<   2015年 04月 ( 13 )   > この月の画像一覧

 

三木合戦ゆかりの地めぐり その12 ~三木城鷹尾山城(鷹ノ尾城)跡~

羽柴秀吉軍が築いた付城はまだまだあるのですが、少し飽きてきたので、ここらで別所方の陣を見てみましょう。
訪れたのは鷹尾山城跡、本城である三木城のすぐ南の高台にある要害です。
本によっては、「鷹ノ尾城」と書かれているものもあるのですが、現地看板は「鷹尾山城」となっていたので、拙稿では後者でいきます。

e0158128_20251730.jpg

ここを守っていたのは、別所長治の伯父で後見人でもある別所吉親(賀相)でしたが、三木合戦の最終段階では、長治の弟、別所彦之進友之が守備していました。

e0158128_20272538.jpg

現在は市役所の西隣にある勤労者体育センターの裏山に遺構の一部が残っています。
当時は、「その1」で紹介した長治と妻・照子首塚がある雲龍寺の裏山まで、要害が続いていたそうです。

e0158128_20311793.jpg

市役所などの建設で大部分が破壊されていると聞いていたので、正直、訪れるまではあまり期待していなかったのですが、実際に来てみると、少ない面積ながら立派な遺構がしっかり残っています。

e0158128_20334497.jpg

土塁跡が平らな敷地をL型に囲んでいます。
おそらく郭跡でしょう。

e0158128_2035039.jpg

土塁の外側には、堀跡があります。
で、その堀跡の外側には、また土塁があります。

e0158128_2037436.jpg

案内板などは設置されていませんが、面積が狭いので容易に全形が想像できます。
なかなか見応えがありました。

e0158128_2040284.jpg

天正8年(1580年)1月11日、ここ鷹尾山城は秀吉軍に攻め込まれ、占領されます。
そして、ここから三木城に対して降伏勧告を行ったのだとか。
そして1月17日、降伏した別所一族はみごと自刃します。

「命をも惜しまざりけりあずさ弓 末の世までも名を思う身は」

友之の辞世です。
長治23歳、友之21歳でした。

シリーズは、まだまだ続きます。



「三木合戦ゆかりの地めぐり」シリーズの他の稿は、こちらから。
   ↓↓↓
三木合戦ゆかりの地

ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

by sakanoueno-kumo | 2015-04-30 20:42 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

花燃ゆ 第17話「松蔭、最期の言葉」 その2 ~吉田松陰刑死~

 吉田松蔭の取り調べは、その後、安政6年(1859年)9月5日、10月5日と続きますが、その間、概して取調官らの口調は穏やかで、松蔭に対して温情的な態度だったといいます。しかし、10月16日の訊問では態度が一変し、厳しい口調で口上書が詠み上げられました。そこには、間部詮勝老中に意見を申し述べて、もし耳を傾けてもらえないようであれば、刺し違えるつもりであった、という、松蔭がまったく供述した覚えのない内容が記されていました。これに松蔭は激しく異をとなえます。もとより死は恐れていない、しかし、奉行による権力の奸計には、断固屈しない・・・と。

 「今日義卿奸權ノ為メニ死ス天地神明照鑑上ニアリ何惜ムコトカアラン」
 (全ては天地神明の知るところであり、何を惜しむことがあろうか)


 この取り調べのあと、松蔭は牢役人のひとりから、幕閣が自身を死罪に処するつもりでいることを聞かされたといいます。その話によると、10月5日の吟味まで温情的だった奉行たちは、松蔭の処罰は遠島(流罪)が相当という意見書を幕閣に上申しますが、その意見書は取り上げられず、下された処分は極刑の死罪でした。その刑を下したのは、大老・井伊直弼自身だったと。ドラマでは、「遠島」の上から紙を貼って「死罪」と訂正していましたが、たぶん、このエピソードを元にした演出だと思われます。

 死を覚悟した松蔭は、10月25日から26日にかけて、遺著となる『留魂録』を執筆しました。その冒頭の句が、あの有名な句です。

 「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」
 (この身はたとえ武蔵野地に朽ち果てようとも、この国を思う魂だけは、この世にとどめて置きたい)


 この言葉が、その後松蔭の弟子たちをはじめ、幕末の志士たちを突き動かす原動力になっていくんですね。

 『留魂録』を書き上げた翌日の10月27日朝、松蔭は幕府の評定所にて斬首刑を言い渡されます。そして駕籠にて伝馬町牢屋敷に運ばれ、その日のうちに敷地内の刑場で首が落とされました。享年30歳。このとき松蔭の首を討った御様御用の山田浅右衛門は、後年、松蔭の最後についてこう語っていたそうです。

 「悠々として歩き運んできて、役人どもに一揖(いちゆう)し、『御苦労様』と言って端座した。その一糸乱れざる堂々たる態度は、幕吏も深く感嘆した」

 こうして、吉田松陰の劇的な生涯が幕を閉じました。
 そして、もうひとつ。

 「親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん」
 (子が親を思う心以上に、親が子にかける情は深い。今日の知らせを父母が知ったら、なんと思うだろう)


 有名な辞世の句ですね。哲学的、思想的な名言を数多く残してきた松蔭ですが、最後の最期に彼が残した言葉は、親より先に逝く親不孝を詫びた、実に心のこもった人間らしい言葉でした。後世に狂人と評される吉田松陰ですが、実は普通の感情を持った青年であったことを、この辞世で感じ取ることができます。なんとなく、この句で救われたような気がするのは、わたしだけでしょうか?


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

by sakanoueno-kumo | 2015-04-28 21:24 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)  

花燃ゆ 第17話「松蔭、最期の言葉」 その1 ~間部老中要駕策の自供~

 安政6年(1859年)5月25日、萩から護送された吉田松陰は、6月25日に江戸桜田の長州藩邸に入り、7月9日、伝馬町牢屋敷へと移され、取り調べが始まります。松蔭の吟味を担当したのは、主に寺社奉行松平伯耆守宗秀、大目付久貝因幡守正典、南町奉行池田播磨守頼方、北町奉行石谷因幡守穆清などの5人で、幕府の司法の執行権を持つ役人がすべて揃っていました。

 松蔭にかけられた罪状は主に2つで、ひとつは、すでに捉えられていた梅田雲浜との関係、そしてもうひとつは、京都御所で見つかった落とし文との関係についてでした。雲浜は、松蔭よりもはるかに名の通った尊皇攘夷のカリスマ的志士で、「戊午(ぼご)の密勅」の下賜に関わって大老・井伊直弼の失脚を謀った咎で捕縛され、松蔭が刑死する少し前に獄中死します。その雲浜がかつて長州を訪れたとき、密談して反幕府の政治工作を企てたのではないか、というのが、松蔭にかけられた嫌疑でした。しかし、松蔭は雲浜と面会はしたものの、政治的な結託はしておらず、むしろ、雲浜という人物を快く思っていなかったようで、臆することなく否認します。

 また、幕政を批判した落とし文についても、取調官は筆跡が酷似していると追求しますが、松蔭はまったく身に覚えがなく、だいいち、囚人として蟄居の身でありながら、京のまちで落とし文などといった政治工作を行うのは物理的に不可能であり、言いがかりも甚だしい容疑でした。松蔭はいいます。
「吾性光明正大ナルコトヲ好ム豈落文ナントノ隠昧ノ事ヲナサンヤ」
(わたしは性来、公明正大を好む。落とし文などという隠れごとなどしない。)
と。
その堂々とした受け答えに、取調官は大いに圧倒されたようです。

 このままで終わっていれば、松蔭は大した罪には問われなかったかもしれません。少なくとも命は救われたでしょうね。しかし、ここで松蔭は、常人には理解できない行動にでます。というのも、かつて幕府老中・間部詮勝要駕を企てたことを、訊ねられてもいないのに自ら白状してしまうんですね。なぜ、そのような行動に出たのかはハッキリしませんが、井伊大老と直接話しをするための策というのは、ドラマのオリジナルの解釈であり、フィクションです。だいたいの物語などでは、取調官の巧みな誘導尋問に乗っかったというのが、共通した描かれ方です。光明正大にもほどがありますよね。司馬遼太郎氏の『世に棲む日日』では、このときの松蔭のことを次のように書いています。

 「あほうといえば、古今を通じてこれほどのあほうはいないであろう。松陰は、吟味役の老獪さを見ぬけず、むしろ他人のそういう面を見ぬかぬところに自分の誇るべき欠点があると思っていた。」

 取調官の権謀術数にまんまとかかったのか、あるいは、取調官の老獪さを知った上で、あえて死を決して自供したのか、いずれにせよ、松蔭は自らの行いに一点の曇りもなかったのでしょう。

 「至誠にして動かざるものは未だこれ有らざるなり」

 誠意をもって話をすれば、取調官の心をも動かすことができると思ったのでしょうか?

「余は人の悪を察すること能わず、ただ人の善のみを知る」
「余はむしろ、他人を信じるに失するとも、誓って人を疑うに失することなからんことを欲す」


 これも、松蔭の残した言葉です。
~♪信じられぬと嘆くよりも 人を信じて傷つくほうがい♪~
なんて歌がありましたが、人を信じるということと、聞かれてもしない自分の罪を白状するのとは違うように思います。短慮な失言で政治生命の危機に立たされる政治家は現代でもたくさんいますが、松蔭のそれは、短慮というよりも、むしろ確信犯的に自ら死を呼び寄せたとしか思えない失言ですね。

長くなっちゃったので、明日に続きます。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

by sakanoueno-kumo | 2015-04-27 22:19 | 花燃ゆ | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その11 ~法界寺別所家霊廟~

法界寺山ノ上付城という名称ですから、当然、その山の麓には法界寺というお寺があります。
ここは別所氏の菩提寺として、別所長治の高祖父にあたる別所則治が再興したと伝えられる寺です。

e0158128_20581145.jpg

創建は行基菩薩聖武天皇(第45代天皇)の勅願を奉じて諸国行脚のとき、宝祥祝寿鎮護国家の道場として、虚空山と号して法界寺と名づけたと伝えられているそうです。

e0158128_2101525.jpg

天正8年(1580年)1月17日、羽柴秀吉三木条攻めの兵火によって寺院は焼失しましたが、別所長治が自刃したあと、遺体はこの地に埋葬されたといわれています。
ということは、三木城跡近くの雲龍寺にある首塚は、供養塔ってことですかね?

e0158128_2115925.jpg

その後、豊臣政権下の慶長元年(1596年)、三木城の城代を務めていた杉原伯耆守長房によって再建され、別所氏の五輪石塔および霊廟が建てられました。

e0158128_2154622.jpg

その別所家の霊廟です。
この霊廟は当時のものではなく、文政4年(1821年)に再建されたものだそうです。

e0158128_217441.jpg

長治とその妻・照子の辞世が刻まれた石碑です。

e0158128_2175940.jpg

「東播八郡総兵別所府君墓表」と刻まれた石碑です。
これも文政4年(1821年)に再建されたものですが、初代は、長治の死から98年後の延宝6(1678)年、禅空素伯和尚が三木郡十二町里の民衆に募縁し、この碑を建てて長治の百回忌法要を施したといいます。

e0158128_2110125.jpg

別所氏家臣墓所とあります。
これは、どう見ても最近造られたものでしょう。

e0158128_21101663.jpg

長治の騎馬像です。
これと同じような石像が三木城跡にもありますが(参照:その1)、先日、とある方から教えていただいたのですが、着物が左前死人襟(死人合わせ)になっています。

e0158128_21155320.jpg

写真は2つの石像のアップ、たしかに左前ですよね。
これは駄目でしょう?
両方とも同じときに造られたものかはわかりませんが、ここ法界寺の石像は、「平成15年1月吉日」とあります。
なんで左前なのか、知ってる人がいれば教えてください(教えてくれた人は、中国で造らせたんじゃないか?と言っていました。たしかに、三国志の騎馬武者って感じの顔でした)。

e0158128_21174558.jpg

他にも、法界寺には長治夫妻の位牌および木像、三木合戦記を絵物語にした大幅掛軸があるそうです。
現在でも毎年4月17日には追悼法要が営まれ、掛軸を公開して「三木合戦絵解き」が行われるそうです。
いつか参加してみたいものです。

シリーズはまだまだ続きます。



「三木合戦ゆかりの地めぐり」シリーズの他の稿は、こちらから。
   ↓↓↓
三木合戦ゆかりの地


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

by sakanoueno-kumo | 2015-04-23 21:19 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その10 ~這田村法界寺山ノ上付城・朝日ヶ丘土塁跡~

高木大塚城跡から更に500mほど北上したところに、這田村法界寺山ノ上付城跡があります。
三木城の南西にある標高78m、比高43mの山上に築かれた付城で、現在わかっている付城のなかでは羽柴秀吉の本陣が置かれた平井山付城に次ぐ大きさです。

e0158128_2042931.jpg

『播磨鑑』『別所軍記』によると、城主は秀吉の重臣、宮部継潤と伝わっています。
平成20年(2008年)に発掘調査が行われ、平成25年(2013年)、平井山付城跡などとともに国の史跡に指定されました。

e0158128_20422457.jpg

国の史跡に指定されているところは、すべてこうして案内看板が設置されています。

e0158128_20423625.jpg

登山口です。

e0158128_20432786.jpg

登山用のまで備えてくれています。
ありがたいですね。

e0158128_2046976.jpg

規模が大きいこともあって、平井山付城跡と同じく順路表示が各所に設置され、迷うことはありません。

e0158128_20481046.jpg

傾斜のキツイ登山道ではありますが、観光者用に道は整備されていて歩きにくくはありませんでした。

e0158128_20502635.jpg

段状の平坦地群跡です。
斜面地を削ったり盛ったりして、段状に平坦地を造っています。
こうして斜面をひな壇のようにして、兵が駐屯しやすいようにしているんですね。
写真ではわかりづらいでしょうか?

e0158128_20525356.jpg

副郭に入る虎口跡です。

e0158128_2055839.jpg

副郭跡です。
四方を土塁に囲まれており、主郭より広い面積です。

e0158128_2057817.jpg

主郭の周囲をとりまく横堀跡です。

e0158128_20581817.jpg

主郭に渡る土橋跡です。
虎口の前にあって、周囲の堀を一部堀残すか、あるいは土を盛って造られた橋です。

e0158128_2101998.jpg

で、その土橋を渡ると、主郭に入る虎口があります。

e0158128_2132420.jpg

そして主郭跡です。
火気厳禁です(笑)。

e0158128_215168.jpg

主郭を囲う土塁です。
写真ではわかりづらいですよね。

e0158128_2163279.jpg

馬出状の虎口です。
「馬出し」とは、主たる曲輪の前面に設けられた「出曲輪」状の小空間のことだそうで、「馬出し」の直接の意味は、出撃の際の兵の待機場所を指しているのだそうです。
攻撃型虎口の縄張り手法なんだとか。

e0158128_2174325.jpg

城跡南東にある展望台から見た北東の景色です。
前方約2kmの場所に三木城が見え、さらにその延長線上に秀吉の本陣、平井山付城を見通すことができます。

e0158128_2110111.jpg

城跡南東部は、朝日ヶ丘土塁と呼ばれる多重土塁と連結しています。
多重土塁とは読んで字の如く、土塁を幾重にも重ねて造ったもので、付城と付城をつなぐ防御線だったと考えられています。

e0158128_21102061.jpg

こうすることによって、三木城に兵糧を運び込もうとする荷車の運行を困難にしたわけです。
こうして兵糧攻め包囲網を貫徹していったのでしょうね。
こうして見ると、戦は土木工事で決まるといえるかもしれません。

e0158128_21122712.jpg

さて、次稿はこの山の麓にある法界寺を訪ねます。



「三木合戦ゆかりの地めぐり」シリーズの他の稿は、こちらから。
   ↓↓↓
三木合戦ゆかりの地

ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

by sakanoueno-kumo | 2015-04-22 18:31 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

花燃ゆ 第16話「最後の食卓」 ~松蔭の江戸送り~

 吉田松陰の一度目の野山獄収監は、黒船密航未遂という国禁を犯した罪に対する服役でしたが、二度目の野山獄収監は、まだ何も罪を犯しておらず、いわば、これから犯すかもしれない罪を未然に防ぐためのものでした。これまでも、松蔭という過激な天才に対して、寛大な処置をとってきた長州藩でしたが、この時も、危険な言動を繰り返す松蔭に、罪を犯させないための処置であったといえます。それほど、長州藩は松蔭を守ろうとしていたんですね。このときの藩当局の立場を、司馬遼太郎氏の『世に棲む日日』では、次のように表しています。

 「藩庁は、松蔭の狂気を議論でしずめる自信がなかった。やむなく松蔭の身柄をふたたび野山獄に入れ、社会から隔離し、その自由をうばうことによってかれの暴発をふせごうとした。藩庁の要人である周布政之助らの好意であった。それ以外に藩庁としては、長州藩のほこるべきこの予言者の生命をまもるすべがない、と、藩庁にいる松蔭のファンたちは思ったのである。」

 しかし、その甲斐もなく、松蔭が収監されてから4ヵ月ほどが過ぎた安政6年(1859年)4月、松蔭を江戸に送るよう長州藩に幕命がくだります。こうなると、さすがの藩当局も幕府に逆らうわけにはいかず、松蔭の護送を決定します。そうすると、今度は、藩の立場として違う心配が出てくるんですね。またまた『世に棲む日日』から引用しますと、

 「この時期、長州藩は、松蔭という存在のためにおびえきっていた。幕府が、松蔭を訊問する、この訊問から糸がほぐれ出て、藩そのものに大事がおよびもしないかというお家大事の心配を、たとえば周布政之助という、いわばはねっかえりの進歩派官僚さえもった。」

 吉田松陰という人物に振り回されっぱなしですね。しかし、ただの危険人物であれば、これまでに藩として極刑に処する機会はあったわけで、でも、やらなかったことを思えば、やはり藩としては、松蔭という天才児をなんとか守りたいという思いがあったのでしょう。親の心子知らずですね。

e0158128_2044579.jpg 江戸送りが決まった松蔭との別れを惜しん描かれた肖像画が、後世の私たちに松蔭の姿を印象づけた有名な絵です。これを描いた松浦亀太郎は、武士でも足軽でもない魚屋の子で、ドラマでは温厚で地味な存在に描かれていますが、実際にはなかなかの切れ者だったようで、かつての松蔭と同じく、渡米を企てて失敗したという武勇伝の持ち主です。また、亀太郎は自宅蟄居中の松蔭に、京の情勢などを伝える情報源でもありました。そんな亀太郎を松蔭は愛し、「松洞」という号を与え、「才あり、気あり、一奇男子なり」と、高く評価しています。

 松蔭の生涯唯一のラブロマンスの相手(とされる)、高須久子との別れのシーンがありましたね。通説によると、江戸に護送される直前、久子は餞別がわりに手作りの汗拭きを松蔭に贈ったといいます。これに対して松蔭は、
 「箱根山 越すとき汗の 出でやせん 気の思ひを ふき清めてん」
という和歌と、
 「一声を いかで忘れん 郭公(ほととぎす)」
という俳句を、久子に贈りました。この種の歌を意訳するのは無粋というものですが、「あなたのその声を、どうして忘れられようか・・・」といったところでしょうか? この、気持ちをそのまま詠んだといえる句を聞けば、やはり、松蔭と久子のあいだには、特別な感情があったと思ってしまいますね。

 そして、安政6年(1859年)5月25日、松蔭の護送行列は萩を出立します。家族や門下生たちは、松蔭に厳しい処分が下るであろうことを予想して大いに悲しみ、どうすれば助けることができるか思いをめぐらせますが、そんな周囲の心配をよそに、当の松蔭本人は生に対して特に執着しておらず、むしろ、江戸での取り調べにおいて自身の考えを主張し、幕政に一石を投じるチャンスと考えていた様子すらうかがえます。ここでまた、司馬さんの言葉を引用します。

 「その楽天性は、もはや滑稽どころか、悲痛をもとおりこしてしまっている。」

 いうまでもなく、これを最後に松蔭は、二度と故郷の地を踏むことはありませんでした。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

by sakanoueno-kumo | 2015-04-20 20:49 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その9 ~高木大塚城跡~

シクノ谷峯構付城から更に北へ500mほどのところに、高木大塚城跡があります。
ここも、三木合戦における織田方の付城で、絵図『三木城地図』に描かれているものですが、どういうわけか、現地看板などの記載は「大塚城」となっており、名称に「付城」という言葉が入っていません。
なんででしょうね?

e0158128_21215949.jpg

この周辺には高木古墳群と呼ばれる5~6世紀の古墳が多くあり、この付城は、それらのなかでもっとも大きな古墳を利用して築かれた付城と考えられています。
そこで、大きな塚を利用した「大塚城」という名称になりました。

e0158128_21245265.jpg

現地看板の説明文によると、曲輪は主郭のみで、櫓台を中心に配し、その周囲を十字の形に土塁で囲み、南西に虎口(出入り口)を設けています。
曲輪の広さは約3,600㎡で、古墳が所在する周囲を含めると約6,500㎡が残っているそうです。

e0158128_21264698.jpg

古墳を利用した櫓台は、一辺約20mの隅丸方形を呈する高さ約5mを測る規模で、周囲を高さ150cmほどの土塁が囲んでいます。

e0158128_21282718.jpg

とにかく、この付城の遺構の保存状態は素晴らしく、これまで見てきた他の付城とは比べものにならないほど立派な土塁が残されています。

e0158128_21301712.jpg

また、土塁が十字型に四方に張り出した形をしていて、変わった構造をしているのが興味深いところです。
この独特の土塁のかたちは、正面だけでなく側面からも攻撃できるように意識し築いたもので、これを横矢掛りと呼んでいるそうです。

e0158128_21311232.jpg

いまいち写真では伝わりづらいですね。

e0158128_21325720.jpg

他の付城のほとんどは現在も山の上にあるのですが、ここ高木大塚城は、住宅街の一角にあるので訪れやすく、城の全体像が素人でも容易に想像できます。
わたしが訪れたときは、ここを散歩していたご老人が主のように解説してくれました(笑)。

e0158128_21341824.jpg

ここを守っていた武将はわかっていませんが、たぶん、明石道峯構付城やシクノ谷峯構付城と同じく、小林伝右衛門が作図した絵図『三木城地図』に描かれており、織田信忠が築城した三木城包囲網の第二期の付城と考えられています。
約500m間隔で連なっていますからね。

で、次はここから更に500mほど北上したところの、法界寺山ノ上付城を訪れます。

三木合戦ゆかりの地めぐり その1 ~三木城跡~
三木合戦ゆかりの地めぐり その2 ~秀吉本陣(平井山付城)跡~
三木合戦ゆかりの地めぐり その3 ~竹中半兵衛墓所~
三木合戦ゆかりの地めぐり その4 ~もうひとつの竹中半兵衛墓所~
三木合戦ゆかりの地めぐり その5 ~平田村付城跡・平田村山之上付城跡・大村城跡~
三木合戦ゆかりの地めぐり その6 ~谷大膳墓所~
三木合戦ゆかりの地めぐり その7 ~明石道峯構付城跡~
三木合戦ゆかりの地めぐり その8 ~シクノ谷峯構付城跡~
三木合戦ゆかりの地めぐり その10 ~這田村法界寺山ノ上付城・朝日ヶ丘土塁跡~
三木合戦ゆかりの地めぐり その11 ~法界寺別所家霊廟~
三木合戦ゆかりの地めぐり その12 ~三木城鷹尾山城(鷹ノ尾城)跡~
三木合戦ゆかりの地めぐり その13 ~淡河城跡~
三木合戦ゆかりの地めぐり その14 ~端谷城跡~
三木合戦ゆかりの地めぐり その15 ~福谷城跡~
三木合戦ゆかりの地めぐり その16 ~枝吉城跡~
三木合戦ゆかりの地めぐり その17 ~池尻城跡~
三木合戦ゆかりの地めぐり その18 ~加古川城跡(称名寺)~
三木合戦ゆかりの地めぐり その19 ~野口城跡(教信寺・野口神社)~
三木合戦ゆかりの地めぐり その20 ~神吉城跡(常楽寺・神吉神社)~
三木合戦ゆかりの地めぐり その21 ~生石神社(石の宝殿)~
三木合戦ゆかりの地めぐり その22 ~志方城跡(観音寺)~
三木合戦ゆかりの地めぐり その23 ~太閤岩~
三木合戦ゆかりの地めぐり その24 ~中道子山城(赤松城)跡~
三木合戦ゆかりの地めぐり その25 ~安楽寺・円照寺~
三木合戦ゆかりの地めぐり その26 ~井ノ口城跡・見登呂姫の石仏~
三木合戦ゆかりの地めぐり その27 ~高砂城跡(高砂神社)~
三木合戦ゆかりの地めぐり その28 ~御着城跡~
三木合戦ゆかりの地めぐり ~史跡分布図~



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

by sakanoueno-kumo | 2015-04-15 21:36 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

花燃ゆ 第15話「塾を守れ!」 ~松蔭獄中の過激政治工作~

 安政5年(1858年)12月、幕府老中・間部詮勝暗殺を企てた罪で再び野山獄につながれた吉田松陰でしたが、それでも計画をあきらめきれず、江戸にいる久坂玄瑞高杉晋作に計画の実行を要請します。しかし、松下村塾の龍虎と呼ばれた秀才ふたりの意見も、他の塾生たちと同じく、とうてい賛成できるものではありませんでした。ふたりは、その旨をしたためた手紙を松蔭に送り、なんとか師を思いとどまらせようとしますが、そんな彼らに対して、松蔭はあろうことか絶交状を送りつけます。師の身を案じての諌言だったのに、なんとも理不尽な話ですね。玄瑞も晋作も、たいそうショックだったことでしょう。

 この時期の松蔭の過激さは、一種の狂気をおびていて、間部老中暗殺計画のみならず、水野忠央暗殺計画、伏見獄舎破獄策、大原三位下向策、伏見要駕策など、次々に過激な政治工作をはかります。水野忠央暗殺計画は、南紀派の中心的存在だった紀伊藩の家老・水野忠央の命を奪おうとする計画で、伏見獄舎破獄策は、捉えられた梅田雲浜らが入獄されている伏見の獄舎を襲撃し、彼らを救出しようというものでした。松蔭は、これらの計画を門下の松浦松洞、赤禰武人に指示しますが、いずれも計画倒れに終わっています。

 次の大原三位下向策は、尊皇攘夷派の公家・大原重徳とその息子を長州藩に迎え、彼らを擁して、長州藩を中心とする諸藩で挙兵しようという計画で、特に松蔭はこの計画に思い入れがあったようで、再三再四、獄中から塾生らに賛同を求める書状を送っています。これを見かねた小田村伊之助が、安政6年(1859年)1月9日に、塾生すべてがこの策に反対であると伝えますが、それでもあきらめられない松蔭は、翌日に前原一誠ら3人の塾生に書状を送り、脱藩して計画を実行するよう要請しています。完全に狂気の沙汰といえますね。

 で、ドラマで描かれていたのが、最後の伏見要駕策です。この計画は、参勤交代で江戸に向かう途中の長州藩主・毛利敬親の籠にとりすがり、伏見から京都に向かわせ、大原重徳らと合流して御所に参内し、孝明天皇(第121代天皇)の勅命を得て幕府の失政を正そうというものでした。この頃になると、ほとんどの塾生たちが松蔭と距離をおきはじめ、野山獄への訪問や文通を控えていました。見放していたというわけではないのでしょうが、矢継ぎ早に実行不可能と思える指示を発してくる師に対して、ついていけなくなっていたというのが正直なところだったでしょう。

 それでも、入江九一野村靖の兄弟だけが松蔭との交流を続けており、そのせいで、弟の靖が脱藩して京都に向かい、この計画を実行することになります。しかし、それを知った前原一誠らが小田村伊之助に相談し、伊之助が差し向けた追手に説得された靖は、踏みとどまって藩当局に自首。兄ともども岩倉獄に投獄されます。気の毒な話ですが、そのまま計画を実行すれば間違いなく死罪だったわけで、そう思えば、未遂で終わって良かったといえます。

 最後まで手足となってくれていた九一・靖兄弟が獄につながれたことで、松蔭の獄中での政治工作は、事実上、実現不可能となります。藩当局は、そのために兄弟を投獄したのかもしれませんね。絶望と孤独の淵にいたであろうこのときの松蔭は、どんな思いを巡らせていたのでしょうか。われわれ凡人には、その胸中は計り知れません。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

by sakanoueno-kumo | 2015-04-14 22:08 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その8 ~シクノ谷峯構付城跡~

前稿の明石道峯構付城から西へ500mほどのところにあるのが、シクノ谷峯構付城です。
「シクノ谷」とは変わった名称ですが、「宿の谷」と呼ばれる谷に張り出す尾根の先端部に築かれていることから、「シクノ谷峯構」という名称になったそうです。

e0158128_21271481.jpg

入り口には看板が設置されていて、登山路も整備されていてわかりやすくなっています。

e0158128_21274425.jpg

説明看板によると、曲輪は、主郭腰郭から構成され、主郭は四方を土塁で囲んだ東西約45m、南北約25~40mの規模で、南端の土塁中央部には約5×6mの方形の櫓台を築き、北西隅と北東隅の虎口から続く腰郭は、主郭のような土塁囲みではなく、削平などの整地により平坦部を造り出しています。

e0158128_2130638.jpg

主郭、腰郭を合わせた付城の範囲は約3000㎡で、西に隣接する平坦部を含めると約4600㎡あるそうです。

e0158128_21312244.jpg

案内板はありませんが、素人が見ても、遺構がはっきり見て取れます。

e0158128_21335721.jpg

こんもりと土が盛られた遺構は、たぶん櫓台の跡でしょう。

e0158128_2135729.jpg

主郭跡にある土塁です。

e0158128_21361193.jpg

城跡東側の景色です。
バイパス道路の向こうに見える低い山が、明石道峯構付城です。

e0158128_21373222.jpg

ここシクノ谷峯構付城も明石道峯構付城と同じく、小林伝右衛門が描いた絵図『三木城地図』に描かれていましたが、平成6年(1994年)に、このすぐ北に開園した三木ホースランドパークの建設事業中に、所在が確認されたそうです。
ここを守った武将については、残念ながらわかっていないようですが、おそらく、明石道峯構付城と同じく織田信忠が築城した6ヵ所の付城のうちのひとつと考えられています。

さて、次稿は高木大塚城跡を訪ねます。



「三木合戦ゆかりの地めぐり」シリーズの他の稿は、こちらから。
   ↓↓↓
三木合戦ゆかりの地


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

by sakanoueno-kumo | 2015-04-10 21:40 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その7 ~明石道峯構付城跡~

羽柴秀吉の本陣が置かれた平井山付城や、谷大膳の墓所がある平田村付城は、三木城の北側にありますが、秀吉のつくった付城は三木城を中心として360度くまなく包囲しており、南側にも現在多くの遺構が確認されています。
まず訪れたのは、三木城から直線距離にして1.5kmほど南に築かれた明石道峯構付城です。

e0158128_20565720.jpg

国道175号線の東沿いにある小さな山の上にある付城跡で、山の周囲はミニゴルフ場となっています。

e0158128_20584723.jpg

天保12年(1841年)に描かれた小林伝右衛門という人物によって作図された絵図『三木城地図』には描かれていましたが、平成11年(1999年)の道路拡張工事で所在が確認されるまで、その存在は明らかではなかったのだとか。
その後、三木合戦に関する貴重な史料として、破壊せずに三木市が管理しているそうです。
三木市の行政に感謝です。
登山道は綺麗に整備されていて、説明板や遺構の表示板も設置されていてたいへんわかりやすくなっています。
先日の遭難しかけた平田村山ノ上付城跡とは、ぜんぜん違いますね。
わたしのような素人向けの遺構です。

e0158128_2124937.jpg

主郭跡に設置された説明板です。

e0158128_2143232.jpg

縄張り図です。
主郭跡は約1,100㎡、東郭跡は約3,300㎡あるそうですから、ずいぶん規模の大きな付城だったことがわかります。

e0158128_2163100.jpg

上の写真は、その主郭跡です。

e0158128_2171323.jpg

西郭跡です。

e0158128_2110770.jpg

主郭と東郭を結ぶ虎口跡です。

e0158128_21102050.jpg

虎口の両サイドは、土塁が積まれています。

e0158128_21121728.jpg

上の写真は、もっとも広い東郭跡です。
建物があったかどうかは、わかっていません。

e0158128_21133712.jpg

その東郭の外にある堀跡です。

e0158128_21173545.jpg

史料によれば、三木城攻めが開始されてから1年近く経った天正7年(1579年)2月の平井山合戦に勝利した織田軍は、その後、織田信忠によって三木城の南側に付城が6ヵ所築かれ、魚住からの兵糧搬入経路が塞がれます。
やむなく迂回して北西からの搬入することになり、前稿で紹介した平田大村合戦に繋がっていきます。
そのとき造られた6ヵ所の付城のひとつが、ここ明石道峯構付城だった可能性が高いようです。

e0158128_21175024.jpg

下山道に、ここから約500m西にあるシクノ谷峯構付城への誘導表示がありました。
次稿はここを訪れます。



「三木合戦ゆかりの地めぐり」シリーズの他の稿は、こちらから。
   ↓↓↓
三木合戦ゆかりの地

ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

by sakanoueno-kumo | 2015-04-09 21:20 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)