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花燃ゆ キャスト&プロローグ

 2015年の大河ドラマは『花燃ゆ』。ときは幕末、同時代の若者たちに大きな思想的影響を与えた長州藩士・吉田松陰の末妹で、のちにその松陰の愛弟子である久坂玄瑞の妻となり、玄瑞の死後、松陰の信頼が厚かった楫取素彦の妻となる、文(ふみ)の生涯が描かれます。文の生まれ育った杉家は、父母、三男三女、叔父叔母、祖母が一緒に暮らす大家族で、多い時には11人が小さな家に同居していたと言います。そして、杉家のすぐそばにあった松下村塾では、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、品川弥二郎、山縣有朋ら多くの若者たちが松陰のもとで学び、やがて彼らは、幕末の動乱のなかに身を投じていきます。そんな幕末から明治にかけての動乱を生きた長州藩士たちの足跡を、文目線で描いたドラマが『花燃ゆ』です。

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杉家
杉文(楫取美和子)・・・・・・・井上真央(少女期:山田萌々香)
小田村伊之助(楫取素彦)・・・・・・・大沢たかお
吉田寅次郎(松陰)・・・・・・・伊勢谷友介
久坂玄瑞・・・・・・・東出昌大
杉百合之助(常道)・・・・・・・長塚京三
杉滝・・・・・・・檀ふみ
玉木文之進・・・・・・・奥田瑛二
杉梅太郎(民治)・・・・・・・原田泰造
杉寿(楫取寿子)・・・・・・・優香(少女期:香音)
杉敏三郎・・・・・・・森永悠希(幼年期:山田瑛瑠 / 少年期:大橋律)
杉亀・・・・・・・久保田磨希
玉木彦介・・・・・・・冨田佳輔
長州藩
毛利敬親・・・・・・・北大路欣也
毛利都美子・・・・・・・松坂慶子
桂小五郎(木戸孝允)・・・・・・・東山紀之
周布政之助・・・・・・・石丸幹二
椋梨藤太・・・・・・・内藤剛志
椋梨美鶴・・・・・・・若村麻由美
来島又兵衛・・・・・・・山下真司
長井雅楽・・・・・・・羽場裕一
来原良蔵・・・・・・・松本実
松下村塾の塾生たち
高杉晋作・・・・・・・高良健吾(少年期:山崎竜太郎)
吉田稔麿・・・・・・・瀬戸康史
伊藤利助(博文)・・・・・・・劇団ひとり
前原一誠・・・・・・・佐藤隆太
入江九一・・・・・・・要潤
野村靖・・・・・・・大野拓朗
品川弥二郎・・・・・・・音尾琢真
寺島忠三郎・・・・・・・鈴木伸之
赤禰武人・・・・・・・阿部亮平
松浦亀太郎・・・・・・・内野謙太
野山獄の人々
高須久子・・・・・・・井川遥
富永有隣・・・・・・・本田博太郎
福川犀之助・・・・・・・田中要次
大深虎之丞・・・・・・・品川徹
吉村善作・・・・・・・日野陽仁
長州の人々
小田村志乃・・・・・・・かたせ梨乃
松島剛蔵・・・・・・・津田寛治
高杉小忠太・・・・・・・北見敏之
吉田イク・・・・・・・芳本美代子
吉田ふさ・・・・・・・小島藤子
入江すみ・・・・・・・宮崎香蓮
高須糸・・・・・・・川島海荷
金子重輔・・・・・・・泉澤祐希
金子ツル・・・・・・・麻生祐未
肥後藩
宮部鼎蔵・・・・・・・ビビる大木
薩摩藩
西郷吉之助(隆盛)・・・・・・・宅間孝行
小浜藩
梅田雲浜・・・・・・・きたろう
徳川幕府
井伊直弼・・・・・・・高橋英樹
***********************************************************************
 主人公・文役は井上真央さん。朝ドラの主役から大河ドラマの主役という流れは、大ヒットした『篤姫』宮崎あおいさんと同じですね。彼女は、アカデミー賞主演女優賞の受賞歴があるほどで、実力・実績は申し分なく期待できそうですが、ただ、文という女性は、お世辞にも美女とはいえなかったようで(最初の夫となる久坂玄瑞が、縁談が持ち上がった当初、不美人だという理由で難色を示したというエピソードもあるほどで)、その意味では、実在の人物とはかけ離れているようです。まあ、ドラマでそこまで忠実に再現する必要はないでしょうし、なにより、美人な女優さんじゃないと観る気がしませんしね(笑)。彼女の演技力に期待しましょう。

 その文の兄である吉田松陰を演じるのは伊勢谷友介さんですが、これまた実際の松陰とは似ても似つかない二枚目ですね。松陰の肖像画をご存知の方はわかると思いますが、あの極端に長い顔の馬面にしてキツネ目の表情は、千原ジュニアさんを思わせます(笑)。あと、元阪神タイガースの猪俣隆投手も・・・(って、わからない人が多いでしょうね)。伊勢谷さんといえば、どちらかといえばクールなイメージの役が多いと思うのですが、激情家の松陰をどう演じるのか楽しみです。

 文の最初の夫となる久坂玄瑞は、身の丈六尺(約180㎝)で長州藩きっての美男子だったといいますから、東出昌大さんはハマリ役なんじゃないでしょうか? それから、文の二人目の夫となる小田村伊之助役の大沢たかおさんは、実在の人物像云々というより、予告編を観る限り、南方仁先生にしか見えませんでした(笑)。あのとき相手役だった綾瀬はるかさんは、『JIN』『八重の桜』では、姿勢から発声から表情に至るまで、まったく違う人物に演じ分けておられましたが、大沢さんはどう演じるのか注目してみましょう。

 あと、登場人物の名前についてですが、幕末と明治ではまったく名前が変わっちゃう人がいるので、この時代の物語はややこしいんですよね。主人公の文でいえば、杉文→久坂文→楫取美和子と改名しています。結婚して姓が変わるのは当然としても、姓名ともに変わっちゃいますからね。ほかにも文のまわりでは、小田村伊之助→楫取素彦、杉寿→楫取寿子と改名しており、有名どころでは、桂小五郎→木戸孝允もそうですよね。前作の主人公・黒田官兵衛も、官兵衛、孝高、如水と複数の名がありましたが、それぞれが通称、諱、号といった使い分けであり、如水と号してからも官兵衛という通称がなくなったわけではありません。ですので、当ブログではすべて官兵衛の呼称で通したのですが、本作ではどうするか、まだ迷っています。たぶん、前半は「文」で、後半は「美和子」でいくことになるでしょうね。

 いずれにせよ、わたしは文という女性のことを全く知らなかったので(ドラマの制作発表があってから、にわかに何冊か関連本を読みましたが)、本作のレビューでは、彼女について書くことは少ないと思います。本作では、ウンチクの少ない感想文的な起稿になると思いますが、よろしければまた覗いてやってください。本年の起稿は、おそらくこれで最後となります。来年もよろしくお願いします。


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by sakanoueno-kumo | 2014-12-30 15:39 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(2)  

軍師官兵衛 総評

 2014年の大河ドラマ『軍師官兵衛』の全50話が終わりました。今年も、なんとか全話レビューを起稿することが出来て安堵しているところですが、最後に、あらためて本作品を総括してみたいと思います。

 今年の主人公である黒田官兵衛は、これまでもたびたび主役予想に名前が挙がっていた人気の人物でしたが、わたし自身も、予てから官兵衛主役の大河を望んでいたひとりでした。古くは吉川英治氏の『黒田如水』司馬遼太郎氏の『播磨灘物語』、最近では池田平太郎氏の『黒田家三代』など、官兵衛主役の小説は何冊か読んでいましたし、地元兵庫県出身の偉人ということもあって、勝手に親近感を持っておりました。姫路市でずいぶん前から官兵衛の大河誘致運動が熱心に行われていることも知っていましたし、それらのPRイベントの仕事に参加させてもらったこともありました。そんなこんなで、『軍師官兵衛』の制作発表があってからは、たいへん楽しみにしておりました。

 それだけ期待が大きいと、逆にハードルが高くなって期待はずれに感じてしまいがちだと思うので、なるべく先入観を持たずに観ようと心がけた1年だったのですが、全話が終わった感想を率直に述べると、たいへん良い出来だったとわたしは思います。少なくとも、ここ近年(今世紀に入ってから)の大河作品のなかでは、わたし個人的にはいちばん良かったんじゃないでしょうか。久々に、大河ドラマを観た!という気分です。

 その理由を簡単にまとめると、まず、昨年、一昨年の作品と同じく、史実、通説を軸にしたストーリーづくりが、ちゃんと成されていたこと。わたしは、決して史実至上主義ではなく、物語である以上フィクションは不可欠だと思っていますが、さりとて、さすがに歴史を歪曲してしまうほどの虚構はいかがなものかと思いますし、何より、事実は小説よりも奇なりで、史実、通説を超えるほど面白い物語を創作するのは、容易なことではないとは思います。安直なフィクションは、荒唐無稽な物語になっちゃいますからね。その意味では、本作は大筋の部分は通説どおりに描かれていて、ストーリーに安心感がありました。もちろん、重箱の隅をつつくような粗探しをすれば、ツッコミどころはあるのですが、わたしは、そういった観方は好きではありませんし、本作に関していえば、それも少なかったように思います。

 次に、主人公の描き方についてですが、ここが最も重要で最も難しいところなんですよね。どれだけ主人公の魅力を引き出せるかがポイントで、それによって作品の評価が大きく変わってきます。いちばん良いのは、そのドラマを観てその人物のことが好きになったと言われるような描き方で、その例で言えば、昭和62年(1987年)放送の『独眼竜政宗』などは、その最たる例でしょう。過去、名作と言われた作品は、ほとんどがそうでしたよね。

 ただ、だからと言って、実在の人物を描くわけですから、虚像で塗り固めたものではダメですし、また、それでは魅力的な人物にはならないでしょう。その人物の本来持つ魅力をどれだけ引き出せるか・・・。歴史上の偉人たちの魅力というのは、いい意味で清濁併せ呑むところにあると思います。聖人君子では絶対に魅力的には映らないでしょうし、かといって、極悪非道でも観る人を引きつけることは出来ない。難しいですよね。

 その意味では、本作の黒田官兵衛は、たいへん魅力的だったと思います。いうまでもなく黒田官兵衛の魅力は「智将」としての部分ですが、必要以上に策士の部分を強調し過ぎると、ただの野心家となってしまうでしょうし、無理に正義の味方的ヒーローにしてしまうと、行動の辻褄があわなくなってシラケてしまいます。本作では、その清濁が上手く描けていたんじゃないでしょうか。

 そう思えた理由は、脚本演出の良さもありますが、岡田准一さんの演技力の高さも大きかったでしょうね。印象深いのは、織田信長横死の知らせを受けたあとの安国寺恵瓊との密会のシーン。知略家同士がお互いの腹の中を探りながらの談合で見せたあの腹黒い笑みや、その後、信長討死を隠したまま毛利氏と和睦を成立させた際のほくそ笑みなど、最近の大河作品ではあまり観られなかったダークな演技は圧巻でした。また、関ヶ原の戦いの混乱に乗じて天下を狙ったときの野望に満ちた目も、たまんなかったですね。やっぱ、大河の主人公には、ああいう目をして欲しいんです。近年の作品には、あの目がなかったんですよね。

 脇を固める俳優さん方で言えば、ヒロインの役の中谷美紀さんはさすがですね。美人だし演技上手いし、まさに本作の華でした。意外にも、大河ドラマ初出演だったんですね。NHKは何をやってたんだ?・・・と。それから、江口洋介さんの織田信長が意外に良かったです。なかなか凄みがありましたよね。竹中直人さんの豊臣秀吉にいたっては、これ以上のハマリ役はないといっていいと思いますが、ただ、竹中秀吉は過去に堪能していますから、新鮮味には欠けましたよね。もうちょっと別の秀吉像も見てみたかった気がします。その意味で目新しかったのは寺尾聰さんの徳川家康ですが、う~ん・・・といったところでしょうか(笑)。たぶん、家康を演じるために無理に太られたのでしょうね。その意気込みには拍手を贈りたいです。今回フィーチャーされた荒木村重役の田中哲司さんは、正直あまり知らなかったのですが、いい俳優さんですね。今後、村重のイメージは田中さんで定着しそうです。今回、最も素晴らしいと思ったのは、黒田長政役の松坂桃李さん。こんな役もできるんですね。この人、いつか大河の主役演るんじゃないでしょうか。あと、黒田職隆役の柴田恭兵さんは・・・まあ、演技はさておき存在感はありました(笑)。最後に、今回最もミスキャストだったのは、春風亭小朝さんの明智光秀。なんでやねん!といいたくなる配役でした(笑)。

 これまで述べてきたとおり、今年の大河はわたしにとって、たいへん高評価の作品となりましたが、まったく不満がなかったわけではありません。たとえば、石田三成の人物像などは、もうちょっとどうにかならなかったかとは思いますね。官兵衛主役の物語ですから、三成がヒール役になるのは仕方ないとしても、あの嫉妬深く陰険なイジメっ子のようなキャラは、いただけなかったですね。仮にも関ヶ原の西軍の将ですから、悪役に描くにしても、もうちょっと大物感を出してほしかったと思います。

 それから、登場人物の呼称についてですが、大河作品ではいつの頃からか、三成のことを「治部少」、秀吉のことを「筑前守」といった呼び方は使わなくなりましたよね。この度も、天下人となったあとは「関白殿下」「太閤殿下」と呼んでいましたが、それまでは、ほとんどが「秀吉様」。実際には下の者が上の人をファーストネームで呼ぶなどあり得なかったと思いますよ。たぶん、わかりやすさを重視したのだと思いますが、難しいところですね。「ありがとう=かたじけない」や、「一人称=それがし、拙者」なども同様ですが、言葉は使わなければ消えていってしまいます。できるだけ、時代劇言語を継承して欲しいんですけどね。

 あと、本作に限らずですが、天下人を目論む武将たちに、「乱世を終わらせるため」とか「戦のない世を作るため」といったスローガンを語らせるのも、そろそろやめにしませんか? そういう風に言わせないと駄目なのでしょうか? あの台詞を聞くと、どうも安っぽく思えてなりません。彼らは皆、自分たちの野望を満たすため、あるいは、自家の存続と繁栄のために戦っていたわけで、決して世のため人のために戦っていたわけではありません。言うなれば、現代の企業戦士たちと同じで、自社の利益のため、家庭を守るため、自身の出世のために血眼になって働いているわけで、世の中のために働いている人なんて、ほとんどいないはずです。皆、自分たちのために働いて、その結果、世の中の繁栄に繋がっているわけで、戦国時代現代社会も同じですよ。あれがなければ、もっと良かったんですけどね。

 ちょっと批判めいたことも述べましたが、それらの不満点を差し引いても、わたしにとって『軍師官兵衛』は、名作のひとつに数えられる作品となりました。ただ、実は1年前の放送前から、本作はきっと良い作品になるんじゃないかと予感していたんですよね。というのも、一昨年の『平清盛』から、明らかに制作サイドのスタンスが変わりましたよね。その前年まで長らく続いていたトレンディードラマさながらのドラマスタイルを一新し、歴史ドラマを作ろうといった意気込みが伝わってくる作風に変わりました。そのスタンスが『平清盛』『八重の桜』を経て、本作で実ったとわたしは感じています。長らく続いていた暗黒時代は終わったと・・・。残念ながら視聴率には反映されていないようですが、この流れはぜひ今後も続けていって欲しいと、わたしは思います。

 とにもかくにも1年間楽しませていただき本当にありがとうございました。このあたりで『軍師官兵衛』のレビューを終えたいと思います。毎週のぞきにきていただいた方々、時折訪ねてきてくれた方々、コメントをくださった方々、本稿で初めてアクセスいただいた方々、どなたさまも本当にありがとうございました。

●1年間の主要参考書籍
『誰も書かなかった黒田官兵衛の謎』 渡邊大門
『黒田家三代』 池田平太郎
『日本の歴史11~戦国大名』 杉山博
『日本の歴史12~天下一統』 林屋辰三郎
『播磨灘物語』 司馬遼太郎
『黒田如水』 吉川英治



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by sakanoueno-kumo | 2014-12-25 19:17 | 軍師官兵衛 | Trackback(1) | Comments(6)  

軍師官兵衛 最終回「乱世ここに終わる」その2 ~エピローグ~

 関ヶ原の戦いにおける黒田長政の活躍によって、黒田家は筑前国名島に52万3000石を与えられます。新天地に入国した黒田官兵衛・長政父子は、さっそく博多のそばに新しい城の建設を開始。同時に、この地を「福岡」と名づけます。これ以後、長政を藩祖とした福岡藩黒田家は、幕末まで12代続きます。

 そして徳川家康征夷大将軍に任じられ、江戸幕府が開かれた慶長8年(1603年)頃から、官兵衛は病に伏すところとなります。その頃から、官兵衛はどういうわけか、人が変わったように家臣に冷たく当たるようになり、難癖をつけては罵るようになったといいます。家臣たちは官兵衛の激変に「ご乱心」と恐れおののいたといいますが、見かねた長政が諌めたところ、官兵衛は「そちのためにやっているのだ。」と囁きます。曰く、家臣たちに酷い仕打ちをするのは、自分が疎まれることで、早く長政の代になってほしいと家臣たちに思わせるためだと・・・。自分が憎まれることによって、長政の求心力を高めようと考えたんですね。

 また、当時は主君が亡くなると家臣が殉死する習慣があったため、これを防ぐ狙いもあったのだとか。有能な家臣が殉死して黒田家家臣団が弱体化することを恐れたというわけですね。いずれも実話かどうかはわかりませんが、人生の最期の最期まで、合理的知略に富んだ逸話が絶えません。と同時に、官兵衛の長政に対する親心もうかがえますね。このエピソードもドラマで演ってほしかったなぁ・・・。

 慶長9年(1604年)に入って、いよいよ死期を悟った官兵衛は、股肱の臣である栗山善助を呼びつけ、自身の愛用していたを授けます。本来であれば、息子の長政に引き継ぐべきものですが、官兵衛はあえてこれを善助に託すことで、長政への忠誠心を今一度促し、また、長政には善助を父のように思うようにと言い残しました。そして、3月20日、黒田官兵衛はその波乱に満ちた生涯の幕を閉じます。享年59歳。その辞世の句は、

 「おもひをく 言の葉なくて つゐに行く 道はまよはじ なるにまかせて」

 「いっこうに悔いが思い浮かばぬ」といったドラマの官兵衛の台詞は、この辞世の句からきたものでしょうね。言い残す言葉もなく、ついにあの世にいくことになったが、その道は迷うことなく、なるようにまかせよう・・・・。人生の最期にこんな言葉が言えるのは、精一杯生きてきた者だけでしょうね。

 「殿、よく生き抜かれましたなぁ・・・。」

 そう言った妻・は、官兵衛の死後、出家して院号を照福院とし、官兵衛の死から23年、息子の長政より長生きします。

 織田信長にその才を見出され、豊臣秀吉を天下人に押し上げ、徳川家康に一目置かれた智将・黒田官兵衛。一方で、その人となりは、生涯名利を好まず、質素倹約を旨とし、戦国武将としては地味な存在の武将といえるでしょう。しかし、そんないぶし銀的な生き方が、官兵衛の魅力だとわたしは思います。それが、官兵衛をして「天下を取ってほしい」という思いに繋がるのでしょうね。もし、官兵衛が天下人になっていたら、歴史はどう変わっただろうと・・・。でも、歴史は官兵衛を天下人に選びませんでした。黒田官兵衛という人物に与えられた歴史的役割は、やはり、「軍師官兵衛」だったということですね。


 1年間、拙い文章にお付き合いいただきありがとうございました。今年も、なんとか完走出来て安堵しています。年内には総括を起稿したいと思っています。


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by sakanoueno-kumo | 2014-12-23 22:43 | 軍師官兵衛 | Trackback(1) | Comments(4)  

軍師官兵衛 最終回「乱世ここに終わる」その1 ~官兵衛天下取り説~

 慶長5年(1600年)9月15日、美濃国は関が原において、徳川家康の率いる東軍8万の軍勢と、石田三成を大将とする西軍10万の軍勢が衝突します。世にいう関が原の戦いですね。結果は、ほとんどの人が周知のところだと思いますが、戦いはわずか半日東軍の圧勝で終わります。

 兵の数では優っていた西軍でしたが、毛利軍、島津軍などは参戦することなく、実際に戦っていたのは3分の1ほどだったといわれます。それでも、大谷軍、宇喜多軍、小西軍の奮戦もあり、前半は優勢に運んだ西軍でしたが、勝利を目前にして形成は瞬く間に逆転。一気に総崩れとなります。そのいちばんの要因は、いうまでもなく小早川秀秋寝返りに尽きるのですが、それ以外にも、戦線を離脱する者や役割を放棄して退く者など、多くの裏切り行為があったといいます。徳川方の「関ヶ原」は、事前の切り崩し工作から始まっていました。一説には、戦前に家康が諸大名に宛てた書状は200通にも及ぶと言われています。まさしく「段取り八分」だったわけですね。

 東軍に属していた黒田長政は、切り込み隊長として西軍に猛攻を加え、三成の片腕である島左近を戦闘不能に追い込む活躍を見せます。また、実戦以外でも、吉川広家小早川秀秋を味方に引き入れる工作で貢献したといいます。文句のない活躍ぶりで、父・黒田官兵衛ぬきでも、黒田武士の存在感を大いに示したといえますね。

 また、戦後、捕縛されて縄目のまま城門にさらされていた三成に対して、通りすがる武将たちの多くが罵声を浴びせるなか、長政は馬から降りて一礼し、「勝敗は武士の常、恥にはござらぬ」と言って自身の着ていた陣羽織を三成の肩にかけた、という逸話があります。ドラマでもそのまま描かれていましたね。実話かどうかはわかりませんが、もし事実だとすれば、長政という人物の廉直な人間性をうかがい知ることができます。

 関ヶ原の戦いが家康の勝利で幕を閉じた同じ頃、九州は豊後国で大友義統を降伏に追い込んだ官兵衛は、安岐城、富来城を攻撃して兵を進めます。このとき、官兵衛は関ヶ原の戦いがわずか半日で決したという知らせを受けたようですが、それでも官兵衛は戦いの手を緩めず、ほぼ1ヵ月かけて豊後を平定。さらに、その勢いで久留米城柳川城を攻撃するなど、その勢いは止まるところを知らず、家康の停戦命令を受けて、ようやく矛を収めます。

 このときの官兵衛の猛攻が、官兵衛天下取り説の根拠となっています。関ヶ原の戦いで中央に大名たちが集結しているをついて、九州から西日本を平らげ、一気に天下取りに名乗りを上げる狙いだったが、予想外に関ヶ原の戦いが早く決着がついてしまったため、官兵衛の野望は露と消えた・・・と。ドラマも、この説で描かれていましたが、本当のところはどうだったのでしょう?

 この説の出処は、官兵衛の死後100年以上経ってから編纂された『常山紀談』によるもので、その記述によると、
 「家康を倒すことはたやすい。九州平定後に島津氏を味方にし、二万の兵を率いて加藤清正と鍋島直茂を従わせ、道中で浪人を集めれば十万の軍勢になろう。その上で東に攻め上がれば、家康を滅ぼすなど簡単なことだ。」
 と、官兵衛が語ったとされます。また、同じく『常山紀談』では、官兵衛が自らの死に臨んで、
 「関が原で今少し石田三成が持ちこたえたなら、九州から攻め上り、日本を掌中に収めたかった。そのときは、子である汝を捨ててでも、一博奕打とうと思っていた。」
 と、長政に遺言したといいます。

 この『常山紀談』は、読み物としての歴史的価値は高いようですが、脚色部分が多く、史料としての価値は高くないようです。客観的に考えて、いかに官兵衛が智将といえども、大身ではない身で天下を狙うなど、いささか夢物語の観が拭えません。

 また、もう一つ有名な逸話として、『黒田故郷物語』に記されたエピソードがあります。関ヶ原の戦後、中津に戻ってきた長政が、官兵衛に家康が手を差し伸べてお礼を言ってくれたと自慢気に話します。その話を聞いた官兵衛は、「その手は右手か?左手か?」と問います。長様が右手だったと答えると、官兵衛は「そのとき、お前の左手は何をしていたのか?」と、言ったといいます。つまり、「なぜ左手で家康を刺さなかったのか?」ということ。有名な話ですね。

 しかし、この『黒田故郷物語』は、作者や成立年が不詳の書物であり、良質な史料とは言い難いもののようです。だいいち、現実的に考えて、短刀を胸に忍ばせて家康に近づくなど不可能だったはずで、残念ながら荒唐無稽な話だと言わざるを得ません。

 では、なぜこのような逸話が生まれたのかと考えたときに、おそらく、官兵衛に天下を取って欲しかったという、後世の人々の思いが作り出した虚構だったんじゃないでしょうか? 一土豪から大名まで上り詰めた智将・官兵衛に、歴史の“もしも”を見たかった・・・。左手のエピソードも、官兵衛なら、きっとこう言ったんじゃないか・・・という思いが、この台詞を生み出したのではないかと・・・。いまでも人気の高い官兵衛ですが、その人気は江戸時代から、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康とは違う天下人像として、人々の空想の中で息づいていたのかもしれません。

やはり長くなっちゃいました。
明日、「その2」を起稿します。


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by sakanoueno-kumo | 2014-12-22 22:00 | 軍師官兵衛 | Trackback | Comments(4)  

荒木村重ゆかりの摂津路逍遥 その3 ~花隈城跡~

先日のつづきです。

尼崎城(大物城)を脱出した荒木村重は、嫡子の村次とともに花隈城に逃げ込みます。
花隈城は、花熊、鼻熊とも書かれ、現在の神戸市中央区にあります。
神戸の象徴であるポートタワーの真北あたりです。
この頃、花隈城は有岡城の支城として、荒木一族の荒木元清が城主を務めていました。
築城時期は諸説あるようですが、天正2年(1574年)頃、石山本願寺毛利氏に備えて、織田信長が村重に命じて築かせたといいます。

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現在、花隈城本丸跡には模擬石垣が築かれていますが、往時を類推するものではなく、単なる史跡っぽい演出施設です。
石垣の中は駐車場になっており、たしか1時間400円です(笑)。
村重もビックリでしょうね(笑)。

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石垣の上は公園になっていて、模擬天守台が築かれています。

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花隈城に逃げ込んだ村重でしたが、追撃してきた池田恒興、元助、輝政父子らに攻め込まれ、天正8年(1580年)7月2日に落城します。
その後、その恩賞として恒興に旧荒木領が与えられますが、のちに恒興は兵庫城を築城したため、花隈城は廃城となります。
現在、花隈公園には、「花隈城趾」と書かれた石碑が建っていますが、その筆は、池田恒興の子孫にあたる池田宣政公爵のものだそうです。
この碑は阪神・淡路大震災で倒壊してしまったそうですが、資料に基づき新たに模造されたものだそうです。

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わたしは、この近くに親戚の家があったことから、子供の頃によくこの公園で遊びました。
もう40年以上も前のことですが、その頃は、この城跡公園から南を見ると、模擬石垣より高い建物はほとんどなく、ポートタワーだけがそびえ立っていました。
ところが、いまはご覧のとおり、建物の間からなんとかタワーを探せる状態です。

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史料として残されている花隈城の絵図によると、城は大きく三つの郭に分かれ、現在の花隈公園は、本丸の東南にあたるそうです。
天守は西北隅にあったようで、その地には、現在は福徳寺があります。
その山門脇には、「花隈城天守閣之趾」と刻まれた石碑があります。

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村重の一連の戦いにおいて、物語などでは花隈城の戦いはほとんど描かれませんよね。
おそらくその理由は、ほとんど勝敗が決まった中での最後の悪あがきといった印象でしかなく、一瞬で片付けられたようなイメージでしかないからでしょう。
ところが、実際には、村重が花隈城に籠っていたのは約半年間で、池田恒興との戦端が開かれてからも、約4ヵ月持ち堪えているんですね。
尼崎城にいたのがわずか3ヵ月ほどだったことを思えば、花隈城は、なかなか堅固な城だったのかもしれません。
この場所で、村重は最後の望みをかけて援軍を待っていたのでしょうが、結局はそれも叶わず、この花隈城が文字どおり「最後の砦」となってしまいます。
まさしく、「兵どもが夢の跡」ですね。

(いまでは、このように高層マンションに見下されています)
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今年の大河ドラマ『軍師官兵衛』で、これまでになくフィーチャーされた荒木村重。
信長に反旗を翻した先見性のなさや、説得にきた黒田官兵衛を籠城したこと、妻子を見殺しにして逃げ出したことなどから、後世にあまり人気がありません。
しかし、一方で、ルイス・フロイスの著書のなかでは、きわめて穏和で陽気な人物として、たいへん好感を持って記述されている側面があります。
「その1」の稿で紹介した有岡城の惣構という城づくり、まちづくりから見ても、領民を大切にする、心優しい武将だったのかもしれません。
だから、信長の恐怖政治についていけなくなったのかもしれませんね。
そんなことを思い巡らせながら、村重ゆかりの史跡をめぐりました。
この辺で、このシリーズを終わります。

荒木村重ゆかりの摂津路逍遥 その1 ~有岡城跡~
荒木村重ゆかりの摂津路逍遥 その2 ~尼崎城跡~


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by sakanoueno-kumo | 2014-12-18 20:55 | 神戸の史跡・観光 | Trackback | Comments(4)  

荒木村重ゆかりの摂津路逍遥 その2 ~尼崎城跡~

先週の続きです。

織田信長に反旗を翻して有岡城に籠城した荒木村重でしたが、1年近く続いた籠城戦がいよいよ戦況不利と判断すると、あろうことか、わずかな側近のみを連れて夜半に城を抜け出し、嫡男・荒木村次のいる尼崎城(別名:大物城)に移ってしまいます。
このとき、妻子を有岡城に置き去りにして逃げ出したことが、後世に村重という人物の評価を著しく下げる要因となります。
しかし、近年の研究では、尼崎城に移った村重は、懇意にしていた武将らに援軍を要請する書状を複数送っていたことがわかっており、村重は逃亡したのではなく、援軍を得て立て直しを図り、反撃に転じる機会を狙うためだったのではないか・・・という、村重にとっては汚名返上の説が浮上してきています。
実際は、どうだったのでしょうね。

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現在、尼崎城跡には尼崎市立明城小学校が建っており、その片隅に石碑が建っています。
といっても、現在確認できる尼崎城の遺構は、すべて江戸時代に入ってから、尼崎藩主として入封した戸田氏鉄によって築かれたもので、村重が逃げ込んだ大物城ではありません。

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のちの近世尼崎城は、大物城を取り壊してその上に規模を拡大して築城されたと考えられていましたが、最近の研究では、大物城は近世尼崎城の北東にあったのではないか、とする説が浮上し、現在でも結論を見ていません。
いずれにせよ、尼崎城跡周辺は完全に住宅化されていますので、発掘調査は不可能、伊丹の有岡城のように、現在の地形から当時を読み取ることも難しく、大物城の場所を立証する術はありません。

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小学校の北西には尼崎城址公園があり、外郭の石垣の一部が復元されています。

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尼崎城に逃げ込んだ村重でしたが、すぐに城は包囲され、残された荒木一族は、見せしめとして尼崎城近くの七松にて、家臣の妻子122人の上、長刀によって処刑され、その他510余名の小者や女中たちは、枯れ草を積んだ家屋に閉じ込められ、家もろとも焼き殺されます。
この大虐殺『信長公記』には、次のように記しています。

「尼崎ちかき七松と云ふ所ににて、張付に懸けらるべきに相定め、各(おのおの)引き出だし候。 さすが歴々の上臈(じょうろう)達、衣装美々しき出立(いでたち)、叶はぬ道をさとり、うつくしき女房達、並び居たるを、さもあらけなき武士どもが、請け取り、其の母親にいだかせて、引き上げ引き上げ張付に懸け、鉄炮を以て、ひしひしと打ち殺し、鑓、長刀を以て差し殺し、害せられ、百廿人の女房、一度に悲しみ叫ぶ声、天にも響くばかりにて、見る人、目もくれ心も消えて、かんるい押さへ難し。 是れを見る人は、廿日卅日の間は、其の面影身に添ひて、忘れやらざる由にて候なり。
此の外、女の分、三百八十八人。かせ侍の妻子付々の者どもなり。男の分、百廿四人。是れは歴々の女房衆へ付け置き候若党以下なり。合せて五百十余人。矢部善七郎、御検使にて、家四ツに取り籠め、こみ草をつませられ、焼き殺され候。 風のまはるに随ひて、魚のこぞる様に、上を下へと、なみより、焦熱、大焦熱のほのほにむせび、おどり上がり飛び上り、悲しみの声、煙につれて空に響き、獄卒の呵責の攻めも、是れなるべし。 肝魂を失ひ、二目とも、更に見る人なし。哀れなる次第、中々申すに足らず。」


632人が処刑されたと伝えられる「七松」は、現在の住所では尼崎城から北西に2キロほど離れたところにあたります。
信長は尼崎城を攻めるにあたって、七松に付城を設けたといいます(そのとき築いたものか、元からあった城なのかは定かではありません)。
現在、その七松城跡(かどうかも定かではありませんが)近くにある七松八幡寺神社に、信長によって処刑された六百二十餘人を弔う慰霊碑が建てられています。

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そして、村重の妻・だしをはじめ荒木一族36名は、京都に連行され、大八車に縛り付けられ引き回されたのち、六条河原で首をはねられました。
村重が有岡城から抜け出し尼崎城に来たのが、逃げ出したのではなく援軍要請のためだったとしても、その浅墓な行動は大きな代償を払う結果となりました。
追い詰められた村重は、またも尼崎城を抜け出し、現在の神戸市中央区にある摂津花隈城に逃げ込みます。

というわけで、次回は花隈城跡を訪ねます。

荒木村重ゆかりの摂津路逍遥 その1 ~有岡城跡~
荒木村重ゆかりの摂津路逍遥 その3 ~花隈城跡~


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by sakanoueno-kumo | 2014-12-16 16:55 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

小選挙マジックで与党圧勝に終わった衆院選に見る、長期政権の行方。

与党の圧勝でしたね。
概ね予想通りの結果でしたから、今回ここで特に述べたいことはないのですが、一応、国政選挙後の慣例として、思いついたことを場当たり的に綴ってみます。

まず、与党圧勝の結果についてですが、これについては2年前の衆院選のときにも述べたことですが(参照:衆院選の自民圧勝に思う、小選挙区比例代表並立制の是非)、小選挙マジックが成せる結果といえるでしょうね。
この度の選挙で全475議席中、自民、公明両党で326議席を獲得し、2年前に続いて衆院で再可決が可能な3分の2を上回る議席を確保したわけですが、獲得票数で見ると、実は過半数にも達していません。
ところが小選挙区だけで見ると、定数295議席中232議席を獲得しており、つまり、5割に満たない票数で8割近い議席を獲得したことになります。
比例区の方で見ると、自公でなんとか過半数を超えた程度ですから、こっちのほうが、民意に近い結果といえるでしょうね。
わたしは、どうもこの小選挙制度というものが、問題だらけの制度だと思えてなりません。

もうひとつの与党圧勝の理由は、やはり野党の不甲斐なさでしょうね。
国民に愛想を尽かされた民主党はもちろんですが、かつて「第三極」という言葉が流行語となった新党の方々も、ひっついたり分かれたりしているうちに、どんどん存在感が薄れていったような気がします。
橋下徹大阪市長率いる維新の党も、思ったより善戦していましたが、かつての勢いは感じられません。
橋下さんも、国政に打って出る機会を逃しちゃいましたね。
そろそろ、橋下ブームも賞味期限切れといったところでしょうか。

結局、消去法でいくと自民党しかないよね・・・というのが、今回の衆院選だったと思います。
当選した小泉進次郎氏が、「熱狂なき選挙であり、熱狂なき圧勝だった。」と述べておられましたが、まさしくそのとおりで、追い風も向かい風もない、ドッチラケムードの選挙だったんじゃないでしょうか?

ところが、安倍晋三総理は、「民意を得た」とばかりに動き始めそうですね。
そもそも「大義なき解散」などと揶揄されながらも断行した今回の解散総選挙は、アベノミクスの継続と消費税増税の時期延期を争点とした選挙だったはずですが、さっそく昨日の記者会見で、解散時にはほとんど口にしなかった改憲論を前に出してきましたね。
こうなると思いましたよ。
憲法改正原発再稼働については、世論調査では半数以上が反対という結果が出ています。
与党に投票した人が、与党の法案すべてに賛成しているわけでは決してありません。
政治はマキャベリズムといいますが、国の根幹に関わる問題は、権謀術数で推し進めるべきではないんじゃないでしょうか。

野党に目を移して見ると、海江田万里氏、渡辺喜美氏らビッグネームが落選していましたね。
菅直人元総理は、ギリギリ比例復活したようですが、小沢一郎氏はしぶといですね。
いずれにせよ、二人とももはや過去の人といった感は拭いきれません。
渡辺氏は、ある意味自業自得の結果といえますが、海江田氏に関しては、少し気の毒な気がしますね。
だって、民主党の誰もが敬遠した火中の栗を拾ったわけですよね。
稚拙な民主党政権の中核にいながら、政権交代後は素知らぬ顔でほとんど存在感を出さずに、今回またトップ当選を果たした前原誠司氏などから見れば、2年間、国民の怒りの矛先の矢面に立った海江田氏の方が、わたしは好感が持てます。
貧乏くじを引かされたなあ・・・と。
まあ、それが海江田さんの政治力だと言ってしまえば、たしかにそうなんですけどね。

とにかく、今回の衆院選で国政選挙に3連勝した安倍政権は、久々に長期政権となる可能性がぐっと高まりました。
毎年首相が変わっていた生徒会内閣から思えば、安定政権は歓迎すべきことなのでしょうが、力を持ちすぎると、暴走しかねないのが政治です。
これからは、いかに世論で安倍政権を監視、制御するかが、国民一人ひとりに与えられた仕事ですね。


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by sakanoueno-kumo | 2014-12-15 20:06 | 政治 | Trackback | Comments(2)  

荒木村重ゆかりの摂津路逍遥 その1 ~有岡城跡~

今年の大河ドラマ『軍師官兵衛』は、いよいよ最終回を待つのみとなりましたが、今年、主役の黒田官兵衛以外で最も注目されたのは、荒木村重だったのではないでしょうか。
いままでの戦国ドラマでの村重といえば、織田信長反旗を翻すところで少し登場するだけでしたが、今回は官兵衛を1年間幽閉する役柄ということで、これまでになくフィーチャーされました。

で、その舞台となった兵庫県に住む私としては、この機を逃す手はないだろうと、先日、寸暇を惜しんで村重ゆかりの地をめぐってきました。
まずは、村重の居城にして官兵衛を1年間幽閉した有岡城跡です。

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有岡城は、現在の兵庫県伊丹市にあった城で、もとは伊丹氏が南北朝時代から戦国時代にかけて伊丹城を築いていました。
しかし、天正2年(1574年)11月、信長から摂津国主に任じられた村重は、伊丹氏を追い落として伊丹城に入城。
城の名を有岡城と改めて、大改造をおこないました。

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現在は、城郭などは残っておらず、発掘調査された主郭部のみが史跡公園として残されているだけです。

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発掘、復元された石垣です。

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土塁跡です。

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井戸跡です。

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村重と、その妻・だしの歌碑ですね。
「霜かれに 残りて我は 八重むくら なにわのうらの そこのみつくに」 あらきたし
「思いきや あまのかけ橋 ふみならし なにわの花も 夢ならむとは」 荒木村重


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村重が築いた有岡城は、城だけでなく侍町と町屋地区全域を巨大な堀と土塁で囲んだ惣構(そうがまえ)の城だったそうです。
その跡が400年以上経った今でも地形として残っており、数メートルの段差が繋がっています。
現在では、最古の惣構の遺構として、国の史跡に指定されています。

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天正6年(1578年)秋、村重は織田信長に反旗を翻し、有岡城は包囲攻撃をうけました。
10ヵ月の篭城の末、村重は嫡男の荒木村次のいる尼崎城に逃れ、その後、主を失った有岡城は侍町を焼き払われて陥落しました。

次回は、その尼崎城跡を訪ねます。

荒木村重ゆかりの摂津路逍遥 その2 ~尼崎城跡~
荒木村重ゆかりの摂津路逍遥 その3 ~花隈城跡~


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by sakanoueno-kumo | 2014-12-11 21:38 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

軍師官兵衛 第49話「如水最後の勝負」 ~石垣原の戦い~

 九州は豊前国中津城にて情勢をうかがっていた黒田官兵衛は、石田三成の蜂起を知ると、すぐさま戦準備を始めます。しかし、黒田家の兵力のほとんどは、徳川家康に従軍している黒田長政とともに東国に出兵中で、国内にはわずかな家臣しかいません。そこで官兵衛は、これまで倹約して蓄えていた金銀を惜しげも無くばらまき、浪人衆を雇います。小田原合戦以降、仕官を求める浪人が各地にあふれており、たちまち9000人もの軍が即席で出来上がりました。その中に、若き日の宮本武蔵がいたという話もありますが、定かではありません。

 そんなとき、三成からの使者が官兵衛のもとへ着きます。要件は、言うまでもなく西軍に味方するように促したものですが、三成の提示した条件は、「西軍に味方すれば好きな土地に領地を与えよう」というものでした。しかし、官兵衛はその程度の誘いに乗る男ではありません。「九州7ヵ国をいただけるのなら、お味方しましょう」と、飲めるはずのない要望を吹かっけて、使者を追い返します。豊臣秀吉にその才を買われて出世した三成ですが調略の才は、あまりなかったようです。

 一方、三成との決戦に向けて西へ進軍していた東軍内では、長政が父顔負けの暗躍ぶりを見せ、福島正則の説得、宇喜多秀家の不参戦、さらに、勝敗を決定づけた小早川秀秋の寝返り工作に貢献したといいます。若き日の長政は武勇一本の武将といったイメージでしたが、やはり、官兵衛の血を引いていたということでしょうか。

 関ヶ原の戦いの火蓋が切られるより先に、九州で西軍と東軍が激突します。官兵衛の領国の隣で、東軍を支持していた細川忠興の家臣・松井康之が守る豊後国杵築城を、西軍に属していた大友義統が襲撃します。杵築城は、元は義統の城でしたが、朝鮮出兵の折に敵前逃亡したことで秀吉の怒りを買い、改易されたという経緯があります。義統にとっては、旧領回復の執念を燃やした戦いでもありました。

 官兵衛は義統を討伐するため出陣します。その際、全軍の前で、「大友義統は朝鮮で敵を見ずに逃げ出した臆病者ゆえ、たとえ何万騎で来ようと、百に一つも負けることはない。」と演説をし、兵の士気を高めたと伝えられます。この演説の場所は後に「如水原」と呼ばれ、現在でも「大分県中津市上如水」という住所が残されています。

 関ヶ原の戦いの2日前、官兵衛軍と大友軍は、石垣原で激突します。当初は大友軍に押されぎみとなりますが、夕刻に官兵衛本隊が到着すると形成は逆転、大友軍は立石の本陣へ後退を余儀なくされます。この時点で戦意喪失となった総大将の義統は、翌々日に剃髪して降伏を申し出ます。この一連の戦いが、後世に九州版関ヶ原の戦いと言われる戦ですね。

 ドラマでは、井上九朗右衛門と一騎討ちをした大友軍の武将・吉弘統幸が、かつて黒田家の食客だったという設定でしたが、実際にも、大友家の改易のあと一時黒田家に招かれ、井上家に預けられていたそうです。そんな二人の一騎討ちについて『黒田家譜』には、こう記されています。
 「吉弘は南の岸の上にたち、井上は北の岸の上に立てあひ向ふ。両人は、先年よりしたしく馴近付たる事なれば、久しくて参り会たりとて、しばし物語しけるが、いさや花やかに戦て、勝負を決せんと互にいひ合せて、面もふらず戦ひける。」
 一説には、もはや勝ち目がないと悟った統幸が、九朗右衛門に功を挙げさせるるため、自刃して討たれたという説もあるそうです。そんな統幸のことを『黒田家譜』では、
 「吉弘がごとき眞の義士は、古今たぐひすくなき事なり」
と、絶賛しています。

 大友義統が降伏した同じ日、美濃国関ヶ原では両軍合わせて20万の兵が激突する、日本史上最大の戦が始まっていました。次回、いよいよ最終回です。


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by sakanoueno-kumo | 2014-12-09 20:00 | 軍師官兵衛 | Trackback(1) | Comments(4)  

ジョン・レノンの命日と太平洋戦争開戦記念日に思う。

今日12月8日は、ジョン・レノンの命日です。
あの忌まわしい射殺事件から34年もの歳月が過ぎたんですね。
先日、わが家の中1の娘が、どこで覚えたのか「イマジン」を口ずさんでいるのを耳にしました。
聞けば、若いアーチストのカバーバージョンを聴いて好きになったのだとか。
あらためて、ジョンの歌が世代を超えて歌いつがれていることを知りました。



一方で、同じく今日12月8日は真珠湾攻撃の日。
いわゆる開戦記念日でもあります。
もちろん、単なる偶然にすぎない2つの記念日ですが、これを偶然とするかしないかは、その人次第ですね。
たぶん、歌詞の意味を知らずに歌ってたであろう娘に、今夜、教えようと思います。
わたしにとって12月8日は、そういう日です。

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by sakanoueno-kumo | 2014-12-08 11:12 | 日常 | Trackback | Comments(2)