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備後福山城のまち逍遥備忘録 その5 「備後護国神社(阿部神社)」

福山城北側三の丸には、備後護国神社があります。

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ここは昭和32年(1957年)まで阿部神社と称えていましたが、護国の英霊と合祀され、社名が備後護国神社と改められました。


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そもそものはじまりは、文化10年(1813年)、福山藩主・阿部氏の遠祖である大彦命・武沼河別命・豊韓別命と歴代藩主を祀る勇鷹(いさたか)神社として創建されたことに始まります。


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その後、明治10年(1877年)に阿部神社と改称、県社に列しました。


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最初と2枚目の写真は西側にある備後護国神社としての正式な参道で、3枚目4枚目の写真は南側にある阿部神社の時代の参道です。


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拝殿本殿です。


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境内には、7代藩主・阿部正弘の石像があります。

福山城二の丸にも正弘の像がありましたが、あっちの方がイケメンでしたね。

でも、こっちのほうが肖像画に似てるかな?


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若干25歳で老中首座(現在でいえば内閣総理大臣)に就任した正弘は、ペリー来航にあたり日米和親条約を締結したことで知られています。

教育の重要性を早くから唱え、その人材を育てるために藩校・福山誠之館を創立しました。

そのため、現在では受験合格、学業成就の神として信仰されているそうです。


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そういえば、正弘は薩摩藩主・島津斉彬や水戸藩主・徳川斉昭とともに、日本の国旗を「日の丸」と制定した人物でもあります。

昨今の卒業式などで日の丸に敬意を払わない教員さんを見て、正弘はどう思うでしょうね。


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あと、境内には「宮本武蔵腰掛石」があります。

読んで字のごとく、宮本武蔵が座ったとされる石ですね。


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元和元年(1615年)の大坂夏の陣において、武蔵は水野勝成の陣に属したとい伝わり、その後、福山藩初代藩主となった勝成を訪ねて福山城を訪れた際、家老・中山将監の屋敷の庭園で腰を掛けた石が、この石なんだそうです。

実話かどうかはわかりませんが、NHK大河ドラマ『武蔵』のなかでも紹介されていました。

まあ、武蔵の伝説は全国各地にありますけどね。


そんなこんなで、シリーズはあと1回だけ続きます。




備後福山城のまち逍遥備忘録 その1 「本丸・伏見御殿跡」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その2 「天守」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その3 「二の丸」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その4 「赤門・小丸山」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その6 「水野勝成の墓所・聡敏神社」


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by sakanoueno-kumo | 2016-04-28 16:12 | 広島の史跡・観光 | Comments(0)  

備後福山城のまち逍遥備忘録 その4 「赤門・小丸山」

福山城三の丸北側は現在テニスコートや護国神社になっていますが、その北側に「赤門」と呼ばれる門があります。

時代は進んで幕末長州軍と幕府軍の激戦地となった場所です。


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慶応4年(1868年)1月9日、前年から尾道に駐屯していた長州軍は、徳川譜代の大名である阿部家を攻めるべく福山城下に侵攻しました。

ちょうどこの3日前、京都は鳥羽伏見の戦いにおいて薩長軍は幕府軍を破っており、勢いづいていました。

反対に福山藩は、前年の11月22日に9代藩主・阿部正方が病没していたものの、時局多端のためその死は秘され、1月9日未明、まさに長州藩兵が福山城に攻撃を行う数時間前に、城内北西の小丸山仮埋葬されたばかりでした。

長州軍は堀が築かれていない福山城の北側から攻撃を開始。

しかし、天神山、小丸山などの自然の地形を巧みに生かした福山藩兵の銃撃により、長州軍の進撃はここ赤門で阻止されます。


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その後、7代藩主・阿部正弘の側近で福山藩の儒学者・関藤藤陰(当時は石川和助)が、福山藩家老の三浦義建と共に藩を代表して長州藩との交渉を行い、新政府に参加していた広島藩主・浅野長勲の実弟・正桓を次期藩主として迎え入れることを条件に、福山藩と長州軍の間で講和が成立。

これ以後、福山藩は新政府軍に加わり、福山城下は戦火を免れます。


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赤門をくぐったところに建つ捨生取義の石碑です。


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明治維新前後の動乱(石州の役、函館の役、佐賀の役、台湾の役、西南の役)の戦闘で命を落とした旧福山藩士110名の名が刻まれています。

明治19年(1886年)に建てられたものだそうで、その揮毫は、最期の藩主となった阿部正桓によるものだそうです。


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長州軍から福山城を死守した小丸山は、「先人の森」として福山の礎となった人々の顕彰碑が建てられています。


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これは、寺地舟里という医学者の碑。


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こちらは、江木鰐水という兵学者の碑。


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そしていちばん奥には、福山藩初代藩主の水野勝成の碑。

なんだ、慶応4年1月の攻防とは関係ない人ばかりじゃないか!

なんで、ここに関藤藤陰を入れないんでしょうね。


次回に続きます。



備後福山城のまち逍遥備忘録 その1 「本丸・伏見御殿跡」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その2 「天守」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その3 「二の丸」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その5 「備後護国神社(阿部神社)」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その6 「水野勝成の墓所・聡敏神社」

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by sakanoueno-kumo | 2016-04-27 13:37 | 広島の史跡・観光 | Comments(0)  

真田丸 第16話「表裏」 ~信繁の直臣待遇と、大谷吉継、石田三成の逸話~

 上杉景勝に置き去りにされて取り残された真田信繁。しかし、豊臣秀吉はそんな信繁を馬廻衆に加えます。つまり、秀吉の家来になったということですね。実際にそんな事実があったかどうかはわかりませんし、何より、この時期に信繁が大坂入りしていたかどうかも定かではありませんが、のちに秀吉が信繁を人質の枠を超えて直臣なみに厚遇したというのは事実です。一般的には、信繁ははじめ豊臣家に人質として送られたといわれますが、一説には、そもそも最初から人質ではなく、秀吉に召し出されて出仕していたとの見方もあります。

 その理由としては、こののち真田昌幸の正室・山之手殿が大坂に人質として送られてくることがあげられます。真田家から2人の人質が差し出されるというのは不自然であり、正式な人質は山之手殿だけだったんじゃないかと考えられます。また、のちに信繁は秀吉によって従五位下・左衛門佐に任官され、さらに、秀吉の家臣である大谷吉継の息女を妻に迎えることになるわけで、これは、人質としては破格の待遇といえます。はじめは人質だったのが、途中から直臣扱いになったのか、あるいは、はじめから家来として召し出されたのか、いずれにせよ、秀吉が信繁に肩入れしていたのは事実でしょう。馬廻衆に加えられたという話も、あってもおかしくはありません。

e0158128_23084082.jpg のちに義父になる大谷吉継ですが、よく知られている吉継の姿は、顔を頭巾で隠した容貌ですよね。その理由は、吉継は当時、ハンセン病(癩病)もしくは梅毒を患っており、顔が崩れていたためと言われています。ところが、本ドラマでの吉継は、頭巾をかぶっていません。調べてみると、近年、吉継のハンセン病説を否定する見方が強くなってきているそうです。というのも、吉継が病のため頭巾を被っていたという描写は、江戸中期頃までの逸話集には出てこないそうです。たぶん、このドラマでは、その説を採ったのでしょう(幕末に描かれたこの浮世絵でも、頭巾は被っていませんね)。ただ、目を患っていたのは事実のようで、文禄3年(1594年)に直江兼続宛に出された書状に、そのことを示す記述が存在するそうです。この時期より15年以上先の話ですが。

 石田三成と昵懇だったといわれる大谷吉継ですが、二人の友情について、こんなエピソードがあります。あるとき、秀吉が主催した茶会において、出席した豊臣諸将は茶碗に入った茶を一口ずつ飲んで次の者へ回していったのですが、吉継に茶碗が回ってきたとき、顔から膿が茶碗に落ちたといいます。これを見た周りの諸将は、感染を恐れて茶碗に口をつけず、飲むふりだけをして隣にまわしていきますが、このとき三成だけは、平然と茶を飲み干したといいます。これを見た吉継は大いに感激し、以後、三成のいちばんの理解者となり、やがて関ヶ原の戦いに至った・・・と。この話が事実かどうかは定かではありませんが、吉継のハンセン病説が否定されると、この話もなかったことになりますね。三成の人となりを知る上で重要なエピソードだけに、少し残念な気もします。

 今話は特に話の進展がなかったので、余談めいた話を場当たり的に綴ってみました。それにしても、真田信繁、石田三成、片桐且元の絡むシーンを観ていると、山南敬助、土方歳三、井上源三郎に見えてしまうのはわたしだけでしょうか? それと、信繁と吉継のシーンも、半沢直樹黒崎検査官に見えてしまいます(笑)。吉継はオネエキャラではないようですが(笑)。

 以上、今回は余談に継ぐ余談でした。



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by sakanoueno-kumo | 2016-04-25 23:13 | 真田丸 | Comments(4)  

朝ドラ『とと姉ちゃん』の青柳滝子の台詞にみる三菱自動車の低燃費偽装。

e0158128_21560347.jpg朝ドラ『とと姉ちゃん』が始まって3週間が経とうとしていますが、前作『あさが来た』の追い風を受けて好調のようですね。

わたしも、人生で初めて完走した前作に続いて、今回も最初から観ています。

物語は雑誌『暮らしの手帖』の創業者・大橋鎭子をモデルにしたヒロインを中心に描かれたフィクションで、戦前戦後の昭和が舞台。

自称歴史オタクのわたしとしては、やはり、フィクションといえども実在した人物をモデルに描かれた作品が好きで、本作も楽しみにしています。

今週は、主人公の小橋常子たち家族が母の実家である東京の深川に移り住んできて、はじめて祖母に接するという展開でした。

大地真央さんが演じる綺麗すぎる祖母・青柳滝子は、江戸時代から200年以上続く老舗材木屋・青柳商店女将で、厳格な人物という設定。

たぶん、この祖母が、ヒロインの今後の人生に大きな影響を与えることになるんでしょうね。

で、今朝のドラマで、客から注文を受けた木曽檜の大黒柱を、従業員が青森産の檜葉と間違えて加工してしまい、その間違いに気づきながらも黙って納品しようとしていたことが発覚し、滝子が激怒するというシーンがありました。

従業員いわく、

「客には檜葉だろうと檜だろうとわかりゃしません。

青森の檜葉だって最高級ですからね。

このまま納品したって文句をつけられることはないでしょう。

あらためて木曽の檜を加工するとなると、うちは大損でさぁ。

ここまで仕上げた青森の檜葉をみすみすどぶに捨てるなんて・・・。」

これを聞いた滝子は一喝します。

「寝言は寝てからお言い!

客が木曽檜と言ったら木曽檜しか渡しちゃいけないんだ。

それ以外のものは檜葉だろうが何だろうが渡す訳にはいかないよ!

うちはそうして200年看板を守ってきたんだよ。

看板に傷をつけようってのかい!」

調べてみると、檜も檜葉も、グレード的には遜色ない木材のようで、決して客に損をさせることにはならないというのが従業員の言い分でしょうが、問題はそこではない。

つまり、売っているのは木材ではなく、「信用」なんだ!・・ということですね。

「信用」を売って、200年商売してきたんだ!・・・と。

ここまで観てふと頭をよぎったのは、先日より燃費試験データの不正操作が発覚して問題となっている三菱自動車工業です。

同社はかつて2度にわたる「リコール隠し」が発覚し、大きく信用を失った経緯は周知のところですが、その失墜した信用を回復するべく経営再建を目指していた過程での今回の不正発覚ですから、もはや救いようがない愚行といえるでしょう。

もう信用回復は不可能でしょうね。

これが三菱自動車工業という企業の体質と判断せざるを得ません。

三菱自動車のみならず、数年前にあった食肉偽装事件やマンションの耐震構造偽装事件など、似たような不正事件が近年目立つ気がします。

安くなければ売れない・・・といったデフレの悪循環が引き起こした傾向ともいえるかもしれませんが、やはりそれは、檜葉を檜として売ろうとした青柳商店の従業員と同じで、目先の利益のことしか考えていない軽挙ですよね。

消費者は、名も知らぬ人の作った食材を口にし、顔を見たこともない人の作った家に住み、どのような過程で作られたかもわからない車に乗るわけです。

そこに「信用」がなければ、世の中は成り立ちません。

彼らのやったことは、単に自社の信用の失墜のみならず、社会全体の「信用」根底から崩しかねない愚行で、決して許されるべきことではないでしょう。

「信用は実に資本であって、商売繁盛の根底である。」

とは、日本資本主義の父といわれる渋沢栄一の言葉です。

信用は資本・・・たしかにそのとおりですね。

昨今は資本金ゼロでも会社を設立できるようになりましたが、「信用」という資本がない会社は続くはずがありません。

三菱自動車工業の経営陣は、そのことを思い知るべきでしょう。

もう遅いかもしれませんが・・・。

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by sakanoueno-kumo | 2016-04-22 22:02 | 時事問題 | Comments(0)  

備後福山城のまち逍遥備忘録 その3 「二の丸」

本丸を降りて二の丸を歩きます。

福山城の二の丸は本丸を囲む帯曲輪で、北面以外は幅が狭く、櫓以外に目立った施設は建てられていなかったそうです。

まずは南側から。

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いまは桜並木になっています。

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上の写真は二の丸南から見上げた伏見櫓です。

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こちらは二の丸南から見上げた月見櫓です。

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二の丸東には、備後福山藩初代藩主・水野勝成の銅像があります。

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猛将として名高い勝成ですが、銅像は知的で上品なお殿様といった感じです。

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銅像の横には、ご覧のとおり天守東面がそびえています。

ここ、絶好の撮影スポットです。

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青空だったらいい写真になったでしょうけどね。

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少し北に進んで、二の丸北東から天守を撮影。

ここも結構、いいポイントかな。

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二の丸北側にやってきました。

上の写真は真北から見た天守です。

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二の丸北側だけは広い敷地になっていて、かつては城米蔵などが建て並んでいたそうです。

現在はテニスコートがあり、その東には昭和初期に建てられた福寿会館という建物があります。

上の写真は、そこの庭園から見た天守です。

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そして二の丸西面に足を運ぶと、阿部正弘の銅像がありました。

備後福山藩の藩主は水野家、松平家、阿部家へと引き継がれますが、最後の阿部家は廃藩置県まで10代に渡って161年間在封し、この間、幕府老中を4人、大坂城代を1人輩出しました。

とくに7代藩主・阿部正弘はわずが25歳の若さで老中首座(現在でいえば内閣総理大臣)に就任したキレ者です。

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阿部正弘は、肖像画などを見てもダンディーなイケメンですからね。

正弘は39歳の若さで急死してしまいますが、もし正弘が生きていれば、井伊直弼大老就任もなかったかもしれませんし、そうなれば、安政の大獄もなかったでしょうから、幕末の歴史は大きく変わっていたかもしれません。

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もっとも、正弘はほとんど江戸城にいたでしょうから、ここ福山城で藩政に従事することは少なかったでしょうけどね。

次回に続きます。



備後福山城のまち逍遥備忘録 その1 「本丸・伏見御殿跡」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その2 「天守」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その4 「赤門・小丸山」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その5 「備後護国神社(阿部神社)」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その6 「水野勝成の墓所・聡敏神社」

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by sakanoueno-kumo | 2016-04-20 21:27 | 広島の史跡・観光 | Comments(0)  

真田丸 第15話「秀吉」 ~真田信繁(幸村)の大坂入り~

 上杉景勝羽柴秀吉に謁見すべく上洛したのは、天正14年(1586年)6月。このとき景勝は養子の上杉義真(畠山義真)を人質として差し出し、臣下の礼をとりました。ドラマではこのとき本領安堵を約束されていましたが、実際には、元々の領国である越後国の領有は安堵されますが、属国として支配していた越中国、上野国(真田領)は放棄させられ、代わりに佐渡国、出羽国の切り取りを許可されます。このとき、景勝は正親町天皇(第106代天皇)にも拝謁し、左近衛少将に任じられています。

e0158128_20004830.jpg ドラマではその景勝に付き従って大坂入りした真田信繁でしたが、実際には、そのような記録は存在しません。さりとて、信繁がいつ大坂城に送られたかを知る史料もなく、詳細はわかっていません。一説には、景勝が上洛しているあいだに、人質として越後にいた信繁を昌幸が勝手に連れ出してそのまま秀吉のもとへ送ったため、景勝が激怒したという話があり、小説などでもこの説が採用されていたりしますが、それは無理があるでしょうね。おそらく、景勝の了承のもと大坂に送られたと考えられます。

ただ、景勝が上洛した同じ年の9月、徳川家康の上洛が決定すると秀吉は昌幸に人質を出すよう命じていますが、昌幸がこれに従わなかったため、怒った秀吉は家康に昌幸討伐を命じたという事実があります。そこからわかることは、この時点で真田家は、まだ秀吉に人質を出していなかったということ。つまり、信繁はまだ越後にいたということですね。となると、やはりドラマの設定は無理があるかもしれません。もっとも、ドラマでは人質として大坂に来たわけではありませんから、このまま何らかの理由で大坂に残り、そのまま人質になったという設定はなくはないですが(少々苦しくはありますが)。いずれにせよ、この天正14年(1586年)から昌幸が上洛する翌年の春にかけての何処かで、信繁は大坂に入ります。信繁18歳もしくは21歳の頃です。

e0158128_20022019.jpg 景勝と面会した秀吉は、真田への支援を禁ずる旨を命じていましたが、これは事実で、秀吉は昌幸を家康の配下に置くことを決め、これを景勝に了承させています。というのも、このころ秀吉は、家康を従わせるためにあの手この手で骨を折っていた時期で、この年の5月には、実妹の朝日姫を家康の正室に娶らせるなどして懐柔しようしていましたが、それでも家康は上洛しようとせず、苛立っていました。家康が上洛しない理由のひとつが、北条氏との間の沼田・吾妻領譲渡問題が決着をみていなかったことにありました。そこで秀吉は、真田氏を上杉氏の傘下から徳川氏麾下に移し、家康が領土問題を独断で解決しやすいように仕向けたのです。その上で、秀吉は昌幸に上洛を促しました。

e0158128_20435306.jpg ところが、昌幸は上洛の要請にいっこうに応じず、また、上洛の代わりに人質をよこすよう命じますが、これも拒否しています。その理由は定かではなく、ドラマでは、秀吉の勢いを見定めている設定でしたが、実際には、やはり、沼田・吾妻領譲渡問題にあったと見るのが正しいでしょうね。昌幸にしてみれば、上洛している間に北条軍に自領が攻撃される心配があり、また、上洛して謁見した秀吉に、沼田・吾妻領の譲渡を命じられるかもしれないといった危惧もあったでしょう。昌幸にしてみれば、秀吉からの沼田・吾妻領安堵の確約と、徳川・北条両氏との停戦命令がない限り、上洛するわけにはいかなかったのでしょう。

 かくして秀吉は、いっこうに命令に従わない昌幸を「表裏比興之者」と指弾。家康に成敗を命ずるとともに、景勝に支援無用を命じます。昌幸、またしてもピンチに晒されることになります。



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by sakanoueno-kumo | 2016-04-18 20:08 | 真田丸 | Comments(2)  

備後福山城のまち逍遥備忘録 その2 「天守」

福山城天守は昭和20年(1945年)8月8日の福山大空襲で消失し、現在の建物は昭和41年(1966年)に月見櫓、御湯殿と共に復興された鉄筋コンクリート製のものです。

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8月8日といえば、同じ広島県内に原爆が投下された2日後、終戦の1周間前ですね。

広島市内では、原爆により8月6日に広島城が大破しています。

戦争は多くの人の命を奪いましたが、同時に、わが国の歴史的遺産も奪いました。

終戦の決断がもう少し早ければ、救われた命も、そして失わずにすんだ文化遺産もたくさんあったでしょうね。

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福島正則の改易によって元和5年(1619年)に入封した水野勝成が、3年の歳月をかけて築城した福山城天守は、5重5階地下1階層塔型の天守でした。

現在の復元城とは、外観はかなり違うようで、「復元」ではなく「復興」に分類されているそうです。

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明治維新による廃城後、城はそのまま放置され、天守の傷みは甚だしかったそうですが、その歴史的価値が認められた明治30年(1897年)から修理が行われ、昭和6年(1931年)には、姫路城松本城と同時に国宝に指定されたそうです。

重ね重ね残念ですね。

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この日は本丸広場でイベントが開催されていて、写真を撮るには目障りなテントやらステージやらがあって残念でした。

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天守のなかは博物館になっていて、撮影禁止です。

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ただ、せっかくなので、天守最上階からの眺望をアップします。

写真は天守南側の本丸広場で、奥の芝生部分が前稿で紹介した伏見御殿跡、その左の櫓は月見櫓、中央が御湯殿、右側に少し見えるのが筋鉄御門で、その横に伏見櫓があるのですが、木に隠れちゃってます。

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曇り空でなければ、いい眺めだったのでしょうけどね。

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扉の家紋です。

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さて、本丸と天守を制覇したので、次回は二の丸をめぐります。



備後福山城のまち逍遥備忘録 その1 「本丸・伏見御殿跡」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その3 「二の丸」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その4 「赤門・小丸山」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その5 「備後護国神社(阿部神社)」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その6 「水野勝成の墓所・聡敏神社」

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by sakanoueno-kumo | 2016-04-15 13:14 | 広島の史跡・観光 | Comments(0)  

備後福山城のまち逍遥備忘録 その1 「本丸・伏見御殿跡」

過日、広島県は福山市にある福山城に行ってきました。

福山城は山陽新幹線福山駅のすぐ北側にあり、城跡周辺は「ふくやま文化ゾーン」として観光地化されています。


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この日はあいにくの曇り空だったのですが、なんとか雨に降られず一日中城跡周辺を歩きました。

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現在、城跡公園として整備されているのは、かつて内堀のなかだったところです。

南面の階段を登ると、すぐに本丸南側につながります。

なので、今回は先に本丸から攻めていきます。

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本丸南側にある筋鉄御門(重要文化財)です。

この門をくぐると、本丸広場になります。

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本丸南側には、かつて伏見御殿がありました。

なぜ「伏見御殿」という名称かというと、元和5年(1619年)に廃城となった京都の伏見城から多くの移設されており、それにあやかって「伏見御殿」と名付けられたそうです。

ちなみに、先述した筋鉄御門も、伏見城から移設されたものです。

他には、

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本丸南東角の月見櫓

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本丸南中央の御湯殿

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本丸南西角の伏見櫓などが、同じく伏見城から移設されました。

このうち、月見櫓と御湯殿は空襲で焼けたため復元ですが、伏見櫓と筋鉄御門は当時のもので、重要文化財に指定されています。

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その伏見御殿跡から北を見ると、天守がそびえます。

この日は本丸広場でイベントが開催されていて、テントやらステージやらが設置されていて残念でしたが。

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福山城は、元和5年(1619年)に福島正則が改易され、備後10万石の領主として入封した水野勝成が、3年の歳月をかけて築城した平山城です。

次稿では、その天守を攻めます。



備後福山城のまち逍遥備忘録 その2 「天守」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その3 「二の丸」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その4 「赤門・小丸山」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その5 「備後護国神社(阿部神社)」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その6 「水野勝成の墓所・聡敏神社」

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by sakanoueno-kumo | 2016-04-14 00:37 | 広島の史跡・観光 | Comments(4)  

真田丸 第14話「大坂」 ~石川数正出奔と天正大地震~

 第一次上田合戦で徳川軍に勝利した真田昌幸でしたが、しかし、徳川軍はこの敗戦で壊滅的な打撃を受けたわけではなく、このあとも撤退することなく兵を留め、再び上田城を攻撃するべく体制の立て直しをはかります。徳川家康にしてみれば、真田氏ごとき一国衆に敗北したとあっては、同盟関係にある北条氏に対しての面目がたたず、意地でも上田城を落として真田氏をぶっ潰す必要があったのでしょう。家康は井伊直政、松平康重らの重臣に5000の兵を預けて援軍に向かわせたといいます。

 ところが、それもつかの間の天正13年(1585年)11月、徳川軍はとつぜん全軍の撤退を開始します。その理由は、徳川家の重臣で三河国岡崎城の城代を務めていた石川数正が、一族妻女や岡崎にいた小笠原貞慶の人質らを連れて突如出奔し、羽柴秀吉のもとに身を寄せたからでした。数正は家康が子供の頃から徳川家に仕えてきた重臣中の重臣で、その数正が秀吉方についたということは、徳川方のあらゆる情報が羽柴方に筒抜けになることを意味します。事態を知った徳川方の動揺混乱は激しいものだったといいます。この徳川軍のとつぜんの退却によって、昌幸の上田城は徳川軍の2度目の総攻撃を免れました。

e0158128_17234559.jpg 石川数正が徳川氏を裏切った理由については諸説ありますが、徳川氏と羽柴氏の板挟みにあったためとするのが通説となっています。ドラマのように、裏で真田信尹が調略していたという史料は存在せず、オリジナルでしょう(もっとも、それを否定する史料もありませんが)。数正は家康の命令で徳川家における羽柴氏との交渉役を務めており、前年の「小牧・長久手の戦い」休戦に導いたのも数正の提言からと言われています。その後も数正は取次役として秀吉と頻繁に接触しており、羽柴氏の実力を知れば知るほど、敵対することの不利を感じていたのでしょう。強硬派がほとんどの徳川家中で、消極派の数正は孤立していたといいます。下手をすれば家中で暗殺されかねないと感じた数正は、ついに秀吉のもとに出奔した・・・というのが、通説の推論です。

 石川数正、そして小笠原貞慶の調略に成功した秀吉は、対家康対策をふたたび強硬姿勢に転換、東に兵を向けます。一方の徳川軍も、数正出奔を機に軍制を武田流に改める改革を行い、羽柴軍襲来に備えます。かくして羽柴、徳川両軍の激突が目前に迫った11月29日亥の刻(午後10時頃)、内陸部を中心とする推定マグニチュード7.2~8.1の大地震が、関西、中部地方を中心とする地域を襲いました。世にいう「天正大地震」です。

この地震は家康より秀吉の領国に甚大な被害をもたらし、その結果、家康との開戦どころではなくなってしまいます。そこで、秀吉はこれを機に、打倒家康の強硬策から、上洛を促す融和策へと対家康政策を転換してくことになります。ここも、歴史のひとつの大きなターニングポイントですね。もし、この地震がなければ、徳川氏は秀吉によって攻め滅ぼされていたかもしれず、となれば、のちの江戸幕府250年もなかったかもしれません。そのとき歴史が動いた瞬間だったといえるでしょうか。

 上杉景勝に付き従って真田信繁も上洛し、舞台は大坂に移されました。もちろん、そのような記録は存在しませんが、さりとて、信繁がいつ大坂城に送られたかを知る史料もなく、詳細はわかりません。そのあたりの話は、次回の稿にゆずることにしましょう。



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by sakanoueno-kumo | 2016-04-12 17:27 | 真田丸 | Comments(0)  

神戸の古墳めぐり その5 ~大歳山遺跡公園・舞子古墳群~

明石海峡を望む神戸市垂水区西舞子の標高30mの丘陵地に、大歳山遺跡公園があります。

ここは、「明石原人」の発見者として著名な考古学者の故・直良信夫博士によって、大正末年から昭和初期にかけて発掘調査された遺跡です。

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この丘陵地に、「大歳山2号墳」と名付けられた全長37m前方後円墳があります。

調査によると、古墳時代後期(6世紀頃)に造られたと考えられているそうで、古墳の上や周辺からは、須恵器の坏、高坏、瓷などが出土しているそうです。
向こうに見えるのは、明石海峡大橋です。

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「2号墳」というくらいですから、当然、「1号墳」も存在したようですが、いまは住宅開発に埋もれてしまい、詳細は不明です。

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この周辺からは、縄文時代弥生時代土器などがたくさん発掘され、近畿地方で有数の遺跡として知られていましたが、昭和40年代の宅地造成により、消滅の危機に瀕しました。

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しかし、遺跡を守ろうとする多くの人々の努力もあって、弥生時代後期の集落と「大歳山2号墳」を含む遺跡の中心部、約8,000㎡を神戸市が買い取り、昭和49年(1974年)に遺跡公園として開園しました。

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公園内には、発掘調査で出土した竪穴式住居が復元されています。

「大歳山2号墳」の後円上から望む明石海峡大橋です。

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このような見晴らしのいい丘陵地に葬られた人物ですから、さぞかし身分の高い人だったのでしょう。

まさか、ここに世界一の吊橋が出来るなんて、古代人もビックリでしょうね。

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ここから1kmほど東に舞子墓苑という墓地があるのですが、そこにも、舞子古墳群と称される10数基の古墳が点在しています。

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かつては100基前後の古墳が存在したのだとか。

1500年近く経ったいまでも、墓地は墓地なんですね。

いにしえの歴史を感じます。

神戸の古墳は他にもまだあります。

気が向いたときに、また続きやります。



神戸の古墳めぐり その1 ~五色塚古墳と小壺古墳~
神戸の古墳めぐり その2 ~吉田王塚古墳~
神戸の古墳めぐり その3 ~狩口台きつね塚古墳~
神戸の古墳めぐり その4 ~処女塚古墳・西求女塚古墳・東求女塚古墳~


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by sakanoueno-kumo | 2016-04-08 11:14 | 神戸の史跡・観光 | Comments(2)