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大坂の陣400年記念大坂城攻め その6 ~内堀~

今回は、二の丸と本丸を仕切る内堀を見ていきます。
まずは東面から。
内堀の総延長は約2.7kmで、寛永元年(1624年)の徳川幕府による再築第二期工事により、豊臣時代の本丸に盛土をほどこして石垣が築かれたそうです。
東面の石垣の高さは水面から約24mもあるそうです。

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どうです、この立派な石垣
迫力満点です。

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東側内堀の外から見た天守です。

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向こうに見えるのは、内堀北東にある極楽橋です。

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極楽橋と天守です。

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この橋は昭和40年(1965年)に再建されたものですが、天正11年(1583年)に豊臣秀吉が築城を開始したときにこの付近に架けられた橋も極楽橋と呼び、大阪夏の陣による落城後、徳川幕府による再築時にも、この場所に極楽橋が架けられました。
長さは約54m、幅は江戸時代には約8m(4間)あったそうですが、現在は約5.4mに縮小されているそうです。

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手前のミニスカートのお姉さんを狙って撮影したわけでゃないので、誤解なきよう!

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そのまま、内堀北側に進み、ほぼ真北に来ました。

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内堀北西から見た天守と石垣です。
この辺りは、天守がもっともかっこ良く撮影できるスポットとして有名です。

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ズームしました。

内堀西側は、「その3」で紹介した西の丸庭園になっており、現在は二の丸北側から入ることは出来ません。

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内堀東側の二の丸は現在梅林となっていますが、かつてここは市正曲輪と呼ばれ、豊臣秀頼の後見人として重職を担った片桐且元の屋敷があったとされています。
且元は東市正に任じられており、そこから市正曲輪と名付けられたんですね。
且元は秀吉の死後、豊臣、徳川両家のあいだに出来たを、なんとか埋めようと尽力した人ですが、いわゆる「国家安康」で有名な方広寺の鐘の件あたりから、豊臣家内部であらぬ疑いをかけられ、結果、弟の片桐貞隆とともに大坂城を脱出してしまいました。
これが結果的に、大坂冬の陣の引き金となります。

最後に、内堀南側にやって来ました。

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本丸を囲む内堀は、東・北・西は水堀となっているのに対し、南の内堀だけは、見てのとおり空堀になっています。

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現在の石垣は徳川幕府による再築工事で築かれたものですが、当初から空堀だったそうで、さらに、かつての豊臣時代の大坂城でも、南の内堀は空堀だったそうで、大坂の陣で徳川方が埋めたからではないそうです。
なぜ、ここだけ空堀なのかは不明なんだとか。
歴史の謎ですね。

さて、いよいよ本丸突入です。

大坂の陣400年記念大坂城攻め その1 ~外堀~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その2 ~大手口、搦手口~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その3 ~西の丸~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その4 ~二の丸・豊国神社~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その5 ~石山本願寺推定地の碑と蓮如上人袈裟がけの松~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その7 ~刻印石、巨石~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その8 ~本丸~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その9 ~天守閣~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その11 ~城中焼亡埋骨墳~

大坂の陣ゆかりの地めぐりシリーズも、よければ。
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大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~


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by sakanoueno-kumo | 2015-07-31 19:20 | 大坂の陣ゆかりの地 | Comments(0)  

大坂の陣400年記念大坂城攻め その5 ~石山本願寺推定地の碑と蓮如上人袈裟がけの松~

豊臣秀吉によって大坂城が築かれる以前の戦国時代、この地に石山本願寺があったことは有名ですね。
史料によると、明応5年(1496年)に浄土真宗の本願寺八世蓮如上人が、摂津国東成郡生玉庄内の大坂に、坊舎を築いたとあります。
「大坂」という地名が歴史上はじめて表された史料が、明応7年(1498年)11月21日付けの蓮如上人の「御文」とされているそうです。

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蓮如上人が築いた当時の坊舎は小堂だったと考えられていますが、その後、天文元年(1532年)に六角定頼法華宗徒によって山科本願寺が焼き討ちに遭うと、本願寺はこの地に移され、本願寺教団の本拠地となります。

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二の丸にある「蓮如上人袈裟がけの松」です。
説明看板によると、蓮如上人がこの地に坊舎を築く際、今は切り株だけになっているここの袈裟をかけ、宗派の繁栄を祈ったといわているそうです。

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ご覧のとおり、現在は切り株というより、ほとんど根塊だけといった感じです。
ただ、切り株は徳川幕府が再築した大坂城の地表にあることから、これはあくまで伝説に過ぎないと考えられているようですね。
それでも、大正時代に撮影された写真では、この地にかなり大きな巨松がそびえ立っていて、蓮如上人袈裟がけの松と紹介されているそうです。
いつ頃から生まれた伝承かはわかりませんが、松の西側には昭和4年(1929年)の昭和天皇行幸に合わせて建てられたという「南無阿弥陀仏」と刻まれた石柱があり、石山本願寺時代の記憶を留める史跡として、保護されています。

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戦国時代末期、石山本願寺は破竹の勢いで勢力を伸ばしていた織田信長と対立し、元亀元年(1570年)から11年間に及ぶ血みどろの戦い、いわゆる石山合戦が繰り広げられます。
その結果、11世顕如は信長によって本願寺から退去させられ、堂塔伽藍は全焼してしまいます。
その後、豊臣秀吉によって跡地に大坂城が築かれ、さらに大坂の陣ののちに徳川大坂城が再建され、この2回の大規模な土木工事によって、石山本願寺時代の遺構はほぼ破壊されました。
したがって石山本願寺跡の正確な位置はいまだ確認されていませんが、現在の大阪城公園内にあったことは確実とされています。

なかなか本丸にたどり着きませんね。

大坂の陣400年記念大坂城攻め その1 ~外堀~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その2 ~大手口、搦手口~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その3 ~西の丸~
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by sakanoueno-kumo | 2015-07-29 18:03 | 大坂の陣ゆかりの地 | Comments(0)  

花燃ゆ 第30話「お世継ぎ騒動!」 ~第一次長州征伐の決着~

 ドラマは奥勤め話が中心ですが、当ブログは頑固に世情中心で進めます。

 正義党井上聞多が闇討ちに遭い、周布政之助が自刃すると、椋梨藤太を中心とする藩内保守派の俗論党がいよいよ主導権を握ります。これにより、井上が進言して決定していた武装恭順の方針はまたたく間に却下となり、幕府に対して徹底的な恭順を藩是とします。しかし、それでも当初の幕府征長軍はあくまで強硬姿勢を崩さず、特に会津藩などは、長州藩の領地をすべて没収して東北のどこかの3万石程度の小さな領地に押し込んでしまえ、といった厳罰論を唱えていました。もし、そうなっていたら、その後の歴史はずいぶんと変わっていたでしょうが、ここで征長軍総参謀長となった薩摩藩西郷吉之助(隆盛)が登場します。このとき西郷が示した腹案は、「長人(長州人)を以って長人を処置させる」という寛大案でした。

 このときの西郷の心中については、後世にさまざまな解釈をよんでいます。薩長同盟はまだ1年以上先のことですが、いずれ長州と手を結ぶかもしれないことを想定して布石を打った、という見方や、西郷はこのとき既に幕府の末路を予見していた、とか、あるいは、すでに西郷は雄藩の連合政権を着想していた、などなど、どれも結果を知っている後世から見た解釈という感じもしますが、いずれにせよ、ここで戦争して長州藩を叩くのは得策ではないと考えたのでしょうね。ここで下手に恨みを買うより、長州人自らに裁いてもらった方がいい。長州藩内部がもめていることを知り、それを利用したわけです。西郷はこの時期から、巨大な政治家としての手腕があらわれはじめます。

 あと、この少し前に、西郷と幕臣の勝麟太郎(海舟)が面会していたことも、大いに影響したんじゃないかと言われています。勝はこのとき、幕臣の身でありながら幕府中枢の悪態をさんざんについた上で、雄藩諸侯の合議制による共和政治の構想を西郷に吹き込んだといいます。西郷はこの会談で大いに目からうろこが落ちたようで、珍しく興奮した手紙を大久保一蔵(利通)宛に送っています。長州藩内で俗論党と正義党がもめている同じ頃、長州藩の運命は思わぬところで変わり始めていたということです。

 西郷は自身の長州処分案が採用されると、さっそく岩国藩主吉川経幹を仲介にし、長州藩代表に次のような降伏条件を提示しました。

 一、藩主親子の蟄居謹慎
 二、禁門の変を指揮した三家老の切腹
 三、それに従った四参謀の斬刑
 四、三条実美ら五卿を九州太宰府へ移す
 五、山口の新城を破壊する


 長州藩の政庁は萩城でしたが、文久2年(1862年)に行われた文久の改革によって藩主妻子の帰国が許されると、山口に新たな藩主居館が作られました。しかし、本来は大坂夏の陣後に制定された一国一城令により、各藩とも城は1か所しか許されていませんから、これは明らかに幕法違反でした。ましてや、山口はかつて関が原の戦いに敗れて広島城を失った毛利家が、山口を居城建設候補地として幕府に申請するも許可されず、僻地である萩に押し込められた歴史があります。だから、幕府側としては五の条件は当然なんですね。しかし、文久の改革で参勤交代が廃止されて以降、どの藩も江戸には少しの外交官だけを置いて藩士を帰国させており、そのため、城はキャパオーバーだったことは確かでしょうね。そこで、ドラマの奥女中リストラ話につながるわけです。やっとドラマに沿うことができました(笑)。

 切腹した家老は、福岡越後 国司信濃 益田右衛門介の3人。しかし、これにて一件落着とはいかず、これを皮切りに椋梨藤太は政敵を次々と粛清していきます。


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by sakanoueno-kumo | 2015-07-27 16:13 | 花燃ゆ | Comments(0)  

大坂の陣400年記念大坂城攻め その4 ~二の丸・豊国神社~

西の丸庭園から南に向かうとすぐに、西の丸と二の丸を仕切る仕切門太鼓櫓跡があります。
仕切門とは、城門を突破して侵入してきた敵をくいとめるために設けられた石塁に設置された門のことで、徳川時代の大坂城二の丸には、ここを含む5ヶ所の仕切門が設置されていたそうです。

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この石垣の上には、かつては太鼓櫓が建っていたそうで、ここで時刻などを伝える太鼓が打ち鳴らされていたそうです。

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二の丸東側にある重要文化財一番櫓です。
「その1」で外堀側から見た一番櫓を紹介しています。

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続いて二の丸南側にある重要文化財の六番櫓です。
ここも、「その1」で外堀から見た六番櫓を紹介しています。

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二の丸とは、本丸の外側を囲う副郭のことで、本丸の次に重要な曲輪となる場所ですが、大坂城の場合、特に重要な設備があったわけでもなく、単に外堀と内堀のあいだのスペースといった区域です。
堀と石垣がとてつもない規模の大坂城ですから、二の丸に防御施設を置く必要もなかったのでしょう。

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その二の丸に、現在は豊國神社があります。
豊國神社とは、豊臣秀吉・秀頼父子と、秀吉の弟・秀長を祀った神社で、秀頼の時代には本丸内の山里丸豊国社があったそうですが、大坂夏の陣で焼失しました。

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豊国神社は京都にもありますが、あちらは秀吉のみを主祭神として「豊国(とよくに)」と読むのに対し、こちらは「豊國(ほうこく)」と音読みして、息子と弟も配祀した神社です。

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かつての豊国社は豊臣家滅亡とともに徳川幕府によって豊国大明神の神号は剥奪され、秀吉の墓は暴かれて遺体は磔にされたといいますから、江戸期に豊国社が再建されることは当然なかったわけですが、明治に入って、大阪に行幸された明治天皇が、豊臣秀吉を天下を統一しながらも幕府を作らなかった尊皇の功臣であると賞賛し、豊国大明神の神号復活と豊国神社再興を布告されたことから、京都の東山に社殿が建てられます。
そして明治12年(1879年)に京都の豊国神社より分祀され、大阪は中之島に豊国神社が建てられてますが、その後、昭和36年(1961年)に大阪城内に遷座されました。
実に360年の年月を経て、大坂城に帰って来たんですね。

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境内には秀吉の銅像があります。
現在の大坂城はすべて徳川時代に再建されたものですが、大坂城といえば、やっぱ太閤秀吉ですもんね。

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なかなか男前です。

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これは、慶長3年(1598年)、死が目前に迫った秀吉が開催した有名な「醍醐の花見」の桜のDNAを継承した桜だそうです。

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豊臣秀吉といい徳川家康といい織田信長といい、天下人の行きつくところはになりたがりますが、家康を祀った日光東照宮世界遺産になったことを思えば、豊國神社のあつかわれかたは、ずいぶん低い位置づけに感じますね。
関西人は家康より太閤秀吉びいきが多いですから、世界遺産にとはいいませんが、せめて国宝くらいのあつかいにはなってほしいものです。

次回に続きます。

大坂の陣400年記念大坂城攻め その1 ~外堀~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その2 ~大手口、搦手口~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その3 ~西の丸~
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大坂の陣400年記念大坂城攻め その7 ~刻印石、巨石~
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by sakanoueno-kumo | 2015-07-24 19:00 | 大坂の陣ゆかりの地 | Comments(0)  

大坂の陣400年記念大坂城攻め その3 ~西の丸~

大手口を入るとすぐに、西の丸庭園があります。
古く豊臣時代の西の丸には多くの御殿が建ち並び、豊臣秀吉没後、慶長4年(1599年)には秀吉の正室である北政所が一時ここで暮らし、その後、慶長5(1600年)の関ヶ原の戦いまでは、 徳川家康が移り住んでいたことはよく知られていますね。
現在、入口は庭園南側の冠木門のみとなっています。

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総面積約6万4千平方メートルの芝生庭園となった西の丸は、現在は大阪市民憩いの場所として親しまれ、春には桜の名所として多くの人が訪れます。

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その桜並木です。
といっても、桜が咲いてないとただの樹木ですが(笑)。

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庭園西側から見た天守です。

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ズームするとこんな感じ。
この天守に淀殿豊臣秀頼が住んでいて、北政所はこうして天守を見上げながら暮らしていたんですね。
小説などでは、自ら望んで西の丸に移住したように描かれたりしていますが、実際には、どんな気持ちで天守を眺めていたのでしょう。
もっとも、豊臣時代の天守と今の天守は、大きさも外観もまったく違うものですが。

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西の丸庭園と本丸とのあいだは、こんなに大きな内堀高い石垣で仕切られています。

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こちらは庭園南西から撮影。
向こうに見えるビル群は、大阪ビジネスパークです。
江戸時代と現代の建築技術の粋をあつめた、大いなるミスマッチです。

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庭園内にある大阪迎賓館です。
これは、平成7年(1995年)のAPEC大阪開催の際に建てられたもので、史跡ではありません。

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その北側には、重要文化財に指定されている焔硝蔵という建物があります。
ここは徳川時代の火薬庫で、この中に大量の黒色火薬が保管されていたそうです。

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北側の高麗門です。
現在は開放されていません。

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重要文化財の乾櫓です。
「その1」で外堀側から見た乾櫓を紹介しています。

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こちらは重要文化財の千貫櫓です。
これも、「その1」で外堀側から見た千貫櫓を紹介しています。

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西の丸から見下ろした外堀です。
やっぱデカイですね。

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徳川時代に入り、元和5(1619)年に内藤信正が初代の大坂城代となり、翌年に西の丸はすっかり築き直されたそうです。
その後、明治維新まで70代の城代が、交代で管理にあたってきました。
明治以降は軍用施設として使用されていたそうですが、昭和40年(1965年)に西の丸庭園として開園したそうです。

次回は、二の丸に攻め込みます。

大坂の陣400年記念大坂城攻め その1 ~外堀~
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by sakanoueno-kumo | 2015-07-23 15:30 | 大坂の陣ゆかりの地 | Comments(0)  

花燃ゆ 第29話「女たちの園」 ~袖解橋の変と周布政之助の死~

 高杉晋作らの働きにより四ヵ国連合との講和は一応の決着をみましたが、そこへ追い打ちを掛けるように、幕府から長州征伐の軍令を受けた35藩による約15万の大軍が長州に進撃してきました。これにはさすがの長州藩も震え上がります。それでなくても四ヵ国連合艦隊との戦いでダメージを受けているのに、これ以上、幕軍に攻められら長州藩は潰れてしまう・・・そんな状況下で、藩上層部は幕府に泣訴哀願して一意恭順するという方針を主張します。いわゆる保守派、佐幕派である椋梨藤太を首領とする俗論党の台頭です。

 これに対し、高杉晋作、井上聞多、伊藤俊輔など強硬論である正義党の主張は、表面的には恭順を装い、ひそかに幕府との戦争準備を整える、というものでした。時勢もこの頃になると、かつて長州藩過激派を代表していたビッグネームたちはことごとく非業に斃れ、第二級の存在であった井上や伊藤が、にわかに正義党の顔になりつつありました。伊藤は松下村塾門下でしたが、井上はそうではありません。

 元治元年(1864年)9月25日、幕府に対して、恭順か、武装恭順かを決める最後の御前会議が、朝から山口の藩庁で開かれました。伊藤は身分が低いために会議には出席できず、晋作は四ヵ国連合との講和談判のあと身の危険を感じて潜んでいたため、井上が正義党の代表としてただひとりで会議に臨みました。その席で井上は数時間にわたって弁じ立て、ついに藩主・毛利敬親をして武装恭順の方針を決するに至らせます。同席者のほとんどが敵というなかで、たいしたもんですね。井上の弁説の持つ説得力はよほどのものだったのでしょう。

 しかし、藩主は井上の弁説を受け入れましたが、同席者皆が納得したわけではありませんでした。一意恭順を主張する俗論党の者たちにしてみれば、「井上は藩を滅ぼそうとするやつ」・・・という見方でしかなくなります。当然ですよね。たったひとりで藩主を説得してしまったわけですから、同席していた俗論党は敗北感に打ちひしがれたでしょうし、「井上は邪魔だ」という空気がわいてきた違いありません。井上が藩庁を退出したのは、この日の午後8時すぎ。その帰宅途中、俗論党の放った刺客に襲われ、ずたずたに斬られてほとんど一命を失わんばかりの瀕死の状態になります。ところが、幸運にも芸姑からもらったを懐に入れていたために急所がはずれていたのと、駆けつけた所郁太郎という医師の機転で、畳針を用いて傷口を縫い、一命をとりとめました。後年の本人曰く、あまりの苦痛から兄に「介錯を頼む」と告げたところ、老母が血だらけの身体に抱きついて兄を制止した、と語っています。所郁太郎と母がいなければ、明治の元老・井上馨はいなかったかもしれません。

 井上は奇跡的に助かりましたが、同じ夜、正義党の首領である周布政之助が命を落とします。切腹でした。周布はこの時期、山口の大庄屋・吉富藤兵衛宅に身を寄せていましたが、吉富家の者たちは数日前から周布に自刃の気配があることを察して監視していたといいますが、この日の深夜、皆が寝静まったのを見届けたあと死装束に着替え、庭に出て腹を切りました。享年42歳。その理由はいたって明白で、防長の国難に立ち至った責任を一身に引きうけてのことだったのでしょう。

 「藩を固くひとつに結び立ち向かうこと。そのためには礎がいる。これまでの全ての責めを負い、己をなげうってくれるものが・・・」

 周布を訪ねてきた椋梨の台詞ですが、あるいは、そんなやりとりもあったかもしれませんね。俗論党に政権を獲られた以上、どのみち椋梨は周布を政治裁判にかけて処刑したでしょう。そんなを晒すまえに、自らを処する道を選んだのかもしれません。実に党首らしい潔さといえます。遺書辞世の句が残っているのか調べがつかなかったので、小説『世に棲む日日』のなかの一文を引用します。

 「人ハ死スベキトキニ死セザレバ、カエッテ恥シメヲ受ク」

 現代でも数年前に政権交代がありましたが、あのとき敗北したどこかの党の上層部たちとは雲泥の差ですね。


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by sakanoueno-kumo | 2015-07-21 17:26 | 花燃ゆ | Comments(2)  

安保関連法案の成立で崩壊する安全保障と立憲主義。

大型台風が日本を直撃しているドサクサに紛れて、永田町では安保関連法案が衆議院を通過しましたね。
まあ、約1年前に憲法解釈の変更が閣議決定されたときから、遠からずこの日が来ることはわかっていたことでしたが。
「良識の府」とは名ばかりの参議院は有ってないようなものですから、およそ2ヶ月後に法案が成立することはほぼ免れ得ません。
これにより、「専守防衛」を堅持してきた戦後日本の安全保障政策は、大きな転換期を迎えることになります。

集団的自衛権云々については、ここではその賛否について述べるつもりはありません。
っていうか、1年前に述べましたが、法案が良いか悪いかはこの際どうでもいい。
問題は、憲法解釈の変更という最もやってはいけない裏技を使って法案を通したこと。
これはもはや、立憲主義の崩壊と言っても過言ではありません。
そもそも立憲主義とは、国民個々の自由と権利を守るため、憲法で権力者を拘束するためのものです。
その権力者が権力を使って憲法の解釈を変えるというのは、明らかに本末転倒でしょう。
いうまでもなく、日本の最高権力者内閣総理大臣です。
その内閣総理大臣の考え方ひとつで、憲法解釈を変えて国の根幹までもが変えられるというのであれば、そんな国あぶなっかしくてしょうがない。
わたしも日本の安全保障に日米安保の強化は不可欠だと思っているひとりですが、ただ、このたびの法案はどう屁理屈を並べても明らかに憲法違反
もし、どうしてもこの法案を通したいのであれば、たとえ遠回りでも、まずは改憲の道を探るべきだったんじゃないでしょうか。

安倍晋三首相は1年前、集団的自衛権行使の容認について、
「海外派兵は一般に許されないとの原則は全く変わらない。日本が戦争に巻き込まれる恐れは一層なくなる」
「自衛隊がかつての湾岸戦争やイラク戦争での戦闘に参加するようなことは、これからも決してない」

と言っていましたが、あるいは安倍政権のあいだはそうかもしれませんが、このたび安倍内閣が憲法解釈の変更を断行したように、10年後、20年後の政権が、集団的自衛権を拡大解釈することだってあり得るわけです。
かつて天皇陛下の統帥権関東軍が拡大解釈したことにより、何が起こったかを思い出してください。
解釈の変更とは、そういうことです。

安倍さんは昨日の記者会見で、
「日本国民の命を守り、戦争を未然に防ぐために絶対に必要な法案だ」
と述べていましたが、アメリカの報道では、
「これで日本は米軍と一緒に戦争ができる国になった」
と声高にうたっているそうです。
日本がこれまでアジアでイジメられながらも70年間平和でいられたのは、もちろん日米安保のおかげは大きいですが、日本が弱者だったから。
学校や社会でも、おとなしくしている弱者はあまりイジメられません。
もちろん強者もイジメられません。
イジメの対象となるのは、弱いくせに中途半端に強そうなふりをするヤツ
関西弁でいえば、「イチビリ」ってやつですね。
中途半端に武装しようとしている今の日本は、まさにイチビリ。
イジメたこともイジメられたこともなさそうなお坊ちゃんの安倍さんには、わからないでしょうね。

近現代史のベストセラー作家・半藤一利さんは、その著書『昭和史』のなかで、「近代日本40年説」を唱えられています。
明治維新から日露戦争まで、日本が世界の強国になるまでの40年
そこから第二次世界大戦の終結で、大日本帝国が滅ぶまでの40年
その後6年半の占領下を経て新しい国づくりをはじめ、高度経済成長を遂げて世界一の経済大国となり、バブルが弾けるまでの40年
つまり、国をつくるのに40年、国を滅ぼすのも40年、ということですね。
その論でいえば、いまは国を滅ぼす道途上ということになります。
国が滅ぶまで、あと十数年という計算になりますね。
今回の法案成立が、その出発点かもしれません。


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by sakanoueno-kumo | 2015-07-17 16:29 | 政治 | Comments(0)  

大坂の陣400年記念大坂城攻め その2 ~大手口、搦手口~

大坂城外堀内への入口は4ヵ所、南西に大手口、南東に玉造口、北東に青屋口、北西に京橋口があります。
まずは南西の大手口から。

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城の正面を「大手」といいますから、正面入口のことを大手口、そこに建つ門を大手門といいます。
つまり大手門は正門、いわば正面玄関ですね。
ちなみに裏口は「搦手(からめて)」と呼ばれ、ここ大坂城の場合、大手門以外の三つの入口は搦手口となります。
大手門は寛永5年(1628年)の徳川幕府による再築第3期工事の際に創建されたそうです。

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天明3年(1783年)の落雷により多聞櫓が焼失した際にも、類焼を免れた貴重な建造物で、現在は大手門を取り囲む土塀二棟とともに重要文化財の指定を受けています。

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大手門をくぐると、枡形の石垣上に多聞櫓があります。
ここも大手門の創建とともに築かれましたが、天明3年(1783年)の落雷によって全焼し、その後、嘉永元年(1848年)に再建されたそうです。
かつては京橋口や玉造口にも多聞櫓があったそうですが、現在はここだけが残っていて、重要文化財に指定されています。

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続いて南西の玉造口です。
かつてはここにも多門櫓が建っていたそうですが、明治維新の大火で焼失し、その後焼け残った玉造門も撤去されたため、現在では門の両脇の石組だけが残っている状態です。

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玉造口を入ったところから見た天守です。

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ズームしてみました。
復元城とはいえ、やはり美しいですね。

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次は北東の青屋口です。
ここには門が現存しますが、この門は昭和44年(1969年)に再建されたものだそうです。
もとは元和6年(1620年)の再築第1期工事の際に創建されたと伝わり、明治維新の大火によって被災しますが、その後陸軍によって修復されるも、太平洋戦争時の空襲で大破したそうです。

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昭和44年の再建時に使われた木材は、空襲時に大破した残材だそうです。

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門をくぐると内堀の石垣があり、その向こうに天守が見えます。

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最後に北西の京橋口です。
北方の寝屋川(旧大和川)に京都へ通じる「京橋」が架けられていることから、「京橋口」と呼ばれました。
戦前までは京橋門が残り、大手口と同様に多門櫓もあったそうですが、空襲で焼失してしまったそうです。

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あと、4つの入口以外に、元和6年(1620年)の再築第1期工事の際に二の丸の北外側に北外曲輪(三の丸)が築かれ、そこに筋鉄門が築かれました。
筋金門はその呼び名のとおり、筋状の鉄板で補強されていたそうです。
門は明治維新後も残り、ここに設置された軍事工場の正門とされたそうですが、現在は左右の石組だけが残ります。

いずれの入口も、徳川幕府の再建時、二代将軍徳川秀忠から三代将軍徳川家光の時代に築かれたもので、豊臣時代のものではありません。
豊臣時代の入口は、南北2ヵ所だけだったと言われます。
4ヵ所も入口を作れたのは、太平の世になったからでしょうね。

次回に続きます。

大坂の陣400年記念大坂城攻め その1 ~外堀~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その3 ~西の丸~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その4 ~二の丸・豊国神社~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その5 ~石山本願寺推定地の碑と蓮如上人袈裟がけの松~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その6 ~内堀~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その7 ~刻印石、巨石~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その8 ~本丸~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その9 ~天守閣~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その11 ~城中焼亡埋骨墳~

大坂の陣ゆかりの地めぐりシリーズも、よければ。
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大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~


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by sakanoueno-kumo | 2015-07-16 15:46 | 大坂の陣ゆかりの地 | Comments(0)  

花燃ゆ 第28話「泣かない女」 ~伊藤俊輔、井上聞多の留学と、下関戦争の講和談判~

 ドラマは未亡人となった奥御殿に入る「大奥編」に入りましたが、残念ながらわたしは文の奥御殿勤めの逸話をほとんど知りませんので、当ブログはあくまで長州藩を中心とした幕末の情勢に終始します。

 時は遡って、禁門の変(蛤御門の変)の1年以上前、長州藩は極秘で5人の若者を英国に留学させていました。メンバーは伊藤俊輔(博文)、井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉(井上勝)で、いずれも維新後それぞれの分野で活躍することになる人物ですが、そのなかでも特に伊藤俊輔と井上聞多は、政府高官となる人物として周知のところだと思います。この当時、攘夷の先鋒藩だった長州藩が西洋に留学生を出すなど矛盾した政策でしたが、これを企画実行したのは、このとき藩政の中心にいた周布政之助だったようです。周布は、攘夷論を表向きは肯定しながら、一方で、攘夷が不可能であることも感じ取っていました。そこで、来るべき西洋化の時代に向けての人材養成の必要性を感じていましたが、藩内は攘夷の狂気が絶頂のなか、表だった留学生派遣は不可能で、5人はあくまで「秘密留学生」としての密出国でした。周布のこのときの機転がなければ、伊藤や井上ののちの栄達はなかったかもしれませんね。

 留学した伊藤らは西洋との国力の違いを目の当たりにし、攘夷がいかに無謀な政策であるかを痛感しますが、彼らの留学中に長州藩は馬関海峡で攘夷を決行し、更に八月十八日の政変で京のまちを終われ、政局はめまぐるしく変わっていきました。留学先の英国の新聞で長州藩の現状を知った伊藤と井上は、藩の危機を案じ、他の3人の制止を聞かずに帰国を決意します。ふたりの英国滞在はわずか半年、中途半端な留学となりましたが、他の3人がその後、単なる西洋仕込みの知識人というだけに終わったことを思えば、ここが伊藤と井上の人生のターニングポイントだったといえるかもしれません。

 ふたりが帰国した約1ヵ月後に禁門の変が起こり、長州藩は瀕死の敗北を喫しますが、その翌月には、朝廷より勅許を得た幕府から長州征伐の軍令が下り、さらに時を同じくして元治元年(1864年)8月5日には、前年の馬関海峡における砲撃事件の賠償交渉が遅々として進まないことに業を煮やした英仏米蘭の四ヵ国連合艦隊17隻が、馬関海峡に姿を現し、一斉に砲撃を開始しました。まさに、泣きっ面に蜂とはこのことでしょう。このときの長州藩は、国内外すべてを敵に回した究極のいじめられっ子でした。

 8月8日、長州藩の降伏が決定すると、その講和の席に誰を送り込むかを思案した結果、外国人相手に交渉できる胆力があるのは高杉晋作しかいないだろう、ということになります。このとき晋作若干24歳。ついこの前まで罪人として獄に繋がれていた若造が、いきなり藩代表として事にあたるわけですから、いかにこの時期の長州藩上層部に人材がいなかったかがわかります。しかし、150石の身では藩代表とはなれないため、臨時で藩筆頭家老である宍戸家の養子ということにし、名を宍戸刑馬として交渉にあたりました。そしてその通訳官として、英国帰りの伊藤と井上が同席することになります。ふたりはこのために帰ってきたようなものですね。

 談判の席において連合軍はさまざまな条件を突きつけてきますが、そのなかで、彦島を(香港のように)百年ほど租借地にさせてくれとの要求があったといいます。晋作は、他の条件はほぼ受け入れたたのに対し、この要求は頑として拒否します。後年の伊藤の回想によると、このとき晋作は、古事記、日本書紀の講釈をはじめたといいます。
 「そもそも日本国なるは高天原よりはじまり、はじめ国常立命ましまし、つづいて伊弉諾・伊弉冊なる二柱の神現れ・・・」
 と、他の長州藩士も連合国側も呆然とするなか、延々と説き続けました。つまり晋作がいうところは、日本は神代より一民族の国家であり、1センチ四方の土地とて譲ることは出来ないということでしたが、その結論に至るまで、およそ2日間日本の歴史を説き続けたといい、相手が呆れて止めても聞かず、最終的には、相手側が疲れ果てて「もういいよ」と、租借の要求を撤回しました。租借地=植民地化ということを、上海を見てきた晋作は十分知っていたのでしょうが、これを取り下げさせた晋作の交渉術は、見事というべきか無茶苦茶というべきか・・・。いずれにせよ、もし租借の要求を受け入れていれば、日本の歴史はずいぶん変わっていたかもしれませんね。このときの晋作の様子を、英国通訳官だったアーネスト・サトウはのちに、「戦争に負けたくせに『魔王』の如く威張っていた」と描写しています。

 魔王の働きによって連合国との講和は決着をつけましたが、長州藩の試練はまだまだ続きます。


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by sakanoueno-kumo | 2015-07-14 17:24 | 花燃ゆ | Comments(4)  

大坂の陣400年記念大坂城攻め その1 ~外堀~

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上の写真は、大坂夏の陣図屏風の右隻。
現在、大坂城天守閣に所蔵されています。
「大坂の陣」とは、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣と、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣の二つの戦いのことで、いうまでもなく、徳川新政権豊臣秀吉亡き後の豊臣家を滅ぼした戦いのことですね。
今年は、その夏の陣からちょうど400年にあたります。
そこで今回、400年後の大坂城を攻めてみようと思い至りました。
しばらくのあいだ、お付き合いください。

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といっても、大坂城はバカでかいですから、とても簡単には攻めきれませんので、徳川家康のように、じっくり時間をかけていきたいと思います。
まずは外堀から。

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南外堀です。
大坂城の天守は周知のとおり復元ですから、その歴史的価値はむしろ、この壮大な石垣にあります。
その石垣も、徳川幕府による再建時のもので、大坂の陣当時の豊臣時代のものではありません。

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南外堀の石垣は寛永5年(1628年)、徳川幕府による再築第3期工事により、豊臣時代の堀跡に築造されたそうです。

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南外堀東にある一番櫓です。
かつては石垣上に一番櫓から七番櫓まであったそうですが、明治維新の大火により四番・五番・七番を失い、さらに太平洋戦争時の空襲により二番・三番を失って、現在は一番櫓と六番櫓だけが残っています。

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南外堀西にある六番櫓です。

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つづいて上の写真は東外堀です。
元和6年(1620年)、再築第1期工事で石垣が築造されたそうです。
北外堀と繋がっていて、総延長は合わせて約3キロメートルあるそうです。

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そして東外堀から続く北外堀です。
わずかに天守の最上階が見えますが、堀の幅は最大90mもあるそうです。
周知のとおり、徳川家康は大阪冬の陣後の講和によってこの堀を埋め立てたわけですが、この大河のような壮大な堀を、わずか1ヵ月足らずで埋めてしまうんですよね。
すごい土木工事事業です。
埋め立て工事には相当手間取ったらしく、周辺の家や屋敷を破壊してまで埋め立てを強行したといわれます。
そんなこともあって、大坂のまちは家康嫌いが多く、庶民はいつまでも太閤びいきだったのでしょうね。

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北外堀と西外堀の角ににある乾櫓です。
向こうに見える高層ビル群は、大阪ビジネスパーク
大坂城ならではの大いなるミスマッチです。

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最後は西外堀です。
ここも東・北外堀と同じく、再築第1期工事に石垣が築造されたそうです。
総延長は約1.5km、堀の最大幅は約75mあります。
ここもかろうじて天守が見えます。

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西外堀大手門横にある千貫櫓です。
西外堀には、この千貫櫓と上記の乾櫓以外に、もうひとつ坤櫓があったそうですが、焼失してしまったそうです。

ようやく1周しましたが、やはり大坂城はデカイ
攻め落とすのは相当時間がかかりそうです。
次回は、外堀の中に入ります。

大坂の陣400年記念大坂城攻め その2 ~大手口、搦手口~
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by sakanoueno-kumo | 2015-07-10 20:56 | 大坂の陣ゆかりの地 | Comments(0)