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白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その2 ~門~

姫路城には、いろは順に名づけられた15ヵ所、その他の門が69ヵ所、あわせて84の防御門あったそうですが、 そのうち21門が現存しています。

本稿では、それらの門(すべてではありませんが)を見ながら歩いてみます。

まずは、「大手門」

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大手門とはいうまでもなく正面玄関のことですが、実はこの大手門は昭和13年(1938年)に建てられたものだそうで、江戸時代のそれとは位置も大きさもまったく異なるそうです。

というのも、現在の姫路城の敷地は、江戸時代でいえば内堀内の内曲輪で、本来の大手門は、もっとずっとずっと外側にあったんですね。

本来の姫路城の縄張りは、めちゃめちゃバカでかいですから。

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上の写真は三の丸広場の北西登城口にある「菱の門」です。

表玄関にふさわしく格式高い櫓門で、伏見城から移築されたという説もあります。

火灯窓(かとうまど)が特徴的ですね。

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「いの門」です。↑↑↑

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「ろの門」です。↑↑↑

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「はの門」に向かう石段。

この坂道は「将軍坂」と呼ばれていて、時代劇などでもよく出てくるロケーションです。

今年の新春時代劇『信長萌ゆ』でも、この将軍坂の向こうにCGの安土城を合成していました。

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「はの門」です。↑↑↑

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「にの門」↑↑↑

天井が低く登りながら曲がっていて、集団では進めないように設計されています。

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「ほの門」↑↑↑

ひとりずつしか入れないほど狭い門です。

ここをくぐると、天守群の周りを一周しなければ大天守へはたどり着けないようになっています。

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その天守群の周りにある「水の一門」です。↑↑↑

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「水の二門」です。↑↑↑


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このあたりはすべて天守の周りですから、導線が狭い上に、上の石落としから石が降ってきます。

よく考えられていますね。

このあと水の門は六門まで続くのですが、狭くて人が多くて、上手く撮影できませんでした。


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隠れた場所にある「るの門」です。↑↑↑

ここは伏兵の出入りを想定した出入り口だとか。

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三国堀から二の丸に登る「ぬの門」です。↑↑↑

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二の丸から本丸に登る「りの門」↑↑↑

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そして最期に、本丸東側の入口「備前門」です。↑↑↑

ざっと主だった門を紹介しました。

それぞれに特徴があり、役割があります。

すべてが池田輝政の築城時からあった門ではないでしょうが、よく考えられていますね。

もっとも、慶長14年(1609年)に完成した姫路城が、その後合戦の舞台になることはありませんでしたが・・・。

だから、美しいまま現存して世界遺産になったんですけどね。

次回に続きます。



白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その1 ~三の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その3 ~三国堀・二の丸・本丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その4 ~天守閣~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その5 ~西の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その6 ~下山里~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その7 ~姫山公園・姫路神社~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その8 ~内堀~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その9 ~武蔵野御殿跡・千姫の小路~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その10 ~男山・千姫天満宮・配水公園~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その11 ~池田輝政公菩提寺旧蹟~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その12 ~姫路城天守眺望~

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by sakanoueno-kumo | 2016-01-28 21:57 | 姫路城めぐり | Trackback | Comments(0)  

白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その1 ~三の丸~

昨年春に5年間の大天守改修工事を終えて一般公開された姫路城に、昨秋10月、ようやく行ってきました。

写真は天守南側の三の丸広場から。


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本当はもっと早く訪れたかったのですが、春先は連日2~3時間待ちとの報道でしたから、ちょっとほとぼりが冷めてから行こうと様子を見ていたところ、夏になっても状況はあまり変わらず、しびれを切らして朝早くから強行したのが10月17日。

この日も、朝9時のオープンに合わせて訪れたのですが、すでに天守への登城は40分待ちでした。

まあ、9月末のシルバーウイークなんて、とんでもないことになっていたみたいですから、まだましかなぁと・・・。


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テレビの報道などで既に何度も目にしていましたが、実際に訪れてみて、やはりこの白さに目を奪われます。

姫路城の美しさの象徴でもある白漆喰壁の天守は、白い鷺が舞い立つように見えることから、別名「白鷺城」と呼ばれています。

この度の改修工事で屋根までもが白くなりましたから、まさに白鷺の姿となりました。

これは、瓦の継ぎ目に屋根目地漆喰を一面に塗ったせいで、角度によって屋根全体が白く見えるようになったそうです。


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ただ、この白さが保たれるのも長くて2年だそうですね。

漆喰の弱点はカビに弱いそうで、梅雨などの湿気の多い季節をすぎると、カビで黒ずんでくるんだそうです。

わたしが訪れたときも、既にオープンからひと夏を越してましたから、春先よりは若干白さが失われはじめていたかもしれません。

白い姫路城を見たい人は、早めに行ったほうがいいですよ。


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写真は三の丸広場です。

かつてこの三の丸には、御殿屋敷が立ち並んでいましたが、いまは芝生広場として、市民憩いの空間となっています。


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ご存知のとおり、国宝である姫路城は、平成5年(1993年)に奈良の法隆寺とともに、わが国最初の世界遺産に登録されました。

その理由はいくつかありますが、池田輝政によって現在の5重7階の天守が建てられてから400余年、改修工事を繰り返しながらも一度も建て替えられていないことがあげられます。

日本の現存天守12城(復元天守ではない城)のなかでは、最も大きく優れた木造建造物だという評価だそうです。

兵庫県民の誇りですね。


次回に続きます。



白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その2 ~門~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その3 ~三国堀・二の丸・本丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その4 ~天守閣~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その5 ~西の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その6 ~下山里~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その7 ~姫山公園・姫路神社~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その8 ~内堀~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その9 ~武蔵野御殿跡・千姫の小路~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その10 ~男山・千姫天満宮・配水公園~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その11 ~池田輝政公菩提寺旧蹟~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その12 ~姫路城天守眺望~

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by sakanoueno-kumo | 2016-01-27 19:58 | 姫路城めぐり | Trackback | Comments(2)  

真田丸 第3話「策略」 ~表裏比興の者・真田昌幸~

e0158128_20342335.jpg 武田氏がまたたく間に滅亡した背景には、一族家臣たちの寝返り逃亡に歯止めが効かなくなったことが大きな要因として挙げられますが、そんな中にあって、唯一織田軍を相手に最後まで戦ったのが、武田勝頼の実弟・仁科五郎盛信でした。盛信の守る高遠城を包囲した織田信忠は、再三に渡って降伏を勧告しますが、盛信はこれを頑なに拒否し、徹底抗戦の道を選びます。一説には、降伏の使いに来た僧侶の耳をそぎ落として追い払ったとか。怒った信忠は高遠城に総攻撃を開始。城方は怯むことなく立ち向かいますが、結局は多勢に無勢孤立無援での籠城戦には限界があり、城兵400人余りは壮絶な討死を遂げました。盛信の最期は、自ら腹を掻っ捌き、腸を掴んで投げつけて倒れたといわれます。享年26歳。裏切り者たちに最後の武田武士の意地を見せたといえます。

 ドラマで、徳川家康が戦後処理を指揮していたのは、そんな壮絶な戦いのあとの高遠城でした。嫌がる家康を本多忠勝が無理やり連れてきた場所は、生々しく血痕が残る盛信の自害した場所でしたね。忠勝は戦死者に手を合わせて弔うことが、武士の礼節であると言わんばかりに家康の手を引きます。尻込みする家康。う~ん・・・どうも、このドラマにおける家康のキャラが、まだつかめません。

e0158128_20362013.jpg 家康の手を引いていた本多忠勝は、徳川家の家臣にして戦国きっての猛将と言われ、酒井忠次、榊原康政、井伊直政とともに徳川四天王のひとりとして後世に知られます。その武勇は、織田信長やのちの豊臣秀吉ら天下人からも、「天下無双」と賞賛されるほどの勇将で、「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」という狂歌も詠まれたほど。もう一人の本多姓を持つ本多正信とともに、「武の本多忠勝、智の本多正信」として家康の天下取りを支えました。生涯に参戦した合戦は57にも及んだとか。数々の屍の上を超えてきた猛将だけに、敗軍の将に対する哀悼も人一倍だったかもしれません。

 この本多忠勝の娘・小松姫が、のちに真田信幸(信之)の正室となります。でも、ドラマでは、既に信幸にはこうという妻がいるようですね。まあ、信幸にも数人の側室がいたようですから、小松姫より先に妻がいても不思議ではないのですが、このとき信幸は若干16歳。もう妻持ちだったのでしょうか? しかも、その妻が病弱という・・・(笑)。これ、史実かどうか、ちょっと調べがつきませんでした。

 真田信繁(幸村)のガールフレンド・きりは、たぶんドラマのオリジナルですね。それとも、詳細のわからない側室となる女性かな? いずれにせよ、信繁という人の少年期の逸話はほとんど残っていませんから、女性関係は架空の人物に頼らざるを得ません。そうまでして色恋を描く必要があるのか?・・・というご批判もあろうかと思いますが、女性がいなけりゃ物語に花がなくなるというもの。まあ、安っぽいラブコメにならなければ、いいんじゃないかと・・・。

 で、いまのところ物語の見どころは、やはり父の真田昌幸ですね。今回は、織田信長に真田家を売り込むため、一芝居うったというお話でした。北条氏を見限って織田氏に付くと決めた昌幸でしたが、いきなり自分のような無名の小領主が信長に面と向かっても、話に応じないだろう。だったら、向こうが話をしたくなるよう仕向ける。そのためには、自身にをつけなければならない。そこで、小県の領主たちを集めてタウンミーティングを開き、出浦昌相とグルになって室賀正武を騙し、さらには、息子・信幸の実直さも策略の道具に利用する。さすがは食えない男・昌幸です。

 実際にこのような策略が行われたかどうかはわかりませんが、「表裏比興の者」といわれた昌幸のこと。生き残りのために二枚も三枚も舌を持っていたことでしょう。しかし、後世に「卑怯者」としての印象がないのは、昌幸の策謀に卑屈さがまったく感じられないところ。小身でありながら強者たちと対等に渡り合うための権謀術数は、どこか痛快に思えます。息子たちの活躍はまだまだ先の話。しばらくは、昌幸から目が離せません。



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by sakanoueno-kumo | 2016-01-25 20:40 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(0)  

朝ドラ『あさが来た』で異彩を放つ五代友厚 その2

昨日の続きです。

明治2年(1869年)、政府から横浜へ転勤を命じられると、五代友厚は愛着のある大阪に残るために官を辞します。

その後は、金銀分析所、鉱山、活版印刷所などの事業を興したほか、関西商人らと阪堺鉄道(現・南海電気鉄道)、大阪商船(現・商船三井)を起業。

そして明治11年(1878年)開業の大阪株式取引所(現・大阪取引所)の創設にも関わります。

さらに信用取引や手形取引の商慣習が乱れていた状況を見かね、仲間組合として同年に大阪商法会議所を設立。初代会頭に選ばれた五代は大阪の商秩序を正常化し、今の大阪商工会議所の礎を築きます。

教育面でも、大阪の商家の子弟を新しい経済環境に適応させようと大阪商業講習所を作り、それが今の大阪市立大学につながります。

もともと縁もゆかりもなかった大坂のまちに、ここまで尽力した友厚。

まさに「大阪の恩人」と言われる所以です。

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こちらの写真は、大阪商工会議所前にある友厚のです。

前稿で紹介した大阪証券取引所前の像同様、なかなかのイケメンですね。

昨日今日のどちらの写真も数年前に撮影したもので、そのときはわたし以外に立ち止まる人などいませんでしたが、先日、大阪証券取引所の前を通ったら、数人のおばちゃんたちが像を撮影していました。

朝ドラの力は絶大です(笑)。

でも、無粋なことをいえば、広岡浅子と五代友厚が懇意の仲だったというエピソードは、残念ながら残ってないそうですけどね。

まあ、お互い名前くらいは知ってたでしょうが。

ちなみに、「平成の五代友厚」なんて言われたりもした橋下徹氏が、昨年いっぱいで市長を退き、同時に政治家も引退されましたね。

「どこが五代友厚やねん!」とお叱りの声も聞こえてきそうですが、「大阪を変えよう、大阪から日本を変えよう」という情熱を持ってのぞんだという部分では、共通しているといってもいいでしょう。

でも、五代だったら、何が何でも信念を貫き通して、途中でケツを割ったりしなかったと思うんですけどね。

「日本のために、この大阪を育てるとじゃないのか!これ以上、東京に何もかも集めてはならん!日本のためには、もうひとつもふたつも大きなまちが入用じゃ!その企てが、やっとこさ進み始めたとこじゃっちゅうとに!話にならん!」

ドラマで横浜転勤を命じられたときの五代の台詞です。

これって、まさに橋下氏がずっと主張し続けてきたことですよね。

五代友厚だったら、大阪都構想をどう実現したか・・・そう考えたら、まだまだ橋下さんは引退してる場合じゃない気もしますね。

そんな五代友厚ですが、残念ながらその生涯は長くはなく、明治18年(1885年)9月25日に49歳の若さで病死します。

糖尿病だったといいますから、大阪のために働きながら病気とも戦っていたのでしょうね。

死の少し前には、を鹿児島から大阪に移しています。

最期は大阪市民として死にたかったのかもしれませんね。

経済人として敏腕を振るった五代でしたが、死後、遺産はほとんどなく、多額の借金だけが残っていたとか。

この点は、親交が深かった大久保利通と共通します。
西郷隆盛もそうですが、没我奉仕の精神で、私利私欲に頓着せず、不正を徹底的に忌み嫌う薩摩人気質だったのでしょうね。

さて、朝ドラ『あさが来た』は、ちょうど折り返し点を過ぎたあたりですが、五代友厚の出番は今週で終わりだそうですね。

どんな最期を迎えるのか、楽しみにしましょう。


朝ドラ『あさが来た』で異彩を放つ五代友厚 その1
朝ドラ『あさが来た』で異彩を放つ五代友厚 その3
朝ドラ『あさが来た』で知ったびっくりポンな女傑、広岡浅子。 その1
朝ドラ『あさが来た』で知ったびっくりポンな女傑、広岡浅子。 その2
朝ドラ『あさが来た』で知ったびっくりポンな女傑、広岡浅子。 その3
朝ドラ『あさが来た』で知ったびっくりポンな女傑、広岡浅子。 その4


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by sakanoueno-kumo | 2016-01-21 18:01 | その他ドラマ | Trackback | Comments(0)  

朝ドラ『あさが来た』で異彩を放つ五代友厚 その1

NHKの朝の連続テレビ小説『あさが来た』が好評のようですね。

わたしも、いつもは妻が観ている横で見るともなしに観ていてハマっていくというパターンなんですが、今回は、朝ドラには珍しく幕末からの物語ということで、けっこう最初から真剣に観ています。

そこで、今日は主人公・白岡あさのモデルである広岡浅子のこと・・・ではなく、ドラマ内の主要登場人物で唯一、実在の人物名そのままで登場している五代友厚についてお話しましょう。

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写真は大阪証券取引所前に立つ五代友厚の像です。

五代は、大阪商工会議所の初代会頭を務めるなど大阪経済の発展に貢献した人物として知られ、同じく明治維新後に東京の経済の基礎を作った渋沢栄一と並び、「東の渋沢、西の五代」と称されるほどの大阪の顔的存在ですが、実はこの人、元は大阪には何のゆかりもない鹿児島県の人です。

薩摩藩の上級武士の家に生まれた五代は、幼少の頃から英才として知られ、通称「才助」は藩主から贈られた名前だといいます。

安政4年(1857年)、藩から選抜されて長崎に留学し、幕府の海軍伝習所で学びました。

そのとき、勝海舟榎本武揚、坂本龍馬、木戸孝允、そしてイギリス貿易商のトーマス・グラバーなど、幕府諸藩を超えてさまざまな人物と親交を持ちます。

文久2年(1862年)、幕府船・千歳丸水夫に化けて潜り込み、上海に渡航しました。

そのとき、長州藩の高杉晋作や、佐賀藩の中牟田倉之助らと知り合います。

いずれも、藩きっての秀才たちで、五代同様、藩の将来を担う人物として派遣されていました。

五代はこのときから、既に経済に主眼をおいて上海を歩きまわったといいます。

この渡航の際、五代は藩のために汽船購入の契約をしたという説もありますが、これについては、信憑性に乏しいようです。

いずれにせよ、経済が後の世を動かすという考えは、既に持っていたのでしょうね。

その3年後の慶応元年(1865年)には薩摩藩遣英使節団としてヨーロッパに渡り、大いに見聞を広めました。

その知識は明治維新後に新政府から必要とされ、外国事務局判事に起用されます。

大阪府権判事兼任として大阪に赴任し、堺で起こったフランス水兵と土佐藩士との衝突事件や、イギリス公使パークス襲撃事件などの処理に手腕を発揮したことから、大阪港の開港貿易事務も管轄し、大阪との深い関わりが生まれました。

また、大阪に造幣寮(現・造幣局)を誘致したのも五代で、初代大阪税関長も務めました。

さらに、新政府の肝いりで大阪に通商会社、為替会社を設立。

この頃には、はじめは協力に消極的だった大阪の有力両替商らからも、信望を高めます。
ドラマの加野屋のモデルである加島屋も、そのひとつですね。

その後、五代に横浜転勤の辞令が出たときには、五代留任を求める声が大阪経済界から起こったといいます。

このことからも、わずか1年ほどで、五代は大きな信頼を得ていたことがわかります。

長くなっちゃったので、明日に続きます。

朝ドラ『あさが来た』で異彩を放つ五代友厚 その2
朝ドラ『あさが来た』で異彩を放つ五代友厚 その3
朝ドラ『あさが来た』で知ったびっくりポンな女傑、広岡浅子。 その1
朝ドラ『あさが来た』で知ったびっくりポンな女傑、広岡浅子。 その2
朝ドラ『あさが来た』で知ったびっくりポンな女傑、広岡浅子。 その3
朝ドラ『あさが来た』で知ったびっくりポンな女傑、広岡浅子。 その4



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by sakanoueno-kumo | 2016-01-20 10:43 | その他ドラマ | Trackback | Comments(0)  

『SMAP×SMAP生放送』に思う、釈然としない結末。

深夜に帰宅して『SMAP×SMAP生放送の録画を観ました。

とりあえず、最悪の事態は回避したとのことで、これにて一件落着と言いたいところですが、どうも釈然としない気分です。

世間を騒がせたということに対して、ファンに向けて謝罪というのはわかりますが、あれではまるで、独立を画策した4人のみが悪者といった印象です。

違うでしょ!
そもそも今回の騒動は、彼らの野心ワガママで起きたものではないですよね。
ジャニーズ事務所内のイザコザに、タレントの彼らが巻き込まれたものでしょう?

だったら、世間を騒がせたという意味で言えば、事の発端となった副社長マネージャーを筆頭に関係者すべてに罪があるわけで、本来謝罪しなければならないのは、代表取締役社長なんじゃないですか?

木村くんがジャニーさんに謝る機会を作ってくれたから、こうして出てこられた?

はぁ?

なんでそんな裏の事情をTVで言う必要があるんですか?
彼らは、今回の騒動を起こしたジャニーズ事務所を代表して謝罪したんじゃないんですか?

いったい、あの生放送は、そしてあの謝罪は、誰に向けたものなんでしょう?

それに、なんでリーダーであるはずの中居正広さんが仕切らずに、木村拓哉さんが仕切るんですか?

それって、暗にジャニーズに残留を示した木村くんが正義で、反旗を翻した中居くんら4人が罪人だと世間に知らしめたいわけでしょうか?

違うでしょ!!

今回の騒動は、どちらも自身の道理に従ったまでで、どちらが悪いというものではありません。

悪いのは、彼らに苦渋の決断を強いてしまった会社の取締役の方々でしょう!

世間を騒がしたことに対する謝罪であれば、今までどおりリーダーである中居くんが仕切ればいいじゃないですか!

あれではまるで、反乱軍の旗頭である中居くんはリーダー降格で、これからは、会社に忠誠心を示したキムタクがリーダーだと言っているように見えました。

もちろん、木村くん自身は、そんな気はぜんぜんないと思いますが・・・。
まるで、反逆者の公開処刑でしたね。

とにかく、当面は最悪の事態は回避したものの、シコリが残る内容でした。

こんなんで、今までのような関係に戻れるんですかね?

何となくスッキリしない、後味の悪い着地点だったと思ったのは、わたしだけでしょうか?
それとも、まだ本当の意味での着地点が見つかっておらず、とりあえずの不時着だったんですかね?

どうにも釈然としません。


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by sakanoueno-kumo | 2016-01-19 02:30 | 芸能 | Trackback(1) | Comments(2)  

真田丸 第2話「決断」 ~裏切り者たちの末路~

e0158128_22451998.jpg 小山田信茂の寝返りによって逃げ場を失った武田勝頼は、武田氏ゆかりの地である天目山棲雲寺を目指しました。しかし、天目山麓の田野村まで来たときに織田軍の追撃を受け、抵抗及ばず自刃して果てます。新府城を発ったときには200人ほどいた家臣団も、最後は43人になっていたとか。『甲陽軍鑑』『甲乱記』などの記述では、勝頼主従の最期は華々しく戦って討死したとありますが、『信長公記』では、「落人の哀れさ、なかなか目も当てられぬ次第なり」とあります。実際には、43人の手勢ではなすすべもなかったでしょう。享年37歳。このとき、16歳の嫡子・武田信勝もともに自刃しました。ここに、450年の歴史を誇る名門武田氏は滅亡します。

 戦国の世のならいとはいえ、凋落しはじめた武田家内での裏切り、寝返りは酷いものでした。とくに、木曽義昌、穴山梅雪という二人の武田信玄の娘婿の寝返りが、武田氏の崩壊を一気に加速させたことは間違いありません。その事実から、武田勝頼という武将を「無能」と評する見方がありますが、一方で、同時代の書状などによれば、武勇には優れた武将だったともいわれ、評価の分かれるところです。ただ、勝頼のいちばんの失敗は、この前年に兵糧攻めにあっていた高天神城の城兵を見捨てたことだったでしょう。これにより、主従の信頼関係は致命的に瓦解したと言われています。

 立て続けの謀反によって滅亡の一途を辿った武田家でしたが、寝返った武将たちも、結局は厳しい末路をたどります。最初に反旗を翻した木曽義昌は、その戦功により織田氏傘下で知行を得ますが、ほどなく本能寺の変が起きると行き場を失い、その後、上杉氏、北条氏、徳川氏の間を渡り歩きながら、最後は豊臣政権のもと、不遇の扱いを受けます。また、徳川氏に内通して寝返った穴山梅雪は、その後、徳川氏の傘下に入りますが、本能寺の変が起きると、家康とともに畿内の脱出をはかりますが、その途上で落ち武者狩りの百姓に襲撃されて落命します。

e0158128_22492256.jpg そして、最後の最期に裏切って武田氏滅亡のとどめを刺したといっていい小山田信茂は、ドラマで描かれていたとおり、織田信忠本陣に投降して傘下に入ろうとしますが、その不忠を責められ、一族すべて処刑されました。信茂にしてみれば、多少、知行は減らされても、義昌、梅雪のように織田氏傘下で生き延びられると見込んでいたのでしょうね。ところが、織田家は信茂のみ不忠者とみなした。ドラマでは、義昌、梅雪は織田方の調略によって寝返ったが、信茂は最後に主君を見捨てた不届き者、という理由でした。そんな卑怯な奴は仲間に入れてやらない!・・・と。まあ、どちらも裏切りには違いないのですが、勝敗が決したあとの寝返りというのは、たとえ戦国の世であっても、卑劣な行為だったのでしょうか。それとも、ただ単に、信茂は利用価値がないとみなされたのかもしれないですけどね。

 さて、真田家です。『長国寺殿御事績稿』によると、真田昌幸は勝頼の死を知ると泣き叫び、小山田信茂に復讐しようといきり立ち、周囲に止められたと記されています。でも、どうもこの話は昌幸らしくないですね。実際には、昌幸は早くから武田氏の滅亡を予測しており、生き残りの道を模索していたことが史料で明らかになっています。そのひとつが北条氏からの書状。昌幸は、勝頼の死の5日前に、叔父の矢沢頼綱沼田城の守りを強化するよう指示した書状を送っていますが、一方で、勝頼の死の翌日付で北条氏邦が昌幸宛に送った書状が残っており、それによれば、昌幸が以前から北条氏に接触をはかり、帰属を打診していたことが確認されます。つまり、昌幸は、沼田城の守りを固めて北条氏を警戒しながら、一方で、北条氏に帰属する道を模索するという、両道の外交策を採っていたんですね。

 自家の生き残りを再優先に考えていた点では、真田家も小山田家も同じこと。昌幸が岩櫃城への退避を勝頼に勧めたのも、北条氏を頼って武田氏存続を考えたのかもしれませんし、あるいは、はじめから勝頼は岩櫃城に来ることはないと読んで、自家防衛のために岩櫃城退避を献策したのかもしれません。もし、勝頼が昌幸の進言を聞いて岩櫃城に来ていたら、あるいは昌幸も信茂と同じことをしたかもしれませんよ。戦国の世を生き延びるには、忠義なんて何の役にも立たなかったでしょうから。



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by sakanoueno-kumo | 2016-01-18 22:50 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(0)  

阪神・淡路大震災から21年、震災記念日の備忘録。

本日1月17日は、阪神・淡路大震災の発生した日。

6,434人の方が亡くなられ、3人の方が行方不明になったあの震災から、今日で21年の年月が過ぎました。

20年以上も経つと、日々の暮らしのなかで震災のことを思い出すことはずいぶん少なくなりましたが、毎年1月17日だけは、当時のことを振り返るようにしています。

ときどきは思い出さないと、人は忘れちゃいますからね。


下の写真は、昨日(16日)、垂水区は舞子ビラから撮った明石海峡大橋に沈む夕陽です。
21年前には、まだここに橋は架かっていませんでしたが、あの日の前日もこうして西の空に夕陽が沈み、翌朝の朝日が上る前に、あの地震が起きたんですね。

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で、今年も震災当時のエピソードを備忘録としてお話します。

幸い自宅も職場も少ない被害で済んだわたしは、震災4日目から被災地のど真ん中にある会社に出社したのですが、電気水道ガスもないなかで出来る仕事などほとんどなく、ましてや、取引先の多くも機能していないため、することなんて何もありませんでした。

でも、何かしないと落ち着かない。

ただじっとしているだけでは不安でたまらなくて、とにかく外に出て、お客さん、業者さんのところに足を運んで、会話して帰るという毎日を、3ヶ月近く続けていました。

当時のわたしは28歳

若かったなぁという気もしますが、いまから思えば、あの数カ月があったから、いまの自分があるのかなぁ・・・などと自画自賛してみたり・・・。

外に出るといっても、当時の神戸市内の交通事情は酷いもので、道路交通法などあったものじゃありませんでした。

震災から数日間は信号機も作動していませんでしたから、交差点なんてめちゃくちゃ

一応、警察官が手信号で交通整理していましたが、ぜんぜん守らないし、非常事態ですから、守らなかったからといって、切符を切られたりもしません。

罰則がないとなると、みんな身勝手なものです。

そんな状態なので、主道路はずっと渋滞のままで、主道路を避けて裏道を通ろうとすると、いたるところが瓦礫で塞がれていて、車の通行は不可能

もちろん電車は動いておらず、車での移動も困難となれば、バイクを買うしかないと思い至り、さっそくショップに足を運んだのですが、事はそう甘くなく、震災から1週間後にして神戸市周辺のバイク屋さんの原付バイクはほとんどが売り切れ状態

考えることは、みんな同じなんですよね。

それでも、なんとか手に入れたいと市内外を駆けずり回っていたところ、数日前に行ったバイク屋から携帯に連絡が入り(ちなみに、震災4日後に人生はじめての携帯電話を購入していました)、中古の原付バイクが入荷したとのこと。

喜び勇んで店に行ったところ、ボディーにはヒビがあり、破れたシートはガムテープで補強され、グリップのゴムは割れ、マフラーはサビサビといった具合で、どう見ても、粗大ごみのなかから探してきて修理したものとしか思えないほどのボロ車でした。

それでも、ないよりはマシだと思って値段を聞くと、なんと8万円

ふざけるな!・・・と声を荒げると、「いらないなら別にええよ。ほかにも欲しがってる人はたくさんいるから!」・・・と。

完全に足元を見た商売をしてきました。

普通なら、5,000円でも買う人いないようなレベルです。

しかし、背に腹は代えられないと思い、渋々スクラップ寸前の原チャリを8万円で購入しました。

それから1ヶ月もしないうちに、他府県から大量のバイクが神戸市内に運び込まれ、まちにはバイクが溢れかえりました。

8万円で買ったわたしの原チャリは、3ヶ月ほどで白煙を吐いて動かなくなりました。

酷い買い物をさせられてと思いましたが、でも、少なくとも3ヶ月はその原チャリにめちゃめちゃ世話になりましたから、そう思えば、あの時点では必要な8万円だったのかもしれません。

当時まだ高価だった携帯電話といい、ピンチに陥ったときに、どれだけ自分に投資できるかで、のちの人生が決まってくると言っても過言じゃないかもしれませんね。

ちなみに、あのとき8万円でスクラップ車を売りつけたバイク屋は、数年後に潰れてました。

それが、あの商売スタイルから来たものかは、わかりませんが・・・。

そんなこんなで、21回目の震災記念日の備忘録です。

ちなみに1月17日は、わたしの誕生日

震災当日が28歳の誕生日だったわたしも、今日で49歳になりました。

6,434人の命日と同じ日です。

合掌。

過去6年間の1月17日の拙稿です。
よければ一読ください。
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by sakanoueno-kumo | 2016-01-17 01:09 | 日常 | Trackback | Comments(0)  

SMAP解散報道に思う。

SMAP解散報道で大騒ぎになっていますね。

わたしは、とくに彼らのファンと言うわけでありませんが、さすがに国民的アイドルグループの解散報道とあっては、興味がないとは言えません。

なんでも、SMAPの育ての親であるチーフマネージャーさんと副社長母娘との確執が原因だとか。

なんだかなぁ~・・・ですよね。

本人たちの意向ならまだしも、会社内の派閥抗争に巻き込まれたかたちでの分裂となると、やはり、ファンたちにしてみれば納得しようがありませんよね。


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わが家では、妻と娘が無類のジャニーズ好きなので、ジャニーズ事務所内に派閥抗争があるという話はなんとなく知っていましたが、今回のことでの報道を見聞きすると、事は随分と根深いようですね。

そしてその軋轢を決定的にしたのが、副社長(ばあさんの方)がチーフマネージャーに対して、「SMAPを連れて出て行け!」と言ったとか。

それも面と向かってではなく、ゴシップ誌のインタビューで記者に向かっての発言だそうで・・・。

そら、売り言葉に買い言葉になっちゃうわな!

聞けば、娘を次期社長に据えるため、発言力のあるチーフマネージャーを排除し、盤石な経営基盤を整える狙いだったとか。

同族会社にはよくある話ですよね。

かつて豊臣秀吉は、わが子に跡目を継がせるため、邪魔になった関白秀次濡れ衣を着せて、一族もろとも処刑しました。

また、太古の昔には、天智天皇が太子・大友皇子を後継者にするため、そのとき皇太子だった大海人皇子(後の天武天皇)を退けました。

その結果、自身の死後に天下の騒乱を招いています。

いつの時代も、権力者の強引な世襲による軋轢というのは、なくなりませんね。

会社内の勢力争いに巻き込まれて去就を問われるシチュエーションは、サラリーマンならある意味仕方がない場合があります。

でも、タレントさんは会社員ではありません。

タレントさんは商品です。

商品は社長の私物でも開発者の所有物でもありません。

商品は消費者のものです。

プリウスの開発者がトヨタ自動車退社したからといって、今後いっさいのアフターフォローを受け付けないなんて許されません。

企業は、商品を世に送り出した以上、いちばんにユーザーのことを考えた善後策を講じなければなりません。

今回の場合、本来いちばんに考えなければならないファンの存在が置き去りになっているとしか思えませんね。

チーフマネージャーの退社は回避できないこととしても、それによってSMAPという商品までもが失われてしまうというのは、ルール違反なんじゃないかと・・・。

チーフマネージャーへの恩義を感じて独立する意志だという中居正広さんら4人と、ジャニーズ事務所に対する義理を通して残留の意向だという木村拓哉さん。

どちらの思いも筋の通った立派な考えだと思いますし、どちらが正しいとも言えませんが、ファンの立場からみれば、分裂してしまうという時点で、どちらも正しくないですね。

まあ、わたしのような素人のオジサンに言われるまでもなく、悩みに悩んで出した結論なんでしょうが・・・。

それにしても、とくにファンというわけでもないのに、何なんでしょう?・・・この得も言えぬ喪失感は・・・。

わたしがSMAPをはじめて知ったのは、21年前の阪神・淡路大震災の折り、被災地のラジオで聞いた『がんばりましょう』からでした。

その後、まるで震災復興のテーマソングの如く、あの1年であの歌がよくかかっていて、元気づけられたのを覚えています。

あと、わが家では、現在大学3回生の息子が3歳のとき、はじめて歌った流行歌が『夜空ノムコウ』でした。

現在中2の娘がはじめて口にしたのも、『世界に一つだけの花』

そう考えれば、とくにファンじゃなくても、それぞれの歴史の中に刻まれているんですね。

やっぱ、こんなしょーもない理由で失くしちゃダメでしょう!

ちなみに、上述した豊臣秀吉天智天皇についてですが、いずれも自身の死後、世襲した息子は反乱軍によって攻め滅ぼされています。
強引な世襲は大きな遺恨を残しますから、結局は滅亡の道をたどるというのが先人の残した教訓です。

失礼ながら、ジャニーさんもメリーさんもご高齢ですから、そう長く権力者として君臨することはないでしょう。

こんなことやってると、ご自身の死後、抵抗勢力によって滅ぼされちゃいますよ。

温故知新です。



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by sakanoueno-kumo | 2016-01-15 19:06 | 芸能 | Trackback | Comments(0)  

新春時代劇『信長燃ゆ』 鑑賞記

今年のテレビ東京新春時代劇『信長燃ゆ』を今頃ようやく観ました。

天正9年(1581年)2月の京都馬揃えから翌年6月の本能寺の変までの1年余りが舞台で、「本能寺の変朝廷黒幕説」をベースに描かれた物語です。

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本能寺の変に至る要因については、様々な解釈のもとに諸説ありますが(ありすぎるくらいですが)、この朝廷黒幕説については、平成に入ってからにわかに脚光を浴びるようになった推論です。

わたしは、歴史の経緯というのは意外にシンプルなものだと思っているので、単純に怨恨説を支持したいところですが、もし黒幕が存在するとすれば、朝廷説がもっとも説得力があるとは思いますね。

その他の説(羽柴秀吉説とか足利義昭説、その他多数)は、あまりにも穿ち過ぎで、俗説の域を出ないかな・・・と。

朝廷黒幕説の推論によると、「天下布武」をスローガンに破竹の勢いで権力を手にした織田信長は、朝廷の権威を軽んじ、朝廷に圧力をかけていたといわれ、その軋轢が変を引き起こしたといいます。

具体的には、ドラマ冒頭で描かれた京都馬揃えは、信長が朝廷を威圧するために行った軍事パレードだったといいわれ、当初、信長は天皇に左義長(さぎちょう)(どんど焼き)申し入させたのに、信長が馬揃えにすり替えたという説です。

また、ドラマにあったように、信長の意に従わない正親町天皇(第106代天皇)に譲位を迫ったという話や、公家衆に信長への戦勝祈願出迎えなどを強要したりと、信長の大義づくりに朝廷が利用されていたというんですね。

たしかに、信長は朝廷の権威というものを軽んじていたと思える行動が多く見られます。

たとえば、信長は朝廷から与えられる官位には興味がなく、天正6年(1578年)に右大臣の職を辞したあとは、官職に就きませんでした。

その後、本能寺の変が起きる直前の5月に朝廷は信長に対して、征夷大将軍、関白、太政大臣の三職のいずれかに就任してはどうかと持ちかけていますが、信長がその返答をする前に変が起こってしまったため、信長自身がどのような構想を持っていたのかは永遠の謎となりました。

でも、これまでの行動からいって、たぶん、どの職にも就かなかったんじゃないかと・・・。

というのも、信長の行動や思想を振り返るに、有名な比叡山焼き討ちを始め、恵林寺焼き討ち石山本願寺との闘いなど、古い権威というものを毛嫌いする行動が多々見られます。

その意味では、朝廷及び天皇家というのは、古い権威の最高峰ともいえる組織であり、信長の性格からいえば、最も忌み嫌う存在だったかもしれません。

一説には、信長は、「皇位簒奪」を目論んでいたのではないかとも言われます(皇位簒奪とは、天皇を廃して自らが日本の王になろうとすること)。

これを恐れた朝廷は、明智光秀信長追討を促し、決起に至った・・・と。

たしかに、信長ならあり得る目論見だったかもしれません。

ただ、もし本当に信長が皇位簒奪を目指していたならば、光秀の謀反は天皇に対する逆賊の成敗として大いに正当化され、もっと味方を得られたんじゃないかとも思います。

ところが、結果は歴史の示すとおり。

となれば、この皇位簒奪説は考えられなくはないものの、少し深読みし過ぎのような気もします。

朝廷黒幕説の首謀者としては、正親町天皇、誠仁親王をはじめ、近衛前久、勧修寺晴豊、吉田兼見ら公家衆など、様々な見方がありますが、物語では近衛前久説を採っていましたね。

この近衛前久という人は、実際に信長と親交の深かった公家で、石山合戦の調停役として尽力したり、織田軍の武田攻めに従軍するなど、公家としては珍しい豪胆な人物でした。

ドラマでも描かれていましたが、信長とは鷹狩という共通の趣味を通して付き合いがあったようです。

信長の前久に対する信頼は厚かったようで、前久が息子・信基にあてた手紙によれば、信長から「天下平定の暁には近衞家に一国を献上する」という約束を得たといいます。

朝廷を軽んじていたといわれる信長ですが、前久だけは別格だったようですね。

そんな前久が、なぜ黒幕と疑われるのか・・・。

その理由として、前久は変後すぐに嵯峨に隠れた上に、 山崎の戦い後も、信長の三男・神戸信孝追討令を出して執拗に行方を捜していたことがあげられます。

追討令が出されたということは、当時も、疑いの目を向けられていたということですよね。

また、同じく公家の吉田兼見(ドラマでは笹野高史さんが演じておられた人物)は、彼が記した日記によって、信長と朝廷の関係を後世の私たちが知ることができているのですが、本能寺の変の前後1ヶ月分の日記が、後に書き換えられた形跡があるそうです。

何か、都合が悪いことがあったのではないかと・・・。

この吉田兼見も、変後に事情聴取を受けています。

しかし、どちらも疑わしくはありますが、決定的証拠とは言えません。

結局は、どれも推論の域をでることはないですね。

ただ、物語として見るには、単なる怨恨説よりは遥かに面白いですけどね。

ちなみに、ドラマでは、誠仁親王の后・勧修寺晴子と信長の禁断の恋が描かれていましたが、いうまでもなく、あれはドラマのオリジナルです。

いまで言えば、皇太子妃総理大臣不倫関係になるようなものですから、ありえないでしょう(笑)。

ちなみにちなみに、物語の語り部となっていた森坊丸は、実際には兄・森蘭丸と共に、本能寺で落命したとされています。

最後に、毎年楽しみにしているテレビ東京新春時代劇ですが、かつては元旦に12時間ほどあった長編ドラマでしたが、近年、だんだん短くなっていって、今年はとうとう3時間ドラマになっちゃいましたね。

時代劇というのはかなりお金が掛かると聞きますから、いまのご時世、そういう大人の事情がるのでしょうが、ただでさえ民放の時代劇がなくなっていくなか、正月恒例のこのドラマまでなくなってしまうと、時代劇はNHKにか作れないものになってしまいます。

なんとか続けてほしいですね。



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by sakanoueno-kumo | 2016-01-14 13:54 | その他ドラマ | Trackback | Comments(0)