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STAP細胞問題にみる、技術と利権の相容れない関係。

今年1月、万能細胞となるSTAP細胞(刺激惹起性多能性獲得細胞)という世紀の大発見をして、一躍時の人となっていた神戸理化学研究所のユニットリーダー・小保方晴子さんでしたが、その後、論文の内容に問題点が次々と浮かび上がり、国内外で波紋を呼んでいますね。
なんでも、画像や文章に他の研究論文からの流用が見られるとのことで・・・。
そもそも細胞生物学など、わたしの少ない脳みそではほとんど理解不能で、普通ならまったく興味もわかないところですが、発見者である博士が若くてキュートな女性だったということで、ワイドショー感覚で注目していたわけでして・・・。
若くて可愛い女の子の頑張ってる姿を見ると、大概のオジサンは応援したくなりますよね。
ところが、発表から1ヵ月も経たずして、論文に不適切な点があるとの指摘。
最初は、何かの間違いか、あるいは若い研究者であるがゆえの単純なミステイクだろうと思いましたし、そうあってほしいと願いましたが、その後の報道を見ていると、どうも、ことはそんな甘いものではないようですね。

論文の問題点が意図的な不正なのかミステイクなのかはわかりませんが、いずれにせよ、このたびの問題は、日本の科学者すべての信用の失墜にもつながりかねないわけで、このたびの研究発表にたずさわった人、とくにその中心的存在である小保方さんが責められるのは仕方がないとは思いますが、ただ、どうしても合点がいかないのは、もし、これが意図的な偽装だったとすれば、なんでこんなすぐにバレるようなことをしちゃったのか?・・・ということです。
STAP細胞の説明を何度聞いても理解できないわたしの頭でも、画像や文章を流用したらすぐにバレることこぐらいはわかります。
彼女のような優秀な頭脳を持つ人が、そんなことをわからないはずはなかったでしょう。
ところが、実際にすぐにバレることが行われていたわけで・・・。
どうしても、そうせざるを得ない理由があったとしか思えないんですよね。

そんな疑問点について、NEWSポストセブンに興味深い記事がありました。
それによれば、小保方さんは学術論文の発表以前に、ビジネスの世界で役立てるための国際特許の申請をするため、論文を急かされ焦っていたのではないか・・・と指摘しています。
再生医療に応用できる細胞生物学の分野は、いま最も金になる科学分野といわれているそうで、のちのち実用化したときのライセンスをにらみ、学術論文の発表より先に国際特許を申請するのは当たり前のことだそうですね。
実際にiPS細胞の開発でノーベル生理学・医学賞を受賞した山中伸弥教授も、学術論文の発表より先に特許を申請しているそうです。
研究を突き詰めたい学者と、利権獲得をねらうビジネス界との関係は、たぶん相容れないものだと思います。
一般の会社でも、商品の質にこだわりたい技術者と、利益を追求しなければならない営業との間に、同じような相容れない関係が見られますよね。
お互い自身の仕事に譲れないポリシーがあり、あとはパワーバランスの問題で、どちらかが若くて一方がベテランだったりしたら、大概は若い方が負けるものです。
若い小保方さんを取り巻く環境にも、そんなしがらみがあったんじゃないかと・・・。
彼女の肩を持つわけではありませんが、そう考えれば、なぜこんな稚拙な行いをしたのかという疑問が、多少は見えてくるような気がします。

いずれにせよ、このたびの小保方さんの研究発表が、残念ながら学術論文として成立しないものであるという結論は避けられないようです。
この上は、せめてSTAP細胞の存在を証明できる再現実験が、成功してくれることを祈りたいですね。


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by sakanoueno-kumo | 2014-03-27 23:02 | 時事問題 | Comments(2)  

軍師官兵衛 第12話「人質松寿丸」 ~官兵衛、苦渋の決断~

 天正5年(1577年)9月、織田信長は播磨国に羽柴秀吉軍を派兵するにあたって、黒田官兵衛宛に書状を送ります。その内容は、備前国に進発していまだ去就を決めかねている国衆を味方に引き込むこと。そして、織田氏傘下に入ると表明した各領主たちから、人質を差し出させるよう命じたものでした。同盟関係を結ぶ際に人質交換を行うのは当時の武家のならい。とくに厳しい要求というわけではありません。人質であるからには、もし、裏切れば人質の命は保証しないという意味ですが、同盟関係さえうまくいっていれば、人質といっても粗略な扱いを受けることはなく、むしろ、客人のように手厚く保護されます。この場合、織田氏と運命を共にする覚悟さえ出来ていれば、さほど大きな問題ではないわけです。

 ところが、官兵衛の主君・小寺政職は、嫡男の氏職を人質として差し出すことに難色を示します。政職には他にも子どもはいたようですが、そのほとんどが夭折し、このときは氏職だけでした。たったひとりの継嗣を人質に出したくない親心はわからなくもないですが、理由はそんなセンチメンタルなものではなかったようです。その理由は、ドラマのように氏職は生来病弱で、人質としての役目を果たすのは不可能だった・・・というものや、また別の説では、氏職は愚鈍で評判が高く(軽い知的障害があったとも)、もし彼を人質として差し出せば、かえって小寺家に対する心証を悪くするおそれがあると考えたため・・・とも言われます。他にも、政職はすでにこの頃から毛利氏への寝返りを考えていたため・・・という見方もあるようですね。いずれにせよ、このままでは信長に二心ありと疑われかねません。困った末に官兵衛が出した結論は、我が子、松寿丸(のちの黒田長政)を代わりに人質として差し出すというものでした。

 松寿丸はこのとき10歳。氏職と同じく、黒田家にとって松寿丸は一粒種でした。そんな愛息子を人質に出すのは苦渋の決断だったに違いありません。しかも、官兵衛は小寺家の家老に過ぎませんから、織田家との同盟関係を今後も良好に保っていくか否かも、最終的には主君である政職しだいということになります。

光 「謀反を起こせば松永殿のように人質になった子は殺されてしまいます。」
官兵衛 「わしは謀反など起こさぬ。」
光 「違います! 私が案じているのは御着の殿です。あのお方がもし信長様を裏切れば、松寿は殺されてしまいます。」

 まさしく、の台詞どおりですね。政職にしてみれば、自身の腹を痛めていない以上、織田家と毛利家の間で半身の体勢をとれるわけです。裏切ったって、殺されるのは家老の息子ですからね。そんななかで官兵衛が松寿丸を人質に出す決断をしたのは、政職をそれだけ信頼していたのか、あるいは、政職を抑える自信があったのか、いずれにせよ、万策尽きたうえの、やむを得ない選択だったのでしょう。

 ただ、信長がよくそれで許してくれましたよね。
 「お主のせがれを預かって織田に何の得がある?小寺は織田に忠節を誓うつもりはないのだな?それゆえ家老の子を人質に出すのであろう。」
 と言ったのは、信長の嫡男・信忠の台詞ですが、まさしく、そう思われても仕方がないでしょう。あるいは、信長は端から小寺家など眼中になく、官兵衛さえ取り込めればよかったのでしょうか? ただ、結果的には、黒田家はこのおかげで織田家、羽柴家と太いパイプを持つことになったわけで、もし、小寺家から人質が出されていれば、のちに政職が毛利方に寝返ることもなかったかもしれませんし、そうなると、官兵衛のその後の人生も、まったく違ったものだったかもしれません。大河ドラマの主役にもなってなかったかもしれませんね(笑)。そう思えば、あるいはすべて官兵衛が描いた策だった?・・・なんて考えたくなりますね。まあ、それは結果を知っている後世の穿った見方で、このときの官兵衛は、ただただ純粋に主家を守るための、身を切る決断だったに違いありません。


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by sakanoueno-kumo | 2014-03-25 21:57 | 軍師官兵衛 | Comments(2)  

キムタク版 『宮本武蔵』 鑑賞記

先週末、木村拓哉さん主演の『宮本武蔵』が2夜連続で放送されていましたよね。
宮本武蔵といえば、言わずと知れた江戸時代初期の剣豪兵法家で、これまで何度も映画化やドラマ化されてきた時代劇の定番中の定番ですよね。
古くは片岡千恵蔵さんや嵐寛寿郎さんなどの伝説の名優に始まり、戦後は三船敏郎さん、萬屋(中村)錦之介さん、北大路欣也さんらビッグネームの俳優さんが演じ、今世紀に入ってからは、上川隆也さんや本木雅弘さん、そして2003年の大河ドラマでは市川海老蔵(新之助)さんが抜擢されて話題を呼びました。
武蔵を演じるということは、ある意味、一流の俳優としての箔がつくといっても過言ではないかもしれません。

で、名前の大きさでいえば、過去の俳優さんたちに決して引けをとらない平成のトップスター木村拓哉さんの武蔵ですが、わたし個人的には、なかなか良かったと思います。
やはり彼は、何を演ってもサマになりますね。
キムタクは何を演じてもキムタク・・・なんて批判する人もいますが、それを言うなら高倉健さんだってそうですからね。
何を演ってもカッコいい役者さんというのは、そうはいないと思います。
いろいろ言われるのは、それだけ彼がスターだということですね。

そもそも、宮本武蔵という人物については、実はほとんど謎の人物といっていいほど、詳しいことは何もわかっていません。
わたしたちが知る宮本武蔵は、吉川英治著の不朽の名作小説『宮本武蔵』で描かれた武蔵像で、ほとんどの映画やドラマが、この作品を下敷きにしています(今回のドラマもそうでしたよね)。
関が原の合戦後に始まって、巌流島の戦いをクライマックスに描くこの小説は、吉川英治氏自身も語っているように、史実をベースにした伝記小説ではなく、剣の道を通して自己を研鑽していくひとりの男を描いた娯楽小説であり、そのほとんどがフィクションです。
わたしたちの知る宮本武蔵は、吉川英治氏が作った虚像なんですね。

では、その吉川武蔵像のベースはどこから来ているかといえば、江戸時代中期から歌舞伎浄瑠璃講談などの題材として脚色されてきたもので、これもまた、明らかなフィクションといっていいでしょう。
武蔵の本来の人物像を見るうえで唯一の史料として重視されるのが、武蔵自身が著した兵法書『五輪書』ですが、これとて、現存するものは武蔵が晩年を頼った細川家の家臣が書いた写しで、武蔵直筆のものは存在しません。
しかも、その内容は明らかに武蔵の武勇伝を誇張して書いているとしか思えない部分が多く見られ、ほんとうに武蔵自身が書いたものかどうかも疑わしいとする歴史家の方もたくさんいます。
なかには、宮本武蔵という人物の実在性すら疑問視する歴史家さんもいるほどで・・・。
結局のところ、宮本武蔵という人物は、歴史上ほぼ謎の人物といってよく、日本史のなかよりも、物語のなかで輝いてきた人物といえるでしょう。
ですから、いろんな武蔵像があっていいと思うんですね。
キムタク武蔵、わたしは良かったと思います。

他のキャスティングも実に良かったですね。
セクスィー部長・沢村一樹さんの佐々木小次郎もハマってましたし、真木よう子さんのお通も、予想に反して合ってたと思います。
ユースケ・サンタマリアさんの又八は、いちばんのはまり役だったんじゃないでしょうか(彼のためにあるような役かと・・・笑)。
松田翔太さんの吉岡清十郎は、吉川英治作品よりも、漫画『バカボンド』のイメージに近かったでしょうか?
ただ、これらの登場人物たちも、ほとんどが吉川氏の作った架空の人物か、実在性が定かでない人物ばかりですから、正解の人物像はないんですけどね(明らかに実在した人物といえば、香川照之さんの沢庵和尚と、鈴木福くんの宮本伊織くらいでしょうか?)。

とにもかくにも、民放テレビでの時代劇がめっきり減ってしまった昨今、こうして人気俳優さんを主役に王道の時代劇を作ってくれるのは嬉しい限りです。
定期的に続けてほしいものですね。
とりあえず、保存版で録画しました。


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by sakanoueno-kumo | 2014-03-19 21:08 | その他ドラマ | Comments(0)  

軍師官兵衛 第11話「命がけの宴」 ~秀吉、上司と喧嘩して職場放棄~

 英賀合戦に勝利した黒田官兵衛でしたが、ちょうど同じ頃、石山合戦の局地戦において織田軍毛利軍に敗北を喫します。石山合戦とは、織田信長石山本願寺が10年に及んで衝突した戦いのことで、反織田勢力の毛利氏は、兵糧攻めによって織田軍に包囲されて孤立無援となった石山本願寺に、食糧や武器などの物資を補給すべく参戦します。毛利軍は毛利水軍・小早川水軍・村上水軍が中心となって海路で搬入を試み、それを阻止しようと織田軍も200艘の船で迎撃しますが、毛利軍の勢力はこれを遥かに上回り、さらに焙烙玉(ほうろくだま)焙烙火矢といった兵器の前に織田軍は壊滅的な被害を受け、結果、毛利軍は籠城する石山本願寺への物資搬入に成功します。この戦いを「第一次木津川口の戦い」といいます。

 この信長の敗北のニュースは、瞬く間に官兵衛らの播磨国にも伝わったことでしょう。これにより、一度は織田方につくことを表明していた領主たちも、態度が揺らぎはじめます。勝ち馬に乗りたい小領主たちにとっては、当然ですよね。しかし、官兵衛の織田家に対する見立ては変わりませんでした。なんとしても、播磨一国を織田傘下にまとめたい。そのためには、一日も早い織田軍の播磨への進軍を望む官兵衛でしたが、ことは思いのほか前に進みません。それもそのはず、信長が播磨へ派遣するといった羽柴秀吉が、北陸線戦に参戦していたのです。

 信長の台頭を阻む反織田勢力は、畿内の石山本願寺や西国の毛利輝元だけではなく、もっとも脅威だったのは越後の上杉謙信でした。そこで信長は、臣下でもっとも信頼していた(であろう)猛将・柴田勝家を司令官として対上杉軍に当たらせますが、それだけでは心許なかったのでしょうか、さらにその援軍として、羽柴秀吉を派遣します。天才信長にとっては、この時点では中国より北陸の包囲が重要で、謙信相手には総力戦で臨みたかったのでしょうね。ところが、その軍議の席で、総大将の勝家と援軍の秀吉が作戦方針を巡って対立し、憤慨した秀吉は無断で陣をはらって長浜に帰国してしまいます。古参の勝家と新参の秀吉は、かねてから不仲だったといい、さらに秀吉にしてみれば、中国攻めの総大将として意気込んでいたところの援軍要請だったため、もとより不満を抱いての援軍だったのかもしれません。

 これを知った信長は大激怒、即刻秀吉に謹慎を申し付けます。当然ですよね。秀吉が戦線離脱した直後に勝家らは、謙信自らが率いる上杉軍に大敗を喫していますから、職場放棄して味方の敗北の要因を作った秀吉の罪は大きく、信長の気性からいっても切腹は免れ得ないと誰もが考えたに違いありません。ところが、ここからが秀吉の真骨頂。沙汰が下るまでの謹慎期間中、連日城内で宴会を開き、どんちゃん騒ぎに明け暮れたといいます。おとなしく閉門していたら、かえって信長に逆心ありとの疑いをかけられかねない・・・という意図の行動だったそうですが、なんとも奇想天外大博打意思表明ですよね。ひとつ間違えれば、逆に怒りを煽ることになりかねない行為ですが、秀吉にしてみれば、半ばやけっぱち的な精神状態だったのでしょうか。結局、この大胆な行為はと出て、秀吉は許されることになります。

 この命がけの宴のエピソードが史実かどうかは知りませんが、秀吉の明るい人柄を知る上での有名な逸話ですよね。ただ、わたしはこの宴会のエピソードよりも、勝家と喧嘩して家に帰っちゃったという命がけの駄々こね話のほうが、秀吉という人物を知る上でたいへん興味深いところです。一般に、信長のイエスマンとして成り上がった感の強い秀吉ですが、信長の怒りを覚悟の上で自我を通したという、本来の秀吉像とは異なる豪胆な人物像が垣間見れるエピソードですよね。あるいは、信長にとって自分はまだまだ必要であり、命までは取られまいという自信があったのかもしれません。

 謹慎を解かれた秀吉は、ようやく官兵衛の待つ播磨国へ進軍します。


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by sakanoueno-kumo | 2014-03-17 16:37 | 軍師官兵衛 | Comments(0)  

神戸の古墳めぐり その1 ~五色塚古墳と小壺古墳~

昨年8月、娘の夏休みの自由研究に付き合って、わがまち神戸市の古墳めぐりをしたのですが、せっかくなので、そのときのことを私もブログネタにしようと思います(小学生の勉強内容を大人のわたしがパクるというのもどうかとは思いますが・・・笑)。
といっても、日本史が好きな私ではありますが、考古学はまったくの門外漢でして、古墳の知識はまったくありません。
したがって、ここで紹介する内容は、ほとんどが古墳めぐりの本や現地説明看板をにわかにつまみ読みしたものですので、あるいは間違った情報や解釈もあるかもしれませんが、その点はご容赦ください。

e0158128_1923390.jpg最初に紹介するのは、兵庫県下最大の古墳である「五色塚古墳」です。
別名「千壺古墳」とも呼ばれるこの古墳は、全長194mとたいへん大きな前方後円墳で、明石海峡をのぞむ見晴らしの良い台地の上に築かれています。
全長194mというのは、全国的にみると40番目前後の大きさだそうですが、同じ時期のものだけと比べると、奈良県北部の大王墓(佐紀古墳群)と肩を並べるほどだそうで・・・。

海の向こうに見えるのが淡路島で、巨大な吊り橋は明石海峡大橋です。
現代の建築技術の粋を集めた夢の架け橋と、古代の技術の粋を集めた巨大前方後円墳の融合ですね。
(いうまでもなく、この写真は私の撮影ではありません)

五色塚古墳に関する最も古い記述は『日本書紀』のなかにあるそうで、それによれば、仲哀天皇(第14代天皇)の死後、二人の皇子、麛坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)が、神功皇后に政権を握られることを快く思わず(二人の皇子は神功皇后の子ではない)、朝鮮遠征から帰国する皇后を迎え討つために軍船を明石海峡に浮かばせましたが、そのままではクーデターがバレてしまうので、仲哀天皇の墓をつくるための葺石を淡路島から運搬する船に見せかけるため、この墓を造った・・・とあるそうです。
つまり、五色塚古墳は仲哀天皇の偽墓で、実は何も埋葬されていない・・・と。
実に手の込んだ嘘ですよね。
(神功皇后とは、実在性が濃厚な最古の天皇とも言われる応神天皇の生母で、この人が卑弥呼ではないかという説もある人物です)

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しかし、発掘調査によれば、偽墓というにはたいへん丁寧に造られており、また、石室の石材も出土していることから、偽物とは考えづらいとされています。
石室のなかの発掘調査はしていないので、副葬品などは不明だそうですが、出土したたくさんの埴輪などから、4世紀後半に造られたものと推定されているそうです。
ここに葬られている人物ははっきりとわかっていませんが、明石海峡の海陸交通要衝の地を支配した豪族ではないかと考えられているそうです。

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現在見られる多くの古墳は、木が茂って森のようになっていますが、ここ五色塚古墳は、当時の姿を忠実に再現しようと、昭和40年から10年の歳月をかけて発掘、復元工事が行われました。

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三段に築かれた古墳の表面は約223万個の葺石で覆われ、各段の平坦面といちばん上には出土した鰭付円筒埴輪鰭付朝顔形埴輪のレプリカが、約2000本も立て並べられています。
上二段の斜面の葺石は、発掘された石をそのまま使用しているそうですが、その石を分析の結果、日本書紀の記述どおり淡路島の東海岸から運ばれてきたものとわかったそうです。

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前方のすぐ南には、山陽電鉄JR山陽本線、そして国道2号線が並走しています。
さらにそのすぐ南は、いまは埋め立てられていますが、ほんの十数年前まではでした。

e0158128_19175893.jpg

後円部から撮影した古墳南西に見える明石海峡大橋です。

e0158128_1919276.jpg

まさか、こんな巨大な橋が出来ようとは、埋葬されている古代人もビックリでしょうね(笑)。

e0158128_19303067.jpg

東側の堀の中にある一辺20m、高さ2mのマウンドです。
かつては斜面に古墳と同じように葺石があったと考えられ、また埴輪が立てられていたと考えられているそうです。
何のためのものかは、説明看板がなかったのでよくわかりません。

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後円部のすぐ西隣りには、小壺古墳と呼ばれる円墳があります。
直径70m、高さ約8.5mの二段に築かれた円墳で、斜面に葺石はありません。
造られた時期は、出土した埴輪などから五色塚古墳と同時代と考えられいるそうです。
どちらが先に造られたかはわかりませんが、あるいは深い関連性があるのかもしれませんね。

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というわけで、まずは兵庫県下でもっとも有名な五色塚古墳と、お隣の小壺古墳でした。
そんなこんなで、気が向いたときの「その2」につづきます。



神戸の古墳めぐり その2 ~吉田王塚古墳~
神戸の古墳めぐり その3 ~狩口台きつね塚古墳~
神戸の古墳めぐり その4 ~処女塚古墳・西求女塚古墳・東求女塚古墳~
神戸の古墳めぐり その5 ~大歳山遺跡公園・舞子古墳群~

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by sakanoueno-kumo | 2014-03-13 19:38 | 神戸の史跡・観光 | Comments(2)  

軍師官兵衛 第10話「毛利襲来」 ~英賀合戦~

 かくして織田氏の傘下に入った小寺政職でしたが、それを毛利氏が黙って見ているはずもなく、毛利輝元は毛利一門の小早川家に仕えていた乃美宗勝を総大将として、約5000の兵を海路、播磨へ派兵します。毛利軍が押し寄せたのは、黒田官兵衛が城代を務める姫路城から2里ほど離れた英賀の浦。英賀とは、現在の姫路市飾磨区の夢前川の河口付近に位置し、当時は河川と海の両方の交通要衝地でした。

 英賀には英賀城があり、城主には三木通秋という人物が存在しましたが、一級史料では、この人の存在感はあまりありません。英賀には、15世紀後半ごろから一向宗の勢力が根付いており、実質的な英賀の支配者は、一向宗だったようです。その中心を英賀御堂に置き、寺内町が形成され、堺と同じく町衆による自治が行われていたようです。

 このときより7年前の元亀元(1570)年から、織田信長石山本願寺は対立関係にありました。以後10年の長きに渡って衝突を繰り返していた両者でしたが、この一連の戦いにおいて、英賀一向宗の勢力は積極的に石山本願寺を支援していたようです。しかし、天正4(1576)年以降、伊勢長島の一揆が壊滅するなど、情勢は徐々に信長優勢に傾きつつありました。そして、信長の兵糧攻めによって孤立無援となった石山本願寺にとっての頼みの綱は、織田氏に勝る勢力を持つ毛利氏の援護でした。毛利氏の石山本願寺への援護は食糧などの物資の運搬。その拠点となって大いに働いていたのが、この英賀の一向宗だったようです。英賀の地が合戦の舞台となったのは、そういう背景があったんですね。

 毛利軍5000人の兵に対して、迎え討つ小寺軍は約2000人。そのうち、御着城や姫路城などの守備兵を配置したため、前線で戦える兵はわずか500人ほどだったとか。この多勢に無勢の状況下で官兵衛がとった策は、またしても奇襲でした。10倍近い兵力とまともに対峙しては、万にひとつも勝ち目はありません。敵を迎え討つのではなく、兵力の差に油断している隙をついて、こちらから攻めこむというものでした。まさに、進みて禦(ふせ)ぐべからざるは、その虚を衝けばなり・・・ですね。

 しかし、敵は名門毛利の大軍。それだけでは一時的に敵を蹴散らせたとしても、すぐに立て直されてしまいます。そこで官兵衛は、奇襲に合わせて奇策を用います。まず、近くの山に大量のを持たせた農民を待機させ、その上で、敵が油断している隙をついて奇襲を仕掛け、敵が混乱したところで、待機させていた農民に幟を掲げさせます。奇襲によってパニックに陥っていた毛利軍は、さらに後方に掲げられたおびただしい数の幟を目にして戦意喪失。小寺軍の後方に大軍の援軍ありとして退却してしまいました。なんか、若き日の羽柴秀吉(当時は木下藤吉郎)の松明のエピソード(参照:新加納の戦い)に似てますよね。

 この、「英賀合戦」と呼ばれる戦いは、筑前福岡藩黒田家の公式史料『黒田家譜』では天正4(1576)年としているそうですが、毛利方の記録によれば、天正5(1577)年5月となっているそうです。どちらが正しいのか正確なことはわかりませんが、天正5(1577)年5月に信長が荒木村重に宛てた書状のなかで、英賀での官兵衛の活躍を褒め称えており、このことからも、毛利方の記録の方が正しいと考える歴史家のほうが多いようです。

 また、『黒田家譜』は英賀合戦の原因について、小寺家が信長に誼を通じたこととしているそうですが、それよりも、英賀の地を支配していた一向宗に原因があったと考えるほうが、信憑性がある気がします。一般には、英賀合戦とは毛利軍が英賀に攻めて来て、それを官兵衛たちが迎え討った合戦という見方が多いようですが、別の説では、織田家との石山本願寺との一連の戦いのなかで、信長が小寺政職に英賀の攻撃を命じ、毛利はその援軍だったという見方もあるようです。たしかに、そうも考えられますよね。

 いずれにせよ、英賀合戦とは、信長と小寺家が手を結んだから毛利が攻めて来た・・・とうものではなく、あくまで信長VS石山本願寺の地域戦であり、信長配下となった小寺家は、従軍せざるを得なかったということでしょう。その指揮官となったのが、官兵衛だったということですね。この戦いでの活躍によって、信長の官兵衛に対する関心がさらに大きくなったことは、想像に難しくありません。


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by sakanoueno-kumo | 2014-03-11 16:39 | 軍師官兵衛 | Comments(0)  

東日本大震災から3年、風を返して土を返して。

明日で東日本大震災の発生から3年が経ちますね。

もう3年というべきなのか、まだ3年というべきなのか、被災地から遠くはなれた地域に住む私には、正直、実感できません。

阪神・淡路大震災のときの3年といえば、とりあえずは復興の目処が立ち始め、被災地内でもそろそろ震災のことばかり振り返っていられないといった空気が見え始めていた頃だったと思うのですが、東北の現状は、まだまだ復興はおろか、復旧もままならない状態のようで・・・。

その意味では、まだ3年・・・というのが正しい表現なのかもしれませんね。

e0158128_21574605.jpg震災記念日の明日は、各地で追悼行事復興イベントが開催されるようですが、わたしも昨日、神戸文化ホールで行われていたPLAY FROM KOBE 3.11復興支援コンサート2014に行ってきました。

兵庫県合唱連盟主催のこのチャリティ・コンサートは、震災の翌年から行われているそうで、今年で第3回となるそうです。

復興支援のチャリティイベントに行ったというと、何か立派なことしたように聞こえますが、実は、単に我が娘が合唱部として出演しているのを観に行っただけなんですけどね。

まあ、理由はどうあれ、チャリティイベントに参加したことは事実で、今年は少しは被災地支援の役に立てたかな・・・と(めずらしく募金もしましたよ。だって、可愛い女子高生にお願いされたら、オジサンとしては冷たく無視できないですよね)。

で、せっかくだから、娘の出番だけじゃなく、最初から最後まで鑑賞してきました。

ロックやポップスのコンサートなら何度も足を運んだことがありますが、合唱曲のみのコンサートなんて、こんな機会でなけりゃ聴くことがないですからね。

4時間の長いステージでしたが、なかなか聴きごたえがありましたね(途中、少しばかり睡魔に勝てませんでしたが・・・笑)。

なかでもとくに印象に残った歌で、『風を返して土を返して』という曲がありました。

この歌は、この日出演されていた福島県の詩人・和合亮一さんという方が作詞した歌で、その内容は、福島第1原発事故後の福島を歌ったものです。

風と土を合わせると「風土」となります。

「風土」とは、その地域の地形気候地質はもちろん、文化宗教、そこに暮らす人々の気質精神なども含めた、深い意味が込められた言葉ですよね。

「風土」というのは、その地域の歴史ともいえます。

3年前の事故以来、福島では「風」「土」も、危険なものになってしまいました。

つまりは、「風土」を失った、「風土」を奪われたわけですよね。

わたしは、あの原発事故以来、日本は国土の一部を失ったと思っていましたが、それだけじゃなく、歴史の一部を失っていたんですね。

実に深く考えさせられました。

震災から19年経った現在の神戸は、ほぼ復興事業は終了しています。

津波被害の甚大だった宮城や岩手も、やがてはそこに新しい町が築かれ、新しい風土が形成されていくでしょう。

でも、福島は・・・一部の風土を失ったまま、3年前から何ひとつ変わってないんですよね。

過日行われた東京都知事選に勝利して以降、ますます原発推進の方向に舵を切った感が否めない政府与党ですが、よくよく考えてほしいものですね。

これ以上、国土風土を失わないよう・・・。



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by sakanoueno-kumo | 2014-03-10 22:14 | 日常 | Comments(0)  

心に残る名曲 No.15 『Falling In Love With You』ゲイリー・ムーア

ソチオリンピックが終わって10日以上が経ちましたが、いまだテレビやラジオではその話題が尽きることなく、連日のように凱旋したメダリストたちの動向を報じています。
たぶん、メダリストたちはいま、普通に街を歩けないんじゃないでしょうか?
オリンピック前からスターだった人もいますが、今回で一気に名前と顔が売れた選手は、嬉しい半面、そろそろ疲れが出てきてる頃なんじゃないかと想像します。
とくに、このたび唯一の金メダリストである男子フィギュアスケートの羽生結弦選手の注目度はたいへんなことになってるようですね。
彼は、さっそく日本を脱出しちゃったとか。
さもありなんですね。

その羽生選手への注目度は、彼自身だけにとどまらず、史上最高得点を叩き出したSPの演技に使われていた曲『パリの散歩道』にも集まっているようで、あれ以降、ラジオやテレビからも頻繁に流れてきます。
ユーチューブの再生回数もうなぎのぼりだそうで、着うたダウンロードの洋楽部門で1位となり、CDのアンコールプレスも決定したとか。
金メダル効果というのはスゴイものです。
この曲を作曲、演奏しているのは、3年前に58歳という若さでこの世を去ったゲイリー・ムーアですね。
わたしら世代のヘヴィ・メタル好きにとって彼は、エドワード・ヴァン・ヘイレンと並び称される伝説の名ギターリストです。
彼の“泣きのギターソロ”は、ハートにビンビン響くんですよね。
泣くんですよ!ギターが!
羽生くんの演技とは別に、ゲイリーのギターの音色を懐かしんでいたオジサン、オバサンがたくさんいたんじゃないでしょうか?

で、今日はそのゲイリー・ムーアの曲を紹介したいと思うのですが、このたび有名になった『パリの散歩道』は、実はわたしにとってはそう思い入れのある曲ではありませんで、今日紹介するのは、わたしが高校時代にめちゃめちゃ聴き込んだアルバム『大いなる野望』の中から、バラード曲
『Falling In Love With You』(日本語題名:想い焦がれて)です。




1982年に発売されたこのアルバム『大いなる野望』は、日本で爆発的な大ヒットを記録した名盤で、この曲はA面のラスト・ソング(A面というひびきが懐かしい?)。
この曲は切ないバラードですが、これぞヘビメタといった重厚感のある曲ももちろん入っていて、そのマシンガンピッキングと称された超速弾きの激しいギターソロと、バラード曲の切ない泣きのギターソロの落差がたまんないんですよね。
激しい曲のなかにも、美しいメロディラインがある・・・ゲイリーの魅力がいっぱい詰まった傑作アルバムです。
羽生選手のおかげで、ひさびさに聴きたくなりました。
といっても、レコードカセットももうないし、CDは持ってないし・・・。
このたび『パリの散歩道』が大注目となりましたが、ゲイリーといえば、わたしはこのアルバムだと思います。
『パリの散歩道』ではじめてゲイリーに興味をもった方は、ぜひこのアルバムを一度聴いてみてください。


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by sakanoueno-kumo | 2014-03-07 20:04 | 音楽 | Comments(0)  

軍師官兵衛 第9話「官兵衛試される」 ~小寺政職の人物像~

 織田信長との面会を果たした黒田官兵衛は、さっそく播磨に帰国し、周辺豪族の説得工作を開始。織田氏毛利氏か、今なおどちらの傘下に入るか迷っていた小領主たちを、次々に織田氏方へ引き寄せます。そして、主君である小寺政職をはじめ、龍野城主の赤松広秀、三木城主の別所長治らを揃って信長に謁見させます。官兵衛大活躍ですね。そんな官兵衛を刺激して手のひらで転がしていたのが、羽柴秀吉の名参謀として仕えていた竹中半兵衛だった・・・というのが、今話のストーリーでしたね。(余談ですが、このとき14歳の赤松広秀は、のちに、最近日本のマチュピチュとして観光客が急増している但馬竹田城の、最後の城主となる人物です。)

 前話の稿でも紹介したとおり、小寺氏、赤松氏、別所氏が揃って信長に謁見したという話は、『信長公記』のなかに記されているエピソードで、おそらく史実とみていいでしょう。しかし、それらの播磨豪族たちを説得して束ねたのが官兵衛だったという話は、たぶん後年に作られた話でしょうね。ましてや、それを裏で操っていたのが半兵衛だったという設定は、いうまでもなくドラマのオリジナルです。のちに「両兵衛」と称され、深く関わりを持つことになる二人ですが、この時点ではまだ面識がなかったか、あったとしても、せいぜい秀吉を介して名刺交換した程度の関係だったでしょうね。

 それにしても、ひどく優柔不断で臆病なバカ殿さまに描かれている小寺政職ですが、実際には、どのような人物だったのでしょう。今日は、そんな政職について少しふれてみたいと思います。

 政職の家系である小寺氏は、赤松氏の有力な家臣として鎌倉時代末期から活躍していたとされますが、史料でしっかり確認できるのは、長禄元(1457)年の「長禄の変」からだそうです。「長禄の変」とは、その16年前に起きた「嘉吉の乱」で没落していた赤松氏を、家臣たちの働きで再興させた出来事で、そのとき中心となって活躍したのが、政職の高祖父にあたる小寺性説という人物だったといいます。以後、小寺氏は赤松氏の重要な家臣として仕え、御着城を拠点として地位を保ってきました。しかし、世の中は下克上の時代へと移り、赤松氏の家臣だった浦上氏別所氏明石氏櫛橋氏とともに、小寺氏も徐々に赤松氏の配下から独立の様相を見せるようになります。政職が家長となったのは、そんな時代でした。

 家督を継いだ政職は、御着城を改修して防御を強化するとともに、播磨国内の香山氏真島氏らを制圧。その後も、赤松氏や浦上氏、別所氏らとの小競り合いを繰り返しながら、少しずつ播磨国内での勢力を拡大していきます。内政面でも善政を敷いていたようで、領民からも慕われていたとか。どうも、ドラマで描かれているような暗愚な人物ではなかったようです。何よりも、浪人同様の身分だった黒田職隆、官兵衛父子の能力を認めて引き上げたのは政職で、既成概念にとらわれない人材登用は、織田信長に相通ずるともいえますよね。決して、赤鼻のバカ殿さまではなかったようです。

 たぶん政職の優柔不断で頼りないキャライメージは、最終的に織田方から毛利方に寝返ったという1点のみで作られた人物像でしょう。ちょっと気の毒な気がしないでもないですが、ただ、政職が愚人に描かれているのは今回のドラマだけではなく、司馬遼太郎氏の『播磨灘物語』をはじめ、多くの物語で同じような描かれ方をしてるんですよね。人間やっぱ、人生の着地点を間違えると、こういう評価になるんですね。

 「兵の情は速やかなるを主とす(孫子)・・・戦いは迅速でなくてはなりませぬ。いつまで頼りにならぬ主君に振り回されているおつもりか。貴殿ほどの力がおありなら、いっそ小寺政職など討ち取り、御着の城を乗っ取ってしまう方が楽なのでは?」

 実際に、かつての主君から城を奪ったことのある半兵衛だからいえる台詞ですね。ということは、酒色に溺れて政務を顧みなかった斎藤龍興と、政職は同じレベルの愚かさだということでしょうか? 気の毒というほかありません。


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by sakanoueno-kumo | 2014-03-03 22:58 | 軍師官兵衛 | Comments(2)