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天空の城・洲本城 探訪記 その2 〜黒田官兵衛の武勇伝ゆかりの地〜

昨日のつづきです。
洲本城の最初の城主だった安宅氏は、羽柴秀吉淡路討伐の際に滅ぼされたという話を昨日の稿でしましたが、その際、当時の洲本城主だった安宅清康を討ち取ったのは、今年の大河ドラマの主役・黒田官兵衛だったという説があります。
戦略家として名高い官兵衛ですが、この戦いでは珍しく自ら刀を振るって戦功を上げたといわれ、安宅清康は官兵衛が自ら手をかけた数少ない武将だったと伝えられます。
このとき使用した刀は、のちの「安宅切」と名付けられます。

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ただ、最近の研究では、秀吉の淡路討伐は天正9年(1581年)ではなく、天正10年(1582年)の誤りであったとも言われ、官兵衛は参戦していなかったとする説が浮上してきているようです。
たしかに、有岡城幽閉から救出されて間もない官兵衛が、自ら刀を振って武功をあげたという武勇伝は、少々無理があるようにも思えますね。

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江戸時代に入り、姫路城の城主だった池田輝政の三男・池田忠雄が淡路国の領主になったとき、洲本城は廃城になり、岩屋城由良成山城と拠点を移しますが、大坂夏の陣のあと、阿波国の蜂須賀至鎮が領主となり、その筆頭家老である稲田氏が城代となると、その後、ふたたび拠点を洲本城に戻します。
このときの移転は、「由良引け」と呼ばれるたいそう大規模な移転だったようです。

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このときより、洲本は淡路国の政庁として定められ、明治維新まで稲田氏が城代を務めます。
ただ、平時となった由良引け以降は山頂の城は使用されず、三熊山の麓に新しく築かれた城を居城としたそうです。
だから石垣の傷みが少なく綺麗に保存されているんでしょうね。

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天守からの眺めです。
この日は少しがかかっていたので残念ですが、空気が澄んだ日には、大阪は堺の紀淡海峡から大阪湾を経て神戸までの大パノラマを一望できるそうです。

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昨今、同じ兵庫県内にある竹田城が、「天空の城」として人気ですが、ここもある意味「天空の城」といえます。
あちらが雲海の上に浮かぶ城なら、こちらはまさに本物の海の上に浮かぶ城といったところでしょうか。
メディアの取り上げ方次第では、人気観光スポットになれるのではないかと。
竹田城のように観光客がいっぱいになる前に、一度足を運んでみられてはいかがでしょうか?

天空の城・洲本城 探訪記 その1 〜日本最大級の石垣と日本最古の模擬天守〜

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by sakanoueno-kumo | 2014-07-31 19:49 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(2)  

天空の城・洲本城 探訪記 その1 〜日本最大級の石垣と日本最古の模擬天守〜

過日、淡路島洲本市にある洲本城を訪れました。
洲本市は、淡路島の中核を担うまちで、小泉政権時代の「平成の大合併」で淡路市と南あわじ市が誕生するまでは、島内唯一の市だったところです。
淡路島東海岸に面する市の中心部は、大阪湾に流れる洲本川を中心に平野が広がり、古くから栄えてきました。
その市街地の南に位置する三熊山山頂に、まちを見下ろすように建っているのが、洲本城です。

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洲本城は、室町時代末期の大永6年(1526年)に、三好氏の家臣で紀州熊野水軍安宅治興が、この地に築城したことに始まります。
といっても、当時の安宅氏は同じ洲本市内にあった由良城を本拠としており、洲本城は島内8ヶ所に築いた支城のひとつに過ぎず、山頂の砦のようなものだったようです。

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それから約半世紀後の天正9年(1581年)、羽柴(豊臣)秀吉淡路討伐の際、安宅氏はあっけなく討ち滅ぼされて、城は仙石秀久に与えられました。
その後、高松城に転封となった仙石秀久に代わって、賤ヶ岳七本槍のひとりとして知られる脇坂安治が洲本城に入り、本格的な天守を築いたとされています。
脇坂安治は、先日紹介した龍野城の城主である脇坂家の始祖にあたる人物です(参照:播磨の小京都、龍野をたずねて その1「龍野城」)。
洲本城主となった脇坂安治は、淡路水軍を吸収し、24年間ここに在城しました。
その間、何度も城の増改築を実施したとか。

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ここ洲本城の見どころは広大な石垣で、同じ兵庫県内で今話題の竹田城に匹敵するほど状態のいい石垣が現存しています。

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東西800m、南北600mに及ぶ総石垣造りの曲輪は日本最大級とも言われ、400年前の姿をそのまま残す遺構は全国でも貴重な存在だそうです。

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写真は、本丸へと続く大石段
斜面に築かれた階段状の登り石垣は希少で、他には、松山城彦根城にしか現存していないそうです。

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大小の自然石を積む穴太積が特徴です。

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現在の天守は模擬天守で、当時の天守よりはスケールダウンしたものだそうです。
もっとも、この模擬天守が建てられたのは、昭和天皇即位式を記念した昭和3年(1928年)のことで、模擬天守としては日本最古のものだそうです。
模擬といっても、年代を重ねれば、それはそれで価値が出るもので・・・。
プレミアのついたプラモデルのようなものでしょうか。

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長くなりそうなので、後日、その2に続きます。

天空の城・洲本城 探訪記 その2 〜黒田官兵衛の武勇伝ゆかりの地〜

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by sakanoueno-kumo | 2014-07-30 22:33 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

軍師官兵衛 第30話「中国大返し」 ~天下人への大いなる助走~

 毛利氏との和睦交渉に決着をつけた羽柴秀吉は、ただちに織田信長弔い合戦の途につきます。世にいう「中国大返し」の始まりですね。通説では、清水宗治が切腹した2日後の6月6日に備中高松城を出発すると、約80km離れた姫路に、わずか一昼夜で到着したと言われています。80kmと聞けば、現代のマラソントライアスロンのアスリートならわけない距離と思いがちですが、今のようにジョギングシューズを履いているわけでもなければ、アスファルトで舗装された道でもありません。道中は大きな川をいくつも渡り、山越え谷越えの80kmです。加えて、途中から暴風雨だったといいますから、いかに過酷な進軍だったかがわかります。しかも、これが少人数ならともかく、約2万5千人とも言われる兵が一斉に移動したわけですから、いまでいえば、東京マラソン大阪マラソンの参加者と同じくらいなわけで・・・。おそらく、想像する以上にすさまじい行軍だったはずです。

 黒田官兵衛の居城である姫路城についた秀吉軍は、約1日半の休憩をとります。このとき、秀吉は城に貯蔵していた金銭米穀を、すべて兵たちに分け与えたといいます。これは、兵たちに対する慰労であるとともに、再び姫路城に戻ってくることはない、目的は明智光秀討伐以外にないという、背水の陣の決意表明でもあったとされています。過酷な行軍で疲労困憊していたであろう兵たちですが、社長直々に労をねぎらわれ、臨時ボーナスが支給され、大きな仕事に向けてのビジョンが明確にされたわけですから、社員がやる気にならないわけがありません。秀吉の優れた経営手腕がうかがえますね。

 9日に姫路城を出発した秀吉軍は、その日のうちに明石、翌日には兵庫に入ります。しかし、ここから先は摂津国。ここまでの播磨国は秀吉の配下にありましたが、摂津国内の領主たちの去就は、はっきりとしていませんでした。そこで秀吉軍は、摂津国に入国するに際して、毛利家の軍旗を掲げます。これは、備中高松城にて講和が成立した際、小早川隆景から借り受けていたものだそうで、これを見た摂津の領主たちは、秀吉軍に毛利軍まで加わったと解釈し、ことごとく秀吉の傘下に下ったといいます。これが官兵衛のアイデアだったかどうかはわかりませんが、なかなかな用意周到さですね。こうして、茨木城の中川清秀や高槻城の高山右近らを味方につけた秀吉軍は、11日に尼崎、12日には富田に着陣します。

 本能寺で信長を討った明智光秀は、まず、信長の居城だった安土城に入城し、そして、長浜城、佐和山城を攻略し、一時は近江一帯を手中に収めます。しかし、味方についてくれると信じていた丹後の細川幽斎(藤孝)・細川忠興父子や大和の筒井順慶など、かねてから昵懇の諸将からことごとく援軍要請拒否され、朝廷を味方につけようとするも、これも思うようにことが運ばず、誤算に次ぐ誤算といった状況に陥ります。そんななか、秀吉軍が信じられないスピードで戻ってきたという大誤算の仰天ニュースが入ってくるんですね。結局明智軍は、孤立無援の状態で秀吉軍を迎え撃たざるを得ませんでした。

 6月13日、天王山と淀川に挟まれた山崎にて、決戦の火蓋が切られました。世にいう「山崎の戦い」ですね。後世に「ここが勝負の天王山」という言葉まで生んだ日本史のターニングポイントですが、戦い自体は、わずか1日であっけなく決着がつきます。その理由は、明智軍1万5千に対して秀吉軍3万とも4万ともいわれる圧倒的な兵力の差もあったでしょうが、なにより、「中国大返し」という大進軍を成功させ、不可能を可能にして勢いに乗った秀吉軍と、信長を討ったあとことごとく裏目裏目にはたらいて、意気消沈ぎみだった明智軍との、モチベーションの差が大きかったでしょうね。両軍の合戦を迎えるまでのプロセスで、すでに勝負はついていたといえます。

 敗れた光秀は、本拠地である近江坂本城に向かう途中に落ち武者狩りに遭い、竹藪で非業の死をとげます。「本能寺の変」から、わずか11日後のことでした。世にいう「明智光秀の三日天下」です。

 一方の秀吉は、ここから一気に天下人への階段を駆け上っていきます。次回のタイトルは「天下人への道」ですが、その意味では、「中国大返し」は、その大いなる助走だったといえるでしょうか。


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by sakanoueno-kumo | 2014-07-28 20:25 | 軍師官兵衛 | Comments(2)  

播磨の小京都、龍野をたずねて その5 「宮本武蔵修練の地・圓光寺」

最後に、播磨六坊のひとつである圓光寺を訪れました。

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播磨六坊とは、蓮如上人が播磨国に浄土真宗を広めるため、文明16年(1484年)に高弟6人が英賀(現在の姫路市南部)に派遣され、その高弟たちが建てた6箇所の寺のことです。
ここ圓光寺の初代当主は多田祐全ですが、残り5人の高弟と五坊を紹介すると、浄覚・光源寺(姫路市)、順念・光善寺(たつの市)、空善・法専坊(姫路市)、善祐・永応寺(赤穂市)、誓元・万福寺(赤穂市)となります。

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元は英賀を拠点としていたそうですが、天正6年(1578年)に羽柴(豊臣)秀吉の命により、この龍野に境内を賜ったそうで、そのとき、圓光寺と号したそうです。

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浄土真宗の開祖、親鸞の像です。

ここ圓光寺に残る伝承として、剣豪・宮本武蔵が慶長年間の一時期、この寺に滞在し、境内の道場で圓明流の師範として剣術指導をしていたと伝えられています。

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宮本武蔵の生涯は不明なところが多く、生年や出生地についても諸説ありますが、武蔵が書き残した有名な兵法書『五輪書』の「序」には、「生国播磨の武士」と記されており、それを元に、現在、高砂市説太子町説などが有力とされています(吉川英治『宮本武蔵』では、お隣の美作国生まれ説を採っていますが)。
ここ圓光寺との関わりは、圓光寺多田家家譜に残る7代目住職の多田半三郎頼祐の名が、圓明流系図のなかに記されており、それによれば、頼祐が武蔵のいちばんの弟子であったと記されているそうです。
これにより、武蔵と圓光寺は深く関わりがあったとされていますが、ただ、この圓明流系図は、武蔵から3代のちで頼祐の孫にあたる多田源左衛門祐久の代に書き記されたものだそうで、どこまで信憑性があるかは疑問とされているそうです。

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あくまで伝承の域を出ない武蔵と圓光寺のつながりですが、現地の説明看板では、「確かな足跡として知られています」と記されていました。
いいのかなあ(苦笑)。

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さて、そろそろこのへんで龍野シリーズを終わりにします。
たった1日だけ休めたGWのドライブ備忘録でした。

播磨の小京都、龍野をたずねて その1 「龍野城」
播磨の小京都、龍野をたずねて その2 「野見宿禰神社~聚遠亭」
播磨の小京都、龍野をたずねて その3 「童謡の里~三木露風の故郷」
播磨の小京都、龍野をたずねて その4 「龍野淡口醤油」


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by sakanoueno-kumo | 2014-07-25 21:04 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(2)  

播磨の小京都、龍野をたずねて その4 「龍野淡口醤油」

龍野城下を逍遥していると、面白いものを見つけました。
それがこれ↓↓↓

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醤油・もろみ自動販売機です。
ここ龍野は、千葉県野田市や銚子市に次ぐ、醤油の生産地なんです(千葉には業界1位、2位のキッコーマンヤマサがありますが、ここ龍野には業界3位のヒガシマル醤油があります)。
醤油のまちならではの光景ですね。
野田や銚子にもあるんでしょうかね?自動販売機。

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その自動販売機が設置されていたのは、老舗のカネヰ醤油株式会社倉庫の入口です。
レンガ造りの煙突や蔵は、明治初期に建てられたものだそうです。
元は龍野藩ゐ蔵を、明治2年(1872年)に譲り受けて出来た会社だそうで・・・。

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龍野の醤油はうす口醤油として知られています。
近くには、うすくち龍野醤油資料館なるところがありました。

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建物は、かつてヒガシマル醤油株式会社の本社だったものだそうです。

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龍野醤油は、天正15年(1587年)に円尾屋孫右衛門、天正18年(1590年)に栗栖屋横山五郎兵衛という人物によってはじめられたと伝わるそうで、その後、寛文6年(1666年)に円尾孫右衛門が創案して以降、うすくちが特色となったそうです。
400年以上の歴史を誇る醤油なんですね。

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上の写真は、明治時代の醤油蔵の帳場を再現したものだそうです。

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麹室です。

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こちらは仕込蔵

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そしてこちらは圧搾場だそうです。
「南方先生、ペニシリンにございます」という声が聞こえてきそうですね(笑)。
あれはヤマサ醤油でしたっけ?

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幕末時代、龍野藩9代藩主の脇坂安宅京都所司代の職にあったとき、この「龍野淡口醤油」販路拡大に力を入れたそうで、それにより、関西の淡口食文化が確立されたのだとか。
そういえば、京料理精進料理などに使われているのも、淡口醤油ですよね。
明治になって龍野藩の醤油蔵を因幡屋浅井弥兵衛が貰い受け、浅井醤油として創業。
それが、今日のヒガシマル醤油株式会社の前身だそうです。

わたしはヒガシマル醤油と聞けば、かつて関西ではおなじみだったTV番組『素人名人会』スポンサーだった企業として記憶しています。
西川きよしさんが司会で桂小文枝師匠(のちの5代目桂文枝)が審査員長の素人参加番組で、関西出身の40歳以上の人なら皆、知ってますよね。
いや~、懐かしい。

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話が脱線しちゃったので、龍野醤油の稿はこのぐらいで。
てなわけで、おみやげは「うすくちしょうゆ饅頭」でした(笑)。
あともう一回くらいつづきます。

播磨の小京都、龍野をたずねて その1 「龍野城」
播磨の小京都、龍野をたずねて その2 「野見宿禰神社~聚遠亭」
播磨の小京都、龍野をたずねて その3 「童謡の里~三木露風の故郷」
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by sakanoueno-kumo | 2014-07-24 21:39 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

軍師官兵衛 第29話「天下の秘策」 ~清水宗治の切腹~

 織田信長横死の報を受けた羽柴秀吉黒田官兵衛は、速やかに高松城攻めを終わらせるべく動き始めます。言うまでもなく、一刻も早く京に戻って明智光秀を討つためでした。陣内に緘口令を敷いた官兵衛は、さっそく毛利方の交渉窓口である安国寺恵瓊を呼びつけ、和睦交渉の譲歩案を提示します。当初、秀吉が提示していた和睦条件は、中国5カ国(伯耆、備中、美作、出雲、備後)の割譲と、高松城主・清水宗治切腹というものでしたが、このとき官兵衛が恵瓊に対して提示した譲歩案は、先の5ヵ国から3ヵ国(備中・美作・伯耆)の割譲と、宗治の首でした。これは、毛利にとっては本領安堵ということ。つまりは宗治の首だけで決着しようというもので、かなりの好条件でした。

 これを好機ととらえた恵瓊は、毛利本陣には無断で高松城に入り、「首一つで城兵の命と主家の安泰が得られる」と、宗治を説得します。もとより「必死の覚悟」で臨んでいた宗治は、城兵の助命を条件に、恵瓊の提案を受け入れます。毛利家にしてみれば、譜代の家臣でもないのに無二の忠節を尽くす宗治に、その首を出せというのはあまりにも不条理であり、宗治が自ら命を絶ってくれることが、かろうじて面目が立つ道でした。それらを鑑み、あえて恵瓊は毛利本陣に無断でことを進めたのでしょう。さすがは、戦国史きってのネゴシエーター恵瓊ですね。

 ドラマでは、官兵衛から信長横死の事実を極秘に聞かされ、そのうえで官兵衛に協力した恵瓊でしたが、もちろん実際には、そんな記録は存在しません。しかし、結果的に見れば、恵瓊の働きがなければ、ここまで速やかに事態の収拾ははかれなかったといえるでしょう。恵瓊は、何らかのかたちで信長横死の情報を得ていたか、あるいは、官兵衛の突然の譲歩案に何かを感じ取っていたか、いずれにせよ、恵瓊の働きあっての「中国大返し」といっても過言ではありません。このときより十数年前の恵瓊が、秀吉の天下を予見していたという話は有名ですが、もとより秀吉を買っていた彼が、ドラマのように官兵衛と内応して事にあたったという見方も、考えられなくもないかもしれませんね。

 あと、ドラマでは、宗治についてこの期に及んで「死なせるのは惜しい」と言っていた官兵衛でしたが、たしかに人物的にはそうだったかもしれませんが、秀吉にしてみれば、どうしても宗治の切腹は譲れない条件だったと思われます。光秀討伐のためとはいえ、大幅に譲歩したうえに敵将の首を討たずに退却したとなれば、見ようによれば敗走したともとれる決着のしかたで、秀吉にしてみれば、どうしても宗治の首を討ち、勝利を決定づける既成事実を敵にも味方にも見せつける必要があったと思います。当初は宗治を懐柔しようとしていた秀吉と官兵衛ですが、この局面では、それはあり得なかったんじゃないでしょうか。

 切腹を決意した宗治は、秀吉から贈られた酒と肴で別れの宴を催し、その翌朝、小舟に乗って城外に漕ぎ出し、水上でを納めたのちに切腹します。本能寺の変からわずか2日後のことでした。このあと毛利軍との和睦が成立すると、秀吉は直ちに城を包囲する堤防の破壊を指示し、すぐさま撤退を開始します。「中国大返し」の始まりですね。

 清水宗治の切腹は、のちの武士の哲学ともいえる切腹の儀式の始まりといわれています。これ以前には、切腹の作法は確立されておらず、単なる自殺の手段に過ぎませんでした。戦において捕らえられた武将は斬首がほとんどで、身分の高い武将は切腹させるという習慣もありませんでした。しかし、このときの宗治の切腹を見た武士たちが、その潔さに感銘を受け、一刻も早く京に向かいたい秀吉も、「名将・宗治の最期を見届けるまでは」とその場を動かず、宗治の死に際に敬服したといいます。これ以降、武士にとって切腹は「名誉の死」であるとの認識が広まり、幕末には武士道の象徴的作法となり、「美学」ともいえるほど観念化していくわけです。

 辞世の句 
 「浮世をば 今こそ渡れ武士(もののふ)の 名を高松の苔に残して」


 後年、天下人となった豊臣秀吉が、亡き宗治を「日本一の武辺」と賞賛し、その息子、清水景治に対して大名取り立ての勧誘をしますが、景治はこれを断り、毛利の家臣でいつづける道を選びます。宗治の武辺は、その息子へと引き継がれていたようです。


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by sakanoueno-kumo | 2014-07-22 23:40 | 軍師官兵衛 | Comments(2)  

播磨の小京都、龍野をたずねて その3 「童謡の里~三木露風の故郷」

先週のつづきです。

龍野は、「童謡の里」とも呼ばれています。
というのも、日本人なら誰もが子供の頃に口ずさんだことがある童謡『赤とんぼ』の作詞者である詩人、三木露風の生まれ故郷だからです。

♪夕焼け小焼けの赤とんぼ 負われて見たのはいつの日か♪

聴いたことがないなんて人は、まずいないんじゃないでしょうか。

♪赤とんぼ 赤とんぼ 羽を取ったらアブラムシ♪

の方ではないので、くれぐれもお間違いのなきよう(笑)。

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龍野公園には「童謡の小径」という道があり、その入口には三木露風の歌碑があります。
『赤とんぼ』は、露風が北海道のトラピスト修道院の文学講師をしていた頃、母を想い、子供の頃の郷愁とはるかな故郷「龍野」を思い出して歌ったものだそうです。
大正10年(1921年)に童謡集『真珠島』に発表され、昭和2年(1927年)に山田耕筰が曲をつけました。

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以前は、この歌碑の前に立つとセンサーが反応して『赤とんぼ』のメロディーが流れるようになっていたそうですが、数年前に兵庫県西部を襲った台風被害時の落雷によって、いまは故障しているそうです。
誰か、修理代を寄付してあげてください(笑)。

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この五線譜は、山田耕筰の絶筆だそうです。

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歌碑の近くに建つ露風の銅像です。
似ているかどうかは知りません(笑)。

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坂を下った龍野城跡近くには、露風の生家が公開されていました。

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露風の幼年時代の環境は、5歳のときに父の放蕩が原因で両親が離婚し、祖父に引き取られて育てられたそうです。
♪負われて見たのはいつの日か♪という詩は、きっと3、4歳の頃の母の背中の思い出なんでしょうね。
幼くして離別した母に対する慕情と、ふるさと「龍野」に対する望郷の思いが、国民的愛唱歌『赤とんぼ』を生んだ・・・と、パンフレットに書いてます(笑)。

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とにかく、街中が赤とんぼ推しで、いたるところに赤とんぼが見られます。

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龍野城郭内の衝立です。

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街灯の柱です(笑)。

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マンホールです(笑)(笑)。

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側溝の蓋です(笑)(笑)(笑)。

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市内にある松龍山如来寺の境内には、露風の筆塚がありました。
ここには、露風の遺愛の筆10本が納められているそうです。

正直、山田耕筰の名はよく知っていましたが、三木露風という名は、なんとなく聞いたことがある程度でした。
同時代の童謡の作詞家といえば、まず思い浮かぶのは北原白秋で・・・。
でも、『赤とんぼ』は、童謡のなかでも最もメジャーな童謡といってもよく、たしか、20世紀末に行われた21世紀に残したい童謡ランキングでも、ダントツの1位だったと記憶しています。
そんな、時代世代を超えて歌い継がれるキングオブ童謡が、ここ龍野を歌ったものだったんですね。
この日は、無意識に何度となく『赤とんぼ』を口ずさんでいたわたしでした。
2番以降の歌詞が曖昧でしたが(笑)。

てなところで、後日その4につづきます。

播磨の小京都、龍野をたずねて その1 「龍野城」
播磨の小京都、龍野をたずねて その2 「野見宿禰神社~聚遠亭」
播磨の小京都、龍野をたずねて その4 「龍野淡口醤油」
播磨の小京都、龍野をたずねて その5 「宮本武蔵修練の地・圓光寺」


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by sakanoueno-kumo | 2014-07-17 20:18 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

軍師官兵衛 第28話「本能寺の変」 その2 ~官兵衛の進言~

 昨日(その1)の続きです。

 「本能寺の変」の報が、備中高松城攻めの和睦交渉にあたっていた羽柴秀吉黒田官兵衛のもとに届いたのは、6月3日の夜だったといいます。2日未明に京都で起きた事件の報が翌日の夜には200km以上離れた岡山に届いていたわけですから、尋常ならざる速さです。現代の速達郵便並みのレスポンスですね。この知らせの使者を送ったのは、長谷川宗仁だったといわれています。宗仁は織田信長の奉行衆のひとりで、茶人でもあり画師でもあった人物です。ドラマでも、この説を採っていましたね。

 別の説としては、明智光秀が毛利氏に向けて送った使者が秀吉の陣に迷い込み、それを捕縛して拷問にかけたところ、書状が見つかり、信長落命の事実を知ったともいわれます。この説の出典元は、江戸時代初期に書かれたといわれる『川角太閤記』からのようで、捕まった使者は、光秀の家臣で藤田伝八郎という名の人物だったと伝わり、岡山市には「藤田伝八郎の塚」がいまでも残されているそうです。どちらの説が本当かはわかりませんが、あるいは、どちらも本当だったのかもしれません。京のまちを震撼させたであろう信長の落命。その報を伝える使者は、決してひとりではなかったでしょう。

 宗仁が送った使者に最初に面会したのは、『川角太閤記』によれば秀吉だったとされ、『黒田家譜』によれば、官兵衛だったといいます。どちらが本当か・・・別にどっちでもいいことともいえますが、おそらく密使は身分の低い者であり、まずは参謀の官兵衛が面会したと考えるほうが自然かもしれませんね。『黒田家譜』によると、官兵衛は書状を見て動揺したが、すぐに気を取り直し、使者を労い、酒食を与え、このこと決して他言無用だと釘をさしたとあります。このあたりの描写はドラマのとおりですね。

 で、そのあと秀吉のもとを訪れ、書状を渡します。信長の訃報を知った秀吉は、狼狽し、容易に立ち直れそうにないほど錯乱状態に陥ったといいますが、そんな秀吉に対して官兵衛が囁いた一言は、あまりにも有名ですね。曰く、
 「これで殿のご運が開けましたな!」・・・と。
 この言葉を聞いた秀吉は、自身の心中を何もかも見透かされていることを恐れおののき、以後、少しずつ官兵衛と距離を置くようになった・・・といわれます。官兵衛の鋭敏な頭脳と、秀吉と官兵衛の微妙な関係を知る上で、欠かせないエピソードだといえるでしょう。しかし、果たしてこの話は事実なんでしょうか?

 この逸話の記録としてもっとも古いものは、戦国時代から江戸時代にかけて100歳まで生きたとされる江村専斎の談話をまとめた『老人雑話』だそうです。それによれば、狼狽える秀吉に対して官兵衛は、
「ご運のひらけさせ給うべき時が来たのでござる。よくかんがえさせ給へ」
と述べ、わずか1日半でこの知らせが秀吉のもとへ届いたことを「天のお告げ」だと言って秀吉を奮起させたとあります。

 また、似たようなエピソードは『黒田家譜』のなかにもあり、それによれば、
「信長公の御事ハ、とかく言語を絶し候。御愁傷尤至極に存候。」と、信長の死を悼んだうえで、
「さても此世中ハ畢竟貴公天下の権柄を取給ふべきとこそ存じ候へ」
と述べています。今こそ貴公(秀吉)が天下の実権を握るべきだ!という意味ですね。その理由は、主君を討った光秀は天罰を逃れられないとして、すぐさま光秀を討ち、信長の二人の子息を擁立したとしても、彼らには天下を治める能力はなく、やがて諸大名から侮られるでしょう・・・と。その諸大名の叛乱をみごとに秀吉が鎮めたならば、天下はおのずと秀吉のもとに転がり込んでくる・・・と。なるほど、まるでその後の結果を知っているかのような台詞ですね。まあ、その後の結果を知っている人が書いたものですが(笑)。

 他にも、『川角太閤記』では、「めでたい。博打を打ちなさい」とあり、江戸中期に書かれた『明良洪範』では、「信長殿の死はめでたい」などといった、かなりエスカレートした表現になっています。いずれにせよ、どれも秀吉、官兵衛の死後数十年経ってから書かれたものであり、そのまま信用できる話ではありませんよね。

 ただ、伝えられるように秀吉がひどく動揺していたとするならば、側に仕えていた官兵衛が何らかの言葉はかけたと考えるのは自然だと思います。しかし、それはたぶん、“けしかける”ような言葉ではなく、“励ます”ための言葉だったんじゃないかと。その意味では、『黒田家譜』の記述あたりが、いちばん近かったのではないでしょうか。光秀の天罰云々は、どう考えても結果を知っている後世の創作でしょうが。

 伝承によれば、これを機に秀吉と官兵衛の関係が微妙になっていきます。ドラマではどのように描かれるか楽しみですね。


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by sakanoueno-kumo | 2014-07-15 21:42 | 軍師官兵衛 | Comments(2)  

軍師官兵衛 第28話「本能寺の変」 その1 ~信長の最期と光秀の動機~

 時は天正10年(1582年)6月2日・・・・といえば、言わずと知れた「本能寺の変」ですね。天下統一を目前にした戦国の覇王、織田信長が、最も信頼していた家臣のひとりである明智光秀の謀反によって落命します。享年49歳。日本の歴史が大きく変わった瞬間です。

 「本能寺の変」はほとんどの人が知っている事件だと思いますので、細かい説明は省きます。事件に至る動きは、過去の拙稿『江~姫たちの戦国~第5話「本能寺の変」』でふれていますので、よろしければ一読ください。いままで数々の映画やドラマで描かれてきた「本能寺の変」ですが、どの作品でも概ね同じような演出ですよね。本能寺を包囲した明智軍が鉄砲隊で攻撃し、それを信長自身もをとって応戦するも、腕に銃弾を受け、やがて観念した信長は、殿舎に火を放たせて自刃する、というもの。これまで何度も観てきたシーンですが、これがどれほど事実かといえば、複数の史料を元にした、かなり信憑性の高い描写のようです。

 まず、信長の史料として最も信頼されている『信長公記』の記述から。

 「是れは謀叛か、如何なる者の企てぞと、御諚のところに、森乱申す様に、明智が者と見え申し候と、言上候へば、是非に及ばずと、上意候。」

 有名な「是非に及ばず」の台詞は、ここに記されているものです。「言うまでもない、戦うまでだ!」といった意味でしょう。また、同史料によると、

 「信長、初めには御弓を取り合ひ、二・三つ遊ばし候へば、何れも時刻到来候て、御弓の弦切れ、その後、御鎗にて御戦ひなされ、御肘に鎗疵を被り、引き退き、これまで御そばに女どもつきそひて居り申し候を、女はくるしからず、急ぎ罷り出でよと、仰せられ、追ひ出させられ、既に御殿に火を懸け、焼け来たり候。
御姿を御見せあるまじきと、おぼしめされ候か。殿中奥深入り給ひ、内よりも御南戸の口を引き立て、無情に御腹めさる」


 信長は初めはで、弦が切れてからはで応戦したが、肘に槍傷を受けたため退き、女中たちを逃がし、御殿に火をつけて自害した・・・とあります。ほぼドラマのとおりですね。『信長公記』の著者は信長の家臣だった太田牛一という人ですが、彼自身は本能寺にはいなかったものの、逃された女たちに取材して書いたものだそうです。

 また別の史料としては、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの著書『日本史』に、次のように記されています。

 「厠から出てきて手と顔を洗っていた信長の背中に、明智方の者が放った矢が命中した。信長はその矢を引き抜き、鎌のような武器(長刀)を手にしてしばらく戦ったが、明智方の鉄砲隊が放った弾丸が左肩に命中すると、自ら部屋に入って障子を閉じ、火を放って自害した」

 『信長公記』と少し違うところもありますが、概ね同じストーリーですよね。『信長公記』が書かれたのはフロイスの死後のことで、同じような描写が日本とヨーロッパで執筆されていることを思えば、ほぼ史実とみていいのでしょう。炎の中に消えた信長が、どんな死に方をしたかは、想像するしかありませんが。

 明智光秀の謀反に至る動機については様々な説が乱立していますが、どれも決定的なものはありません。おそらく、永遠に歴史の謎でしょうね。そんななか、これまで小説やドラマなどの物語では、もっともわかりやすい怨恨説で描かれることがほとんどだったと思います。その根拠は、領地を召し上げられたことや、徳川家康の饗応の役を突如解任され、秀吉の援軍を命じられたこと、大勢の前で足蹴にされたことなどなど、どれもありそうなエピソードですね。ただ、このたびのドラマは、そういった理不尽な仕打ちに耐えしのぐ光秀の姿はあまり描かれず、これまでの大河とは違った動機でした。

 「日の本に王はふたりもいらん!」

 つまり、皇位簒奪という意味ですね。信長は天皇を廃して自らが日本の王になろうとしていたのではないかという説です。そのため、朝廷を敬う光秀は決起に至った、あるいは、朝廷に促されて起たざるを得なくなった・・・と。これ、よくNHKがやりましたね。もちろんこれはドラマのオリジナル解釈ではなく、近年、学者さんたちの間でも採られている説のひとつです。たしかに、信長の行動を見ると、朝廷が信長に対してあらゆる官位を授けようと打診しても、信長はこれを固辞し、逆に京のまちで馬揃え(軍事パレード)をして朝廷を威嚇するなど、朝廷ならびに天皇家軽視したかの行動が目立ちますし、何より、比叡山焼き討ち石山本願寺との戦いなど、古い権威を徹底的に排除しようというきらいが伺えます。その意味では、じゅうぶんに考えられる動機ですよね。

 ただ、もし本当に信長が皇位簒奪を目指していたならば、光秀の謀反は帝に対する逆賊の成敗として大いに正当化され、もっと味方を得られたんじゃないかとも思います。ところが、結果は歴史の示すとおりですね。この皇位簒奪説は、考えられなくはないものの、少し深読みし過ぎのような気がします。ドラマとしては面白かったですけどね。「日の本に☓☓☓☓☓☓☓☓」と声を消し、それを聞いた光秀が青ざめて諫めるシーンなどは、上手い演出だなあと思いました。

 あと、信長の正室・濃姫について少し。本能寺のシーンでは自ら刀を振って戦っていた勇ましい妻でしたが、実際の濃姫は、いつ結婚していつ死んだかもわからない、ほぼ謎の女性といっていい存在です。織田家に嫁いですぐに死んだという説や、子どもが出来ずに離縁したという説などさまざまで、斎藤道三の娘と言われていますが、それすら定かではなく、一説には、実在したかどうかすら疑問視する声もあります。本能寺で信長とともに長刀を振るって戦ったという演出は、司馬遼太郎『国盗り物語』からきたものですね。本能寺の戦死者の中に、「お能の方」という女性がいたという説もありますが、それが濃姫だったかどうかはわかりません。

 さて、このときの黒田官兵衛のエピソードまで行きたかったのですが、今回めちゃめちゃ長文になっちゃったので、後日、「その2」につづきます。


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by sakanoueno-kumo | 2014-07-14 22:56 | 軍師官兵衛 | Comments(2)  

播磨の小京都、龍野をたずねて その2 「野見宿禰神社~聚遠亭」

龍野城跡の西側の小高い丘陵地は龍野公園として整備されており(たぶん、かつてはここも城の敷地内だったのでしょう)、そこを通る長い石段を登ると、龍野城主の脇坂家の始祖・脇坂安治を祀る龍野神社と、野見宿禰神社に向かう参道となっています。

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野見宿禰とは、垂仁天皇(第11代天皇)の時代(古墳時代後期)の出雲の人物の名で、『播磨国風土記』によると、相撲の神様埴輪の創始者とも言われています。天皇の御前で、大力無双を誇っていた当麻蹴速と力比べをして勝ったことが相撲の始まりといわれており、その宿禰が、大和から出雲に帰る途中に龍野の地で病死したため、この地に埋葬されたと伝わります。その際、出雲の人々が墓をつくるために野に立ち並び、揖保川から手送りリレーで石を運んだことから、この地を「立つ野」(龍野)と呼ぶようになったとか。もちろん、あくまで伝承に過ぎませんが、その元となる『播磨国風土記』は8世紀はじめに編まれたと言われる史料で、「龍野」という地名の持つ歴史の深さを教えてくれます。

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野見宿禰神社に行くには山道をかなり歩かねばならず、この日はあいにくの雨で足元がぬかるんでいたので、途中までで諦めました。
せっかくなので、看板だけ撮影。

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参道をそれた小高い丘を登ると、聚遠亭(しゅうえんてい)といわれる茶室庭園があります。
ここは脇坂家の上座敷跡で、龍野城下を一望できるたいへん眺めのいいスポットとなっています。

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写真は江戸時代後期に建てられた「浮堂」とよばれる茶室です。
龍野藩9代藩主・脇坂安宅京都所司代の職にあったときに御所が炎上する事件がおき、その際、その復興に功績があったそうで、孝明天皇(第121代天皇)から茶室を賜り、心字池上に浮堂として移築したものと伝わるそうです。

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浮堂の隣にあったこの建物は、裏千家家元15世千宗室が命名した本格的な茶室「楽庵」

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さらにその隣には、江戸時代中期に建設された脇坂家の別邸「御涼所」が並びます。

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この日はあいにくの雨でしたが、晴れた日だと、雅やかな景観美が楽しめたことでしょう。
庭園には楓や桜の木が目立ち、おそらく、桜や紅葉の季節に来れば、いっそう綺麗でしょうね。

そんなこんなで、その3につづきます。

播磨の小京都、龍野をたずねて その1 「龍野城」
播磨の小京都、龍野をたずねて その3 「童謡の里~三木露風の故郷」
播磨の小京都、龍野をたずねて その4 「龍野淡口醤油」
播磨の小京都、龍野をたずねて その5 「宮本武蔵修練の地・圓光寺」




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by sakanoueno-kumo | 2014-07-10 19:33 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(2)