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軍師官兵衛 第17話「見捨てられた城」 〜第二次・上月城の戦い〜

 毛利氏に寝返った別所長治の居城・三木城の攻撃にとりかかった羽柴秀吉は、京にいる織田信長援軍を要請します。東播磨最大の勢力を誇る別所氏の謀反という事態を重く見た信長は、自身の嫡子・織田信忠を総大将とする軍勢2万を播磨に送ります。その中には、滝川一益丹羽長秀明智光秀ら重臣が顔を並べていましたが、いずれも秀吉の援軍という役目を快く思っておらず、秀吉の指示に従おうとはしませんでした。指揮官が複数いたら、組織はうまく機能しなくなるものです。現代の永田町でも、よく見る光景ですよね。

 天正6年(1578年)4月、尼子勝久山中鹿介らが守る上月城に、吉川元春小早川隆景が率いる毛利の軍勢が押し寄せます。その数、約3万とも5万とも言われる大軍だったそうで、迎え討つ上月城の軍勢はわずか3000ほどだったとか(ドラマでは700でしたね)。寡は衆に敵せず。圧倒的兵力の差になす術のない籠城軍でしたが、城を包囲した毛利軍は、その力に任せて攻めこむ作戦はとらず、陣城を築き、深い空堀塹壕を掘り、を巡らせ防備を完璧なまでに固め、兵糧攻め持久戦に打って出ます。毛利軍にしてみれば、いずれ激突しなければならない織田氏との直接対決に向けて、無駄に兵を失いたくなかったのでしょう。

 かたや、三木城を攻撃中だった秀吉も、自らの手勢を率いて上月城籠城軍を支援すべく、荒木村重軍とともに高倉山に陣を置きます。しかし、その秀吉・村重連合軍をもってしても、兵の数では毛利軍にまったく及ばず、容易には動けませんでした。結局は上月城を挟んで毛利軍と秀吉軍が睨み合うかたちとなり、戦線は硬直状態となってしまいます。

 そうして、ずるずると時が過ぎた2ヶ月後、たまりかねた秀吉はひそかに京にのぼり、信長に更なる援軍を求めます。しかし、秀吉の要請に対する信長の答えは、「三木城攻めに専念せよ」というものでした。つまり、上月城は見捨てよ!・・・と。

 「700を救うために5万と戦い兵を失う。何の利がある?」
 「失うのは兵ではございません。播磨での織田の信用でございます!」

 ドラマでの信長と秀吉の会話ですが、ふたりの人となりをよく表した台詞ですね。あくまで合理的な信長と、人間的な秀吉の違いですが、どちらが正解かは難しいところです。軍人としては信長が正しいでしょうし、政治家としては秀吉が正しい・・・といったところでしょうか。

 結局、信長の命令に逆らうことはできず、秀吉軍は高倉山の陣を引き払います。これにより孤立無援となった尼子主従たちは、7月、城兵の助命を条件に開城・降伏し、尼子勝久は自刃。そして山中鹿介は、捕虜となります。なぜ主君に殉じて自刃しなかったのかはわかりませんが、あるいはドラマのように、死なばもろともと考えていたのかもしれませんね。しかし、結果的には護送途中に殺害されてしまいます。こうして、尼子家再興の道は完全に絶たれてしまいました。

 黒田官兵衛の義兄である志方城櫛橋左京進も、切腹に追いやられていましたね。わたしは、この櫛橋左京進という人物のことはよく知らなかったのですが、ネットでいろいろ調べてみても、史料が乏しく詳しいことはわかっていないようですね。ドラマのように、このとき自刃したとも言われますが、そもそも志方城の戦いなどなく、無血開城して左京進はその後、官兵衛に仕えたという説もあるようです。まあ、自刃説のほうがドラマにはなりますからね。詳しい方がいれば教えて下さい。


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by sakanoueno-kumo | 2014-04-28 23:09 | 軍師官兵衛 | Comments(2)  

軍師官兵衛 第16話「上月城の守り」 ~尼子氏と山中鹿介~

 三木城主の別所長治が毛利方に寝返ったことで、一気に形勢不利となってしまった羽柴秀吉は、すぐさま本陣を姫路から約1里ほど離れた書写山圓教寺に移します。その理由は、織田信長から送られてくる多勢の援軍を収容するためといわれており、ほかならぬ黒田官兵衛の進言だったといわれています。圓教寺は標高371メートルの山上にあり、比叡山の延暦寺、伯耆の大山寺とともに天台宗の三大道場と並び称される寺院です。あのトム・クルーズ主演のハリウッド映画『ラスト・サムライ』のロケ地にもなった場所としても有名ですね。このとき、進軍してきた秀吉軍を見た圓教寺の僧侶たちは、蜘蛛の子を散らすように逃げ出したとか。彼らの脳裏には、信長の比叡山焼き討ちの恐怖があったのでしょう。さもありなんですね。

 労せずして本陣を移した秀吉軍は、三木城攻めの手始めとして、阿閇城(別府城)野口城を攻め、ここでも官兵衛が大いに活躍したと伝わりますが、ドラマでは省かれていましたね。このあたりのひとつひとつの合戦をすべて描いていたら、物語が一向に前に進まない・・・といったところでしょうか? まあ、やむを得ないでしょうね。

 で、戦いの舞台は、かつて官兵衛の義兄・上月景貞の居城だった西播磨の上月城に移ります。先の合戦で秀吉軍が奪った上月城には、山陰の名族・尼子勝久とその家臣・山中鹿介らの尼子氏残党が入っていました。今回は、その尼子氏と山中鹿介についてふれてみたいと思います。

 尼子氏は、かつては山陰、山陽の8ヵ国を支配する名家でしたが、このときより12年前の永禄9(1566)年、毛利元就によって攻め滅ぼされました。しかし、尼子家再興の志をもった山中鹿介ら遺臣たちが、京の東福寺で僧となっていた尼子一族の遺子を還俗させ、尼子勝久と名乗らせて擁立。尼子家再興を目指します。

 山中鹿介は、代々尼子家の家老の家に生まれ、若い頃から武勇に優れ、尼子十勇士の筆頭にして「山陰の麒麟児」と称された強者でした。伝説によれば、かつての毛利軍との戦いにおいて、敗戦による撤退の殿(しんがり)を務め、追撃する毛利軍の吉川元春小早川隆景の両軍を7度にわたって撃退し、敵の首を7つ討ち取ったといいます。しかし、鹿介の奮闘むなしく尼子氏は降伏、滅亡。鹿介は幽閉されることとなった主君の尼子義久に追随することを望むも許されず、出雲大社で主君と別れます。鹿介22歳のときでした。このとき、彼は尼子家再興を誓ったのでしょう。

 勝久を担いで尼子家再興を目指した鹿介らは、その後、紆余曲折を繰り返しながら、信長の知遇を得ることとなり、秀吉、官兵衛らが進める中国攻めに加わることとなります。敵は宿敵・毛利。望むところだったに違いありません。上月城の守りを任されていた山中鹿介ら尼子氏残党にとっては、憎き毛利への雪辱戦であり、尼子家再興の最後の砦だったんですね。

 しかし、事実はドラマチックな結末を与えてくれませんでした。その続きは、来週に譲ることにします。


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by sakanoueno-kumo | 2014-04-21 23:14 | 軍師官兵衛 | Comments(2)  

軍師官兵衛 第15話「播磨分裂」 ~加古川評定~

 西播磨の福原城上月城を落とした羽柴秀吉は、年が明けた天正6(1578)年2月、播磨国の領主たちを一同に集めて評定を開きます。会場となった加古川城の城主は、のちに賤ヶ岳七本槍のひとりとなる糟谷武則で、三木城主の別所氏に仕える身でありながら、早くから秀吉とよしみを通じていたと言わる人物です。この評定の目的は、今後の中国攻略に向けての道筋を立てるというものでしたが、真の目的は、播磨国領主たちの去就を今一度確認して、反毛利の結束を固めるといった意図も込められていたのでしょうね。おそろく黒田官兵衛も、各地の長たちを集める工作に尽力したに違いありません。しかし、結果的にこの評定は、失敗に終わってしまいます。

 そのキーマンとなったのが、播磨国最大の勢力を誇る別所氏でした。別所氏は15世紀後半から三木城に拠点を置く名家で、城主は若き別所長治。叔父の別所吉親(賀相)別所重棟を後見人に12歳という若さで当主となった長治も、このとき既に20歳となっていましたが、いまだ叔父たちの発言力が強く残っていたようです。この二人の叔父が、かねてから対立関係にあったようですね。城内でそれぞれの派閥をつくり、政務のことごとくを対立していたといいます。その延長線上からか、兄の賀相は毛利氏支持を、弟の重棟は織田氏支持を主張していました。一時は織田家支持の方針で固まったかのように見えた別所氏でしたが、賀相は納得していなかったのでしょうね。その思いが、この局面で吹き出します。

 評定の当日、会場に姿を表したのは長治ではなく、賀相でした。もともと毛利派だった賀相が出席した時点で結果は見えていたともいえますが、案の定、評定の席で秀吉と衝突してしまいます。その理由は、「賀相の作戦が受け入れられなかった」とか、「出自の賤しい秀吉に従いたくなかった」などと言われますが、実際のところはどうだったのでしょう。長治が出席しなかったということは、おそらく評定に先立って毛利氏への加担を決めていたのでしょうね。その上で評定に出席したとなれば、ドラマのように、秀吉との衝突は計算通りで、播磨の諸氏たちを扇動するための茶番だったといえます。なかなかの策士ですね。これをキッカケに別所氏は秀吉に叛旗を翻すわけですが、播磨一の別所氏が毛利方に寝返ったことにより、周辺諸氏たちが次々と別所氏に同調していきます。こうして、播磨を反毛利で結束させるべく開催した加古川評定は、逆効果に終わってしまいます。ドラマで描かれているとおり、曲者ぞろいの播磨国の諸氏は、人たらし秀吉をもってしても、一筋縄ではいかなかったようですね。

 この評定の失敗によって、秀吉の播磨平定は2年遅れることになるわけですが、結果的には、別所氏の選択が間違いであったことは歴史の示すとおりです。しかしながら、当時に生きる彼らに、そんな未来が予見できるはずはありませんから、やむを得ない結果ですね。ただ、賀相の毛利氏支持の真意が何だったのかと考えたときに、「織田氏より毛利氏についたほうが有利だ」と考えたのならばやむを得ないとして、もし、重棟に向けた対立感情からきたものだったとすれば、なんともくだらないプライドのために主家の運命を賭けたものだと言わざるを得ません。もっとも、政をくだらない派閥争いの道具にする政治は、現代も変わらないですけどね。命を賭けているぶん、当時の政治家のほうが上だといえるでしょうか。


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by sakanoueno-kumo | 2014-04-15 20:59 | 軍師官兵衛 | Comments(2)  

軍師官兵衛 第14話「引き裂かれる姉妹」 ~福原城・上月城の戦い~

 羽柴秀吉が播磨国に入ったことで、去就を決めかねていた諸豪族たちも、次々に秀吉に従い始めます。しかし、何度説得工作を繰り返しても、秀吉に与することを頑なに拒み続けていた領主が2人いました。それは、福原城(作用城)主・福原助就と、上月城(七条城)主・上月景貞赤松政範という説も)で、いずれも、播磨国と美作国の国境付近に位置します。播磨国は大きく分けて、東播磨西播磨に分けられますが、黒田官兵衛の居城・姫路城がある東播磨は、御着城主・小寺政職三木城主・別所長治など、主だった領主はすべて織田方についていましたが、西播磨のすぐ西には、毛利氏の傘下に属している備前国岡山城主・宇喜多直家がおり、毛利氏の影響を多分に受けていました。しかし、ここを落とさなければ、播磨平定は成し得ません。そう考えた秀吉は、この2つの城の攻略を開始します。

 天正5(1577)年11月26日、まずは福原城を攻めます。この戦いについて『黒田家譜』には、こう記されています。

「孝高(官兵衛)の謀(はかりごと)にて三方を囲み、一方を攻め給う。これ孫子が所謂、囲師必闕という軍法なり」

 囲師必闕(いしひっけつ)とは、中国春秋時代の思想家・孫武の作とされる兵法書「孫子」にある戦法で、それによれば、四方すべてを包囲するのではなく、一方に逃げ道を作っておけば、敗色が濃厚になった敵兵が自ずとそこへ集まり、迎え討つかたちで一気に撃破できるので、味方の犠牲が少なくてすむ、というもの。この官兵衛の策が見事に功を奏し、福原城はわずか2日ほどで陥落します。

 福原城を落とした秀吉軍は、その勢いで28日に上月城へと兵を進めます。この戦いでも官兵衛は、竹中半兵衛とともに先遣隊として活躍しました。敵方もこの上月城を重要拠点と考えていたらしく、宇喜多直家は3000の援軍を送って秀吉軍を迎え撃ちますが、秀吉、官兵衛、半兵衛という智将3人の前に散々に打ち負かされ、無念のうちに撤退を余儀なくされます。

 宇喜多軍を打ち破った秀吉軍は、上月城に向けてさらに激しい攻撃を加え、そして完全に包囲すると、籠城戦において命の源である水の補給路を断ちます。この時点でもはや勝負有り。籠城兵たちは降伏を願い出て、城主の上月景貞は、自害して果てます。一説には、家臣の裏切りによって落命したとも言われます(ドラマでは、その説で描いていましたね)。

 と、ここまでがドラマで描かれていた上月城の戦いですが、秀吉が下村玄蕃助に宛てた書状によれば、秀吉は降伏してきた城兵たちの命乞いを受け入れることなく、逆に逃げられないようにをめぐらせ、次々と敵兵の首をはねた、とあります。さらに見せしめとして、女・子ども二百人余りを串刺し、磔にして晒すなど、残虐の限りを尽くしたといいます。一般に、あまり人を殺さない武将だった言われる秀吉ですが、ずいぶんとイメージが違う残虐ぶりですよね。つまるところ、秀吉は、味方の兵を殺さない武将だった・・・というのが正解でしょう。

 ちなみに、下村文書にあるこの残虐な逸話は、『黒田家譜』には記されていません。官兵衛こそ、できるだけ人を殺さない戦略家であり、きっとこのときの秀吉の行いを、快くは思っていなかったんじゃないでしょうか。

 あと、ドラマにもあったように、この戦いで落命した上月景貞の妻が、官兵衛の妻・実姉だったと言われています。つまり、上月景貞は官兵衛の義兄だったということですね。身内が敵味方に別れて戦うなど、戦国の世ではとくに珍しいことではありませんが、それゆえになおさら、勝負が決してからの秀吉の目に余る残虐な仕打ちは、官兵衛にとって気持ちのいいものでなかったでしょう。司馬遼太郎氏の『播磨灘物語』では、景貞は自害して果てるも、その妻と二人の娘は、官兵衛の手によって保護されたとあります(ドラマでも、そう描かれていましたね)。串刺しや磔にならずにすんでよかったといえますが、ただ、ともに籠城戦を戦った家臣の妻や子どもたちが残酷に処刑されたことを思えば、助かってもなお、決して心穏やかではいられなかったでしょう。

 のちに、なるべく人を殺さない戦略家となる官兵衛ですが、あるいは、この上月城の戦いが、そのキッカケとなったのかもしれませんね。


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by sakanoueno-kumo | 2014-04-07 20:42 | 軍師官兵衛 | Comments(2)  

神戸の足場倒壊事故に思い出す、阪神・淡路大震災の柏井ビル倒壊。

3日午前11時10分ごろ、神戸市中央区布引町4の3の8にある解体工事中のビルで、覆っている足場が十数メートルの高さから崩れて落ちた。自転車で通行していた女性(22)と歩いていた男性(20)が下敷...
昨日、神戸で解体工事中のビルを覆っている足場が倒壊するという事故がありましたよね。
倒れた足場は高さ約20メートル、幅約30メートルほどだそうで、片道3車線の道路を塞ぎ、通行人2人が巻き込まれてけがをされたそうです。
停車中だった路線バスにも直撃したそうですが、乗客に被害はなかったとか。
よく、その程度の被害で済みましたね。
現場は神戸市の中心部である三宮駅から北へ150メートルほど上がったところで、塞いだ道路は、神戸市街地のメインストリートともいえるフラワーロードです。
通勤などの人通りが多い時間帯だったら、大惨事だったでしょうね。

で、事故から一夜明けた今朝、たまたま事故現場の前を通る用があったので、いつも携帯しているバカチョンカメラで撮影してきました。

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道路を塞いでいた足場や鉄骨の残骸はきれいに片付けられていましたが、作業中だったと思われる重機がそのまま放置されたかたちで、無残な状態を晒していました。
まだ、報道機関のカメラがたくさん来ていましたよ。

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この事故現場で思い出したのは、19年前の阪神・淡路大震災のときの、旧・柏井ビル倒壊です。
10階建ての高層ビルが両側6車線の大通りを塞ぐように倒れていた映像を覚えておられるでしょうか?
まあ、当時はいたるところで建築物が倒壊していたので、神戸市内ではとくに珍しい光景ではありませんでしたが、現場が神戸の最も中心部だっただけに、震災時の高層ビル倒壊の象徴的映像として使われていましたよね。
あの柏井ビル倒壊現場の道路を挟んで斜め向かいが、今回の足場倒壊現場です。
もちろん、ただの偶然以外のなにものでもありませんが、でも、同じ場所の同じ道路を塞いだ昨日の映像を見て、当時のことを思い出した神戸市民は、わたしだけではないんじゃないでしょうか。

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柏井ビル倒壊は天災による事故ですが、今回の足場崩壊はおそらく過失事故で、人災ですよね。
足場倒壊事故といえば、強風によるものが多いと思いますが、昨日の神戸は強い風はなく、報道によれば、アームから鉄骨が外れるなどして道路側の足場にのしかかったことが原因のようで、重機の操作ミスや安全管理上の不備があったと見られているようです。
養生ネットで囲われた足場の下を通行しなければならないことは、よくありますよね。
こんな事故が起こらなくとも、足場作業の真下を通行するのは、あまり気持ちがいいものではありません。
このたびの事故を踏まえ、徹底した事故原因の追求とともに、業界全体の安全対策・指導の強化につなげてほしいものです。

ちなみに、旧柏井ビル跡地には、いまは新しい柏井ビルが建っています。


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by sakanoueno-kumo | 2014-04-04 14:30 | 時事問題 | Comments(2)  

満開の桜とともに始まった消費税8%と、ソメイヨシノの52円切手。

ですね。
わがまち神戸では、ほんの10日ほど前までは三寒四温の繰り返しで、朝の服装選びに困る日々が続いていたのですが、先週あたりから、ようやく本格的に暖かくなったようです。
と、感じたかと思えば、一気に桜が満開になっちゃいました。
ついこのまえ開花宣言したような気がしたんですが、今年は満開まで早かったですね。

で、当ブログでは、毎年わたしのテリトリーの桜を紹介してきましたので、今年も例年にならって、カメラを片手にまちへ繰り出し桜を撮影してきました。
といっても、平日の最中ですから、通勤の道すがら見た桜ですけどね。

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写真は神戸市灘区にある西灘公園です。

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何の変哲もないどこにでもある普通の公園で、ふだんはただ通り過ぎるだけの景色なんですが、毎年この季節だけは、つい立ち止まって見入ってしまいます。

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今日は天気が良かったので、いい写真が撮れました。
夜桜も綺麗ですが、わたしはやっぱ、青空の下の桜のほうが好きです。

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このぶんじゃ、たぶん来週の小中学校の入学式までは保たないでしょうね。
わが家も、下の娘が来週中学校に入学するのですが・・・。
このあたりで、しばらく寒くなってほしいものです。

e0158128_22283977.jpgところで、桜といえば、先ごろ発売された52円切手ソメイヨシノですね。
わたしも昨日、52円切手と82円切手を買いにいきました(82円切手はですね)。
消費税増税の準備はひと通りしていたつもりだったのですが、切手のことはすっかり忘れてました。
ていうか、迂闊にも80円切手がまだたくさん残ってしまっているので、しばらくは2円切手と併用しなければなりません。
考えてみれば、書留類もすべて変わっちゃうんですよね。
いままで500円切手1枚でよかった書留が、500円切手10円切手2円切手の組み合わせで、簡易書留は300円切手82円切手10円切手
あ〜!邪魔くさ!!
慣れるまで時間がかかりそうです(苦笑)。

桜の満開とともに昨日から消費税8%が始まりましたが、案の定、3月末の駆け込み需要は各業界で激しかったようで、しばらくはその反動を避けられないでしょうね。
ただ、それも一過性のもので、3ヶ月もすれば平常通りの経済に戻る・・・という専門家もいましたが、いかがなものでしょう?
そうあってくれればいいんですけどね。
アベノミクス効果で少しばかり息を吹替えしていた日本経済でしたが、増税を機に、桜の花びらが散る如く冷え込んでしまわないことを祈るばかりです。
桜は来年の春になればまた咲きますが、景気は一度散ってしまうと、次にいつ花を咲かせてくれるかわからないですからね。
安倍さんにおいては、そのあたり、ぜひ抜かりなきよう願いたいものです。


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by sakanoueno-kumo | 2014-04-02 22:53 | 神戸の史跡・観光 | Comments(0)  

軍師官兵衛 第13話「小寺はまだか」 ~姫路城明け渡し~

 黒田官兵衛の嫡男・松寿丸(のちの黒田長政)が織田信長のもとに人質に出された1ヵ月後の天正5(1577)年10月、ようやく羽柴秀吉が播磨国に入ります。兵の数は約4000人。播磨に入った秀吉は、さっそく官兵衛の居城である姫路城に入城します。本来であれば、播磨国制圧の拠点として入城すべきは小寺政職の居城である御着城で、姫路城はその支城に過ぎなかったのですが、秀吉が御着城に入らなかったのは、政職の去就がいまいちハッキリしなかったためと考えられているようです。理由はどうあれ、家老の息子を人質に出させた殿様ですからね。秀吉が信頼を置こうとしなかったのは無理もないことだったでしょう。

 秀吉を迎え入れた官兵衛が、そのまま秀吉に姫路城を献上したというエピソードは有名ですね。『黒田家譜』によると、官兵衛は秀吉に姫路城を拠点とするよう提案し、一族を父・職隆の隠居城である妻鹿の国府山城に移らせ、本丸を秀吉に、姫路城下の屋敷も秀吉の家臣たちに提供し、自らは二の丸に住んで秀吉に従った、とあります。自分の家をまるごとプレゼントするなんて、なんと太っ腹な・・・と思ってしまいそうですが、どのみち播磨を制圧するために拠点となる城を貸さなければならないのは必定で、だったら、中途半端に貸し出すよりも、いっそ提供してしまえ!・・・といった思いだったのでしょうか。最高の「お・も・て・な・し」ですね(笑)。

 この官兵衛の姫路城明け渡しについて、作家・司馬遼太郎氏は『播磨灘物語』で次のように書いています。
 「異常なことといわねばならない。武将にとって城は自分の組織を肉体化したものというべきであり、敵が攻めてくればそれを死守するというのに、それをひとに遣るという。城を出た軍勢というのは、拠るべき場所を失うだけに、防御力においては放浪の集団にひとしい。」
 武士にとって城を譲るということは、身体の一部を削るも同じだということですね。黒田官兵衛という人は、そういう観念的な精神は淡白な人物だったのでしょうか?

 もっとも、現代の私たちの思うマイホーム的価値観と違って、この頃の代官の住む城というのは、お役所と住居が一緒になったような半分公的なもので、いまでいう官邸のような感覚のものだったと思います。したがって、居城=財産といった意識は薄かったと思うんですね。そう考えれば、自分より偉い人が派遣されてきたんだから、お城を明け渡して、自分は狭いところに引っ越しするのが当然だと考えたんじゃないでしょうか。

 ドラマでは城を献上されたお礼として、秀吉から官兵衛に対して義兄弟の誓紙が贈られていましたが、実際には、播磨に入国する3ヵ月前に秀吉が官兵衛に送った書状のなかに、そのような文面が見られます。その内容は、「其の方の儀は、我らの弟の小一郎(秀長)め同然に心やすく存じ候」というもの。実の弟である羽柴秀長と同じくらい信頼している・・・というのだから、義兄弟といっても過言ではないでしょうね。

 また、書状には「何事を皆々申すとも、其方直談を以て、諸事御さばきあるべく候」(誰がなんといおうと、そのほう(官兵衛)と相談して事にあたって行きたい)とも記されています。秀吉が播磨出陣にあたって、どれほど官兵衛を頼りにしていたかが伺えますね。さすがは人たらしと言われた秀吉、播磨や中国地方の地理や政情に明るい官兵衛を取り込むためには当然の方便だったかもしれませんが、その後の二人の関係をみれば、それ以上に秀吉は官兵衛の能力を買っていたのでしょう。いくら大軍を率いていても、一介の百姓から急速に栄達を遂げた秀吉の周りには、本当に信頼できる協力者は、そうはいなかったはず。その意味でも、秀吉はどうしても官兵衛を取り込みたかったのでしょうね。その思いに、姫路城明け渡しという大胆な行動で答えた官兵衛。これを機に、二人の信頼関係がより一層深まったことは間違いありません。


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by sakanoueno-kumo | 2014-04-01 00:21 | 軍師官兵衛 | Comments(2)