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軍師官兵衛 第43話「如水誕生」 ~上善は水の如し~

 釜山から無断で帰国したことで豊臣秀吉の怒りを買い、蟄居を命じられた黒田官兵衛は、出家して「如水軒圓清」と号します。このときの秀吉の怒りは相当なものだったようで、さすがの官兵衛も死を覚悟したのか、息子の黒田長政に宛てた長い遺言状を残しています。その書状は1mの長さに及び、事細かく6箇条にまとめられています。内容を要約すると、

一、官兵衛付きの家臣は、ひとまず長政の預かりとし、松寿(官兵衛の甥)が成人した際には、松寿付きにすること。
二、今後、長政に実子が生まれないときは、松寿を跡目に定めること。しかし、実子であろうと松寿であろうと、その器量がなければ跡目をとらすこと無用である。
三、家臣、親類に不愍を加えよ。他家から新しい家臣を雇うな。
四、諸事、心ままには成らざるもの、堪忍の分別が第一
五、無力では何もできないが、無力にならないようにといって家臣を蹴倒すことは、なおさら無用である。
六、親類・家臣に不愍を加え、母に孝行し、上様(秀吉)・関白様(豊臣秀次)を大切に思っていれば、神を信仰することも不要である。


 第一、二条に記されている松寿とは、官兵衛の実妹の子で、官兵衛の養子となっていました。父・官兵衛と同じく長政にもなかなか子ができず、その長政の幼名である「松寿」という名を与えられていることから考えても、この時点では黒田家の跡目最有力候補だったことがわかります。しかし、官兵衛は松寿を跡継ぎ候補に置きながらも、その能力がないと判断すれば、松寿であれ、後に生まれるかもしれない実子であれ、後継者にするなと戒めています。血縁継承こそ大事とされたこの時代に、実力主義を説く官兵衛は、やはり普通とは違った進んだ考えの持ち主だったのでしょうか。あるいは、ちょうどこの頃、秀吉と淀殿の間に(のちの豊臣秀頼)が生まれたことにより、微妙な立場に追いやられていた関白・豊臣秀次の姿を見て、何かしら思うところがあったのかもしれません。いずれにせよ、官兵衛らしい考えといえるでしょうね。
 
 第四条では耐え忍ぶことを説き、第六条の後半では、信仰よりも豊臣家に忠節を尽くすことが、黒田家を存続させるために何より大切であると説いています。天下人の器として秀吉から警戒されていたと言われる官兵衛ですが、当の本人からはそんな野望はまったく感じられず、蟄居の身となりながらもひたすら秀吉に忠節を尽くすことを説く官兵衛は、極めて冷静な現実主義者だったと想像できますね。さすがは軍師といえるでしょうか。

 この遺言状とも言われる覚書が記されたのは、文禄2年(1593年)8月9日付となっていますが、偶然か否か、その翌日の8月10日付で、秀吉は官兵衛を許す旨を伝えた朱印状を長政宛に送っています。そこには、
 「勘解由(官兵衛の官職名)がこと(中略)重ねて御意得るべき由にて候間、帰朝の儀、曲事に思おぼし召し、ただちに御成敗なるべく候。左様にてはその方(長政)迷惑すべく候。親に替わり候て諸事申しつく様(中略)勘解由儀は助け置かされ候。その旨を存じ、いよいよ奉公にぬきんでるべく事」
とあります。意訳すると、
  「本来であれば、勝手に朝鮮から帰国した官兵衛はただちに成敗すべきところだが、このたびは長政の武功に免じて許すことにしよう。この恩を忘れず、これからもよりいっそう豊臣家に奉公せよ」
 といったところでしょうか。息子の活躍のおかげで命拾いした官兵衛でしたが、あるいは、長政の顔を立てたのは秀吉の方便で、官兵衛を許す口実を作っただけかもしれません。千利休の例もあるように、殺そうと思えば殺せたはずですからね。秀吉は、まだまだ官兵衛を必要と考えていたのでしょうね。

 官兵衛が号した「如水」は、読んで字のごとく「水の如く」生きるという意味でしょう。老子の有名な言葉に「上善如水」というものがありますが、水は器に合わせてかたちを変える柔軟性を持ち、万物に恵みを与え、争うということなく低いところに留まろうとします。そんな水のような生き方こそが、理想的な生き方である・・・と、老子は説いています。おそらく、官兵衛はこの言葉を知っていたのでしょうね。上善は水の如し・・・。水は穏やかに流れば人々の心を癒やし、ひとたび激しく流れれば、すべてを飲み込む力があります。官兵衛改め如水は、このとき本当の強さを悟ったのかもしれません。


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by sakanoueno-kumo | 2014-10-28 22:33 | 軍師官兵衛 | Trackback(1) | Comments(2)  

軍師官兵衛 第42話「太閤の野望」 ~文禄の役~ その2

 先日の続きです。

 宇喜多秀家の軍監として参陣していた黒田官兵衛でしたが、勇み立った小西行長らと衝突することしばしばで、それを収める器量など秀家にあるはずもなく、思うように力が発揮出来ていませんでした。8月に漢城で行われた軍議でも、官兵衛は明の大軍が攻め込んできた場合を想定して守りを強化する慎重論を説きますが、行長は講和を申し出てきた明が再び攻めてくることはないと反対し、石田三成もこれに同意します。行長も三成も、もともと官兵衛が朝鮮出兵には慎重論だったことが頭にあったため、端から聞く耳を持たなかったのかもしれません。そんな環境に嫌気が差したからかどうか、官兵衛はを理由に日本へ帰国してしまいます。ドラマでは、病ではなく秀吉に戦況を報告するために帰国していましたね。

 官兵衛が帰国した直後の8月29日、明軍の将軍付きの使節であった沈惟敬と小西行長との間で50日間の休戦が約束されます。この休戦に李氏朝鮮は反対だったといいますが、宗主国である明に押し切られたかたちとなります。この50日間というのは、沈惟敬が明国皇帝に降伏の承認をとりつけるための猶予期間という設定でした。しかし、実はこの休戦合意そのものが、嘘っぱちだったんですね。さすがは中国、歪曲約束破りは現代に続く国民性のようです。

 文禄2年(1593年)正月、明の大軍が行長の守る平壌城に襲いかかってきました。官兵衛の危惧が的中したわけですね。小西軍は必死に応戦しますが、明軍の怒涛の攻撃に耐え切れず、撤退を余儀なくされます。このとき、黄州にいた大友義統軍は、本来であれば退却してきた小西軍を収容すべきところを、小西軍の劣勢を聞くや恐れおののき、先に逃げてしまいます。この失態により義統は、のちに改易となります。

 その後も退却を続けた小西軍は、龍泉山城に在陣する黒田長政軍に収容されます。小西軍と合流した黒田軍は、からくも明軍の追撃をはねのけながら、ひとまず漢城まで撤退し、防御線を張ります。明軍はさらに追撃を仕掛けてきますが、さすがに豊臣の戦国武将たちの地力は強く、激戦の末これを撃退します。しかし、もはやこのときの豊臣軍は、防衛で精一杯でした。

 一進一退の戦況にしびれを切らした秀吉は、同年2月、領国の豊前で静養していた官兵衛に、再び渡海を命じます。当初は秀吉自身が渡海して陣頭指揮をとるとしていましたが、徳川家康ら諸将に反対され、やむなく官兵衛を派遣したといいます。一説には、官兵衛自らが、「若い諸将は武功を争って統制がとれない。大軍の規律をただし統率し得るのは、徳川家康殿か前田利家殿、そして、この黒田官兵衛だけでしょう。」と放言し、これを聞いた秀吉が、官兵衛に渡海を命じたとも言いますが、その真偽は定かではありません。

 再び大陸入りした官兵衛は、早々に釜山までの撤退を決定し、自身は東莱城に滞在します。ある日、一緒に渡海してきた浅野長政を対局していたことろ、同じく戦奉行として渡海していた石田三成増田長盛大谷吉継の3人が軍議のために訪れます。しかし、官兵衛にとってはかねてから気に入らない面々だったためか、そのまま碁を打ち続け、待ちぼうけを食らわせます。これに怒った三成は、官兵衛の無礼な行為をそのまま秀吉に讒言します。いわば告げ口ですね。こんな事ぐらいで告げ口する三成も三成ですが、官兵衛の行いも大人げないといえますね。よほど腹に据えかねた思いがあったのでしょう。それとも、ドラマのように、これも三成の陰謀だったのでしょうか。だとすれば、少々、子供の喧嘩じみている気がしないでもないです。

 結果的に、三成の告げ口についてはお咎め無しだったのですが、三成の告げ口に腹を立ててか、それとも秀吉に弁明するためだったのか、官兵衛は秀吉の了解もないまま無断で帰国します。これに秀吉が激怒。無断で職場放棄してきたわけですから当然ですね。秀吉は官兵衛に蟄居を命じます。それでも、切腹とまではいかなかったところは、秀吉はまだ官兵衛を必要としていたということでしょうね。これも、ドラマで描かれていたような三成の陰謀だったかどうかはわかりません。ドラマの三成は、どうも小物感いっぱいですね。ひと昔前の三成像といった感じです。官兵衛が主役の物語ですから、三成がヒール役になるのはやむを得ないとは思いますが、もうちょっと、器の大きな人物に描いてほしかったかなぁと・・・。三成と官兵衛がお互いをよく思っていなかったというのは、たぶんそうだっただろうと思いますけどね。


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by sakanoueno-kumo | 2014-10-24 22:53 | 軍師官兵衛 | Trackback | Comments(2)  

軍師官兵衛 第42話「太閤の野望」 ~文禄の役~ その1

 朝鮮出兵を決意した豊臣秀吉は、天正19年(1591年)10月、その準備として肥前国に名護屋城の築城を開始します。工事を命じられたのは主に九州の諸大名で、加藤清正小西行長らを中心に、黒田官兵衛・長政父子の名もありました。『黒田家譜』によると、黒田家が任されたのは「縄張り」という作業であり、その総奉行には長政が着任したそうです。工事は突貫作業で進められ、わずか半年で竣工しました。

 文禄元年(1592年)4月、朝鮮出兵が開始されます。9つの隊で形成された豊臣軍(あえて日本軍とは言いません)は総勢15万8千の大兵団で、総大将は豊臣家一門扱いとなっていた宇喜多秀家が努めます。第1軍は小西行長軍、第2軍は加藤清正軍、そして黒田軍6千は長政を主将として大友義統とともに第3軍に任じられていました。ドラマでも描かれていましたが、この小西軍と加藤軍が終始、互いに競り合い、牽制し合うという関係で、結果的にそれが軍の統率を乱すことになります。官兵衛は、当初は渡海せずに秀吉の側付きで名護屋城いましたが、総大将が若干21歳の若さの秀家であるため、その補佐をすべく、軍監として参加することになります。

 釜山に上陸した豊臣軍は、わずか数時間で釜山城を制圧、その2日後にはすぐ北にある東莱城を陥落させます。これにより釜山全域を占領した豊臣軍は、その後も快進撃を続け、わずか20日間で首都の漢城に入ります。ところが、すでに漢城はもぬけの殻となっていました。豊臣軍の快進撃に恐れおののいた李氏朝鮮国国王は、数日前に平壌に逃亡していたのです。そのおかげで豊臣軍は労せずして首都を占領。現地の民衆たちも、民を見捨てて逃げてしまった国王に愛想を尽かし、豊臣軍に協力する者が続出したといいます。ルイス・フロイスの記述によれば、「(朝鮮人たちは)恐怖も不安も感じずに、自ら進んで親切に誠意をもって兵士らに食物を配布し、手真似でなにか必要なものはないかと訊ねるありさまで、日本人の方が面食らっていた」とあります。こういう話は、きっとあちらの歴史教科書には載ってないんでしょうね。

 その後も豊臣軍は着々と戦勝を重ねて北上し、6月15日には小西行長軍・黒田長政軍が平壌城を陥落させます。このとき、長政は大いに奮闘しました。ドラマでは描かれていませんでしたが、こんな逸話があります。

 このとき長政は李応理という剛者に矢で射られるも、その矢を抜かないまま李応理に斬りつけ、そのまま組み合って河の中に落ちました。からくも李応理との射ち合いには勝ったものの、が重く溺れそうになり、なんとか助けをかりて岸に上がります。そんな長政をそばで見ていた家臣の後藤又兵衛は、「わが主君は、この程度の敵に討たれるようなお人ではござらん!」と、長政を助けようとせず見物していたといいます。これに長政は激怒し、かねてから不仲になりつつあった両者の確執がいっそう深まったとか。実話かどうかはわかりませんが・・・。ドラマでは、長政と又兵衛の確執部分にはあまりふれないようですね。

 同じ頃、別働隊の加藤清正軍も会寧で李氏朝鮮の王子2人を捕縛しました。たまりかねた李氏朝鮮の国王・宣祖は、明に援軍を要請。そして7月16日、明軍が平壌城奪還にやってきます。しかし、このときは小西軍がこれを見事に撃退します。明が参戦してきたこの機に、豊臣軍は進軍を平壌までとし、明・朝鮮連合軍も講和を申し出てきました。しかし、相手は異国人ですから、日本国内で和議を結ぶようにはいきません。なってたって、相手は中国ですからね。

 長くなっちゃったので、後日「その2」につづきます。


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by sakanoueno-kumo | 2014-10-21 00:23 | 軍師官兵衛 | Trackback | Comments(0)  

軍師官兵衛 第41話「男たちの覚悟」 ~支那征服の企図と千利休の切腹~

 小田原征伐を終えて天下統一を果たした豊臣秀吉は、かねてからの夢だった(と秀吉自身は言う)への進出を企図します。ポルトガル人宣教師・ルイス・フロイスの記した『日本史』によれば、支那征服への思いはかつて織田信長も抱いていたといいますから、秀吉はその思想を引き継いだのかもしれません。

 まず秀吉は、朝鮮半島に近い対馬の宗義智に、李氏朝鮮を服属させるように命令します。宗家は、秀吉の九州征伐の折に秀吉に従ったため、対馬一国を安堵されていました。しかし、一方で宗家は、李氏朝鮮とも交易での深い繋がりがあったのです。秀吉の命令に背くことはできないが、李氏朝鮮との関係も拗らせたくない義智は、天下統一を果たした秀吉に対する祝賀使節を送るよう李氏朝鮮に依頼し、秀吉には、これを服属使節だと偽って謁見させます。義智にとっては苦肉の策だったのでしょう。

 使節に謁見した秀吉は、までの道案内を要請します。しかし、いうまでもなく使節はこれを拒否します。李氏朝鮮は明の属国なので秀吉の明征服事業に手を貸すはずがありませんし、そもそも李氏朝鮮は秀吉に服属した事実はなく、ただ祝賀を述べに来ただけなのですから、拒否するのは当然ですよね。怒った秀吉は、明を攻める前に李氏朝鮮に攻める決断をします。

 この朝鮮出兵は、口には出せないものの多くの諸将が反対でした。そんななか、面と向かって秀吉に反対意見を述べていたのが、千利休だったといいます。そんな利休を疎ましく思ってか、秀吉と利休の間には、かつてのような信頼関係は消え、いつしか深い溝が出来ていたといいます。

 そんなとき、秀吉の周りでは良くない出来事が次々に起こります。まずは実弟・豊臣秀長病死。秀吉にとっては、これから豊臣家の天下を盤石なものにしようというときに、片腕をもがれたような痛手だったに違いありません。

 さらに時を同じくして、最愛の嫡子・鶴松が病に倒れます。鶴松は生まれつき病弱だったといいますが、このときの病状はよほど深刻だったようで、日本一権力を持つモンスターペアレントの秀吉は、天下の名医をかき集めて治療にあたらせ、寺社に祈祷を命じ、自らも紫野大徳寺へ参詣しました。この参拝の折、ドラマで石田三成が言っていた利休の等身大の休像を見つけます。木像は山門の上から見下ろすように置かれており、これに激怒した秀吉は、利休に蟄居を命じます。そして、天正19年(1591年)2月28日、秀吉の命により利休は切腹します。享年69歳。その首は、大徳寺山門から引き摺り下ろされてにされた木像に踏ませる形で晒されたと伝えられます。秀吉の利休に対する感情は、怒りを通り越して激しい憎悪が感じられますね。単に、朝鮮出兵に関して出過ぎたことを言ったから、という理由だけではなかったんじゃないかという気がします。もっと根深い何かがあったんじゃないかと・・・。歴史の謎ですね。

 利休の切腹から約半年後の8月5日、鶴松が死去します。享年3歳。落胆した秀吉は、「利休に腹を切らせたバチが当たったんじゃ・・・」と言っていましたが、きっと本当にそんな気分だったでしょうね。子を思う親心は、今も昔も変わりありません。ましてや、50歳を超えてからの待望の愛児の死ですから、そのショックは察するに余りあります。その悲しさを紛らわせるためか、同年10月、秀吉はいよいよ朝鮮出兵の準備にとりかかります。

 秀長、利休といった両翼を失い、愛児・鶴松をも失った秀吉は、もはや誰も諫めることの出来ない孤独な独裁者になろうとしていました。

 利休の死については、3年前の拙稿(江~姫たちの戦国~ 第24話「利休切腹」)で、また、鶴松の死についても、同じく(江~姫たちの戦国~ 第25話「愛の嵐」)でふれていますので、よければ一読ください。


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by sakanoueno-kumo | 2014-10-14 23:19 | 軍師官兵衛 | Trackback | Comments(0)  

青色LEDのノーべ物理学賞受賞に思う、サラリーマン研究者の成功対価。

今年のノーベル物理学賞に、青色LEDの開発と実用化に成功した、赤崎勇氏、天野浩氏、中村修二氏の3人の日本人が受賞しましたね。
ここ最近、悲しい自然災害や惨たらしい殺人事件など、気持ちが重くなる暗いニュースが続いていたので、久々の嬉しいニュースに心が洗われる思いです。
これまで日本人が受賞したノーベル物理学賞といえば、素粒子とか宇宙ニュートリノとか、頭の悪い私のような者には、何を言っているのかさえわからない難しいものばかりでしたが(たぶん、私たちの生活に大きく関わる大発見なのでしょうが)、この度の青色LEDの開発というのは、どれほど大きな発見、開発だったかが素人の私たちでもわかりやすいですよね。
青色LEDが実用化されたことで、私たちの生活の中の光源は劇的に変わりました。
それを日本人の頭脳が導いたというのは、本当に素晴らしいことですね。
同じ日本人として誇らしい限りです。

ただ、米国の新聞では、「今年のノーベル物理学賞はアメリカ人1人と日本人2人が受賞」と報道されているそうですね。
その理由は、中村修二氏は現在、米国に移住して米国籍を取得し、日本国籍を失っているからだそうです。
中村氏といえば、勤めていた企業を相手にした青色LEDの特許訴訟問題で有名で、この裁判の結果はたいへん興味深いものだったので、わたしも強く印象に残っています。
その判決は、原告の請求を満額認めて、企業側に200億円の支払いを命じたものでしたよね。
最終的には8億円の報酬で和解したそうですが、あの判決には驚きました。

企業の従業員として雇用されている研究者は、その会社の設備を使い、予算を使い、同じ社員の協力を得て、毎月サラリーを受け取りながら研究開発を仕事としているわけですよね。
もし、その研究開発が失敗に終わっても、社員はなんのリスクも負わないわけで、大損するのは会社だけです。
だから、当然その特許の所有権も開発で得た利益も企業のものだと思っていました。
開発に貢献した社員への報酬は、昇給とか昇進とか特別賞与とかが普通なんじゃないかと。
だって、会社はその研究に投資しているわけですからね。
ド素人の見方なので間違っているかもしれませんが、当時、判決に合点がいかなかったのを思い出します。
まあ、中村氏への成功報酬は2万円だったといいますから、それはちょっと少なすぎるんじゃない?・・・とは思いましたけどね。

あれから10余年、いつの間にか中村氏は日本国籍を棄てていたんですね。
日本に見切りをつけたということでしょうか?
米国ではサラリーマン研究者が満足いく対価を得られるんですかね?
あちらは契約社会ですから、労使間で入社前に成功報酬の契約も交わしているんでしょうね。
いずれにせよ、ノーベル賞を受賞するような優秀な研究者が日本を見限って出て行ったということは、残念な限りです。
といっても、サラリーマンが成功対価として200億円もの巨額の報酬を得るというのが正しいとも思えません。
ただ、優秀な研究者が報酬を求めて日本を出て行かないようなシステムづくりは必要かもしれませんね。

何はともあれ、お3方の受賞を心よりお祝い申し上げます。


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by sakanoueno-kumo | 2014-10-09 17:16 | 時事問題 | Trackback | Comments(2)  

軍師官兵衛 第40話「小田原の落日」 ~石垣山一夜城~

 九州を平定した豊臣秀吉にとって、残る大敵は相模国小田原城主の北条氏のみとなりました。北条氏は関東一円に300石近い領地を支配する大大名で、徳川家康とも同盟関係にあったことから、当初は秀吉も北条氏と事を構えるつもりはなく、おとなしく臣下に下ってくれればそれでよかったのですが、徳川家康を介して説得を重ねるも、北条氏政・氏直父子は、頑なに上洛を拒否し続けます。その理由は、信濃国から上野国の沼田に勢力を伸ばしつつあった真田昌幸との領土問題が解決していないから、というものでした。

 であればと、秀吉は仲介に入ります。秀吉は真田氏が占領していた沼田3万石のうち3分の2を北条氏に返還させ、名胡桃城を含む3分の1を真田氏のものとする裁定を下し、氏政・氏直父子のどちらかの上洛を約束させました。これですべてが上手く治まったかに見えたのですが、それでも北条氏は重い腰を上げようとはせず、そんななか、北条配下の沼田城主・猪俣邦憲が名胡桃城を武力で奪い返す事件が発生。これに怒った秀吉は、大名同士の私闘を禁じた惣無事令に反するとして、小田原征伐を諸大名に発令。宣戦を布告します。

 天正18年(1590年)3月、秀吉は総勢22万という大軍を引き連れ、小田原城に向かいました。その中には、黒田官兵衛、長政父子もいます。一方の北条軍は、小田原城に惣構を築いて迎え撃つ体制を整えます。かつては上杉謙信武田信玄ですら落とせなかった難攻不落の小田原城。兵糧や武器弾薬は豊富に備蓄され、支城とのネットワークを活用すれば、豊臣軍とて跳ね返せる自信があったのでしょう。しかし、豊臣軍は端から小田原城に攻め込む気などなく、大軍で包囲して城に籠もらせることが目的でした。このあたり、氏政・氏直父子の読みが甘かったといえるでしょうね。

 豊臣軍は小田原城に睨みを効かせて閉じ込めておきつつ、周りの支城を次々に落としていきます。更に追い打ちをかけるように、北条氏と同盟関係にあった伊達政宗までもが豊臣軍の傘下に下ります。もはや北条氏に味方する大名はおらず、孤立無援状態となった城内では、士気が下がる一方でした。

 そんなとき、小田原城に籠もる城兵たちの度肝をぬく出来事が起こります。小田原城からわずか3kmほどの距離にある山上に、突如、豊臣軍の城が姿を表したんですね。この城は一夜にして完成したという逸話から、「石垣山一夜城」と称されますが、もちろん一夜で築かれたなんてことはあり得ないわけで、着陣早々から秀吉は小田原城から見えない場所に密かに築城を進め、城が完成したと同時に周りの樹木を伐採するといった演出を実行したため、それを見ていた小田原城の籠城兵たちは、まるで突然城が姿を表したとしか思えない錯覚に陥り、その秀吉の規格外な力を目の当たりにして、ますます士気が下がります。

 ここまでくればもはや勝負は決したも同然で、双方これ以上、無駄な血を流すことを避けるべく和議の方向へ舵を切ります。その交渉役に任じられたのが、ほかならぬ官兵衛でした。官兵衛は敵陣に向けて和睦の意を表した矢文を放ち、酒樽などの陣中見舞いを贈ると、北条氏政は返礼武器弾薬を送り付けてきました。ドラマでは、これは城内にまだ武器弾薬が有り余っているという、余裕を見せつけるための行為としていましたが、別の解釈では、もうこれ以上戦う気はないといった意思表示という見方もあるようです。いずれにせよ、これを好機とみた官兵衛は、ドラマのとおり、単身丸腰で小田原城に乗り込みました。その毅然とした姿に城兵は圧倒され、誰も官兵衛に矢を向けなかったと伝えられます。

 官兵衛の小田原城開城の説得に対して、氏政はなかなか首を縦に振らなかったといいますが、息子の氏直は開城命令を受け入れ、自らの命と引き換えに父・氏政と城兵の助命嘆願を行います。これを聞いた秀吉は大いに喜び、氏直の死罪は取り消しますが、氏政には切腹を命じました。また、氏直も切腹こそ免れたものの、無罪放免とはならず高野山に追放となります。秀吉は官兵衛の功績を大いに称えますが、官兵衛にしてみれば、氏政の助命を説得できなかったことが、多少心残りの結末だったかもしれません。

 ちなみに、ドラマでは官兵衛が出した和議の条件として、伊豆・相模・武蔵領の安堵とありましたが、これについては、『黒田家譜』『異本小田原記』など後世になって成立した史料にのみ見られる説のようで、最近では否定的な見方が強いようです。本領安堵を条件に和議を結び、あとで約束を反故にする・・・。なんか、数話前にも観たような話ですね。

 ちなみにちなみに、支城攻めに失敗した石田三成を秀吉が罵る場面がありましたが、三成が攻めた忍城は、小田原城の支城の中で唯一最後まで落城しなかった城で、最近では、映画『のぼうの城』でも描かれていた舞台ですね。吏僚としての才覚には長けていた三成ですが、武功には乏しく、その汚名返上とばかりに大規模な水攻めで臨みますが、結局小田原城の開城まで忍城は持ち堪え、三成の面目は丸つぶれとなった戦いです。それにしても、本作での三成は小者感丸出しですね。まあ、黒田家視点で見れば三成はああなるのかもしれませんが、仮にも関ヶ原の西軍の大将。ヒール役はいいとしても、もうちょっと、大物感があってもいいのかなぁ・・・と。

 そんな三成と武断派の確執が決定的となるのが、次週から描かれる「朝鮮出兵」です。


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by sakanoueno-kumo | 2014-10-07 00:52 | 軍師官兵衛 | Trackback | Comments(2)  

軍師官兵衛 第39話「跡を継ぐ者」 ~官兵衛の隠居と聚楽第落首事件~

 豊前国中津に移り住んで2年が過ぎた天正17年(1589年)5月、黒田官兵衛は突如、隠居を願い出ます。このとき官兵衛44歳。当時としては決して若いとはいえないものの、豊臣秀吉をはじめ徳川家康前田利家など、官兵衛より年長の武将たちがまだまだ現役バリバリで働いていたことを思えば、官兵衛の突然の引退発表は周囲を驚かせたことでしょう。まだまだ官兵衛の力を借りたいと考えていた秀吉は、許すはずがありませんでした。

 隠居を申し出た官兵衛の様子を、『黒田家譜』は次のように伝えます。
 「孝高、秀吉公に被申上けるは、私事病者になり候間、とても長生は仕るまじく候。願くは存生の内、愚息吉兵衛に領地を譲り、吉兵衛が身に引受、拝領の地の仕置を仕らせ、家人共能召つかひ、上の御用に立候様に後見いたし、安堵仕度由、重畳こひ申されけれども、秀吉公あへて許容したまはず。」
 身体が不自由なわたしは、とても長生きでるとは思えず、できればまだ元気なうちに息子の吉兵衛(黒田長政)に家督を譲りたい・・・と。たしかに、官兵衛はかつての有岡城幽閉による後遺症で身体的障害を抱えており、普通の44歳よりは老けていたかもしれません。

 官兵衛が隠居を決意した背景について、『黒田家譜』によれば、
 「孝高早く禄をゆづり官職を捨給ふ事は、利欲うすくして昿達なるのみならず。秀吉公其大志と武略すぐれたる事を知て、忌おそれ給ひ、其権臣等も、孝高の功名英才の大に人に過たるを妬む者多ければ、其讒をさけ災をのがれん為也。是明哲にして身を保つの道なるべし。」
とあります。官兵衛がにわかに隠居を決意したのは、利欲が薄くて心が広いことに他ならないが、それとは別に、秀吉やその家臣は官兵衛の功名や英才を妬む者が多く、その災いを避けるため、あえて身を退く決意をした・・・と。「其権臣等」というのは、おそらく石田三成のことを指しているのでしょうね。

 この『黒田家譜』の伝える説話については、どこまで信用できるかは定かではありません。前話の稿でも述べましたが(参照:第38話)、秀吉が官兵衛を警戒していたというエピソードについても、明確な根拠はなく後世の脚色が大いに感じられる伝承です。ただ、『黒田家譜』の記述をすべて鵜呑みには出来ないにしても、官兵衛の隠居はちょっと唐突な気がしますよね。ではなぜ、にわかに家督相続を急いだのか・・・。そこには、やはり保身の意図があったんじゃないでしょうか。お隣の肥後国では、領国支配に失敗して秀吉の信頼を失った佐々成政が、切腹に追いやられました(参照:第36話)。それを横目で見ていた官兵衛は、明日は我が身といった心境だったかもしれません。だったら、あらぬ嫌疑をかけられる前に身を引こう・・・と。「明哲にして身を保つの道なるべし」です。

 しかし、官兵衛の申し出は秀吉に受け入れられず、最終的には秀吉の正室・北政所に口利きを請い、なんとか秀吉の了解を取り付けますが、秀吉が出した条件は、長政への家督相続は許すが隠居は許さず、自身の側近として仕えよ、というものでした。秀吉がどれほど官兵衛をあてにしていたかがわかりますね。ここが落しどころと見た官兵衛は、その条件を承諾します。息子に社長の椅子を譲ったあと会長職に就かず、親会社の相談役としてヘッドハンティングされた・・・といったところでしょうか。条件的には悪い話ではないように思いますが、その親会社次第でしょうね。一気に日本一の大企業に上り詰めた豊臣商事ですが、その屋台骨はまだまだ不安定で、しかもそのカリスマ社長がちょっとトチ狂い始めている・・・となると、ヘッドハンティングの話は決して光栄なものではなかったかもしれません。しかし、下請け会社の社長としては、自身の築いた会社を守るためには断れない出向ですね。これも「明哲にして身を保つの道なるべし」でしょう。

 官兵衛の隠居申し出の3ヵ月ほど前に起きた聚楽第落首事件。秀吉の側室となった茶々懐妊したことを嘲笑する落首が、何者かによって聚楽第の南鉄門に貼りだされます。

 大仏の功徳もあれや槍かたな 釘かすがいは 子宝めぐむ
 ささ絶えて茶々生い茂る内野原 今日は傾城 香をきそいける


 当時、秀吉は京都に大仏殿を築こうとしていたといわれますが、その大仏の功徳で、子種がなかったはずの秀吉が子宝に恵まれた・・・と。これに怒り狂った秀吉は、門番の17人を処刑し、他にも本願寺に逃げた者を捕らえ、関わった者の居宅も焼き払い、総計113人を処罰したといわれます。門番17人の処刑は、まず鼻をそぎ落とし、翌日には耳をそぎ落とし、さらに翌日には逆さに磔して処刑したとか。めちゃくちゃですよね。

 この事件の3ヵ月後に茶々は棄(鶴松)を出産し、時を同じくして官兵衛が隠居を申し出ます。単なる偶然のタイミングだっただけかもしれませんが、親会社の方向性に不安を感じたからかもしれませんね。まさに、「明哲にして身を保つの道なるべし」です。


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by sakanoueno-kumo | 2014-10-02 21:16 | 軍師官兵衛 | Trackback(1) | Comments(0)