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花燃ゆ 第35話「孤高の戦い」 ~四境戦争~

 慶応2年(1866年)1月に薩長同盟が結ばれた同じ年の6月、幕府による第二次長州征伐が開始されます。幕府軍の兵力は総勢15万の大軍。一方、迎え撃つ長州藩の兵力は、奇兵隊ら諸隊を中心とするわずか4千ほどでした。誰がどう贔屓目にみても衆寡敵せず。30倍以上の兵力差では、勝ち目があるはずがありません。ところがところが、長州藩はこの戦いに勝っちゃうんですね。ここが、長州史のいちばんの見せ場です。

 幕府が負けた理由はいくつもあります。まずひとつには、そもそもこの第二次長州征伐は、約1年も前から叫ばれていたものの、諸藩がなかなか応じませんでした。というのも、前年からこの年にかけて各地で一揆が起きており、諸大名たちはその対応に負われていました。幕府の無策によって米価が暴騰し、庶民の生活が貧窮していたのです。また、諸藩は1回目の長州征伐で多くの経費を使っており、財政難に陥っていました。そんな状態のなかでの長州再征の命令だったので、ほとんどの諸藩が兵を出し渋り、足並みが揃わなかったんですね。そうこうしているうちに1年がすぎ、やむなく幕府は、なるべく地理的に長州に近い西国の藩で征長軍を結成します。西国の藩にしてみれば、貧乏くじを引かされたようなもので、そんな経緯でできた軍ですから、モチベーションが上がるはずがありません。

 一方の長州軍は、大村益次郎を総参謀長に任じ、西洋式軍備を導入。同盟を結んだ薩摩藩の協力のもと、最新のミニエー銃ゲベール銃を大量に買い込んでいました。また、奇兵隊などの諸隊は下級藩士や領民などからの志願兵によって編成されており、指揮官の戦略どおりに動く組織が構築されていました。わが国における近代式軍隊の魁ですね。敵対する幕府軍のほうは、多くの兵が動きにくい甲冑を着込み、、旧式の火縄銃を手にしていました。また、諸藩の寄せ集めのため指揮系統が整わず、大軍の力を発揮できずにいました。どれほどの大軍であっても、それを動かす指揮系統が整っていなければ、軍は機能しないんですね。逆に少数精鋭の長州軍は、大村益次郎の考案によって戦線を芸州口、石見口、周防大島口、小倉口にに分け、それぞれの戦闘は各方面の指揮官に委ねました。それでこの戦いは、のちに「四境戦争」と呼ばれるようになるんですね。

 この戦いで高杉晋作海軍総督として丙寅丸(オテントサマ丸)に乗り込み、周防大島沖に停泊する幕府艦隊に夜襲をかけてみごと撃沈します。また、小倉口の戦いにおいても、大暴れして幕府軍を敗走させます。天才・高杉晋作がもっとも輝いていた時期ですが、皮肉にもこのとき晋作の身体は、すでに病魔で蝕まれていたんですね。

 そんななか、幕府軍の敗走を決定づけることとなったのが、第14代将軍・徳川家茂の死去でした。享年21歳。死因は脚気衝心だったと言われていますが、幕末の動乱期にわずか13歳で将軍となり、もみにもまれ、心労につぐ心労の日々だったことも、死期を早めた要因だったかもしれません。家茂の死に関しては厳重な箝口令が布かれますが、それでも、どこからともなく情報が漏れ、またたく間に幕府方では公然の秘密となります。こうなると、もはや士気はダダ下がり。もともとこの戦いに乗り気ではなかった諸藩の兵たちは、先を争って戦線離脱を開始します。

 こうして、4千の兵が15万の大軍に圧勝しました。この敗北によって、いよいよ幕府の権威は地に落ちます。歴史が大きく動くときというのは、このような奇跡が起こるものなんでしょうね。こういうのを、大きな歴史のうねりというのかもしれません。このとき、そのうねりを起こした主役は、まぎれもなく長州藩でした。


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by sakanoueno-kumo | 2015-08-31 22:32 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)  

大坂の陣400年記念大坂城攻め その11 ~城中焼亡埋骨墳~

時代は進んで幕末、大坂城にはもうひとつの歴史があります。
慶応3年(1867年)12月9日に発せられた王政復古の大号令のあと、二条城から追われた第15代将軍・徳川慶喜は、ここ大坂城に入ります。
そして年が明けた慶応4年(1868年)1月3日、旧幕府軍と新政府軍が激突した「鳥羽・伏見の戦い」が始まりますが、薩長軍が錦旗を掲げたことにより賊軍となった旧幕府軍は、その後も各地で奮戦はするものの、敗色は濃厚となります。
そんななか、幕府軍総司令官である徳川慶喜は、6日夜、ひそかに大坂城を脱出して海路江戸に逃げ帰っちゃうんですね。
このとき、老中はじめ京都守護職の松平容保や京都所司代の松平定敬も、慶喜の厳命により、家臣たちを置き去りにして江戸へ向かうことを余儀なくされました。
翌朝、主君に欺かれたことを知った大坂城中の将兵たちが、呆然自失となったことは言うまでもありません。
このときの行動が、後世に徳川慶喜という人物の評価を下げた最大の要因であるといっていいでしょう。

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写真は大坂城玉造口南に建立されている「城中焼亡埋骨墳」です。
この碑は、慶喜が去ったあとの城中で、城と共に自害して果てた幕臣たちの慰霊碑です。
総大将がいなくなった大坂城では、もはや戦いを続ける理由もなく、翌日の7日から兵の退去が始まりますが、1月9日、新政府軍への城の開け渡しを潔しとしない幕臣たちが、城に火を放ち、自害して果てました。

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石碑の裏には、「慶応四年辰歳七月 薩州・長州建之」とあります。
つまり、この碑は焼失からわずか半年後に、しかも敵である薩長軍によって建てられたんですね。
大坂城から上がった火が鎮火した翌日の1月10日、錦の御旗を掲げて大坂城に入った征討大将軍・仁和寺宮嘉彰親王(小松宮彰仁親王)と薩長軍は、焼け跡のなかに多くの遺体を確認します。
それを見た薩長兵たちは、城と運命を共にした幕臣たちを「武士の鑑」とたたえ、その遺骨をこの地に埋葬して石碑を建てたそうです。

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この日の大坂城は観光客でいっぱいでしたが、ここに足を運ぶ人はほとんどいませんでした。
場所は外堀の更に南のはずれにあり、たぶん、あまり知られてないんでしょうね。
写真のように、ひっそりとした場所です。

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慶喜がなぜ土壇場で逃げ出したかは、いろんな見方があって定かではありません。
わたしが思うに、水戸学の本拠地である水戸徳川家出身の慶喜にとって、朝敵になることは耐え難きことだったのだろうと推察します。
聡明すぎたんですね。
ただ、理由はどうあれ、結果的に彼が敵前逃亡したことによって、その後の内乱は最低限の局地戦ですみ、その結果、多くの人命を失うことなく、新政府樹立へのプロセスをスムーズにし、日本の植民地化を目論む欧米列強につけ入る隙を与えなかったことを思えば、それが慶喜の意とするところだったかどうかは別として、結果的に我が国を危機から救ったといえます。
幕末維新の最大の功労者は徳川慶喜だった・・・とは、少し過大評価かもしれませんが、もう少し高く評価してあげてもいいんじゃないでしょうか。

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このとき城に放たれた火は、真冬の乾燥した空気のなか一晩中燃え続け、ほとんどの建造物が焼失しました。
慶喜の逃亡によって内乱は防げましたが、慶喜が逃げなかったら、大坂城の建造物などの遺産が、もっと後世に残されていたかもしれませんね。
兵どもが夢の跡・・・です。

さてさて、「その11」まで続いた大坂城攻めシリーズですが、この辺で終わりたいと思います。
近日中に、大坂城以外の大坂の陣関連史跡をめぐっていこうと思っています。

大坂の陣400年記念大坂城攻め その1 ~外堀~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その2 ~大手口、搦手口~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その3 ~西の丸~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その4 ~二の丸・豊国神社~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その5 ~石山本願寺推定地の碑と蓮如上人袈裟がけの松~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その6 ~内堀~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その7 ~刻印石、巨石~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その8 ~本丸~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その9 ~天守閣~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~

大坂の陣ゆかりの地めぐりシリーズも、よければ。
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大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~


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by sakanoueno-kumo | 2015-08-28 22:11 | 大坂の陣ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

花燃ゆ 第34話「薩長同盟!」 その2

 昨日のつづきです。

 一度レールを外れてしまった「薩長和解」への道を、再び軌道修正することは至難の技でした。中岡慎太郎は早速、西郷吉之助の元へ赴き、薩長が手を結ぶことの必要性を激しく説きまが、断交状態にある二つの雄藩のそれぞれの事情は、「道理」では容易に動きませんでした。そんななか、ここからが坂本龍馬の活躍です。龍馬は、二つの雄藩を「道理」ではなく、「実利」で動かそうとします。

 まず長州藩に提示したのは、龍馬が運営する亀山社中が薩摩名義で武器船舶を購入し、長州へ回送するというプランでした。幕府は諸藩に長崎で直接外国から武器を購入することを禁じていましたが、第二次長州征伐を控えて、幕府に味方する諸藩の貿易は黙認されていました。それを利用して、長州に横流しするというのです。幕府との戦を想定して軍制改革に着手していた長州藩にしてみれば、願ってもない話です。しかし、一方的に薩摩が長州を援助するかたちでは、対等な同盟関係を結べません。そこで龍馬が考案した次のプランが、薩摩藩士が上洛し、征長戦を阻止するために必要な兵糧米が不足しているため、下関で米を売ってはもらえないかというものでした。これを長州藩は快諾します。このギブアンドテイクの関係が成立すると、同盟の話が再びテーブルの上に乗ります。「道理」ではなく「実利」。このあたりは、中岡や土方には考え及ばない龍馬ならではの周旋力ではないでしょうか。

 それともうひとつ。このときの長州藩の首相に、我慢強い桂小五郎が就いていたというのも大きかったでしょうね。本来、革命を成立させた高杉晋作が首相的立場に就くべきでしたが、ちょうどこの時期、四国に逃亡して長州を不在だったため、潜伏先の出石から呼び戻された桂が、藩のスポークスマンを任されていました。もし、このときの外交官が晋作だったら、きっと西郷がすっぽかした時点で、全面戦争の体制に入ったんじゃないかと・・・。その点、桂は政治家でした。歴史というのは、上手くできているものです。

 そして慶応2年(1866年)1月8日、京の薩摩藩家老・小松帯刀邸で、桂、西郷の会談が始まります。この席には、龍馬も中岡も土方もいませんでした。ここまで斡旋したのだから、あとは当事者同志に任せるといったところだったのでしょう。ところが、会談が始まって10日が過ぎた1月20日、京に入った龍馬は愕然とします。協定はまとまらぬまま、桂は帰ろうと身支度をしていたのです。桂がいうには、西郷らは毎日接待に気を使い、ご馳走攻めにはするものの、一言も両藩の協定について口火を切ろうとしない・・・とのこと。「ならば、なぜ長州から口火を切らぬ。」と龍馬が尋ねると、「それは出来ぬ。」と桂はいいます。曰く、両藩の立場が違う・・・と。その理由を『木戸孝允自叙ノ要領』から抜粋すると、
「薩州ハ公然天子ニに朝シ、薩州ハ公然幕府ニ会シ、薩州ハ公然諸侯に交ル」と。
 つまり、合法的に天子とも幕府とも諸侯とも交われる立場の薩摩に対して、孤立無援の長州から協定の口を開くということは、助けてくれというのと同じだ・・・というんですね。これを聞いた龍馬は激怒します。いつまで「藩」の体面にこだわっているのか、と。
「拙者らが両藩のために寝食を忘れて奔走するのは、決して両藩のためではない。一意国家を思えばこそだ。しかるに貴兄らは足を百里の外に労し、両藩の重役相会しながら今日まで為す事もなく日を送るのは、はなはだ心得ぬことではないか。」と。
 のちに龍馬は、亀山社中の中島作太郎に、「おもえば自分は生まれてこのかた怒ったことがなかった。しかしあのときばかりは、度を失うほどに腹が立った。」と語っています。

 桂は龍馬の怒りを理解できなくはなかったでしょうが、感情がそれを許さなかったのでしょう。感情は理屈ではありません。これまでの長州人の苦しみを考えれば、理屈ではどうにもならない意地がありました。その意地を貫くためなら、長州は滅んでもかまわない・・・とまで桂はいいます。
「薩州、皇家ニ尽スアラバ、長州滅スルトイヘドモ亦天下ノ幸ナリ」と。
 長州は面目にこだわりはしたが、「天下」のことを考えていないわけではない。薩摩が生き残り、皇国のために奮闘してくれるならば、長州は滅んでもかまわない、と。この言葉を聞いた龍馬の態度は、また『木戸孝允自叙ノ要領』の文章を借りると、
「龍馬、黙然タルコト稍久シク、桂ノ決意牢固トシテ容易ニ動カスベカラザルヲ察知シ、マタ敢ヘテ之ヲ責メズ。」とあります。
 龍馬は桂の立場を理解しました。

 その足で龍馬は、西郷のもとに駆けつけます。薩長両藩の提携は、その目前に際して、感情の整理が必要だったんですね。龍馬は西郷に対して、薩摩と長州のおかれた立場があまりにも違いすぎることを説きます。そして、この期に及んでなおも藩の体面と威厳を保とうとする薩摩を責めました。西郷は龍馬の説くところを理解します。そして翌日、もう一度桂と会い、西郷から長州との提携の議をもちだしました。同席したのは、薩摩側から西郷隆盛、小松帯刀、長州側から桂小五郎、そして仲介人として坂本龍馬の4人でした。

慶応2年(1866年)1月21日、ここに「薩長攻守同盟」が結ばれ、歴史はいよいよ「倒幕」の道をたどることになります。


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by sakanoueno-kumo | 2015-08-25 23:26 | 花燃ゆ | Trackback | Comments(0)  

花燃ゆ 第34話「薩長同盟!」 その1

 長州藩正義党の革命から薩長同盟成立まで、本話で一気に1年も話が進んじゃいましたね。そこで本稿では、その間の流れを足早に解説します。

 高杉晋作ら反乱軍のクーデターが成功し、元治2年(1865年)1月27日、藩主・毛利敬親は藩政改革を約束します。こうして長州藩の政権は再び正義党が握るのですが、かつての正義党政権のときと根本的に違うのは、中心人物たちが「攘夷」という思想を捨てていたことでした。とくに、彼らを牽引する立場の高杉晋作が、率先して開国論を唱えはじめ、下関の開港を推し進めようとしたため、攘夷・俗論両派から命を狙われます。そんなわけで晋作は、一時、愛妾のおうのと共に、四国へ身をくらませていました。

 同時に新政権は、武装恭順という藩是を掲げます。武装恭順とは、表向きは幕府への恭順を装いながら戦闘準備をすすめるということで、いずれ幕府とやり合わなければならないと覚悟を決めた政策です。そこで長州藩は、兵力の近代化をはかるため、大村益次郎を起用して軍制改革を任せ、水面下で軍事力の強化をはかります。しかし、そうした長州藩の動きを、幕府がだまって見過ごしているわけはありません。長州藩内の政局を敏感に察知した幕府は、再び長州征伐軍を編成すべく、将軍・徳川家茂が大阪に入ります。元号を元治から慶応に改めた5月のことでした。

 ところが、2回目の長州征伐の号令に対して、薩摩藩が出兵を拒否します。その理由は、「このたびの長州再征は幕府と長州の私闘である」というものでしたが、実は水面下で薩摩藩と長州藩の手を握らせようという勢力が働き始めていました。その中心となっていたのが、土佐藩士の中岡慎太郎土方楠左衛門、そして坂本龍馬でした。ドラマでは龍馬ひとりが働いていたかのようでしたが、薩長同盟の構想に向けて最初に動き出したのは、中岡と土方でした。龍馬は、土方から構想を聞き、途中から協力することになります。

 5月、三条実美ら五卿に拝謁するため筑前太宰府を訪れていた龍馬は、たまたま密使として太宰府に来ていた長州藩士・塩間鉄蔵と名乗る人物に会います。この人物は、このとき変名を使っていた小田村伊之助でした。あまり知られていませんが、龍馬がはじめて長州藩士に薩長同盟の構想を語ったのが、このときの伊之助だったという説があります。伊之助は龍馬の話に強い関心を抱き、桂小五郎宛に龍馬との面会を勧める手紙を送っています。龍馬関係の物語などでは、龍馬と小五郎は若き日の剣術修行の頃からの旧知の仲で、薩長同盟時にもふたりの友情関係が大いに役だったように描かれることが多いですが、実際には、江戸で剣術修行をしていた時期も異なり、ふたりが知り合いだったことを裏付ける史料は存在しません。あるいは、このとき初めて知り合ったのかもしれません。

 桂と面会した龍馬は、土方とともに3日がかりで説得を重ねます。一方、薩摩には中岡が赴き、西郷吉之助を説得していました。そして同年閏5月21日、下関で西郷と桂の会談が行われる手筈が整います。ところが、約束の日に現れたのは、中岡ひとりでした。聞けば、実は下関港まで一緒に来たものの、突如京都にいる大久保一蔵から「至急上京すべし」との一報が入り、約束をほっぽっていっちゃった、とのこと。これには温厚篤実な桂も激怒。中岡と土方が構想した薩長同盟は暗礁に乗り上げてしまいます。

やはり1年分の話を1稿でまとめるのは無理でした。
続きは明日にします。


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by sakanoueno-kumo | 2015-08-24 23:32 | 花燃ゆ | Trackback | Comments(0)  

大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~

天守の北側の山里口を抜けて石垣を下ったあたりを、山里丸と呼びます。
豊臣時代には、山里の風情を持つ松林などの木々が繁り、いくつもの茶室が建っていました。
茶会花見を楽しむ豊臣家のくつろぎの場所だったそうです。

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天正11年(1583年)に大坂城の築城を開始した豊臣秀吉は、翌年1月、天守よりも早く、ここで茶室完成のお披露目を行っています。
没後は遺児・豊臣秀頼によって、父・秀吉を祀る豊国社がこの場所に建てられました。

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いまでも、絢爛な天守とは異質な、閑静な風情の空間として存在しています。

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現在、この山里丸の一角に、「豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地」と刻まれた石碑が建っています。

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慶長20年(1615年)5月7日、大坂夏の陣によって大坂城は落城しますが、その翌日、秀頼と淀殿、そしてその側近の者たちは、ここ山里丸にあったに籠り、側近の大野治長が、秀頼の妻で徳川家康の孫でもある千姫の身柄と引き換えに秀頼の助命を嘆願するも、家康の容れるところとならず、結果、櫓に自ら火を放ち、自害して果てます。

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石碑は、いくつかの史料にある「朱三櫓」があったとされる場所に建てられていますが、実際には、秀頼の最期の場所がどこであったかは諸説あって、正確なことはわかっていません。
まあ、慰霊碑ですから、だいたいこの辺りだったと考えればいいのかなぁと思います。

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その後、秀頼と淀殿の最期を目撃した者の証言や記録などは存在せず、また遺体も確認されなかったため、当時から様々な生存説が囁かれてきました。
ふたりの不死鳥伝説を以前まとめた稿がありますので、よければそちらを一読ください。
    ↓↓↓
映画『プリンセス・トヨトミ 』鑑賞記 その2 ~豊臣家の不死鳥伝説~
まあ、どの生存説も根拠に乏しく事実無根とみていいのでしょうが、ただ、それだけ多くの生存説を生み出した背景には、当時の庶民感情のなかに、徳川新政権への反感と、豊臣政権の復活を望む思いが、少なからず存在していたことの表れだったのでしょう。

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この日も誰かが生けた花が供えられていましたが、この碑は天守に向かう道からすこし脇道にそれた場所にあり、この日も大勢の観光客がいたにも関わらず、ここに足を運ぶ人は少なかったですね。
それが何とも寂しく、でも、目立つ場所でたくさんの観光客に囲まれるよりは、陽の当たらない場所でひっそりと静かに眠っていたいと思っているかもしれませんね。
命日はもう過ぎましたが、今年はふたりの400回忌の年です。
合掌。

あと、もう一回だけ続きます。

大坂の陣400年記念大坂城攻め その1 ~外堀~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その2 ~大手口、搦手口~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その3 ~西の丸~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その4 ~二の丸・豊国神社~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その5 ~石山本願寺推定地の碑と蓮如上人袈裟がけの松~
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大坂の陣400年記念大坂城攻め その7 ~刻印石、巨石~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その8 ~本丸~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その9 ~天守閣~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その11 ~城中焼亡埋骨墳~

大坂の陣ゆかりの地めぐりシリーズも、よければ。
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大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~


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by sakanoueno-kumo | 2015-08-21 20:03 | 大坂の陣ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

大坂の陣400年記念大坂城攻め その9 ~天守閣~

現在の大坂城天守閣は言うまでもなく復元ですが、昭和6年(1931年)に建設された日本最古の復元城で、平成9年(1997年)には文化財保護法に基づく国の「登録有形文化財」に指定されました。
復元といえども、文化財としての価値が認められたということですね。

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初代天守は豊臣秀吉が築城を開始して3年目の天正13年(1585年)に完成しましたが、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で焼失。
太閤大坂城はわずか30年の命でした。
その後、2代将軍徳川秀忠によって寛永3年(1626年)に2代目天守が再建されますが、寛文5年(1665年)の落雷による火災によって、ふたたび焼失してしまいます。
これも、40年ほどの寿命だったんですね。
以来、幕末に至るまで大坂城は天守のない城郭として存在してきましたので、現在の復元天守は3代目ということになります。
現在の天守が建てられてから86年経ちますから、3台目がいちばん長いわけですね。
こうなると、もはや「復元城」の域を超えたといえそうです。

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復元天守は、「大坂夏の陣屏風」に描かれた豊臣時代の天守を参考に築かれたそうですが、たしか、当時の大坂城の外壁は白の漆喰ではなく、黒漆塗りの板貼りだったと思います(屏風絵の大坂城もそうなっています)。
参考にしたというのは、かたちだけのことでしょうか?

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小天守台にある金明水井戸屋形です。
ここにある井戸を「金明水」といい、それを覆う建物を金明水井戸屋形といいます。
伝説によると、秀吉が水の毒気を抜くために、この井戸に黄金を沈めたといわれますが、戦後の学術調査によると、この井戸は徳川時代に掘られたものと判明したそうです。
それにしても、大坂城にまつわる伝承というのは、ほとんどが秀吉がらみばかりで、徳川時代の伝承というのはあまりありませんね。
徳川時代に入っても、大坂城の象徴はやはり太閤さんだったんですね。

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天守の入口です。
この日も観光客でいっぱいでした。

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見上げると金の鯱が、そして最上階の壁面には金の伏虎が見えます。
城内には、その原寸大レプリカが展示されていました。

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天守の中は博物館なので、特に紹介するものはありません。
内装はただの古いビルです。
必見なのは、「その1」の冒頭で紹介した「大坂夏の陣図屏風」の現物が展示されていること(撮影禁止)。
あと、夏の陣のフィギュアが面白かったですね(こちらは撮影OKでした)。

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来年の大河ドラマの主役、真田信繁(幸村)だそうです。

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せっかくなので、天守最上階から見た景色を載せておきましょう。
まずは南面の本丸御殿跡です。

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西面の西の丸庭園

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こちらは北面、右手に見える高層ビルは、大阪ビジネスパークです。

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そして東面、野球場と大阪城ホールが見えます。

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以上、天守を落としたところで大坂城を完全制覇・・・と言いたいところですが、もう少しだけお付き合いください。

大坂の陣400年記念大坂城攻め その1 ~外堀~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その2 ~大手口、搦手口~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その3 ~西の丸~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その4 ~二の丸・豊国神社~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その5 ~石山本願寺推定地の碑と蓮如上人袈裟がけの松~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その6 ~内堀~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その7 ~刻印石、巨石~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その8 ~本丸~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その11 ~城中焼亡埋骨墳~

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大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~


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by sakanoueno-kumo | 2015-08-19 19:36 | 大坂の陣ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

花燃ゆ 第33話「花となるために」 ~革命成立~

 高杉晋作を中心に立ち上がった反乱軍は、日に日に勢力を増していき、やがて藩政府軍を圧倒。椋梨藤太を首領とする俗論党は、政権運営の後ろ盾となる軍事力をほぼ失います。こうなると、あとは革命軍の連戦連勝、政権交代は時間の問題となるのですが、ここで登場するのが中立の立場をとる集団で、そのほとんどが萩の上士団のなかからあらわれ、かれらは自らを「鎮静会議員」と称しました。中立といっても、その主張は晋作ら反乱軍と変わらず、諸隊が武力に物をいわせた過激派というのに対し、鎮静会議員たちは、事の荒立てずに穏便に鎮静させようという調停勢力でした。その数は革命軍が勢力を増すのと並んで膨れ上がり、絵堂・大田の戦いで藩政府軍が敗れたあとは、約200人に及んでいました。ちなみに、「議員」という呼称が日本史に初めて登場したのは、このときだそうです。

 鎮静会議員の代表者たちは、内戦の終息をはかるべく和平交渉に動き始めます。そのなかには、吉田松陰の実兄・杉梅太郎(民治)もいました。梅太郎は温厚篤実を絵に描いたような人物だったといわれ、調停役にはもってこいの存在だったのでしょうね。梅太郎らは元治2年(1865年)1月16日に萩城に赴き、藩主・毛利敬親に対して、反乱軍の主張をのむよう諌言します。

 一方で、反乱軍が占拠する山口には、香川半介、桜井三木三、冷泉五郎、江木清治郎の4名が和平交渉の使者として赴きます(ドラマでは、このメンバーにも梅太郎が入っていましたが)。そこで彼らは、藩主の説得を約束するとともに、ひとまず萩には突入しないよう休戦を促します。ところが、その帰路、彼らは和平を良しとしない藩政府軍の刺客に襲撃され、香川、桜井、冷泉は絶命、江木も深手を負います。

 これを知った晋作らは激怒し、休戦勧告を無視して海上からさかんに空砲を放ち、藩政府を威嚇します。また、これまで中立的立場をとってきた鎮静会議員の主張もどんどん過激になっていき、「藩政府の首領、椋梨藤太、岡本吉之進らを罷免せよ」と、もはや反乱軍の別働隊のような働きをはじめました。こうなると、藩主・敬親も彼らの要求を無視できなくなり、とうとう椋梨らは罷免され、俗論党は藩の中枢から追放されます。革命は成りました。

 罷免された椋梨ら12名は萩を脱出して石州津和野藩領まで逃げ、吉川監物を頼って岩国に向かおうとしましたが、途中で捕らえられて萩に護送されました。そして同じ年の5月、かつて松蔭や晋作が投獄されていた野山獄にて処刑されます。死に際して椋梨は、「私一人の罪ですので、私一人を罰するようにお願いします」と懇願したといわれ、他の者が切腹の刑を申し付けられるなか、椋梨だけが斬首だったといいます。

 「あの人は城から逃げたのではない。ただ、己が巻き込んだ者たちを逃がしてやりたかったのです。そういう人です。」

 椋梨の妻・美鶴が、寿に言った台詞ですが、あるいは、そうだったのかもしれませんね。ほころびが出ても秘書の責任にして生き残ろうとする現在の政治家とは、雲泥の差です。

 その潔さでいえば、藩主・毛利敬親もまたそのひとりで、佐幕派に推戴されたことを公式に後悔し、「すべては自分の不徳不明により起こったこと」と、封建時代の大名としてはおよそ異例の諭告文を、藩内の士民に対して発しています。敬親のような藩主だったから、長州は革命集団たり得たのでしょう。

 で、主役の美和についてですが、ちょうどこの時期に誕生した毛利家の世子・興丸(のちの毛利元昭)の守役を務めた、と彼女の関連本などに記されているだけで、その奮闘ぶりなどは一切わかりません。正直、どうでもいいかな・・・と(笑)。

 そして時代は、いよいよ慶応年間に入ります。


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by sakanoueno-kumo | 2015-08-17 19:55 | 花燃ゆ | Trackback | Comments(2)  

花燃ゆ 第32話「大逆転!」 ~功山寺挙兵~

 たったひとりで決起した高杉晋作でしたが、ほどなく力士隊を率いていた伊藤俊輔が同調して立ち上がります。すると、少しずつ共鳴する者たちが増え、遊撃隊も加わります。この時点の人数は、物の本によれば84人だったといわれていますが、司馬遼太郎氏の小説『世に棲む日日』では80人半藤一利氏の著書『幕末史』では60余人と書かれています。いずれにせよ、長州藩正規軍の兵力は役3000人。どう考えても衆寡敵せずですが、晋作はこの人数で挙兵します。

 「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。」

 とは、晋作の師である吉田松陰の有名な言葉ですが、これは、松蔭の生前、晋作が「男子たるもの死すべきところはどこなのか?」と質問したことに対しての答えだったといいます。今こそ命を賭けるべきとき・・・晋作は師の言葉を思い出し、そう覚悟したことでしょう。

 挙兵決行日は元治元年(1864年)12月15日。本当は、先日の14日に挙兵する予定だったようですが、準備に手間取り翌日にずれ込んでしまったと言われています。12月14日は、師の吉田松陰が最初に脱藩した日であり、また、赤穂浪士吉良邸討ち入りの日でもありました。自身の覚悟を、赤穂四十七士や松蔭の覚悟になぞらえていたのではないかと言われています。奇しくも、この日は吉良邸討ち入りのときと同じく、下関では珍しい大雪でした。

 立ち上がった反乱軍は、三条実美五卿がいた功山寺に集結。ここで晋作は三条らに、「是よりは長州男児の腕前お目に懸け申すべく」と言ったと伝えられます。この言葉は、この時期、ほうぼうに喧伝されました。周囲は大雪。死を覚悟し、わずか数十人で決起した反乱軍のリーダーの台詞としては、あまりにカッコよすぎですね。この辺りも、晋作が後世に人気の高い所以でしょう。そして、翌16日からは下関の会所、三田尻海軍局などを次々と襲撃して代官所を占領。さらに、軍監「癸亥丸」の奪取にも成功します。

 赤禰武人の不在中、奇兵隊をまとめていた山縣狂介は、当初は晋作の決起を時期尚早として反対の立場をとっていましたが、晋作ら反乱軍の勢いを見て、翌16日の奇兵隊の大部分を率いて合流します。山縣は若いときから、良くいえば慎重、悪くいえば老人のような性格で、長州藩若者特有の軽挙を好みませんでした。彼は晋作らに呼応するにあたって、自分は不本意ながら、やむなく決起するということを表すために、髪を剃って坊主になりました。往生際が悪いというか、その後、年が明けた絵堂・大田の戦いでは、山縣はそれなりに活躍を見せるのですが、司馬遼太郎などは『世に棲む日日』のなかで、「唯一、山県が軍人らしいところをみせた場面であった」と、皮肉たっぷりに書いています。決起して間もなく晋作に同調した伊藤俊輔と、勢いを見て乗っかってきた山縣狂介。のちにそれぞれ、初代、第三代の内閣総理大臣になるわけですが、後世の評価は、このときすでに見えていたような気がします。

 その後、瀬戸内海沿岸に布陣していた諸隊も次々に加わり、晋作は海の上から空砲威嚇砲撃を開始。俗論党の士気は下がり、反乱軍の勢いは一気に増していきます。この頃には、井上聞多率いる農民軍も加わり、その数は1000人を超えていました。こうなると、もう反乱軍ではなく、立派な革命軍です。革命が成るときというのは、人数ではなく勢いなんですね。


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by sakanoueno-kumo | 2015-08-10 21:40 | 花燃ゆ | Trackback | Comments(0)  

大坂の陣400年記念大坂城攻め その8 ~本丸~

まずは、南側桜門から本丸に突入します。

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この桜門は徳川幕府によって寛永3年(1626年)に創建されたもので、重要文化財に指定されています。

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南側から見た本丸御殿跡です。
本丸とは城の中心部のことをいい、かつては、天守だけでなく政庁の機能を持つ御殿が建っていました。
大坂の陣によって豊臣時代の天守や本丸御殿は焼失してしまいますが、その後、徳川幕府によって盛土がほどこされ、再建されました。

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その後、幕末の戊辰戦争時の大火でほとんどが焼失してしまったため、史跡といえる建物はわずかになってしまいました。
特に、幕末の大修復で甦った本丸御殿は、京都の二条城二の丸御殿よりもさらに豪華な建物だったと言われていたそうで、焼失は残念な限りです。

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本丸の南西角にある日本庭園から撮影した天守です。
この日本庭園は、明治18年(1885年)に和歌山城二の丸御殿がこの地に移された紀州御殿(昭和22年に焼失)の名残だそうです。
絶好の撮影スポットです。

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天守に飛行機が・・・(笑)。

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「杼樟之記の碑」です。
江戸期を通じてここにあった樟が戊辰戦争の火災で枯死してしまったそうですが、碑文によると、その樹は豊臣秀吉手植えしたものだったという伝承があったそうです。
でも、秀吉の時代の本丸は徳川時代に埋め立てられていますから、あり得ない伝承ですけどね。

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明治天皇駐蹕之所碑です。
「駐蹕」とは、天皇が行幸の途中で一時乗り物を停めることだそうで、明治帝がこの地を訪れた際、ここでご休憩されたのでしょうか?
詳しいことが書いてなかったのでわかりません。

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本丸西側の石垣と、西の丸との間を分断する内堀です。
この広い堀と高い石垣を隔てて、淀殿北政所は睨み合っていたんですね(もっとも、この石垣は江戸期の再建ですが)。

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本丸北西に位置する隠し曲輪です。
ここも徳川幕府による再建時に造られたものですが、出入口が狭くて気づかれにくく、兵を隠す場所だったことから、隠し曲輪と呼ばれたそうです。
かつては幕府の焔硝蔵(火薬庫)が置かれていたことにより、立ち入りが厳しく制限されていたことから、ここに秘密の抜け穴があるとの伝説も生まれました。

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隠し曲輪から見た天守です。

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で、最後に北側の山里口から見た天守です。
「その6」で紹介した極楽橋を渡って坂を登ってきたところにある入口で、桜門が正面玄関なら、こちらは裏口のような扱いですね。
江戸時代にはここにも立派な門があったそうですが、戊辰戦争時に焼失してしまったそうです。

さて、本丸を制覇したあとは、いよいよ天守を攻めます。

大坂の陣400年記念大坂城攻め その1 ~外堀~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その2 ~大手口、搦手口~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その3 ~西の丸~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その4 ~二の丸・豊国神社~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その5 ~石山本願寺推定地の碑と蓮如上人袈裟がけの松~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その6 ~内堀~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その7 ~刻印石、巨石~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その9 ~天守閣~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その11 ~城中焼亡埋骨墳~

大坂の陣ゆかりの地めぐりシリーズも、よければ。
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大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~


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by sakanoueno-kumo | 2015-08-07 20:26 | 大坂の陣ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

戦後70年、創設100周年記念高校野球大会の選手宣誓に感涙。

今年の夏の高校野球「第97回全国高校野球選手権大会」は、創設100周年記念大会となる節目の開催ですが、同時に今年は、戦後70年の節目の年でもあります。
そして今日、奇しくも70回目の広島原爆記念日でもある8月6日、全国大会の開会式が甲子園球場で行われました。
今年の選手宣誓は、100年前の第1回大会の優勝校である鳥羽高校(100年前は京都二中)の梅谷成悟主将が行いましたが、その内容があまりにも素晴らしかったので、勝手ながら、ここに全文掲載させていただきます。

「1915年8月、第1回全国中等学校優勝野球大会が始まりました。
それから100年間、高校野球は日本の歴史とともに歩んできました。
この100年、日本は激動と困難を乗り越えて、今日の平和を成し遂げました。
このような節目の年に聖地甲子園で野球ができることを誇りに思い、そして支えていただいた全ての方々に感謝し、全力でプレーをします。
次の100年を担う者として、8月6日の意味を深く胸に刻み、甲子園で躍動することを誓います。」


梅谷くん本人が考えたのか、あるいは周りの大人が考えたのか、でもこの際そんなことはどうでもいい。
この素晴らしい宣誓に関わったすべての人に敬意を表します。
また、このような宣誓ができる平和な日本を作ってきた先人たちに感謝します。

いま、日本の安全保障政策は、大きな転換期を迎えようとしています。
安倍内閣が憲法解釈を変えてまでのぞんだ安保関連法案は衆議院を通過し、成立はほぼ確実。
安倍晋三首相の本丸である改憲への世間の関心も、にわかに高まっています。
日本は、着々と「普通の国」になろうとしています(「普通の国」とは、自国を自国軍で守れる国ということで、つまり、戦争ができる国ということ)。
そんな殺伐とした世相のなか、われわれ大人たちは今日の高校球児の宣誓を、もう一度、一言一句、深く胸に刻みこみ、なぜ今日、彼がこの内容の宣誓をしたのかを、いま一度考えてみる機会ではないでしょうか?
彼の宣誓は、大人たちへの問題提起なんじゃないかと・・・。
いちばん考えてほしいのは、安倍さんですけどね。

今大会は創設100周年記念大会ですが、「第101回」ではなく「第97回」です。
なぜ「第97回」なのかを思い、そして、未来永劫、ずっとマイナス4であり続けるにはどうすればよいか、彼が言う次の100年を担う者のひとりとして、真剣に考えるべきだと感じました。
今日の宣誓はほんとうに感動しました。


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by sakanoueno-kumo | 2015-08-06 20:35 | 高校野球 | Trackback | Comments(0)