと・・・。
『じぇじぇじぇ』に世相なんて見えないですからね(笑)。
いろんな意味で、今年の大賞4語は、本当の流行語だったんじゃないでしょうか?

なにはともあれ、今年ももうあとわずかです。
倍返しの「お・も・て・な・し」は、いつやるの? 今でしょ! じぇじぇじぇ~!
お後がよろしいようで・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2013-12-12 20:22 | 時事問題 | Comments(0)  

八重の桜 49話「再び戦を学ばず」 ~山本覚馬と松平容保の最期~

 新島襄の死後、山本覚馬が同志社臨時総長を務めますが、その覚馬も、明治25年(1892年)12月28日にこの世を去ります。享年64歳。思い起こせば文久2年(1862年)、京都守護職に就任した会津藩主・松平容保に従って京に上ってから30年、波乱に満ちた・・・とか、苛烈極まりない・・・などというありきたりな形容では言い表せない、まさに、筆舌に尽くしがたい人生だったといえるでしょう。

 賊軍として捕らえられ、盲目足が不自由という二重の障害を抱えながらも、明治新政府にその才を買われ、京都府顧問、京都府議会議員、同初代議長、京都商工会議所会頭と要職を歴任。人材が少ない時代だったとはいえ、覚馬がいかに有能な人物だったかがわかりますね。とくに、慶応4年(1868年)の幽閉中に獄中から覚馬が新政府に宛てて出した新国家構想ともいうべき『管見』は、「三権分立」の政体にはじまり「二院制」「女子の教育機会」などなど、実に先見性に富んだもので、西郷隆盛岩倉具視など新政府の要人たちをうならせたといいます。同時代のものとしては、坂本龍馬の『船中八策』『新政府綱領八策』が有名ですが、この山本覚馬の『管見』も、もっと注目されてもいいように思います。

「諸君たちは学業を終えそれぞれの仕事に就かれる。どうか弱い者を守る盾となって下さい。かつて私は会津藩士として戦い、京の町を焼き、故郷の会津を失いました。その償いの道は半ばです。今世界が力を競い合い、日本は戦に向けて動き出した。どうか聖書の一節を心に深く刻んで下さい。」
『その剣を打ち変えて鋤となし、その槍を打ち変えて鎌となし、国は国に向かいて剣を上げず、二度と再び戦うことを学ばない』
「諸君は一国の、いや、世界の良心であって下さい。いかなる力にもその知恵であらがい、道を切り拓いて下さい。それが身をもって戦を知る私の願いです」


 ドラマで描かれていた同志社卒業式での覚馬の訓示ですが、実際に記録が残されている覚馬の言葉は、
「弱を助け強を挫き、貧を救ひ富を抑ゆるものは誰れぞ、諸子乞う吾が言を常に心に服膺して忘るゝ勿れ」
 となります。大意は同じようなものですが、聖書の一節を引用したのはドラマの創作でしょうね。でも、舞台は同志社の卒業式、決して的外れではなく、良い演出だったんじゃないでしょうか。

 『二度と再び戦うことを学ばない』

 敗軍となった会津藩を中心に描いたこの物語で、この言葉がもっとも伝えたいテーマだったのでしょうね。会津戦争までの前半の物語と、明治以降の同志社の物語は、まるでまったく違うドラマのような演出でしたが、いまここで二つの物語が結びつきました。

 覚馬が永眠した約1年後の明治26年(1893年)12月5日、松平容保もこの世を去ります。享年59歳。容保は会津藩改め斗南藩が廃藩置県で消滅したあと東京に移住し、その後、徳川家康を祀る日光東照宮宮司などを歴任しますが、決して表に出ることはありませんでした。既に謹慎処分は解かれていたものの、一度は朝敵とされたことを重く受け止め、自主的に謹慎状態を続けていたそうです。自身の言動が、政治的にどう利用されるかわからないことを知っていたのでしょうね。ただ、やはり朝敵の汚名を着せられたことは無念の極みだったのでしょう。八月十八日の政変後に孝明天皇から下賜された『宸翰』を、小さな竹筒に入れて首にかけ、死ぬまで手放さなかったといいます。のちにこの『宸翰』は、山川浩山川健次郎兄弟が編纂した『京都守護職始末』で公表されますが、それは容保の死から18年が過ぎた明治44年(1911年)のことでした。戦犯者扱いとなった者の汚名返上は容易ではないのは、いつの時代も同じようです。

 ひとつの時代が終わり、次回、最終回。



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by sakanoueno-kumo | 2013-12-10 11:11 | 八重の桜 | Comments(0)  

八重の桜 第48話「グッバイ、また会わん」 ~新島襄の最期~

 明治22年(1889年)10月12日、同志社大学設立のために奔走していた新島襄は、その募金活動のため東京に向かいます。前回の上京時には妻の八重も同行しましたが、このときは折り悪く、襄の実母・とみが病に臥せており、その看病のため、やむなく八重は京都に残ります。襄が余命いくばくもないことを医師から告げられてから1年が過ぎていましたが、その襄を単身上京させるのは、八重は心配でたまらなかったでしょうね。そしてその心配は、現実のものとなります。

 京都を発って1ヶ月半ほど経った11月末、募金活動のため訪れていた群馬県前橋にて、襄はとつぜん腹痛を訴えます。医師の診断は胃腸カタル。襄はいったん東京にもどって療養しますが、病状はいっこういに回復の兆しが見えず、事態を重く観た徳富蘇峰が温暖の地への転地療養を勧め、12月末、神奈川県大磯の百足屋(むかでや)旅館のはなれに移ります。ここが、襄の終焉の地となります。

 年が明けた明治23年(1890年)1月11日、再び激しい腹痛が襄を襲います。それでも襄は、モルヒネ注射を打ちながら各方面に手紙を書き続けていたそうですが、17日付の手紙が絶筆となります。18日朝に容態が急変。医師の診断は急性腹膜炎でした。翌19日には、八重のもとに病状急変の電報が届きます。知らせを受けた八重はすぐさま大磯へ向かい、20日夜遅く百足屋旅館に到着します。八重に電報が打たれたことを知っていた襄は、三ヶ月ぶりに再会した八重の顔を見てこう言ったといいます。
「今日ほど1日が長かったことはない」と。
この言葉を、八重は終生忘れませんでした。

 八重が到着して間もなく、自らの死を悟った襄は、八重と小崎弘道(襄の死後、同志社の二代目総長となる人物)の立会のもと、遺言を告げ始めます。筆記したのは徳富蘇峰でした。その内容は、同志社における教育の目的が主で、実に30枚にも及ぶものだったそうです。この他にも、伊藤博文勝海舟大隈重信など個人にあてた遺書が残されているそうですから、襄の筆まめぶりは死ぬ間際まで続いていたようですね。

 そうして伝えるべきことをすべて伝えたあと、1月23日午後2時20分、襄は46年と11ヶ月の生涯を終えます。八重への最後の言葉としては、本話のタイトルとなっている「グッバイ、また会わん」という言葉が伝えられています。また、「わたしの死後、記念碑は建てないでほしい。1本の木の柱に“新島襄の墓”と書けば充分だ」とも告げたとか。46歳11ヶ月といえば、いまの私とまったく同じ歳。決して長いとは言えない生涯ですね。最後の瞬間を八重の左手を枕に迎えられたことが、せめてもの慰みだったでしょうか。

 臨終の場に立ち会った蘇峰は、八重の手をとって、こう告げたそうです。
 「私は同志社以来、貴女に対しては寔(まこと)に済まなかった。併(しか)し新島先生が既に逝かれたからには、今後貴女を先生の形見として取り扱ひますから、貴女もその心持を以て、私に交(つきあ)つて下さい。」
 かつて八重のことを“鵺”と揶揄し、師の妻としての八重の言動を好ましく思っていなかった蘇峰でしたが、今後は八重を先生同様に思うから、何事も自分を頼ってくれとの言葉。蘇峰はその言葉を終生守り続けます。その後八重は、襄の墓碑に揮毫してくれるよう勝海舟に依頼しますが、その仲立ちとなったのは蘇峰であり、また後年、八重自身の墓碑銘は、蘇峰の筆によるものでした。襄が八重のために残したいちばんの財産は、八重の後半生の最も良き理解者となった蘇峰だったかもしれませんね。


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by sakanoueno-kumo | 2013-12-02 15:57 | 八重の桜 | Comments(0)