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雨の但馬路紀行 その3 「但馬の小京都・出石城跡」

先週の続きです。
竹田城跡からハチ北高原で宿泊した翌日、「但馬の小京都」と呼ばれる出石のまちを訪れました。
現在は平成の大合併によって豊岡市の一地区となった出石ですが、かつては出石郡出石町として独立していた町で、歴史的に見ても、応仁の乱の西軍の総大将だった山名宗全の本拠として、但馬国の中核を担っていた町です。
山名宗全は、「その2」で紹介した竹田城を最初に築城した人物でもありますね。

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まずは、まちを見下ろす出石城の紹介です。
出石城は関ヶ原の戦い後の慶長9年(1604年)に出石藩2代目藩主・小出吉英によって築城されました。

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山名氏の守護時代は、ここから3kmほど離れたところの此隅山城を居城としていましたが、永禄12年(1569年)の羽柴秀吉但馬攻めで落城します。
その後、秀吉軍と和睦した山名祐豊は、天正2年(1574年)に標高321mの有子山山頂に有子山城を築いて本拠としますが、その後、山名氏は毛利氏方についたため、天正8年(1580年)の秀吉による第二次但馬征伐で有子山城も落城し、かつて日本を二分した応仁の乱の一方の総帥だった但馬国山名氏は、ここに滅亡します。

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その後、秀吉の家臣だった前野長康、そして小出吉政が有子山城主を務めますが、徳川の時代に入ると、有子山の麓に建てられた出石城に本拠が移され、有子山城は廃城となります。
竹田城と同じく、平和な時代に入ると山城は不便ですからね。
このとき、城下町も整備されたそうです。

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その後、徳川幕府によって制定された一国一城令により、但馬国唯一の城郭となります。

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やがて9代続いた小出氏は無嗣改易となり、その後、出石藩主は松平忠周から仙石政明へと引き継がれ、以後、廃藩置県まで仙石氏7代の居城となります。

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明治に入って廃城令により出石城は取り壊されますが、石垣はそのまま残されており、昭和43年には本丸跡に東西の隅櫓が、平成6年には登城門・登城橋が復元されます。

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城跡最上段の本丸のさらに一段高い場所には、有子山稲荷神社があり、そこへ向かう参道には、朱色の鳥居37基も並び、157段の石段があります。

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京都の伏見稲荷大社みたいで、神秘的な空間を演出していました。

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さらに石段を登ると、有子山城跡へ向かう登山口がありました。
しかし、この日は天気が悪かったことと時間がなかったこともあって、ここで断念。
また今度、機会を作って山頂の城跡まで足を伸ばしてみたいと思います。

続いて「その4」では、出石の城下町を逍遥します。

雨の但馬路紀行 その1 「ハチ北高原・ロッヂ野間」
雨の但馬路紀行 その2 「日本のマチュピチュ・竹田城跡」
雨の但馬路紀行 その3 「但馬の小京都・出石城跡」
雨の但馬路紀行 その4 「日本最古の時計台~辰鼓櫓~」
雨の但馬路紀行 その5 「近畿で最も古い芝居小屋~出石永楽館」
雨の但馬路紀行 その6 「桂小五郎潜伏の地、出石」
雨の但馬路紀行 その7 「出石そば打ち体験」

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by sakanoueno-kumo | 2014-08-29 18:17 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(2)  

軍師官兵衛 第34話「九州出陣」 ~九州平定と官兵衛に対する恩賞~

 小牧・長久手の戦いが終わり、毛利氏との領土問題が解決すると、豊臣秀吉にとって残る強敵は土佐の長宗我部氏と薩摩の島津氏でした。そこで秀吉は、まず四国征伐に着手し、わずか2ヶ月で長宗我部元親を降伏に追い込みます。このとき最も活躍したのが、蜂須賀小六黒田官兵衛だったといいます。しかし、四国平定後、蜂須賀家には阿波一国が与えられたほか、秀吉方の諸将にその軍功に応じた恩賞が与えられましたが、官兵衛に対しては、とくに領地などの恩賞を与えた形跡が見られません。どのような事情があったのかはわかりませんが、いかに無欲な官兵衛とはいえ、この処遇は不満だったに違いありません。この事実から、秀吉と官兵衛の関係にこの頃から不和が生じ始めたと見られていますが、実際にはどうだったのでしょうね。ただ、官兵衛は決して冷遇されていたわけではなく、この後も秀吉の片腕として八面六臂の活躍をします。

 四国平定の翌年、官兵衛は秀吉の命で九州征伐に出陣します。それ以前から九州では、薩摩の島津氏と豊後の大友氏で覇権を競っていました。当初は、九州北部6ヵ国を制覇していた大友氏でしたが、徐々に弱体化が進み、天正13年(1585年)の戦いで厳しい状況に追い込まれます。そこで大友宗麟は、関白になっていた秀吉のもとに出向き、豊臣家の傘下に入ることを条件に救援を請います。これを受けた秀吉は、大友・島津両氏に停戦命令を下しますが、島津氏は成り上がりの秀吉を軽視し、これを拒否。怒った秀吉は、天正14年(1586年)7月、島津氏討伐を決意します。このとき、軍目付として戦を仕切ったのが、ほかならぬ官兵衛でした。

 このときの秀吉軍の主力は毛利氏でした。これは、なるべく豊臣本隊を消耗しないための官兵衛の策だったといわれています。ドラマにもあったように、毛利家の吉川元春はこのとき隠居の身で、秀吉からの出陣要請を拒んだとされていますが(そもそも、隠居したのも秀吉に従うことを嫌ってといわれています)、弟の小早川隆景や甥の毛利輝元らの説得により、重い腰をあげたと言われています。

 官兵衛がもっとも力を発揮したのは、合戦前の下準備でした。九州北部の島津方に与する領主に対して、最も得意とする寝返りの工作を行います。しかしその方法は、諸将に面会して説き伏せるという従来の調略ではなく、「やがて秀吉が九州入りした際、味方すれば本領を安堵するが、敵対すれば攻撃する」といった内容の書状を送り付けたといいます。これは、秀吉が九州入りした際に花を持たせるための、官兵衛の演出だったのではないかとも言われています。やはり、そこまで気を使わなければならないほど、二人の関係にはが出来ていたのでしょうか?

 戦いは一進一退で8ヵ月以上に及びましたが、天正15年(1587年)3月、ついに秀吉が九州に入ると、かつての官兵衛の下準備が功を奏したのか、秀吉の到着とともに島津方の諸将が次々に降伏し始めます。そして4月、島津氏は降伏。秀吉の九州征伐は完了しました。

 さすがにこの九州征伐での官兵衛の貢献度の大きさは、誰の目にも明らかだったでしょう。この巧により、ようやく官兵衛にも豊前国6郡12万石が与えられますが、これでも、官兵衛の働きからいえば少ないといえます。このとき小早川隆景は、筑前ほぼ1国と筑後、肥前のそれぞれ1部など合わせて52万5千石を与えられ、また、佐々成政は肥後13郡のうち12郡の50万石を与えられました。官兵衛はこれまで5万石の身でしたから、倍増といえばそうなんですが、でもねぇ・・・。やはり秀吉は、官兵衛に大きな力を与えることを恐れていたのでしょうか?

 いずれにせよ、以後、官兵衛は慣れ親しんだ播磨を離れ、九州に拠点を移すことになります。


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by sakanoueno-kumo | 2014-08-25 18:52 | 軍師官兵衛 | Comments(4)  

雨の但馬路紀行 その2 「日本のマチュピチュ・竹田城跡」

但馬といえば、いま最も人気のスポットは、何と言っても竹田城跡ですよね。
いつの頃からか「日本のマチュピチュ」とか「天空の城」などと呼ばれて注目されはじめ、昨年はなんと来場者が50万人を突破したとか。
10年前は年間1万人ほどだったそうですから、ブームというのは恐ろしいものですね。
で、そういうわたしは、同じ兵庫県民でありながらまだ行ったことがなかったのですが、今回せっかく但馬まで来たので、ブームに乗っかることにしました。
ところが、この日は同じ兵庫県内で冠水被害が出るほどの大雨
寸前までどうしようか迷ったのですが、雨の場合の予定をまったく立てていなかったので、とにかく行ってみることに・・・。

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JR竹田駅と竹田城跡を結ぶシャトルバス「天空バス」です。
以前はマイカーで山頂近くまで登れたのですが、いまは交通費規制がかかって中腹まで。
このバスを利用すれば、歩く距離は最も短くてすみます。
といっても、この日は大雨、そのちょっとの距離でも歩くのは大変なほどで・・・。

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で、なんとか濡れながら城跡に辿り着いたわけですが、景色は濃霧に覆われてほとんど何も見えず、やはりこの天気での登山は無謀だったか・・・とガッカリしていたのですが、山頂についてすぐに雨がやみ、しばらくすると霧が晴れはじめて・・・。

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ついさっきまで数メートル先が霧で見えなかったのに、たった数分で外界まで見渡せるほどに回復しました。
ほとんど奇跡でしたね。

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標高約350mの山頂に築かれた竹田城は、室町時代の嘉吉3年(1443年)に但馬の守護大名で応仁の乱の西軍の総大将だった山名宗全によって築城され、太田垣光景が初代城主に任じられ、以後、太田垣氏が7代に渡って城主を務めました。
その間、但馬の要所であるがゆえ、たびたび標的となり戦火の舞台となりますが、天正5年(1577年)の羽柴秀吉による但馬攻めにおいて、秀吉の弟・羽柴秀長が陥落させて城主に納まります。

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このときの秀吉軍の但馬攻略の目的は、ひとつには中国の毛利氏に帰服する但馬諸将の掌握、そしてもうひとつは、竹田城主の管轄する生野銀山の確保だったと言われています。
この生野銀山から採れる豊富なが、のちの豊臣政権の財政を潤すことになります。
このとき銀山確保を最初に秀吉に進言したのは、ほかならぬ黒田官兵衛だったとか。
さもありなんですね。

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竹田城の石垣は、先日別稿で紹介した洲本城と同じ穴太積みで(参照:天空の城・洲本城 探訪記 その1)、出角部分は算木積みが用いられています。
穴太積みとは、大小の自然石を積み上げたもので、算木積みとは、石垣の出角部分において、長方体の石の長辺と短辺を交互に重ねて積んでいく技法です。
これにより、石垣の強度が増し、崩れにくくなるそうです。
現在残っている豪壮な石垣は、最期の城主となった赤松広秀が整備したものだと言われています。
その後、江戸時代に入って竹田城は廃城
平和な時代に入ると、城はの役目から政庁の役目へと代わり、そうなると、山城は不便ですからね。

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雲海です・・・・というのはウソで、ただの霧です(笑)。
でも、見ようによっては雲海に見えなくもなかったですよ。
雲海も霧も、どちらも水蒸気には違いなく、要は見る側の意識の持ちようで、これも自然の美だと思えば、幻想的な光景なわけで・・・。
無理がありますかね(笑)。

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夏草や兵どもが夢の跡・・・松尾芭蕉ですね。

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見学通路には黒いラバーが敷き詰められていました。
昨年、来場者が増えすぎてケガ人まで出たという報道がありましたが、滑り止めのための配慮でしょうか?
あるいは、来場者が増えすぎて、石垣の上の地表にあったが踏みつけられ、生えなくなってしまったと聞きますが、そのため、草の根で守られていた地表の土がむき出しになり、そのせいで水を多く含んだ土が膨張し、石垣が崩落の危機にさらされているとか。
その保護のための黒ラバーでしょうか?
世界遺産になった観光地もそうですが、ブームになるのも考えものですね。
かくいうわたしも、400年の歴史を踏み荒らしに来たひとりなんですが・・・。

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しばらくしたら、また霧が濃くなってきました。
バスのりばに戻ると、また激しい雨が。
ほんの30分ほどでしたが、なんとも絶妙のタイミングだったようです。
ラッキーでした。
でも、もう一回、今度は晴れた日に来たいですね。

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そんなこんなで、その3につづく。

雨の但馬路紀行 その1 「ハチ北高原・ロッヂ野間」
雨の但馬路紀行 その2 「日本のマチュピチュ・竹田城跡」
雨の但馬路紀行 その3 「但馬の小京都・出石城跡」
雨の但馬路紀行 その4 「日本最古の時計台~辰鼓櫓~」
雨の但馬路紀行 その5 「近畿で最も古い芝居小屋~出石永楽館」
雨の但馬路紀行 その6 「桂小五郎潜伏の地、出石」
雨の但馬路紀行 その7 「出石そば打ち体験」

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by sakanoueno-kumo | 2014-08-23 00:33 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

雨の但馬路紀行 その1 「ハチ北高原・ロッヂ野間」

過日、お盆休みを利用して、兵庫県は但馬地方に1泊2日のプチ旅行をしてきました。
但馬地方とは、旧令制国におけるかつての但馬国のことで、兵庫県北部に位置します。
毎年、夏休みには旧友4家族でコテージやバンガローなどを借りてキャンプをするのが恒例となっており、もう20年近く続けているのですが、今年は全国的に大雨の2日間にぶつかってしまい、とくにおとなりの兵庫県丹波地方では、たいへんな冠水被害に襲われていたようで・・・。
そんな悪条件のなかでのキャンプでした。

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この日宿泊したのは、標高約700mのハチ北高原にあるロッヂ野間
ハチ北高原とは、標高1510mの氷ノ山、標高1221mの鉢伏山など兵庫の屋根と呼ばれる1000m超えの山々が連なる間にある高原で、冬はスキー場、雪のない春から秋にかけては、キャンプやパラグライダーなどのアウトドアのメッカとして人気です。

ただ、先述したとおり、この日は生憎の大雨。
周りは緑に囲まれた高原ですが、持参したバトミントンもバレーボールもキャッチボールの道具も、何ひとつ活躍することはなく・・・。

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それでも、なんとかロッジのガレージを借りてバーベキューは強行しました。
せっかく但馬牛を買い込んできましたからね。

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あと、花火スイカ割りも雨のなか無理やり強行。

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晴れていたら、満天の星空が観られるはずだったんですけどね。
あたりは大自然に囲まれた雄大な高原だったはずですが、気がつけば景色の写真をまったく撮っていませんでした。
だって、ロッヂからほとんど出ることもなかったわけで・・・。

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ひとつだけ良かったのは、高地のうえに雨だったため、外でバーベキューをしていても暑いということはまったくなく、部屋でも、エアコンなしでも寒いくらいで、避暑という意味では快適なひとときでした。
まあ、たまにはこういう年があってもいいのかなぁ・・・と。

そんなわけで、しばらく夏休みの備忘録にお付き合いください。
後日、その2に続きます。

雨の但馬路紀行 その1 「ハチ北高原・ロッヂ野間」
雨の但馬路紀行 その2 「日本のマチュピチュ・竹田城跡」
雨の但馬路紀行 その3 「但馬の小京都・出石城跡」
雨の但馬路紀行 その4 「日本最古の時計台~辰鼓櫓~」
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雨の但馬路紀行 その6 「桂小五郎潜伏の地、出石」
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by sakanoueno-kumo | 2014-08-21 22:21 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(2)  

軍師官兵衛 第33話「傷だらけの魂」 ~荒木村重の最期~

 今回は荒木村重の晩年についての話がメインでしたね。織田信長との戦いに敗れた村重は、毛利氏に亡命し、尾道に隠遁して再起を図っていたといいますが、その後、本能寺の変で信長が横死すると、堺へ移り住み、千利休らとの交流を得て茶人として暮らします。もともと村重は、織田家に仕えていた頃から茶は嗜んでおり、その師は、利休の師のひとりでもある武野紹鴎だったともいわれます。有岡城籠城戦から脱出の折、愛する妻子は置き去りにしても大切にしていた茶道具は持ちだした、というエピソードが残っていますが、このときの茶器は「荒木高麗」と呼ばれ、現代に残されています。妻子の命より重い茶器など、現代の私たちにはまったく理解できませんが、当時、銘器と呼ばれるものには、城をひとつ買えるほどの価値があるものもあったようですから、あるいは、城を捨てて敗走する村重にとっては、再起のための大切な資金源だったのかもしれませんね。

 茶人として堺に移り住んだ村重は、名を荒木道薫と号し、豊臣秀吉御伽衆として仕えます。はじめは、自らの過去の過ちを恥じて「道糞」と名乗っていたそうですが、秀吉に「道薫」と改名させられたとか。御伽衆とは、主君の側近として仕える相談役のような存在で、政治や軍事などのざまざまな分野の経験豊かなスペシャリストが任命される役職です。秀吉は読み書きがあまり得意ではなかったといわれ、それを補うための耳学問として御伽衆を大勢雇っていたと伝えられます。たしかに村重の経験は、ある意味、数奇といえますよね。御伽衆としては、恰好の人材だったかもしれません。

 茶人としても、「利休十哲」のひとりとして名を連ねるほどだったようですが、結局その後の人生は短く、秀吉が関白に就任した1年後の天正14年(1586年)5月に死去したと伝えられます。享年52歳だったと言われますが、信長より年上だったという説もあり、正確なところは定かではありません。一族を皆殺しにされてなお、ひとり生き延びていた最後の数年間はどんな思いだったのか、当人以外にはわかるはずもないですね。一説には、村重が自害しなかったのはキリシタンだったから、とも言われますが、だとすれば、死にたくても死ねない境地は地獄の苦しみだったでしょうね。

 村重とだしの間に生まれた子で、有岡城落城の際に生後間もない赤児だった男児は、乳母に救い出されたのち石山本願寺に保護され、後年、岩佐又兵衛と名乗り、浮世絵の祖とも言われるほどの高名な絵師としてその名を残します。あと、ドラマには出てきませんでしたが、村重には尼崎城花隈城をともに戦った嫡男・荒木村次がいますが、村次も豊臣政権時代まで生き延びていたようです。また、細川忠興に仕えた荒木善兵衛という人物も、村重の子だったという説もあるようですが、真偽は定かではありません。

 荒木村重という人物は、織豊時代の物語を描く上で外せない人物で、過去の大河ドラマでも何人もの俳優さんが演じて来られましたが、今回ほどクローズアップされた作品はなかったんじゃないでしょうか。大概は本能寺の変の伏線として少し描かれるだけですからね。ところが、本作品は黒田官兵衛が主役ということもあって、重要な登場人物として前半の準主役の如くフィーチャーされました。無謀とも言える謀反を起こし、官兵衛を幽閉し、挙句は一族を見殺しにし、しかし自身は信長の死後も生き延びた村重という人物を、後世は高く評価しません。しかし、本作はそんな村重の生き様を、上手く描いていましたね。謀反に至るまでの心境の変化、本能寺の変後の生き恥のさらし方、少しは共感できる部分があったんじゃないでしょうか。村重にとっては、汚名返上の作品でしたね。


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by sakanoueno-kumo | 2014-08-18 19:57 | 軍師官兵衛 | Comments(2)  

軍師官兵衛 第32話「さらば、父よ!」 ~小牧・長久手の戦い~

 天正12年(1584年)、羽柴秀吉によって安土城を追放された織田信長の次男・織田信雄が、東へ流れて徳川家康と手を結び、やがて反秀吉勢力を形成します。この家康・信雄連合軍と秀吉が対峙した小牧・長久手の戦いは、信長の死後、秀吉が初めて敗北を喫した戦いとして伝えられます。秀吉と家康が交えた唯一の戦いとしても知られていますね。家康側だったはずの池田恒興が突如秀吉側に寝返ったことに始まったこの戦いは、兵力では圧倒的に秀吉軍が勝っていたにもかかわらず、家康の巧みな奇襲作戦によって思わぬ大敗を喫します。この戦いで秀吉は、池田恒興や森長可など有力な武将を失います。命からがら逃げ帰った総大将の羽柴秀次を、家臣たちの前で激しく叱責したエピソードはよく知られていますね。

 最終的には、秀吉が信雄を懐柔したことにより、戦いはドローに持ち込まれますが、中国大返し以降、破竹の勢いで天下人に上り詰めようとしていた秀吉にとっては、冷水を浴びせられたともいえる手痛いドローで、また、一方の家康にとっては、のちの豊臣政権下において別格の地位を確立する足がかりとなった戦いといえます。

 この小牧・長久手の戦いに、参謀長であるはずの黒田官兵衛の姿はありませんでした。というのも、このとき官兵衛は、毛利家との領土確定交渉にあたっていたからです。一般的には、備中高松城での講和で領土問題も解決していたかに思われがちですが、実際には、棚上げしていただけだったんですね。あのときは、織田家の家臣としての交渉でしたし、何より、早く京へ帰って明智光秀を討たねばならなかったわけで・・・。

 この交渉を担当したのは官兵衛と蜂須賀小六。いずれも備中高松城攻めでも中心的役割を担っていたふたりですから、至極妥当な人選だったとはいえるでしょうが、強敵家康と対戦するという局面で、これまで最も頼りにしてきたはずの官兵衛を陣から外していたのは不思議ですよね。ドラマのように、官兵衛が家康との戦いに反対だったかどうかはわかりませんが、秀吉は単に家康を侮っていただけなのか、あるいは、俗に言われる軋轢が生じ始めていたのか、いずれにせよ、官兵衛が参謀から外れたこの戦いで手痛い敗北を喫したのは事実で、「官兵衛がいなかったから負けた」という声も、当時からあったかもしれません。とすれば、秀吉にとっては余計に面白くなかったでしょうね。そんなこんなで、二人の間の溝は深まっていったのかもしれません。

 官兵衛の父・黒田職隆が逝きましたね。『黒田家譜』によると、逝去したのは天正13年(1585年)8月22日、62歳だったと伝えられますが、その死因などはわかっていません。ドラマでは、官兵衛や長政を優しく見守るおおらかな人物として描かれていましたが、これも『黒田家譜』によると、「職隆は天性温和にして慈愛が深く、正直にして義を守ること剛毅である」と記されているそうです。実際にも、ドラマのような人物だったのかもしれませんね。職隆のような人望に厚い父が姫路に腰を据えていたからこそ、当主である官兵衛が気兼ねなく領国を留守にして、信長や秀吉のもとで立ち回れたといえるかもしれません。父の後ろ盾あっての官兵衛だったといえるでしょうか。


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by sakanoueno-kumo | 2014-08-11 21:19 | 軍師官兵衛 | Comments(2)  

第44回みなとこうべ海上花火大会観覧クルージング

先週の土曜日、神戸港メリケンパークで行われた『みなとこうべ海上花火大会』に行ってきました。
今年で44回目の開催となるこの花火大会は、毎年約30万人近い見物客で賑わう全国有数の大花火大会で、今年も約1万発の花火が打ち上げられました。
いまや神戸の夏の風物詩としてたいへん人気のイベントですが、実はわたし、子供の頃から神戸に40年以上暮らしながら、この花火大会の見物にきたのは今回が初めてでした。
というのも、わたしは人混みというヤツがどうにも嫌いで、この真夏の酷暑の夜に、人混みにもみくちゃにされるような場所に行く気にはどうにもなれなくて・・・。
そんなわけで、これまでずっと無縁だったイベントですが、今年は、仕事関係の所属団体の企画で、船上でみる花火大会のお誘いがありまして、料金も格安で参加できるということで、だったら一度行ってみようかなあと、重い腰をあげた次第でして・・・。

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神戸中突堤中央ターミナル「かもめりあ」です。
あの神戸のシンボル「神戸ポートタワー」のすぐ西側にある船着場です。
写真を見てもらってもわかるように、この日は朝から生憎の雨
ゆかた姿の若い女の子たちは、ちょっと可哀想でしたね。

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この日乗船した「神戸マリンクルーズファンタジー号」です。
普段は神戸港めぐり観光クルーズとして活躍している船だそうですが、この日は花火見物の貸し切りで、約2時間半のクルージングです。

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天気の悪いなか、18時半に港を出稿しました。
写真をよく見ると、沿岸に人がうじゃうじゃいるのがわかるでしょうか?
こちらは優雅に海上からの見物。
ちょっと優越感です(笑)。

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そもそも、神戸港めぐりの船にのること自体初めてのことで、神戸市民といっても海上から神戸港を眺めるなんてことは普段はないわけで・・・。
東京の人が「はとバス」に乗らないのと同じことです。

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で、船上でみる花火大会を優雅に楽しもうと思っていたのですが、この日は台風12号が九州地方を北上していたときで、その影響からか波がかなり高く、船が揺れる揺れる・・・。
花火観覧のための出港ですから、一定の沖までくると、あとは向きをときどき変えるだけで、ほぼ停泊状態なわけで・・・。
転覆するんじゃないかと思うほどのヒドイ横揺れでした。

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揺れまくる船上のからの撮影のため、ブレまくりの写真です。
たしかに、海上から見ると臨場感は半端じゃなかったですね。
わたしの下手くそな写真よりも、神戸新聞社さんの撮影動画をアップしましょう。



この日はを連れて行っていたのですが、娘は出港してまもなく船酔いしてしまい、ほとんど花火を楽しめていませんでした(苦笑)。
妻もわたしも、船酔いこそしませんでしたが、ああも揺れると、決して気持ちのいいものではなく・・・。
せっかくのクルージングでしたが、残念ながら、優雅な夜を満喫・・・とはいかなかったですね。
まあ、こんな企画でもなければ、わたしが花火大会に足を運ぶことはまずなかったでしょうから、それはそれで良かったのかなあ・・・と。
娘が船のトラウマになっちゃったようですけどね。

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以上、真夏の夜の備忘録でした。


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by sakanoueno-kumo | 2014-08-07 19:35 | 神戸の史跡・観光 | Comments(2)  

軍師官兵衛 第31話「天下人への道」 ~賤ヶ岳の戦いの官兵衛の逸話~

 清州会議柴田勝家とお市の方の婚儀織田信長の葬儀賤ヶ岳の戦い越前北ノ庄城の戦いと、超足早に描かれた本話でしたが、この間、およそ1年近くの時が流れています。これまでの戦国ものの大河作品であれば、3~4話ほどに分けて描かれていた重要なポイントですが、本作ではわずか1話の、それも半分ほどしか使っていませんでしたね。まあ、この辺りの流れのなかには、主役である黒田官兵衛の活躍があまり見えませんから、とくに詳細に描く必要性がないとの判断だったのかもしれませんが、だったら、「天下人への道」というサブタイトルにしなけりゃよかったのになあ・・と。

 で、せっかくなので、ドラマで描かれなかった賤ヶ岳の戦いでの官兵衛のエピソードを紹介します。羽柴秀吉と柴田勝家とが対峙したこの戦い。ドラマでは、あっという間に秀吉軍の勝利で終わった賤ヶ岳の戦いですが、実際には、柴田軍もかなり奮闘し、一時は秀吉軍を劣勢に追い込むほどの猛攻を見せます。さすがは、織田家筆頭家老にして猛将として名高い勝家、明智軍のように簡単にはいきません。

 そんな激戦のなか、柴田軍に圧倒されて弱気になった官兵衛は、戦線に立っている嫡男・黒田長政の安否を気にかけます。長政は自身の武勇に自信過剰なところがあり、無謀に突進して自滅するのではないか・・・そう案じた官兵衛は、家臣の栗山善助を呼びつけ、長政を安全な場所まで逃すよう命じたといいます。子を思う親心とはいえ、戦場の指揮官としてはあるまじきこと。命令を受けた善助は耳を疑いますが、もう一度聞き返しても、官兵衛は引かずに強く命令するため、やむを得ず善助は、長政に理由を告げずに後に従え、馬を駈け出して戦線を退きます。

 ところが、しばらく馬を走らせたところで不審に思った長政は、「もしや逃げるのか?」と善助を問いただします。問い詰められた善助は事情を説明しますが、それを聞いた長政は、「父上がそんな命令をするはずがない。敵に背を向けるなというのが父上の教え。善助の聞き間違いだ!」といい、すぐさま戦線に引き返したといいます。その姿を見た善助は、さすがは黒田家の嫡男だと感涙し、また、これまで見せたことがない官兵衛の意外人間らしい一面に、のちにこの話を聞いた秀吉も笑みを浮かべたといいます。

 この逸話が事実かどうかはわかりませんが、実話だとすれば、いつも沈着冷静公私混同などしないイメージの官兵衛には珍しいエピソードですよね。また、勇猛果敢な長政の人となりもよく出た話だと思います。このとき、秀吉は岐阜城の織田信孝の挙兵に対処するため、一部の兵を率いて岐阜に出撃していました。その機をついて猛攻を仕掛けてきた柴田軍によって、中川清秀が討ち死にし、黒田軍の守る砦が最前線に立たされていました。そんな戦況下で、あるいは官兵衛は討ち死にを覚悟したのかもしれませんね。とすれば、黒田家の家名を残すために嫡男の長政を戦線離脱させるという選択は、当然のことだったのかもしれません。単なる親心というわけではなかったのでしょう。

 そんな長政と、蜂須賀小六の娘・との縁談がまとまりましたね。ドラマのとおり、糸を一旦秀吉の養女に迎え入れての縁談だったようです。黒田家と蜂須賀家は、こののち秀吉が天下人となっていく上で両翼を担うべき両家で、その結束を深める上でも大きな意味を持つ縁談でした。しかし、あくまで糸は長政の「最初の妻」なんですね。その辺りは、今後の物語に譲ることにしましょう。


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by sakanoueno-kumo | 2014-08-04 23:27 | 軍師官兵衛 | Comments(2)