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花燃ゆ 第4話「生きてつかあさい」 ~黒船密航未遂事件~

  嘉永6年(1853年)6月3日、江戸湾浦賀沖に軍監4隻を率いて来航したアメリカのペリー提督は、翌年の安政元年(1854年)1月18日、今度は江戸湾品川沖に軍監7隻を率いて現れます。目的はいうまでもなく、前年に訪れた際の開国要求の回答を求めにきたわけですが、当初は1年の猶予を与えられていたはずが、わずか半年で再来航して決断を迫られたため、幕府は大いに焦ります。そして、約1か月にわたる協議の末、幕府はアメリカの開国要求を受け入れ、日米和親条約が締結されます。これにより、200年以上続いた鎖国が解かれます。幕末の動乱の始まりですね。

 長崎でロシア艦隊への乗り込みに失敗して江戸に戻っていた吉田松陰は、今度はペリー艦隊に潜入することを画策します。そして、あるいは生きて帰れないかもしれないと覚悟したからか、親しい間柄の者たちに密航計画を打ち明けます。これを聞いた宮部鼎蔵らは、その無謀さを激しく非難したといいますが、それでも松蔭の決意が揺るがないことを知るや、鼎蔵らは刀や羽織を餞別に贈ったといいます。

 その夜、弟子の金子重輔と合流した松蔭は、師匠の佐久間象山のもとを訪れ、象山の手配した舟で黒船に接近しようと考えますが、依頼された船頭は関わりを恐れ、舟を出してくれません。困った松蔭らは、別の船頭に大金を握らせたりを飲ませたりして頼み込みませが、皆、関わりを恐れていうことを聞いてくれません。そうこうしているうちに、艦隊は伊豆下田に移動してしまいます。慌てた松蔭たちは舟を追っかけるように下田に向かい、結局船頭を口説くことを諦めた二人は、上陸していた黒船艦隊の乗組員に、「自分たちをボートで迎えに来てほしい」と書いた手紙を渡します。しかし、いくら待っても迎えのボートが来るはずはありません。

 しびれを切らした二人は、停めてあった小舟を拝借し、自分たちだけで沖合に停泊する艦隊を目指します。櫓の操作に慣れていなかった二人は、ヘトヘトになりながらもどうにか艦隊の1隻・ミシシッピー号にたどり着きますが、この艦には日本語漢文を理解できる者がおらず、やむを得ず二人は再び小舟に乗り込み、今度は別の艦・ポーハタン号に向かいます。なんとかポーハタン号に舟を漕ぎ寄せた二人でしたが、同艦の水兵は松蔭たちの乗船を拒否。しかし、ここまで来て引き返せない二人は、無理やり同艦の甲板に飛び乗ります。このとき、二人の刀などの荷物をのせた小舟は、流れていってしまいます。

 苦労して乗り込んだ甲斐があり、この艦には日本語の巧みな通訳がいました。松蔭は自分たちを「米国まで連れて行って欲しい」と懇願しますが、通訳はこれを受け入れません。艦隊側にしてみれば、日米和親条約が結ばれたばかりのいま、外交上の問題に発展することを憂慮したのでしょう。当然ですよね。日本では国外に出ることは死罪に値するほどの大罪。この二人の乗船を許可することは、大罪に加担することになるわけで、両国の今後の関係を良好に保つためにも、二人を迎え入れるわけにはいかなかったのでしょう。松蔭らは、「このまま陸に戻れば首をはねられる」といって尚も乗船を懇願しますが、通訳はこれをきっぱり拒否。ふたりはごく短時間で、ボートで陸に送り返されます。このあたりの話は、ペリー艦隊側の記録にも詳細に記されています。

 密航に失敗した二人は、翌日、村役人に自首します。もとより決死の覚悟で臨んだことだったわけで、志を失ったいま、おめおめと江戸には帰れなかったのかもしれません。また、ポーハタン号に乗り込む際、乗っていた小舟が流されてしまったことも、理由のひとつだったかもしれません。舟には二人の刀に加え、佐久間象山から贈られた漢詩などもあったといいます。松蔭は、罪が象山に及ばないように、あくまで自分たちだけで計画したことだと申し述べようとしたのではないか・・・とも考えられています。いずれにせよ、松蔭の実直な人となりがうかがえますね。

 その後、松蔭は獄舎に収監され、数ヶ月に渡る取り調べの末、9月18日に下った判決は、国元での蟄居という軽いものでした。その理由は定かではありませんが、一説には、幕府内には二人を処刑すべきとの声が少なくなかったものの、老中・阿部正弘温情で減刑となったとする説もあります。また、ドラマでは、ペリーが二人の刑罰について寛大な処置を幕府に要請したとありましたが、その話は実話だったようで、ペリー艦隊の記録に、そのことが記されています。あるいは、ペリーの要請を阿部正弘が聞き入れた結果だったのかもしれませんね。この阿部正弘が死ななければ、松蔭のその後もきっと変わっていたでしょうね。


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by sakanoueno-kumo | 2015-01-26 23:26 | 花燃ゆ | Comments(0)  

花燃ゆ 第3話「ついてない男」 ~黒船来航と将及私言~

 脱藩の罪で武士の身分を剥奪された吉田松陰は、実父である杉百合之助のもとで育(はぐくみ)となります。「育」とは、長州藩にある制度で、公式の居候、公式の厄介者といった意味らしく、現代でいうところの保護観察のようなものだとか。つまり、松蔭の身柄を実家にあずけて、再び不始末を仕出かさぬよう監視せよ、ということですね。ただ、もとより松蔭は吉田姓を名乗りながら杉家で暮らしていましたから、禄と扶持を失いはしたものの、生活は以前と変わりありません。加えて、藩士の「育」だから、侍の恰好をしても良いし、他藩の者に自らを「長州藩士」と名乗っても罪にはならないそうで、つまるところ、「たてまえ」の処分だったわけですね。さらに、将来有望な松蔭の才能を腐らせないために、藩主・毛利敬親は百合之助に対して、松蔭の10年間の諸国遊歴願を出すよう命じ、これを許可しています。こうなると、もはや罪人とはいえませんよね。いかに長州藩が松蔭に期待していたかがわかりますが、この過保護ともいえる甘さが、罪に無頓着な松蔭を作ったといえるかもしれません。

 嘉永6年(1853年)正月、諸国遊歴に旅立った松蔭は、讃岐、摂津大坂、大和、伊勢などの各地を訪問しながら東へ向かい、5月24日にいったんは江戸に着いたものの、すぐさま相模鎌倉にいる叔父の竹院に会いに行き、そして再び江戸に戻ったのは6月4日でした。ところが、その前日の6月3日の午後2時頃、驚天動地の事件が発生していました。アメリカのペリー提督率いる軍監4隻の艦隊が、江戸湾浦賀沖に来航したのです。一般に「黒船来航」と呼ばれるこの事件から、「幕末」といわれる時代が始まります。

 突如出現した黒船艦隊を見た当時の人々の驚きは大変なものだったでしょうね。これが現代であれば「黒船来航なう!」とか言ってSNSで瞬時に伝わるでしょうが、ときは160年前の江戸時代。当然ながら伝達手段は口コミ手紙しかありません。にも関わらず黒船来航のニュースは、わずか2週間足らずで北は八戸から南は薩摩までほぼ日本中に知れ渡ったといいますから、この出来事がいかにビッグニュースだったかがわかります。

 結局、このときは何も出来ずにただ眺めるだけだった松蔭ですが、この出来事に刺激された彼は、佐久間象山の塾で西洋兵学を懸命に学びます。ペリー艦隊が撤退して間もない頃は、「次にペリーが来たら、刀の切れ味を試してやります」などといった書状をマブダチの宮部鼎蔵に送ったりしていた松蔭でしたが、象山の塾で西洋を学べば学ぶほど、日本に勝ち目がないことを悟らざるを得ませんでした。そして、欧米列強と互角に戦うには、まず敵を知るため海外に留学するしかないと考え至ります。一説には、象山が留学の必要性を松蔭に説き、海外密航計画を持ちかけたとも言われますが、定かではありません。

 ちょうどその頃、ロシアのプチャーチン提督が艦隊を率いて長崎に来航していました。この情報を知った松蔭は、愛弟子の金子重輔とともにプチャーチン艦隊に潜入すべく、長崎に向かいます。しかし、二人が長崎に着く3日前、艦隊は長崎を出港していました。松蔭は九州に入ると、すぐに長崎には行かず、熊本の宮部鼎蔵や横井小楠に会いに行っていました。そのロスタイムが仇となるんですね。寄り道を決行した自身の浅はかさを、大いに悔やんだことでしょう。

 ドラマで騒ぎになっていた意見書は、「将及私言」というタイトルが付けられた上申書で、実際にこの時期の松蔭が藩主に宛てて書いたものです。ドラマでも言っていたように、武士の身分を剥奪された「浪人」が、藩主に意見書を出すなどは、この当時、考えられない僭越沙汰でした。あるいは死罪になるかもしれないほどの畏れ多い行いであるにもかかわらず、このなかで松蔭は、来春のペリー艦隊再来航に備えて、藩内の改革案をかなり具体的に言及しています。また、あるいは国内に革命が起こるかもしれないとも説き、藩としてその備えが必要だと説いています。まだ、倒幕云々といった思想は微塵もなかったこの時期においては、かなり危険な言説だといえるでしょう。そして最後に、「この意見書が上に達せられたならば、どのような厳罰を受けようとも、決して恐れたりはいたしませぬ」と、書いています。「私」を滅して「公」のために尽くす。叔父・玉木文之進の教えは、松蔭のあらゆる行動の源泉だったのでしょうね。

  結局、この意見書は多くの段階を経て、藩主・毛利敬親まで達せられ、松蔭もお咎めなしでした。どこまでも藩はこの過激者に対して寛容でした。これが、長州藩の藩風だったのでしょうか。

 本話のタイトル『ついてない男』は、短期間に父・母・兄を亡くした久坂玄瑞のことですが、のちに松蔭をして「長州第一の俊才」と言わしめた玄瑞も、ペリー来航時は数えで14歳。現代で言えば中学1年生の歳で、歴史の表舞台に登場するには、いま少し時を待たねばなりません。


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by sakanoueno-kumo | 2015-01-19 20:58 | 花燃ゆ | Comments(0)  

阪神・淡路大震災から20年の節目に思う。

6434人の方が亡くなり、3人の方が行方不明になった阪神・淡路大震災の発生から、今日で20年となりました。
毎年この日は各地で追悼行事が行われていますが、20年という大きな節目となる今年は、例年以上に大きな規模で催されているようですね。
兵庫県公館で催される式典には、10年ぶりに天皇・皇后両陛下も出席されるとか。
テレビもラジオも、昨日から各局、震災特番ばかりのようです。
それらを目にするにつけ、改めて、20年もの長い年月が流れたことを実感します。

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ただ、あれからずっと神戸で暮らしてきたわたしたちからすれば、20年といっても、そんなに昔の出来事とは思えないんですね。
震災後、がむしゃらに生きていたら、いつの間にか20年も経っていた・・・そんな気分です。
わたしは昭和42年生まれですが、わたしが子供のころ、よく大人たちが戦争の話をしていましたが、当時こどもだったわたしは、「また大昔の話が始まった」と、うっとうしく感じたものでした。
そんなわたしも、いま息子や娘をつかまえて、「お前が赤ん坊のころ、神戸で大きな地震があってな・・・」てな具合に震災の話をします。
こどもたちは、昔のわたしと同じく面倒くさそうに聞いていますが・・・。
わたしにしてみれば、震災はついこの前のような感覚なんですが、彼らにとっては、学校で習う歴史上の出来事なんでしょうね。
思えば、私がこどものころは戦後20数年しか経っていないころだったわけで、当時の大人たちが戦争を語るのは、いまわたしが震災を語るのと同じ感覚だったんですね。
今朝の新聞によると、震災後出生した市民は19%に、震災を知らない市民は40%に上るとか。
わたしたちが戦争を知らないこどもたちであるように、震災を知らないこどもたちとわたしたちとでは、思いを共有できないのは仕方ないことだと思います。
それを、風化というのでしょうね。

昨日、今日と、マスコミが挙って震災を特集していることを受けて、こんなときだけじゃなくもっと普段から神戸に目を向けてほしい・・・といった声を耳にしますが、わたしは、これで良いと思っています。
神戸市民は、いまでも震災前、震災後で語る人が多いですが、もはやそういう時期は過ぎたんじゃないでしょうか。
神戸は、復旧はしたけど復興はしていないといって未だに行政を責める声もありますが、たしかにそういう側面があることは否定しませんが、いつまでもそんなことを言っていても前には進めません。
20年が経ったいま、そろそろ震災都市・神戸を脱却すべきなんじゃないでしょうか。

ただ、ひとつ節目として、1月17日だけは当時を振り返る日であればいいと思います。
今日だけは、6434人を追悼し、あの日幸運にも命を落とさずに今に至ることを感謝し、そして、こどもたちにうっとうしがられながらも、当時のことを語るべき日なのかなあと。
それが、震災を知る私たちの使命なんじゃないかと、20年経ったいま思うところです。

ちなみに、今日1月17日は、わたしの誕生日です。
震災当日、28歳の誕生日だったわたしも、今日で48歳になりました。
6434人の命日と同じ日となってしまったわたしの誕生日ですが、そのおかげで、いつまでも震災のことを忘れることが出来なくなりました。
わたしの誕生日は、立ち止まって思いを馳せる日です。

過去6年間の1月17日の拙稿です。
よければ一読ください。
    ↓↓↓
阪神・淡路大震災から19年、いま思うこと。
阪神・淡路大震災から18年、いま思うこと。
阪神・淡路大震災から17年、今思うこと。
誕生日に思う。~阪神・淡路大震災から16年。
今日は私の誕生日。そして阪神・淡路大震災から15年。
震災から14年。そして私の誕生日。今、思うこと。


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by sakanoueno-kumo | 2015-01-17 15:30 | 日常 | Comments(2)  

花燃ゆ 第2話「波乱の恋文」 ~吉田松蔭の奥羽脱藩旅~

 江戸遊学から奥羽の旅、そして脱藩帰国蟄居と、本話は吉田松陰の生涯にとってはかなり重要な部分だったと思うのですが、ドラマではなんとも足早に流されただけで、メインはの初恋物語と、その姉・寿が兄のせいで玉の輿に乗れなかったという、どうでもいい創作話の回でした。そこで今回は、松蔭のことのみに絞りたいと思います。

 嘉永4年(1851年)3月、江戸遊学の旅に出た松蔭は、儒者の安積艮斎、古賀精里、兵法家の山鹿素水らのもとで学びますが、なかでも最も熱心に通ったのが、砲術家にして洋学家でもある佐久間象山塾でした。その博識慧眼に心酔した松蔭は、以後、象山を最高の師と仰ぎ、また、そんな松蔭を象山も可愛がり、最大の理解者となります。

 松蔭は江戸での生活で、藩内藩外に多くの友人を得ました。熊本藩士の宮部鼎蔵、南部藩士の江帾五郎、房州の学者・鳥山新三郎、その他、それぞれの藩の秀才たちと深く繋がったことで、大いに刺激になったことでしょう。この時期の松蔭の実家に宛てた手紙には、それらの友人たちのことが多く記されているそうです。現代の大学生の留学と変わらないですね。

 江戸に着いて数ヶ月が経った7月中旬、松蔭は奥羽(東北地方)に遊学したいという願書を藩に提出します。宮部鼎蔵、江帾五郎との3人旅でした。その目的は、奥羽にロシア船が出没するという情報に危機感を覚え、その視察のための旅、というのがドラマの設定でしたね。別の説では、江帾五郎が亡兄の仇討ちの旅に出ると言い出し、その助太刀として鼎蔵と松蔭が共にした、という話もあります。どちらが真の目的だったかはわかりませんが、マブダチ3人での旅に、さぞかし胸を踊らせたことでしょう。しかし、この奥羽の旅で、あろうことか松蔭は脱藩の罪を犯してしまうんですね。

 その経緯を説明すると、旅の出発は12月15日の予定で、5ヵ月前の7月に願書を受理されて許可を得ていたにもかかわらず、12月初旬になっても過書(通行手形)が発行されず、業を煮やした松蔭は、過書を持たずに旅に出ます。過書とは、現代でいうところのパスポートのようなもので、これを持たずに他藩を旅するということは、密出国になり、自藩を捨てたことになります。封建社会に生きる武士にとって、藩を捨てるということは主君を見限るということで、大罪に値します。のちに幕末の騒乱期になると、流行のように脱藩する若者が続出しますが、この時期はまだ、何よりも秩序が重んじられていた時代で、その罪科は当人だけでなく、一族にも及びます。そんな大罪を、松蔭はなぜ犯してしまったのでしょうか。

 このときの松蔭の心理状態について、司馬遼太郎氏は小説『世に棲む日日』になかで、次のように解釈しています。
 「松陰は矛盾している。秩序美を讃美するくせに、同時にものや事柄の原理を根こそぎに考えてみるたちでもあった。原理において正しければ秩序は無視してもかまわない、むしろ大勇猛をもって無視すべきであると考えている。いや、いまはじめてそのことを考えた。(中略) 人間の本義のためである。人間の本義とはなにか、一諾をまもるということだ。自分は他藩の者に承諾をした。約束をした。もしそれを破れば長州藩士は惰弱であるというそしりをまねくであろう。もし、長州藩士の声価をおとすようなことがあれば、国家(藩と家)に対する罪はこれほど大きいことはない。」

 脱藩によって受ける罪科は「私」であり、友との約束は「公」だと考えたのでしょうか。幼い頃から叔父の玉木文之進に叩きこまれた教えが、ここでも働いていたのかもしれません。松蔭という人物の真面目さ、純粋さが招いた罪だったといえるでしょう。本人は罪とも思っていなかったかもしれませんね。

 脱藩した松蔭は、約5ヵ月に渡る奥羽の旅を経て、4月、江戸に戻り藩邸に出頭します。このとき、世間知らずの松蔭は、謹慎程度の処分を予想していたともいいますが、罪科は思いのほか大きく、早々に帰国蟄居を命じられ、同年12月、藩士・吉田家のお取り潰し、家禄の没収、武士身分の剥奪という厳しい処分が下ります。これまでエリートコースを突き進んできた松蔭にとって、初めての挫折だったといえるでしょう。この時、妹の縁談が破談になったという記録は、たぶん残っていません。


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by sakanoueno-kumo | 2015-01-14 20:48 | 花燃ゆ | Comments(0)  

花燃ゆ 第1話「人むすぶ妹」 〜吉田松陰の生い立ち〜

 さて、今年も大河ドラマがスタートしました。舞台は幕末、のちの尊王攘夷派志士たちの精神的支柱となる吉田松陰の妹・杉文の物語です。キャッチフレーズでは、幕末を舞台にした「ホームドラマ」「学園ドラマ」とうたっていますが、はてさて、いかがなものでしょう。主人公の文という女性は、大河ドラマ史上もっとも無名の主人公とも言われていますね。とにもかくにも、今年もまた、性懲りもなく薀蓄を綴っていこうと思いますので(毎週かどうかはわかりませんが)、よろしければお付き合いください。

 文の生まれた杉家は、長州藩士の中でも下級武士の家柄で、家禄はわずか26石という貧しさでしたが、父・杉百合之助と母・滝子は、三男四女の子宝に恵まれていました(三女は夭折)。長幼の順に紹介すると、長男・杉梅太郎(民冶)、次男・吉田寅次郎(松陰)、長女・千代、次女・寿、三女・と続き、は四女。そして最後に、三男・杉敏三郎となります。ここで目につくのは、次男の松陰だけ苗字が違うところですね。ドラマでは、その理由について何もふれていなかったので、ここで説明しておきます。

 百合之助には2人の弟がいましたが、次男の大助吉田家へ、三男の文之進玉木家へと、それぞれ養子に出ていました。二人が養子となった両家は、いずれも生家の杉家よりも家格が上で、わけても吉田家は、家禄57石6斗山鹿流兵法師範の職を世襲した家柄でした。しかし、その吉田家を継いだ大助は子宝に恵まれず、しかも大病を患ったことから、当時5歳だった松陰を養子に迎え入れます。そして、その翌年に大助は病没。松陰は、わずか6歳にして吉田家の当主となるのですが、幼少であったため、引き続き生家の杉家で養育されることとなります。

 藩の兵法師範に就任するという将来が決定していた松陰を、それに相応しい人物に育てるのが杉家の役目でした。そこで、その教育係を務めていたのが、叔父の玉木文之進だったのですが、文之進の松陰に対する教育は厳格を極めた超スパルタで、あまりの厳しさに母・滝子はその有様を正視することができなかったといいます。

 有名な逸話があります。ある日、少年松陰が読書中に頬にがとまり、つい手をあげて掻いたところ、それを見た文之進は激しく怒り、殴る蹴るの折檻を与えたといいます。曰く、
 「かゆみは私。掻くことは自身の満足。それを許せば、将来人の世に出たとき私利私欲を図る人間になる」と。
 文之進にとっての侍の定義は、公のために尽くすものであり、学問は公に尽くす自分を作るためであり、その最中に頬を掻くというのは私情である・・・と。めちゃくちゃな話ですが、理屈は通ってなくもないです。
 「侍は作るものだ。生まれるものではない」
 という意味のことをたえず言っていたという文之進は、折檻の理由も、殴ることによって恐怖させ、幼いうちから私利私欲を摘み取ろうという考えだったといいます。今なら間違いなく幼児虐待で逮捕されるでしょうね。
 「あんなひどい目にあって、よく死ななかったものだ」
と、後年の松陰は門人に洩らしたといいますが、しかし松陰は、生涯この叔父を師としたことを誇りとしました。

 そんな厳しい教育の甲斐あってか、松陰はわずか8歳で藩校・明倫館の教授見習いとなり、10歳で藩主・毛利敬親の御前で講義をしたそうです。これは当然、異例のことであり、松陰がいかに秀才であったかがわかりますね。その後も敬親は、たびたび松陰の成長を見るため講義させ、藩ぐるみで松陰を育てます。まさに、将来を嘱望されたエリートだったわけですが、その後も藩はこの秀才に甘く、その甘さが、結果的に松陰の生涯を短くさせたといえるかもしれません。その話は、また追々。

 ドラマの始まりは嘉永3年(1850年)の設定で、松陰21歳。文の生年は諸説あるようですが、6歳から8歳あたりだったと思われます。ドラマの子役の子は、ちょっとお姉さんでしたね。この年、松陰は人生初の藩外遊学を許され、九州を訪れています。この九州遊学で、生涯の友となる宮部鼎蔵と知り合うのですが、ドラマに出てきた「禁書」を読んだことも、この遊学中の日記に記されているそうです。「本は人」と、松蔭が言っていましたが、まさしく、新聞もテレビもネットもないこの時代の人にとって、本はかけがえのない情報源、人との出会いの場だったのでしょうね。

 南方仁・・・じゃなかった、小田村伊之助については、また別の機会にふれることにします。


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by sakanoueno-kumo | 2015-01-08 00:40 | 花燃ゆ | Comments(4)  

節目の年となる2015年、新年のご挨拶。

新年あけましておめでとうございます。
旧年中はひとかたならぬご厚情を賜り、誠にありがとうございました。

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わが家から見える今朝の景色です。
中央にそびえるのは明石海峡大橋、その向こうに見えるのが淡路島です。
わたしは毎朝、出勤時にこの景色を見て1日が始まります。
今年は快晴のスタート、良い年になりそうな気がしますね。

今年は戦後70周年にあたる節目の年ですが、わたしたち神戸市民にとっては、阪神・淡路大震災から20年の節目でもあります。
早いもので、あれから20年も経つんですね。
あのとき、生後間もなかったわが家の愚息も、いまは大学生、今年成人式を迎えます。
また、わたし自身も、今年は4回目の年男
いろんな意味で節目のメモリアルイヤーとなる今年、良い1年にしたいですね。
本年もよろしくお願いします。


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by sakanoueno-kumo | 2015-01-02 13:23 | 日常 | Comments(6)