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花燃ゆ 第48話「富岡製糸場の危機」~楫取素彦の功績~

 平成26年(2014年)にユネスコ世界文化遺産に登録された富岡製糸場は、明治5年(1872年)に創業した官営製糸工場でした。場内には繰糸器300基も設置され、工女200人(のち約400人)が雇用されるなど、当時としては世界屈指の規模を誇っていました。また、労働条件は1日8時間の週休制で、食事や寮も完備され、医療費も無料という当時の日本では異例の好待遇だったそうです。そんなこともあって、全国から集った工女のなかには、元士族の娘も多く、長州藩出身の長井道子長井雅楽の娘)の姿もあったそうです。「産業」と呼べるものがほとんどなかった当時の日本にとって、富岡製糸場で生産される生糸は、日本が唯一世界に誇れる国産品でした。

 ところが、明治13年(1880年)11月5日、富岡製糸場は採算を度外視した経営が祟り、明治政府は民間への払い下げを決定します。当時の明治政府には、赤字続きの官営工場を維持するだけの体力はありませんでした。今でいえば、民営化推進の構造改革ですね。この時点での政府の判断は、決して間違いではなかったでしょう。明治政府は、民営化が上手く運ばなければ、閉場も辞さないという強硬な態度を示します。

 当時の群馬県令だったかとり楫取素彦も、当初は民間払い下げについて賛同の意向だったそうですが、しかし、閉場には大反対。払い下げが上手く運ばない状況を見ると、これは猶予ならぬ事態として、即座に官営の継続を政府に請願しています。明治14年(18881年)11月、素彦は農商務卿・西郷従道の元を訪れ、官営存続の請願書を提出しました。その際、民間払い下げのメドがつくまで官営を継続するよう強く口頭で要請したそうです。

 また、素彦は富岡製糸場を閉場させないために、元前橋藩士で、この当時、農商務省に出仕していた速水堅曹と協力して、県内の生糸産業の有力者に直輸出専門の商社創立を説いてまわりました。そして、明治13年(1880年)12月には、生糸直輸出商社である「横浜同伸会社」を資本金10万円で創設しています。社長には速水堅曹が就任し、会長には星野長太郎。そしてその長太郎の弟・新井順一郎は取締役兼ニューヨーク支店長となり、直輸出の体制をつくりあげました。幕末の安政6年(1859年)に幕府大老・井伊直弼によって開港されて以来21年、楫取県政によって日本の直輸出がようやくスタートします。

 その後、直輸出の向上とともに富岡製糸場の経営も好転し、やがて10数年が過ぎた明治26年(1893年)に三井家が払い下げに応じ、以後、経営母体が代わりながら、昭和63年(1987年)に閉鎖となるまで、実に105年間操業し続けました。閉鎖後も最後の所有者である片倉工業が毎年1億円のコストをかけて保全修理につとめ、そして昨年、ユネスコ世界遺産に登録されるに至ります。

 もし、素彦が閉場差し止めの請願を行っていなければ、あるいは明治政府によって富岡製糸場は破却されていたかもしれません。そうなっていれば、世界遺産・富岡製糸場は存在しなかったわけで、素彦の大きな功績のひとつといえるでしょうね。民間でできることは民間で・・・小泉政権のときによく耳にした言葉ですが、まあ、間違いではないと思いますが、それもタイミングが必要ということでしょう。明治初期の富岡製糸場は、赤字経営でも国が面倒を見る必要があった、ということですね。


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by sakanoueno-kumo | 2015-11-30 17:26 | 花燃ゆ | Comments(0)  

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その29 ~真田幸村休息所跡・志紀長吉神社~

真田丸から南南東へ約10km近く下った大阪市平野区に、真田幸村休息所跡と刻まれた石碑があります。
ここは慶長20年(1615年)5月6日の大坂夏の陣における道明寺の戦いにおいて、徳川方の伊達政宗隊と激戦を交えたあと、真田信繁(幸村)隊がこの地で休息したと伝えられる場所です。

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石碑は住宅地の路地に隠れるように建っており、よく探さないと見逃してしまいそうな場所にあります(実際、わたしも何度もこの前を通りすぎてしまいました)。
鉄の門扉に刻まれている六文銭は、有名な真田隊の旗印ですね。
六文銭とは三途の川の渡し賃ですから、真田隊は常に死を決しているという意を表していると言われています(異説あり)。

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門扉や説明書きは平成15年に建てられたものですが、石碑は昭和10年に建てられたものだそうです。
そのわりには綺麗に管理されています。

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裏には、「幸村」と書かれた歌が刻まれています。

「御神徳をたたえ奉りて 家を思う心のうちの霧はれて神の利生に任せこそすれ 幸村」

ただ、「幸村」という名は後世の軍記物語などで使われ始めた名で、当時の史料に「幸村」と書かれたものは見られないはずだと思うのですが・・・。
これって、本当に信繁が詠んだものなのかなぁ。

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この休憩所跡の石碑から200mほど北にある志紀長吉神社には、信繁がこの地で休憩した際に戦勝祈願をしたという伝承があります。

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当時は日蔭神社という名称だったそうですが、信繁は戦勝祈願をしたとき、六文銭の軍旗と刀を奉納したと伝えられます。
残念ながら刀は、先の戦争後に進駐軍に没収されてしまったそうですが、軍旗はいまでも社宝として大切に保管されていて、毎年正月に一般公開されているそうです。

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信繁がこの地を訪れたのは、道明寺の戦いの退却中だったのですが、実はこの戦いに信繁率いる真田隊は遅刻してしまい、そのせいで孤立無援となった後藤又兵衛基次が、奮戦虚しく討死してしまいました。
遅参の原因は濃霧によるものだったといわれ、真田隊以外の部隊も同じく遅参しているのですが、真田隊が駆けつけたあとは豊臣方が戦況を押し返していたことを思えば、ここで戦勝祈願をしたときの信繁は、無念の思いと又兵衛の弔いの気持ちでいっぱいだったことでしょう。
でも、結局はその翌日に信繁も討死してしまうんですけどね。
兵どもが夢の跡・・・です。

まだまだ続きます。



大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その2 ~心眼寺(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その3 ~鴫野古戦場跡・佐竹義宣本陣跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その4 ~白山神社(本多忠朝物見のいちょう)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その5 ~野田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その6 ~本町橋~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その7 ~御勝山古墳(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その8 ~大和郡山城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その9 ~忍陵古墳・岡山城跡(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その10 ~徳川家康星田陣営跡・旗掛け松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その11 ~岸和田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その12 ~樫井古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その13 ~塙団右衛門直之の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その14 ~淡輪六郎兵衛重政の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その15 ~法福寺(お菊寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その16 ~大野治胤(道犬斎)の墓
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その17 ~今井宗薫屋敷跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その18 ~若江古戦場・木村重成の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その19 ~木村重成菩提寺・蓮城寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その20 ~木村重成本陣跡・銅像~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その21 ~木村重成表忠碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その22 ~山口重信の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その23 ~飯島三郎右衛門の墓・若江城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その24 ~長宗我部盛親物見の松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その25 ~常光寺・八尾城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その26 ~小松山古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その27 ~玉手山公園(道明寺古戦場)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その28 ~誉田古戦場・薄田隼人碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その30 ~権現塚・中村四郎右衛門正教宅跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その31 ~樋ノ尻口地蔵・全興寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その32 ~安藤正次の墓・願正寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その33 ~桑津古戦場跡・柴田正俊の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その34 ~茶臼山古墳古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その35 ~安居神社(真田幸村終焉の地)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その36 ~一心寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その37 ~玉造稲荷神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その38 ~方広寺大仏殿の梵鐘~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その39 ~淀殿の墓(太融寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その40 ~伝・徳川家康の墓(南宗寺)~


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by sakanoueno-kumo | 2015-11-27 19:32 | 大坂の陣ゆかりの地 | Comments(0)  

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その28 ~誉田古戦場・薄田隼人碑~

小松山にて後藤又兵衛基次が討死した頃、ようやく薄田兼相、明石全登、山川賢信らが道明寺に到着します。
彼らは、壊滅した後藤隊の敗残兵を収容するとともに、追撃してきた徳川軍と激突します。
押された豊臣方は石川を渡って誉田方面まで後退。
そこで、薄田兼相が討死します。

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写真は現在の石川です。
いまでは、河原に野球やサッカーのグランドやバーベキュー場があって、市民の憩いの場となっています。

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石川から300mほど西へ行った民家の一角に、薄田兼相の墓があります。
ここは住宅地と畑の間の細い路地を入っていったところにあり、探し当てるのがたいへんでした。

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薄田兼相にとって大坂夏の陣は、汚名返上を賭けた戦いでした。
というのも、前年の冬の陣の際、守っていた博労ヶ淵砦を、あろうことか遊郭に行っている間に落とされるという大失態を犯しており、味方から「橙武者」とあだ名されて嘲りを受けていました(橙は、酸味が強くて食べられず、正月飾りくらいにしか使い道がないため、見かけ倒しを意味しました)。
そのため、誉田の戦いでは、誰よりも前に出て奮戦しますが、結果、この地で命を落とします。

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兼相の墓の横には、「大阪夏の陣奮戦場碑」と刻まれた石碑があります。

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石碑からさらに南西へ400mほどのところに、誉田八幡宮という神社があるのですが、ここはかつて薄田兼相が陣を布いた場所だそうです。
ここから出撃して討死したんですね。

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境内には、「誉田林古戦場跡」と刻まれた石碑があります。
ただ、説明看板によると、ここでいう「誉田の戦い」とは、大坂夏の陣の戦いだけではなく、南北朝時代から、室町、戦国と、複数の戦いを指すようでした。
このすぐ北には応神陵古墳があり、周囲にも大小たくさんの古墳がある地域ですから、戦場となりやすかったのでしょうね。

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戦いはその後、毛利勝永隊と真田信繁(幸村)隊が合流し、徳川方の伊達政宗隊を撃退するなどの応戦を見せますが、同じ日に行われていた八尾・若江方面の戦い木村重成隊が壊滅したとの報告を受けると、真田隊を殿に撤退します。
道明寺、誉田の長い1日が終わりました。

次回に続きます。



大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その2 ~心眼寺(真田丸跡)~
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大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その4 ~白山神社(本多忠朝物見のいちょう)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その5 ~野田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その6 ~本町橋~
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大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その29 ~真田幸村休息所跡・志紀長吉神社~
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by sakanoueno-kumo | 2015-11-26 19:36 | 大坂の陣ゆかりの地 | Comments(0)  

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その27 ~玉手山公園(道明寺古戦場)~

小松山のすぐ近くにある玉手山公園内には、大坂夏の陣における道明寺の戦いで討死した豊臣方の武将、後藤又兵衛基次之碑があります。
ここも、かつて又兵衛らが奮戦した激戦地跡にあたります。
小松山には徳川方の武将・奥田忠次の墓が建っていますから、後年、又兵衛の碑がこの地に建てられました。

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後藤又兵衛基次は、播磨の別所氏の家臣・後藤基国の次男として、永禄3年(1560年)に生まれたと伝わります。
その後、黒田官兵衛・長政父子に仕え、筑前大隈城主として1万6千石を領しましたが、謀反の疑いを受け、浪人となります。

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そして慶長19年(1614年)の大坂冬の陣のとき、豊臣秀頼の招きで豊臣方に味方し、真田信繁(幸村)、長宗我部盛親、毛利勝久、明石掃部とともに豊臣方五人衆と呼ばれました。
さらに翌年の大坂夏の陣でも豊臣方の武将として徳川軍と戦い、小松山にて討死します。
享年56歳
真田信繁とともに、後世にたいへん人気の高い人物ですね。

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石碑の側には、「後藤又兵衛しだれ桜」と書かれた桜の木がありました。
これは平成12年(2000年)に植樹されたものだそうですが、又兵衛と枝垂れ桜がどう関係するのかはわかりません。

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ただ、この看板はそろそろ作り直してほしいですね。

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又兵衛の碑の隣には、又兵衛の家臣だった吉村武右衛門之碑があります。
吉村は銃弾に倒れた又兵衛を介錯した人物として伝わり、その後、そのを隠して逃亡。
戦後は僧侶になり、大坂の陣で死んだ者たちを供養し続けたといわれる人物です。

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いちばん右が後藤又兵衛基次之碑、その左横に吉村武右衛門之碑、そして写真いちばん左にあるのが、後藤又兵衛しだれ桜です。
ここを訪れたのは猛暑の7月26日でしたが、なぜか建っている石碑は涼しげに見えました。
(この丘の上まで歩いたわたしは、汗だくでしたけどね)

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同じく公園内にある玉手山7号墳の上には、大坂の陣戦没者供養塔があります。
いつ建てられたものかはわかりませんでしたが、かなり古いもののようでした。

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あるいは、僧侶となった吉村が建てたものだったりするかもしれません(確証はありません)。

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次は、道明寺の戦いと同日の午後に行われた誉田の戦いの舞台を訪ねます。



大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~

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by sakanoueno-kumo | 2015-11-25 18:49 | 大坂の陣ゆかりの地 | Comments(0)  

花燃ゆ 第47話「姉妹の約束」 ~寿子の死~

 楫取素彦の妻・寿子病没したのは明治14年(1881年)1月30日のことでした。寿子が健康を害しはじめたのは、明治初年に移り住んだ山口県の二条窪時代からだったようですから、およそ10年近く病魔と戦っていたことになります。素彦が足柄県(現在の神奈川県西部、静岡県伊豆地方)の参事となって同地に赴任した際も、当初は寿子を二条窪に残して単身赴任だったようです。その後、素彦が熊谷県(のち群馬県)権令(県令)に赴任した頃に妹の美和子を同伴して同地に移り住みますが、明治10年(1877年)頃から、療養のため東京に移っていました。

 なぜかドラマでは描かれていませんでしたが、寿子は浄土真宗の熱心な信者だったと伝えられています。二条窪時代には観音堂を建立し、ここで月に二度、地元に人々を集め、僧侶を招いて法座を開くなど、活発な布教活動を行っています。その傍ら、寿子はこの堂宇で、二条窪村の子どもたちに裁縫読み書きを教えていたそうです。また、熊谷県に移り住んでからは、現在の前橋市に本願寺開設を発案。地元山口県から浄土真宗の僧侶・小野島行薫を呼び寄せて酬恩社教会を設立、その説教所(出張所)の造営を支援しました。当時、素彦の赴任した熊谷県は、気性の荒い「上州人気質」が根強く残った「難治の県」と呼ばれていましたが、寿子はその上州人の荒々しさを少しでも鎮めようと、浄土真宗の布教に尽力したようです。まさに「内助の功」ですね。

 寿子は行薫を招いて二条窪時代と同じく月に二度の法座を開き、県庁の官吏の妻たち地元有力者の妻たちに出席を促し、仏教の教義、念仏の功徳などを説きました。また、寿子の死後に発足する「上毛婦人教育会」という仏教系の婦人会の基盤づくりにも尽力したと伝わります。さらに、寿子は行薫に依頼して刑務所における教誨活動にも力を入れていたといいます。ここまでいえばわかるかと思いますが、ドラマでの美和子の活躍というのは、実はすべて寿子の功績なんですね。もちろん、寿子の身の回りの世話をしていた美和子も、何らかの手助けはしていたでしょうが、美和が姉のような熱心な念仏者だったという話は伝わっておらず、美和子は単に姉の協力者に過ぎなかったのではないかと・・・。

 「姉上も、ぜひ病気が治ったら手伝うてください。」
 「もちろんです。わたしたち姉妹で、母親たちの松下村塾をつくりましょう。」

 この姉妹の約束の会話。実はだったんですね。

 病状がいよいよ深刻化した明治13年(1880年)暮れ、家族は前橋にいる素彦に連絡しようとしますが、「公務の妨げになる」といって連絡させなかったといいます。そして年が明けた1月30日の朝、見舞いに駆けつけてくれた親族が見守るなか、正座し、念仏をとなえながら往生したといいます。享年44歳(異説あり)。若く惜しまれる死でした。

 寿子は死の直前、長男、次男それぞれの妻たちに宛てた訓戒状ともいうべき遺言状を残しています。自筆にして5,000字を超える長文で、念仏の功徳などを説いたたいへんな名文だそうです。そのなかで、寿は自分の死後、叔母である美和子に孝養を尽くすよう嫁たちに遺言しています。妹思いの優しい姉の一面がうかがえますね。また、同じ時期に山口県に住む実兄・杉民治に宛てた書簡では、妹の美和子を夫の素彦と同居させ、身の回りの世話をさせてほしいと依頼しています(ドラマではすでに同居していましたが)。ドラマのように、「美和子を後妻に」とといった直接的な表現ではありませんが、自身の死後、妹を夫の後添えにしてほしいという思いが感じ取れます。自身の死期が迫るなか、夫と妹のその後の幸せを願う気丈な寿子の人物像がうかがえますね。やはり、吉田松陰の妹です。

 最愛の妻を亡くした素彦は、ひとつの和歌を詠んでいます。

 「今はただ 甲斐こそなけれ もろともに 花のうてなに 住まんちぎりも」

 天国の蓮のうてなで、また一緒に暮らそうと約束した哀悼の歌だそうです。


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by sakanoueno-kumo | 2015-11-23 15:47 | 花燃ゆ | Comments(0)  

おかげさまで訪問者数50万件突破のご報告。

約2週間前に当ブログ開設7周年のご報告をさせていただきましたが、本日(11月20日)21時過ぎ、当ブログへの訪問者数が50万件を突破いたしました。
これはユニークユーザー数なので、アクセス数とは違って、同じパソコンから1日に何度ご訪問いただいてもカウントはということになります(つまり、延べではなく実数ということ)。
2008年11月からはじめて、7年と2週間での達成です。
どなた様も、素人のとりとめもない駄文にお付き合いいただき、まことにありがとうございました。

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50万件といっても、上の画像にPC訪問者数とあるように、パソコンからのご訪問のみの数です。
ブログを始めた当初は、結構あてになる数字だったのかもしれませんが、昨今はスマホタブレット端末からの訪問のほうが多くなってきている気がしますし、この数字もあまり目安にはならなくなってきたかもしれませんね。

この間に起稿した数は本稿で973稿目
もうすぐ1000稿に届きそうです。
正直いって、軽い気持ちで始めたブログが、まさかまさか、こんなにも続くとは思ってもいませんでした。
そもそも、「坂の上のサインボード」という屋号も、
「sakanoueno-kumo」というハンドルネームも、特に熟考したわけでもなく、なんとなく思いつきでネーミングしたもので、こんなことになるのなら、もっと真剣に考えればよかったと後悔しています。
まあ、特に肩に力が入っていなかったから、これだけ続いたといえるかもしれませんけどね。

最近は大河ドラマのレビューと史跡めぐりレポートばかりのブログになっていますが、まだしばらくは続けていこうと思っていますので、今後とも宜しくお願いします。

現在21時、今宵は深夜まで仕事です。


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by sakanoueno-kumo | 2015-11-20 21:19 | コネタ | Comments(0)  

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その26 ~小松山古戦場跡~

舞台は大阪府柏原市に移ります。
柏原市には玉手山古墳群と呼ばれる古墳が点在する丘陵地があるのですが、ここはかつて「小松山」と呼ばれ、大坂夏の陣における道明寺の戦いで、激戦の舞台となった場所です。

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大阪冬の陣後の講和で堀をすべて埋め立てられてしまった豊臣方は、城を出て戦わざるをえない状況となります。
敵は大和路から河内平野を抜けて大坂城南に進軍してくるだろうとみた豊臣方は、慶長20年(1615年)5月1日、後藤又兵衛基次、薄田兼相をはじめとする約6,400の第一陣が出陣、続いて真田信繁(幸村)、毛利勝永約12,000の第二陣が出陣します。
そして5月5日、河内国平野で宿営した後藤、真田、毛利らは、翌払暁に道明寺村付近に集結し、国分村の狭隘な地で幕府軍を迎え撃つ作戦を取り決め、訣別の盃を交わしました。

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ところが翌日6日、後藤隊2,800は夜明け前に道明寺に到着したものの、真田隊をはじめ他の諸隊は遅刻してしまいます。
その理由は、濃霧のため道を間違えたといわれています。
業を煮やした後藤隊は単独で行軍しますが、そこで、すでに徳川軍が国分まで進軍していていることを知ります。

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午前4時頃、後藤隊はここ小松山にて、徳川軍の松倉重政、奥田忠次らと激突。
奥田はこのとき討死し、松倉隊も壊滅して後藤隊が小松山を占拠しますが、その後、徳川方の水野勝成、堀直寄が来援し、更に伊達政宗、松平忠明らが加わり、小松山を包囲して猛攻撃をあびせます。
それでも、後藤隊はよく踏ん張るのですが、結局は多勢に無勢
約8時間の激戦のすえ、正午頃に又兵衛は戦死しました。

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現在、小松山にある1号古墳上には、後藤隊に討ち取られた奥田忠次の墓があります。

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なんで又兵衛の墓じゃないの?・・・と思いがちですが、徳川の世となった江戸時代に、敵方の将だった又兵衛の墓が手厚く葬られることはなかったでしょう。
江戸幕府にとっては、小松山は後藤又兵衛戦死の地ではなく、奥田忠次戦死の地だったわけですね。

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又兵衛の慰霊碑は、すぐ近くの玉手山公園内に、後年になって建てられました。
次稿はそこを訪れます。



大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その2 ~心眼寺(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その3 ~鴫野古戦場跡・佐竹義宣本陣跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その4 ~白山神社(本多忠朝物見のいちょう)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その5 ~野田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その6 ~本町橋~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その7 ~御勝山古墳(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その8 ~大和郡山城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その9 ~忍陵古墳・岡山城跡(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その10 ~徳川家康星田陣営跡・旗掛け松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その11 ~岸和田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その12 ~樫井古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その13 ~塙団右衛門直之の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その14 ~淡輪六郎兵衛重政の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その15 ~法福寺(お菊寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その16 ~大野治胤(道犬斎)の墓
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その17 ~今井宗薫屋敷跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その18 ~若江古戦場・木村重成の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その19 ~木村重成菩提寺・蓮城寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その20 ~木村重成本陣跡・銅像~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その21 ~木村重成表忠碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その22 ~山口重信の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その23 ~飯島三郎右衛門の墓・若江城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その24 ~長宗我部盛親物見の松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その25 ~常光寺・八尾城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その27 ~玉手山公園(道明寺古戦場)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その28 ~誉田古戦場・薄田隼人碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その29 ~真田幸村休息所跡・志紀長吉神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その30 ~権現塚・中村四郎右衛門正教宅跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その31 ~樋ノ尻口地蔵・全興寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その32 ~安藤正次の墓・願正寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その33 ~桑津古戦場跡・柴田正俊の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その34 ~茶臼山古墳古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その35 ~安居神社(真田幸村終焉の地)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その36 ~一心寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その37 ~玉造稲荷神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その38 ~方広寺大仏殿の梵鐘~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その39 ~淀殿の墓(太融寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その40 ~伝・徳川家康の墓(南宗寺)~


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by sakanoueno-kumo | 2015-11-19 19:45 | 大坂の陣ゆかりの地 | Comments(0)  

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その25 ~常光寺・八尾城跡~

豊臣方の長宗我部盛親隊と徳川方の藤堂高虎軍が激突した八尾の戦いの激戦地に、常光寺という寺があります。
ここは合戦当時、徳川方の保護を受けていました。

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戦後、藤堂高虎は、この寺の本堂の北にある住職の居間(方丈)の縁側に、敵方の首級を並べて「首実検」をしたと伝わります。

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その縁板は、おびただしい血痕がついていたため、のちに方丈の西廊下の天井として貼り替えられました。
その天井は「血天井」と呼ばれたそうです。

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その血天井を見にここを訪れたのですが、残念ながら改修工事中で、中を見ることはできませんでした。
ただ、境内にある藤堂家家臣七十一士の墓には参れました。

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説明は石碑をお読みください。

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境内には、往時を知っているであろうか、大樹が・・・。

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常光寺のすぐ近くに、八尾神社があるのですが、その境内に、「八尾城址」と刻まれた石碑があります。
かつてこの辺りに八尾城(矢尾城址)があったと伝えられますが、織田信長の家臣となった切支丹武将の池田丹後守教正の居城だったという記録を最後に、史料が確認されていません。
したがって、八尾の戦い当時に城が残っていたかどうかはわかりませんが、あるいは、廃城となった八尾城がとして利用されていたかもしれませんね。

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前稿でも述べたとおり、八尾の戦いに勝利した長宗我部盛親はその後処刑され、長宗我部家は滅亡
一方、この戦いで壊滅寸前となった藤堂高虎は、その後、津藩初代藩主となって、藤堂家は幕末まで大名であり続けます。
運命ってわからないものですね。

まだまだ続きます。



大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~
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by sakanoueno-kumo | 2015-11-18 20:08 | 大坂の陣ゆかりの地 | Comments(0)  

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その24 ~長宗我部盛親物見の松~

大阪府八尾市の久宝寺地区に、「長曽我部物見松遺址」と刻まれた石碑があります。
若江の戦いが行われた同じ日、豊臣方の長宗我部盛親隊と徳川方の藤堂高虎軍がこの地で激突しますが(八尾の戦い)、その戦いにおいて、長宗我部軍が藤堂隊の動静を探るために上ったと伝わる松の巨木が、かつてここにあったと伝えられます。

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現在は石碑樹齢若い松の木が植樹されています。

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長宗我部盛親は木村重成隊と共に中河内地区に出陣し、重成が若井へ、そして盛親は八尾に陣を布きました。
そこで、同じくこの地に進軍していた徳川方の藤堂高虎軍の左翼、藤堂高刑、桑名吉成隊と出くわし、そのまま激突します。

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このときの長宗我部隊の攻撃はすさまじく、藤堂高刑、桑名吉成は討死し、藤堂隊はほとんど壊滅寸前にまで追い込まれますが、そこに、若江方面での木村重成隊の敗報が届き、孤軍となることを恐れた長宗我部隊は、大坂城に撤退しました。

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写真はこの地区に流れる長瀬川
現在は見てのとおりの小さな川ですが、当時は川幅が180mほどある大河で、高い堤があったそうです。
長宗我部隊は、その堤の上に陣を布いたそうです。

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盛親はその後、翌日の最終決戦には出陣せず、大坂城京橋口を守っていましたが、豊臣方の敗北が決定的になると、「我ら運さえ良ければ天下は大坂たるよ」と言い残し、再起を図って逃亡しました。
しかし、武運は盛親に味方せず、ほどなく潜んでいるところを発見され、その後、見せしめのために二条城門外の柵に縛りつけられ、そして、豊臣家敗北から1週間後の慶長20年(1615年)5月15日、京都の六条河原で6人の子女とともに斬首され、三条河原に晒されました。
享年41歳。
兵どもの夢の跡です。

シリーズはまだまだ続きます。



大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~

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by sakanoueno-kumo | 2015-11-17 20:29 | 大坂の陣ゆかりの地 | Comments(0)  

花燃ゆ 第46話「未来への絆」 ~西南戦争後の国事犯たち~

 8ヶ月に及んだ西南戦争は政府軍の勝利で幕を閉じ、政府軍の死者は6,403人、反乱軍の死者は西郷隆盛をはじめ6,765人に及びましたが、反乱軍の生き残りたちは国事犯として長崎で裁判にかけられ、そのほとんどが囚人となります。しかし、政府の管理する監獄ではそのすべてを収監しきれず、約2,700人の囚人が全国の監獄に護送されることとなりました。楫取素彦が県令を務める群馬県には、最初に57名、翌年に31名計88名が囚人として送られてきたそうです。

 ドラマでは、群馬県では囚人たちをただ労役につかせるだけでなく、仕事を与えて職業訓練をさせるという試みをはじめたとありましたが、実際には、群馬県のみならず多くの県で同じようなことが行われていたようです。ただ、それは現代のような職業訓練という趣旨ではなく、労働力としてのそれだったようですね。もっとも、奴隷のようにこき使われていたわけでもなく、むしろ囚人らが自発的に労働を望む場合が多かったようで、開墾作業土木工事に従事して、地域開発に大きな役割を果たしました。

 「国事犯」とは国家の政治的秩序を侵害する犯罪のことをいいますが、そもそも革命期においては、その政治的秩序そのものが不安定なもので、勝てば官軍負ければ賊軍、ひとつ間違えれば、裁く側裁かれる側が逆転していたかもしれないわけです。ドラマ中の美和も言っていましたが、官軍も賊軍も、国のことを憂い、国のために命を投げ出した者たちであり、罪人と言っても、極悪非道な人物たちではなかったわけです。先週、フランス同時多発テロ事件がありましたが、現代のように一定の政治的秩序が確立された時代の政治犯とは違いますからね。当時の国事犯のなかには、人格者が多くいたはずです。

 しかし、当時、国事犯とは最も重い罪で、その首謀者は、ほとんどがまともな裁判にかけられることなく死罪になっています。「佐賀の乱」江藤新平「萩の乱」前原一誠がそうですね。政治的秩序が不安定である以上、その秩序を乱す行為は見せしめとして厳罰に処し、秩序を正当化していく必要があったわけです。その恐怖政治を断行したのは大久保利通でしたが、それほど強引な姿勢で臨まないと、新しい秩序は確立されなかったんですね。新国家の陣痛時期とでもいうか・・・。現代でも、政治犯を問答無用で粛清する独裁国家がすぐ近くにありますが、それ即ち、国家の秩序が不安定な状態にあることを露呈しているといえるでしょうか。

 話を戻すと、その後わが国における囚人の数は増え続け、明治18年(1885年)には8万9千人となり、全国的に監獄は過剰拘禁となりました。政府はこの状態を解決するため、明治14年(1881年)に監獄則改正を行い、徒刑、流刑、懲役刑12年以上の者を拘禁する集治監を、当時、開拓地だった北海道に求めました。開拓の労働力としても役に立ち、加えて、人口希薄な北海道に彼らが刑を終えたのち住み着いてくれたら一挙両得だという目論見もあったようです。そんなわけで、明治14年(1881年)には月形町に樺戸集治監、明治15年(1882年)には三笠市に空知集治監、明治18年(1885年)には標茶町に釧路集治監、そして明治23年(1890年)には有名な網走囚徒外役所が置かれます。こうして北海道の監獄の歴史がはじまるんですね。

 本稿は、ドラマから少し離れちゃいましたね。


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by sakanoueno-kumo | 2015-11-16 17:54 | 花燃ゆ | Comments(0)