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埼玉女子中学生誘拐監禁事件に再認識させられた公衆電話の重要性。

埼玉県朝霞市で2年前から行方不明になっていた女子中学生が先日保護され、連日のように報道されていますね。

わたしも同世代の娘を持つ親として、この事件は2年前から気になっていました。

この2年間の親御さんの心中は察するに余りありますが、ともかくも生きて再会できて良かった。

もちろん、これにて一件落着というわけではありませんし、これからがまた大変だと思いますが、ひとまず最悪の事態には至らなかったわけで、「良かった」と言っていいのではないでしょうか。

被害者ならびにご家族が、一日も早く日常を取り戻されることを願うばかりです。

ところで、今回の事件が解決に至った経緯は、被害者の女の子が犯人が外出した隙を突いて監禁場所から脱出し、駅の公衆電話を使って自宅と警察に助けを求めたからでしたが、そこでふと思ったのは、この春中3になるわたしの娘は、似たような状況下に置かれた場合、公衆電話という発想にたどり着いただろうか?・・・ということ。

現在大学生の息子に携帯電話を持たせたのは高校入学のときでしたが、娘の場合、両親共働きということもあり、加えて、幼い少女が誘拐される事件があとを絶たない昨今の世情を憂慮し、小3の頃からGPSと防犯ブザー機能付きの子供用ケイタイを持たせていて、中学生になってからは普通のケイタイを持たせています。

おそらく公衆電話なんて使ったことないだろうと・・・。

お金がなくても公衆電話から110番119番に繋がるということを知ってるだろうか?

そもそも、自宅両親のケイタイの番号を覚えているだろうか?

覚えていたとして、市外からかける場合、市外局番がいるということを知っているだろうか?

そんな疑問が頭をよぎり、先日、娘にたしかめてみたところ、ちゃんと自宅と母親のケイタイ番号は覚えていましたし、市外局番のことも知っていました。

親の知らない間に、ちゃんと学習してたんですね。

「お父さんの番号は覚えてない」・・・と言われましたが(苦笑)。

ただ、お金がなくても110番できるということは知らなかったようですし、実際、公衆電話は一度だけ中学の学習の一環で使ったことがあるだけのようでした。

まあ、そりゃそうでしょうね。

親にしてみれば、GPSと防犯ブザー機能付きのケイタイをお守り代わりに持たせて安心を買っていたつもりでしたが、考えてみれば、もし、このたびのような事件に巻き込まれた場合、ケイタイなどは真っ先に取り上げられて捨てられるか破壊されるでしょうから、おそらく何の役にも立たない可能性が高いでしょう。

そう考えれば、こういう場合頼りになるのは、きっと公衆電話なんですね。

今回の事件で、あらためて公衆電話の重要性を再認識しました。

全国の公衆電話の台数は、20年前に比べて5分の1ほどに減少しているそうです。

ケイタイの普及率を考えれば、これはやむを得ないことでしょうが、考えてみれば、私自身、テリトリーの中での公衆電話の設置場所を把握していません(たぶん、駅にはあるのでしょうが、駅のどこに設置されているのか気にしたこともありませんでした)。

今回の事件を教訓にさせてもらい、子どもを持つ親は緊急時の連絡先を子どもと共有し、公衆電話の使い方をちゃんと教えておいたほうがいいかもしれません。

そして、最低限、生活圏内の公衆電話の設置場所は、把握しておくべきでしょうね。



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by sakanoueno-kumo | 2016-03-31 22:16 | 時事問題 | Trackback | Comments(0)  

神戸の古墳めぐり その3 ~狩口台きつね塚古墳~

明石海峡を間近に望む小高い段丘上に、狩口台きつね塚古墳があります。

この一帯には、古墳時代末期の小型古墳が10数基あったそうですが、現在は、このきつね塚古墳だけが残されています。

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きつね塚古墳は6世紀前半につくられたと考えられており、周りにが二重にめぐらされている作りは、この時代の古墳としてはあまり例がないそうです。

墳丘は2段の斜面でできており、すべて盛り土でつくられています。

円墳の直径は26mで濠の直径は56mにもなります。

円墳としては、結構大きめのものだそうです。

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古墳中央には、花崗岩の巨石で築かれた神戸市内最大の両袖式の横穴式石室があるそうです。

その全長は9.5mで、内部には凝灰質砂岩製の家形石棺が納められていたそうです。

しかし、盗堀で破壊され、副葬品は金銅装馬具須恵器が残るのみだったとか。

出土品から、この古墳は6世紀前半に最初の埋葬が行われ、7世紀初頭に追葬が行われたことがわかったそうです。

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実はわたし、いまから40年近く前に、発掘調査中のこの古墳の石室に入らせてもらったことがあります。

昭和53年(1978年)だったと思いますが、当時小学校6年生だったわたしは、夏休みの自由研究で古墳めぐりをしていたところ、たまたま発掘調査中のこの古墳を訪れました。

カメラを持ったわたしを見つけた調査員の方が、わたしを石室の中に入れてくれました。

当時は、緩かったのでしょうね。

で、その写真を貼った自由研究は、みごと入選し、表彰状をいただいた思い出があります。

それから30余年、同じく小学校6年生の娘の自由研究につきあったときの記録が、この稿の写真です。

親子二代のきつね塚古墳探索です。
(説明板が傷んでます。作り直してください。)
     ↓↓↓

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この古墳に埋葬されている人物はわかりませんが、同時期の周辺の古墳とは様相が異なることから、かなり有力な被葬者ではないかと考えられているそうです。



神戸の古墳めぐり その1 ~五色塚古墳と小壺古墳~
神戸の古墳めぐり その2 ~吉田王塚古墳~
神戸の古墳めぐり その4 ~処女塚古墳・西求女塚古墳・東求女塚古墳~
神戸の古墳めぐり その5 ~大歳山遺跡公園・舞子古墳群~

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by sakanoueno-kumo | 2016-03-30 21:34 | 神戸の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

真田丸 第12話「人質」 ~上杉氏の人質となった真田信繁~

徳川家康に見切りをつけた真田昌幸は、越後国の上杉景勝に対して再び従属を申し入れます。かつて傘下に下りながら短期間で関係を反故にした経緯を思えば、なんとも図々しい話ですが、実は昌幸が上杉氏に援助を打診しはじめたのは、この1年ほど前の徳川氏と北条氏が同盟を結んだときからだったとも言われます。昌幸は、いずれ沼田・吾妻領の問題が争点になるであろうことを見通し、反故の時期をうかがっていたのかもしれません。

e0158128_16232423.jpg そんな節操のない昌幸の申し出を、景勝は受諾します。その理由は、上杉氏の家風である「義」の精神も多少はあったかもしれませんが、それよりも、上杉氏にとっても真田家と結ぶことにメリットがあったからでした。というのも、上杉氏と徳川氏の間では、これまで大きな衝突こそなかったものの、徳川方に従属していた小笠原貞慶が上杉方の城である信濃国筑摩郡の麻績城、青柳城を執拗に攻めたり、上杉方の海津城の副将格だった屋代秀正が調略されたりと、お互いを仮想敵国として牽制しあう関係でした。そんななか、徳川方の最前線として上田城を守る真田氏と結ぶことは、徳川氏の勢力を弱めるとともに、上田城が反対に上杉方の最前線となるわけで、上杉氏にとっては、これを歓迎しないわけにはいかなかったと思われます。

また、上杉氏はこの少し前に上方の羽柴秀吉とも連携をとっており、昌幸としては、上杉氏と結ぶことによって、その背後に見える強大な羽柴氏の後ろ盾を得ようと考えていたのかもしれません。いずれにせよ、上杉氏と真田氏の連携というのは、残念ながら「義」の精神より「利」の要素のほうが強かったと推察されます。

 ただ、さすがにただで上杉氏に従属できたわけではありません。そこで登場したのが、真田信繁でした。昌幸は上杉に従属するとして、次男の信繁を人質として送ります。このとき、信繁は16歳とも19歳とも言われており、ドラマではすでにをも娶っていますが、実際には、元服していたかどうかも定かではありません。そのことが確認できる史料として、上杉氏家臣で海津城代を務めていた須田満親が、昌幸の叔父・矢沢頼綱の嫡男・矢沢三十郎頼幸に宛てた書状に「今度御証人として御幼若の方越し申し、痛み入り存じ候」と記されており、この「御幼若」という言葉からみるに、まだ元服していなかったのかもしれません。いずれにせよ、信繁が歴史の記録にはじめて登場した瞬間といっていいでしょう。ちなみに、このときの信繁と一緒に、三十郎も人質として同行しています。

 人質を受けた景勝は昌幸に対して、徳川・北条両氏との軍事衝突に際しての後詰めを約束するとともに、沼田・吾妻・小県の知行も認めます。さらに、このとき上杉氏に属していた小県滋野一族禰津氏を真田氏の配下につけました。至れり尽くせりですね。上杉氏がいかに真田氏を歓迎していたかがわかります。

 『真武内伝』によると、人質に送られた信繁は、景勝より屋代秀正の旧領のうち千貫が与えられたといいます。このことから、景勝が信繁を単なる人質としてではなく、家臣として遇していたことがわかります。これは、景勝がそれだけ真田氏との関係を重要視していたともとれますが、ドラマのように、信繁その人を認めたのかもしれません。人質といえども、客人として遇する・・・。ここは、上杉流の「義」の精神だったのかもしれませんね。ただし、扶持をもらえば、それに見合う働きを見せねばなりません。ドラマでは描かれていませんでしたが、『真武内伝』によると、天正14年(1586年)9月、上杉氏の新発田重家攻めに三十郎が上田勢100騎を率いて参陣し、軍役をつとめたといいます。このことは、景勝が三十郎の父・矢沢頼綱に宛てた書状に「子の三十郎参陣、別して走り廻り候条、感悦候」とあることからもわかります。信繁がこれに加わっていたという記録は存在しません。

 信繁と頼幸の越後での人質生活は、史料が乏しく詳らかではありませんが、その少ない史料から、信繁は景勝の側に付き従い、三十郎は真田家を代表して上杉氏の軍役につとめていたことが推察されます。ここで上杉家の「義」にふれたことが、後年の信繁の生き様に、少なからず影響を与えたのかもしれません。


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by sakanoueno-kumo | 2016-03-28 16:25 | 真田丸 | Trackback | Comments(0)  

神戸の古墳めぐり その2 ~吉田王塚古墳~

「その1」から2年以上あいてしまいましたが、シリーズ「その2」は、神戸市西区にある吉田王塚古墳です。

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このあたりの住所は「王塚台」といいますが、おそらくこの古墳からとったものでしょう。

場所は神戸市の最西端に位置し、明石市との境界近くにあたります。

いまは住宅地となっていますが、明石川右岸の段丘上に造られた前方後円墳で、全長74m、後円部の直径は44m、前方部前端幅は42mと、明石平野では最も大きく、この付近でも、その1で紹介した五色塚古墳の次に大きな古墳です。
下の画像はGoogleアースより。

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周りはがめぐらされ、中には入れません。

濠の外周には遊歩道があり、公園施設になっています。

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吉田王塚古墳は、日本書紀の記述にある、推古11年(603年)に用明天皇(第31代天皇)の第三皇子・当麻皇子が朝鮮半島に出兵した際、明石の地で亡くなった舎人姫王の墓であるとして、宮内庁が管理しています。
舎人姫王は欽明天皇(第29代天皇)の皇女で、日本初の女帝・推古天皇(第33代天皇)の妹にあたります。

夫の当麻皇子は、あの聖徳太子のすぐ下の弟ですね。

当麻皇子は征新羅将軍を任命され、難波から船で朝鮮半島に向けて出発しましたが、播磨国の明石で妻である舎人皇女が薨去したことから、皇女を明石に葬ったのち、引き返したといいます。

その場所が、この吉田王塚古墳だと考えられてきました。

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ところが、平成12年(2000年)に行われた宮内庁の発掘調査によると、出土した円筒埴輪壷形埴輪、朝顔形埴輪、盾形埴輪などから、5世紀の前半に造られたことがわかったそうです。

舎人皇女の時代から、150年以上も前のことになりますね。

たしかに、6世紀になるとこのような大型の前方後円墳は造られなくなったと考えられていますから、舎人皇女の陵墓という説は、たしかに無理があるのかもしれません。

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現在では、舎人皇女の陵墓と指定せず、陵墓参考地として宮内庁が管理しています。

そんなこんなで、「その3」につづきます。

神戸の古墳めぐり その1 ~五色塚古墳と小壺古墳~
神戸の古墳めぐり その3 ~狩口台きつね塚古墳~
神戸の古墳めぐり その4 ~処女塚古墳・西求女塚古墳・東求女塚古墳~
神戸の古墳めぐり その5 ~大歳山遺跡公園・舞子古墳群~



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by sakanoueno-kumo | 2016-03-25 02:10 | 神戸の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

第88回選抜高校野球大会 観戦備忘録

青い空、白い雲。

・・・で始まるのは、夏の高校野球におけるABC朝日放送植草貞夫アナウンサーの定番名実況ですが、先の日曜日、阪神甲子園球場で行われているセンバツ高校野球大会を観戦してきました。


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甲子園に高校野球観戦にくるのはずいぶん久しぶりのことです。

息子がまだ小中学生だった頃は、ときどき親子で観にきていたのですが、その息子も大学生となり、気がつけばずいぶんとご無沙汰していました。

息子も高校までは野球やってたんですけどね。

甲子園出場なんぞ夢のまた夢でしたから。

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この日は開会式の日で、しかも第1試合と第3試合に近畿の学校が出るということもあり、けっこう席は埋まっていました。

以前に比べて高校野球人気は下降ぎみと聞きますが、球場に来てみると、ぜんぜんそうは感じないですけどね。

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まだ3月だというのに、芝生が美しいですね。

これは、芝生の二毛作のたまものだそうです。

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球場外壁のツタも、順調にツルをのばしています。

かつてのように外壁を覆い隠すまでには、あと何年かかるのでしょうね。

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わたしが観戦したのは第2試合の途中から。

鹿児島実業常総学院の強豪対決は、鹿実に軍配があがりました。

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そして第3試合は初出場の滋賀学園と、強豪・桐生第一の対決。

実は、わけあってこの日のわたしの目当ては、この試合の観戦でした。

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ここ近年、センバツ高校野球の中継はNHKしか放送しなくなりましたよね。

かつて高校野球の中継といえば、NHKはもちろんとして、春はMBS毎日放送、夏はABC朝日放送が担当して、NHKとは違った臨場感のある実況を聞けたものですが、いつの頃からか選抜のTV中継がなくなり、数年前からはラジオ中継もなくなりました。

(夏の朝日放送はまだ頑張って放送していたと思います。)

たぶん、視聴率がとれないからなんでしょうが、残念ですね。

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また、大会ハイライト番組の『みんなの甲子園』も、以前は夜11時頃から放送していたと思うのですが、数年前には夕方に移ってしまい、昨年からは早朝5時半からになっちゃいました。

朝5時台なんて、わざわざ起きて観ようとはさすがに思いません。

かつては、前身番組の『球春!センバツ甲子園』セブンティーンリポーターという女子高生レポーターの企画があり、その中に藤原紀香さんがいたという話は有名ですよね。

高校野球ファンのオジサンたちにしてみれば、平日にじっくり高校野球を視聴するのは不可能で、夜に晩酌しながら大会ハイライト番組を観るのが楽しみだったりします。

たしか、夏の『熱闘甲子園』は、夜11時頃の放送を続けてくれていたと思います。

毎日放送さん、頑張ってくださいよ!

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と、ボヤいてる間にナイターになりました。

この日の日中は暖かかったのですが、ナイターはやはり冷えます。

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第3試合は応援していた滋賀学園が勝ちました。

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以上、久々に訪れた甲子園観戦備忘録でした。

本大会中に、もう一回くらい観に行けたらと思っています。



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by sakanoueno-kumo | 2016-03-24 03:40 | 高校野球 | Trackback | Comments(2)  

真田丸 第11話「祝言」 ~室賀正武の真田昌幸暗殺未遂事件~

 徳川氏と北条氏の和睦条件である沼田・吾妻領の引渡しについて、徳川家康は再三再四、真田昌幸にこれを要請しますが、昌幸は頑なにこれを拒否します。さすがに「鳴くまで待とう時鳥」の家康もこれには業を煮やし、昌幸暗殺を画策したという逸話が伝わります。それと真田信繁の祝言を絡めたのが、今話の設定でした。


 北条氏と和睦した家康は、天正11年(1583年)から翌年にかけて上方の羽柴秀吉と対立し、小牧長久手の戦いに至るのですが、このとき家康は、同盟関係にあった北条氏に援軍を要請します。すると北条氏政、氏直親子は、ここぞとばかりに暗礁に乗り上げたままの沼田・吾妻領の引渡し問題の解決を迫ります。しかし、昌幸は相変わらずこれに応じる姿勢を見せません。しびれを切らした家康は、天正12年(1584年)6月、昌幸暗殺を計画します。

 刺客を命じられたのは、昌幸と同じ小県郡の国衆・室賀正武でした。かつて室賀氏は真田氏と同じく旧武田氏に仕え、武田氏滅亡後は織田家臣・森長可に臣従します。ドラマでは、昌幸らと共に小県郡の連合国の形成を目指していたように描かれていましたが、実際には、本能寺の変後、昌幸と正武は別行動をとり、この時期は、千曲川をはさんで北側を真田氏、南側を室賀氏が支配していました。

 江戸時代初期に編纂された『加沢記』によると、天正12年(1584年)6月、正武は家康の家臣・鳥居元忠より昌幸の暗殺を要請され、これを承諾。翌7月、上方から囲碁の名手が昌幸のもとを訪れることになり、正武も上田城に招待されます。信繁の祝言ではありません。この招きを千載一遇のチャンスと考えた正武は、一門の室賀孫右衛門を鳥居元忠のもとへ派遣し、援軍を要請します。ところが、孫右衛門はすでに昌幸に内通しており、暗殺の計画はたちまち昌幸の知るところとなります。昌幸は武田氏滅亡の直後から室賀氏の家臣の多くを調略し、そのほとんどに内通させていたといいます。そんなこととはつゆ知らず、正武はわずかな供回りを連れて上田城に参上。入城した正武は書院に通され、次の間に控えていた真田家臣によって殺害されました。

 家康が正武に昌幸暗殺の密命を下したという逸話は、主に軍記物に記されているのみで、確実な史料に乏しいようですが、正武が昌幸によって殺害されたというのはまぎれもない史実です。二人がどのような間柄だったかはわかりませんが、この時期、昌幸は正武を亡き者にしなければならないなんらかの理由が生じたのでしょう。このあと室賀一族が徳川氏の甲斐国に亡命していること、そしてこれを機に真田氏が徳川氏と断交し、上杉氏の配下に転じる道を探り始めたことなどからみて、家康の昌幸暗殺未遂の逸話は、じゅうぶんにあり得ると思えます。

 昌幸と正武の囲碁のシーンは見応えがありましたね。囲碁もまつりごとも、相手の意を読み裏をかく心理戦。囲碁では正武のほうが上段者でしたが、策略では昌幸のほうが上手でした。囲碁には、下段者が黒石で先手を打つというルールがあります。
 「わしに勝ったことがないではないか。」
といった正武は、当然、白石で後手。すべての計略を見透かされ、
 「お主の負けじゃ。わしの家来になれ。」
と昌幸に言われた正武は、
 「わしの勝ちじゃ。」
と言って白石をおく。このあたりの演出、ディテールはみごとでした。

 昌幸も正武も、中小企業の経営者として大企業に押しつぶされないよう懸命にもがいていました。共存共栄なんて綺麗事を言っていると、共倒れとなります。ライバル会社を蹴落とさないと、自社が存続できません。今も昔も、中小企業の経営者の苦悩は同じですね。

 室賀正武を殺害したことにより、徳川氏との断交は不可避となります。これを機に、昌幸の目は、また北に向けられます。



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by sakanoueno-kumo | 2016-03-22 16:23 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(2)  

朝ドラ『あさが来た』で知ったびっくりポンな女傑、広岡浅子。 その4

e0158128_15522365.jpgさて、話をドラマに移して、主人公・あさの姉・はつについてですが、そのモデルとなった浅子の実の姉・は、浅子が嫁いだ6日後に両替商の天王寺屋五兵衛に嫁ぎますが、25歳で早逝したそうです。

また、春は浅子にとって異母姉で、しかもその母は三井の女中だったそうで、父親は本妻の子である浅子を可愛がったといいます。

ドラマとはずいぶん違いますね。
天王寺屋廃業後に和歌山でみかん農園を作ったというのもフィクションで、実際には、関東に居を移したと言われているそうです。
ただ、明治10年(1877年)頃まで天王寺屋は存在したようで、でも、そのころ春はもうこの世にいませんから、天王寺屋の没落は知らなかったと思われます。

これが大河ドラマだったら、「史実と違う!」といった批判が集まっていたでしょうが、今回のドラマでは、「はつを死なせないで」という要望がNHKに殺到したとか。

大河ファンと違って朝ドラファンは鷹揚ですね(笑)。

まあ、名前も「浅子」と「春」ではなく、「あさ」と「はつ」。

あくまでモデルですからね。

ありなんじゃないかと。

実際、太陽のようなふたりの対比が、物語の核でもありましたしね。

加島屋の成長を照らす太陽あさなら、闇に落ちた山王寺屋を照らす月明かりはつ

太陽も月も、生きていくには大切な光です。

e0158128_15524302.jpgあさの夫・新次郎は、仕事嫌いの遊び人でありながらも、妻のいちばんの理解者として描かれていますが、実在の夫・信五郎、毎日のように謡曲茶の湯といった道楽三昧で、店の経営にはあまり無関心だったようです。

明治新政府の銀目廃止によって店先に客が殺到したとき、病床の父に変わってあさを表に立たせていましたが、これも実話どおり。

経営者としての浅子の能力を見込んでいたともとれますが、単に無責任な人だったのかもしれません(笑)。

でも、もし新五郎さんがやり手の敏腕経営者だったら、経営者・広岡浅子は生まれていなかったでしょう。

その意味では、やはり広岡浅子を生み出したのは、夫の広岡信五郎といえるでしょうか?

新次郎に恋心を抱きながら番頭の亀助と結婚したおふゆのモデルは、浅子の付き人として長年身の回りの世話をした小藤という女性がモデルだそうですが、この小藤という女性、実際には浅子の夫・信五郎となって4人の子供を生んだそうです。

事業に忙しく家を空けることが多く、嫁として家の仕事を充分にできなかった浅子にかわって、小藤がその役割を担っていたそうで、浅子は小藤のこともその4人の子供のことも、終生かわいがったとか。

時代が違うと言ってしまえばそれまでですが、現代人には理解しがたい関係ですね。

当然、朝ドラ向きの話ではないので描かれません(笑)。

先日の稿でお話した五代友厚の女性関係についてもそうですが、こういう話を朝ドラでやると、視聴者がドン引きしちゃうのでしょう。

登校前の子どもも観てますしね。

やっぱ、朝は爽やか話でないと(笑)。

爽やかといえば、今回のAKB48の主題歌『365日の紙飛行機』は、爽やかないい曲ですね。

物語にぴったりな曲で、仕事中にも思わず口ずさんでしまっていました。

この曲、オジサン・オバサン世代にはどこか懐かしい歌なんですよね。

というのも、

♪あさ~の空を見あ~げて 今日という一日が~

♪いの~ち懸けてと~ ちか~った日から~

似てませんか(笑)? 

♪人生は紙飛行機 願い乗せて飛んで行くよ

風の中を力の限り ただ進むだけ

その距離を競うより どう飛んだか どこを飛んだのか

それが一番大切なんだ さあ 心のままに 365日♪

いい歌詞ですね。



さて、ドラマはもうすぐクライマックスを迎えます。

最後までどんなびっくりポンな物語を見せてくれるか、楽しみに観ましょう。

朝ドラ『あさが来た』で異彩を放つ五代友厚 その1
朝ドラ『あさが来た』で異彩を放つ五代友厚 その2
朝ドラ『あさが来た』で異彩を放つ五代友厚 その3
朝ドラ『あさが来た』で知ったびっくりポンな女傑、広岡浅子。 その1
朝ドラ『あさが来た』で知ったびっくりポンな女傑、広岡浅子。 その2
朝ドラ『あさが来た』で知ったびっくりポンな女傑、広岡浅子。 その3



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by sakanoueno-kumo | 2016-03-18 13:23 | その他ドラマ | Trackback | Comments(4)  

朝ドラ『あさが来た』で知ったびっくりポンな女傑、広岡浅子。 その3

e0158128_10215758.png広岡浅子は、その生涯でひとりだけ子どもを生みました。

ドラマでは千代という名ですが、実在の娘の名は亀子といいます。

ドラマように母に反抗的な少女時代だったかどうかはわかりませんが、母のようなキャリアウーマン気質の女性ではなかったようで、いわゆるお金持ちのお嬢様的女性だったようです。

幼少期は、多忙な浅子よりも、身の回りの世話をしていた付き人の小藤によくなついていたとか。

小藤という女性は、ドラマのおふゆのモデルになった女性です。

浅子は銀行炭鉱に飛び回っていましたから、当然だったでしょうね。

それでも、浅子の聡明さは受け継いだようで、京都府高等女学校を卒業。

その後、一柳子爵家の次男・恵三を婿養子に迎え、一男四女に恵まれました。

亀子の夫となった一柳恵三(広岡恵三)という人がスゴイ人で、実家は旧播磨国小野藩主・一柳末徳の次男。

世が世なら、お殿様になっていたかもしれない人物でした。

ふたりが結婚したのは明治34年(1901年)だったそうですが、明治維新から30年以上経ったこの頃には、大名家の息子が商家の婿養子になるほど、世の中は変わってきていたんですね。

一昔前なら、浅子たちは地べたに平伏して目を合わせることも叶わなかった相手ですから。


e0158128_10243292.pngこの広岡恵三が、実質、浅子の後継者になります。

ただ単に家柄が素晴らしいだけでなく、東京帝国大学卒の明敏さをもって経営に参加し、明治42年(1909年)には加島銀行頭取に、そして大同生命二代目社長として辣腕を振るいました。

その後、加島銀行は昭和恐慌の煽りを受けて廃業してしまいますが、大同生命は平成の現在もなお引き継がれていますね。

大同生命の基礎を作ったのは浅子でしたが、恵三は同社の社長を33年も続け、発展させました。

浅子がを撒いて、恵三がをやって育てたといったところでしょうか。

娘の亀子は浅子のように経営には参加しませんでしたが、その婿に凄腕経営者を連れてくるあたり、さすがは浅子です。

ちなみに、亀子は母のような女傑ではなかったものの、その生命力だけは母をはるかに凌いでいたようで、彼女が亡くなったのは昭和48年(1973年)、97歳だったそうです。

昭和48年といえば万博の3年後で、オイルショックの年です。

つい最近のことですよね。

幕末に結婚した女性の娘が万博まで生きていたなんて、そう考えれば、浅子の生きた時代というのは、それほど昔ではないんですね。

びっくりポンです。

あと1回だけ続きます。

朝ドラ『あさが来た』で異彩を放つ五代友厚 その1
朝ドラ『あさが来た』で異彩を放つ五代友厚 その2
朝ドラ『あさが来た』で異彩を放つ五代友厚 その3
朝ドラ『あさが来た』で知ったびっくりポンな女傑、広岡浅子。 その1
朝ドラ『あさが来た』で知ったびっくりポンな女傑、広岡浅子。 その2
朝ドラ『あさが来た』で知ったびっくりポンな女傑、広岡浅子。 その4


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by sakanoueno-kumo | 2016-03-17 11:40 | その他ドラマ | Trackback | Comments(0)  

朝ドラ『あさが来た』で知ったびっくりポンな女傑、広岡浅子。 その2

幕末から維新にかけての動乱のなか、一時は傾きかけた加島屋でしたが、なんとか持ちこたえました。

そこには、広岡浅子の力が大いに関係していたと言われます。

ドラマでは、嫁入りして間もない浅子が借金返済を求めて藩の蔵屋敷に何度も押しかけるシーンがありましたね。

何度足を運んでも相手にされず、加子部屋(足軽部屋)で荒くれ男に囲まれながら一夜を明かし、結局借金を返済させることに成功しますが、このエピソードは明治37年(1904年)に雑誌『実業之日本』に載った浅子についての記事「本邦実業界の女傑」によるものだそうです。

まあ、雑誌の記事というのは、今も昔も、どこまで信用していいかは微妙ですが、ただ、浅子自身もこのときのことについて述懐しているそうで、それに近い出来事があったことは嘘じゃないでしょうね。

また、明治14年(1881年)に加島屋から高松藩松平家に宛てて出された借金の赦免願とそれに対する回答が朱筆された書状が現存しており、それによると、高松松平家に対する12万2600円(現在の貨幣価値に換算すると約6億3000万円)の借金の返済を、その四割を即納することにより、残り六割を免除することを認めさせているそうで、この書状は差出人が「広岡久右衛門」とあるとともに、「同信五郎 代アサ」と、本来名義人になれないはずの浅子の署名と押印があるそうです。

浅子が交渉に関係していたことは間違いないでしょうね。

『実業之日本』では、当時の加島屋での浅子について、こう記されています。

「而して浅子は加島屋唯一の君主として、上は店長より下は小僧に至るまで、任免黜陟(功績に応じて役職を上げ下げすること)に大権を掌握し、総会等には必ず自身に出席しつつ満場の視線を己れに集めるのみか、本支店とも時々巡視して業務の成績を検閲するなぞ、其の手腕の凄じさ、人をしてアッと謂はしむることが多い・・・」

当時の法律では、「夫と死別した場合」など一部の例外を除き、女性が戸主にはなれませんでしたが、実質の経営者は、ドラマのとおり浅子だったようです。

その後、ドラマのとおり浅子は鉱山経営に乗り出してその名を轟かせ、そして明治21年(1888年)には夫・信五郎や義弟・正秋とともに加島銀行を発足させ、明治35年(1902年)には大同生命を設立。

ドラマにもあったように、女性の銀行員をはじめて採用したのも浅子でした。

女性経営者だからこその人材登用だったといえますが、それは、同じく女性であった浅子を経営に参加させた、先代からの加島屋の家風が生んだものだったかもしれません。

そしてその人材育成の情熱は女子教育へと注がれていくんですね。

e0158128_15315700.jpg炭鉱、銀行と忙しい日々を送っていた浅子は、明治29年(1896年)、加島銀行のすぐ近くにあった梅花女学校の校長を務めていた成瀬仁蔵に出会います。

成瀬は女子大学設立の構想を抱いており、援助してくれる人物を求めていました。

そんななか、浅子というスーパーウーマンを知ります。

ドラマでもありましたが、浅子は成瀬の『女子教育論』を読んで、「感涙やまなかった」と語っています。

成瀬の理想に感銘を受けた浅子は、強力な後援者となり、明治34年(1901年)、東京に日本女子大学を設立するに至りました。

津田梅子新島八重大山捨松など、同時代の女子教育に尽力した女性は他にもいますが、浅子以外はすべて武家出身者

商家に生まれた女性としては、浅子だけだったんじゃないでしょうか?

男尊女卑が当たり前の時代、内助の功的な働きをした女性はたくさんいたでしょうが、表舞台で男顔負けの活躍した浅子は、たいへん稀有な存在だったでしょう。

ホント、びっくりポンな女性ですね。

ただ、そんな浅子を生んだのは、夫の理解、協力があったからといえます。

男女の区別なく、才能ある者を認め育てるという気風が、浅子の周りにあったということですね。

次回に続きます。

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by sakanoueno-kumo | 2016-03-16 12:36 | その他ドラマ | Trackback | Comments(0)  

真田丸 第10話「妙手」 ~北条軍の沼田城攻めと上田城築城~

 天正10年(1582年)10月29日、徳川家康北条氏直和睦、同盟を結びますが、このとき、両氏が出しあった和睦の条件として、北条氏は甲斐国都留郡と信濃国佐久郡を徳川方に渡し、徳川氏は、北条氏の上野国領有を認め、真田昌幸が支配する沼田・吾妻領を引き渡すというものがありました。ところが、これを聞いた昌幸は、当然納得できません。沼田・吾妻領は自分たちの手で血を流して切り取った領地であり、徳川氏から割譲されたものではないというのが、その言い分でした。至極もっともな理由ですが、徳川氏の参加に下っている立場でこれを主張することは、徳川氏との関係を悪くしかねないことです。既に上杉氏、北条氏を裏切って徳川氏に与した真田氏としては、結構な賭けだったでしょうね。事実、家康は困惑します。

 ドラマでは、沼田城明け渡しの交渉に訪れた北条氏の使者を、沼田城を任されていた昌幸の叔父・矢沢頼綱がその場で斬り殺してしまい、これに憤慨した北条氏が、沼田城攻撃を開始するというシナリオでしたね。この話が史実なのかはわかりませんが、もともと沼田領引渡しの条件は、真田氏がのまなければ、北条氏が力ずくで奪い取ってもかまわないというのが徳川氏との約束で、北条氏にしてみれば、正当な武力行使でした。当然、家康が真田を援護することはなく、高みの見物です。

 北条軍が攻撃を開始したのは、年が明けた天正11年(1582年)2月のことでした。矢沢頼綱は沼田城に籠城し、岩櫃城を任されていた昌幸の嫡男・真田信幸と連携して一歩も引かぬ徹底抗戦を展開します。さすがの北条軍も、沼田城の頑強な抵抗に手を焼きます。

 同じ頃、真田氏は北の上杉氏とも睨み合っていました。真田氏が徳川氏の傘下に入り、その徳川氏が北条氏と同盟を結んだことを受け、北信濃の上杉領の危機と判断した上杉景勝は、警戒を強めます。そして、真田領を見下ろすようにそびえる虚空蔵山の山頂にある虚空蔵山城の防備を固めます。これを受け、昌幸の弟・真田信尹は上杉氏の家臣・島津忠直に向けて、信濃侵攻の意図はないとの書状を送りますが、その直後の3月21日、昌幸は虚空蔵山城に奇襲をかけます。おそらく、兄弟しめしあわせての策だったでしょう。この奇襲で、上杉方は甚大な被害を受けたといいますが、かろうじて真田軍を撃退し、城を守りきります。

 ドラマでは、この上杉攻めが真田信繁の仕組んだ芝居だったとされていましたね。この戦いで真田軍を撃破した上杉軍が、南下して沼田城に攻め込むとの流言をばらまき、みごと沼田城を包囲する北条軍を撤退させることに成功します。しかし、実際にはそのような事実があったとは考えられず、すべてドラマのオリジナルです。史実では、下野国南部と東上野で反北条氏の勢力が叛乱を起こし、北条軍はその対応のために、沼田城攻めを一時中断せざるを得なくなったからでした。また、沼田城を守る矢沢頼綱に上杉氏から帰属を促す書状が届き、これを受けた頼綱が、帰属を条件に援軍を求めたともいいます。実際に上杉の援軍を得られたかどうかは定かではありませんが、いずれにせよ、この戦に信繁が関わったという史料は存在しません。まだ15~6歳ですからね。あるいは、この頃に初陣を果たしていたかもしれませんが、重責を任されるようなことはなかったでしょう。面白い設定ではありましたけどね。

 上田城の築城が開始されたのは、この戦いの真っ只中の天正11年(1583年)4月のことでした。その普請を家康から任されたのが昌幸だったといわれますが(異説あり)、当初は上杉氏を牽制するための徳川方の城として築かれたものが、のちに真田氏が上杉方に付いたことにより、逆に徳川方と対峙するための戦略拠点となります。つまり、昌幸は徳川氏の支援を受けて、徳川氏と戦うための城を自領に築いたわけです。これが、ドラマのように築城当初から徳川氏を裏切ることを想定していたのか、あるいは、結果的にそうなったのかはわかりません。もし、前者なら、やはり昌幸という人物はそうとうなしたたか者ですね。いずれにせよ、家康はこのとき、のちに昌幸に二度の敗北を喫することになる舞台を、自らの支援で築いたわけです。歴史って面白いですね。



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by sakanoueno-kumo | 2016-03-15 00:00 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(0)