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花燃ゆ 第13話「コレラと爆弾」 ~日米修好通商条約とコレラ大流行~

 「コロリ」こと伝染病コレラが日本で初めて発生したのは、文政5年(1822年)のことだそうです。このとき感染は九州から東海道まで及びますが、箱根の山を超えて江戸までは達さなかったそうです。次にコレラが日本に上陸したのが、ドラマの舞台である安政5年(1858年)でした。このときも江戸までは達することはなかったとする説と、江戸だけで10万人が死んだとする説があります。どちらが事実かはわかりませんが、いずれにせよ、感染は西日本から広まったようで、たちの住む萩城下でも、大勢の感染者が出たであろうことは想像できますね。萩には小田村伊之助こと南方仁先生がいるのにねぇ(笑)。

 このときのコレラ大流行は、幕府大老・井伊直弼日米修好通商条約に調印したタイミングと、バッチリ重なってしまいました。それも、朝廷の勅許を得ぬままの強行だったため、全国の攘夷論者たちは激怒します。時の帝である孝明天皇(第121代天皇)は大の外国人嫌いであり、そこにコレラ騒ぎが加わったものだから、コレラは異国人がもたらした悪病であると信じられ、「神聖なる日本の国土を汚す外夷は即刻討つべし!」と、過激攘夷論が一気に加熱します。さらにさらに、ドラマでは描かれていませんでしたが、徳川家内の将軍継嗣問題による一橋派南紀派の争いも加わり(この辺りを掘り下げると話がどんどん脇にそれていくので、このたびは省きます)、世情は大いに混乱します。

 本来、コレラの流行と外交問題と徳川家の跡継ぎ問題はまったく関係のない話だったはずが、それらの問題がすべて混ぜ合わさって、とんでもない化学反応を起こすんですね。開明派である一橋派が攘夷派で、守旧派である南紀派が開国派という、後世から見ればなんとも不思議な構図ができ、そんななか、南紀推しであり、条約を独断で結んだ張本人であり、コレラを日本に上陸させた(わけではないのだが)悪の権化ともいうべき、「井伊を斬るべし!」といった気運が、攘夷派内で一気に高まります。コレラ菌もたいへんなときに日本に上陸したものです。ある意味、ペリーと同格といえますね。

 条約調印の報に接した吉田松陰も、当然、激しく憤ります。そして、自宅蟄居という罪人の身でありながら、藩主・毛利敬親に向けて、直弼の横暴を大いに批判した建白書を提出します。その内容は、
「帝のご意思を無視せぬよう、今からでも幕閣に諌言すべきである。もし、その諌言が聞き入れられない場合は、幕閣を斬り捨てることもやむを得ない
という超過激なものでした。そんなとき、松下村塾の塾生から松蔭のもとに、驚愕の情報がもたらされます。それは、直弼が自身の領国である近江国彦根城に孝明天皇を移し、意のままに操ろうとしている、というもの。これに仰天した松蔭は、それに対抗する策として、直弼が帝を彦根へ連れ去る前に、長州藩兵の護衛のもと、帝を比叡山にお移ししよう、という策を立案し、藩政に提案します。しかし、当然ながらこの策が取り上げられるはずがありません。そもそも、直弼の彦根遷座策の風聞が事実かどうかもわからず(実際に行われなかった)、仮に事実であったとしても、譜代大名筆頭で大老である直弼の方針に、外様大名である長州藩が単独で対抗できるはずはありませんでした。当然ですよね。意見を採用されなかった松蔭は激しく憤り、そして、このことが契機となって、松蔭の主張は日に日に過激になっていきます。


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by sakanoueno-kumo | 2015-03-30 20:47 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その6 ~谷大膳墓所~

平田村付城跡のある山の麓には、谷大膳亮衛好墓所があります。

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三木合戦における羽柴秀吉方の智将として有名なのは竹中半兵衛ですが、豪将としてこの重要な陣を任されていたのが、谷大膳でした。
といっても、大膳は秀吉の家来だったわけではなく、あくまで織田信長に仕える身で、臨時で秀吉の指揮下に入っていただけのようです。
いわば出向社員ですね。

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現地の説明看板によると、天正7年(1579年)9月9日夜半、兵糧三木城へ運び込もうとした別所氏・毛利氏の軍勢の夜襲を受け、大膳はなぎなたをふるって奮闘しますが、衆寡敵せず、全身に五十余創をうけながら、壮烈な死を遂げたそうです。

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この戦いを「平田大村合戦」といい、一連の三木合戦の戦いのなかでも、もっとも多くの戦死者を出した戦いと伝わります。

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墓石に何か文字が刻まれているのですが、古くて読めません。

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現地説明看板です。
「秀吉公その死を悼み、丁重に葬り杉を以て塚木とし給ふ。」
とあります。

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墓石にの両横には、共に戦死した兄の福田正舜(玄々院殿)、弟の土田小傅次、甥の福田彦八良(勇功院殿)福田孫三郎(猷駿院殿)が併せ葬られています。
のちに天下統一を成し遂げた秀吉は、大膳の嫡男に、丹波国山家に6千石を与えました。

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以上が、通説となっている大膳の最期ですが、別の伝承では、こんな話もあります。
ある日、秀吉は大膳に、三木城の出丸を攻めてほしいと頼みます。
しかし、大膳は「あの出丸は守りが堅くて容易には落ちぬ」と、これを固辞。
これを受けた秀吉は、「日ごろ武勇名高い大膳だが、たかが小城一つ落とせぬのか」と挑発します。
この秀吉の言葉に大膳は激怒、一方の秀吉も刀の柄に手をかけ、一触即発の空気となりました。
しかし、そこに竹中半兵衛と蜂須賀小六が割って入り、その場はなんとか収まります。
その夜、秀吉は大膳の元へ酒肴を持って現れ、昼間の無礼を詫びました。
いったんは許したかにみえた大膳でしたが、しかし翌日、手勢を率いて、その出丸を攻めます。
よほど、秀吉に小馬鹿にされたことが悔しかったのでしょう。
しかし、予想どおり出丸の守りは固く戦いは激戦となり、双方多くの死傷者を出すなか、とうとう大膳も討死してしまいます。
この戦いが、平田大村合戦だというんですね。
通説とは、ずいぶん違うエピソードです。
どっちが本当なんでしょうね。

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大膳は享禄2年(1529年)生まれと伝えられますから、信長よりも5歳、秀吉よりも8歳年上だったことになります。
8つも年下の秀吉から小馬鹿にされた話が本当なら、たいそうプライドを傷つけられたのかもしれませんね。
秀吉は、自身の吐いた言葉を悔いて、懺悔の思いで手厚くこの墓を建てたのかもしれません。
なんて、どれも想像の域を出ませんが・・・。

シリーズはまだまだ続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2015-03-26 21:29 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その5 ~平田村付城跡・平田村山之上付城跡・大村城跡~

羽柴秀吉の本陣が置かれた平井山付城は、三木城の北東に位置しますが、その反対側の北西にも、平田村付城をはじめ多くの付城が築かれています。
最寄りの駅は、日本一乗車賃が高いことで知られる神戸電鉄の大村駅
その路線のなかでも、単線区間にあるのどかな駅です。

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思わず駅の写真を撮ってしまいましたが、目的は城跡です。
大村駅から北へ2~3分歩いたところに保育園があるのですが、ネット情報によれば、この保育園の場所あたりに、かつて大村城があったそうです。
その城主の大村氏は、三木城主である別所氏とは縁戚関係にあり、当然、三木合戦のときは別所方でした。

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大村城の遺構らしきものは何も残っていません。
『別所軍記』によると、この城の前に広い場所があって、別所氏の大軍が集結していたと記されています(現在、保育所の前は田んぼです)。
ここを守っていた大村九郎左衛門治吉は、大村合戦の激戦で討死したと伝わります。

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保育所の東側には、平田村付城があったと考えられている山があります。
この山はそれほど高くはなく、少し登ればすぐに遺構らしき場所にたどり着けます。
史跡に指定されていないので、看板や説明板などはありません。
『播磨鑑』によると、ここを守っていたのは吉田勝左ヱ門という織田方の武将だったと記されています。。

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このあたりは三木合戦の中でも激しい戦闘が行われたと伝えられます。
なかでも、天正7年(1579年)9月の「平田・大村合戦」では、織田方の豪将・谷大膳が、激しい戦いのすえ討死しています。
その谷大膳の墓が近くにあるのですが、それはまた次稿で紹介します。

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郭跡っぽい場所から見た、三木城方面の景色です。
写真中央の低い山が、三木城です。
丸見えですね。

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また、平田村付城から東へ10分ほど歩いたところに、「さつき園」という養護老人ホームがあるのですが、その裏山に、平田村山ノ上付城があったと考えられています。
『播磨鑑』によると、城主は古田馬ノ助という武将とされています。
谷大膳が討死したのは、この場所だったと伝えられます。

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平田村付城から距離にして500mも離れていない場所ですから、おそらく連動して北西からの補給路を塞いでいたのでしょうね。

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ところで、この日、老人ホームの横の登山口はわかったのですが、その後の山道があまりにも険峻で、山上まで登りきれませんでした。
案内板も何もないですから、道なき道をかき分けて登っていくも、なかなか遺構らしき場所にたどり着けず、帰路が不安になって途中で引き返した次第です。

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山登りの素人がいく場所ではなかったですね。
雪山ならともかく、城跡めぐりで遭難したとあっては、末代までの恥ですから(笑)。

そんなこんなで、次稿は谷大膳の墓所を紹介します。



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by sakanoueno-kumo | 2015-03-25 19:33 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

花燃ゆ 第12話『戻れないふたり』 ~文と久坂玄瑞の新婚生活~

 安政4年(1857年)12月、久坂玄瑞は晴れて夫婦となりますが、ふたりの新婚生活の場は、文の実家である杉家でした。その理由は定かではありませんが、おそらく、玄瑞は若くして親兄弟と死別しており、孤独な身であったこと、久坂家と杉家は直誠意距離で約1里半離れており、松下村塾の門弟として通い詰めるには遠かったことなどが理由だったのでしょう。一説には、吉田松蔭に目をかけられていた玄瑞は、結婚前から杉家で暮らしていたともいいます。文と玄瑞を結婚させたのは松蔭の意向だったといいますから、あるいは、ふたりを結婚させて、これまで以上に玄瑞を身近において指導したかったのかもしれません。いずれにせよ、ふたりの新婚生活は、玄瑞のマスオさん状態でスタートします。

 玄瑞の「不美人」発言の件、やけにひっぱってましたね。まあ、数少ないふたりの馴初めのエピソードですからね。この話は前話の稿で紹介したとおり(参照:第11話)、同じ松下村塾生だった横山幾太という人物が明治24年(1891年)に執筆した随筆『鷗磻釣餘鈔』に書かれていたものです。実際にこんな発言があったかどうかはわかりませんが、少なくとも、本人の耳に入れることはなかったでしょう。ドラマでは酔った高杉晋作KYな爆弾発言を吐いちゃってましたけどね(笑)。あのシーンは笑っちゃいました。

 ちなみに、伊藤利助が凍りついた空気をフォローするために「不美人はおすみちゃん」と言っていましたが、その“おすみちゃん”こと入江九一の妹・すみ子は、のちに利助のとなる女性です。他愛もないシーンですが、いちおう伏線をはってるんですね。もっとも、ほどなく「最初の妻」という言い方になるのですが・・・。

 そんなこんなで、文と玄瑞の夫婦生活がスタートしますが、年が明けた安政5年(1858年)2月、玄瑞は予てから希望していた江戸遊学が許され、萩を発ちます。そのため、ふたりの新婚ホヤホヤの生活は、わずか2ヵ月ほどで別居状態を強いられることとなります。こののち、玄瑞は江戸、京都、下関を拠点に志士活動を活発化させていくため、夫婦は事実上の別居状態となります。ふたりの夫婦生活は、玄瑞が自刃する禁門の変までの約5年半でしたが、実際にひとつ屋根の下で暮らしたのは、延べ数ヶ月ほどだったとも・・・。それが理由だったのか、ふたりの間に子宝は恵まれませんでした。決して、屋根裏部屋で寝ていたからではありません(笑)。

 椋梨藤太周布政之助の政権争いによって、奥方たちの勢力図も一変したようです。もちろん、奥方たちの記録など残っておらず、ドラマのフィクションではあるのですが、現代社会でも、社宅住まいなどの奥様方は、似たようながあると聞きますよね(まるでドラマ『半沢直樹』の奥様会を見ているようでした)。当時の武家社会は狭い社会ですから、実際にも、あんな感じだったんじゃないでしょうか? そんななか、夫・小田村伊之助のために、妹の文のために、懸命に椋梨の奥方に取り入る寿。なんとも健気じゃないですか・・・。なんで、伊之助はこの妻の内助の功を評価してあげられないのでしょうね。文の縁談にしても、妹のことを思ってやったこと。責められることではないですよね。なんか、寿が不憫になってきました。

 文と玄瑞の馴初め話で2話ほど歴史が停滞していましたが、江戸では赤鬼・井伊直弼大老に就任しました。いよいよ、安政の大獄の始まりです。


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by sakanoueno-kumo | 2015-03-23 19:47 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)  

上方落語界の巨星・三代目桂米朝師匠のご逝去を悼む。

昨日、上方落語界の巨星・三代目桂米朝師匠が亡くなられたそうですね。
関西のテレビやラジオでは朝からずっとこの話題でもちきりです。
米朝師匠といえば、上方落語界初の人間国宝であるとともに、落語界では初の文化勲章を受章した、まさに大阪の誇りといえる存在でした。
御年89歳だったとか。
つい最近まで、昼間のラジオで声を聴いていたと思っていたんですけどね。
謹んでお悔やみ申し上げます。

米朝師匠といえば、故・六代目笑福亭松鶴師匠、故・五代目桂文枝師匠、三代目桂春団治師匠と共に「四天王」と呼ばれ、戦後、衰退しかけていた上方落語を立て直した功労者として知られています。
私が子供の頃は、桂三枝(現・六代目桂文枝)さんや笑福亭仁鶴さんの全盛期で、米朝師匠はすでに大御所的存在となっていましたが、四天王のなかでも、型破り破天荒なイメージの松鶴師匠とは対照的に、知性的ダンディー端正で、教科書のような落語家さんといったイメージでした。
にもかかわらず、60人を超えるという米朝一門には、月亭可朝さんや故・桂枝雀さん、桂ざこばさんなど、米朝師匠の芸風とは似ても似つかない型破りな落語家さんがたくさん育っているというのも、面白いところです。
きっと、懐の深い方だったんでしょうね。

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写真は上方落語発祥の地と伝えられる大阪・生國魂神社境内の米澤彦八の碑です。
今年の正月にここを訪れたとき、たまたま撮影していたものです。
米澤彦八とは、上方落語の祖と言われる人物で、いまから300年以上前の元禄時代に、大坂の生玉(いくたま)神社の境内で辻噺を興行して評判となり、やがてそれが、上方落語の原型となっていったそうです。
この石碑は、平成2年に米朝師匠、五代目文枝師匠(当時は小文枝)、春団治師匠の3人の連名で建てられたものです(六代目松鶴師匠はすでに亡くなられていました)。

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300年以上の歴史がある上方落語ですが、戦後の混乱のなかで衰退していき、昭和20年代後半には、上方落語家は十数人になっていたそうです。
これに危機感を覚えた米朝師匠は、のちに四天王と呼ばれるに至る仲間たちと上方落語の再興を決意し、埋もれていった古典落語を徹底的に調べ直し、それを現代風にアレンジし、見事に復活させたそうです。
その数、20以上あるとか。
その甲斐あって、三枝さんや仁鶴さんら売れっ子落語家が生まれ、その後、上方落語協会に加盟している落語家さんは、いまでは200人以上いるそうです。
たいへんな偉業といえるでしょう。
きっと、あの世で松鶴師匠や文枝師匠と、落語談義に花をさかせることでしょうね。
心よりご冥福をお祈りします。


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by sakanoueno-kumo | 2015-03-20 21:30 | 芸能 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その4 ~もうひとつの竹中半兵衛墓所~

三木市内には、もう1か所、竹中半兵衛のものと伝えられるがあります。
場所は、前稿(その3)で紹介した平井山の麓の墓所から、直線距離で1kmほど離れたところにある栄運寺というお寺の裏山。
平井山の墓所は有名ですが、こちらはあまり知られていません。

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栄運寺は、写真のようなのどかな田園風景を見下ろすように、山の麓の高台にあります。
晴れてたらきっといい景色だったのでしょうけど、あいにくこの日は雨上がりの重い雲に覆われた日で、路面も乾いていません。

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近くに駐車場はないので、ずいぶん遠くに車を停めて徒歩で向かいます。

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栄運寺が見えてきました。

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境内に向かう手前に、墓所への誘導看板を発見。
ここから、山道を登ります。

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なかなかハードな傾斜道です。

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しばらく登ると、また誘導看板がありました。
おかげで迷わずに進めます。

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誘導看板から少し奥に進むと、古い墓石のある場所にたどり着きました。
どうやら、ここがもうひとつの半兵衛の墓所と思われるのようです。

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宝塔のような墓石の裏には、天正七年六月十三日と刻まれています。
たしかに、半兵衛が死んだと伝えられる日です。

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墓石に立てかけられた卒塔婆には、戒名が揮毫されています。

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向かいの小さな石には、よく見ると「竹中」と書かれているようです。
あるいは、こちらが墓石で、向かい側の立派な石塔は、供養塔のようなものかもしれません。

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平井山の墓所から1kmほどしか離れていないこの場所に、なぜ半兵衛の墓があるのかわかりませんが、おそらくどちらも半兵衛の墓とみていいのでしょうね。
なぜ2つの墓が存在しているのかはわかりませんが、たぶん、建てられた時期が違うのでしょう。
見た感じ、こちらのほうが古そうに思えましたから、あるいは、没後すぐに埋葬されたのは、こっちかもしれません。
あくまで、わたしの印象ですが・・・。

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半兵衛は死ぬ半年ほど前、このとき有岡城に幽閉されていた黒田官兵衛孝高の嫡男・松寿丸(のちの黒田長政)を、織田信長の処刑の命に背いてかくまったという話は有名ですね。
しかし、その後、官兵衛が有岡城から生還したときには、半兵衛はこの世にいませんでした。
きっと、官兵衛もこの地に参ったのではないでしょうか。

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三木の人々にとっては敵方の武将である竹中半兵衛の墓にもかかわらず、400年以上もの長きに渡り、地元の人の手によって守られてきたことを思えば、いまこうして歴史に触れることができることを、感謝せずにはいられません。
豊臣秀吉の墓所なんて、豊臣氏の滅亡と共に破壊されてしまいましたからね。
三木市民のご先祖さまに感謝です。

そんなこんなで、後日、まだまだ続きます。

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by sakanoueno-kumo | 2015-03-19 23:58 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その3 ~竹中半兵衛墓所~

羽柴秀吉の本陣があったとされる平井山の麓に、秀吉の名軍師として知られる竹中半兵衛重治墓所があります。
半兵衛は三木城攻めの真最中の天正7年(1578)6月13日、平井山本陣にて病没したと伝えられます。

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場所は平井山観光ぶどう園のなかにあります。
ここを訪れた日は2月15日という冬まっただ中で、周囲はキツネ色の畑と裸木に囲まれて寂れた印象の写真になっていますが、いい季節に来れば、きっと緑に囲まれた美しい景色なんでしょう。

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そんな自然の中に、特別な場所といった感じの白漆喰に塗られた土塀が見えます。

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案内板の横の細い道を入っていくと、四方を土塀で囲まれた廟所となっています。

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手前の花立ては新しいもののようですが、墓石石灯籠は、かなり古いもののようです。
墓石には、「竹中半兵衛重治墓」と記されています。

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半兵衛は、もとは美濃国斎藤氏の家臣の家に生まれますが、主君の斎藤龍興暴君ぶりに愛想をつかせて斎藤家を去り、その後、羽柴秀吉の熱烈なラブコールを受けて、織田信長傘下に入ります。
そして、その後は秀吉の片腕として各地に転戦し、殊勲を立てました。

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しかし、半兵衛はもともと病弱だったといわれ、この三木城攻めの真最中に胸を病みます。
秀吉のすすめで一時は京都に移って療養しますが、やがて自らの死期を悟ると、「武士ならば畳の上でなく戦場で果てたい」と秀吉に懇願し、この地に帰ってきました。
ほどなく病魔は容赦なく半兵衛の身体を蝕み、天正7年(1578)6月13日、この墓所の東にある平井山本陣にて病没します。
享年36歳
死因は肺病とされ、おそらく、現代の肺炎か肺結核と考えられています。
秀吉は、半兵衛の遺体のとりすがり、「お先真っ暗」と、ひと目もはばからずに泣き崩れたといいます。

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墓所内に立てられた40年ほど前の手書き看板です。
文字がかすれて読みづらいですが、この墓所の維持のために、その昔から竹中山と称する山林1ヘクタールが村の山として残され、毎年6月13日には村の老若男女が仕事を休んで供養を続けている、と書かれています。

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こちらの看板の漢詩は、天保年間(1830年~1844年)、儒者の山田翠雨がこの墓に参拝の折に詠んだものだそうです。
最後から二行目に、「土を盛り上げた一つの塚が平井山の緑の中に包まれる」とありますね。
土を盛り上げた塚とは、おそらく墓石の後ろの盛り土のことでしょう。

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ところで、三木市内には半兵衛の墓と伝わる場所が、もう1か所あります。
次稿では、そのもうひとつの半兵衛の墓を紹介します。



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by sakanoueno-kumo | 2015-03-18 19:25 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

花燃ゆ 第11話「突然の恋」 ~文と久坂玄瑞の縁談~

 久坂玄瑞が結婚したのは、安政4年(1857年)のことでした。ときに玄瑞18歳、文の生年は諸説あるので定かではありませんが、13~15歳あたりだったと思われます。当時としても若い夫婦ですが、すでに玄瑞は両親と兄を亡くして家督を継いでいる身でしたから、できるだけ早く嫁をとって子をつくる必要があったのでしょう。

 萩城下英才で知られた玄瑞でしたが、その容貌も麗しく、身の丈6尺(約180cm)の長身で、面構えはすこぶるイケメン、しかも美声で、立ち居振る舞いも同世代の男のなかでは抜きん出ていたといいます。玄瑞がその美声で詩吟を唸りながら歩くと、付近の女性が群がるように彼を覗き見たとか。ちょっとしたスターですね。しかも、萩城下きっての秀才だったわけですから、容姿端麗にして頭脳明晰、まさに非の打ちどころのない人物だったようです。

 そんなミスターパーフェクトと文が結婚に至った馴初めについてですが、ドラマでは、お互いにほのかな恋心を抱いていたことになっていましたが、そこはドラマの設定。実際に伝えられる話では、玄瑞ははじめ、この縁談に乗り気ではなかったようです。その理由について、同じ松下村塾生だった横山幾太という人物が明治になってから執筆した随筆で、次のように語っています。

 「久坂時尚ほ甚だ荘、拒むに夫の妹氏醜なるを以てせり」

 妹氏醜なるを以て・・・すなわち、文がブスだから嫌だ!・・・と。ひじょうにわかりやすい理由ですね(笑)。実際に文がブスだったかどうかはわかりませんが、モテモテのイケメン玄瑞ですから、周りにもっと美人がたくさんいたのかもしれません。そんななか、いくら師匠の妹御といえども、なんでこんな幼い小娘と・・・と思ったのかもしれませんね。男として、わからなくもないです(笑)。

 ふたりの縁談を仲介していたのは小田村伊之助ではなく、松下村塾生のなかで最年長の中谷正亮という人物でした。ブスだから嫌だと玄瑞がいったのも、この正亮に対してだったようです(当然ですが、松蔭や文に直接いったわけではありません)。幾太の随筆によると、玄瑞の言葉を聞いた正亮はすぐさま、

 「之れは甚だ君に似合はざる言を聞くものかな、大丈夫の妻を妻とる。色を選ぶべきか」

 と、強く叱責したといいます。まあ、18歳ですからね・・・。健康な男子ならば色を選びたいですよね(笑)。しかし、この正亮の叱責に玄瑞は言葉に詰まり、考えなおして縁談を承諾した、と幾太は続けています。この切りかえの速さと決断力は、さすが君子といえるでしょうか。そんな人格も含めて優秀な愛弟子・玄瑞を、吉田松蔭は義弟にしたかったのでしょうね。松蔭も罪なことをするものです(笑)。

 今週の塾生スポットライトは、前原一誠でしたね。一誠は久坂玄瑞や高杉晋作ら主だった塾生のなかでは年長の天保5年(1834年)生まれで、このとき24歳でした。塾生といっても、瀬戸内海側の厚狭郡船木村という遠方からやってきた一誠は、松下村塾で学んだのはわずか10日間ほど。しかし、その10日間で見た、松蔭の塾生から学ぼうとする姿勢に、たいそう感銘を受けたといいます。一誠は、主だった塾生のなかでは数少ない明治まで生きる人物ですが、わずか10日間に学んだ松蔭の遺志を深く継承し、やがて非業の死を遂げることになるのですが、それは、物語のずっとずっとあとの話です。


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by sakanoueno-kumo | 2015-03-16 20:01 | 花燃ゆ | Trackback | Comments(0)  

花燃ゆ 第10話「躍動!松下村塾」 ~長州藩の二大政党制~

 今話は松下村塾四天王のひとり、吉田稔麿を主役とした話でしたね。どうやら、しばらくは塾生の一人にスポットをあてて物語を展開していくようです。ドラマでは地味で平凡なキャラに描かれていましたが、その秀才ぶりは高杉晋作久坂玄瑞に勝るとも劣らないもので、謹直重厚な人物だったといわれます。晋作や玄瑞と同じく明治維新を見ることなくこの世を去ることになるのですが、同じ塾生で明治の元勲になった品川弥二郎に言わせると、「稔麿が生きていたら総理大臣になっただろう」と語ったといいます。に恋心を抱いていたというのは、もちろんドラマの創作ですけどね。もっとも、杉家と吉田家は徒歩数分という近さだったそうですから、幼い頃から顔見知りではあったでしょうけどね。

 そんな稔麿の江戸行き祝の酒席に、酔った周布政之助長井雅楽が乱入していましたが、ここで、長州藩の政治について少しふれてみたいと思います。

 政論好きで理屈っぽいと言われていたのが長州藩ですが、その藩風は、早くから二大政党が存在したことにあると言われています。この物語の舞台より30年ほど前に藩政の実権を握った村田清風という人物は、その卓越した政治的識見と実行力で徹底的な藩政改革を行い、財政、軍事、学制などを一変させました。清風が改革に乗り出すまで、長州藩は慢性的な借財に苦しみ破産寸前だったといいますが、清風はあらゆる荒療治でこの財政難を数年で立て直したといいます。

 しかし、急速な改革は当然ながら抵抗勢力を生み、やがて大勢の恨みを買って清風は失脚します。すると今度は、清風の反動政治家的な立場の坪井九右衛門という人物が藩政を担い、清風が行った改革事業の多くを元に戻してしまいます。それで問題が生じると、また清風系の官僚が起用されて再改革に着手します。そんなこんなで、自然、長州藩は、村田清風を祖とした革新派(正義党と、坪井九右衛門を祖とする保守派(俗論党)の両党ができ、二大政党が抗争しながら繰り返し政権交代していくという、現代のアメリカ議会のような形ができます。今の日本ですら、なかなか二大政党制が確立しないことを思えば、当時の長州はかなり進んでいたといえるでしょうか。のちの初代内閣総理大臣・伊藤博文から、現在の安倍晋三首相まで、実に8人もの総理大臣を出した山口県の県民性は、この時代の藩風からきているのかもしれません。

 で、物語のこの時期、その村田清風の流れを受けた革新派の党首が周布政之助で、一方の保守派の党首が、松蔭と松下村塾に冷たい椋梨藤太となっています。椋梨は坪井のあとを受けて政務を担っていましたが、嘉永6年(1853年)の黒船来航によって改革派の周布が政務役筆頭となり、政権を奪取します。しかし、吉田松蔭黒船密航事件が起きるや、翌年に政務役を辞任。ドラマのこの時期は、椋梨率いる保守派が与党、周布の改革派は野党でした。その後も政権交代を繰り返しながら、やがて改革派が尊王派となり、保守派が佐幕派となっていきます。

 歴史の結果を知っている後世の私たちは、高杉晋作や桂小五郎を重用した周布の方が正しく、彼らを弾圧しようとした椋梨をダークなイメージで見がちですが(ドラマでも、そのように描かれていますが)、実際には、それぞれの政治的立場での政論に則った行いであり、この時点では、どちらが正しいというものではなかったわけです。何より、この時代の彼らの政権交代というのは、そのままを意味する場合もあり、実際に椋梨も周布も、こののちの政局の中で、二人とも命を失うことになります。文字通り、命を賭けた政治だったわけです。その意味では、現代の政治家とは比べものになりませんね。2年前、政権を奪還した安倍晋三首相は、坪井九右衛門と血縁にあたります。アベノミクスに命を賭けているか・・・ぜひ聞いてみたいものです。


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by sakanoueno-kumo | 2015-03-09 21:32 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その2 ~秀吉本陣(平井山付城)跡~

別所長治が籠城する三木城を包囲するため、羽柴秀吉は四方八方に多くの付城を築きます。
『信長公記』によると、その数は50~60か所にも及んだといわれます。
付城とは、別名、出城、陣城とも言い、恒久的な城郭ではなく、戦のための仮の城、いわば前線基地のようなものですね。
秀吉は、この付城づくりを得意としていました。
三木市内には、当時の付城跡と考えられている場所がいくつも残っていますが、この日は、平成25年3月に三木城跡とともに国史跡指定された、秀吉本陣跡を訪れました。

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秀吉本陣が置かれたのは、三木城から北東へ約2km離れた平井山という標高143mほどの山上です。
秀吉が三木城包囲を開始してから約3か月が過ぎた天正6年(1578)7月、織田信長の嫡男・織田信忠によってこの地に築かれ、その後、秀吉に引き渡されたといいます。

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付城跡の入口は、平井山北西部分にあり、新しく造られたという丸太階段で整備されていました。
この登り口は、当時は搦手(裏口)だったようです。

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階段で整備されていたのは最初の100mほどで、その後はガッツリ山道になります。
結構ハードです。

e0158128_21132368.jpg

段状の平坦地群跡です。
斜面地を削ったり盛ったりして、段状に平坦地を造っています。
こうして、兵が駐屯しやすいようにしているんですね。
写真ではわかりづらいでしょうか?

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急な斜面を10分ほど登り続けると、ようやく坂が緩やかになり、歩きやすい山道が現れます。
この尾根上の山道は、太閤道と呼ばれていたそうです。
この同じ道を、約430年前に秀吉も歩いていたんですね。

e0158128_21165671.jpg

主郭跡と考えられている場所だそうです。
城の最高所ではありませんが、山道が拓けた比較的平坦な場所で、三木城を監視するには絶好の場所だったのでしょう。
3方が土塁で囲まれています。

e0158128_2119490.jpg

主郭に設置された展望台から見た、三木城下です。
あいにくこの日は霞がかっていて、わかりづらいのですが、写真中央にある樹木と真ん中あたりに見えるのが、三木城跡です。

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現地の説明書きによると、赤線で囲まれた部分が三木城です。
ここから、飢えに苦しむ三木城内の様子を監視していたんですね。
もっとも、人々の様子が見えるほどの近さではありませんが。

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天正6年(1578)10月15日、秀吉は飢えに苦しむ三木城の籠城兵を日和見に、この地で茶会を催したと伝えられます。
なんとも趣味の悪いいやがらせだと思っていましたが、こうしてその場所に来てみると、籠城兵から茶会の様子までは見えなかったでしょうね。

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主郭跡から更に奥へ進むと、櫓台状の土盛と表記された遺構がありました。
ここの櫓があったのでしょうか?

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さらに奥へ行くと道は下り始め、大手口と推定されている遺構に着きます。
地面を深く掘って両側を一段高く切盛りし、その段状に平坦地を設け、見張り兵を駐屯させていたと考えられているそうです。
ここを降りて行くと、与呂木という集落に繋がっていたそうですが、いまは、この先は行き止まりとなっていて立ち入り禁止です。
観光順路は、裏口から入って正門でUターンさせられるコースとなっていました。

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この平井山付城跡は、これまで民間が所有していたそうですが、平成25年(2013年)に三木市が買収し、国の史跡に指定されたそうです。
よく遺構が破壊されずに残っていたものですね。
これからは、三木市が遺跡の保存や整備を管理していき、三木城跡とセットの観光地としてアピールしていくそうです。
結構、しんどい登山ですが・・・。

いつになるかわかりませんが、次回につづきます。



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by sakanoueno-kumo | 2015-03-06 23:36 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)