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軍師官兵衛 第47話「如水謀る」 ~関ヶ原の合戦序章と長政・糸の離縁~

 石田三成が政治の表舞台から失脚したことで、表面的には沈静化したように見えた豊臣政権内の勢力争いですが、水面下では、双方味方集めの工作合戦が繰り広げられており、事態はいよいよきな臭いムードが漂いはじめます。

 慶長5年(1600年)、三成と昵懇だった(といわれる)会津国の上杉景勝が、徳川家康との対立姿勢を示します。家康は上杉家に対して何度も上洛を促す使者を送りますが、景勝は病気と称してこれを拒否しつづけ、一方で、領内の城の補修工事を進めます。この態度から、上杉家は謀反の疑いをかけられるのですが、上杉家家老の直江兼続は、その釈明のための書状を家康に送ります。しかし、その書状には、家康を痛烈に非難した内容が書かれていたといわれ、それを読んだ家康が激怒し、上杉討伐を決定します

 家康が上杉討伐のため東国に向かったことによって、大坂はガラ空きとなり、その隙をついて三成が挙兵。そして関が原の合戦へと繋がっていくわけですが、この一連の流れは、三成と直江兼続が事前に密謀を交わし、家康を東西から挟み撃ちにする企てだったという説があります。ドラマでも、黒田官兵衛がその謀略を見抜いた上で、三成に作戦の甘さを忠告していましたよね。実際に官兵衛が見抜いていたかどうかはわかりませんが、反家康を表明している二人の挙兵があまりにも出来すぎなタイミングで行われていることや、三成が兼続に宛てた手紙に「密約」を匂わす文章があることなどから、この説を推す歴史家の方も少なくありません。

 一方で、二人の共謀説に否定的な意見も多く、その理由としては、当時、上杉家は新領国に国替えをして間もない時期であり、資金面から考えても、大戦を挑むなんてあり得ないというもの。現在では、こちらの説のほうが有力だそうです。どちらが真実かはわかりませんが、密約があったとする方が、ドラマチックではありますよね。ただ、その更に上手だったのが家康で、三成の挙兵を誘うため、あえて大坂を空にしたとする説。つまりは、三成と兼続の仕組んだ罠も、すべて家康が描いたシナリオだったという見方です。ドラマでも、この説を採っていましたね。晩年の権謀術数に長けた家康なら、それも考えられなくもないかもしれません。しかし、当時の状勢で言えば、まだ西軍(三成方)の方に分があった段階で、家康にそんな余裕をかますゆとりはなかったようにも思えます。結果を知っている後世の私たちは、歴史上の出来事をひとつの物語として繋ぎあわせて、そこに関連性を求めて理由付けをしたくなりますが、実際には、それぞれがそれぞれに個々の保身利益のために動いた結果が、歴史を作っているものなんじゃないかと思います。すべては偶然が重なって生まれたものなんじゃないかと・・・。

 有力大名との婚姻を進めて味方づくりを図っていた家康は、その狙いを黒田長政にも向け、自身の養女である栄姫を長政の正室として嫁がせます。これにより、16年連れ添った離縁することになるのですが、現代の感覚で言えば理解し難い行為ですが、この時代の常識で言えば、やむを得ない選択だったといえるでしょう。家康の意向には逆らえないといった理由もあったでしょうが、糸との間には16年間で娘がひとり生まれただけであり、「嫁して三年子無きは去れ」という当時の常識から思えば、黒田家にしてみれば家康の申し出は糸を離縁する大義名分になったかもしれません。実際、後に長政と栄姫の間には、忠之、長興、高政という3人の男子が生まれます。糸には気の毒な話ですが、黒田家にとっては、結果オーライの縁談だったといえます。

 ただ、そうは言っても、当時としても一方的な離縁は不条理な仕打ちではあったようで、この離縁によって糸の実家の蜂須賀家は怒り心頭となり、以後150年に渡り黒田家と蜂須賀家は絶交状態となります。

 糸はその後、蜂須賀家領国の阿波国で暮らし、長政より20年以上長生きします。その娘であるは黒田家に残り、井上九朗右衛門の嫡男・井上庸名の正室になったと伝えられます。黒田家と蜂須賀家が不通関係である以上、糸と菊はその後会うこともなかったでしょうね。きっと菊の幸せだけを祈りながらの余生だったことでしょう。


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by sakanoueno-kumo | 2014-11-26 20:17 | 軍師官兵衛 | Comments(0)  

党利党略が見透かされる衆議院解散に、ドッチラケムードの師走選挙。

昨日、衆議院が解散しましたね。
「大義なき解散」などと揶揄されながらも強行した安倍晋三総理ですが、先ごろ発表されたGDPマイナス成長の結果を受け、あらためてアベノミクスを進めるべきかどうかを問うというのが、表向きの理由だそうです。
それと、消費税増税の時期延期を決め、その信を問うための解散でもあるそうで・・・。
それが、安部総理のいう「大義」だそうです。
やっぱ、よくわからないですよね。

消費税増税の件でいえば、民主党政権時の三党合意の中で、「最終的な増税実施の判断はそのときの政府が行う」と定められているわけですから、実施するも延期するも、安倍内閣の判断で決めればいいわけで、選挙で国民の信を問う必要はありません。
ここであらためて国民の声を聞くのは、民意に責任を擦り付ける責任逃れといってよく、一内閣で2度の増税をして支持率を下げたくないといった腹が見え見えです。
時期延期といえば聞こえがいいですから、賛成の声が多いでしょう。
ずるいやり方ですね。

アベノミクスの是非については、私はもとより門外漢なので、ここで持論をたれるほどの知識を持っていませんが、2年前の政権発足時からわずか数ヶ月で見せた好調ムードから思えば、期待ほどの効果は得られていないというのが現状なんでしょうね。
ただ、ここでこの2年間が無駄だったのかどうかを我々に問われても困ります。
そもそも経済政策なんてものは、これまで歴代内閣があらゆる手段を講じて来てもままならなかった問題で、国民はアベノミクスに期待をよせながらも、そう簡単にはいかないだろうというのも想定内だったと思います。
なにより、アベノミクスは安倍政権の看板政策であり、安部総理が総理で在り続ける以上、誰になんと言われようと信念を持って推し進めるべき政策なんじゃないでしょうか?
「景気」の気は“気”だ・・・などと言われますが、2年前、総理が“気”を示しただけで、株価があれだけ動いたことには驚きました。
“気”を緩めたら終わりですよ。
これも、消費税増税の件と同じく、民意に責任を擦り付けようとしているとしか思えないですね。
もしアベノミクスで効果が得られなくても、有権者の皆さんが信任したのだから、責任は国民の皆さんにります・・・的な・・・。
そんな弱“気”では、やっぱアベノミクスは駄目かもしれませんね。

あと、先ごろ不透明な政治資金の問題で大臣を辞任した小渕優子さんも、また自民党公認での出馬が濃厚のようですね。
お父さんから引き継いだ強力な地盤を持つ彼女ですから、たぶん当選は間違いないでしょう。
で、それを持ってして「禊はすんだ」ことになるんでしょうね。
なんか、また以前の悪しき自民党政権時代の復活のように思えてなりません。

いずれにせよ、今の野党相手では、自民党の勝利は動かないでしょう。
どんな「大義」の理由をつけようと、勝つことが約束されたなかでの「大義」ですからね。
確実に勝てる相手と勝負して、その勝利をネタに、政策も禊もすべて民意を得たという答えにすり替える・・・。
ときの政権の常套手段ともいえますが、こういうのを「コスい」と言うんですよ。
ハッキリ言って、「大義」の真相は「党利党略」でしかなく、そのために掛かる経費は、実費だけで700億円とも聞きます。
これこそ税金の無駄遣いですよね。

そんな見えすいた「党利党略」に付き合わされるほど、師走の日曜日は暇じゃありません。
きっと低い投票率になるんじゃないでしょうか。
年末のクソ忙しい時期に、無意味なことをやってくれるものです。

~追伸~
選挙は12月14日だそうですが、その日はわたしが愛してやまない大河ドラマの最終回の日。
でも、衆院選となれば、NHKはその時間、開票速報でしょうね。
ドラマはその後にやるのか前にやるのか知りませんが、たぶん放送中も、「○○○○氏当選確実」といったテロップが流れまくるんでしょうね。
わたしにとっては、それがいちばんの迷惑です(泣)。


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by sakanoueno-kumo | 2014-11-22 20:28 | 政治 | Comments(2)  

日本映画界の巨星、高倉健さんのご逝去を悼む。

高倉健さんが亡くなられたそうですね。
昼ごろ、仕事で移動中の電車の中で見たスマホの速報で知り、思わず声を出して驚いてしまいました。
特にファンだったというわけではありませんが、日本の俳優さんの巨星の訃報ですから、わたしと同じく声を出して驚いた人がたくさんいたんじゃないでしょうか。
御年83歳だったそうで、年齢的には亡くなられても特に驚くこともない歳だったといえますが、なんてったって健さんですからね。
平均寿命を超えたおじいちゃんだという印象は、まったくなかったわけで・・・。

昭和42年生まれのわたしは、『網走番外地』シリーズなどの任侠ものはリアルタイムではありませんが、小学生のときに観た『幸福の黄色いハンカチ』『八甲田山』、中学生のときに観た『野生の証明』『駅 STATION』、高校生のときに観た『南極物語』『居酒屋兆治』と、思い返してみれば、特に健さんファンというわけじゃない私の中にも、その年代ごとに思い出深い作品がたくさんあります。
特に『幸福の黄色いハンカチ』と『野生の証明』にいたっては、大人になってからもレンタルビデオ等で何度観たかわからないくらいで・・・。
あと、『ブラックレイン』『鉄道員(ぽっぽや)』など、こうして思い返しても、好きだった作品がいくつも挙げられます。
聞けば、生涯の映画出演作は205本に上るそうですね。
その10分の1ほどしか観てないわたしですが、もう新作を観られないと思うと、残念な限りです。
今、政界は解散に向けてバタバタしていますが、たぶん落ち着いたら、国民栄誉賞といった声も上がるんじゃないでしょうか?
同じく国民栄誉賞を受賞された俳優として、森繁久彌さんと森光子さんがおられますが、お二方とも亡くなられた日が11月10日だそうで、健さんと同じ日だそうですね。
こんなことってあるんですね。
すごい偶然です。

長谷川一夫さんや片岡千恵蔵さん、阪東妻三郎さんなどといった伝説の映画スターをリアルタイムで知らないわたしにとっては、健さんこそが映画界のレジェンド的存在です。
もう、生まれないでしょうね。
映画だけでしか観られない「銀幕スター」と呼べる人は・・・。

日本映画界最高の銀幕スターがついに逝ってしまいました。
心よりご冥福をお祈りします。


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by sakanoueno-kumo | 2014-11-18 21:58 | 芸能 | Comments(0)  

軍師官兵衛 第46話「家康動く」 ~石田三成襲撃事件~

 豊臣秀吉の死後、天下の政は五大老五奉行の合議制で行われます。今で言う内閣のようなものですね。しかし、実質的には、莫大な領地と高い官位を持つ二人の長老、徳川家康前田利家が権勢をふるい、そこに五奉行の筆頭的立場である石田三成が加わった三者が実権を握って進められます。ただ、そのトップである内閣総理大臣的立場の者がおらず、さらに、家康と三成はそもそも秀吉の生前から折り合いが悪かったため、そんな不安定な内閣が上手く機能するはずがありません。案の定、秀吉の死から半年も経たないうちに、早くも体制は崩れはじめます。

 そのキッカケを作ったのは徳川家康。秀吉が死ぬやいなや家康は、秀吉の生前に禁止と定められた大名間の婚姻を無断ですすめ、着々と味方づくりを始めます。そんな挑発ともとれるあからさまな専横行為に、三成ら反家康勢は大いに憤慨し、前田利家のもとに集結。情勢は一触即発のムードとなります。しかし、このときは利家と家康の間で和解が成立し、なんとか衝突は避けられました。このとき利家を説得したのが、ほかならぬ黒田官兵衛だったといいます。このあたり、『黒田家譜』によると、

「奉行衆利家卿をすゝめて、内府をほろぼし奉らんとする謀、別の儀にあらず。今天下の両雄は、内府と利家なり。利家を大将として内府を討たんとす。内府亡び給はゞ天下にこはき人は利家一人なり。利家は老人にて病者なれば、やがて逝去し給べし。」

 と説いた上で、

「今の世に内府をほろぼさんとする事は、蟷螂が車を遮るに異ならず。今利家卿等が邪謀の欺かれ給はん事、謀の拙き所なり。いそぎ利家卿内府と和睦し給ふべき由をいさめ給へ。」

 と諌めています。ほぼドラマのとおりですね。ただ、ドラマでは官兵衛が利家を直接説得していましたが、『黒田家譜』の記述では、利家の嫡男・前田利長に進言させたとあります。いずれにせよ、『黒田家譜』の記述が実話かどうかは定かではありませんが。

 和解成立からわずか1か月後の慶長4年(1599年)3月3日、利家が病没します。利家の死によって、それまでなんとか保たれていた均衡が一気に崩れ、予てから三成憎しで団結していた武断派の加藤清正、福島正則、藤堂高虎、黒田長政、浅野幸長、細川忠興、脇坂安治の七将が暴発。大坂の前田屋敷に滞在していた石田三成を殺害すべく襲撃します。しかし、この動きを事前に察知した三成は、佐竹義宣の協力を得て屋敷を逃げ出し、伏見城に逃げ込みます。この騒動を収拾したのが、徳川家康でした。家康は武断派を説得して鉾を収めさせ、襲撃した武断派が三成の身柄引き渡しを要求したため、三成を蟄居にすることで手を打たせます。そして閏3月10日、三成は家康の次男・結城秀康の警護のもと佐和山城に戻り、謹慎生活となりました。こうして三成は政治の表舞台から遠のくことになります。

 この経緯のなかでの有名な逸話として、武断派の襲撃を受けた三成が、敵である家康のもとに助けを求めて単身乗り込み、難を逃れたという話があります。このエピソードから、三成が単に小賢しいだけのインテリ官僚ではなく、豪胆な一面を持った武将だったという印象につながっています。このたびのドラマでも、この逸話を採っていましたね。石田三成という人物を描く上で欠かせないエピソードといえますが、残念ながらこの逸話は、最近では否定的な見方が強いようです。というのも、この説の典拠となっている史料は明治以降のもので、それ以前に成立した史料には、三成が家康屋敷に赴いたことを示すものはないからだとか。三成ファンの人にとっては少々ガッカリな事実だと思いますが、ただ、まったく荒唐無稽な逸話かといえば、そうとも言えないですよね。徳川に弓引いた「天下の大悪人」として蔑まれていた江戸期の史料には、三成を称える史料など存在するはずがありません。しかし、伝承レベルで巷に残っていた逸話が、三成が再評価された明治になって拾い記された・・・と考えられなくもないかなぁ・・・と。多少、そうあってほしいという願望が込められていますが・・・。

 この事件を収拾したことにより徳川家康はその影響力を拡大し、一方で石田三成は一時失脚します。一説には、すべて家康の描いたシナリオ、家康自身がこの事件の黒幕だった・・・なんて俗説もありますが、いかがなものでしょう。いずれにせよ、この武断派と吏僚派の対立が家康にとって有利にはたらいたことは間違いありません。これ以降、豊臣政権の政務は家康が一手に握ることとなります。

 そして官兵衛は・・・なるほど、そういう物語の展開で描いていくんですね。次週以降を楽しみにしたいと思います。


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by sakanoueno-kumo | 2014-11-17 19:57 | 軍師官兵衛 | Comments(2)  

雨の讃岐高松城を訪ねて ~後編~

昨日の続きです。

生駒氏が転封になったあと、讃岐国は一時、隣国伊予国の西条藩主・一柳直重、大洲藩主・加藤泰興、今治藩主・松平定房により分割統治されますが、寛永18年(1641年)に西讃地域に山崎家治が入って丸亀藩ができると、翌19年(1642年)には水戸黄門様で知られる水戸城主・徳川光圀の兄・松平頼重が東讃地域に入り、高松藩12万石の藩祖となります。
入封した頼重は、すぐに城の拡張工事にとりかかり、光圀の子で養子となっていた2代藩主・松平頼常の代まで工事は続いたそうです。

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写真は重要文化財に指定されている艮櫓(うしとらやぐら)
もともとは東の丸の北東の隅櫓として建てられたもので、北東の方角のことを丑寅(艮)ということから、この名前になったそうです。
記録によれば、延宝5年(1677年)に完成されたようで、2代藩主・頼常の時代ですね。

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艮櫓の横にある旭門を出ると、濠に旭橋が架かっているのですが、写真で見てもわかるように、濠に対して斜めに架かっています。
これは、横矢が掛かりやすくしているのだとか。

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写真は向かって左から月見櫓(つきみやぐら)・水手御門(みずてごもん)・渡櫓(わたりやぐら)です。
これらもすべて重要文化財指定です。
下の写真は正面から撮影。

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月見櫓は北之丸の最北端に位置し、瀬戸内海を監視するためにつくられた隅櫓だそうで、艮櫓とほぼ同時期に建てられたものと考えられているそうです。
月見櫓は「到着を見る」という意味の「着見櫓(つきみやぐら)」が本来の名称で、藩主が江戸から船で帰ってくるのをこの櫓から望み見たことから名づけられたのだとか。

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水手御門は海に向かって開いた門で、藩主はここで小舟に乗船し、沖で御座船に乗換えて参勤交代等に出かけたそうです。

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上の写真は城敷地内から見た水手御門。
門のすぐ外が濠になっていて、不思議な景色です。

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渡櫓は、生駒氏築城時からあった海手門を改修して建てられたと考えられているそうです。

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写真は渡櫓の中です。
壁がめずらしい波型壁になっているのですが、どういう意味があるのでしょう?

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石落としです。

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梁の継手の下面に、「延寳四年卯二月十日井上氏□□」という墨書が確認でしかます。
340年前の落書きですね。

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こちらは月見櫓の内部。
急な階段で3階まで上れます。

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上からの景色です。

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こちらは北側の景色。
海がすぐそこにあるのがおわかりいただけるかと思います。

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瓦の先には言うまでもなく「葵の御紋」です。

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向こうに写っているのは、藩の政庁および藩主の住居として使われていた披雲閣(ひうんかく)です。
明治5年(1872年)に老朽化のため解体されましたが、大正6年(1917年)に建てなおされて現在に至るそうです。
かつては昭和天皇・皇后両陛下も2度宿泊されたそうです。

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その後、高松松平氏は11代続き、幕末まで西国大名の監視と瀬戸内海の要としての役目を担います。
しかし、幕末には宗家である水戸藩が尊皇に傾く一方、11代藩主・松平頼聰の正室が井伊直弼の娘という立場から、尊皇・佐幕の板挟みで苦しい立場に立たされます。
結局、鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府軍に与したため朝敵とされ、やがて高松城は無血開城され、高松松平氏は終焉を迎えます。

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とにかくこの日は1日中雨で、片手に傘、片手にカメラでたいへんでした。
ハッキリ言ってどう考えても城見物などできる状態ではなかったのですが、せっかく高松に来て、しかも城の隣の施設にいて、見物に行かない手はないだろうと、無理やり強行した次第です。
まあ、それでも行ってよかったですけどね。
というわけで、自己満足の讃岐高松城見物備忘録は、このへんで終わりにします。


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by sakanoueno-kumo | 2014-11-14 19:00 | 香川の史跡・観光 | Comments(2)  

雨の讃岐高松城を訪ねて ~前編~

先日、香川県は高松市に出張の折、仕事の合間を縫って雨のなか高松城跡を訪れました。
高松城というと、豊臣秀吉の中国征伐で水攻めされた高松城を思い出しがちですが、あちらは備中高松城で、現在の岡山県に位置します。
こちらは四国の讃岐高松城
瀬戸内海を挟んでちょうど向かい合わせるような場所に同じ名前の城というのも、ややこしいですね。
ただ、備中高松城は江戸時代に入って廃城になっていますから、二つの高松城が同時に存在した期間は短かったようです。

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ここ讃岐高松城を訪れると、潮の香りが漂っています。
というのも、北は瀬戸内海に面し、残り三方を囲む濠には海水を引き入れた海城で、伊予国今治城、豊前国中津城と並んで、日本三大水城のひとつに数えられています。
海上から見るとその威容は素晴らしいものだったようで、明治時代には「讃州さぬきは高松さまの城が見えます波の上」と謡われたり、与謝野晶子によって「わたつみの 玉藻の浦を前にしぬ 高松の城竜宮のごと」と詠まれたりしています。

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濠が海とつながっているため、潮の干満による水位調整のための水門があります。

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讃岐高松城は、別名、玉藻城ともいいます。
その由来は、万葉集柿本人麻呂が讃岐国の枕詞に「玉藻よし」と詠んだことから、この辺りの海域を玉藻の浦と呼んでいたからだそうです。

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模型で上空から見るとこんな感じです。
海と濠がつながっていることがわかるでしょうか?

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ここ讃岐高松城は天正15年(1587年)に豊臣秀吉から讃岐一国17万3千石を与えられた生駒親正によって、翌16年(1588年)に築城が開始されました。
その縄張り(設計)を行ったのは、藤堂高虎、黒田官兵衛、細川忠興など諸説あります。
いずれも当時の築城には必ず名前が出てくる面々ですね。
城は約3年かけて完成し、「高松」という地名も、このとき付けられたものだそうです。

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天守台です。
かつては「南蛮造り」と呼ばれる三層四階の天守があったそうですが、明治17年(1884年)に老朽化のため解体されています。
かつてあった天守は、最下重が萩城熊本城の天守のように天守台より出張り、最上重が小倉城岩国城の天守のように「唐造り」だったそうです。
その様子は、解体される以前に写真におさめられているそうです。
高松市では、天守の復元を企画しているそうで、老朽化した石垣の解体・積み直し工事が行われていました。

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写真は復元イメージ図。
たしかに、最下層が天守台より出張っています。
たぶん、この出張ったところに石落しがあったのでしょうが、現代の建築基準法ではあり得ない設計ですね(笑)。

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復元模型で見るとこんな感じです。

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天守台の上も見学できます。

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天守台と二の丸を結んでいる唯一つの連絡橋、鞘橋です。
この橋を落とすことによって本丸だけを守るようになっていたんですね。
絵図などの史料によれば、築城当初からこの位置に橋がかけられていたことがわかるそうで、当初は「欄干橋」と呼ばれる屋根のない橋だったようですが、文政6年(1823年)の絵図には屋根付きの橋が描かれているそうで、江戸時代に改修が行われたことがうかがえます。

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現在の鞘橋は明治17年(1884年)の天守解体時に架け替えられたものと伝わっているそうで、大正期には橋脚が木製から石製に替えられたことが古写真で判明しているそうです。

天守台から見下ろした鞘橋です。

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藩祖となった生駒親正は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて西軍に加担しますが、嫡男の生駒一正東軍に与して戦功をあげたため、戦後も所領を安堵されます。
家を守るために父子・兄弟が敵味方に別れる例は、他にもいくつかありますね。
しかし、第4代藩主の生駒高俊の代にお家騒動(生駒騒動)が起き、寛永17年(1640年)に改易され、出羽国矢島藩1万石に転封されてしまいます。
17万石から1万石の降格ですからね。
ほとんど流罪のようなものだったでしょう。

長くなっちゃたので、「後編」に続きます。


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by sakanoueno-kumo | 2014-11-13 19:58 | 香川の史跡・観光 | Comments(0)  

軍師官兵衛 第45話「秀吉の最期」 その2 ~なにわの事も ゆめの又ゆめ~

 朝鮮での戦が長引くなかの慶長3年(1598年)初夏、床に臥せりがちだった豊臣秀吉の体調はいよいよ悪化の途をたどります。さすがに死期を悟った秀吉は、五大老・五奉行の制度を定め、任命者から起請文を提出させるなど、自身の死後の体制固めを懸命に行いはじめます。死を目前にした秀吉にとって気がかりなのは、ただただ、まだ6歳秀頼の前途のみでした。思い余った秀吉は、伏見城に徳川家康を呼び寄せ、自身の死後は秀吉の後見人になるよう懇願します。最も信用が置けない人物を秀頼の最も近くに置き、逆心を封じ込めようとの考えからでしょうが、その約束を家康が守ってくれる保証などどこにもありません。

 「秀より事 なりたち候やうに 此かきつけのしゆ(衆)としてたのミ申し候 なに事も 此不かにはおもいのこす事なく候 かしく 八月五日 秀吉印」
 「いへやす(徳川家康) ちくせん(前田利家) てるもと(毛利輝元) かけかつ(上杉景勝) 秀いえ(宇喜多秀家) 万いる 返々秀より事 たのミ申し候五人の志ゆ(衆)たのミ申し候 いさい五人物ニ申わたし候 なこりおしく候 以上」

 五大老に向けた秀吉の遺言状です。とにかく「秀頼のことをよろしく頼む」と、手を合わせるようにして五大老らに頼み続けていますね。天下人の最後のメッセージとしては、あまりにも無様で哀れな内容ですが、幼子を残して逝く親の心中としては、少なからず共感できなくもありません。むろん、戦国時代の中を戦い抜いて天下人となった秀吉のこと、主家である織田信長の子に対して自らのとった仕打ちを思えば、誓紙口約束など何の役にも立たないことはわかっていたでしょう。わかってはいても、そうするしかなかった・・・そこが、秀吉の最期の悲痛さです。

 この遺言状が書かれた約2週間後の慶長3年(1598年)8月18日、豊臣秀吉はその劇的な生涯に幕を閉じます。享年62歳。
 その辞世の句は、

 つゆとをち つゆときへにし わがみかな なにわの事も ゆめの又ゆめ
 (露と落ち 露と消へにし 我が身かな 浪速のことは 夢の又夢)


 実に見事な辞世ですよね。意訳するのは無粋かもしれませんが、「なにもかもが夢であった。今となってはな・・・」といったところでしょうか。日本史上最大の立身出世を遂げ、位人臣を極めた男が、最期に辿り着いた境地がこの歌だったというところに、豊臣秀吉という人物の魅力を感じ取ることができます。まるで、物語のような人生であったと・・・。しかし、一方で、ほとんど狂気といえる晩年の愚行も、上記の未練タラタラの悲痛な遺言状も、豊臣秀吉という人物の一面であることに違いありません。この二重人格ともいえるアンバランスさが、秀吉という人の人間臭さを表しているような気がします。

 秀吉の最期は、豪壮華麗な伏見城での臨終でした。数限りない武将を戦場で無念の死に追いやってきた男は、まことに平和で安らかな臨終を迎えられる立場に恵まれながら、人を信じられず、我が子の行く末を案じ、最期は狂乱状態であったともいわれます。志半ばで戦場に散った武将たちと、権力も昇りきれるところまで昇りつめた豊臣秀吉の、どちらが幸せな死に際であったか・・・。人の幸せのあり方について、あらためて考えさせられます。

 「太閤は英雄であった。惜しむらくは己の死んだあとのことを、もっと考えておくべきであった」

 そう言った家康は、己が死んだあとの憂いを入念に拭い去ってからこの世を去るんですね。

 朝鮮から帰国した黒田官兵衛と、死を目前にした秀吉が面会したという記録は残っていません。おそらくはドラマの創作で、あのように二人が会うことはなかったでしょう。でも、ドラマのあの長い別れのシーンは感動でしたね。二人の関係は物語の核といえるもので、いわばドラマの集大成といえるシーンだったと思います。天下人となった秀吉は官兵衛を冷遇しながらも、結局、最期に本音で語れるのは官兵衛だった・・・。官兵衛は最期の最期まで、秀吉の家臣であり軍師だった・・・。秀吉のもとを去った後に感情があらわになる官兵衛の後ろ姿が、とても印象的でした。

 実際の官兵衛も、秀吉の死の知らせを受けたときは、きっと感無量だったに違いありません。官兵衛がいなければ秀吉の天下はなかった・・・というのは言いすぎだと思いますが、秀吉との出会いがなければ、官兵衛の人生はまったく違ったものになっていたであろうことは間違いなく、官兵衛にとって秀吉は、人生そのものだったといえるでしょう。官兵衛にとって秀吉の死は、大きな人生の節目、その後は「余生」といった気分になったんじゃないかと想像します。その余生で、もうひと暴れするんですね。ここから、黒田官兵衛の最終章が始まります。


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by sakanoueno-kumo | 2014-11-11 19:53 | 軍師官兵衛 | Comments(0)  

軍師官兵衛 第45話「秀吉の最期」 その1 ~慶長の役と熊之助の死~

 明の使者との会見で、明の降伏が小西行長のでっち上げだったことを知った豊臣秀吉は大激怒し、再び朝鮮に攻め込むことを決断します。慶長2年(1597年)2月、再び海を渡った14万もの兵の中には、若き総大将・小早川秀秋を補佐する軍目付として、黒田官兵衛の姿もありました。もちろん、息子の黒田長政も三番隊として出陣。親子で再渡航となるのですが、このとき16歳になっていた次男・熊之助は、これに加わることができませんでした。

 16歳といえば、初陣を飾ってもおかしくない年齢。兄の長政に似て血気盛んな性格だったのか、熊之助は、家臣の母里吉太夫、黒田吉松を従え、無断で海を渡ろうとします。しかし、不運にもその船が海難事故に遭い、家臣たちとともに溺死したといいます。きっと、熊之助の無鉄砲な行動を、官兵衛ら家族は大いに嘆いたことでしょう。

 ただ、なぜか『黒田家譜』には熊之助の死についてなにも書かれておらず、この話の出典元がわりません。前々話の稿(参照:第43話「如水誕生」)で紹介した官兵衛の遺言状でも、長政に実子が生まれなかったときには、官兵衛の養子となっていた甥の松寿に家督を継がせるよう定めていて、その時点でまだ生きていたはずの熊之助の名が見られません。不思議ですよね。そんなことからも、熊之助はもっと以前に死んでいたのでは?・・・あるいは、熊之助という人物自体、存在しなかったのでは?・・・などなど、いろいろ疑いたくなります。実際のところは、どうだったのでしょう?(詳しい方は教えてください)

 息子たちが遭難した知らせを受けて、我が子の死を嘆くより、まず、主・官兵衛に息子の不始末を詫びる母里太兵衛と、おそらく熊之助が唆したであろうことを理解した上で、太兵衛を気遣う官兵衛のシーンが良かったですね。
家臣は何よりも主のことを重んじ、そんな家臣を主は気遣う・・・これぞ主従関係といったシーンでした。

 再び朝鮮に渡った豊臣軍は、当初はまずまずの戦果を得ますが、長引く戦況に厭戦ムードが漂いはじめます。はじめかこの戦に賛成だった者などひとりもおらず、ほとんど秀吉の意地だけで戦いが続けられていたようなものですからね。目的が見えない仕事ほど、しんどいものはありません。結局、延々と続いた戦いが終わったのは、秀吉の死後のことでした。

 この戦いによって、豊臣政権を支えていた各大名は大いに疲弊し、また、武断派吏僚派の間に確執を生み、結果的に豊臣政権の弱体化の大きな要因を作っただけとなりました。戦地のとなった朝鮮の地も激しく破壊され、敵方の明国も、多額の財政支出で国家が傾き、このあと滅亡への道をたどります。結局のところ、この戦いによって誰も得してないんですよね。唯一、得したとすれば、うまく朝鮮への兵の派遣を逃れて力を蓄えていた徳川家康だけだったでしょうか。

 今日も長くなっちゃったので、その2につづきます。


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by sakanoueno-kumo | 2014-11-10 17:35 | 軍師官兵衛 | Comments(0)  

ブログ開設6周年のご報告。

今日は立冬、暦の上ではに突入ですね。
ところが神戸では、昨日も今日も日中は20度を超す暖かさで、関東地方では、台風20号が東をかすめていったとか。
先週、木枯し1号が吹いたというニュースを聞いたと思えば、今週はこの暖かさですから、いまがいちばん体調を壊しやすい季節ですね。
皆様どうぞ、ご自愛ください。

ところで、今日は手前味噌なご報告です。
2008年11月より続けてまいりました当ブログも、昨日で6周年を迎えることとなりました。
これもひとえに皆々様のご厚情あってのことと、厚く御礼申し上げます。
この間に起稿した拙文数は827稿、いただいたコメント数は2,009件(このうち約半分は自身の返答ですが)、トラックバック数は823件でした。
この6年間に当ブログに訪問していただいた件数は425,152件(PCのみの訪問者数)で、この1年間で約10万件もご訪問いただいたようです(これはユニークユーザー数なので、同じパソコンから1日に何度アクセスいただいてもカウントは1ということになります)。
どなた様も、素人のとりとめもない駄文にお付き合いいただき、まことにありがとうございました。

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6年前、軽い気持ちで始めたブログが、正直ここまで長く続くとは思いもしませんでしたが、最近感じるのは、6年前には聞きなれなかったTwitterFacebookなどのSNSが一気に広まったことで、ブログという情報発信ツールは時代遅れになろうとしているんじゃないかということ。
実際、タレントさんや政治家さんなんかも、ブログよりTwitterやFacebookなどでの発言がメインになって来ているようですし、たしかに、あっちのほうが手軽で、繋がってる感がありますよね。
ブログは、コメント欄は確かにありますが、コミュニケーションの場というよりは、一方通行の発言の場という感は否めません。

かく言うわたしも、世の中に後れを取ってはなるまいと、一応はTwitterもFacebookもやってはいるのですが、どうもイマイチ使いこなせていないというか、上手く楽しむ術がわかりません。
いずれも、当ブログをシェアしているだけで・・・。
あちらは会話を楽しむツールなんでしょうが、いかんせん友達が少ないもので(笑)。
世の中では過去の遺物扱いになっても、わたしにはブログのほうが性に合っているようです。
そんなわけで、まだまだしばらくは続けていくつもりでいますので、どなたさまも、これからも懲りずにお付き合いいただければ幸せです。
今後ともよろしくお願いします。

以上、仕事場より手前味噌なご報告でした。


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by sakanoueno-kumo | 2014-11-07 19:31 | コネタ | Comments(4)  

軍師官兵衛 第44話「落ちゆく巨星」 その2~黒田節と母里太兵衛~

前回の続きです。

 酒は呑め呑め 呑むならば 日本一のこの槍を
 呑み取るほどに呑むならば これぞ真の黒田武士


 有名な民謡『黒田節』の歌詞ですが、今話、この歌にまつわる母里太兵衛の有名なエピソードが描かれていましたね。知っている人も多いと思いますが、ここで改めて逸話を紹介しておきます。

 母里太兵衛といえば、「黒田二十四騎」の中でも最も剛力として知られる勇将で、黒田官兵衛、長政父子の二代に仕えた人物です。今回のドラマでも、常に官兵衛に付き従う側近として描かれていますね。

 文禄5年(1596年)正月、太兵衛は長政の名代として、京都伏見城に滞留中の福島正則のもとを訪れます。このとき、太兵衛は正則からを勧められますが、名代という立場をわきまえ、いったんはこれを固辞します。太兵衛は家中でも「フカ」とあだ名されるほどの大酒呑みでしたが、このときは「先方で酒を出されても呑むことまかりならぬ」と、事前に長政より釘をさされていたといいます。しかし、自身も酒豪である正則はなおもしつこく勧めます。今も昔も、大酒呑みという人種は、酔うとはなぜか人にも酒を進めたくなるんですね。いわゆる質の悪い酔っぱらいです。

 頑なに拒む太兵衛に対して正則は、大盃になみなみと酒を注ぎ、「これを飲み干せたならば、好きな褒美をとらせよう」といいます。さらに正則は、「黒田武士は酒に弱い。酔えば何の役にも立たない」と侮辱して挑発したとか。さすがの太兵衛も、ここまで言われては黙っていられなかったのでしょう。太兵衛は大盃を手にすると、一気に呑み干したといいます。

 そして太兵衛は、約束どおりの褒美として、正則が豊臣秀吉から拝領した名槍「日本号」を所望します。さすがの正則もこれには困ってしまいますが、「武士に二言はない」と開き直り、潔く「日本号」を太兵衛に与えたといいます。酔うと太っ腹になるというのも、典型的な大酒呑みの姿ですね。

 翌朝、正気になった正則は、真っ青になって太兵衛のもとに「日本号」の返却を求めてきましたが、太兵衛は「武士に二言は無いはず」といってこれを受け付けませんでした。正則としては、一生の不覚だったでしょうね。この逸話によって、「日本号」は「呑取り日本号」という異名がつき、これが民謡『黒田節』の歌詞となり、黒田武士の男意気を示すエピソードとして後世に長く伝えられることになります。

 とまあ、黒田家の歴史を語る上では欠かせない太兵衛の逸話ではありますが、今話の流れ的にいえば、本筋から大きく外れたところの余談であり、なんとなく唐突な感じがしましたね。多くの人に愛される逸話だから省くわけにいかず、無理やり話の間に押し込んだ感がありました。物語は秀吉の最晩年に差し掛かり、秀吉と官兵衛の関係も大詰めを迎えようとしているところ、太兵衛の逸話は割愛してもよかったんじゃないかと・・・。特に本編に必要な話ではなかったですしね。なんとなく、あのシーンだけ異質なものに感じました。

 さて、いよいよ次週は秀吉の最期が描かれるようです。



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by sakanoueno-kumo | 2014-11-05 22:09 | 軍師官兵衛 | Comments(4)