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花燃ゆ 第39話「新しい日本人」 ~廃藩置県~

 明治4年(1871年)7月14日、明治政府によって廃藩置県の詔が発令され、すべての藩が廃止されます。同時に、知藩事に任命されていた旧藩主たちすべても解任されて東京に集められ、代わって政府が選んだ適任者が、県令(現在の県知事)として配置されました。これにより、美和が務める奥御殿も、否応なく閉じられることになりました。ようやく、何が描きたかったのかよくわからない奥御殿編が終わりです。

 ここで、版籍奉還から廃藩置県の流れについてふれておきます。明治政府は、幕藩体制下の封建制から近代的な中央集権国家をつくるため、支配していた土地(版)人(籍)を天皇に返還させたのが版籍奉還でしたが、しかし、代わりに旧藩主を旧領地の知藩事に任命し、その下には、縮小されたとはいえ相変わらず武士団が存在し、年貢の取り立ても、知藩事が行っていました。結局のところ、便宜上、版籍を奉還したものの、かたちとしてはあまり変わっておらず、明治政府の力は依然として弱いものでした。このままでは、いつクーデターを起こされるかわからない。政府は、もっと地方の力が弱まる政策を必要としていました。

 この頃、旧天領や旗本支配地などは、政府の直轄地として「府」「県」が置かれ、政府から知事が派遣されていました。東京府、大阪府、京都府の3府と、現在まで名称が残っている県としては、兵庫県、長崎県などがそれにあたります(現在の区画とは大きく異なります)。この制度を全国に統一させようというのが「廃藩置県」でした。イメージ的に、廃藩置県によって初めて府や県ができたように思いがちですが、実は、「府」「県」「藩」が同時にあった時期があるんですね。これを「府藩県三治制」といいます。中央集権と地方自治が入り混じった複雑な時期だったんですね。

 政府としては、一刻もはやく廃藩置県を発令したかったのですが、それには、まず、直轄の軍隊をつくる必要がありました。廃藩置県の荒療治を断行するには、それ相応の反作用が予想されるわけで、それを抑えつけるだけの軍事力が不可欠。それには、徴兵制が必要だと唱えたのが、大村益次郎でした。この案に政府参議の木戸孝允は賛同しますが、同じく参議の大久保利通らは、いきなりそんな強引なことをすれば、たちまち戦になるとして、反対の立場をとります。その後、両派は連日激論を交わしますが、結局、大久保らの主張する慎重論に収まり、薩摩・長州、土佐三藩による御親兵の設置が決まりました。このときの心境を木戸は日記にこう綴っています。

 「わが見とは異なるといえども、皇国の前途のこと、漸ならずんば行うべからざることあり」

 自分の意見とは違うが、すこしずつ前進させていかなければならない、ということですね。我慢強い木戸らしい述懐です。

 その後、大久保による政府内の構造改革を経て、洋行帰りの山県有朋を兵部少輔にすえて御親兵を設置。廃藩置県を断行するお膳立ては整いましたが、さらにこの政策を強固なものにするために、大久保は鹿児島に引っ込んでいた西郷隆盛に中央政府への出仕を求めます。人望のある西郷を押し立てて、その威光を借りて改革を断行しようと考えたんですね。このあたりが、大久保の政治家としてのスゴイところです。この頃の大久保の言葉が残っています。

 「今日のままにして瓦解せんよりは、むしろ大英断に出て、瓦解いたしたらんにしかず」

 何もせずに失敗するよりも、大勝負を打って失敗したほうが、よっぽどいいじゃないか!・・・ってことですね。さすが、決断力と行動力の人です。

 こうして水面下で準備が整えられ、明治4年(1871年)7月14日、ほとんどクーデターの如く廃藩令が下され、藩が消滅しました。懸念された暴動のようなものは、ほとんど起こりませんでした。何の前触れもなく電撃的に行われたため、呆気にとられた感じだったのかもしれません。それと、諸藩側の事情としても、戊辰戦争以来の財政難に行き詰まっていた藩が多く、廃藩は渡りに船といった感もあったようです。政府は、藩をなくす代わりに、諸藩の抱える負債を引き継ぐかたちとなりました。いろんな意味で、絶妙のタイミングでの革命だったのかもしれません。

 この革命を知った英国の駐日公使ハリー・パークスの感想が、アーネスト・サトウの日記に残っているそうです。

 「欧州でこんな大改革をしようとすれば、数年間戦争をしなければなるまい。日本で、ただ一つ勅諭を発しただけで、二百七十余藩の実権を収めて国家を統一したのは、世界でも類をみない大事業であった。これは人力ではない。天佑というほかはない」

 こうして261藩は解体され、1使3府302県となり、同じ年の11月には1使3府72県に改編されます。パークスが大絶賛した無血革命でしたが、武士すべてが失業という荒療治の反動は、この後ジワジワと押し寄せてくることになります。


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by sakanoueno-kumo | 2015-09-28 20:51 | 花燃ゆ | Comments(2)  

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その5 ~野田城跡~

鴫野・今福の戦いから3日後の慶長19年(1614年)11月29日には、博労淵野田・福島において激しい戦闘が行われました。
博労淵砦福島城のあった場所は正確にわかっていませんが、野田城があったとされる場所だけは、現在石碑が建てられています。
といっても、野田城についてもほとんど資料が残っておらず、その規模なども不明な点が多いようです。

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石碑が建てられている場所は2ヵ所あって、まず1ヵ所目は、極楽寺というお寺の入口。

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そしてもう1か所は、大阪市営地下鉄千日前線玉川駅の2号出口を出てすぐのマンション前です。
ここと極楽寺は歩いて2~3分の距離ですから、まあ、同じ城郭の敷地内だったとしてもおかしくはありません。

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大阪冬の陣における野田・福島の戦いは、大野治胤(道犬斎)率いる豊臣軍の水軍と、九鬼守隆、向井忠勝、賀信親、小浜光隆らで形成された徳川水軍との争いでした。
結果は豊臣軍の惨敗に終わります。

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後世に「野田・福島の戦い」と呼ばれる戦いはもうひとつあって、大坂冬の陣から遡ること44年前の元亀元年(1570年)、織田信長石山本願寺の間で行われた石山合戦の戦下において、当時、野田城主だった三好氏は石山本願寺と同盟関係にあったため、織田軍と戦って落とされました。

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それ以降、40年間歴史のなかから野田城は姿を消し、ふたたび史料に確認できるのが大阪冬の陣だそうです。
そのため、一旦廃城になっていた城を大坂の陣で再利用したという見方と、すでに城はなくなっていた跡地に、新たにを築いたとする見方があって、正確なことはわかっていないようです。
この戦いのあと、豊臣軍は残りの砦を破棄して大坂城に撤収し、大坂城包囲戦となります。
そして、「その1」で紹介した真田丸の戦いに繋がるわけです。

次回に続きます。



大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その2 ~心眼寺(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その3 ~鴫野古戦場跡・佐竹義宣本陣跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その4 ~白山神社(本多忠朝物見のいちょう)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その6 ~本町橋~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その7 ~御勝山古墳(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その8 ~大和郡山城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その9 ~忍陵古墳・岡山城跡(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その10 ~徳川家康星田陣営跡・旗掛け松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その11 ~岸和田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その12 ~樫井古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その13 ~塙団右衛門直之の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その14 ~淡輪六郎兵衛重政の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その15 ~法福寺(お菊寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その16 ~大野治胤(道犬斎)の墓
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その17 ~今井宗薫屋敷跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その18 ~若江古戦場・木村重成の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その19 ~木村重成菩提寺・蓮城寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その20 ~木村重成本陣跡・銅像~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その21 ~木村重成表忠碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その22 ~山口重信の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その23 ~飯島三郎右衛門の墓・若江城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その24 ~長宗我部盛親物見の松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その25 ~常光寺・八尾城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その26 ~小松山古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その27 ~玉手山公園(道明寺古戦場)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その28 ~誉田古戦場・薄田隼人碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その29 ~真田幸村休息所跡・志紀長吉神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その30 ~権現塚・中村四郎右衛門正教宅跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その31 ~樋ノ尻口地蔵・全興寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その32 ~安藤正次の墓・願正寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その33 ~桑津古戦場跡・柴田正俊の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その34 ~茶臼山古墳古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その35 ~安居神社(真田幸村終焉の地)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その36 ~一心寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その37 ~玉造稲荷神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その38 ~方広寺大仏殿の梵鐘~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その39 ~淀殿の墓(太融寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その40 ~伝・徳川家康の墓(南宗寺)~


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by sakanoueno-kumo | 2015-09-25 19:30 | 大坂の陣ゆかりの地 | Comments(0)  

阪神タイガースGM・中村勝広氏の急逝を悼む。

現・阪神タイガースのGM・中村勝広氏が亡くなられたそうですね。
タイガースの遠征に同行中のホテルでの急死だったとか。
驚きました。

中村勝広氏といえば、歴代のタイガースの監督のなかで最も長く指揮を執った監督として知られており、その後もオリックスの監督やGMなど、ずっとプロ野球界に関わって来られたインテリ派というイメージですが、わたし個人的な思い出は、タイガースの切り込み隊長としての先頭打者ホームランが印象的です。
わがまち神戸には、ほぼ毎日、阪神戦を試合開始から終了まで中継してくれるサンテレビというありがたいテレビ局があるのですが、わたしが子供の頃、友だちと遊んで夕方家に帰ってきてテレビをつけると、すでに中村勝広選手がホームランを打ってダイヤモンドを走っている、といったシチュエーションが何度もあったと記憶しています。
子どもの頃の記憶だから、強く印象に残っているのかなぁと思って今調べてみると、やはり、昭和50年(1975年)に、シーズン初回先頭打者本塁打6という当時の球団記録を樹立していたようですね。
タイガースの先頭打者ホームランといえば、真弓明信選手、今岡誠選手、鳥谷敬選手などを思い浮かべる方が多いと思いますが、わたしは、強く印象に残っているのは中村選手でした。

1番・中村勝広
2番・藤田平
3番 ブリーデン
4番 田淵幸一
5番 ラインバック
6番 掛布雅之


その頃の懐かしいラインナップです。

監督としての中村勝広氏でいえば、低迷期の90年台に唯一優勝争いを演じた平成4年(1992年)が印象的ですね。
あの年は甲子園球場のラッキーゾーンが取り払われた年で、それまでの打撃中心のチームから守備力重視の戦術に転換し、亀山努選手、新庄剛志選手などの若手を発掘しました。
ストッパーの田村勤投手の活躍もあって優勝争いの輪に入り、9月上旬に7連勝で一気に首位に踊りでたのですが、中村監督がV宣言をした途端に失速しはじめ、シーズン最期の最期で野村克也氏の率いるヤクルトスワローズに競り負けました。
たしか、最後は優勝したヤクルトから最下位の中日まで、たいしたゲーム差はなかったと記憶しています。
なんとなく、今年に似てますよね。

それから、同じ年に、当時のタイガースの中心選手だった岡田彰布選手に代打・亀山努を送った采配も記憶に残っています。
この年、岡田選手は極度の不振に陥っていたのですが、ビッグネームの選手を下ろすという行為は、どんな監督さんでもなかなか出来ることではありません(当時は、いま以上にベテランの功労者に甘い時代でしたから)。
ところが、中村監督は冷徹に岡田選手の打順を7番にまで下げ、さらにチャンスで代打に若手の亀山選手を送った。
この采配は当時、物議をかもしましたが、わたしは拍手しましたねどね。
まあ、岡田選手が早稲田大学の後輩という関係もあったでしょうが。

その岡田選手も、のちに監督になったとき、ベテラン金本知憲選手の扱いに苦心していた感じでしたよね。
そういえば、早稲田大学の主将→阪神タイガース→監督という流れは、中村氏も岡田氏も一緒ですね。
ということは、将来、鳥谷敬選手も監督就任も決まったようなものですね。

あと、中村氏の監督時代で忘れてはいけないのが、ドラフトで松井秀喜選手の抽選をはずした監督ということですね(笑)。
まあ、こればっかりはどうしようもないことなんですが、あのとき阪神ファンは一斉にブーイングをしたことでしょう。
長嶋茂雄氏とのオーラの差かな・・・と(亡くなられた方を誂うようなことを言って申し訳ありませんが)。

聞けば、まだ66歳だったそうですね。
まだまだ阪神のために、ひいてはプロ野球会のために活躍していただきたかった方です。
たいへん残念でなりません。
心より、ご冥福をお祈りします。


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by sakanoueno-kumo | 2015-09-24 21:11 | プロ野球 | Comments(0)  

花燃ゆ 第38話「届かぬ言葉」 ~奇兵隊脱隊騒動~

 版籍奉還という荒療治を断行し、急速に中央集権化を推し進めようとしていた明治政府でしたが、強引な改革というのは、当然その反作用を生みます。今話で描かれていたのは、その過程で起こった奇兵隊脱隊騒動でした。

 版籍奉還によって収入が大きく減少した諸藩は、大胆な財政改革の必要に迫られます。そこで長州藩の知藩事となっていた毛利元徳は、大幅な兵制改革に乗り出します。具体的には、奇兵隊を含む諸隊、約5000人余りを御親兵四大隊2250人に再編し、残り3000人余りは解雇という、大型リストラでした。かつて高杉晋作が奇兵隊を創設してから戊辰戦争にかけて、討幕軍の中心となっていた長州藩は、他藩以上に多くの兵力を抱えていました。バブル経済に乗っかって急成長した企業が、多くの従業員を雇い入れ、やがてバブルが弾けると、人件費の圧迫に堪えられなくなるといったやつですね。こうなると、企業の存続のためにはリストラはやむを得ません。

 しかし、現在のリストラでいえば、退職金を増額するとか、再就職の手助けをするとか、対象者から「不当解雇だ!」と訴えられないように図るものでしょうが(零細企業のリストラの場合は、そうも出来ない場合も多いでしょうが)、このとき元徳が行ったリストラは、退職金はもちろん、功績の評価などもまったくなく、元武士だけを残し、平民出身の隊士を解雇するというものでした。いかにも殿さまらしい愚策ですね。これでは、不平不満が生まれないわけはありません。

 明治2年(1869年)12月に決起した旧諸隊士たちは、翌年の1月に約2000人で山口藩庁を取り囲みます。ドラマでは、あくまで話し合いを求めて蜂起したように描かれていましたが、武装蜂起した以上、反乱軍ですね。この事態を重くみた木戸孝允は、急遽、討伐軍を編成して山口に送り込み、自ら指揮を執って鎮圧にあたります。ドラマでは、説得を試みる誠実楫取素彦に対して非情な木戸孝允という描かれ方でしたが、木戸の立場としては、やむを得ない判断でした。版籍奉還が行われたといえども、諸藩には未だ軍隊が存在し、一方の中央政府には、まだ直属軍というものがありません。このままでは、諸藩のクーデターによって、いつ中央政府が倒されてもおかしくなく、一刻も早く地方の力を弱めて、政府軍を作る必要がありました。ところが、ドラマでは描かれませんでしたが、その兵制改革の中心的役割を担っていた大村益次郎が、この少し前に長州藩の不平藩士よって暗殺されていました。大村の死は、長州藩にとっても中央政府にとっても大きな痛手であり、木戸にしてみれば、見せしめの意味でも反乱軍を力でねじ伏せる必要があると考えたのでしょう。

 戦いは激戦となり、一時は木戸も退却を余儀なくされる戦況になりますが、最終的には反乱は鎮圧され、捕らえられた兵の中心人物100人以上が死罪となります。ともに幕末の動乱を戦ってきた志士たちの同志討ち。討つほうも討たれるほうも、何ともやりきれない思いだったでしょうが、使い捨てとなった兵たちの反乱はこれで終わることなく、明治10年(1877年)の西南戦争まで、各地で起きるんですね。まさに、痛みを伴う改革だったわけです。

 ちなみに、反乱軍のなかには、かつて野山獄吉田松陰と意気投合し、出獄後、松下村塾に講師として招かれていた富永有隣がいました。今話で出てくると思たんですけど、出てこなかったですね。富永は逃亡したため死罪は免れましたが、明治10年に捕らえられ、国事犯として投獄されます。その後、明治17年(1884年)に釈放されたのち、を開いて若者の指導にあたりながら著書を執筆し、80歳まで長生きします。松下村塾ゆかりの数少ない生き残りのひとりでした。


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by sakanoueno-kumo | 2015-09-22 14:21 | 花燃ゆ | Comments(2)  

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その4 ~白山神社(本多忠朝物見のいちょう)~

鴫野・今福古戦場の近くにある白山神社に、本多忠朝物見いちょうといわれる銀杏の大樹があると聞き、訪れました。

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現地説明看板によると、ここ白山神社は古くから中浜、鴫野、森の諸村の氏神だったそうですが、天正4年(1576年)、織田信長石山本願寺のあいだで繰り広げられた石山合戦にて社殿は兵火にかかるも、その後、慶長8年(1603年)、豊臣秀頼により再建されたそうです。

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しかし、慶長19年(1614年)の大阪冬の陣本多忠朝が陣を置き、再び兵火にかかったそうです。
忠朝は境内の大きな銀杏の木に登り、豊臣方の動きを偵察したと伝えられていますが、この巨樹がそれだそうです。

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この樹は大阪府が指定する天然記念物となっているそうで、たしかにたいそうな巨樹でしたが、わたしは銀杏の木の樹齢を知らないのですが、忠朝物見の木ってことは、400年前から巨樹だったってことでしょう?
じゃあ、いったこの樹はいま何歳なんでしょう?

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面白い伝承ではありますが、眉唾ものですね。

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神社はその後、元和3年(1617年)に大坂城在番城代・内藤信正によって再建されたそうです。

次回へつづく。



大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その2 ~心眼寺(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その3 ~鴫野古戦場跡・佐竹義宣本陣跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その5 ~野田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その6 ~本町橋~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その7 ~御勝山古墳(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その8 ~大和郡山城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その9 ~忍陵古墳・岡山城跡(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その10 ~徳川家康星田陣営跡・旗掛け松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その11 ~岸和田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その12 ~樫井古戦場跡~
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大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その14 ~淡輪六郎兵衛重政の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その15 ~法福寺(お菊寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その16 ~大野治胤(道犬斎)の墓
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その17 ~今井宗薫屋敷跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その18 ~若江古戦場・木村重成の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その19 ~木村重成菩提寺・蓮城寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その20 ~木村重成本陣跡・銅像~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その21 ~木村重成表忠碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その22 ~山口重信の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その23 ~飯島三郎右衛門の墓・若江城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その24 ~長宗我部盛親物見の松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その25 ~常光寺・八尾城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その26 ~小松山古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その27 ~玉手山公園(道明寺古戦場)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その28 ~誉田古戦場・薄田隼人碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その29 ~真田幸村休息所跡・志紀長吉神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その30 ~権現塚・中村四郎右衛門正教宅跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その31 ~樋ノ尻口地蔵・全興寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その32 ~安藤正次の墓・願正寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その33 ~桑津古戦場跡・柴田正俊の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その34 ~茶臼山古墳古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その35 ~安居神社(真田幸村終焉の地)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その36 ~一心寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その37 ~玉造稲荷神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その38 ~方広寺大仏殿の梵鐘~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その39 ~淀殿の墓(太融寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その40 ~伝・徳川家康の墓(南宗寺)~


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by sakanoueno-kumo | 2015-09-18 21:02 | 大坂の陣ゆかりの地 | Comments(0)  

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その3 ~鴫野古戦場跡・佐竹義宣本陣跡~

大阪冬の陣を時系列で追っていくと、戦端が開かれたのは慶長19年(1614年)11月19日、豊臣方の武将・明石全登が守る木津川口の砦を、徳川方・蜂須賀至鎮の隊が攻撃して陥落させた木津川口の戦いです。
残念ながら、木津川口の戦い関連は、史跡とよべるものは残っていないようです。
そして、その1週間後の11月26日には、大坂城の東側にあたる地区で鴫野・今福の戦いが行われました。

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鴫野地区も今福地区も、いまでは住宅密集地となっていて、古戦場としての面影を見ることはできません。
写真は大正9年(1920年)に建てられた鴫野古戦場跡の石碑ですが、いまは城東小学校敷地内にあります。

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金網越しなのでわかりづらいですが、右の「大坂冬の陣」と刻まれた石碑は、最近建てられたもので、左の石碑が大正時代のものです。

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説明看板です。

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思い切ってをよじ上って撮影しました。
小学校の門横なので、不審者と間違われないか不安でしたが(笑)。

柵つながりで言いますと、大阪冬の陣に際して、豊臣方が防御のための柵をこの辺りに建設し、これをめぐって徳川方の上杉景勝、佐竹義宣らと大坂方の後藤又兵衛基次、井上頼次らとが激突した戦いを、鴫野・今福の戦いと呼びます。

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石碑から1kmほど北上したところにある若宮八幡大神宮が、鴫野・今福の戦いにおいて佐竹義宣がを布いた場所だそうです。
その際、御神木の楠の大樹が切り倒されて篝火に使用されたそうで、のちに佐竹家より贖罪のためのが奉納されたそうです。
ここに、佐竹義宣本陣跡と刻まれた石碑があると聞いて来たのですが、現地でいくら探しても見当たりませんでした。
どこにあったんでしょう?

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石碑のある城東小学校に戻って、その東隣にある八劔神社の境内には、大坂城の石垣と同じ石材が使われているそうで、紹介されていました。
これはのちの徳川時代のものですが、結局、この辺りはすべて、大坂城の一部だったわけですね。

次回に続きます。



大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その2 ~心眼寺(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その4 ~白山神社(本多忠朝物見のいちょう)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その5 ~野田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その6 ~本町橋~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その7 ~御勝山古墳(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その8 ~大和郡山城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その9 ~忍陵古墳・岡山城跡(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その10 ~徳川家康星田陣営跡・旗掛け松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その11 ~岸和田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その12 ~樫井古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その13 ~塙団右衛門直之の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その14 ~淡輪六郎兵衛重政の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その15 ~法福寺(お菊寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その16 ~大野治胤(道犬斎)の墓
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その17 ~今井宗薫屋敷跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その18 ~若江古戦場・木村重成の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その19 ~木村重成菩提寺・蓮城寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その20 ~木村重成本陣跡・銅像~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その21 ~木村重成表忠碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その22 ~山口重信の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その23 ~飯島三郎右衛門の墓・若江城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その24 ~長宗我部盛親物見の松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その25 ~常光寺・八尾城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その26 ~小松山古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その27 ~玉手山公園(道明寺古戦場)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その28 ~誉田古戦場・薄田隼人碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その29 ~真田幸村休息所跡・志紀長吉神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その30 ~権現塚・中村四郎右衛門正教宅跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その31 ~樋ノ尻口地蔵・全興寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その32 ~安藤正次の墓・願正寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その33 ~桑津古戦場跡・柴田正俊の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その34 ~茶臼山古墳古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その35 ~安居神社(真田幸村終焉の地)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その36 ~一心寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その37 ~玉造稲荷神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その38 ~方広寺大仏殿の梵鐘~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その39 ~淀殿の墓(太融寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その40 ~伝・徳川家康の墓(南宗寺)~


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by sakanoueno-kumo | 2015-09-16 16:25 | 大坂の陣ゆかりの地 | Comments(0)  

花燃ゆ 第37話「夫の忘れがたみ」 ~版籍奉還~

 前話で高杉晋作が死んだと思ったら、あっという間に明治編。それも、版籍奉還まで話が進んじゃいました。晋作の病没が慶応3年(1867年)4月14日で、明治政府によって版籍奉還が行われたのが明治2年(1869年)6月17日のことですから、今話で2年以上の月日が流れたことになります。物語の都合上、月日の流れが早くなったり遅くなったりするのは当然だと思いますし、主人公に直接関連の薄い出来事がスルーされるのもやむを得ないと思いますが、ただ、この2年間というのは、普通の2年間ではありません。

 大政奉還から王政復古の大号令、その後、鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争に突入し、西郷隆盛勝海舟の歴史的会談から江戸無血開城を経て、会津戦争の最中に元号を明治に改元。皇居を東京に移し、そして新政府の目指す中央集権化の手始めとして、版籍奉還が実施されます。日本史上、最も世の中が動いた時期といえるでしょう。これをいちいち詳細に描いていたら、主人公の美和の描きどころがないのかもしれませんが、だとしても、あまりにもスルーしすぎですよね。これでは、まるで歴史がつながらない。久坂玄瑞の忘れがたみがどうのこうのと言ってるあいだに、2年も経ってしまいました(笑)。ちょっとひどすぎませんか?

 これまでわたしは、巷で酷評されているほど酷いドラマだとは思っていませんでした。伊勢谷友介さんの演じる吉田松陰像も好きでしたし、松蔭を中心とした松下村塾系の志士たちひとりひとりにスポットをあて、彼らの思い誇りなど、上手く描かれていたと思います。長州藩内の政局もリアルに描かれていましたし、名君か暗君か意見の分かれる藩主・毛利敬親の本作品での人物像も、わたしは好きです。という女性のことはよく知りませんが、無理に歴史を歪曲するような絡め方をせず、長州藩史を描く視点として無理のない描かれ方だったと思います。

 ところが、久坂が死んでから、どうも迷走している感が否めません。物語前半、ほとんど松蔭や玄瑞の物語のようになっていて、文の存在感が薄かったためか、奥御殿編に入ってから、なんとか文(美和)のドラマを作ろうと必死になっているように思えます。でも、途中から急に方針を変えたため、いったい何が描きたいのか意味不明になってきました。なんか、やる気なくなってきたなぁ・・・。

 気を取り直して、少しだけ解説します。幕府を倒した薩摩、長州藩士を中心に出来上がった新政府でしたが、これを守る軍隊は存在せず、一方で各藩には幕藩体制から続いた兵力がそのままとなっていて、新政府からすると危なくてしょうがない状態でした。そこで、まず新政府のやるべきことは、藩をつぶし、中央政権としての軍隊を持つことでした。しかし、それは容易なことではありません。

 そんなとき、姫路藩主の酒井忠邦が、「藩の名称を改め、すべて府県と同じにし、中興の盛業を遂げられたい」との提案を持ち込みます。この案に木戸孝允が飛びつきます。諸藩から無理やり権力を奪い取るのではなく、皇国日本をつくるためという名目で、藩主自ら領地と人民を朝廷にお返しする。その代わり、藩主は旧領地の知藩事(現在の知事)になり、行政を担います。つまり、小国の国王から、大国の役人になるということですね。木戸は、300年続いた封建制を打破するには、この方法しかないと立ち上がり、これを実現するには、まずは新政府の中心的藩である長州藩と薩摩藩が率先してやらねばならないと考え、藩主・毛利敬親を説得します。この進言を受けた敬親は、ドラマのように「そうせい!」とは、言わなかったようですよ。

 これが、今話で描かれていた版籍奉還の流れです。前話まで幕府と戦っていたのに、急に版籍奉還なんて言われても、この時代の歴史に疎い人は、わけわかんないですよね。来週はどんな展開になるのか心配です。


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by sakanoueno-kumo | 2015-09-15 00:11 | 花燃ゆ | Comments(0)  

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その2 ~心眼寺(真田丸跡)~

三光神社から200m弱ほど西に心眼寺という寺院があるのですが、ここにも「真田丸跡」と記された石碑があります。

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記録によれば、真田丸の構造は東西180メートルほどの半円形の曲輪だったといいますから、三光神社が東の端で心眼寺が西の端だとすればだいたいかたちが見えてくるのですが、実は正確な位置というのはわかっておらず、もうちょっと西の大阪明星学園あたりが曲輪の中心だったのではないか、とする説もあります。

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境内には、真田信繁(幸村)墓石があります。
この墓石は、信繁の死後400年にあたる昨年10月に建てられたそうです。
ですから、正確にいえば、墓石ではなく慰霊碑ですね。

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もともとここ心眼寺は、元和8年(1622年)、白牟(はくむ)和尚が信繁とその子・幸昌の父子の冥福を祈るために創建した堂舎だったそうですが、江戸時代、幕府の直轄地だった大坂のこの地に、豊臣方の武将であった信繁父子の墓をつくることはできなかったようです。
それが、400年の時を経てようやく建てられたんですね。

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あと、大坂の陣とはまったく無関係なんですが、境内の隅に建てられたふたつの小さな墓石を見てビックリ。
京都見廻組渡邊吉太郎、桂早之助の墓がありました。

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この両人を知る人は少ないと思いますが、幕末、坂本龍馬暗殺した実行犯グループのなかのふたりです。
龍馬フリークであるわたしは、その名は十分すぎるほど知っていました。
でも、まさかこんなところに眠っていたとは・・・。
思わぬ出会いでしたね。
今回のテーマとは無関係なので、また別の機会に詳しく紹介することにしましょう。

次回に続きます。



大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その3 ~鴫野古戦場跡・佐竹義宣本陣跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その4 ~白山神社(本多忠朝物見のいちょう)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その5 ~野田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その6 ~本町橋~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その7 ~御勝山古墳(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その8 ~大和郡山城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その9 ~忍陵古墳・岡山城跡(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その10 ~徳川家康星田陣営跡・旗掛け松~
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大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その14 ~淡輪六郎兵衛重政の墓~
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大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その19 ~木村重成菩提寺・蓮城寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その20 ~木村重成本陣跡・銅像~
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大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その30 ~権現塚・中村四郎右衛門正教宅跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その31 ~樋ノ尻口地蔵・全興寺~
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by sakanoueno-kumo | 2015-09-11 19:09 | 大坂の陣ゆかりの地 | Comments(0)  

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~

大坂の陣400年の節目として、当ブログでは7月、8月と大坂城攻めをレポートしてきましたが、こうなったら、周辺の大坂の陣関連史跡もめぐってしまえ!・・・と思い至りました。
また、しばらくのあいだお付き合いください。

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本当は冬の陣から時系列を追ってめぐっていくべきなんでしょうが、第1回目ということで、まずは来年の大河ドラマのタイトルである「真田丸」跡を訪れます。
「真田丸」とは、大坂冬の陣のときに豊臣方の真田信繁(幸村)が築いた出城のことで、冬の陣最大の激戦地となった場所です。
写真は現在の大坂城公園から南へ1kmほど下ったところにある三光神社
現在、このあたりに真田丸があったんじゃないかとされている場所です。

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境内には、信繁の銅像が建てられています。
ちなみに、信繁は「幸村」の名前のほうがメジャーだと思いますが、実際には、当時の史料のなかに「幸村」と記されたものはなく、本来は「信繁」が正しい諱です。
「幸村」という名は、彼の死後、江戸時代の軍記物語などの中で使われていたもので、その後、時代が下るにしたがって、「幸村」の名前が広く知れ渡りました。
当ブログでは、どちらでいこうか迷いましたが、たぶん「幸村」を使ったほうが検索でヒットしやすいだろうと思うので、タイトルとタグは「幸村」を使用し、文章内は本来の諱である「信繁」で統一しようと思います。

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これまで「真田丸」は、大坂城の弱点は南側にあると見た信繁が、南からの攻撃を想定して築いた防御拠点と考えられてきましたが、近年の研究では、籠城作戦では勝てないとして積極策を唱える信繁が、徳川方から見れば攻めたくなるような曲輪、つまり、挑発のための曲輪という目的で築いたものだったのではないか、と見る向きもあるようです。

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銅像の横には、大坂城に通じていたと伝わる抜け穴跡があります。
まあ、信憑性は薄いでしょうけどね。
たしか、映画『プリンセス・トヨトミ 』では、この穴の奥に「大阪国」なるものが存在する設定でした(参照:映画『プリンセス・トヨトミ 』鑑賞記 その1 )。

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普段は鉄格子の扉で閉められていますが、1年に1度、「真田まつり」の日には、抜け穴が開放されるそうです。

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レンズを突っ込んで中を撮影してみましたが、大阪国の気配はありません(笑)。

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慶長19年(1614年)12月4日、ここ真田丸の戦いにおいて、信繁は前田利常軍をはじめとする徳川方の先鋒隊に大打撃を与えました。
このとき、真田信繁という名がはじめて天下に轟きます。

次回に続きます。



大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その2 ~心眼寺(真田丸跡)~
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by sakanoueno-kumo | 2015-09-09 19:08 | 大坂の陣ゆかりの地 | Comments(0)  

花燃ゆ 第36話「高杉晋作の遺言」 ~おもしろき こともなき世を おもしろく~

 四境戦争で幕府軍15万に圧勝した長州藩でしたが、その勝利のいちばんの立役者である高杉晋作が、戦後まもなくに伏してしまいます。というか、戦前から肺疾患の気配があったようで、とくに戦い終盤の小倉城攻めがこたえたらしく、慶応2年(1866年)9月4日に、白石正一郎邸で大量に吐血したと、白石の日記に記されています。戦の指揮の疲労も去ることながら、戦中も戦後も、晋作は連日のように芸姑をあげて大酒をあおっていたようで、それも、病状を悪化させた要因だったのでしょう。

 自身の容体が容易なことでないと自覚した晋作は、病気療養に専念すべく、白石邸を出て、下関郊外にある桜山という丘の麓に家を建て、そこに引っ越します。晋作はこの家を「東行庵」と名づけました。「東行」とは、かつて晋作が10年間隠棲するといって出家した際に、自らつけたですね。晋作はこの東行庵で、まさに世捨て人のようにを詠み、詩文を書いて過ごします。作家・司馬遼太郎氏は高杉晋作について、「幕末ではなく平和な時代に生まれていれば、有名な詩人になっていただろう。」と言っていますが、それは、この時期に残した数々の名句、名文によるイメージでしょう。東行庵は、療養所であると同時に、詩人・高杉晋作のアトリエでした。

 藩は晋作の病状がおもわしくないことを重く見、世子・毛利元徳から見舞状、見舞金の下付があり、すべての御役目を解かれ、病気療養手当が毎月支給されました。また、藩内で名医と評判の高い長野昌英李家文厚を藩命によって主治医にし、さらに、藩主の侍医である竹田友伯を出張先の太宰府から呼び戻し、晋作の治療にあたらせるなど、一介の書生への待遇としては異例の処置をとります。書生とはいえ、晋作はすでに救国の英雄的存在となっており、藩としては、いま晋作に死なれてはたまらないという思いがあったのでしょう。

 なぜかドラマでは出てきませんでしたが、東行庵で晋作の看病を務めたのは、妻の雅子でも美和でもなく、愛妾おうのと女流歌人の野村望東尼の両人でした。このふたりがドラマ自体にキャスティングされていないのならともかく、二人共何度か登場しているのに、なぜ最期のシーンに登場させなかったのでしょうか? 最期は愛妾ではなく正妻に看取らせるため? だとしたら、女性脚本家ならではの愚にも付かぬ設定ですね。わたしは、最終回まで観ずに批判することは極力しないようにしてきましたが、今話はさすがにひどすぎます。妻と息子に励まされて幸せそうに微笑む高杉晋作なんて、世の晋作像とはおよそかけ離れたキャラですし、ましてや、美和を呼びつけて未来を託すなんて、なんて安っぽい脚本でしょうか。吉田松陰久坂玄瑞の死が、それなりに上手く描かれていただけに、第三の見せ場である晋作の最期が、あまりにも幼稚な設定でガッカリです。

 妻の雅子が病床を訪れたのは、死の3週間ほど前の慶応3年(1867年)3月24日でした。この頃の晋作は、自力で立つこともままならないほど衰弱しきっていましたが、それでも突然、「林亀(料亭)に行きたい」などと口にし、周囲を困らせました。これを聞いたおうのは、三味線を弾いて林亀にいるかのように装い、晋作の気分を落ち着かせたというエピソードがあります。そして4月13日夜にも、今度は「対帆楼(料亭)に行きたい」というので、駕籠をよんで病床から乗りますが、駕籠のなかで便を漏らし、引き返して病床につきました。そしてその14日未明に死去します。享年28歳

 死の淵にあって晋作は、枕元にいた野村望東尼に筆と紙を要求し、

 「おもしろき こともなき世を おもしろく」

 とまで書いたところで力尽きて筆を落としてしまい、この尻切れとんぼの辞世に下の句をつけてやらねばならないと考えた望東尼が、

 「すみなすものは 心なりけり」

 と書き足して晋作に見せると、「・・・面白いのう」と微笑んで、そのまま息を引き取った、という有名なエピソードがありますが、近年の研究によれば、この歌は死の前年にすでに詠まれていたという記録があるそうで、死の淵の逸話は誰かの作り話だろうという見方が有力なんだそうです。歴史研究が進むのは望ましいことですが、ときにそれでドラマチックな側面を失うこともあり、残念な思いになったりします。しかし、死の淵の逸話がどうであれ、高杉晋作という人物の短い生涯が、ドラマチックであったことは間違いありません。

 「人の生涯には春夏秋冬があり、それは人生の長さに関係しない」
 「男子たるもの、自身の人生を一遍の詩にすることが大事だ。」


 とは、吉田松陰が晋作ら弟子たちに残した言葉ですが、まさしく、晋作の生涯には激しすぎるほどの春夏秋冬があり、一遍の詩だったといえるでしょう。


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by sakanoueno-kumo | 2015-09-07 18:05 | 花燃ゆ | Comments(4)