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花燃ゆ 第26話「夫の約束」 ~禁門の変(蛤御門の変) その1~

 八月十八日の政変によって京を追い出されていた長州藩は、名誉回復のために挙兵して京に向かうべし!・・・とする「進発派」と、それを時期尚早とする「割拠派」に分かれていましたが、一時は割拠派の意見が主流となっていたものの、そこに池田屋事件の知らせを入ると、進発派の藩士たちは烈火のごとくいきり立ち、そして、一度は廃案になっていた上洛案に、ふたたび火がつきます。それでも、慎重論の周布政之助らは懸命に藩論の沈静化に努めますが、ついに抑えきれなくなり、「三条実美ら七卿と藩主父子の冤罪を帝に訴える」ことを名目に、挙兵が決定します。

 この頃、藩の政務座役といなっていた久坂玄瑞は、当初は周布らと同じ慎重論でしたが、この2ヵ月ほど前に京で行われていた参預会議がものわかれに終わると、これを政権奪還のチャンスととらえ、兵の上洛に肯定的な立場をとりはじめていました。しかし、玄瑞のいう上洛とは来島又兵衛らのいう勇ましい進発論ではなく、あくまで名誉回復のための嘆願が目的であり、すぐに武力行使といった考えではありませんでした。

 元治元年(1864年)6月4日、藩当局から進発令が発せられると、玄瑞は来島又兵衛、真木和泉らと共に忠勇隊、集義隊、八幡隊、義勇隊、宜徳隊、尚義隊など諸隊を率いて、6月16日に三田尻を発ちました。そして京都近郊の山崎に着いた玄瑞は、さっそく長州藩の罪の回復を訴えた嘆願書を起草し、6月24日、朝廷に奉ります。これを受けた朝廷内では、当初は長州藩に同情的な考えを持つ公卿も多く、寛大な処置を要望する声もあがっていましたが、7月12日に武装した薩摩藩兵が上洛するとムードは一変。反長州派の勢いが盛り返します。朝廷内部でも、長州勢の駆逐を求める強硬派宥和派が対立していたんですね。ただ、どれだけ宥和派が声をあげても、肝心要の孝明天皇(第121代天皇)は長州掃討を望んでいたわけですから、結果は見えていたかもしれません。孝明帝は長州がよほど嫌いだったんでしょうね。

 そんなこんなで、一触即発の空気が張りつめた7月17日、男山の石清水八幡宮で長州藩幹部が集結した最後の軍議が開かれます。この席でも、来島又兵衛ら強硬派と久坂玄瑞ら慎重派が激しく対立するのですが、その時の会話の記録は克明に残されています。それによると、玄瑞は朝廷からの退去命令に背くべきではないとして、兵を引き上げる案を出しますが、又兵衛は
 「進軍を躊躇するとは何たることだ!」
と詰め寄ります。これに対して玄瑞は、
 「今回の件は、もともと君主の冤罪をはらすために、嘆願を重ねる目的だったはずで、こちらから戦闘を仕掛けるのは本来の志ではない。それに、世子君定平公もまだ到着しておらず、それを待った上で進撃の是非を決するべきである。いま進軍したところで、援軍もなく、しかも、わが軍の戦闘準備も整っていない。必勝の見込みの立つまで、しばらく戦機が熟するのを待つべきである。」
と提言します。すると又兵衛は怒気を露わにし、
  「卑怯者!!!」
と一喝。(べつに卑怯者ではないと思うんですけどね。この場合、「臆病者」といったほうがよかったんじゃないかと・・・)
 「医者坊主などに戦争のことがわかるか!! もし身命を惜しんで躊躇するならば、勝手にここにとどまっているがよい。余はわが一手をもって悪人を退治する!!」
捨て台詞を吐き、座を去ってしまいました。又兵衛の気迫に圧倒された一同は沈黙。そんななか、最年長で参謀格の真木和泉が、
 「来島くんに同意を表す」
と述べたことにより、進軍が決定しました。玄瑞はその後一言も発することなくその場を立ち去り、天王山の陣に戻ったといいます。そのとき歴史が動いた瞬間ですね。

 人は追い詰められると、過激な意見ほど魅力的に感じるといいます。後世から見れば、玄瑞の意見は至極もっともだと思えるのですが、前年の政変以来いじめられっ子だった長州藩士たちにすれば、玄瑞の冷静な分析よりも、又兵衛の勇ましい侍道の方が輝いて思えたのでしょうね。こうして、世に言う禁門の変(蛤御門の変)は始まりました。


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by sakanoueno-kumo | 2015-06-29 22:39 | 花燃ゆ | Trackback(2) | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その27 ~高砂城跡(高砂神社)~

続いて訪れたのは、加古川市の西隣の高砂市にある高砂城跡
現在、高砂城跡は高砂神社となっています。

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高砂城の正確な起源は不明ですが、『高砂市史・高砂町市史』によると、梶原氏が治める城として天文7年(1538年)に登場しています。
その後、高砂城が「海城」として改めて歴史上の記録に登場するのが三木合戦のときだそうで、三木城主・別所長治の傘下だった当時の高砂城主・梶原平三郎衛景秀は、最後まで三木城への兵糧の供給基地として、播磨灘の海上を押さえていました。
そこで、羽柴秀吉はこの高砂からの兵糧の道を絶とうと高砂城攻めを開始し、1000の軍勢で攻め込みますが、景秀は300余りの兵で、一時は秀吉軍を撃ち破ったといいます。
しかし、結局は多勢に無勢、大軍の前にあえなく落城してしまいます。

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時は流れ、関が原の合戦後に池田輝政が播磨に入り、姫路城を築きましたが、そのとき同時に播磨の海の守りを固めるために高砂城も築きます。
そして中村主殿助正勝が城主となり、大規模な構えの城を形成させ、高砂は城下町として生まれ変わりました。

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立葵の紋を持つ山門をくぐると、左手に「池田輝政公高砂城趾」の石碑が建てられています。
で、その先に銅像が・・・。

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このロケーションからいえば、銅像は池田輝政のものと思いますよね。
ところがところが、そばにあった説明板を見てみると、銅像の主は工楽松右衛門という18世紀の人物で、帆布を発明した人なんだとか。
これって、絶対勘違いしますよね。

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ここ高砂神社は、かなり昔からこの地にあった由緒ある神社ですが、輝政が築城する際、当社を西北の松林に遷座したそうです。
しかし、元和元年(1615年)に出された『一国一城令』により高砂城が廃城となると、寛永2年(1625年)、ときの姫路藩主だった本多忠政が、当社をこの地に戻したんだそうです。

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「高砂」の地名は、あの「たかさごや〜」の高砂ですね。
境内にある「相生の松」は、能の舞台に描かれている松だそうです。

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霊松殿という建物の中には、本多忠政が植えたという三代目相生の松の幹が神木として保存されています。

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二代目相生の松は、三木合戦のときに焼けてしまったそうです。
現在の相生の松は五代目だそうです。

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それ以外にも、かなりの樹齢であろう巨樹がたくさん目につきます。

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ただ、この高砂神社の場所にあった高砂城は輝政の建てた近世高砂城であり、三木合戦のときの高砂城が同じ場所にあったかどうかは定かではないようです。

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神社境内の隅にが無造作に積み上げられていた石材を、何の気なしに撮影してきたのですが、あとからネットで調べてみると、この中に矢穴を持つものが含まれていたそうです。
ちゃんと見れば良かった・・・。

そろそろ飽きてきた観がありますが、もう少しお付き合いください。



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by sakanoueno-kumo | 2015-06-26 18:14 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その26 ~井ノ口城跡・見登呂姫の石仏~

東播磨に悠々と流れる大河・加古川の西岸からほど近い丘陵地に、井ノ口城はありました。
築城時期は定かではありませんが、室町時代の記録『播州諸城交代連綿之記』によれば、志方城主である志方家則の次男・志方孫次郎家金が最初の城主だったと伝えられます。

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現在、井ノ口城の本丸跡には「みとろ荘」という宿泊施設が建っています。

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宿の敷地内には、案内看板が設置されていました。
そして、やはりここにも、てるひめちゃん幟が(笑)。

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周辺に遺構らしきものは残っていません。
宿の敷地は小さな丘陵地となっていて、周りは水路で囲まれていました。
これって、堀跡?・・・なんて、勝手に想像したりしました。

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なんとなく、堀跡っぽいでしょう?

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三木合戦のときは、志方城主・櫛橋氏の家臣・依藤三河守、依藤小八郎の居城となっていたそうですが、志方城と共に落城。
その後、佐藤氏は別所氏に従って三木城に籠り、運命を共にしたといいます。

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井ノ口城から西へ400mほどのところに、「見登呂姫の石仏」という史跡があります。
この遺跡には、なんとも悲しいエピソードが伝えられます。

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15世紀後半、井ノ口城は赤松満祐の管理下に置かれていました。
当時の城主は井口家治
当時、井ノ口城に出入りしていた満祐の家来の青年が、姫のあまりの美しさに一目惚れしたそうです。
よくある話ですね。

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そんなある年の「月見の祝」の席で、やっとの思いで姫に近寄ることができ、青年は思いを告白しますが、あっさり振られてしまいます。
それに腹を立てた青年は、姫を刺殺して裏山に埋めてしまいました。
しばらくしてその事実を知った民衆は、姫の死を悼み、石仏を立てて奉ったといいます。
横恋慕による殺人死体遺棄事件、現代でいえばストーカー殺人ですね。
いつの時代にも、身勝手な犯行というのはあるものです。

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石仏が少し斜め下向きに傾いているのは、見登呂姫が最期まで美徳を守ったためといわれているそうです。
悲しい話ですね。

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見登呂姫の石仏から見た井ノ口城本丸跡です。
このあたりの地名・見登呂は、見登呂姫の名前から来たものだそうです。

シリーズはまだ続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2015-06-24 17:47 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

花燃ゆ 第25話「風になる友」 ~池田屋事件~

 八月十八日の政変によって長州藩が追い出されたことで、一時は静けさを取り戻したかに見えた京のまちでしたが、実はそれは表面的なもので、尊攘派の志士たちは京、大坂に潜伏して、勢力の挽回を謀っていました。そんななか、政変後に行われていた参預会議がもの別れに終わります。参預会議とは、一橋慶喜、島津久光、松平春嶽らが中心となって政局をはかった、いわば共和政治のような政治形態のことです。しかし、突然始まった連合政治でしたから、結局うまくは運営できずに短期間で瓦解してしまいます。これを政権奪還のチャンスと見た尊攘派の志士たちは、密かに京に集まってきました。

 そこで歴史の表舞台に一気に登場するのが新選組です。彼らはこの少し前から京都守護職・松平容保の預かりというかたちで京のまちの治安に当たるようになっていましたが、この新選組が日本史のなかに大きく名を刻むきっかけとなったのが、元治元年(1864年)6月に起きた「池田屋事件(池田屋の変)」でした。

 きっかけは、商人に化けて潜伏していた尊攘派志士の古高俊太郎が捕らえられたことに始まります。捕縛された古高は新選組の手によって厳しい拷問にかけられ、結果、力尽きて自白してしまいます。その内容は、数十人が徒党して、風向きを考えた上で御所に火を放ち、佐幕派公卿の中川宮朝彦親王を幽閉して京都守護職の松平容保ら佐幕派大名を殺害し、天皇を長州へ連れ去ろうという超過激な計画で、しかも、近々市中で同志の集会があることも判明します。

 古高捕縛の報を受けた尊攘派志士たちは、肥後藩の宮部鼎蔵をはじめ、長州藩の桂小五郎ら約20名が、旅館・池田屋に集合して善後策を協議します。この会合を知った新選組は、京都守護職および所司代に報告し、五ツ時(午後8時)に協力して襲撃することとしますが、守護職、所司代ともに部下の援軍がなかなか来ないので、四ツ時(午後10時)、新選組の単独行動で襲撃を決行しました。不意をつかれた尊攘派は懸命に応戦しますが、戦闘なれした新選組にはほとんど刃が立たず、結果、多くの志士たちが闘死、もしくは捕らえられて斬られます。すさまじい弾圧だした。

 松下村塾四天王のひとりだった吉田稔麿は、この池田屋事件で命を落とします。これまでだいたいの物語での稔麿の最期は、池田屋襲撃の事態を長州藩邸に知らせるべく現場から離脱するも、藩邸の門は開られることなく、門前で自刃するという描かれ方がほとんどだったと思いますが、今回のドラマでは、藩邸に向かう道中で気が変わって引き返したところ、その帰路で囲まれて斬られるという設定でしたね。どちらが事実なのか調べてみたところ、どうやら諸説あって定説はないようです。前者の自刃説は、同じくこのとき死んだ土佐藩の望月亀弥太の話と酷似していますから、それと混同した話のようにも思えます。その意味では、ドラマの設定のほうが真実味があるかもしれませんね。享年24歳。無念だったに違いありません。

 このときの桂小五郎にも諸説あります。よく知られる話では、小五郎は池田屋に早く着きすぎたので、一旦池田屋を出て対馬藩邸で大島友之允と談話しており、そのため、襲撃時に池田屋におらず難を逃れたと言われていますが、別の話では、小五郎はこのとき屋上に出て間一髪逃げ去ったという記録もあります。どちらが事実かはわかりませんが、のちに「逃げの小五郎」と言われた彼ですから、後者のほうが面白い気はしますけどね。いずれにせよ、このときもし小五郎が命を落としていたら、のちの維新三傑に名を連ねることもなかったでしょうし、明治維新における長州藩の立ち位置も違ったものになっていたかもしれません。

 この段階では、攘夷派のなかでは桂小五郎より宮部鼎蔵の方が、はるかにビッグネームでした。しかし、歴史は無惨にも宮部の命をここで終わらせてしまいます。歴史の犠牲となった宮部鼎蔵と、歴史に生かされた桂小五郎。この紙一重の運命の違いも、歴史の面白いところですね。


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by sakanoueno-kumo | 2015-06-22 17:38 | 花燃ゆ | Trackback(2) | Comments(7)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その25 ~安楽寺・円照寺~

中道子山城の城山の麓に、安楽寺というお寺があります。
説明看板によると、元は弘法大師の弟子、真紹上人によって中道子山の山頂に築かれていたそうですが、赤松氏が中道子山城を築城する際に、山麓に移されたといいます。
赤松氏の没落後は、志方城主櫛橋氏によって再建されたそうです。

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三木合戦とのゆかりの逸話は残っていませんが、中道子山城の山の麓にあり、志方城主の櫛橋氏とゆかりが深いこの寺院が、合戦に関係していないはずはないと思い、あえてシリーズに加えます。

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この看板つながりでもありますしね(笑)。

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白い塀が長く続いているのが印象的で、まるで近世の城跡を思わせます。

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資料などには残っていませんが、あるいは、落城後に落ち延びた武士たちを、収容したかもしれません。
ここを訪れたのは4月18日でしたが、もう2週間ほど前に来れば、が綺麗だったでしょうね。

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山門の外には、これも三木合戦とは無関係ですが、なにかの供養塔が目につきます。
説明看板によると、南北朝時代の武士の供養塔と考えられているそうです。
歴史の深さを感じますね。

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もう1か所、このすぐ近くに円照寺というお寺があり、そこに羽柴秀吉が奉納した陣鐘があると聞いたので、訪れてみました。

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ここにもこの看板が・・・。

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そして鐘つき堂の周りにも、てるひめちゃん幟が立てられています。
昨年の大河ドラマ『軍師官兵衛』以降、加古川市はとにかく光姫推しなんですね。

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で、目的の陣鐘ですが、説明板を読んでみると、秀吉がこの陣鐘を奉納したのは、天正15年(1587年)のことで、三木合戦のときではなかったんですね。
元は周防国(現・山口県)の上野八幡宮にあった銅鐘を、島津攻めの際に秀吉が陣鐘として使用し、帰京の際、志方八幡神社に納めたそうですが、鳴りが悪かったため、ここ円照寺に譲られたそうです。
秀吉にしてみれば置き土産だったのかもしれませんが、軽く見られたものですね。
試しに鳴らしてみましたが、いい音してましたけどね(笑)。
それにしても、こんな重いものを山口県から九州、そして播磨まで持参していたんですね。
役目の者はたいへんだったでしょう。

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銅鐘には明応7年(1498年)と刻まれており、室町時代の鋳造技術の高さを伝える逸品として、市の指定文化財となっています。

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以上、今回は三木合戦とはあまり関係のない、番外編でした。
まだシリーズは続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2015-06-19 18:00 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その24 ~中道子山城(赤松城)跡~

播磨地区には、赤松城と呼ばれる城が複数ありましたが、その中のひとつ、中道子山城を訪れました。
中道子(ちゅうどうしさん)城と読みます。
その呼び名のとおり、赤松氏一族の居城でした。
場所は、志方城から北東へ3kmほどのところにある標高270メートルの山上で、下の写真の右奥の山上に白い看板のようものが見えますが(登ってみると、関西電力の反射板でした)、あのあたりに城跡があります。
メタボのわたしにはちょっとキツイ登山ですが、意を決して登ることに・・・。

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地元では「志方の城山」と呼ばれているようです。

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やはり、ここでもこの看板が迎えてくれます。

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山頂まで約2kmの登山です。
最初は、舗装された道(車の乗り入れは禁止です)を登っていくのですが、しばらくすると、こんな表示板が出てきます。

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普通の登山道と旧登山道の選択表示。
このまま進むと残り1kmのところが、旧登山道を通ると約600mとあり、かなりの近道です。
ただ、かなりハードそうで・・・。

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思案のすえ、48歳の若者であるわたしは、旧登山道を選びました。

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しかし、しばらく進むと大後悔
キツイのなんのって、息切れしまくりです。

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昔の人は、毎日こんなキツイ山道を重い刀を腰に下げて登っていたんですね。
以前、俳優の渡辺徹さんが大河ドラマに出演したとき、「あんな太った奴は戦国時代にはいない」と、視聴者からクレームが入ったというエピソードを面白おかしく話されていましたが、たしかに、毎日こんな山道を歩いていたら、メタボになることはなかったでしょうね。

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で、休憩をはさみながらなんとか山頂にたどり着いたのですが、そこで目にしたのは、目を見張る遺構の数々
しんどい思いをした甲斐がありました。

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上の写真は大手門跡です。

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櫓台跡です。

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こちらは二の丸跡
山の麓から見えた白い反射板のあった場所です。

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本丸に入る城門跡には、案内板が設置されています。

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本丸跡です。
本丸の敷地だけでもかなりの広さで、中道子山城がいかに大きな城であったかがわかります。

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その片隅には、「赤松城址」と刻まれた石碑があります。

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本丸跡からの眺望です。
山頂から見た北東の景色で、志方城太閤岩とは反対方向になります。

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中道子山城の築城時期は明らかではありませんが、南北朝時代に赤松則村(円心)の四男・赤松氏範が築城したと伝わります。
その後、嘉吉の乱応仁・文明の乱を経て、三木合戦の際には孝橋秀光が城主だったとも、志方城主の櫛橋氏が城代を務めていたともいいますが、正確なことはわかっていません。

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羽柴秀吉軍に包囲された中道子山城の籠城軍は、山肌一面に竹の皮を敷き詰めて滑りやすくして迎え撃ちますが、秀吉軍はその竹の皮に火をつけ、山は瞬く間に火の海になったといいます。
籠城軍はその消火のために兵糧米をばら撒きますが、火の勢いは収まらず、食料である米もなくなったことから、降伏に至った・・・という伝承があります。
実話かどうかは定かではありませんが、発掘調査では炭化した米が出土したそうで、落城時に火災があったことは事実のようです。

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その兵糧米が保管されていたであろう、米倉跡です。

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三の丸跡には、おびただしい数の石仏群がありました。
これは、いつの時代に誰が造ったものでしょう?

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井戸郭跡です。
この井戸にも逸話がありまして、井戸に落ちた姫君の霊がでるそうです。
本当かどうかはわかりません。

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立派な遺構の数々を堪能したあと、帰りは新登山道で帰りました。
48歳以上の年寄りの方には、こちらの道をおすすめします(笑)。

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今回はずいぶん長くなっちゃいました。
次回に続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2015-06-17 18:17 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

花燃ゆ 第24話「母になるために」 ~来島又兵衛の進発論と、そうせい侯~

 文久3年(1868年)の八月十八日の政変によって、京における政治基盤の一切を失った長州藩は、今後の対策を巡って藩内が紛糾していました。政庁内は、藩の名誉回復勢力挽回を目指して挙兵、京に向かうべし!・・・とする「進発派」と、それを時期尚早とする「割拠派」に分かれます。進発派の中心人物は、長老格の来島又兵衛。長老と言っても、このとき又兵衛は48歳で、長州藩きっての豪傑とて名高く、幕末より戦国時代に生まれたほうが似つかわしい人物でした。彼は上洛を声高に主張しながら、高杉晋作が作った奇兵隊を見習って、さまざまな身分の有志600人を集めた「遊撃隊」を組織し、周防三田尻に駐屯します。

 藩当局も一時は又兵衛の主張に傾いていたのですが、京に潜伏している桂小五郎らの反対意見などもあって方針を一変、慎重論に変わります。しかし、又兵衛はそれで収まるはずがなく、言動はさらに激しさを増していきます。又兵衛は隊士たちからの人望も厚く、隊は又兵衛と共に命を捨てるといった気運が高まり、いつ暴発してもおかしくないムードとなります。

 なんとか沈静化を図りたい藩当局は、又兵衛を説得する使者として、高杉晋作を派遣します。晋作はこの時期、奇兵隊総督の任を罷免され、藩内閣の閣僚ともいうべき「政務役」という重責の任に就いていました。このとき晋作は若干24歳異例の出世でした。三田尻に乗り込んだ晋作は、3日間粘って又兵衛の説得にあたりますが、24歳の晋作が48歳の又兵衛を説得するのは困難なことで、結局は徒労に終わります。すると、ここで晋作は何を思ったのか、萩に戻らずにそのまま船に乗り、脱藩してしまうんですね。これには藩当局はもちろん、又兵衛もビックリしたことでしょう。この辺が、高杉晋作という人の尋常ならざるところです。政務役に抜擢されてから、わずか半年のことでした。

 さて、今話はそれ以外に特に政治的な動きがなかったので、これまで書きそびれてきた長州藩主・毛利敬親についてふれてみたいと思います。ドラマでは、たいへん寛大で懐の深い殿さまとして描かれている敬親ですが、実際には、敬親は名君暗君かで意見が真っ二つに分かれる人物です。というのも、敬親は家臣の意見に対して異議を唱えることが皆無だったといい、ドラマで描かれているように、藩内保守派、改革派のどちらから上申されても、常に「ああ、そうせい」と許していたそうで、そんな敬親のことを家臣たちは、「そうせい侯」と陰で揶揄していました。そのため、後世に有能か無能かで意見が分かれていて、維新の原動力となった長州藩の藩主でありながら、いわゆる幕末の四賢侯にも数えられていません。

 実際にはどうだったかはわかりませんが、ただ、敬親のような人物が長州藩主であったからこそ、幕末の長州が長州たりえたといえるでしょう。ふつう他藩では、藩主の思想、意向によって政治が動くものですが、長州藩にはその機能がなく、家臣たちが藩を動かしました。そのせいで、高杉晋作や久坂玄瑞などの書生あがりが政治活動の中心になりました。藩主という抑制装置が機能していないため、藩の活動はどんどん過激になっていきます。それが、幕末の長州藩でした。幕末の日本史は、長州藩が大暴れしたことによって作られた歴史といっても過言ではありません。その長州藩を演出したのは、松蔭でも晋作でも玄瑞でもなく、敬親だったといえるかもしれませんね。もし、長州藩の藩主が、土佐藩の山内容堂のような人物であれば、晋作や玄瑞などはとっくに処刑されていたに違いないでしょうし、そうすると、日本の歴史もまったく違ったものになっていたかもしれません。

 「藩主として余はいまだ迷い、自問自答を繰り返す身じゃが. 志ある者の邪魔立てだけはすまいと決めておる。」

 何話か前の、との面会シーンでの敬親の台詞ですが、あるいは、このとおりの考えだったのかもしれません。幕末の長州藩主は、いわゆる「君臨すれども統治せず」だったわけですね。


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by sakanoueno-kumo | 2015-06-15 21:05 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その23 ~太閤岩~

志方城から南西に5kmほど離れた場所にある岩山に、「太閤岩」と名付けられた岩があると聞き、足を運んでみました。
伝承によると、羽柴秀吉が志方城を攻めたとき、本陣を置いた山肌にある岩に腰を下ろし、采配をとったとのこと。
ネットで場所を調べると、加古川市西神吉町辻の北側の岩山の中腹ということで、たぶんこの山だと予想して登ってみることに。

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登山口を見つけるのに苦労したのですが、高御位山の登山道の途中にあるとの情報を得て見つけました。
目印はこの地蔵堂で、この向かい側から入山します。

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登山道は整備されていて歩きやすくなっていましたが、傾斜はかなりキツくつづら曲がりの山道で、登山に慣れていないわたしには結構ハードでした。

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で、ようやく開けた場所にある岩肌を見つけたのですが・・・どうも様子が違うようで、目的の岩はまだ先のようです。
さらに奥に進んでみると、山道は下り始めました。

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どうやら、その向こうに見える山のようで、せっかく登ったのに、また下って登るのか・・・と思うと、どっと疲れが・・・。

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望遠レンズで見てみると、中腹にそれっぽい岩と、看板らしき白い板が見えます。
どうやらあそこのようですね。
目標が定まったので、気を取り直して進みます。

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で、ようやく目標の岩にたどり着きました。

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白い板は、予想どおり看板でした。
やはり、思ったとおりここが太閤岩でした。

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岩からの眺望は見てのとおり絶景です。

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南は高砂の浜から加古川市全域、200度以上の大パノラマで、写真では霞んで見えませんが、はるか南東の向こうには、明石海峡大橋淡路島まで見渡せます。

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北東は志方地区全域を一望でき、たしかに、この岩に立てば、志方城のみならず、神吉城、野口城、中道子山城など、この一帯の敵方の城がすべて見渡せます。
本陣を置くには持ってこいの場所だったでしょうね。
ここは「その21」で紹介した生石神社から2kmほど北上した場所で、あるいは、生石神社から陣所の申し出を断られ、代わりに陣を置いたのがこの場所だったのかもしれません。

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ただ、調べてみると、志方城攻めに秀吉が参陣していたという記録は残っていません。
記録によると志方城を包囲していたのは織田(北畠)信雄軍で、このとき秀吉は、本陣を置いた書写山に詰めていたようです。
まあ、書写山はここからそう遠くありませんから、記録に残っていないだけで、1日くらい顔見せに来たかもしれませんけどね。

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本当に太閤さんが座ったかどうかはわかりませんが、太閤気分になって岩に腰掛けてみるのもいいものです(少々怖いですが・・・)。
まあ、いいハイキングでしたね。

次は、太閤岩からも見えた中道子山城を訪れます。



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by sakanoueno-kumo | 2015-06-12 19:00 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

酒鬼薔薇聖斗の手記出版について思う。

1997年に起きた神戸連続児童殺傷事件の加害者である元少年A手記が出版され、話題になっていますね。
「酒鬼薔薇聖斗事件」といったほうがわかりやすいでしょうか。
あの事件は、わたしたち神戸市民にとっては忘れることのできない暗い記憶です。
事件が起きた1997年とは、「阪神・淡路大震災」が起きた2年後のことで、表面的には復興が進んでいたものの、その復興の波に乗れた人と乗りそこねた人の格差が生じ始め、震災による経済的な二次災害ボディーブローのように効き始めた頃でもあり、神戸全体が震災直後とはまた違った意味での、殺伐とした空気に包まれていた時期でした。
そんな折り、またも日本中の人が神戸に注目することになった出来事が、あの「酒鬼薔薇聖斗事件」でした。
当時、神戸はもはや人の住める街ではないんじゃないか?・・・なんて、他の地域に住む知人からいわれたものです。
あれから18年も経ったんですね。
それだけ長い年月が過ぎたというのに、未だに少年犯罪の象徴のような事件として記憶に新しく、加害者は「少年A」の代名詞的存在であり続けていることを思えば、あの事件が、のちの社会に与えた影響は計り知れないものだったといえるでしょう。
そんな元少年Aが本を出す・・・正直、興味が沸かないはずがありません。

で、購入して読もうかどうか迷ったのですが、やっぱ、やめにします。
理由はいろいろありますが、いちばんは、被害者の遺族はこの出版を許諾しておらず、出版停止を要求しているということ。
わたしが買うのをやめたところで、きっと本は売れるのでしょうが、まあ、小さな抵抗です。
あと、ネットで検索してみると、すでに読んだ人の感想や、中には「あとがき」を全文転載しているブログなどもあり、それを読めば、概ね内容が想像できるから、という理由でもあります。
「あとがき」では、ひたすら犯した罪への反省の意を綴っていますが、でも、結局は随所に自己保身の言葉が見られ、気分のいいものではありませんでした。
まあ、人間であれば、だれでもきっとそうなりますよね。

以前、少年Aの両親が書いた手記『「少年A」この子を生んで・・・』が出版されましたが、それは購読しました。
たしかこの本は、印税をすべて被害者遺族への賠償に充てるとの話でしたし、何より当時、新米の親だったわたしとしては、どう間違えたらこのような凶悪犯が育つのか、これから子供を育てていく上での資料として、たいへん興味深かったからでもありました。
でも、結局は読んだあと後味が悪く、読まなきゃよかったと思ったのを憶えています。
その本も、結局は保身の内容でしたからね。

人は忘れる生き物です。
どれだけ深く反省しても、その思いを一生薄れることなく持ち続けるのは不可能だと思います。
人は忘れるから、苦しみや悲しみから立ち直ることができるといえるでしょう。
また、人は自己を否定し続けて生きてはいけません。
自己を否定し続けたら、いきつくところは自殺しかなくなるでしょう。
人は皆、否定したい過去をどこかで恣意的に捻じ曲げて都合よく解釈し、言い訳を繕い、正当化するなどして受け入れて生きていくものだと思います。
それが生きていく力で、これはたぶん仕方がないことなんですね。

だから、こういう手記は、必ず自己保身の文章になってしまうのでしょう。
もし、本当に心からの懺悔文が書けるとしたら、それは、いまから死ぬというときだけなんじゃないでしょうか。
でも、被害者はもちろん世論も、少年Aが過去を忘れること、身を守ろうとすることを不愉快にしか思いません。
彼は、一生罪を背負いながら生きていくべきだと、誰もが思っています。
だから、やはりこういう本を出すべきじゃないんですよね。
彼に出来る最大の懺悔は、生涯、社会に対して声を発することなく、ひっそりと生きていくことだったんじゃないでしょうか。
また、それが結果的に自分の身を守ることにもなったと思います。
心のなかでは、どんな言い訳を持っていてもかまいません。
人間ですから。
でも、声に出して言うべきじゃなかった。
また、生き方を間違えましたね。

たぶん、話題性からいってこの本は売れるでしょうね。
出版社のコメントは「批判は覚悟の上だが、社会的意義はある」とのことだったそうですが、ならばせめて、この本で得た収益を、今後の少年犯罪の減少に繋がる何かに寄付してください。
自社の利益のためではなく、あくまで社会のためだというならば・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2015-06-11 19:39 | 時事問題 | Trackback(1) | Comments(2)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その22 ~志方城跡(観音寺)~

神吉城から直線距離で3kmほど北上したところに、志方城があります。
ここは、黒田官兵衛の妻・の生まれ育った城で、現在その本丸跡は観音寺という寺院になっています。

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そんなわけで、当然ながらここでも、この看板が迎えてくれました。

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今回は看板だけでなく、境内のいたる場所に、てるひめちゃんが・・・。
まあ、光姫の実家ですから、当然の光姫推しですよね。

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光姫の嫁いだ黒田家は、播磨国の領主の中でもいち早く織田氏の傘下に入っており、三木合戦の際には当然、羽柴秀吉軍に与していましたが、光の実家である志方城の城主・櫛橋家は、加古川評定の席で秀吉と決裂し、別所氏に呼応して毛利方に与します。
このときの志方城主は、光の実兄・櫛橋政伊
政伊のもう一人の妹で光の姉にあたる妙寿尼(実名は不明)は、毛利氏の傘下にある上月城主・上月景貞に嫁いでおり、光は兄と姉ふたりと敵対することになります。
戦国時代では珍しい話ではありませんが、光は辛かったでしょうね。

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周辺の野口城・神吉城が攻め落とされると、ここ志方城は孤立無援となり、天正6年(1578年)8月10日、政伊はやむなく降伏します。
その後、官兵衛の助言もあって櫛橋家一族のほとんどが黒田家に仕えますが、城主の政伊のその後は、定かではありません。
大河ドラマ『軍師官兵衛』では、潔く切腹していましたが、司馬遼太郎氏の小説『播磨灘物語』では、官兵衛が秀吉に命乞いをし、助かっています。
実際にはどうだったんでしょうね。

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寺の敷地内には、櫛橋家歴代城主の墓所があります。
ここも、光姫推しでした(笑)。
光姫はここには眠ってないのにねぇ。

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その向こうに見える建物は、志方小学校の校舎です。
この小学校の敷地が、かつての二の丸跡だったそうです。

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とにかく、いたるところにみつひめちゃん幟が設置されていました。
中谷美紀さんも訪れたのかなぁ?

さて、次回は秀吉の志方城攻めゆかりの地を訪れます。



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by sakanoueno-kumo | 2015-06-10 18:10 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)