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三木合戦ゆかりの地めぐり その19 ~野口城跡(教信寺・野口神社)~

加古川評定での決別により別所氏の籠る三木城を包囲した羽柴秀吉軍でしたが、堅固な三木城を短期間で落とすのは難しいと判断し、まずは周囲の支城から攻め落とし、三木城を孤立無援にする作戦に出ます。
その最初の標的となったのが、『別所長治記』「播州一ノ名城」と記されていた野口城でした。

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写真は教信寺という寺院の山門です。
ここにも、加古川城跡と同じ『軍師官兵衛』の観光誘致看板がありました。

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看板には、「教信寺(野口城跡)」と表記されていましたが、実際には、野口城の正確な位置はわかっていないようです。

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野口城の築城時期についても詳しくわかっていませんが、三木合戦時の城主は別所氏の重臣・長井長重でした。
野口城は四方を沼田に囲まれた要害でしたが、秀吉は数万荷分を麦や草木でこれを埋め立て、三日三晩休みなく攻撃を続け、降伏させたといいます。

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境内の写真です。
伝承によると、ここ教信寺も戦火に巻き込まれて全焼しましたが、同寺の僧兵・不動坊海長、経蔵坊春盛らが野口城方に参戦し、奮戦したと伝えられます。

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写真は、教信寺から100mほど西にある野口神社です。

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この野口神社と教信寺のに野口城があったとも考えられているそうです。
伝承によると、野口城は長さ43間(約83m)横21間(約42m)の丘陵であったとされますから、たしかに、大きさ的にはバッチリの敷地かもしれません。
ただ、現在、神社と寺の間は平坦な住宅地と畑で、丘陵地ではありません。

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それでも、何か城跡を思わせるような手掛かりはないかと付近を歩いてみると、新しい家が並ぶ中に、妙に周りに馴染まない空間を見つけました。
近寄ってみると・・・。

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古いがありました。
そこに記されている看板を見ていると・・・。

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消えかかって読みにくいですが、「野口城趾」とあります。
あとは読めないのですが、どうやら、野口城に関連した祠のようです。

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背後には、古い樹木と盛土があり、なんとなく遺構っぽい雰囲気でしたが、定かではありません。

さて、次稿は野口城の次に攻撃された神吉城跡を訪ねます。



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by sakanoueno-kumo | 2015-05-29 16:02 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その18 ~加古川城跡(称名寺)~

続いて加古川市にやってきました。
加古川市にも、三木合戦ゆかりの史跡が数多くあるのですが、まずは、三木合戦の発端となった加古川評定の舞台、加古川城跡を訪ねます。

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現在、城跡には称名寺という寺院が建てられており、城の遺構は残っていません。
城は元和元年(1615年)に破却されたと伝えらているそうで、ちょうど今年で400年ですね。

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加古川市は黒田官兵衛の妻・の出生地ということで、昨年の大河ドラマ『軍師官兵衛』にあやかった観光誘致が熱心だったようで、いたるところにこのデザインの看板が立てられていました。

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天正6(1578)年2月、織田信長から中国の毛利攻めを任されていた羽柴秀吉は、播磨国の領主たちをこの地に一同に集めて、中国攻めに向けての軍議を開きます。
その軍議の場で、三木城主・別所長治の代わりに出席していた叔父の別所吉親(賀相)が秀吉と衝突し、これをキッカケに別所氏は秀吉に叛旗を翻します。
東播磨一の実力者である別所氏が毛利方に寝返ったことにより、周辺諸氏たちが次々と別所氏に同調していきます。
播磨を反毛利氏で結束させたいという秀吉の思惑で開催した加古川評定は、逆効果に終わってしまい、ここから、約2年に及ぶ三木城攻めが始まるんですね。

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山門を入ると、中央にいちょうの巨樹があります。
今は刈り込まれていますが、この木は昔から加古川の町の目印だったそうです。
あるいは、加古川評定を見ていたかもしれません。

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加古川城の城主は、のちに賤ヶ岳七本槍のひとりとなる糟谷武則で、別所氏に仕える身でありながら、早くから秀吉とよしみを通じていたと言わる人物です。
境内には、糟谷家の墓があります。

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三木合戦とは関係ありませんが、境内には、地人が憐れんで建てた南北朝時代の7人の武者の七騎供養塔があります。
詳しくは看板を読んでください(笑)。


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城の面影はまったく残っていませんが、歴史が大きく動いた場所に立つと、何だか言い知れぬ感動を覚えますね。

次回に続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2015-05-27 23:58 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

花燃ゆ 第21話「決行の日」 ~高杉晋作の暴挙と馬関海峡の攘夷決行~

 処刑された当初の吉田松陰の遺骸は、小塚原刑場へ埋葬されていました。通常、幕法により刑死人の遺骸は捨ておかれることになっていましたが、長州藩の藩医で飯田正伯という人物が獄吏に賄賂を渡して遺骸の引き渡しを懇願し、特別に許しを得たといいます。遺骸の引き取り、埋葬に奔走したのは、伊藤俊輔、桂小五郎らでした。

 それから3年半が経った文久2年(1862年)8月、かつての安政の大獄によって刑を受けた者たちの名誉を回復する勅書が発せられたことに伴い、松蔭の埋葬場所に墓碑が建設されましたが、刑死者の埋葬場所にそのまま置いておくのは適切ではないという声が上がり、その翌年の1月には、遺骨は武蔵若林村の大夫山へと改葬されます。この改葬を発案、実行したのは、高杉晋作、伊藤俊輔らでした(ドラマでは伊藤は萩に残っていましたね。このあたり、どちらが正しいのかわかりません)。

 この改葬を指揮した高杉晋作は、陣羽織騎馬姿という戦装束でした。そして松蔭の遺骨を入れた柩を中心に列をなし、悠然と歩を進めます。それを見たひとびとは、皆どよめいて道をあけたといいます。

 道中、一行は徳川家将軍代々の廟所がある寛永寺にさしかかります。寛永寺には「三枚橋」と呼ばれる三つの橋が並んでかけられていましたが、その中央の橋は、将軍が寛永寺に参拝するときのみに使用されていた橋で、将軍以外の者がその橋をわたることは許されていません。そこを、晋作率いる一行は、押し通っちゃうんですね。もちろん、わざとです。当然、それを見た橋の番人は通行を阻止しようとしますが、晋作はそれを払いのけ、「勤王の志士吉田松蔭の殉国の霊がまかり通るのだ」と言い放って強行します。さらに、追いすがって名を名乗れと叫ぶ番人に対して、晋作は馬上ふりかえり、「長州浪人高杉晋作」と言い放ったとか。この暴挙の知らせは、すぐさま幕閣へ届きますが、普通なら、即刻打首に処せられる行為ですが、幕府は長州藩との摩擦を嫌って不問に付したといいます。

 いかにも高杉晋作らしい痛快なエピソードですが、この逸話が実話かどうかは定かではありません。しかし、この時期になると、これほどまでに幕府の権威は落ちていたということがわかるエピソードです。

 幕府の権威の失墜にまつわるエピソードでいえば、もう一つ。同じ年の3月、第14第将軍徳川家茂が、将軍としては229年ぶりに上洛します。京に入った家茂は、早速、上賀茂神社下鴨神社攘夷祈願に行幸する孝明天皇(第121代天皇)のお供をさせられます。天皇のお供をするということは、将軍が天皇の下であるということを世に知らしめる行為であり、これを画策したのが、久坂玄瑞を中心とする長州藩攘夷派でした。この時期、京では長州藩が朝廷をほぼ牛耳って動かしていました。

 この行列の見物人のなかにいた高杉晋作は、人々が土下座して平伏すなか、ひとり顔を上げて「いよう!征夷大将軍!」と、まるで舞台の歌舞伎役者に声をかけるような冷やかしの声を浴びせたといいます。これも本来であれば、その場で斬り捨てにされるべき無礼極まりない行為でしたが、この行列は天皇の権威の行列であり、将軍はあくまで“お供”にすぎません。晋作の声は将軍の供回りにいる旗本たちの耳にも入っていたでしょうが、勝手に飛び出して天皇の行列を乱すわけにはいかず、黙って耐えるしかなかったんですね。

 このエピソードも、実話かどうかは定かではありません。後年の山縣有朋などの話で、このとき晋作が何かを大声で叫んだことは間違いないようですが、それがどんな言葉だったかは、いろんな説があるようです。ただ、いずれにせよ、将軍が天皇のお供として付き従ったのは事実で、このときヤジが飛んだとしても、どうすることも出来なかったのも間違いなかったことでしょう。それだけ、幕府は軽んじられはじめていたわけですね。

 さらに晋作は、将軍暗殺計画まで口にし始めました。しかし、そんな晋作の過激な行動を恐れた久坂玄瑞や周布政之助らは、晋作を激しく詰問します。すると程なく、晋作は髪を剃り、法名を東行と名乗って出家するといいだしました。10年間、賜暇をもらいたい・・・と。周囲の者たちはきっと呆然としたでしょうね。とにかく、やることなすこと奇想天外、凡人の頭では理解しがたい晋作の行動。この非凡な生き方が、後世に人気の高い所以なんでしょうが、同時代に生きていた関係者たちは、振り回されっぱなしでたまったもんじゃなかったでしょうね。

 さて、本話のタイトル「決行の日」についてですが、「決行」とは即ち攘夷決行のことで、上洛していた将軍家茂は、朝廷から攘夷の実行を執拗に迫られ、これを応対していた将軍後見職の一橋慶喜は、なんとか誤魔化そうといろいろ手立てを講じますが、結局は天皇に押し切られるかたちで、「攘夷の期日を5月10日とする」と約束させられます。そして、4月22日に諸大名に公示されるのですが、そもそも幕府にしてみれば、攘夷実行の意思などさらさらなく、その場の逃げ口上にすぎなかった約束でした。諸大名たちのほとんども、空気を読みながら様子を伺っていました。ところが、長州藩だけが、約束どおり5月10日に砲門を開きます。彼らは、馬関海峡を通ったアメリカ商船ペンブローク号に発泡。相手は軍監ではなく商船ですから、逃げるしかありません。更に23日にはフランス軍監キャンシャン号にも、また26日にはオランダ軍監メデューサ号にも砲撃しました。このとき中心となっていたのが、ほかならぬ久坂玄瑞だったんですね。逃げていく外国船を見て長州藩士たちの意気は大いに上がったといいますが、ここから、幕末における長州藩の墜落が始まったともいえます。


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by sakanoueno-kumo | 2015-05-26 15:24 | 花燃ゆ | Trackback | Comments(0)  

サザンオールスターズLIVE2015『おいしい葡萄の旅』大阪会場レポ!

先日の日曜日、京セラドーム大阪で開催されたサザンオールスターズLIVEに行ってきました。
わたし個人的には、一昨年夏の神戸会場以来のLIVEです(参照:サザンオールスターズ復活LIVE in 神戸なう!)。
今回の全国ツアーは、題して「おいしい葡萄の旅」
10年ぶりにリリースされたオリジナルアルバム『葡萄』を引っさげてのツアーです。
なんで春なのに「葡萄」なのかって?
それはサザンに聞いてください(笑)。

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開演は17時だったのですが、13時頃には現地入りしました。
会場の雰囲気を味わいながら気分を高める、これ、コンサートの醍醐味です。

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装飾も賑やかです。

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この日一緒に行ったのは、友人と無理やり連れてこられた中2の娘と。

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娘は大好きな関ジャニ∞のLIVEは行ったことがないのに、親につきあってサザンは2度めです。
考えてみれば、サザンがデビューしたのはわたしが小学校6年生のときで、それからずっとファンを続けてきたのですが、そのわたしは今や48歳となり、中学生の娘とこうしてLIVEに来るなんて、子供の頃には思ってもみなかったですね。
そんなことが出来るのも、それだけ長い間彼らがずっとトップであり続けているからで、あらためて、サザンのすござを実感させられます。

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グッズ売り場で、3,500円のTシャツと、娘に1,500円のブレスレットを購入。

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まだツアーは続いているので、セットリストは言いませんが、1曲目のイントロから鳥肌ものでしたね。
この日も約3時間半、ぶっ通しで立ちっぱなしでした。
2年前のLIVEのときの桑田佳祐さんは、病み上がりということもあってか少し抑え気味に感じましたが、今回はパワー全開でしたね。
もうすぐ還暦とは思えません。

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ところで、この日の大阪は『大阪都構想』住民投票が行われた日だったのですが、ここに来ていた4万人の方々は、それどころじゃなかったんじゃないでしょうか?
わたしは神戸市民なので投票権はなかったのですが、この日は朝からサザンモードで、夜帰宅するまで住民投票のことはすっかり忘れてましたよ。
投票率66.8%という驚異的な数字だったようですが、ここに来ていた人の投票率は、たぶんめっちゃ低かったんじゃないかと・・・。
まあ、4万人すべてが大阪市民というわけではありませんが、サザンファンの圧倒的多数は30歳代~50歳代で、その世代は、『大阪都構想』に賛成多数だった世代でもあります。
投票の差はわずか1万票余りの決着だったそうですから、もし、LIVEに来ていた方々が投票に行っていたら、あるいは結果は違っていたかも・・・?
『大阪都構想』を潰したのはサザンだったかもしれません(笑)。
橋下徹市長も、まったく想定外だったでしょうね(笑)。

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上の写真は、LIVEの終わりに桑田さんの号令で撮影した会場全体の記念写真
ファンサイトでダウンロードできます。
SNSなどで自由にお使いください、とのことでした。
昔は、コンサート会場に入るときはカメラなどの持ち物検査をされたりしたものでしたが、今やスマホ携帯があるからそんなことをしても無意味で、スマホで撮影してすぐTwitterとかにアップされちゃったりしますから、だったら、いっそ公式にそれ用の写真を提供しよう、ということなんでしょうね。
さて、わたしはどこにいるでしょう?(笑)

とにかく、最高の夜でした。
次は何年後かな?


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by sakanoueno-kumo | 2015-05-21 22:14 | 芸能 | Trackback | Comments(0)  

花燃ゆ 第20話「松蔭、復活!」 ~イギリス公使館焼き討ち事件~

 『航海遠略策』が長州藩の藩論に採用され、藩の中老に昇進した長井雅楽は、京に赴き公武の周旋活動に奔走していましたが、公武合体派の幕府老中・安藤信正、久世広周が文久2年(1862年)1月に起きた坂下門外の変で襲撃されて失脚すると、たちまち藩内の攘夷派が勢力を盛り返し、長井排斥運動が激しくなります。長井は同年3月に再び上京し、朝廷、公家への働きかけを展開しますが、久坂玄瑞ら攘夷派は弾劾状を藩主に提出するなど、長井の追い落とし工作を強めます。一方で、玄瑞らは朝廷に対して、「長井の主張のなかに朝廷を誹謗する文言がある」などと主張し、長井の立場はいよいよ悪くなっていきます。そして同年6月、藩主・毛利敬親は藩論を『航海遠略策』から『破約攘夷』へと切り替え、長井の役職を剥奪、帰国を命じました。

 前話の稿でも述べましたが、長井の提唱した『航海遠略策』は、後世の目からみればこの時期もっとも優れた見識だったといえます。しかし、政治というのは、機を見るに敏でなければならないんですね。どんな正論を吐いても、それがどれだけ良策であっても、追い風に乗らなければ支持されない。機を見るのを間違えれば、昨日までの英雄もたちまち失脚してしまいます。『大阪都構想』橋下徹氏と同じですね。

 同じ年の10月、孝明天皇(第121代天皇)は勅使の三条実美、姉小路公知を江戸に送り、幕府に攘夷の決行を迫ります。これを受けた幕府は、返答を引き延ばす作戦に出たため、全国の攘夷派の反発はいっそう高まります。そんななか、長州藩内攘夷派の中心的存在となっていた久坂玄瑞、高杉晋作らは、この状況下において、「世間の度肝を抜くようなことをしよう!」という思いを強くします。そこで、彼らは当初、横浜の外国人居留地の襲撃を計画しました。しかし、この計画を耳にした毛利元徳(次期藩主)は、勅使が江戸滞在中であることを理由に、晋作に襲撃を思いとどまるよう説得し、江戸藩邸での謹慎を命じました。

 やむなく、計画を断念した晋作らでしたが、今度は勅使が江戸を離れたあとに実行する新たな計画を立案します。その計画は、江戸の御殿山に建設中だったイギリス公使館焼き討ちするというもの。そしてその実行部隊として御楯組なる組織を作ります。そのメンバーは、高杉晋作、久坂玄瑞をはじめ、井上聞多、伊藤俊輔、寺島忠三郎、松島剛蔵小田村伊之助の兄)、品川弥二郎、堀真五郎ら十数人。顔ぶれを見ると、井上と松島を除いて、他は松下村塾門下生ばかりで、しかも、吉田松陰が目を掛けていた者ばかりです。生前、どんどん過激さを増す松蔭を持て余し気味だった彼らでしたが、結局、その過激なDNAは引き継がれていたんですね。

 ドラマで描かれていたのは実行前まででしたが、この先もいっちゃいます。文久2年(1862年)12月12日、彼らは手際よく計画を実行し、公使館はたちまちのうちに全焼しました。放火後、一目散に逃げ出し、近くの妓楼に登った晋作らは、全焼する公使館をながめながら酒盃を傾け、実に上機嫌だったといいます。結局、江戸幕府はこの放火の犯人を特定することができないまま、やがて瓦解してしまいます。事件の真相が明らかになったのは、ずっと後年、明治政府において栄達した伊藤博文井上馨が、「自分たちが公使館に放火した」暴露したことによります。そのときの彼らは、やはり上機嫌だったとか。時の総理大臣が放火の前科を誇らしげに語るというのもどうかと思いますが、考えてみれば、明治政府初期の大臣たちは、ほとんどが人殺しの経験があるんですよね。そら、肝が座ってたはずです。


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by sakanoueno-kumo | 2015-05-19 21:04 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)  

大阪都構想の夢ついえた橋下徹市長に告ぐ、志士は溝壑に在るを忘れず。

橋下徹大阪市長が推し進めてきた大阪都構想否決されましたね。
関西のテレビやラジオでは、今日1日その話題でもちきりです。
投票率66.8%という地方選では考えられない高い関心度を示した住民投票だったようですが、結果は反対が70万5585票、賛成の69万4844票という、わずか1万票余りの差での決着でした。
ただ、その結果を世代別で見ると、反対多数だったのは70歳代以上だけで、20歳代~60歳代は、いずれも賛成派が上回っていたそうですね。
年配の方にしてみれば、現在「市」から受けている福祉が削減されるかもしれないという不安に駆られてのことでしょうが、若い世代にとっては、10年後、20年後を見据えての判断だったのでしょう。
言葉は悪いですが、若者の希望を年寄りが潰したということになりますね。
わたしはお隣の兵庫県民なので投票権はなかったのですが、大阪の財政問題は関西全体の経済にも関わる問題で、当然、無関心ではいられるはずがありません。
そうですが・・・否決ですか・・・。
正直、残念ですね。

橋下さんのやり方も、もっと方法があったような気がしますね。
自身の人気を過信しすぎたのか、真っ向勝負しすぎだったんじゃないでしょうか?
良く言えば公明正大、悪く言えばバカ正直というか・・・。
それが彼の魅力といえばそうなんでしょうが、政治家はときには権謀術数も必要だと思いす。
やろうと思えば方法はあったと思うんですけどね。
たとえば、自民党府連は反対の立場をとっていましたが、菅義偉官房長官なんかは「個人的には賛成」などと言っていましたし、首相官邸サイドにしてみれば、橋下さんを敵に回したくない思惑があったわけでしょう。
だったら、それを利用しない手はないですよね。
その「思惑」交換条件にすれば、安倍晋三首相の援護射撃を取りつけることも出来たんじゃないでしょうか?
安倍さんもこの土日、関西に来てたしね。

この結果を受けて、橋下徹大阪市長は12月の任期満了で政界を引退するそうですね。
政治生命を賭けて臨んだ政策だっただけに、大阪都構想の終焉は政治家・橋下徹の終焉といったところなんでしょうが、これまた、少々カッコ良すぎるんじゃないでしょうか?
大阪都構想の夢は潰えましたが、賛成派がほぼ半数近くいたわけで、ましてや、今回の投票は大阪都構想への賛否であり、橋下市政ならびに政治家・橋下徹を否定したわけではありません。
市政は都構想だけではないですしね。
志尽きたからには、武士らしく潔く切腹・・・といえば、なるほど戦士の美学かもしれませんが、自身が代表を務める「大阪維新の会」の語源である「明治維新」の原動力となった吉田松陰の言葉に、次のようなものがあります。

志士は溝壑に在るを忘れず(志士不忘在溝壑)
勇士は其の元を失ふを忘れず(勇士不忘喪其元)


「志士は山野の溝に自分の遺体を晒すことを恐れてはならない」
「勇士は斬首されることを恐れてはならない」

ということです。
潔く切腹なんてのは、所詮は逃げ口上で、高い志を持った志士は、首をもがれて遺体を溝に捨てられるまで、戦い続けるべきである・・・と。
たしか、小泉純一郎元首相も、施政方針演説でこの言葉を引用していましたね。
その人気の高さや政治姿勢が、よく小泉さんと比較された橋下さんでしたが、その意味では、橋下さんの政治家としての首は、まだ繋がっていますよね。
まあ、今は精も根も尽き果てたといった状態かもしれませんが、少し頭を冷やして、もう一度考えなおして欲しいと思います。
わたしはこれまでも橋下さんに対して、たびたび厳しいことを言ってきましたが、それだけ期待していたということで、このまま幕を引くというのであれば、残念ながら、その程度の政治家だったのか・・・と、思わざるを得ません。
そうならないことを期待しています。


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by sakanoueno-kumo | 2015-05-18 22:07 | 政治 | Trackback | Comments(2)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その17 ~池尻城跡~

今回は、三木市の北に位置する小野市にやってきました。
大歳神社という名称の小さな祠の東にある丘陵に、池尻城跡と刻まれた石標があります。
ここにも、三木合戦ゆかりの城跡なんだそうです。

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城主ははっきりとわかっていませんが、石標の説明板によると、別所氏の家臣の居城だったと伝わるそうで、三木合戦の際に羽柴秀吉軍によって攻め落とされたと伝えられているそうです。
(写っているのは、わたしの愛車です。)

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三木城からみれば北西約5kmの場所で、三木城と池尻城を結ぶ直線上のちょうど真ん中あたりには、「その5」で紹介した大村城平田村付城があり、その位置関係から考えれば、あるいは天正7年(1579年)9月の「平田・大村合戦」の戦火に巻き込まれたのかもしれません(これは、あくまでわたしの想像です)。

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山に入ると、遺構らしき跡が何ヶ所も確認できます。

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説明板によると、一番の高所に設けられた主郭は長さ約18mの方形を呈し、周囲には空堀がつくられ、その北方には二つの曲輪がある、とあります。

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おそらく、上の写真が主郭跡かなぁと。
写真じゃわかりづらいですけどね。

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堀切跡かな?

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丘陵の西にある大歳神社です。
城への登城道はここから伸びており、説明板によると、この神社の敷地に城主の館があったんじゃないかと考えられているそうです。

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祠の側には、小野市保存樹木に指定された巨樹があります。
樹齢は記されていませんが、あるいは往時を知っているかもしれません。

シリーズはまだまだ続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2015-05-15 21:00 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その16 ~枝吉城跡~

神戸西区と明石市の境あたりにある枝吉城跡を訪れました。
「えだよし」ではなく「しつき」と読みます。

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前稿、前々稿で紹介した端谷城福谷城を攻め落とした織田軍のなかに、枝吉城主の明石則実がいました。
端谷城から5kmほどしか離れていない枝吉城ですが、こちらは織田方についていたんですね。
枝吉城は黒田官兵衛母の生家だったといわれており、ということは、明石則実は官兵衛の従兄弟にあたるわけで、そんな関係から、織田軍の傘下に入ったのかもしれません。

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現在、城跡の東には柿本神社があり、その裏の小山に城が築かれていました。
神社裏の階段を上ると、本丸跡に繋がるのですが、現在は公園として整備されており、石碑があるだけで遺構らしきものはありません。

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枝吉城主の明石氏は、別所氏や衣笠氏と同じく、赤松氏の流れだといわれています。
結局のところ、播磨国の実力者のほとんどが、元を辿れば赤松氏に行きつくんですよね。

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枝吉城跡があるこの地域は、現在の住所では王塚台というのですが、その名称のとおり、この近くには「王の塚」、宮内庁が管理する吉田王塚古墳という大きな古墳があります。
また、枝吉城が築かれた台地上には、稲作開始時期にあたる弥生時代前期の村落跡あったそうですが、枝吉城築城の際に破壊されてしまったそうです。
城跡公園内には、その「播磨吉田遺跡」の石碑も建てられています。

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枝吉城は三木合戦以前にも、2度の合戦を経験しています。
しかし、いずれも落ちることなく耐えしのいできた堅城でした。
しかし、三木合戦で功をあげた明石則実は、豊臣政権の時代になって但馬国豊岡へ国替えとなり、代わりに摂津国高槻よりキリシタン大名高山右近が入封しますが、ほどなく右近はここより南の海沿いに船上城を築いて移ったため、枝吉城は廃城となりました。
最後の城主となった高山右近は、のちに羽柴秀吉バテレン追放令によって迫害され、最後は亡命先のマニラで死去する話は有名ですが、豊岡に移った明石則実も、その後、豊臣秀次謀反に連座して切腹しています。

シリーズはどこまで続くのやら・・・。



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by sakanoueno-kumo | 2015-05-13 20:11 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

花燃ゆ 第19話「女たち、手を組む」 ~長井雅楽暗殺計画~

 長井雅楽が提唱した『航海遠略策』は、このときの時勢において、わが国のとるべき最良の道だったといえるでしょう。しかし、松下村塾系の過激書生たちをはじめとする攘夷志士たちからは極めて不評を買い、「長井、斬るべし」というムードが沸騰しはじめます。その先頭にたっていたのが、久坂玄瑞でした。彼は、仲間と結託して長井の暗殺を企てます。玄瑞ほどの英明な人物が、長井の言わんとする理論をわからなかったわけはないと思うのですが、彼にしてみれば、その正邪はどうでもよかったのでしょう。問題なのは、この案があくまで幕政中心に、幕府に擦り寄るかたちで唱えられたものだったということだと思います。

 玄瑞らの理屈でいえば、日本の中心にあるのは幕府ではなく、あくまで天皇であり、その天皇のご意向が攘夷である以上、国策は攘夷でなければなりません。もっと言えば、天皇のご威光をかさに、あるいは利用して、反幕府を主張していたとも言えます。ドラマでは、「攘夷」という言葉は頻繁に出てきますが、なぜか「尊皇」という思想はあまり強調されていません。この「尊皇」「攘夷」が結びついた「尊皇攘夷」思想が、やがて倒幕のエネルギーになっていくわけです。その精神をもっと描かなければ、彼らがなぜ命を賭してまで政治活動をするのかが伝わらないですよね。ドラマの描き方では、ただ正論に反抗する熱い若者たちといった感じでしかないような・・・。

 この時期、他藩の西郷隆盛ですら、「長井雅楽と申すは大奸物」と言い、「長井は討たなければならない」とも書簡に記しているそうです。西郷こそ、長井の考えを理解できない人物ではありませんでした。司馬遼太郎氏はこのときの西郷について、次のように述べています。

 「正論で革命はおこせない。革命をおこすものは僻論である」ということが、この時期の西郷の肚の中にはあったにちがいない。

 正論というものが、必ずしも正しい道というわけではないんですね。長井は優秀な人物でしたが、機を見る能力に欠けていた。もし、この案を3年後か4年後に出していれば、後世に坂本龍馬的存在になっていたかもしれません。

 そんな情勢のなか、高杉晋作は幕府役人に随行するかたちで、上海への渡航を藩から命じられます。その理由について司馬遼太郎氏の『世に棲む日日』では、長井雅楽暗殺計画を嗅ぎつけた周布政之助が、その中心的存在である晋作を集団から引き離すことで、彼らの暴挙を抑える狙いだったという設定でした。いわゆる『腐ったみかんの方程式』ですね(笑)。タイミング的にない話でもないのかなぁ、と。実際に、長井の暗殺計画が実行されることはありませんでした(ドラマでは松浦亀太郎が斬りかかっていましたが、実際には、亀太郎は計画段階で翻意を促されて断念し、その後、切腹したようです)。ただ、暗殺計画こそ断念したものの、玄瑞の長井に対する追い落とし工作はいっそう激しくなっていきます。

 今話のタイトル『女たち、手を組む』は、結局なにが描きたかったのか、よくわかりませんでした。女性たちが結束して男性陣を翻弄するような挙に出るのか?・・・などと、タイトルから想像していたのですが、結局、内助の功?・・・それとも待つ身の寂しさ?・・・よくわからなかったのは、わたしがおじさんだからでしょうか・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2015-05-11 22:44 | 花燃ゆ | Trackback | Comments(2)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その15 ~福谷城跡~

端谷城跡から南西に1.5kmほど下ったところにある丘陵上に、福谷城跡があります。
現在の住所でいう神戸市西区櫨谷町一帯には、端谷城を本城として多くの支城が築かれていましたが、ここ福谷城も、その支城のひとつだったようです。

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城主はわかっていませんが、おそらく端谷城と同じ衣笠氏の一族だったと考えられています。

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現在、城跡の主郭跡らしき場所は、秋葉神社が建っています。
神社の参道ということで、登山道は舗装されていて歩いやすくなっていたのですが、かなりの急斜面で、メタボ腹のわたしは息切れしまくりです。

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この急斜面、写真で伝わるでしょうか?

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主郭跡とみられる場所にある、秋葉神社です。
ありがたいことに、境内横に物見台っぽい展望台が建てられていました。

e0158128_16295531.jpg

そこから見た西側の眺望です。
現在、この辺りは狩場台糀台という地名で、西神ニュータウンといわれ、神戸市内有数のベットタウンとなっています。
30年前は何もない山だったんですけどね。

e0158128_16323997.jpg

境内北側は、自然のままの山道になっています。
中へと進むと、土塁らしき遺構が見られます。

e0158128_16325927.jpg

そのまま更に北へ進むと、藪が拓けた場所が見えてきます。
曲輪跡か何かかな?・・・と近づいてみると・・・

e0158128_16331962.jpg

ゴルフ城・・・じゃなかったゴルフ場に出ちゃいました(笑)。
ファー!!!

e0158128_16343122.jpg

上の写真は福谷城跡の鳥瞰図
図の切れている上が、ゴルフ場になっています。
史料が乏しく城史が定かではない福谷城ですが、おそらく、天正8年(1580年)2月の織田軍の攻撃によって、本城の端谷城と共に落城したと考えられています。

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それにしても、神戸市西区や北区には、福谷、櫨谷、寺谷、名谷、伊川谷、押部谷、箕谷と、「谷」の付く地名がやたら多いですね。
で、そのほとんど場所に、かつて城があったとされています。
その谷と谷の間には、「◯◯ヶ丘」「◯◯台」といった地名が必ずあるのですが、それらのほとんどは、昭和の時代に開かれたニュータウンです。

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司馬遼太郎氏の何の作品だったか忘れたのですが、その中で司馬さんは、古来、日本人はずっと、「谷」を恵み地としてきた、ということを述べておられました。
谷には川が流れ、その川を水源に、田畑を耕してきた。
一方で谷には洪水がつきもので、人々は、天災と戦いながら、それでも谷に住み続けた・・・と。
それが、産業が発達した近代、人々は災害の多い谷を嫌って、「丘」へと移り住んだ。
で、いつの間にか、「◯◯ヶ丘」といった場所が、人々の憧れの地となった。
でも、司馬さんは、新しい地名の「丘」「台」にはまったく魅力を感じず、歴史と共に歩んできた「谷」にこそ、深い感動を覚える・・・と。
うろ覚えで申し訳ないのですが、たしか、そんな旨のことを述べられていました。
なるほどなあ・・・と。
だから、「谷」には必ずがあったんですね。
「谷」に比べたら、「丘」や「台」は安っぽい土地なんですね。
そういうわたしは、丘に住んでるんですが(笑)。

話がずいぶんそれちゃいました。
次回に続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2015-05-07 23:58 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)