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三木合戦ゆかりの地めぐり その1 ~三木城跡~

過日、兵庫県三木市の三木城跡に行ってきました。
三木城というと、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の行った「三木の干殺し」で知られる三木合戦の舞台として有名ですよね。
旧令制国でいえば播磨国の東端に位置し、現在の三木市は、神戸市の西北にあたります。

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現在、城跡は本丸周辺だけが丘の上に上の丸公園として残っています。
形式は平山城で、別名「釜山城」「別所城」とも呼ばれていたそうです。
当時は、小寺氏の御着城、三木氏の英賀城と並んで播磨三大城と称されたそうです。

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三木城の築城時期に関しては諸説あってはっきりしないそうですが、15世紀末ごろに別所則治によって築城されたとされおり、以後、代々別所氏の居城となります。
別所氏は、播磨国の守護大名・赤松氏の家臣であり、同じく家臣である浦上氏に次ぐ有力な一族として、播磨東部辺りに勢力を誇っていました。

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秀吉に攻められる以前にも、時の勢力争いに幾度となく巻き込まれ、山陰の尼子氏や四国の三吉氏、三田の有馬氏などに攻められますが、なんとか落城は免れてきました。
その後、織田信長が勢力を伸ばすと、その傘下に入ります。

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しかし、天正6年(1578年)3月7日、信長の命による秀吉の中国攻めが始まると、5代目当主・別所長治は突如、反旗を翻します。
その理由ははっきりしていませんが、以前の拙稿でも紹介したとおり(参照:軍師官兵衛 第15話「播磨分裂」~加古川評定~)、加古川評定における対立が原因とされています。
謀反を受けた秀吉は、ただちに三木城を包囲。その数3万とも言われる大軍でしたが、それでも、三木城の堅牢さを知っていた秀吉は、無駄に自軍の兵力を失うことを避け、三木城の周辺に付城を構築して持久戦に持ち込むというものでした。

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下の三木城跡から望む城下です。
写真右奥に見えるのが、秀吉が本陣をおいた平井山かな?

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なんとか別所氏を支援したい毛利氏は、さまざまなルートから三木城への食料搬入を試みますが、秀吉による包囲網はこれをことごとく遮断。
籠城する7500人の別所勢は、孤立無援となります。
やがて城内の食糧が底をつくと、餓死者が数千人に及んだといいます。
飢えた城兵たちは、はじめは飼葉(馬の餌)を食べていたそうですが、それが尽きると、を食べ、さらにはネズミや土壁のなかのをも食べたといいます。
その光景はまさに地獄絵図
この兵糧攻めは「三木の干殺し」と呼ばれ、のちの「鳥取の渇え殺し」とともに戦国史上最も凄惨な籠城戦と評されています。

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本丸跡です。
天正8年(1580年)1月、長い籠城戦に力尽きた籠城軍は、城主・別所長治とその一族の切腹と引き換えに、城兵たちの助命を求め、秀吉もこの条件を了承します。
このとき長治は若干23歳。若き領主の自刃によって、1年10ヵ月に及んだ三木合戦は終結しました。
本丸跡には、長治の辞世の句が刻まれた石碑があります。

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「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば」

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長治像です。
23歳の若者らしい幼い顔ですね。

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城跡公園のすぐ近くにある雲龍寺には(戦国当時は、三木城郭内にあった)、長治と照子夫人の首塚が残されています。

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長治は切腹にあたって、照子夫人と3歳のわが子を刺殺し、その後、切腹にのぞんだと言われます。
武士の世の慣いとは言え、無念だったことでしょう。

近日中の「その2」につづきます。



「三木合戦ゆかりの地めぐり」シリーズの他の稿は、こちらから。
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三木合戦ゆかりの地

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by sakanoueno-kumo | 2015-02-26 21:24 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

花燃ゆ 第8話「熱血先生、誕生」 ~吉田松陰と久坂玄瑞の出会い~

 久坂玄瑞吉田松陰師弟の運命の出会いの回でしたね。両親と兄に立て続けに死なれた玄瑞は、15歳にして家督を継ぎ、家業の藩医となるべく医学所で猛勉強をします。そして16歳になった頃には、その秀才ぶりが萩城下に知れ渡るほどの人物となっていましたが、もともと兄の生存中は医学より兵学に興味を持ち、「はからずも家督を相続して医の道を目指しているが、本心は患者の治療ではなく、天下の大患を治療したい」という思いを強くしていたといいます。

 玄瑞17歳のとき、九州各地を歴訪する旅にでます。この時代、秀才たちの旅といえば、天下に名が知れている人物を訪ね、議論を交わしてスキルアップするというもので、若き日の松蔭も、人と会うことを学問としていました。このときの玄瑞も、九州の名のある人物と面会する旅を続けますが、その旅先のひとつである肥後熊本藩の宮部鼎蔵をたずねた際、「貴藩には吉田寅次郎という英傑がおられるではないか。」と、松蔭に従学することを強く勧められたといいます。おそらく、萩城下で生まれ育った玄瑞ですから、松蔭の名をまったく知らなかったということはなかったでしょう。でも、国禁を犯して獄に繋がれていた人物ですから、17歳の若者にしてみれば、危険人物的な認識だったのかもしれませんね。この当時、すでに尊皇攘夷の巨魁として名を轟かせていた鼎蔵の口から松蔭という名を聞いて、はじめて松蔭という人物のスゴさを知ったのかもしれません。

 帰国した玄瑞は、さっそく松蔭宛の書状をしたためます。そして、松蔭の友人である土屋蕭海に頼んで届けてもらいました(ドラマでは、手紙の伝達役はになっていましたが)。その内容は、
 「開国、通商を迫る米国の外交使節は、弘安の役の北条時宗の如く、即刻切り捨てるべし!」
といった、極めて短絡的な過激攘夷論でした。といっても、この当時の尊皇攘夷志士たちの考え方はほぼこんな感じで、英才といえども若干17歳の玄瑞にしてみれば、精一杯の自説だったのでしょう。ただ、玄瑞はこの書状をすべて漢文で書いており、その博学さは松蔭にじゅうぶん伝わったはずです。

 ところが、この書状を読んだ松蔭は、猛然と筆をとり、玄瑞のプライドをこなごなに打ち砕く酷評の返事を書きます。
 「議論浮泛、思慮粗浅、至誠より発する言説ではない。私はこの種の文章を憎み、この種の人間を憎む。米国の使節を斬るのは時すでに遅し。往昔の死例をとって、こんにちの活変を制しようなど笑止の沙汰だ。思慮粗浅とはこのことをいうのだ。とるに足らない主張はやめて、もっと勉強せよ!」と。
 松蔭という人は、あらゆる人間にやさしく、そのやさしさと聡明さで人の長所を見抜き、獄につながれた囚人をも人変りさせてしまうほどの人物だったはずなのに、玄瑞に対する痛烈な罵倒の数々は、まるで別人の文ですよね。さぞ、玄瑞も驚いたことでしょう。

 もっとも、この返事には、松蔭なりの意図があったようで、間に入っている蕭海には、次のような書状を送っています。
 「久坂がもし凡人ならば、二度と書状を送ってくることはないだろう。しかし、彼は必ず僕を論破すべく、ふたたび書状を送ってくるに違いない。」と。
 おそらく、批判して大いに鍛えてやろうという目論見だったのでしょうね。そんな松蔭の期待どおり、玄瑞は大いに憤激した返事を送り付けてきますが、今度は松蔭はすぐに返事を書かず、1ヶ月ほど時をおいてから返事を送ります。その後も2度ほど書状での議論が展開されますが、最後に松蔭が送った書状で、
 「あくまで君が外国人を斬るというのであれば、そうするがいい。僕もかつては、米国人を斬ろうとしたことがあるが、無益であることを悟ってやめた。そして考えたことが、いままでの書状に書いたことである。君は僕と同じにならないよう、断固として斬ってほしい。僕はそれを傍観させてもらおう。もし出来なければ、僕はあなたの大言壮語を一層非難するであろう。それでもなお、君は僕に向かって反問できるか!」
 と書きました。つまりは、「自分の発言に責任を持て!自分の吐いた言葉は、命を賭けて守れ!」ということですね。この松蔭の強い意志のこもった言葉にたじろいだ玄瑞は、やがて松蔭の門下に入ります。医学所においても随一の秀才といわれた玄瑞にとって、これほどまでに論破されたのは初めてだったでしょうね。

 のちに松蔭は知人に宛てた書状の中で、
 「久坂玄瑞は防長年少第一流の人物ににて、もとより天下の英才なり」
 と、絶大に賞賛しています。師弟といっても、ともに学ぼうという考えの松蔭にしてみれば、最高の弟子を得たという気持ちだったんじゃないでしょうか。


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by sakanoueno-kumo | 2015-02-23 21:39 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)  

広島を訪れたなら行かないわけにはいかない原爆ドームに学ぶ。

先週、出張ついでの広島城見物について起稿しましたが、せっかく広島に行ったので、原爆ドームのことも少しだけ記録したいと思います。

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いまさら説明するまでもないと思いますが、昭和20年(1945年)8月6日、世界史上はじめての原子爆弾投下によって破壊された、旧広島県産業奨励館の残骸です。

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爆弾はこの建物のほぼ直上約600mの空中で爆発し、そのたった1個の爆弾によって、20万人を超える市民の命が奪われ、半径2kmに及ぶ市街地が廃虚と化しました。

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現地の説明看板ではじめて知ったのですが、ここ原爆ドームは戦後まもなく保存が決まったわけではなかったんですね。
説明によると、被爆後の姿のまま放置されていたものが、昭和28年(1953年)に広島県から広島市に譲与され、保存が正式に決まったのは、昭和41年(1966年)7月のことだったのだとか。
実に戦後20年後のことだったんですね。
それまで、記念物として残すという考え方と、危険建造物であり被爆の悲惨な思い出につながるということで取り壊すという意見が対立していたそうです。

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原爆ドームという名称も、誰かが考えたというものではなく、頂上の円蓋鉄骨の形から、戦後、いつしか市民から原爆ドームと呼ばれるようになったんだそうですね。
いまでは日本人なら誰でも知っている原爆ドームですが、実は、意図的に造られたものではなく、自然発生的にシンボル化したものだったんですね。

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平成8年(1996年)12月には、核兵器の惨禍を伝える建築物として世界文化遺産に登録されました。
文化遺産とは、おもに歴史的価値の高い建造物が指定されていますが、そのほとんどが、災害などの被害を免れて、長い年月原型をとどめてきたものばかりで、人工的に破壊されたことにより文化遺産の対象となった建物は、たぶん原爆ドームだけなんじゃないでしょうか?
その意味では、世界遺産の中でも稀有な存在といえます。

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ライトアップされた夜の原爆ドームです。
三脚を持ち合わせていなかったので、手ブレまくりです。

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毎年原爆の日に行われる平和祈念式典の席に、いまでは当たり前のように内閣総理大臣が出席していますが、初めて式典に出席したのは、原爆投下から26年が過ぎた昭和46年(1971年)の佐藤栄作首相だったそうですね。
これも初めて知りました。
過去が歴史になるまでには、それ相応の年月が必要だということでしょう。
また、就任して間もない頃のアメリカのオバマ大統領が、米国大統領として初めて原爆ドームを訪れるんじゃないかといった噂も当時ありましたが、その後、日本が民主党政権になったために計画は頓挫したともいいますよね。
それが実現したら、歴史はまた大きな一歩を踏み出すことになったのでしょうが、いまの日米関係とオバマ大統領の力では無理でしょうね。
まだまだ、本当の意味での歴史になるには、時間がかかりそうです。

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わたしが行ったこの日も、外国人の方がたくさん訪れていました。
世界遺産登録の影響は大きいようですね。
今年は戦後70年の節目の年にあたりますが、ノーモア・ヒロシマのシンボルである原爆ドームを、今後もたくさんの外国人の方々に見てほしいですね。

晩秋の安芸国広島城逍遥記 その1
晩秋の安芸国広島城逍遥記 その2


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by sakanoueno-kumo | 2015-02-19 20:21 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

花燃ゆ 第7話「放たれる寅」 ~松蔭の獄中生活~

 野山獄に在獄中の吉田松陰が、仲間の囚人たちに「孟子」を講義したという話は有名ですよね。この講義は、松蔭が収監されてから約半年が過ぎた安政2年(1855年)4月13日からはじめられ、松蔭が出獄する同年12月15日まで、合計34回行われたといいます。はじめの頃は松蔭が一方的に講義していましたが、いつの頃からか囚人たちが輪読するようになり、やがて講義はディスカッション形式で行われるようになったとか。のちの松下村塾のスタイルは、ここから始まっていたようです。

 講義は昼夜に渡って行われました。士分の収監される上牢といっても、牢獄である以上、行燈などの照明設備は整っておらず、夜間は講義などできる条件ではなかったのですが、松蔭の人となりに感服した獄屋番の福川犀之助が、藩当局に掛けあって許可を得たといいます。のちに犀之助は、弟の高橋藤之進とともに松蔭に弟子入りします。

 この「孟子」の講義は、松蔭の出獄後も蟄居していた杉家で続けられ、翌年の安政3年(1856年)6月13日に全編を終了。その講義録を「講孟箚記(こうもうさつき)」としてまとめ、のちに題名を「講孟余話」と改め、松蔭の主著となります。ここに説かれている孟子解釈には、松陰の国家観人生観が明確に示されており、のちの松下村塾での教育原点となります。

 ドラマに出てきた「福堂策」は、残酷中の松蔭が記した牢獄改革案で、その考えは、懲罰刑主義ではなく教育刑主義でした。囚人に教育を施し、更生させて世に送り出す実りの場としたい。獄を幸福の殿堂にしようという提案です。いかにも性善説を唱える孟子をベースとした松蔭らしい考えですが、自身が囚人の身でありながら、獄の改革案を講じるなど、なんとも楽天的な頭の構造ですよね。まずは自分の心配をしろ!と(笑)。そんな松蔭について、作家・司馬遼太郎氏は小説『世に棲む日日』のなかで、次のように述べています。

 松陰は、どうも快活すぎる。
 これは天性のもので、かれの思想でも主義でもなく、それがうまれつきだけにこの若者を自暴自棄にすることはいかなる悪魔でも不可能かもしれない。かれはどういう環境におちこんでしまっても、早速そこを自分のもっとも棲みやすい環境にしてしまう点、こういう凄みかたを才能であるとすれば、この人物は稀有の天才であったといえる。


 どうしようもなくポジティブシンキングだったようですね。松蔭はB型?(笑)

 松蔭の在獄期間は1年2ヵ月に及びましたが、その間、「孟子」の講義だけをしていたわけではなく、自身の学問も怠らず、おびただしい読書量だったことも有名ですね。その量、実に554冊だったとか。1日1冊では追いつきません。また、獄中の著書においても、先述した「福堂策」をはじめ、「二十一回猛士説」「士規七則」「回顧録」「寃魂慰草」「野山獄文稿」「野山獄雑著」「賞月雅草」「獄中俳諧」「清国威豊乱記」「書物目録」「抄制度通」など、たいへんな量にのぼります。いつ眠ってたんでしょうね。

 安政2年(1855年)12月15日、松蔭に出獄命令が下され、在宅での蟄居となります。獄を去る日、野山獄の囚人仲間たちは、松蔭のために送別句会を催しました。そのとき高須久子の詠んだ句が、ふたりが心を通わせたのではないかという憶測をよんでいます。

 「鴫(しぎ)立つて あと淋しさの 夜明けかな」

 「あなたがここを出て行くと、わたしは淋しい夜明けを迎えることになります。」てな感じでしょうか? まあ、この句をもってして恋愛感情があったかどうかをよみとるのは難しいですが、後年、松蔭が江戸に護送される際に詠んだ和歌とあわせて、ふたりのあいだにプラトニックラブがあったんじゃないかと考えられています。松蔭の生涯で唯一の浮いた話なんですが、どういうわけか、ドラマの句会では久子の句は描きませんでしたよね。なんでやらなかったのでしょう? このシーンのために久子をフィーチャーしていたと思っていたのですが・・・。

 出獄した松蔭は、仲間たちも出獄させてもらえるよう盛んに運動し、やがて8割がたの囚人を釈放させます。野山獄での出会いは、松蔭にとっても、他の囚人たちにとっても、大きな財産になったようです。



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by sakanoueno-kumo | 2015-02-16 21:37 | 花燃ゆ | Trackback(2) | Comments(0)  

晩秋の安芸国広島城逍遥記 その2

昨日の続きです。

内堀の外から見た広島城二の丸の写真です。
手前から太鼓櫓・多聞櫓・平櫓です。

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この石垣と3つの櫓から成る二の丸は、馬出の機能を持つ郭で、全国の城郭の中でも特異な配置だそうで、広島城の特徴とされています。

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上の写真は表御門
橋を渡って表御門をくぐり、二の丸内に入ります。

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で、こちらが二の丸内側から見た太鼓櫓と多聞櫓です。
これらはもちろん復元ですが、戦前まであった郭は、毛利輝元の築城当初からのものだったそうです。
3つの櫓の外観は、天守と同じく黒漆塗りの板貼りですね。

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こちらは内部の天井。
梁をむき出しにし、柱も漆などを塗らずに、木の肌を出したままの質素なつくりです。
下の写真は、太鼓櫓のなか。

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工事が始まって2年後の天正19年(1591年)に輝元は入城しますが、その後も並行して工事は進められ、全工事が完工したのは慶長4年(1599年)、しかし、その前年に豊臣秀吉が死去しており、時代はふたたび戦乱の様相を呈していました。
そして、翌年に天下分け目の関ヶ原の戦い
このとき、名目上、西軍の総大将となった毛利輝元は、実際に出陣はしなかったものの、その責任を負わされ、徳川家康によって周防・長門の2ヵ国に押し込められます。
それが、幕末まで続く長州藩となるんですね。

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毛利家に代わって広島城に入城したのは、安芸・備後の2カ国(現在の広島県域)45万余石の領主となった福島正則でした。
正則はさっそく城の修築工事を進めるとともに、西国街道が城下を通るように南下させるなど、城下町を整備します。
しかし、洪水で破損した石垣を修築する際、幕府への修築届けの不備を咎められ、元和5年(1619年)、正則は安芸・備後両国を没収されます。
この一件については、豊臣恩顧の正則を失脚させるための幕府の陰謀説もありますが、真相は闇の中です。

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福島氏が去ったあと、領内は広島藩福山藩に分かれ、広島城には紀伊国和歌山城主だった浅野長晟が42万余石の領主として入城します。
以後、明治2年(1869年)の版籍奉還までの約250年間、浅野氏が12代に渡って広島城主を勤めます。

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明治時代、広島城内には旧大日本帝国陸軍の施設が徐々に設けられ、日清戦争時には、本丸に大本営が置かれたという稀有な歴史を持っています。
上の写真はその大本営跡です。

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なぜ広島に大本営が置かれたかというと、山陽鉄道(現在のJR山陽本線)が広島まで開通していたことや、近くに宇品港を擁するといった諸条件が揃っていたからです。
ここに大本営が置かれると、明治天皇が広島に入られ、城内にあった建物を行在所として、戦争を指揮されたそうです。

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太平洋戦争時にも、周辺に軍事施設が集中していたことから、この広島城が、原爆投下の目標点になったと言われています。
当然ながら、天守をはじめ城内の建造物は、すべて壊滅しました。

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夜の広島城です。
三脚などは持っていなかったので、手ブレご容赦ください。

毛利時代、福島時代、浅野時代のみならず、日清戦争、太平洋戦争と、近世近代の歴史を見つめ続けた広島城。
いまは、堀と緑に囲まれた城跡公園として、市民憩いの場となっています。
まさに、「兵どもが夢の跡」ですね。

晩秋の安芸国広島城逍遥記 その1

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by sakanoueno-kumo | 2015-02-13 18:14 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

晩秋の安芸国広島城逍遥記 その1

3ヶ月近く前になりますが、昨秋、広島出張の折、広島城跡を訪れました。
広島市内の観光といえば、原爆ドーム平和記念資料館を訪れる人が多いと思いますが、そこから歩いて行ける距離のところに、日本三大平城に数えられる名城・広島城があります。

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広島城の特徴として最初に目についたのは、黒漆塗りの板が貼りめぐらされた天守の壁面ですね。
たしか、岡山城もこんな感じの外観だったと思いますが、姫路城などに代表される白壁の城も優雅で美しいですが、この板貼りの天守は、なんともいえない重厚感で、圧倒されます。

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この板貼りの壁面は、大坂城天守を模したといわれているそうですが、現在復元されている大坂城は、板貼りではないですよね。
実は、豊臣秀吉築城当時は、こんな感じだったようです。
戦国時代には、白の漆喰は風雨に弱いとされ、外壁にはあまり使われなかったそうで、白壁が使用されるようになったのは、主に江戸時代に入ってからだそうです。

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広島城は、天正17年(1589年)に毛利輝元によって築城が開始されました。
毛利氏は、南北朝時代から吉田郡山城を居城とする一領主でしたが、輝元の祖父・毛利元就の時代に山陰の尼子氏をはじめ各地の有力武士を倒し、中国地方の大半を支配する戦国大名に成長しました。

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その息子・毛利隆元が若くして急逝したため、わずか11歳で家督を継いだ輝元は、叔父の吉川元春・小早川隆景の補佐を受けながら引き継いだ中国地方を治めます。
一時は織田信長と対立して、山陽・山陰の各地で織田軍と覇権を争いますが、やがて秀吉の時代になると、輝元は秀吉に臣従して「五大老」のひとりとなり、豊臣政権を補佐します。

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秀吉の天下統一によって乱世の時代は終わり、城の役割は軍事から領国統治へと変わります。
秀吉の招きによって上洛した際、大坂城や聚楽第を見た輝元は、もはや吉田郡山城が時代遅れであることを痛感し、広島城の築城を決意したと言われます。

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広島城の城郭構成は京都の聚楽第をモデルにしたといわれ、本丸に続く二の丸が小さく、馬出として利用された独特の構造だそうです。
本丸を中心にを三層にめぐらせ、三の丸、大手郭、北の丸、北の郭、西の郭などを配し、さらに外側は太田川を天然の要害に利用しています。

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天守から望む景色です。

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現在の天守はもちろん復元です。
本来の天守はいうまでもなく、原爆投下によって破壊されました。
戦前の天守は、昭和6年(1931年)に国宝に指定されていたそうです。
同じときに国宝となった姫路城が、20世紀末に世界遺産となったことを思えば、もし、原爆で被災しなければ、あるいは世界遺産となっていたかもしれません。
まさか、そのすぐ近くにあった洋館が、原爆ドームとなって世界遺産に指定されようとは、当時は思いもよらなかったことでしょう。

つづきは明日にします。

晩秋の安芸国広島城逍遥記 その2

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by sakanoueno-kumo | 2015-02-12 17:59 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(4)  

花燃ゆ 第6話「女囚の秘密」 ~野山獄の囚人たち~

 吉田松陰が入獄した野山獄というのは、士分の者のみが収容される「上牢」で、3畳ほどの独房が12室あったそうです。6室ずつの並びが2列向かいあい、その間には細い庭があって、囚人どうしの交流も自由でした。しかし、ほとんどの者が刑期の決まっていない無期懲役刑で、孤独感と虚無感に堪えるのが苦しみでした。そんな獄中が、松蔭が入獄したのをきかっけに、囚人どうしの交流が深まり、獄とは思えぬほど活気づいたといいます。

 囚人のなかで最長老は大深虎之丞という老人で、獄中生活50年という終身刑の人物。続いて古いのは、弘中勝之進の17年、岡田一廸の14年で、在獄10年以下では、吉田善作、河野数馬、志道又三郎、井上喜左衛門、栗屋与七などがいました。なかでも、在獄8年の吉田善作は寺子屋の教師を務めていたこともあり、俳句に長けた人物だったそうで、松蔭は獄中、善作から俳句の手ほどきを受けたそうです。

 こののち最も松蔭と深く関わることになる富永有隣は、ドラマでは獄の長老のような存在ですが、実はまだ在獄2年ほどしか経っておらず、歳も松蔭より9歳上なだけで、このとき30歳代半ばでした。どうみても、じいさんにしか見えませんでしたね。有隣は、かつては藩校明倫館の秀才と言われた男で、13歳で藩世子(藩主嫡男)に講じるほどの優秀さだったといいます。このあたりのエピソードは、松蔭と似たような神童ぶりだったようですが、その後は松蔭とまったく違っていて、根っからのひねくれものだった有隣は、人望がまったくありませんでした。自分以外は皆、馬鹿だと見下し、常に人を侮蔑する接し方しか出来なかった彼は、同僚からも親族からも憎まれ、親類一同が藩に頼み込んで牢につながれた人物でした。人間社会から隔離せねばならないほどのひねくれ者だったということですね。

 ところが、そんな性格のねじ曲がった有隣のことを、松蔭は敬愛しました。とくに、有隣の書の上手さを尊敬し、獄中、有隣から書を学びます。やがて松蔭以外の囚人も有隣から書を学ぶようになり、皆が自然に「富永先生」とよぶようになったとか。娑婆では嫌われ者だった彼が、松蔭との出会いによって、「先生」と呼ばれる存在になったわけです。松蔭は、人の長所だけを見て伸ばすことができる、天性の教育者だったのかもしれませんね。のちに有隣は歳下の松蔭のことを「尊師」と呼ぶようになり、出獄後は、松蔭の経営する松下村塾講師として招かれ、松蔭の死後は、ふたたび罪人になったりしながら、明治33年(1900年)、80歳まで長寿します。まさに、憎まれっ子世にはばかる、ですね。

 で、もうひとりの囚人が、本話の主役である女囚・高須久子です。彼女は、高須市之助という長州藩士の妻でしたが、夫がふたりの娘を残して病没したため、30歳前で未亡人になりました。その後、長女に婿養子を迎えて家を継がせると、詩歌三味線どにのめり込むようになり、その交友関係のなかで、不義密通を疑われます。不義密通とは、いまで言う「不倫」ですね。未亡人なんだから不倫じゃない・・・というのは現代の考え方で、当時は、家と家との結びつきが結婚でしたから、未亡人のことを後家と言い(いまでも言うかな?)、夫に先立たれた後、家を守る責任がありました。久子の行いを問題視した親族は、協議のすえ、藩に頼んで野山獄に入牢させたといいます。有隣の場合と同じですね。この頃の士分社会では、このような委託刑というようなことがあったそうで、その場合、食費などの経費は、親族持ちだったそうです。

 この久子が、松蔭が生涯で唯一、心を通わせたのではないか・・・とされている女性です。松蔭が入獄したこの頃、久子は35、6歳で、松蔭からすればひと回りほど年上の女性だったのですが、よほどの美人だったのでしょうか。そんなふたりのエピソードについては、本話では描かれなかったので、次話の稿にゆずることにします。


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by sakanoueno-kumo | 2015-02-09 22:10 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(2)  

二度と見られない兵庫城跡を訪ねて その3

シリーズ最後です。

江戸時代も後期に入った明和6年(1769年)兵庫津一帯は尼崎藩領から離れ、幕府の直轄領となります。
このとき、兵庫陣屋の敷地を縮小して「勤番所」となり、兵庫城の堀も幅2間分(約3.6m)を残して埋め立てられ、町人地として払い下げがおこなわれました。

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外堀の外にある、町屋街路の跡です。
いわゆる城下町ですね。
調査によると、何度も火災に遭いながらも再建し、町屋を営み続けていた様子が明らかになったそうです。
その一軒一軒の町屋の区画は、何度も何度も同じ区画のまま踏襲されていることがわかったそうで、その礎石も、ほとんど同じ場所に敷かれていたことが明らかになったそうです。

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写真は、街路を掘った断面です。
何層にもなっているのが、その時代時代の道の跡だそうで、グレーの部分が地表、茶色の部分が埋められた土だそうです。
焼けては埋めて道を造り、また焼けては埋めて道を造る、そうした250年の繰り返しの歴史の跡が、この地層だそうです。
すごいですね。

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出土品も数多く展示されていました。

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明治元年(1868年)5月、この場所に兵庫県庁が置かれ、初代知事にのちの初代内閣総理大臣・伊藤博文が赴任します。
初代兵庫県知事が伊藤博文ということも、知らない人が多いですよね。
しかし、わずか4ヶ月で県庁は現在の中央区に移転。
その後、明治6年(1873年)までは外郭となっていた土塁が残っていたようですが、市街地発展のため取り除かれ、翌年には大規模な兵庫港改修工事が始まり、兵庫新川運河の開削によって、兵庫城はほとんど破壊されてしまいます。
今となっては、なんで史跡として残さなかったのかと思ってしまいますが、城跡を史跡とみなすようになったのは近年のことで、明治新政府の発足当時は、城跡は無用の長物でしかありませんでした。

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兵庫城が水没した兵庫新川運河です。
上の写真左側に少し写っているのが、今回の発掘現場ですね。
下の写真は、運河の東側から西側の発掘現場に向かって撮影したものです。
この運河が出来たことによって、船を風や波から守る避難泊地として大いに活躍し、それまで頻繁にあった海難事故激減したそうです。
当時、神戸港発展のためには、不可欠な工事だったということですね。
兵庫城が運河の底に消滅したのも、やむを得ないことだったのでしょう。

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現在、その運河西側の遊歩道に、「兵庫城跡、最初の兵庫県庁の地」と刻まれた碑が立っています。

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運河西側から発掘現場を望む場所に、城跡を見守るかのように無数のかもめが整然と並んでとまっていました。
あまりにも印象的だったので、思わすシャッターを切りました。

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まるで、発掘調査を見守るかのようですね。

こののち、発掘調査は終了して、当初の予定どおりイオンのショッピング施設が建設されます。
イオンモール側にしてみれば、金を出して神戸市から土地を買ったにもかかわらず、この発見のおかげで工期が延期になり、迷惑千万な話だったと思いますが、われわれ歴史ファンの無責任な意見としては、これほど立派な遺跡が発掘されたのに、調査が終われば破壊というのは、なんともやりきれない思いです。
これまで謎だった兵庫城は、地元神戸市民ですら、その存在自体を知らない人のほうが多かったと思います。
今回の発見は、学術的価値だけでなく、神戸市民、兵庫県民の宝でもあると思います。
この歴史的遺産が、こののち完全に破壊され、もう二度とその姿を表すことはありません。
残念でならないですね。
もう決まったことでしょうから、今更わたしがここで訴えても、どうなるものでもないでしょうが、なんとか遺跡を残してほしいと思っているのは、きっとわたしだけではないでしょう。
明治の運河開削はやむを得ななかったのかもしれませんが、平成のショッピングモール建設は、400年前の歴史的遺産を破壊してまで建てなければならないものでしょうか?
いったん神戸市がイオンモールに売ったものを、ふたたび買い戻すなどといったことがあり得ないことはわかっています。
ですが、400年前の先人たちからのメッセージを、どうにか保存する手立てはないものかと、素人ながら思う次第です。
壊してしまったら、もう二度と元へは戻せないですからね。


二度と見られない兵庫城跡を訪ねて その1
二度と見られない兵庫城跡を訪ねて その2

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by sakanoueno-kumo | 2015-02-06 16:54 | 神戸の史跡・観光 | Trackback | Comments(4)  

二度と見られない兵庫城跡を訪ねて その2

昨日のつづきです。

神戸は幕末になってから開かれた港町と思われている人が多いですが、実はそうではなく、この兵庫城のあった兵庫津は、奈良時代より1300年の歴史があります。
古くは「大輪田の泊」と呼ばれ、平安時代には平清盛によって日宋貿易の拠点とされたことで有名ですね。
この近くには、清盛廟所や史跡も数多く存在します(下記参照)。 
KOBE de 清盛 史跡めぐり その2
KOBE de 清盛 史跡めぐり その3
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その後、応仁の乱で壊滅的に破壊された兵庫津は、一時歴史のなかから姿を消しますが、恒興がこの兵庫城を築いたことによって、ふたたび都市として機能しはじめます。
恒興はわずか2年で美濃国大垣城に移封となりますが、その後、豊臣秀吉の時代になると、兵庫城下は豊臣家の直轄地となり、片桐且元が代官として入城します。

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江戸時代に入ると兵庫津一帯は尼崎藩領になり、兵庫城は廃城、兵庫陣屋(奉行所)となります。
その後、港町や西国街道の宿場町として栄え、江戸時代中期には、人口2万人を数えるほどのにぎわいをみせたそうです。
このころの元禄9年(1696年)に作成された『摂州八部郡福原庄兵庫津絵図』には、兵庫のまちの様子が克明に描かれており、兵庫津遺跡を調査するうえで貴重な史料となっています。

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しかし、今回の発掘調査によって、堀の形状が絵図のものとは異なることが判明したそうです。
おそらく、江戸時代中期頃に、それまであった堀の一部を埋め戻したり、新たに堀を開削するという土木工事が行われ、堀の形状を変えていたのだろうと考えられます。

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外堀と内堀の間には、二の丸が広がり、内堀の内側に本丸がある城郭だったことが明らかになりました。
上の図でもわかるように、大手道から幅約7m、長さ約16m土橋を渡り、城内に入ります。
この日、二の丸には入れましたが、本丸には入れてもらえませんでした。
本丸に天守のような建物があったかどうかは、史料がなくわからないそうです。

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直角に折れ曲がった石垣は、内堀の外側です。
角には、ここにも墓石が使用されていました。

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「悪水抜溝」の跡です。
「悪水」とは、今で言う下水のようなもので、「悪水抜溝」とは、下水道のことだと思います。

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今回詳らかになった城郭の構造は、安土城から大坂城への過渡的な様相を示しているそうです。

またまた長くなっちゃったので、もう一回続きます。

二度と見られない兵庫城跡を訪ねて その1
二度と見られない兵庫城跡を訪ねて その3

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by sakanoueno-kumo | 2015-02-05 17:01 | 神戸の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

二度と見られない兵庫城跡を訪ねて その1

先日、発掘調査中の兵庫城跡の一般公開に行ってきました。

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これまで兵庫城は、おおまかな位置は想定されていましたが、古文書などの史料が残っていなかったため、詳しいことはわかっていませんでした。
この地は神戸中央卸売市場の跡地で、2009年に老朽化のため市場が移転したあと、神戸市から土地を買い受けたイオンモールが建設される予定でした(2012年には、一時的に大河ドラマの広報事業で、平清盛歴史館が建てられていた場所です)。
イオンモールの建設に入った2012年、同地から石垣の一部が見つかったため、イオンモールの協力もあって工事を延期し、発掘調査にあたってきたそうです。
その調査もこの2月で終わりだそうで、今回が最後の一般公開だと聞き、寒空のなか寸暇を惜しんで行ってきました。

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上の画像がグーグルアースの画像で、下の画像が元禄時代に描かれた『摂州八部郡福原庄兵庫津絵図』、そのクリーム色で塗られた部分が、今回の発掘現場です。
今では、兵庫新川運河で半分以上が水没してしまっていることがわかります。

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今回の調査で、かなり詳細に遺構が浮かび上がり、築城当初の構造まではっきりしたそうです。

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兵庫城は、天正9年(1581年)に織田信長の家臣だった池田恒興によって築城されます。
恒興は、以前の当ブログでも紹介しましたが(参照:荒木村重ゆかりの摂津路逍遥 その3 ~花隈城跡~)、信長に対して謀反を起こした荒木村重の籠もる花隈城を攻め落とし、その功により信長から兵庫の地を与えられますが、一部焼け落ちてしまった花隈城には入城せず、取り壊して兵庫城を築きます。
その際には、花熊城を解体した石材を使用したとの記録があります。

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写真は外堀内側の石垣です。
調査によると、内側の石垣は築城当初のもので、外側の石垣は、江戸時代に造られたものだとわかったそうです。
この石垣の中には、おそらく花隈城から移設された残材が含まれているのでしょう。

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こちらは外堀外側の石垣。
よく見ると、お地蔵さんの石が削られて使用されています。

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こちらを見ると、どう見ても天然石とは思えない四角い石があります。
これは、五輪塔の一部だそうで、つまり、墓石だそうです。

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外堀の幅は最も大きな所で18.5mあり、戦国時代の実戦的な城だったことがわかります。
兵庫城は、わずか1年半で建てられたといいますから、相当な突貫工事だったでしょうね。
恒興の次男で、のちに姫路城を今の規模に修築した池田輝政が、この築城にたずさわっています。
のちに城造り名人といわれる輝政ですが、このときは若干16才、おそらく彼の最初の作品が兵庫城だったのではないでしょうか。

長くなったので、明日に続きます。

二度と見られない兵庫城跡を訪ねて その2
二度と見られない兵庫城跡を訪ねて その3

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by sakanoueno-kumo | 2015-02-04 22:21 | 神戸の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)