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雨の但馬路紀行 その7 「出石そば打ち体験」

シリーズ最後です。
出石といえば、何といっても『出石皿そば』ですよね。
出石焼の小皿に盛りつけた皿そばを何枚も食べる独特のスタイルは、今ではどこでも見られる食べ方ですが、元はこの出石からの発信です。

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出石に来たからには、やはり『出石皿そば』を食べて帰らないわけにはいかないのですが、せっかくなので、食べるだけじゃなく作ってみよう!・・・ということで、そば打ち体験にチャレンジ。

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で、やってきたのは、そば打ち道場「森の館」
前掛けを身にまとった精鋭たちです。

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入門コースなので、そば玉は支給されます。
それを、のようになるまでねりこみます。

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じゅうぶんにねりこんだら、丸棒を使って玉を均等に伸ばしていくのですが、これが子どもたちには結構難しかったようで、上手くきれいな円状にならないんですね。

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均等に生地を伸ばすと、いよいよ生地を折りたたんでカットします。

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こんな感じです。
写真では分からないですが、実際には、博多ラーメン風の細麺もあれば、名古屋のきしめん調のものもあり・・・。
太さを均等にカットするのは難しかったようです。

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出石そばのルーツは、信州そばにあります。
江戸時代中期の宝永3年(1706年)、信濃国上田藩の藩主だった仙石政明が国替えにより但馬国出石藩に入国しますが、政明はたいそうそば好きだったそうで、信州一のそば職人を連れてきたそうです。
それ以来、出石にそば文化が根付いたそうで・・・。
小皿に分けて盛り付ける現代のスタイルになったのは幕末の頃だそうで、屋台で出すときに持ち運びが便利な手塩皿(てしょうざら)に蕎麦を盛って提供したことに始まったと言われているそうです。

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で、自分たちで打ったそばを食します。
太いのやら細いやら入り混じったそばでしたが、味には関係ありません(食感はやはりプロが打ったものには勝てませんが)。
まあ、話のネタにはなったかなぁと・・・。
出石のまちには50軒以上のそば屋が連なっています。
旅先では旅先の郷土料理を食す・・・これ、旅の醍醐味ですね。

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さて、1ヵ月以上に渡って綴ってきた夏の備忘録ですが、このへんで終わりにしたいと思います。
気がつけば、季節はに入ろうとしていますね。


~おまけ~
出石のまちを逍遥していたら、お城のすぐそばにこんな駐車場を見かけました。

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なんと、家老の専用駐車場!!
ナヌ????・・・と思って裏に回ると、そこには蕎麦屋「家老」という店がありました(笑)。
これ、『ナニコレ珍百景』に出せるでしょうか?

雨の但馬路紀行 その1 「ハチ北高原・ロッヂ野間」
雨の但馬路紀行 その2 「日本のマチュピチュ・竹田城跡」
雨の但馬路紀行 その3 「但馬の小京都・出石城跡」
雨の但馬路紀行 その4 「日本最古の時計台~辰鼓櫓~」
雨の但馬路紀行 その5 「近畿で最も古い芝居小屋~出石永楽館」
雨の但馬路紀行 その6 「桂小五郎潜伏の地、出石」
雨の但馬路紀行 その7 「出石そば打ち体験」



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by sakanoueno-kumo | 2014-09-25 23:33 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

軍師官兵衛 第38話 「追い込まれる軍師」 ~官兵衛を警戒する秀吉~

 「お主の父鎮房は、関白殿下の命により中津にて成敗した。お主にも死んでもらう。腹を切れ。」
 中津城にて留守を預かっていた黒田長政が、宇都宮鎮房謀殺したという知らせを聞いた黒田官兵衛は、すぐさま出陣中の肥後国にて、鎮房の息子・宇都宮朝房の命を奪います。詳細はわかりませんが、自刃させたとも言いますし、家臣によって暗殺されたとも伝えられます。ドラマではどのように描かれるか興味深かったのですが(まさか助けたりしないだろうなぁと)、まずは切腹を申し付け、狼狽える朝房を自らの手で殺害するといった、なかなか迫力あるシーンだったと思います。家臣に首を打たせるのではなく、官兵衛自ら手をかけたところが、もはや後戻りできないといった官兵衛の覚悟がうかがえる演出だったんじゃないでしょうか。喚く朝房に歩み寄った官兵衛の哀れみの目は、死にゆく朝房に向けたものだったのか・・・あるいは、関白殿下の命に逆らえない自身に対するものだったのか・・・。

 朝房と同じく黒田家の人質となっていた鎮房の娘・鶴姫は、哀れんだ官兵衛が豊臣秀吉に助命嘆願し、釈放されてひっそりと暮らした・・・とも言いますが、別の説では、長政によって侍女とともににされて殺害されたとも伝えられます。ドラマでは、の機転によって逃されていましたね。まあ、それもありなんじゃないでしょうか。

 長政は鎮房を謀殺したのち、その亡霊に恐れおののいたとの伝承があります。また、官兵衛は鎮房を謀殺したことを悔い、中津城内に城井神社を創建してその霊を祀りました。他にも、のちに朝房が殺害された肥後国の国主となった加藤清正は、朝房の霊を弔うために宇都宮神社に祀ったといいます。それらの伝承から想像できることは、官兵衛、長政父子にとっても、鎮房謀殺は決して本意ではなかっただろうということ。城井谷の人々は、こののちも黒田家を恨み続け、現代でもその空気は残っているといいます。黒田家にとって大きな汚点ともいえる鎮房謀殺ですが、それほどのリスクを背負ってでも、秀吉には逆らえないといった空気に覆われ始めていた時代だったということでしょうね。

 そんな秀吉が、官兵衛を警戒していたという有名なエピソードが出てきましたね。あるとき秀吉が、「自分の死後、次に天下を治めるのは誰か」と家臣に尋ねたところ、家臣たちが徳川家康前田利家の名をあげるなか、秀吉はそれらをすべて否定して官兵衛の名をあげたといいます。曰く、「官兵衛がその気になれば、自分が生きている間にも天下を取るだろう」と。それを聞いた家臣たちは、官兵衛は小身の大名に過ぎないと答えますが、秀吉は、「官兵衛に百万石を与えたらすぐにでも天下を奪ってしまう」と答えたとか。官兵衛はこの話を伝え聞くと、「我家の禍なり」と、すぐに剃髪して如水と号し、隠居したといいます。

 この有名なエピソードは、幕末の館林藩士・岡谷繁実によって編纂された『名将言行録』に記されたものだそうです。この『名将言行録』は、入念な調査、検証を行って書かれたものではなく、歴史学的には信憑性に乏しい「俗書」扱いされているもののようですね。これと似た話でいえば、『名将言行録』より100年以上前に岡山藩士・湯浅常山によって記された『常山紀談』のなかにある話で、ある日、秀吉が官兵衛に対して次の天下人は誰かと問うたところ、毛利輝元の名前をあげた官兵衛に対して、秀吉は「目の前の者である」と答えたといいます。『名将言行録』のエピソードは、『常山紀談』のなかの話を脚色して盛った話かもしれませんね。ただ、その『常山紀談』も、官兵衛の死後100年以上経ってからの書物であり、信憑性があるとは言えません。つまるところ、秀吉が官兵衛を天下人の器として警戒していたという逸話は、明確な根拠がないんですね。

 しかしながら、火のないところに煙は立たぬ、後世の過大評価も多少はあるでしょうが、秀吉と官兵衛の間に何らかの溝が生じ始めてはいたんでしょうね。秀吉を天下人に押し上げ立役者の官兵衛ですが、それゆえ天下人になった秀吉にとっては、疎ましい存在になっていたのかもしれません。
 「耳の痛いことを言ってくれるお方がおられるうちが花でございます。」
 この千利休の台詞が、案外的を射ているかもしれませんね。


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by sakanoueno-kumo | 2014-09-23 21:40 | 軍師官兵衛 | Trackback(1) | Comments(2)  

軍師官兵衛 第37話「城井谷の悲劇」 ~宇都宮鎮房謀殺~

 肥後国人一揆鎮圧の加勢のために黒田官兵衛が出陣すると、そのタイミングを待っていたかの如く宇都宮鎮房が挙兵します。このとき官兵衛より留守を預かっていた嫡男・黒田長政は、さっそくその鎮圧のために兵を出します。その知らせを聞いた官兵衛は、鎮房の籠もる城井谷城がいかに攻め落とすのが難しいかを説いて制止し、また、家臣の後藤又兵衛も慎重論を唱えますが、血気盛んな長政はそれらの声を振りきり、2000の兵を率いて城井谷城に攻め込みます。しかし、案の定、官兵衛の懸念は的中し、天然の要塞である城井谷城を攻めあぐねた長政は、いたずらに兵を失っただけの大失態を演じてしまいます。勇猛果敢で知られる長政ですが、このあたりのエピソードからは、まだまだ青さばかりが目立ちますね。

 闇雲に攻め入るだけでは落とせないと悟った黒田軍は、官兵衛の帰国後、兵糧攻めを開始。それと平行して宇都宮氏に与する周辺豪族を徐々に撃破していき、宇都宮軍を孤立無援に追い込んでいきます。さらに、黒田軍が毛利氏小早川氏の援軍を得ると、さすがの鎮房も観念し、小早川氏の仲裁の元に和議を結びます。その条件は、鎮房の息子・宇都宮朝房と、娘の鶴姫を人質に出すというものでした。一説には、鶴姫を長政の側室に差し出したという説もありますが、『黒田家譜』ではそれを虚説だとしており、真偽は定かではありません。

 ようやく豊前を落ち着かせた官兵衛は、天正16年(1588年)正月、居城を馬ヶ岳城から中津城へと移します。しかし、人質こそ出したものの、相変わらず城井谷城に居座ったまま黒田家のもとに出仕しようとしない鎮房との間には、依然として緊張感が張り詰めていました。やはり、新しい領主と元の領主が同じ領内で共存共栄するというのは、無理があったのでしょうね。

 春、豊臣秀吉より再び肥後行きを命じられた官兵衛は、鎮房の動向が気になりながらも中津城を離れます。このとき官兵衛は、鎮房より人質として預かった朝房を同行させます。そして、長政にくれぐれも鎮房のこと油断なきよう申し付けたとか。前回鎮房が挙兵したのも官兵衛不在のときでしたから、当然の警戒だったといえるでしょう。そして、案の定今回も官兵衛不在中に事が起こり、結果的に鎮房は、長政によって謀殺されてしまうんですね。

 鎮房謀殺の流れについて『黒田家譜』には、以下のように記されています。これまで城井谷城から動こうとしなかった鎮房が、官兵衛が不在と見るや200の兵を率いて中津城に押しかけ、一礼のためとして長政に謁見を求めてきます。これを受けた長政は、「まことに一礼のためならば、官兵衛・長政父子がそろっているときに、日限を伺って小勢でくるべきであり、案内もなくにわかに押し掛けるなど、無礼の極みである!もし、謁見に至ってなおも無礼をはたらくようであれば、即座に誅殺すべし!」と、家臣たちに命じたとか。そして、謁見した鎮房は、やはり無礼な態度であったため、酒席に乗じて誅殺した・・・と。あくまで鎮房の無礼による討伐だったとの記述です。

 しかし、黒田家主観で記された『黒田家譜』の記述が、どこまで信用できるかは疑問ですよね。作家・池田平太郎氏の著書『黒田家三代』では、鎮房は「傲然と押しかけてきた」のではなく、「おびき寄せられて殺された」のではなかったか、と説いています。ドラマも、その解釈で描かれていましたね。たしかに、そのほうが無理がないように思えます。

 ドラマでは、鎮房謀殺は長政の独断だったように描かれていましたが、肥後に向かう前に官兵衛が命じていたとする説もあります。そのあたりの経緯は、すべて想像するしかありませんが、おびき寄せて殺したという説が正しければ、タイミングを見て事にあたるよう、あらかじめ官兵衛が長政に示唆していたと考ても無理はないですよね。ネタバレになりますが、鎮房謀殺の知らせを聞いた官兵衛は、ただちにその子・朝房の命を奪います。はじめからそれを見据えて肥後に連れていっていたのかもしれません。

 鎮房を討ち取った長政は、その後、合元寺に待機していた200の兵を一人残らず討ち取り、さらに、残党が残る城井谷城へと兵を進め、鎮房の父を殺害し、残った兵を捕縛してにするなど、残酷な刑に処します。おそらくこのあたりはドラマでは描かれないところですが、官兵衛も長政も、九州攻めから豊前平定に至るまで、各地で抵抗勢力に残酷な刑を科しています。これらがすべて秀吉の命令だったかどうかはわかりませんが、新参者が新天地を支配するには、そういった力技もなければ不可能なことで、あまり殺生を好まなかったと言われる官兵衛とて、例外ではなかったということでしょうね。こうした試練を経て、官兵衛は九州に根を下ろしていきます。


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by sakanoueno-kumo | 2014-09-16 21:40 | 軍師官兵衛 | Trackback(1) | Comments(0)  

雨の但馬路紀行 その6 「桂小五郎潜伏の地、出石」

ここ出石は、幕末のある時期、のちに維新三傑となる長州藩士の桂小五郎こと木戸孝允公が潜伏していた町としても知られています。
元治元年(1864年)に起きた禁門の変(蛤御門の変)で長州藩は朝敵となり、追われる身となった小五郎は、新撰組や幕吏の手を逃れて数日間京都に潜伏していましたが、いよいよ身の危険を悟った小五郎は、出石の町人・広戸甚助という人物の助けを得て京のまちを脱出、ここ出石に逃れます。
出石に逃れた小五郎でしたが、当時の出石藩は佐幕派が主流で、長州藩の大物・桂小五郎を亡命させてくれるはずがありません。
小五郎は広戸家で匿われながら、広江屋孝助という偽名を使い、この場所で荒物屋を営んでいたそうです。
長州なまりとか、どうしてたんでしょうね。
いまは蕎麦屋になっているその跡地に、ひっそりと石碑が建っています。

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小五郎が出石に潜伏していた期間は9ヵ月ほどでした。
禁門の変で朝敵となった長州藩内では、一時保守派が政権を握りますが、高杉晋作率いる奇兵隊軍事クーデターを成功させ、再び攘夷派が実権を握ります。
そこで高杉晋作や大村益次郎は、長州藩の統率者として小五郎を迎えるべく探索し、ここ出石に潜伏しているらしいとの情報をつかむと、さっそく迎えの者を送り込みます。
このとき、小五郎を迎えに来たのが、京都三本木の美人芸者でのちに小五郎の正妻となる幾松だったとか。
小五郎は神道無念流剣術の免許皆伝という剣豪でありながら、真剣を用いたという記録はほとんどなく、追われる身となってからも、商人や乞食に変装し、ときには女装までして闘争を避けることに徹していたため、「逃げの小五郎」とあだ名されたとか。
その逃げの小五郎を献身的に庇護していたのが、幾松だったという話は有名ですね。
朝敵となった小五郎が乞食姿に身をやつして二条大橋の下に潜伏したときにも、出石に亡命するまでの間、密かに食料を運んで支えたのが幾松でした。

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幾松が出石に迎えに来てから、20日間ほどここで一緒に暮らしていたと伝えられます。
その後、小五郎と幾松は城崎温泉に行ったとか。
日本人初の新婚旅行をしたのは坂本龍馬おりょう夫妻だと言われますが、こちらは婚前旅行ですからねぇ(笑)。
こっちのほうが進んでいたともいえるのかなぁ・・・と(笑)。

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明治に入って桂小五郎は木戸孝允と改名。
幾松は正式に孝允と結婚し、木戸松子と名乗ります。
「逃げの小五郎」の最も長い逃亡劇の舞台である出石は、小五郎が幾松との結婚を決意したまちでもあったかもしれませんね。

あと1回くらい続けようかどうしようか・・・。


雨の但馬路紀行 その1 「ハチ北高原・ロッヂ野間」
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雨の但馬路紀行 その3 「但馬の小京都・出石城跡」
雨の但馬路紀行 その4 「日本最古の時計台~辰鼓櫓~」
雨の但馬路紀行 その5 「近畿で最も古い芝居小屋~出石永楽館」
雨の但馬路紀行 その6 「桂小五郎潜伏の地、出石」
雨の但馬路紀行 その7 「出石そば打ち体験」


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by sakanoueno-kumo | 2014-09-11 21:45 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

雨の但馬路紀行 その5 「近畿で最も古い芝居小屋~出石永楽館」

先週の続きです。
出石のまちの一角にある「出石永楽館」なるところを訪れました。
ここは、明治34年(1901年)に開館した近畿で最も古い芝居小屋だそうです。

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出石で代々染物を商ってきた小幡家の11代当主・小幡久次郎によって建設されたこの出石永楽館は、上方の歌舞伎、剣劇、落語などが上演され、但馬の大衆文化の中心としてたいへん栄えてたんだそうです。

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しかし、時代とともに大衆文化の中心は映画館へと移り、やがてテレビの普及や娯楽の多様化などにより、昭和39年(1964年)に閉館となりました。

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その後20年余りの時が流れ、往時の永楽館を懐かしむ声があがるようになり、平成10年(1998年)には出石町の文化財に指定され、その後、平成18年から2年をかけて大改修がなされ、44年ぶりに甦ったそうです。
現在では、各種公演やイベントの開催に利用されながら、普段は一般公開として、こうして見学ができるようになっています。

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レトロな看板がなんとも言えない雰囲気を醸し出しています。

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映画などで見る歌舞伎の劇場は、たしかにこんな感じですね。
わたしたち関西人は、歌舞伎にはどうも縁遠くて、わたしもまだ一度も観に行ったことがありません。
吉本新喜劇なら何度か観に行ったことがあるんですけどね(笑)。

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舞台は床が丸く切り抜かれていて(直径6.6m)、回すことができます。
舞台下には奈落があり、人力で舞台を回したり、セリを上下させたりするそうです。

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いわゆる奈落の底です。
こんな場所、なかなか来れるものではありませんよね。
人生の奈落の底に落ちた知人は何人かいますが(笑)。

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舞台の下手にある通路が花道です。
その上が二階枡席ですね。
映画『大奥』で、仲間由紀恵さんが座っていたロケーションも、こんな感じでしたね。

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舞台裏の楽屋、衣裳部屋です。
同じく『大奥』で、杉田かおるさんが火をつけたところですね。
えっ?・・・『大奥』観てない?・・・それはどうも失礼しました。

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ロビー(という呼び名が正しいかどうかはわかりませんが)には、いま大人気のラブリンこと黒崎検査官・・・じゃなかった、6代目片岡愛之助さんのポスターが飾られていました。
なんでも、平成20年の復活こけら落とし公演の舞台に立って以来、毎年この舞台に上がっているそうです。
一昨年までは知る人ぞ知る公演だったそうですが、昨年はチケット販売後すぐに売り切れたそうで・・・。
『半沢直樹』の余波は、こんなところにも波及していたようです。

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まさしく看板スター、ラブリン効果が追い風になって、かつての賑わいを取り戻せたらいいですね。

後日、「その6」に続きます。

雨の但馬路紀行 その1 「ハチ北高原・ロッヂ野間」
雨の但馬路紀行 その2 「日本のマチュピチュ・竹田城跡」
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雨の但馬路紀行 その5 「近畿で最も古い芝居小屋~出石永楽館」
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雨の但馬路紀行 その7 「出石そば打ち体験」


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by sakanoueno-kumo | 2014-09-10 22:24 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

軍師官兵衛 第36話「試練の新天地」 ~豊前6郡入国と肥後国人一揆~

 九州征伐を終えた黒田官兵衛は、その恩賞として九州は豊前6郡を与えられます。豊前6郡をとは、現在の福岡県東部から大分県北部にまたがる地域で、概ね12万石でした。豊前国は8郡あったのですが、残り2郡は毛利勝信に与えられ、豊前一国とはいかなかったわけです。

 この豊前6郡12万石という扱いについて、他の大名に与えられた恩賞や官兵衛の九州征伐での働きから考えると、少ないのではないかという意見があります。これは、豊臣秀吉が官兵衛に大きな力を与えることを恐れていたのではないか・・・という見方ですね。実際に、官兵衛の家臣たちのあいだでは、恩賞の少なさに不満の声が上がっていたとか。一方で、つい3年前に5万石になったばかりだと考えれば、倍以上の加増とも言えるわけで、官兵衛が元は小寺氏の家臣という出自を考えると、妥当だとの意見もあります。どちらの見方が正しいのかはわかりませんが、家臣から不満の声が上がっていたのが事実だとすれば、やはり思ったより少ないという印象は当時からあったのでしょうね。

 豊前に入国した官兵衛はさっそく検地を開始しますが、その方法は検地奉行が田畑に赴いて測量を行う丈量検地ではなく、村々からの自己申告による指出検地だったようです。それは、そのほうが短期間で検地を行えるという理由もあったでしょうが、在地で新しい領主に対する抵抗が起きることは珍しくなく、それを踏まえたうえで、まずは領民たちの不満を買わないよう配慮したものと考えられます。政権交代後いきなり増税では、高い支持率を得られないですからね。

 しかし、そんな配慮をしてもなお、領国内の反発は激しかったようで、入国早々かなり手を焼いていたようです。そしてもうひとつ、官兵衛が手を焼いたのが、かつて豊前国内に勢力を誇った宇都宮鎮房でした。

 宇都宮氏は、下野の宇都宮氏の流れをくむ名門で、鎌倉時代からこの地の本拠を置く一族でした。戦国期に九州北部が戦乱で揺れる中でも、当主の鎮房は周防の大内義隆、豊後の大友宗麟など有力な大名に与して命脈を保ち、薩摩の島津義久が勢力を伸ばすとその配下に入るという、巧みな情勢判断で戦乱を生き残ってきた強者といえます。そんな嗅覚の持ち主である鎮房ですから、秀吉による九州征伐では島津氏を離れ、豊臣方に与します。名門である宇都宮氏にとって成り上がりの秀吉に従うことは本意ではなかったでしょうが、鎌倉時代から根付く領地を守るためには、背に腹は代えられない選択だったのでしょう。

 ところが、戦後、鎮房に下った命令は、加増というかたちで伊予国今治への転出でした。しかし、この命令をどうしてものむことが出来ない鎮房は、旧領に居座ったまま動こうとしません。これに怒った秀吉は、鎮房に与えた伊予国今治の領地も召しとってしまうんですね。これにより、鎮房はいよいよ豊前国から動けなくなります。同じ領国内に新旧の領主が同座するかたちとなった豊前国。黒田家と宇都宮家が激突するのは時間の問題となります。

 そんなとき、お隣の肥後国で大規模な一揆が勃発します。先の九州征伐も恩賞として肥後国50万石を与えられ、大大名となった佐々成政でしたが、豊前の官兵衛と違い、強引丈量検地を行おうとしたため、領民たちの大反発を買い、それが連鎖して国人たちの一斉蜂起を招き、収拾がつかなくなってしまいます。たまりかねた成政は秀吉に援軍を要請し、それを受けた秀吉は諸大名に出兵を命じて肥後の一揆鎮圧に向かわせます。その中に、官兵衛率いる黒田軍もいました。官兵衛にしてみれば、自領もまだ落ち着いてない状態での出陣は気がかりだったでしょうが、やむを得ず留守を嫡男の黒田長政にまかせて領国をあとにします。このとき、それを見ていたかのように鎮房が挙兵するんですね。これは、明らかに官兵衛の不在を狙った挙兵とみて間違いないでしょう。

 こうして、黒田家と宇都宮家の戦いの火蓋は切られます。また、この戦いをきっかけに長政と後藤又兵衛間に確執が生じ始めるのですが、それは次回以降ということで・・・。

 ちなみに、肥後国人一揆を招いた佐々成政は、翌年、秀吉の命により切腹させられます。戦上手で知られた成政でしたが、内政には明るくなかったのかもしれませんね。たかが検地と高をくくっていたのかもしれません。増税の方法を間違えると一気に政権から引きずり降ろされる。戦国の世も現代も同じですね。


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by sakanoueno-kumo | 2014-09-08 23:50 | 軍師官兵衛 | Trackback | Comments(2)  

雨の但馬路紀行 その4 「日本最古の時計台~辰鼓櫓~」

出石のまちのシンボルといえば、有名な辰鼓櫓ですよね。
出石を訪れたことがない方も、この時計台の写真は見たことがあるんじゃないでしょうか。
絵画や絵葉書、旅パンフレットや雑誌の表紙などにたびたび使用されている、兵庫の顔のひとつですね。

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明治4年(1871年)に完成したこの辰鼓櫓は、廃城となった出石城三の丸大手門の石垣を利用して建設されたそうです。
名称の「辰」は時間を意味し、「鼓櫓」は太鼓を叩くやぐらを意味します。
江戸時代、城下町の人たちは寺院の鐘の音で時刻を知りましたが、明治に入り、それに代わるものとして建てられたのだとか。

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高さは約13mで、内部は4階建の構造となっているそうです。
竣工当初は最上階から太鼓を鳴らして時刻を伝えていたそうですが、明治14年(1881年)に旧藩医で蘭方医の池口忠恕という人が大時計を寄贈し、それ以降、時計台として現在の姿になったそうです。
池口は大時計を寄贈するにあたり、青年2人を東京に派遣し、時計作りを研修、製作させたと伝えられます。
現在の時計は3代目だそうで、電気式だそうです。
いずれ4台目では、電波時計になるのでしょうか?

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この辰鼓櫓は、日本最古の時計台とされていますが、実際には、札幌の時計台も同じ年に竣工しており、どちらが古いかははっきりしないそうです。
いずれにせよ、当時の人々は時計そのものにも馴染みがなかったでしょうから、超ハイカラなものだったんでしょうね。
見方がわからない人も多かったんじゃないでしょうか。

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出石のまちは、豊岡市出石伝統的建造物群保存地区の名称で国選定の重要伝統的建造物群保存地区に定められています。

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出石城本丸跡から見下ろした出石の城下町です。
見渡せば、辰鼓櫓より高い建物は周りにありません。
これも景観を保つためなんでしょうね。
たしかに、札幌時計台なんて、写真で見るのと現地で見るのとでは、ずいぶんイメージが違いますもんね。
あちらは、ビルとビルの間にあって、初めて実際に見た時にはガッカリしました。
その点、こちらは町全体が辰鼓櫓の威厳を保つべく演出されていて、実物は写真以上に存在感があります。
たかだか5階建の建物レベルの高さなんですが、建造物の存在感というのは、周りの景観に大きく左右されるということですね。

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出石町といえば、阪神タイガースの左のエース・能見篤史投手の出身地ですよね。
少年時代の能見投手は、この辰鼓櫓で時刻を見ながら遊んでいたのでしょうか?

そんなこんなで、城下町の逍遥はまだまだ続きます。

雨の但馬路紀行 その1 「ハチ北高原・ロッヂ野間」
雨の但馬路紀行 その2 「日本のマチュピチュ・竹田城跡」
雨の但馬路紀行 その3 「但馬の小京都・出石城跡」
雨の但馬路紀行 その4 「日本最古の時計台~辰鼓櫓~」
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雨の但馬路紀行 その6 「桂小五郎潜伏の地、出石」
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by sakanoueno-kumo | 2014-09-05 20:45 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

軍師官兵衛 第35話「秀吉のたくらみ」 ~伴天連追放令~

 九州を平定した豊臣秀吉は、筑前滞在中の天正15年(1587年)7月、キリスト教南蛮貿易に関する禁制文書を発令します。いわゆる「伴天連(バテレン)追放令」ですね。これまで、キリスト教の布教を容認していた織田信長の政策をそのまま継承していた秀吉でしたから、まったくもって突然の通達といった印象で、キリスト教信者にとってはまさに青天の霹靂だったことでしょう。

 秀吉が伴天連追放令を出した理由については、諸説あって定説がありません。一説には、日々拡大しつつあるキリスト教の勢力に、かつて信長を苦しめた一向一揆の姿を重ね合わせたためとも言われますし、また別の説では、キリスト教信者による神道・仏教への迫害があったためとも言われます。たしかに、領民を無理やりキリスト教に改宗させたり、神社や寺院の破壊活動などの暴挙あったようで、あながち的外れな見方ではなかったようです。

 フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝えてからほぼ半世紀。小さなコミュニティに過ぎなかった時代は見過ごせていたものが、信長の時代を経ていつの間にか巨大化しつつあったキリシタン勢力を、このまま野放しにしておくわけにはいかなかったのでしょうね。信長とて、南蛮貿易によるを得るためにキリスト教を容認していただけで、積極的に推奨していたわけではなかったでしょう。秀吉も、同じ理由で踏襲していたものの、利よりもが大きくなり始めたため、弾圧に踏み切ったものと考えられます。よく、のちの朝鮮出兵と並んで秀吉の悪政としてあげられるこの伴天連追放令ですが、それとこれとは少し違うんじゃないでしょうかね。

 黒田官兵衛がキリシタンだったことはよく知られていますが、意外なほどそれを裏付ける史料は乏しいようです。黒田家の正史とされる『黒田家譜』でも、官兵衛がキリシタンだったことにはまったく触れていません(これについては、禁教令が敷かれていた江戸時代に編纂された史料のため、隠匿されたと考えられています)。確認できる史料として、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの書状によると、官兵衛がキリスト教に入信したのは天正11年(1583年)のこととされています。時期的には、大坂城普請や毛利氏との領土問題で奔走していた頃ですね。入信を薦めたのは、ドラマのとおり高山右近だったようです。なぜ入信したのかはわかっていませんが、おそらく右近の熱心な勧誘があったんじゃないでしょうか。

 官兵衛は「ドン・シメオン」という洗礼名を授かり、「Simeon Josui」というローマ字印を押した書状が現代に残っています。シメオンとは古代ユダヤに由来する男性名だそうで、「聞く、耳を傾ける」という意味だそうです。

 秀吉の伴天連追放令が発布されると、官兵衛はただちに棄教したといわれますが、同じキリシタン大名である小西行長の家臣らが追放されると密かに召し抱えたりと、表面的には棄教しながら、信仰心は持っていたのかもしれません。官兵衛に入信を薦めたとされる高山右近はキリスト教を捨てることが出来ず、領地、財産を捨てて諸国を転々としたのち、最終的にはマニラに逃れます。かつての主君だった荒木村重のことは裏切った右近でしたが、キリスト教は捨てられなかった。よほど信仰に厚かったようですね。

 以後、秀吉の死後もキリスト教に対する弾圧は継承され、キリスト教に門戸が開かれるのは、250年後の黒船来航まで待つことになります。


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by sakanoueno-kumo | 2014-09-04 18:57 | 軍師官兵衛 | Trackback(1) | Comments(2)