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軍師官兵衛 第26話「長政初陣」 ~黒田長政の初陣と恵林寺焼き討ち~

 天正9年(1581年)ごろに元服した松寿丸は、名を黒田長政と改めます。長政の「長」は、おそらく織田信長から偏諱をもらい受けたものでしょう(同時代、織田傘下に長政という名が多く存在しますが、おそらく、どれも信長から賜ったものだったと考えらます)。主君より偏諱を賜るということはたいへん名誉なことだったでしょうが、かつては信長に殺されかけた長政。その偏諱を名のるというのは、なんとも複雑な思いだったかもしれません。

この時期、黒田官兵衛が従う羽柴秀吉軍は、いよいよ毛利軍の本陣に迫るべく、備前備中征伐を開始していました。おそらく、長政の初陣はその一連の戦いであったと考えらます。ドラマでは、まず参陣したのは備前国児島の戦いという設定でしたね。しかし、ここでは長政の出番はありませんでした。この戦いの概要につては詳しくは知りませんが、秀吉の養子となった織田信長の四男・羽柴秀勝の初陣だったようですね。すでに備前国は、宇喜多家をはじめほぼ秀吉の傘下に入っており、ドラマでも言われていたように、秀勝の初勝利がお膳立てされた舞台だったのかもしれません。

 はれて長政の初陣となっていたのは冠山城の戦いで、備中境目七城といわれる備前備中の国境にあった小城攻めのひとつです。備中高松城攻めの前哨戦であるこの戦いで、ドラマの長政はみごとに兜首をあげていました(史実かどうかは知りません)。長政の初陣について『黒田家譜』には、

 「三月十五日、秀吉毛利家の城々を責めんため、播磨但馬因幡の兵を率して姫路を發騎し、備前の浮田秀家の兵を先手として、備中国へ打越、先巣雲塚の城を攻給ふ。此時長政初陣にて、みづから敵を討取、高名せらる」

 と記されています。ここにある「巣雲塚の城」というのが冠山城のことなのかはわかりませんが、自ら敵を討ち取って功名をあげたと書かれていますね。それが兜首だったかどうかは別として、何らかの功名をあげたのは事実かもしれません。しかし、そんな長政を官兵衛は叱責します。

 「おまえは猪か。おまえの戦いぶりは猪武者のそれだ。お前はいずれ黒田家を継ぎ、大将となる身。それが猪のごとく突っ走ってどうする? 考えて動け!」

 大将たるものいたずらに命を危険に晒すものではない・・・と。実際に長政は、よく言えば勇猛果敢、悪く言えば猪突猛進な武将だったようで、この後もたびたび官兵衛から叱責され、重臣からも諌められます。智将・官兵衛の子とは思えない猛将ぶりの長政ですが、結果的に長政は、父とは違うキャラで戦国の世を渡り歩き、黒田家を筑前52万石という大大名に導くんですね。父が偉大すぎただけで、決して凡庸な人ではありませんでした。

 同じ頃、織田軍は甲州征伐で武田勝頼軍を攻め滅ぼしますが、武田家に与していた六角次郎恵林寺に逃げ込みます。織田方はその身柄の引き渡しを寺側に要求しますが、快川紹喜ら僧侶たちは、これを拒否します。怒った信長は、恵林寺の焼き討ちを命令。寺内の僧侶たち150余人を建物内に押し込み、寺院もろとも焼き殺しました。なんとも無残な仕打ちですね。このとき、閉じ込められた多くの僧侶が狼狽え、もがき苦しむなか、ひとり快川紹喜は狼狽えることなく鎮座し、

 「安禅必ずしも山水を須(もち)いず、心頭を滅却すれば火も自ずから涼し」

 という遺偈(ゆいげ)を残して炎に包まれたと伝えられます。さすがは、朝廷より国師号を賜った高僧ですね。みごとな最後です。

 この快川紹喜は、武田信玄の招きによって恵林寺の僧侶となったそうですが、もとは美濃国土岐氏の出身だとも言われます。土岐氏といえば、明智光秀もその一族だといいますから、あるいは、ドラマのとおり快川紹喜と光秀は旧知の仲だったかもしれません。一説には、この出来事が本能寺の変の引き金になったとも言われます。じゅうぶんに考えられる話ですよね。本能寺の変が起こったのは、この2ヶ月後のことでした。


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by sakanoueno-kumo | 2014-06-30 22:25 | 軍師官兵衛 | Trackback | Comments(2)  

日本代表の短いW杯ブラジル大会が終わった。

【クイアバ共同】サッカーのワールドカップ(W杯)ブラジル大会は24日、1次リーグ最終戦が行われ、C組の日本はクイアバのパンタナル・アリーナでコロンビアに1―4で敗れ、2大会連続3度目の決勝トーナ...
日本代表チームのワールドカップが終わっちゃいましたね。
まあ、ギリシャ戦に引き分けた時点で首の皮一枚がかろうじて繋がっている状態でしたから、もとより厳しい道のりであることはわかっていたわけですが、それでも、前半終了間際に同点に追いついて、さらに一方のゲームでギリシャがリードしているという情報が入っときは、あるいは奇跡が起こるかも・・・と、淡い期待を持っちゃったわけで・・・。
後半は、これでもかと言わんばかりに力の差を見せつけられましたね。
攻めなければならない日本にとっては、カウンターをくらうのはある程度仕方がないと解説の名波浩氏が言っていましたが、それにしても、ああも簡単に決められちゃうとは・・・。
コロンビアはベストメンバーを8人も外していたそうですね。
残念ながら、ほとんど子供扱いされて終わったといっていいんじゃないでしょうか。
これが世界との差ですかね。

このたびの結果を受けて、ザッケローニ監督が進めた「攻撃的なサッカー」に批判の声があがりはじめているようですね。
それも結果論といってしまえばそれまでですが、結果がすべてのスポーツの世界で、敗軍の将が結果論で責められるのは仕方のないところだと思います。
4年前の岡田武史監督が守備的なサッカーで結果を出してますしね。
結果が出なければ、結果が出たときと比較されて批判されるのはやむを得ないんじゃないでしょうか。
ド素人のわたしにはよくわかりませんが、でも、あれだけボールを支配しながらも得点できない姿を見ると、やはり攻撃的なサッカーをするには、もっと高いポテンシャルとハイレベルなテクニックが必要なんじゃないかと感じました。
格闘技などでも、格上の相手と対戦するには、まずは防御からですからね。
それを如実に表したのが、今日のコロンビア戦だったんじゃないでしょうか。

あと、期待していた香川真司選手も振るいませんでしたね。
わたし個人的には、彼を応援していたんですけどね(彼の出身地が、わたしの住まいから近いもので)。
結局、今大会1ゴールも決められずにベンチに下がったあとの彼の無念の表情が印象的でしたが、聞けば、最近の彼は、マンチェスター・ユナイテッドでほとんど出番がないそうですね。
いくら高いポテンシャルがあっても、ゲームに出てなければ、試合勘というものは鈍るものなんじゃないでしょうか。
その点、本田圭佑選手は、セリエA・ACミランで、期待はずれと叩かれながらもスタメンで出場しているそうですから、この差は大きいのかなあと。
これはサッカーに限らず、メジャーリーグに移籍する野球選手にも思うことですが、よりハイレベルなところに身をおきたいという思いはわからないではないですが、そこで出られないようでは、本末転倒なんじゃないかと思うんですね。
スポーツ選手は、ゲームに出てナンボでしょう?
ハイレベルなところでベンチを温めるだけなら、レベルを下げて活躍できるところに身をおくべきだと思うんですけどね。

日本が子供扱いされたコロンビアは、16年ぶりのW杯出場だそうですね。
ギリシャは2大会連続出場ですが、通算では4回目の出場。
コートジボワールは、3大会連続3回目の出場だそうです。
で、日本はといえば、あのドーハの悲劇以降、5大会連続出場なんですね。
こうして見ると、グループCのなかでは日本がいちばんW杯を知っているわけで、でも、結果はグループ最下位なわけで・・・。
つまりは、アジアは日本と韓国ばかりが出続けられるレベルだということですね。
高校野球でいえば、激戦区大阪代表の初出場校と島根県代表の常連校みたいな(笑)・・・(島根県の方スミマセン)。

でも、仮にも5大会連続出場国ですから、そろそろ、参加することに意義があるW杯は卒業しなければならないときでしょうね。
解説の松木安太郎さんも言っていましたが、今回の結果を踏まえ、日本サッカーは根底から見直す時期にきているのかもしれません。
とにもかくにも、日本代表の短いW杯ブラジル大会は終わりました。
明日から、4年後に向けてスタートです。


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by sakanoueno-kumo | 2014-06-25 22:20 | 他スポーツ | Trackback | Comments(0)  

軍師官兵衛 第25話「栄華の極み」 ~鳥取城の戦いと宇喜多直家の死と安土城のライトアップ~

 三木城を落とした羽柴秀吉は、すぐさま但馬国・因幡国を平定すべく鳥取城の攻略にとりかかるのですが、ドラマでは完全スルーでしたね。「鳥取の飢殺し」と称された鳥取城の戦いは、同じく「三木の干殺し」と称された三木合戦とともに、日本史上もっとも有名な兵糧攻めのひとつです。その凄惨ぶりは三木合戦に勝るとも劣らず、残されている記録によれば、飢餓の極致に達した者たちは、人肉をも食らったとか。その概要を示すと、

 「飢餓を極めた城内では、虫の息になった者たちに人が集まり、刀で関節を切り離し、肉を切り取って食らった。とくに脳味噌は栄養価が高いため、あちこちで首の奪い合いがあった。」

 と記されています。まさに地獄絵図ですね。三木合戦の折は、黒田官兵衛はそのほとんどの期間を摂津有岡城の土牢で過ごしていましたが、この鳥取城攻めでは、秀吉の参謀として大いに腕をふるっていたはずです。ドラマで割愛されたのは、あまりにもおぞましすぎてNHK的に描けなかったのか、あるいは、この残酷な作戦を指揮する官兵衛の姿は、キャラ的にまずかったのか、いずれにせよ、ここまで今年の大河ドラマはたいへん面白いと思っているだけに、少し残念ではあります。本話のタイトルは「栄華の極み」ではなく、「飢餓の極み」でよかったんじゃないかと。

 鳥取城を落とした秀吉は、いよいよ毛利輝元の本拠地である安芸国を目指します。となれば、必ず通らなければならないのが備前国と備中国ですが、あの悪名高き備前の宇喜多直家は、調略によって既に織田方に与していました。しかし、だからといって油断できないのが曲者と言われた直家ですが、秀吉が鳥取城を落とした天正9年(1581年)には、直家は病床についていました。このとき直家の嫡男の八郎(のちの宇喜多秀家)はまだ10歳。自らの余命が残り少ないことを悟った直家は、息子の行く末を秀吉に頼みます。これを秀吉は快諾し、養子にしました。秀吉にしてみれば、願ったり叶ったりだったでしょうね。曲者の親父が病に倒れ、幼い嫡子の後見人になることで、ほとんど労せずして備前を手中にしたようなものでした。直家、よくぞ倒れてくれた!・・・と。

 ちなみに、ドラマの直家は自身の側室・お鮮も秀吉の側女に差し出していましたが、秀吉がお鮮を側室にしたかどうかは定かではないようですが、八郎とともに生母であるお鮮の後見人として宇喜多家をサポートしたのは事実のようです。お鮮はたいそう美人だったといいますから、女好きの秀吉が放っておいたとは考えづらいですね。直家、よくぞ倒れてくれた!・・・と(笑)。

 「栄華の極み」とは、安土城のライトアップだったんですね。『信長公記』によると、天正9年(1581年)7月15日、織田信長は安土城天主と惣見寺に数千の提灯をともし、新道や江の内の舟上で馬廻に松明をかかげさせ、山上を照らし出させたといいます。城の明かりは湖面に写り、その美しさは、この世のものとは思えないほどで、京や大坂から見物客が群れをなして集まったと伝えられます。イエナリエならぬ、城ナリエですね。そもそも戦国時代の城とは、戦のための大規模な砦であり、のちの時代のそれのように美を求めるものではありませんでした。ましてや、城を明かりで装飾するなどといった発想は、奇才信長以外には考え及ばなかったでしょうね。かつて見たことのない美しい光景に、当時の人々は、信長の威光新しい時代の訪れを感じたことでしょう。

 「宇喜多家は秀吉に賭ける。あの男は天下を取れる器じゃ。・・・信長は危うい。」

 まるで未来を知っているかのような死際の直家の台詞ですが、秀吉の天下を予見できたかどうかは別にしても、信長が危ういという見方は、あるいはこの時代の多くの者が感じ始めていたかもしれません。天下統一を目前にし、まさに「栄華の極み」にあった信長ですが、恐怖政治が長続きしないというのは、歴史の示すとおりでした。

 「わしとて上様が恐ろしい。だが、それゆえ懸命に働くのだ。」

 そう言った明智光秀が本能寺を攻めたのは、安土城のライトアップから1年足らずのことでした。


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by sakanoueno-kumo | 2014-06-24 22:18 | 軍師官兵衛 | Trackback(1) | Comments(2)  

軍師官兵衛 第24話「帰ってきた軍師」 ~三木合戦の終結と小寺政職の逃亡~

 黒田官兵衛が有岡城に幽閉されたため戦線離脱してしまった羽柴秀吉三木城攻めは、有岡城が落城して官兵衛が帰還してもなお続いていました。秀吉がとった作戦は、三木城の周辺に付城を構築して持久戦に持ち込むというもので、『信長公記』によると、秀吉の築いた付城は5~60に及んだといいます。毛利氏は三木城に籠城する別所氏に兵糧を補給するため、さまざまなルートから搬入を試みますが、秀吉による包囲網はこれをことごとく遮断。じわじわと別所陣営は追い詰められます。後世に「三木の干殺し」と称される最も有名な兵糧攻めですね。

 籠城兵が餓えに苦しむなか、秀吉はそれを日和見に茶会を催したといいます。なんとも残酷で趣味の悪いいやがらせですよね。やがて城内の食糧が底をつくと、餓死者数千人に及んだといいます。飢えた城兵たちは、はじめは飼葉(馬の餌)を食べていたそうですが、それが尽きると、を食べ、さらにはネズミ土壁のなかのをも食べたといいます。その光景はまさに地獄絵図。よく、兵糧攻めは血を流さない戦法のため、人をあまり殺さない方針の秀吉が好んだ人道的な策と勘違いする人がいますが(また、そう描いているドラマなどがありますが)、実際には、餓死ほど酷い殺され方はなく、むしろ極悪非道な戦法といっても過言ではありません。秀吉や竹中半兵衛(もしくは黒田官兵衛)が殺したくなかったのは、自軍の兵のことであり、決して、血を見ることを好まなかったというわけではなかったと思います。

 天正8年(1580年)1月、長い籠城戦に力尽きた籠城軍は、城主・別所長治とその一族の切腹と引き換えに、城兵たちの助命を求め、秀吉もこの条件を了承します。このとき長治は若干23歳。若き領主の自刃によって、1年10ヵ月に及んだ三木合戦は終結しました。以下は、長治の辞世の句です。
 「いまはただ うらみもあらじ諸人の いのちにかはる 我身とおもへば」

 長治の死によって、生きながらえていた城兵たちの命は助けられたというのが通説でしたが、近年の研究では、その後、城内の兵たちはことごとく首をはねられた、という記述がいくつかの史料に確認されているそうで、最近では、その可能性が高いと見る歴史家の方々が多いそうです。籠城兵を助けたという美談は、のちの備中高松城の戦いと混同されて伝わった話かもしれません。どうもこの頃の織田軍は、戦後処理の大量虐殺がお好きなようで、後味の悪い結末が目立ちますね。

 後味が悪いといえば、官兵衛のかつての主君・小寺政職。三木城が落城すると、たちまち御着城を捨てて逃亡します。自分が陥れた官兵衛が生きて戻ってきたことも、政職にとっては恐怖だったでしょうね。「なんで殺さなかったんだ!村重!」と思ったに違いありません。官兵衛が生きて戻ってきたからには、追っ付け「自分を討ちにくるに違いない」・・・おそらくそう考えた政職は、西へ西へと流浪し、毛利領の備後国鞆の浦へ落ち延びたといいます。先述した別所長治が、若干23歳ながら自らの死と引き換えに家臣の助命を嘆願したことを思えば、なんとも情けない最後ですね。小寺政職という人は、身分の低かった黒田職隆・官兵衛親子の能力を見出して引き上げるなど、決してドラマで描かれているようなどうしようもない暗君ではなかったと思いますが、官兵衛を陥れたことと、人生最後の往生際の悪さが、後世に評価が低い所以でしょうね。

 結局、毛利領に亡命して数年で政職はこの世を去りますが、その子・小寺氏職(ドラマではいつきという幼名)は、のちに官兵衛によって客分として迎え入れられ、さらにその子たちは、福岡藩士として代々黒田家に仕えます。あまりにも寛大すぎる官兵衛ですが、寛大な処遇を受けた政職の子孫たちは、決して居心地はよくなかったでしょうね。


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by sakanoueno-kumo | 2014-06-17 23:16 | 軍師官兵衛 | Trackback(1) | Comments(2)  

W杯ブラジル大会1次リーグ初戦・コートジボアール戦は惜敗?完敗?

日本は勢いに乗った相手の攻撃を止められず、逆転負けを喫した。前半16分にスローインから本田のゴールで先制したものの、攻撃に持ち味のスピードや連係の良さがみられなかった。ゴールを脅かせないまま後半...
負けちゃいましたね、日本。
FIFAワールドカップブラジル大会1次リーグの初戦で、日本は1-2でコートジボアールに敗北を喫しました。
前半16分に本田圭佑選手のゴールで先制した日本でしたが、その後はピンチに次ぐピンチの連続で、後半19分と21分、まるで再現VTRを見ているかのごとく左サイドからの同じパターンで連続失点
ここまで、攻められながらもなんとか踏ん張っていた守備陣でしたが、不意を突かれて失点し、その落胆から気持ちを切り替える間もなくまた失点、といった感じでしたね。
コートジボアールは、この少し前にベテランのドログバ選手を投入し、そこから一気にチームのムードが変わったと解説の岡田武史氏が語っていましたが、ドログバ選手が入ったことによって、日本チームのムードも変わったようにも思えます。
必要以上にドログバ選手に意識がいき、そのせいで他がおろそかになったというところがあったんじゃないかと・・・。
世界的一流選手のもつオーラというのは、自陣、敵陣の両方に大きな影響を及ぼすんですね。
日本には、残念ながらそこまでの選手はいませんよね。
その差が出たのかな・・・と。

W杯でしかサッカーを観ない素人のわたしですが、今日の試合は1-2というスコア以上の差があったということはハッキリわかりました。
1次リーグの対戦相手でいちばんランキングの低いコートジボアール相手でこの差ですから、それより上位のコロンビアギリシャとの差は歴然としているのでしょうね。
ただ、それでもスコアでみれば1点差の惜敗
あの2分間がなければ、攻められながらも逃げ切るといった結果もあったわけです。
もとより日本は、ランキングでいえばリーグ最下位、どこと戦っても強敵であることに変わりはありません。
でも強いほうが必ず勝つとは限らないのがスポーツの醍醐味ですよね。
すべてがランキングどおりの結果になるのであれば、そもそもこんな大会なんて盛り上がらないわけで、前回の南アフリカ大会でも、優勝候補に挙げられていた国がことごとく1次リーグで敗退するといった番狂わせがありました。
日本は気持ちを切り替えて、次のギリシャ戦に臨んでほしいと思います。
先ほどからテレビなどでは、決勝リーグに駒を進めるには残り2勝が必要、1勝1分では難しいなどといっていますが、まだ1点も勝ち点を挙げてないのに、捕らぬ狸の皮算用というものです。
とにかく、ギリシャ戦に全力を注いでほしいですね。
わたしたちも、全力で応援しましょう。

って、ギリシャ戦は日本時間で20日金曜日の午前7時試合開始だそうですね。前半は観れるかもしれませんが、後半は通勤移動中になりそうです(泣)。


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by sakanoueno-kumo | 2014-06-15 16:51 | 他スポーツ | Trackback(1) | Comments(4)  

ドラマ『影武者徳川家康』にみる、徳川家康影武者説。

今年の元旦に録画していたドラマ『影武者徳川家康』を、半年遅れて観ました。
なぜ半年も観ていなかったかというと、なんといっても5時間スペシャルですからね。
そんな時間が簡単にとれるはずもなく、時間が出来ても、なかなか観ようという意欲がわかず、気が付けば半年も経っていました。
わが家のHDDレコーダーには、そんなドラマや映画がいくつも録ったままになっています(苦笑)。

で、その『影武者徳川家康』ですが、通説では元和2年(1616年)に75年の天寿を全うして病死したとされる徳川家康ですが、実は慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦において討死しており、その後の家康は、徳川家の安泰のために影武者だった世良田二郎三郎が入れ替わった、という仮説をもとに作られた物語で、原作は作家・隆慶一郎の小説です。
この小説をもとにした漫画もあるそうですね。

ただ、この仮説は隆氏の独創ではなく、明治35年(1902年)に村岡素一郎という人が出版した『史疑・徳川家康事蹟』で唱えられた、家康の影武者説がベースとなっています。
それによれば、本物の徳川家康は桶狭間の戦いの数年後に不慮の死を遂げており(当時は松平元康)、このとき嫡男の信康がまだ幼かったため、元康の死を秘匿して、信康が成長するまでその身代りとして世良田二郎三郎元信という人物をたてた、といいます。
この影武者元信が元康になりすまし、清州同盟にて織田信長と同盟関係を結び、その後、名を家康と改名、そこから代行ではなく、実質的に徳川家の棟梁となった・・・と。
後年、信長の命で信康を殺害したのも、その後生まれた実の子に家督を継がせるためだった・・・と説いています。

この村岡説の本は、出版後すぐに絶版となったそうです。
その理由は、徳川氏一族や旧幕臣たちからの圧力だったといいますが、まあ、当時では当然のことだったでしょうね。
その後忘れ去られていた村岡説ですが、戦後の昭和30年代になって、この説を下敷きにした小説がいくつか出版され、再び着目されるようになったそうです。
隆慶一郎氏の小説は、村岡説を基にしているものの、家康が入れ替わった時期が早すぎるとして、家康の人格が変わった1600年頃としたほうが無理がないとし、その起点を関ヶ原の合戦にしたそうです。
たしかに、このほうが信憑性がありますよね。

といっても、家康が入れ替わったなどと裏付ける史料などは存在せず、いずれも俗説邪説に過ぎません。
しかし、まったくもって荒唐無稽な話かといえば、必ずしもそうとも言えないんですよね。
というのも、戦国時代の名だたる武将たちの多くが、戦場で身を守るために影武者を仕立てたといわれ、家康もまた、影武者を多用したといわれています。
徳川家康という名を知らない武士はいなかったでしょうが、テレビも新聞も週刊誌もないこの時代、家康の顔を見知っている者は、それほど多くはなかったでしょう。
一部の側近のみの秘密として他人が入れ替わることも、出来なくはなかったでしょうね。
それに、将軍職を徳川秀忠に譲ったあとの家康は、駿府に政庁を開き、幕府とは別の政権、いわゆる二元政治が行われます。
これを、替え玉家康と秀忠の対立と考えることも出来なくはないですね。
まあ、かなり無理がある解釈ではありますが・・・。

ほかにも、家康の影武者説はいくつかあるようですが、その真偽は別にして、それだけ複数の俗説が生まれるということは、家康が当時としてはかなり長寿だったことと、晩年の家康がそれまでの家康と別人のような人格になったこと、秀忠との不仲説などなど、そう考えたくなるような要素がたくさんあるからでしょうね。
村岡説は明治時代のもので、江戸時代には神君である家康の出自をあからさまに疑うなどあり得なかったことでしょうが、あるいは、俗世間では囁かれていた話だったかもしれません。

あと、通説では関ヶ原の合戦で討死したはずの島左近が、その後も生き延びて活躍していましたが、これも、そういう俗説があるようですね。
この説の根拠は、左近の遺体は合戦後も見つかっておらず、その後も京のまちで左近を目撃したという情報が相次いだといいます。
まあ、この種の生存説は、左近のみならず、多くの武将にある話ですけどね。
つまるところ、生きていてほしいと願う者たちが生み出したデマと考えるのが正しいんじゃないでしょうか。

こういった俗説ばかりを集めて物語にしたら、それはそれで別の史伝として面白いものができるかもしれませんね。
とにもかくにも、半年遅れのレビューでした。


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by sakanoueno-kumo | 2014-06-14 23:59 | その他ドラマ | Trackback | Comments(2)  

軍師官兵衛 第23話「半兵衛の遺言」 ~日本史上最も残虐な事件~

 本話のタイトルは「半兵衛の遺言」ですが、前話の稿に引き続き、いま少し荒木村重について考えます。 

 有岡城落城に際して織田信長は、「尼崎城(大物城)と花隈城を明け渡せば、女子供は助ける」との条件を荒木方に提示します。城主不在となった城を守っていた荒木久左衛門は、この信長の提案を受け、村重の判断を仰ぐべく妻子たちを人質に残して尼崎城に向かいます。しかし、村重は荒木久左衛門との面会を拒否。窮した久左衛門らは、有岡城に人質の妻子を残したまま逃亡してしまいます。なんか、村重といいその家臣たちといい、どうも武士らしからぬ行動が目立ちますね。こんなんで、よく1年にも及んだ籠城戦を耐えぬいたな・・・と。あるいは、その長きに渡る籠城戦に疲れ果て、正常な判断能力を失っていたのでしょうか・・・。

 しかし、どうあれ信長がそれを許すはずがありませんでした。怒った信長は、見せしめとして、日本史上最も残虐といわれる処刑を、荒木一族に対して行います。重臣の妻子122名が尼崎城近くの七松にての上、長刀によって処刑され、その他510余名の小者や女中たちは、枯れ草を積んだ家屋に閉じ込められ、家もろとも焼き殺されます。そして、村重の妻・だしをはじめ荒木一族36名は、大八車に縛り付けられ京都市中を引き回されたのち、六条河原で首をはねられました。このときの様子を、商人・立入宗継は、「かやうのおそろしき御成敗は、仏の御代より此方の始め也」と、自身の見聞録『左京亮宗継入道隆佐記』に記しています。その後も信長は、逃亡していた荒木一族を見つけ次第、皆殺しにしていったといいます。信長の怒りの激しさが伺えますが、この苛烈な報復行為には、荒木一族のみならず、信長に付き従う者たちも皆、恐れおののいたに違いありません。ドラマでは、複雑な心境を隠し切れない明智光秀の姿が描かれていましたが、あるいは本当に、これも「本能寺の変」に繋がるひとつのきっかけだったのかもしれませんね。

 それにしても理解できないのは、村重の行動ですね。妻子を置き去りに城を抜けだしたことはもちろん、その後の信長の提案に乗らず、一族を見殺しにした事実も、後世にして「卑怯者」と罵られる所以です。もし、このとき観念して信長の提案をのみ、自身の腹を切って妻子を助けていたら、後世の評価もずいぶん違ったものになっていたことでしょう。というのも、ドラマでは、尼崎城を出たあとの村重の行方は、「ようとして知れなかった」と濁していましたが、史実では、その後も摂津花隈城に逃げ込み、最後は毛利領に亡命して隠れていたといいます。これを、しぶといと見るかブザマと見るかは意見が分かれるところでしょうが、せめて、打倒信長を掲げて再起を目指していたと思わなければ、殺された一族が浮かばれない気がします。

 作家・司馬遼太郎氏はその著書『歴史のなかの邂逅』のなかで、この一連の出来事について、
 「われわれが持った過去の事件で、村重に即してみても、虐殺された女子供たちに即してみても、これほど救いがたい事件はないのではないか。」
 と、記しています。残虐な報復行為を指示した信長も、それを見殺しにした村重も、どちらも人格的欠陥者がもたらした日本史上最も救いがたい事件だ・・・と。

 結局、本能寺で信長が落命したことにより、村重の再起はありませんでしたが、その後の村重はに移り住み、千利休らと親交を持って、晩年は茶人として豊臣秀吉に仕えたといいます。これもまた、現代の私たちの感覚では理解しがたい事実ですね。いくら当事者の信長亡き後の世とはいえ、そんな簡単に過去を水に流せるものだろうか・・・と。

 あと、村重と黒田官兵衛のその後の関係についてですが、1年間もの長きにわたって土牢に幽閉され、その後、後遺症に苦しんだ官兵衛。普通なら、官兵衛にとって村重は、殺しても殺し足りないほど憎い相手のはずですが、最近見つかった史料によれば、どうも、それほどでもなかったようなんですね。昨年末の神戸新聞の記事によれば(参照:官兵衛、幽閉への遺恨なし? 荒木村重への書状確認)、有岡城落城から4年後、本能寺の変から1年半後に官兵衛から村重に送った書状が見つかったそうで、そこには、「(秀吉の)お供で姫路においでになると思っていたが、おいでにならず残念。機会があれば会うことを考えている」などと記されているそうです。社交辞令だとしても、とても非道な仕打ちを受けた宿敵に宛てた書状とは思えない内容ですね。

 この時代、妻子や一族に対する愛情も、宿敵に対する遺恨の感情も、私たちの感覚よりもずいぶんとドライなものだったのかもしれませんね。



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by sakanoueno-kumo | 2014-06-10 18:07 | 軍師官兵衛 | Trackback(2) | Comments(2)  

映画『アナと雪の女王』鑑賞記

先日、話題の映画『アナと雪の女王』(吹き替え版)を、寸暇を惜しんで観てきました。
そもそもディズニー・アニメが好きなわけでもないんですが、これだけ話題沸騰の作品となれば、やはり話のネタに観ておくべきなんじゃないかと思い、といっても中年のオヤジひとりで観に行く勇気はなかったところ、たまたま妻と中1の娘が観に行こうとしていたので、便乗したというわけでして・・・(娘には「え〜!お父さんも行くの〜!」と、思いっきり嫌な顔をされましたが)。
さすがに映画館でも、わたしと同年代以上のオジサンは少なかったですね。

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で、観終えた感想ですが、といっても他のディズニー・アニメに詳しいわけでもないので、過去の作品と比較してどうこうというウンチクを垂れられるわけでもありません。
加えて、ミュージカルというものにもあまり馴染みがないので、これまたどう評していいのか難しいのですが、ひとことで言えば、「ふ〜ん。」といった感想です。
ストレートに言えば、期待していたほどではなかったかな・・・と。

たしかに、映像は綺麗だしCGアニメの技術も見応えがあり、音楽も歌も素晴らしく、たいへん良い作品といえるのでしょうが、『千と千尋の神隠し』『タイタニック』をも抜いて日本歴代興収のトップに躍り出ようとしていると聞くと、そこまでスゴイ作品だろうか?・・・と思うんですね。
ストーリーは、昔からあるお姫様ものの延長線上の話で、いたってシンプルなものでしたし、ストーリーに奥深さが感じられませんでした(ミュージカルとは、そもそもそういうものだと言われるかもしれませんが)。
わかりやすいといえばそうなんでしょうが、あれを観て泣いたという人の声が、わたしにはよくわからなかったですね。
あれなら、ジブリアニメの方が100倍感動できますし、ジブリと比較する自体が間違っていると言うならば、同じディズニー・アニメでも、『トイ・ストーリー』の方がはるかに物語に引き込まれました。
引き込まれたところといえば、歌だけでしょうか。
全体としては、展開が早くテンポが良かったので、だらける感はなく、2時間が短くは感じられましたけどね(時間が短く感じるというのは、名作といえるのかもしれません)。
まあ、そもそも観る前から勝手に期待しすぎてて、少しハードルを上げすぎていたのかもしれません。



ところで、注目すべきは、やはり二人の主役の声優さん、エルサ役で主題歌『Let it Go』が大ヒット中の松たか子さんも素晴らしかったですが、アナ役の神田沙也加さんは見事でしたね。
わたしたち世代のオジサンたちにしてみれば、彼女はどうしても松田聖子さんの娘さんという目で見てしまい、聖子さんの結婚、妊娠、出産の過程を見てきたファンとしては、「なんと立派になったものだ」と、勝手に親戚のオジサン感覚で見てしまいます(笑)。
いや〜、たいしたもんですよ。
松たか子さんの歌唱力は、映画を観る前から『Let it Go』を何度も耳にして知っていましたが、神田沙也加さんの歌唱力も、松さんに決して引けをとらないものでしたし、あるいは、お母さんと比べても負けてないかもしれません。
少なくとも、ファンの目から見てもお世辞にも上手いとは言えないお母さんの演技力に比べれば、沙也加さんのアフレコは素晴らしかったですね。
お母さんには絶対できないですよ、声優は(笑)。

ともあれ、話題沸騰の作品を、なんとか旬のあいだに観られてよかったです。
なんだかんだと言いながら、映画を観たあと、気がつけば「♪ありの〜ままの〜♪」と口ずさんでしまっているわたしです。
松たか子さんの歌声が耳にこびりついて離れません。

「♪すこ〜しも寒くないわ♪」

これが、ミュージカルの妙味なのかもしれませんね。



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by sakanoueno-kumo | 2014-06-05 21:37 | 映画・小説・漫画 | Trackback(1) | Comments(6)  

軍師官兵衛 第22話「有岡、最後の日」 ~村重逃亡と官兵衛生還~

 天正7年(1579年)春、京都で療養していた竹中半兵衛は、自らの死期を悟ってか、武士の死に場所は戦場にありとして、播磨国三木城攻めにあたっていた羽柴秀吉軍に加わります。それから間もない6月13日、陣中にて死去します。享年36歳。労咳(肺結核)だったようです。黒田官兵衛の嫡男・松寿丸を匿ってから約半年、誰よりも官兵衛が裏切っていないと信じていた半兵衛でしたが、残念ながら、それを確認することなくこの世を去ってしまいました。

 その頃、官兵衛が幽閉されている有岡城では、期待していた毛利の援軍がいつまでたっても来る気配が見えず、荒木村重は焦りはじめていました。このまま孤立無援状態では敗北は必至、家臣たちのなかには、村重を殺して、その首をみやげに織田信長のもとへ走ろうという空気も立ちはじめていたといいます。そんななか、籠城戦が始まって1年近くたった9月2日、あろうことか村重は、わずかな側近を連れて夜半に城を抜け出し、嫡男・村次のいる尼崎城(大物城)に移ってしまいます。このとき、愛する妻さえ置き去りにしてきた村重でしたが、茶道具は持ちだしています。よくわからない行動ですよね。

 この村重の行動については、はっきりしたことはわかっていませんが、逃亡との解釈が多いようです。敵方のみならず家臣からも命を狙われ、極度の恐怖心を抱いていたのかもしれませんし、妻を捨てても茶道具を持ちだしているところを見ても、正常な心理状態ではない、常軌を逸した行動といえます。そんな追い詰められていく村重の心理状態を、ドラマでは上手く描いていたと思います。

 ただ、一方で、村重が有岡城を抜けだしたのは、再三使者を送って援軍要請しているにも関わらず動かない毛利氏に対して、自ら安芸国に出向いて直談判するためで、持ちだした茶道具はその手みやげだったと見る説もあります。しかし、だとすればその後の村重の行動に矛盾が出てきますし、何より、総大将がいない籠城軍など総崩れは時間の問題。ちょっと無理がある解釈だと思います。やはり、追い詰められて逃亡と考えるのが打倒なんじゃないでしょうか。

 主を失った有岡城は、織田方の調略などで内部から崩れ始め、10月15日、織田軍の総攻撃が開始されます。この大混乱に乗じて城内に紛れ込んだ栗山善助ら官兵衛の家臣たちは、獄中の官兵衛の救出に成功します。栗山善助、母里太兵衛井上九朗右衛門らは、この少し前から商人に変装して城内に侵入し、投獄場所をすでに特定していたといいます。ドラマでは、3人揃って官兵衛を救出していましたが、別の説では、実際に官兵衛を助けだしたのは、善助と銀屋新七という商人だったともいわれます。いずれにせよ、善助がいたのは間違いないようですね。

 助けだされた官兵衛は、1年近くも不衛生で狭い土牢に閉じ込められていたため、膝の関節が曲がり髪の毛は抜け落ち皮膚病を患い、生涯回復しなかったといいます。奇跡的に生還したとはいえ、大きな代償だったといえるでしょう。ドラマの官兵衛は、禿げてないようでしたけどね(笑)。



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by sakanoueno-kumo | 2014-06-04 00:51 | 軍師官兵衛 | Trackback(1) | Comments(3)