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真田丸 第8話「調略」 ~天正壬午の乱・前編~

 今話は、海津城を陣取った上杉氏小諸城まで北上してきた北条氏の間に挟まれた真田家が、どう立ち回ったか・・・という話でしたね。史実とフィクションを上手くからめて実に見応えのある話でした。この間の真田昌幸の動きは、たしかにどうにでも解釈できますからね。今回も、通説となっている経緯を解説します。

e0158128_19053623.jpg 本能寺の変後、真っ先に旧武田領に乗り込んできたのは上杉氏でした。それまで上杉氏は、東には新発田重家、南からは上野の滝川一益、北信濃の森長可、そして西からは柴田勝家前田利長佐々成政などの織田勢に四方を囲まれ、まさに四面楚歌状態となって滅亡の危機に瀕していました。ところが、本能寺の変によって新発田を除く織田軍はことごとく退却。これを好機と捉えた上杉景勝は、ただちに長可を追撃して北信濃に攻め入り、同地の国衆や旧武田遺臣たちを味方に引き入れました。その中に、今話で真田家に利用された春日信達もいました。信達は武田四天王のひとりとして知られる高坂弾正昌信の次男で、武田氏滅亡後は、織田家に降伏して森長可に帰属していました。


 一方、神流川の戦いで滝川一益を追放し、上野国南部をほぼ制圧した北条氏は、碓氷峠を超えて信濃に侵攻する動きを見せます。すでに北条氏直は、6月中旬までに信濃の小県郡、佐久郡の国衆たちを次々と臣従させていました。この頃、徳川家康は旧武田遺臣の依田信蕃を味方に引き入れていましたが、北条軍の侵攻によって信蕃は小諸城を捨てて後退し、小諸城を抑えた北条氏は佐久郡を掌握します。

 さて、この間の昌幸の動きです。まずはじめ、昌幸は実弟の信尹とともに上杉氏に従います。ドラマでは、上杉氏に臣従するように見せかけていただけのように描かれていましたが、そのあたりの真偽は定かではありませんが、ともかく上杉に従属します。6月中旬頃のことでした。この間、昌幸は、青柳城主・青柳氏虚空蔵山城主・岩下氏らを調略し、上杉家に帰属させるという働きを見せます。また、弟の信尹は、上杉軍を先導して牧之島城の占領に貢献します。

 ところが、7月に入って北条軍が信濃侵攻の動きを見せると、7月9日、昌幸は突然、北条氏方に身を転じます。なんとも節操ない変わり身ですが、一方で、弟の信尹は、そのまま上杉氏に臣従することとなり、兄弟は敵味方に分かれることになりました。しかし、これはおそらく兄弟合意済みのことで、後年の関ヶ原の戦いのときと同じく、真田家の常套手段ですね。

 7月12日、北条軍は信濃侵攻を開始。4万3000の大軍を率いた北条軍が川中島の八幡に、海津城妻女城を中心に上杉軍が布陣し、両軍はにらみ合いに入りました。このとき、昌幸は得意の調略を仕掛けます。そのターゲットとなったのが、今話の主役・春日信達でした。


春日信達が昌幸の暗躍で北条氏に内通していたのは事実で、それが露見して景勝に誅殺されたことも事実です。しかし、これらすべてが昌幸の仕組んだ罠だったという設定は、ドラマのオリジナルでしょう。まあ、ありえない話ではありませんが、ここまで絵に描いていたとなると、信繁の言うとおり「昌幸、恐るべし!」です。

 春日信達の調略が失敗に終わったため、北条氏は上杉軍に攻め入る機会を逸してしまい、氏直は川中島の制圧を諦め、徳川家康が侵攻した甲斐方面に矛先を向けます。このとき、氏直が昌幸に殿軍を命じたのは史実。真田軍は、見事にその役割を果たします。そんな状況を好機と捉えた昌幸は、上杉軍への抑えとして本領に残留させてほしいと氏直に願い出て、これを許されます。ところが、上杉景勝は、北条氏が退陣すると間もなく、越後国に引き揚げてしまいます。実はこのとき、越後で叛乱を起こしていた新発田重家の活動が激しくなっており、北条軍を追撃する余裕などなかったんですね。かくして、昌幸は一兵も失うことなく上杉、北条両軍から自領を守りました。

 これらすべてのシナリオも、昌幸の描いたとおりだったというのがドラマの設定で、他の小説や物語などでも、昌幸の知略の真骨頂として描かれる場面です。しかし、実際にはどこまでが計算どおりの行動だったかは定かではありません。わたしが思うに、最後の上杉軍の退却は想定内だったかもしれませんが、北条の転戦は想像してなかったんじゃないでしょうか。昌幸と信尹が敵味方に分かれたのも、どちらが勝っても生き残るための手段で、春日信達の内通が露見したのも想定外。ただ、結果的にそれらがすべて昌幸に有利な展開にはたらいた。わたしはそう思います。いすれにせよ、どう転んでも道がつくようにたくさんの布石を打っていたのは間違いなく、まさしく「昌幸、恐るべし!」ですね。

 この頃の真田信幸、信繁兄弟ですが、17歳の兄・信幸は岩櫃城を任されていましたが、16歳の信繁は、前話であったとおり木曽義昌の人質となっていました。したがって、春日信達の調略にも関わっていません。ふたりが活躍する舞台は、まだまだ先のことです。



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by sakanoueno-kumo | 2016-02-29 18:44 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(2)  

白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その9 ~武蔵野御殿跡・千姫の小路~

三の丸南側に、武蔵野御殿跡があります。

ここはかつて、千姫の居館があった場所だそうです。

屋敷内にあった襖には、武蔵野の風景を思い起こされるすすきが描かれていたことから、「武蔵野御殿」と呼ばれるようになったそうです。

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徳川家康の孫娘である千姫は、7歳で大坂城の豊臣秀頼のもとへ輿入れしましたが、周知のとおり大坂夏の陣で秀頼は自害し、豊臣家は滅亡します。

落城間際の大坂城から助け出された千姫は、夫の死を悲しむ暇もないまま、今度は本多忠政の嫡男・忠刻と再婚させられます。

千姫20歳、忠刻21歳のときでした。

千姫は、忠刻とのあいだに一男一女をもうけ、束の間の幸せを取り戻したものの、千姫30歳のときに忠刻が病没して再び未亡人に。

その後、江戸城にもどった千姫は落飾して天寿院と号し、弟の三代将軍徳川家光を陰から支えながら、70歳までの長い余生を竹橋の邸で静かに送りました。

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千姫の実母は、浅井三姉妹の三女・お江、叔母であり義母となったのは、あの淀殿ですね。

ということは、祖母にあたるのが織田信長の妹・お市の方ということになります。

いずれも、戦国の世の政局に翻弄されて波乱万丈の生涯を送った女たちばかり、数奇な一族といえます。

いずれ、千姫を主役にした大河ドラマが作られるんじゃないでしょうか?

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西の丸の西側の掘り沿いに、「千姫の小径」と呼ばれる散歩道があります。

実際にここを千姫が歩いたというわけではないと思いますが、千姫ゆかりの化粧櫓を西側から眺めながら、自然を感じて散策できる遊歩道になっています。

小径の最北端には、千姫と忠刻の連歌が刻まれた石碑がありました。

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初秋の風を 簾にまきとりて (忠刻)

軒はにおふ 竹の葉の露 (千姫)

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この歌は長男幸千代が生まれ、千姫が幸せに包まれていたときに詠まれた句で、軒までのびた竹にこの幸せがずっと続くようにと、想いが込められています。

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晩年の千姫は、「忠刻と暮らした姫路城での10年間が、生涯でいちばん幸せだった」と語っていたとか。

わずかでも、幸せな時間があったことが救いですね。

次回に続きます。




白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その1 ~三の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その2 ~門~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その3 ~三国堀・二の丸・本丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その4 ~天守閣~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その5 ~西の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その6 ~下山里~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その7 ~姫山公園・姫路神社~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その8 ~内堀~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その10 ~男山・千姫天満宮・配水公園~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その11 ~池田輝政公菩提寺旧蹟~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その12 ~姫路城天守眺望~

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by sakanoueno-kumo | 2016-02-26 23:37 | 姫路城めぐり | Trackback | Comments(2)  

白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その8 ~内堀~

本稿では姫路城をめぐってみたいと思います。

今回の堀めぐりは、観光客用の和船に乗って水上からの散策です。↓↓↓

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しかも船頭の観光ガイド付

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乗船客は皆、唐笠を被って雰囲気を味わいます。

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現存する姫路城の堀は、実は内堀なんですね。

ここ重要です。

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上の写真はWikipediaからお借りしたものですが、現存する堀は赤のライン

緑のライン中堀で、青のライン外堀はJR姫路駅まで達していることがわかります。

これは、「惣構」と呼ばれる縄張りで、内曲輪は天守・櫓・御殿など城の中枢、中曲輪は武家屋敷などの武家地、外曲輪は町人地や寺町などの城下町が置かれるという、城郭都市が構成されていました。

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日本で最も大きな縄張りを持つ城は現在皇居となっている江戸城ですが、2番目に大きな縄張りが、この姫路城だそうです。

江戸城は将軍家の居城ですから、実質、一大名の城としては最大だったということですね。

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堀のかたちについてですが、ほとんどのお城の堀はドーナツ状になっていますが、ここ姫路城と江戸城だけは、「の」の字のかたちになっているのが特徴です。

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西側の堀を進む船から見上げた、西の丸の隅櫓です。

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石垣を眺めながら、姫路城うんちくをもう少し。

姫路城は、歴代城主が日本で最も多い城としても知られています。

現存する大天守を築いたのは池田輝政ですが、姫路城の歴史は貞和2年(1346年)に赤松貞範が築城したことにはじまり、以後、小寺氏、山名氏、八代氏、黒田氏、羽柴氏、木下氏、池田氏、本多氏、松平(奥平)氏、松平(越前)氏、榊原氏、そして最後の酒井氏と遷り変り、その人数は49人に及びます。

いわゆる“HMJ49”ですね(笑)。

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また、このたびの大修理後に入城料が1000円となり、これは、沖縄県の首里城の800円を抜いて日本で一番入城料の高い城となりました。

さすがは世界遺産、なんでも日本一です。

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水面から見た大手門、また違ったロケーションですね。

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大手門に架かる桜門橋をくぐります。

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立ち上がると頭を打つほど、すれすれです。

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三の丸東側に架かる赤い橋天守です。

これ、和船からしか見られない眺望です。

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約20分間で1000円。

高いか安いかは、その人次第でしょうか。

次回につづきます。



白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その1 ~三の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その2 ~門~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その3 ~三国堀・二の丸・本丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その4 ~天守閣~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その5 ~西の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その6 ~下山里~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その7 ~姫山公園・姫路神社~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その9 ~武蔵野御殿跡・千姫の小路~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その10 ~男山・千姫天満宮・配水公園~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その11 ~池田輝政公菩提寺旧蹟~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その12 ~姫路城天守眺望~

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by sakanoueno-kumo | 2016-02-25 03:45 | 姫路城めぐり | Trackback | Comments(0)  

真田丸 第7話「奪回」 ~真田家と滝川家の縁~

今話は「神流川の戦い」「天正壬午の乱」かけてでしたね。ドラマでは、滝川一益北条氏政と戦っている隙をついて、真田昌幸が上野国の沼田城岩櫃城を奪回するという設定でしたが、わたしが知る説では、少なくとも沼田城は、滝川一益とその甥・滝川義太夫の英断によって昌幸に返還されるという経緯だったように思います。以下、わたしの知る説を解説します。

e0158128_22232693.jpg 織田信長横死の知らせを受けた滝川一益は、上野国の主だった諸将を収集し、さっそく明智光秀討伐に向かうことを表明するとともに、各々に城を返還すると伝えます。すなわち、上州を織田軍進出以前のかたちに戻すということですね。一益にしてみれば、こうなった以上、上州の支配など無理なことで、それよりも、一刻も早く本国に戻って明智を討つ準備がしたかったのでしょう。そのためには、無駄な争いは出来るだけ避けて、城を返還するのが最も良いと考えたのでしょうね。一益のその潔さに、上州の諸将たちは好感を持ちます。

 というわけで、当然のことながら、沼田城も真田家に返還されることになりますが、ところが、これに意義を申し立てたのが藤田信吉でした。藤田はかつて北条氏の傘下で沼田城の城代を務めていましたが、武田氏の家臣だった頃の真田昌幸に調略され、5700貫の所領と引き換えに沼田城を引き渡していました。藤田の主張としては、元に戻すというなら、その権利は自分にあるといいます。

 この申し出を受けた滝川義太夫は、叔父の一益に相談。そして、沼田城は武田氏滅亡時に真田家が保持していた城で、真田家から織田家に進呈された経緯からみれば、真田家に返すのが筋であると、藤田の申し出を退けます。昌幸にしてみれば、一益様様と思ったことでしょう。その後、納得がいかない藤田は沼田城を襲撃しますが、一益率いる2万の兵に討って返され、泣く泣く上杉氏に亡命しました。こうして、昌幸は沼田城を回復するに至ります。

 わたしが知る沼田城回復の経緯はこんなストーリーなんですが、ドラマでは違ってましたね。そういう説もあるのかなぁとネットで調べてみると、たしかにWikipediaでは、

「6月19日、北条氏直が上野に侵攻し、滝川一益を破った(神流川の戦い)。この時、昌幸は滝川一益を諏訪まで送り届けた。昌幸は滝川一益がいなくなり上野も無主になると、6月21日に叔父の矢沢頼綱を送り込んで沼田城を奪回した。また、嫡男の信幸を岩櫃城に送って上野方面の守備を固めた。」

 とあります。これ、ドラマのとおりですね。どっちが正解なんでしょう?

 神流川の戦いに破れた滝川一益は、上野国衆の人質を盾に上野を脱出し、信濃国の小諸城にたどり着きます。このときの人質の中に、昌幸の老母と、そして最近の研究では、次男の弁丸(のちの真田信繁)がいたことがわかっています。きりはいません(笑)。でもまあ、老母の世話をする侍女はいたかもしれませんね。一益は、さらに諏方、木曽を通過しなければ領国・伊勢に帰ることができないのですが、木曽郡の木曽義昌が通行を拒否してきます。そこで一益は、佐久・小県郡の武士からとった人質と引き換えに領内の通行を認めてもらうよう提案し、これが見事に成功します。そのなかに、昌幸の老母と信繁がいました。またまた、きりはいません(笑)。

 義昌は佐久・小県郡の人質を確保することで、これを利用して信濃制圧を企んでいました。おばばさまに「宗太郎」と呼ばれてビンタされていましたが、もちろんそんな事実はありません。義昌自身、武田氏に反旗を翻した際には、人質に出していた母と娘と息子を殺されるという悲劇に遭っていますから、場合によっては、人質の命を奪うことも辞さなかったでしょう。一益にしても義昌にしても、人質の有効活用は生きる手段でした。

 余談ですが、滝川家はのちに没落しますが、一益の長男・一忠は一時、真田昌幸のもとに身を寄せます。昌幸はこれを庇護し、一忠の子・一積に昌幸の五女を娶せました。一積は関ヶ原の戦いの後、徳川家の旗本になりますが、大坂の陣のあと、義兄にあたる真田信繁の四女・あぐりを養女とし、伊予松山藩蒲生家家老・蒲生郷喜に嫁がせました。真田家から受けた恩義を忘れていなかったのでしょうね。しかし、それが徳川幕府の知るところとなり、一積は改易となり、松代藩主となっていた真田信之(信幸)のもとに身を寄せたといいます。そして、その一積の息子・一明も、真田一族の女性を娶ったそうです。この長い真田家と滝川家の深い縁は、昌幸と一益のこのときの縁によるものといえるでしょう。



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by sakanoueno-kumo | 2016-02-22 22:19 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(2)  

白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その7 ~姫山公園・姫路神社~

姫路城の北側にやってきました。

下の写真は北勢隠門跡


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北勢隠門から東側にかけて堀に沿った細長い公園があります。

ここは、かつては大日本帝国陸軍の施設があったりしたそうですが、現像は「姫山公園」と呼ばれる市民の散歩道になっています。


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南側は観光客でいっぱいでしたが、北側はほとんど地元の方と思われる人しか歩いていません。

せっかく城跡に来たからには、すべて廻らないとねぇ。


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「姫山」とは、姫路城の建つ丘のことをいいますが、その名称は、古くは奈良時代初期に編纂された『播磨国風土記』にも登場するそうです。

太古の昔から、この地が姫路平野の中心的存在だったことが伺えます。


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何かの歌のようですが、よく読めません。


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姫山公園の最東端には、「姫路神社」があります。

ここは、姫路藩の後半を統治した酒井家歴代藩主を祀った神社で、天守閣からは鬼門であるの方角に立地します。


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境内には、姫路藩(酒井家)第2代藩主・酒井忠以(宗雅)の胸像があります。


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また、境内社として、姫路藩の財政再建・経済発展に尽力した同藩家老、河合道臣(寸翁)を祀った寸翁神社があり、鳥居の横には寸翁の胸像があります。

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城跡内に歴代城主を祀る神社があるのはどこも同じですが、姫路城の場合、時代時代で城主がころころ変わっているので、家の城というイメージが薄いのも特徴です。

酒井家は、最後の城主ですね。

次回は、歴代城主の変遷などの話もしたいと思います。



白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その1 ~三の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その2 ~門~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その3 ~三国堀・二の丸・本丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その4 ~天守閣~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その5 ~西の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その6 ~下山里~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その8 ~内堀~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その9 ~武蔵野御殿跡・千姫の小路~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その10 ~男山・千姫天満宮・配水公園~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その11 ~池田輝政公菩提寺旧蹟~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その12 ~姫路城天守眺望~

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by sakanoueno-kumo | 2016-02-19 22:13 | 姫路城めぐり | Trackback | Comments(0)  

白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その6 ~下山里~

現存する姫路城の石垣は、羽柴秀吉時代、池田輝政時代、本田忠政時代の築城時2期と、その後に修復されたものとに分けられますが、三の丸東側の一角にある下山里には、その最も古い羽柴時代の石垣が残っています。

それがこれ、上山里下段石垣です。↓↓↓


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天正8年(1580年)、織田信長の命で播磨攻めを開始した羽柴秀吉は、黒田官兵衛孝高に献上された姫路城を拠点とします。

その際、築城の普請を秀吉から任されたのが、それまで姫路城の城代だった官兵衛でした。

したがって、この上山里下段石垣は、官兵衛ゆかりの石垣と見られています。


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素人目で見てもわかるように、ほとんど加工されていない自然石が積まれた石垣は、時代の古さを感じさせますね。

これは、野面積と呼ばれる積み方だそうです。


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秀吉が築城した姫路城は、現存天守より小さい3重の天守だったようですが、それでも、その時代としては目新しい城だったようです。


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下山里の片隅には、五輪塔があります。

これは、姫路城改修の際に石垣のなかから出てきたものを集めて、復元したものだそうです。

その前にある石灯籠は、のちの姫路城主酒井家墓地から移設したものだそうです。


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ここ下山里は、ちょっとタイムスリップした空間でした。

次回へ続きます。



白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その1 ~三の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その2 ~門~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その3 ~三国堀・二の丸・本丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その4 ~天守閣~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その5 ~西の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その7 ~姫山公園・姫路神社~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その8 ~内堀~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その9 ~武蔵野御殿跡・千姫の小路~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その10 ~男山・千姫天満宮・配水公園~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その11 ~池田輝政公菩提寺旧蹟~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その12 ~姫路城天守眺望~

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by sakanoueno-kumo | 2016-02-18 00:29 | 姫路城めぐり | Trackback | Comments(0)  

真田丸 第6話「迷走」 ~出浦昌相が見せた「素っ破」の流儀

 本能寺の変の知らせが東国に届いたのは、事変から4、5日後のことでした。これにより、甲斐国、信濃国、上野国などの旧武田領は騒然たる状態となります。織田信長から旧武田領の統治を任されていた織田家家臣たちは一転して窮地に立たされ、森長可、毛利秀頼、道家正栄らは相次いで美濃方面に逃走し、甲斐・信濃諏訪郡支配を担っていた河尻秀隆は殺されました。

e0158128_21382931.jpg そのなかで、ドラマに出ていたのは森長可だけでしたね。信濃国境の関川で上杉家と対陣していた長可は、6月8日に陣を払って越後国から信濃国へ撤退。そこで軍議を開いて信長の仇を討つことを決定しますが、しかし、先に信長横死の情報を得ていた信濃国の国衆は、ことごとく長可に反旗を翻し、一揆を起こしました。

「わしら織田方は、おぬしたちを守りこそすれ害をなそうなどとは思っていなかった。わしらを追い出せば、必ずや信濃は方々から攻められ食い潰されるであろう。その時になって後悔しても既に遅しじゃ。」

 長可の台詞は、その一揆から逃亡中の言葉でした。今年のドラマは多くを語らず、ある程度エピソードを知っている体で話が進められますね。三谷幸喜さん曰く、意図的に状況説明的な台詞を減らしているそうで、わからないところは自身で調べてよ!・・・ということだそうです。調べる楽しさを味わってほしい、小さい子は親に聞けばいい、そこから家族の会話が生まれる・・・と。わたし的には全然オッケーですが、これって結構な冒険ですよね。実際わが家でも、妻や中2の娘にはちょっとわかりにくいようで、でも、わたしが説明しようとウンチク話を始めるとウザがられます(笑)。残念ながら、わが家では家族の会話は生まれていません(笑)。

 話を戻して、信濃国の国衆のほとんどが一揆に加わるなか、出浦昌相だけは長可を裏切らず、撤退の手助けをします。そのおかげで、長可は無事、美濃へ帰還しました。長可は昌相の協力に深く感謝し、別れ際に脇差を与えたといいます。

 「素っ破は目先の損得では動かぬ。一度家臣と決めたからには、最後まで尽くすのが我らの流儀。」

 昌相のこの台詞は、そんなエピソードに裏付けされた言葉です。カッコいいですね。ちなみに、「素っ破」とは、いわゆる「忍者」のこと。と言っても、後世の物語などに出てくる忍術を使うような空想の産物的忍者ではありません。おそらく、諜報活動情報収集などを得意とする間者(スパイ)のようなものだったのでしょうね。昌相は、かつては武田家に臣従してそういう役目を担っていたといいます。武田家滅亡後は、長可に仕えていました。こののち昌相は、真田家に仕えることになります。

 真田昌幸が傘下に入っていた滝川一益が変事を知ったのは6月7日。ドラマでは、昌幸のみ厩橋城に呼び出して、信長横死の事実を伝えていましたが、実際には、上野国の主だった諸将を収集し、事態の経緯を説明した上で、これより我らは明智光秀征伐に向かうと表明。そして、「この機に乗じて一益の首をとって北条に降る手土産にしようと思う者は、遠慮なく戦いを仕かけるがよい。」と述べたと伝わります。これもまた、カッコいいですね。しかし、このとき既に西国では、羽柴秀吉「中国大返し」が始まっていようとは、知る由もありません。

 昌幸が自身の老母を滝川家の人質として差し出したのは史実。しかし、これから数ヶ月の間に、昌幸は主人をコロコロ変えていきます。この動きを、後世は昌幸の知略と評しますが、あるいは、昌幸も迷いのなかだったのかもしれません。

 「力が欲しいのう。織田や北条や上杉と対等に渡りあえる力が・・・。」

 零細企業の経営者の苦悩ですね。



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by sakanoueno-kumo | 2016-02-15 20:16 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(2)  

白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その5 ~西の丸~

西の丸庭園にやってきました。

ここは、池田輝政に変わって城主となった本多忠政が、大坂夏の陣のあと将軍・徳川秀忠の息女・千姫を娶った嫡男・本多忠刻のために御殿を建てた場所で、「中書丸」とも呼ばれていました。

「中書」とは、忠刻の官職・中務大輔の唐名だそうです。


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ここからの天守の眺めが最高なんですよね。

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時代劇をよく観る方は、なんとなく見覚えないですか?

実は、テレビドラマ『暴れん坊将軍』に毎回出てくる江戸城は、ここから撮影した姫路城なんです。

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拡大です。

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さらに拡大。

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西の丸庭園を囲むように築かれている長屋は、通称「百間廊下」ともいわれ、約300mの長さがあるそうです。

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天守から見下ろした「百間廊下」はこんな感じ。↓↓↓

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建物内には、城外側に廊下、城内側が部屋になっていて、西の丸で働く女中が住んでいたと考えられています。

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中はこんな感じで、長い廊下が続いています。

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部屋はこんな感じの板の間です。

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長局の北端には、他の部屋とは異なって広くて畳敷きの開放感のある空間があります。

ここは、「化粧櫓」といい、千姫が忠刻に嫁いだ際に、将軍家から贈られた10万石の化粧料の一部で建設されたと言われる櫓です。

千姫が城の北西にある男山天満宮を遥拝する際に、休息所としてこの化粧櫓を使用したと言われています。

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部屋内には、千姫と女中が百人一首を楽しんでいる人形が展示されています。

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知ってのとおり、千姫の生涯は波乱万丈でした。

その話は、また別の稿に譲ることにしましょう。

次回に続きます。




白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その1 ~三の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その2 ~門~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その3 ~三国堀・二の丸・本丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その4 ~天守閣~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その6 ~下山里~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その7 ~姫山公園・姫路神社~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その8 ~内堀~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その9 ~武蔵野御殿跡・千姫の小路~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その10 ~男山・千姫天満宮・配水公園~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その11 ~池田輝政公菩提寺旧蹟~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その12 ~姫路城天守眺望~

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by sakanoueno-kumo | 2016-02-12 20:27 | 姫路城めぐり | Trackback | Comments(2)  

白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その4 ~天守閣~

せっかく訪れたので、天守を登ってみましょう。

といっても、中は人人人、人しか撮れませんでしたが(笑)。

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地階から5階まで通る二本の大黒柱です。

この2本の柱が大天守を400年間も支えているんですね。

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地階にある武具庫です。

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こちらは地階のです。

用は足せません(笑)。

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二階の廊下には、一面に武具掛けが設置されています。

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窓の上にも武具掛けが・・・。

取りにくいですね。

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で、ここから大渋滞登城制限がかかっており、見てのとおりです。

これでも、だいぶピークは過ぎたときなんですけどね。

ここからは、もうどこを撮っても人しか写ってなくて、紹介できるような写真はありませんでした。

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大天守最上階にある刑部(長壁)神社です。

ここは、姫路城に住む刑部姫を祀ったものだそうです。

刑部姫とは、姫路城に古くから住み着いていた十二単を着た妖怪で、肥前国平戸藩藩主・松浦静山の随筆『甲子夜話』によれば、年に1度だけ城主と会い、城の運命を告げていたといいます。

また、別の伝承では、剣豪・宮本武蔵妖怪退治を命じられ、その謝礼として刑部姫から銘刀を授かったという話もあります。

どちらもにわかに信じがたい逸話ですけどね。

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天守の窓から撮影したです。

この瓦をつなぐ白漆喰が、白い屋根の正体ですね。

この白さを保っているのは、2年ほどだとか。

さて、大天守を制覇しましたが、まだまだ姫路城の見どころはたくさんありますので、次回につづきます。



白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その1 ~三の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その2 ~門~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その3 ~三国堀・二の丸・本丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その5 ~西の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その6 ~下山里~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その7 ~姫山公園・姫路神社~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その8 ~内堀~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その9 ~武蔵野御殿跡・千姫の小路~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その10 ~男山・千姫天満宮・配水公園~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その11 ~池田輝政公菩提寺旧蹟~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その12 ~姫路城天守眺望~

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by sakanoueno-kumo | 2016-02-10 18:49 | 姫路城めぐり | Trackback | Comments(0)  

真田丸 第5話「窮地」 ~神君伊賀越え~

 本能寺の変が起きたとき、徳川家康にいました。この少し前に織田信長の招きで安土城を訪れていた家康は、その後、わずかな家臣のみを共に従え、京都、そして堺を遊覧中だったといいます。安土城での会見で織田家との同盟関係はさらに強固となり、ちょっとした慰安旅行だったのかもしれませんね。その最中、信長横死の報が届きまました。さあ、えらいこっちゃです。

 織田家と同盟関係である徳川家は、明智光秀からみれば敵といえます。もし、明智軍に遭遇すれば、衝突は避けられません。しかし、弔い合戦が出来るような兵力を引き連れておらず、かといって、逃げるにも主な街道はすべて明智軍が抑えているだろう、さりとて、道なき道を進めば、土民の落武者狩りに遭うことは必至。まさに、四面楚歌の状態に陥ります。現代と違って、国と国を結ぶ街道というのは、限られていましたからね。絶体絶命のピンチに狼狽した家康は、土民の槍に掛かって果てるよりは信長の後を追って切腹しようと決意しますが、従っていた本多忠勝に思いとどまるよう説得され、翻意したと伝わります。このとき家康に同行していたメンバーは、酒井忠次、石川数正、本多正信、本多忠勝、榊原康政など錚々たる顔ぶれで、もしこのとき彼らが家康と共に切腹していたら、信長の横死以上に歴史が大きく変わっていたでしょうね。

 結果を知っている後世のわたしたちから見れば、このときの光秀に家康を執拗に追撃するような余裕はなく、狼狽する家康がむしろ滑稽にすら思えますが、しかし、新聞もテレビもない当時の情報網で、信長横死という知らせだけが届き、その経緯も、そして光秀方の勢力も何もわからないなか、戦々恐々となって当然のことだったでしょう。まったくもって寝耳に水の出来事だったでしょうしね。

 逃げると決めた家康一行は、険しい山道の続く伊賀国越えを選びました。その理由は、明智軍の目を掻い潜るには道なき道を行くしかないという結論だったのでしょう。少人数だったから可能だったともいえるでしょうね。家康一行のとった行程は諸説あってハッキリしませんが、一般的には、河内国の尊延寺村(現在の大阪府枚方市)から宇津木越えをして、山城国の宇治田原(現在の京都府宇治田原町)に入り、そこから近江の信楽(現在の滋賀県甲賀郡信楽町)に入って、そして、甲賀南部から伊賀北部に向けて「伊賀越え」をしたものと推測されます。柘植村(現在の三重県阿山郡伊賀町)から加太越えをし、関宿亀山を経て白子浜(現在の鈴鹿市)に抜け、そこから海路、三河国(現在の愛知県岡崎市)に帰還しました。

e0158128_10494596.jpg 家康の伊賀越の道案内として活躍したのが、伊賀国出身の服部半蔵正成と、豪商・茶屋四郎次郎だったといいます。服部半蔵は後世の物語などで忍者として出てくる人物と混同しがちですが、実際には忍者ではありません。ただ、半蔵が道案内したという逸話は、『伊賀者由緒忸御陣御伴書付』には書かれているものの、徳川家正史である『徳川実紀』には記されておらず、眉唾ものです。半蔵は三河国の岡崎で生まれ育ったともいいますから、伊賀の山中を庭のように熟知していたとは思えません。一方の茶屋四郎次郎は、道中で土民たちに銀子をばら撒き、道案内を雇ったといいます。こっちの方が、現実味のある話ですね。

ちなみに、現在の新名神高速道路での堺~岡崎間は220kmほどだそうです。山道ということを考慮すれば、家康一行の通った道のりの距離はもっと多かったでしょうね。時を同じくして行われていた羽柴秀吉中国大返しは、約200km。しかも、秀吉のそれは、士気高揚とした天下取りへの道のりなのに対し、家康の方は、戦々恐々とした逃避行。ある意味、こっちの方がスゴイかもしれません。よく逃げおおせたなあ・・・と。

 信長横死の報が家康の耳に入ったのは、6月2日の午前中だったといいます。京都で起きた事件が、数時間後には堺の家康の元に届くとは、当時の情報網のレスポンスも結構進んでいたようですね。一方で、関東の上野国にいた滝川一益の元に情報が届いたのは、事変から5日後の6月7日だったといいます。たぶん、そんなもんでしょうね。だから、ドラマで一益が事変のことを知らなかったのは、間違いではありません。むしろ、その前に真田昌幸のもとに明智の使者が来たという方が、無理があるでしょうね。たぶん、昌幸たちが知ったのも、一益と同じ頃かと・・・。

 「ちくしょう! せっかく頭まで下げて、馬までやって、ようやっとこれで落ち着けると思ったのに・・・。何で死んでしまうかのう! 信長め! あの男に賭けたわしの身はどうなる!」

 まさに、台詞どおりの心境だったでしょうね。昌幸も家康も秀吉も、そして光秀も、まさに今話のタイトルどおり「窮地」に立たされていました。このピンチをチャンスに変えた者だけが、勝ち組として生き残っていけるんですね。今も昔も同じです。



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by sakanoueno-kumo | 2016-02-08 19:38 | 真田丸 | Trackback(3) | Comments(2)