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真田丸 第21話「戦端」 ~北条氏の上洛と沼田領問題~

 天正17年(1589年)5月、待望の嫡男が誕生し、関白公邸の聚楽第には後陽成天皇(第107代天皇)の行幸を迎え入れるという一大イベントを成功させ、まさに天下人として絶頂期を迎えつつあった豊臣秀吉でしたが、一方で、それでも上洛しようとしない関東の北条氏に苛立ちを募らせていました。そこで秀吉は、聚楽第天皇行幸が終わってすぐ、北条氏と同盟関係にある徳川家康を差し向け、北条氏政、氏直父子に上洛を強く要請します。このとき、ドラマのとおり家康は、「誰も上洛に応じない場合、北条家とは断交し、氏直に嫁がせている娘・督姫を返していただく」とまで言って圧力をかけたといいます。

e0158128_21204350.jpg この家康からの要請をうけた氏政は、上洛の条件として、棚上げとなっている沼田領問題の解決を訴えます。天正壬午の乱以降ずっと引きずっているこの領土問題と、北条氏が豊臣傘下に入るという話とはまったく無関係といえますが、北条氏としては、自らの上洛を取引材料にして、関白秀吉の力を借りて沼田問題の決着をつける腹だったのでしょう。そこで、北条氏は重臣の板部岡江雪斎を名代として上洛させ、秀吉にその採決を委ねたのでした。

三成「むしろ好都合ではございませぬか? 沼田を真田から取り上げ北条に渡す。その采配を殿下が行うのです。殿下は、大名同士の勝手な争いを禁じられました。そのよき手本になるかと。」

北条からの上洛の条件を聞いて苦虫を噛み潰す秀吉に対して、石田三成が言った台詞ですが、まさしく、これは秀吉の発令した「惣無事令」に沿った解決法でした。これまで、領土は戦で切り取るものでしたが、豊臣政権の元に天下が統一されるこれからは、天下人である秀吉の裁決によって決められる。これが、新しい国のかたちだということです。豊臣政権にしてみれば、沼田領問題はそれを天下に示す絶好のネタだったといえます。

 しかし、真田昌幸にしてみれば、釈然としない思いがあったでしょう。沼田領は昌幸が自力で切り取った領地であり、北条氏はその沼田城攻めに何度も失敗している。それを、徳川氏と北条氏の講和条件に勝手に入れられて割譲を迫られたわけですから、納得できるはずがありませんでした。氏政にしてみても、家康の協定違約だという思いがあったでしょうから、引き下がるわけにはいかなかったでしょう。

 家康「沼田、沼田と・・・まるで、喉に刺さった小骨じゃのう。」

 いやいや! そもそもあんたが出来ない約束をしたからでしょう(笑)! 天正壬午の乱以降、足掛け7年に及ぶこの難問の着地点は、新しい時代の新しい解決法で決着を見ることになります。

e0158128_20022019.jpg ちなみに余談ですが、談判の席で上段に座った秀吉が「関白太政大臣豊臣の秀吉であるぞ。」と言ってましたよね。今回のドラマでは秀吉が自身を名乗るとき、豊臣“の”秀吉と言っていますが、一般にあまり耳慣れないですが、実はこれが正しい「豊臣秀吉」の読み方です。一般に秀吉は関白になって「羽柴」から「豊臣」に変わったと思われていますが、それは間違いで、「羽柴」は苗字、「豊臣」は。ですから、「豊臣」になっても苗字が「羽柴」であることに変わりはありません。「氏」とは、源氏・平氏・藤原氏・橘氏に代表される天皇家から下賜された冠名のことで、「豊臣」は、それに続く新しい「氏」として、秀吉が天皇家から与えられたものです。「氏」と名の間には“の”を入れるのが正しく、例えば平清盛(たいらのきよもり)、源頼朝(みなもとのよりとも)、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)と同じように、豊臣秀吉(とよとみのひでよし)と読むのが正しいんですね。

 ちなみにちなみに、自称平氏だった織田信長の正式名称は「平朝臣織田三郎信長」源氏を称していた家康は、「源朝臣徳川次郎三郎家康」となります。ですから秀吉の場合は、「豊臣朝臣羽柴藤吉郎秀吉」となるのかな? まあ、教科書でも、豊臣と秀吉のあいだに“の”は入れてませんし、「羽柴」から「豊臣」に変わったように書かれてたと思いますから、一般に知られてなくて当然ですけどね。今年の大河ドラマは、そういった細かいところにもこだわって制作されていることがわかります。



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by sakanoueno-kumo | 2016-05-30 21:27 | 真田丸 | Comments(2)  

大和国、郡山城跡を歩く。 その6 「三の丸・外堀」

ひと通り城跡内を歩いたので、次は中堀の外を散策します。

まずは、鉄御門を出た南側にある「三の丸緑地」

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現在は、市民憩いの場となっています。

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三の丸緑地から道路を挟んで東側にある「柳御門跡」

ここも石垣は「野面積み」ですね。

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石垣と押しボタン信号のミスマッチです(笑)。

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大和郡山市役所前の「中堀跡」

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そこから更に東へ進むと、「外堀跡」「外堀緑地公園」として整備されています。

写真はその南門

かつて郡山城の外堀は、惣構として九条町大門、鍛冶町大門、高田町大門、柳町大門の4つの大門を通じて出入りをしていましたが、この南門は、柳町大門をイメージして再現されたものだそうです。

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その外堀公園に設置されていた城下町MAPです。

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外堀を普請したのは、豊臣秀長の死後、文禄4年(1595年)に20万石で入部した増田長盛でした。

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この頃には約1万人の家臣が城下に集中し、武家屋敷も多くなり、城下町では商工業が発達するなど、外堀で城下全体を囲む惣構の必要が生じていました。

そこで長盛は、秋篠川の付け替えや溜池をつないで、周囲が50町13間(約5.5km)の外堀を完成させます。

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外堀のほとんどは素掘りで、中堀や内堀のように石垣は積まれなかったようですが、掘削した土を堀の内側に積み上げて土塁を作り、防御壁としました。

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それらの説明板です。

赤いTシャツを着たわたしが映っています(笑)。

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城下町には、箱本十三町と書かれた説明板とMAPが各所に設置されていました。

天正13年(1585年)に入城した豊臣秀長は、城下町の繁栄のため、奈良や堺の商人たちを郡山に呼び寄せ、地租免除などの特権を与えて箱本制度という自治組織を作りました。

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城下町に復元された「火見櫓」です。

延宝8年(1680年)、郡山で大規模な火災があり、町屋670軒あまりが焼失しました。
貞享3年(1696年)、当時の藩主・
本多忠平が、この延宝の大火」を教訓として城下町の防火進めるために、堺町、本町、柳5丁目、今井町に火見櫓を建てました。

城下町を描いた町割図という絵図には堺町の火見櫓が描かれているそうです。

建物の屋上に四角い望楼を高く建てて、四方に窓を開けたもので、17町が交代で見張りを行っていたそうです。

さて、シリーズ6まで続いた郡山城シリーズですが、ひとまずこれで終わりとします。

この日は2015年8月8日の夏真っ盛りの猛暑日で、汗だくになって歩きまわりました。

郡山城は桜の名所だと聞きますから、今度は春に訪れてみたいですね。




大和国、郡山城跡を歩く。 その1 「二の丸」

大和国、郡山城跡を歩く。 その2 「天守台」

大和国、郡山城跡を歩く。 その3 「本丸(法印郭)」

大和国、郡山城跡を歩く。 その4 「本丸(毘沙門郭)」
大和国、郡山城跡を歩く。 その5 「本丸(主郭)」

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by sakanoueno-kumo | 2016-05-26 23:12 | 奈良の史跡・観光 | Comments(4)  

大和国、郡山城跡を歩く。 その5 「本丸(主郭)」

郡山城主郭は、現在、柳澤神社となっています。

本丸南側の入口には、その鳥居があります。

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鳥居をくぐって進んだところにある、「竹林門跡」です。

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石碑には、「祭神旧川越甲府城主柳澤美濃守吉保公」と刻まれています。

柳沢吉保とは、郡山城に入った初代・柳沢吉里の父にあたります。

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この神社は、明治に入ってから旧藩士たちによって、吉保・吉里の遺徳を偲んで建立されたそうです。

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神社境内の西側に、小さな鳥居と祠がありました。

その向こうに見えるのが、立ち入り禁止になっている天守台です。

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この祠が何を祀ったものかは説明板がなかったのでわからなかったのですが、おそらく、「その2」で紹介した石地蔵などを祀ったもので、天守台が立入禁止の間は、ここに参拝するようになっているのかと。

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祠から見た天守台石垣です。

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柳沢氏は第19代城主・柳沢吉里から第24代・柳沢保申まで6代に渡って郡山城主を務め、郡山城の最期を見届けました。

明治6年(1873年)に郡山城は破却され、櫓・門・塀などの建築物は、入札によって売却されます。

多くの城がそうでしたが、維新後、旧藩主は知藩事に任命され、城も藩庁としての役目を担うものの、その後、明治4年(1871年)の廃藩置県によってほとんどの知藩事は罷免となり、東京に移住させられます。

そのとき、ほとんどの城が破却されてしまうんですね。

今となっては残念なことですが、維新当時は、城など無用の長物の極みだったでしょうから。

あと1回だけ続きます。



大和国、郡山城跡を歩く。 その1 「二の丸」

大和国、郡山城跡を歩く。 その2 「天守台」

大和国、郡山城跡を歩く。 その3 「本丸(法印郭)」

大和国、郡山城跡を歩く。 その4 「本丸(毘沙門郭)」
大和国、郡山城跡を歩く。 その6 「三の丸・外堀」


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by sakanoueno-kumo | 2016-05-25 20:31 | 奈良の史跡・観光 | Comments(2)  

真田丸 第20話「前兆」 ~聚楽第落書事件~

 天正16年(1589年)秋、茶々懐妊が発覚します。実子跡継ぎがいなかった豊臣秀吉の喜びは、きっとたいへんなものだったでしょう。まさか、これが豊臣政権の崩壊「前兆」になろうとは、夢にも思わなかったでしょうね。

e0158128_20022019.jpg 若い頃から多くの美女を閨に侍らせたといわれる秀吉ですが、子宝に恵まれず、最晩年になってようやく茶々との間に鶴松秀頼を授かった・・・というのが、一般的に知られる通説だと思います。しかし、実はこれより20年ほど前の長浜城時代に、側室・南殿との間に一男一女がいたという説があります。女児の名は不明ですが、男児の名は秀勝。幼名を石松丸といいます。残念ながら秀勝(石松丸)は、天正4年(1576年)に7歳で病没し、長浜城下の妙法寺に埋葬されたと伝わります。後年、秀吉は織田信長の実子を養子に貰い受けた於次丸「秀勝」を名乗らせ、その於次丸が亡くなると、自身の甥である小吉を養子にして「秀勝」と名乗らせますが、それは、長浜時代の実子・秀勝(石松丸)を偲んでのことだったと言われています。結局は、「秀勝」は3人とも死んでしまうのですが。

その話が事実だったとしても、その後20年もの間、秀吉は多くの側室を置きながらも実子に恵まれなかったわけで、それが、50歳を過ぎて得た側室・茶々が懐妊したというニュースは、その当時、民の間で生じ始めていた豊臣政権に対する不平不満も相まって、いろんな憶測を呼んだようです。茶々の腹の子は、秀吉の子種ではないのではないか・・・と。露骨な噂ですが、実際、当時そのような噂が存在していたことが、ポルトガル人宣教師・ルイス・フロイスの記述『日本史』のなかにも記されています。まあ、誰だってそう思ったでしょうね。そんななか起きたのが、今話の聚楽第落書事件でした(落首事件ともいいます)。

 大仏の功徳もあれや槍かたな 釘かすがいは 子宝めぐむ

 ささ絶えて茶々生い茂る内野原 今日は傾城 香をきそいける

当時、秀吉は京都に大仏殿を築こうとしていたといわれますが、その大仏の功徳で、子種がなかったはずの秀吉が子宝に恵まれた・・・と。これに怒り狂った秀吉は、門番17人全員を処刑します。その処刑方法は、まずをそぎ落とし、翌日にはをそぎ落とし、さらに翌日には逆さに磔して処刑したとか。残忍極まりないといっていいでしょう。

ドラマでは、容疑者となって本願寺に逃れていた尾藤道休が死んだという報せが届き、真田信繁の機転でその道休を犯人に仕立てて事態の収集を図ろうとしますが、実際には、本願寺の僧・顕如が、事態の収集のために道休を自害させ、首を差し出したといわれています。それでも秀吉の怒りは収まらず、道休の一族もろとも処刑するよう命じますが、ドラマでは、必死に秀吉を止めようとする石田三成の諫言と、北政所茶々の助け舟によって、ようやく一件落着となりました。しかし、史実ではここで終わらず、道休の一族はもちろん、道休と同じ町に住んでいた60余人犯人隠匿の罪で囚えられ、居宅を焼き払われ、磔のうえ処刑されています。その数、総計113人に及んだとか。秀吉の悪政のはじまりです。

 信繁「実のところ、あの落書は誰の仕業だったのでしょう?」

 三成「決まっておるではないか。民の仕業だ。大勢の民が殿下に対して、同じ思いを抱いた。それがあの落書になったのだ。」

落書の真犯人を特定しても何も解決しない。要は、落書を生んだ背景が何であるかが大事で、それは「世論」である・・・と。その世論の支持がなければ、豊臣政権は立ち行かないということを、三成は知っていたんですね。一昨年の『軍師官兵衛』のときの三成であれば、ここでチマチマと真犯人探しをしそうですが、今回の三成は、優れた政務官のようです。

 寧 「せめてもの罪滅ぼしです。京と大坂の人たちが喜んでくれる事を何でもよい、考えて下さいな。」

三成「かしこまりました」

信繁「思い切って金をばらまくというのはいかがですか?」

三成「いささか品がないな」

寧 「いや、それぐらいやった方がええ。殿下の子どもが産まれるんです。派手にまいりましょう。」

 この事件から約3ヶ月後の天正17年(1589年)5月20日、茶々の出産を前にして、秀吉は聚楽第南二ノ丸馬場で「金配り」を行います。その額、36万5千両といわれますから、現代の貨幣価値でいえば400億円以上。このバラマキ政策が、離れはじめていた民心をつかむためのものであったことは、想像に難しくありません。



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by sakanoueno-kumo | 2016-05-23 16:45 | 真田丸 | Comments(0)  

大和国、郡山城跡を歩く。 その4 「本丸(毘沙門郭)」

追手門向櫓の南側は、「毘沙門郭」と呼ばれていました。

もともとは「本丸ニの郭」と呼ばれていましたが、柳沢吉里入城以降に「毘沙門郭」と改名したそうです。

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毘沙門郭にある「久護門跡」です。

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毘沙門郭から見た「追手向櫓」です。

この櫓は、追手門を守るために置かれた櫓で、柳沢氏の前の本多氏時代には、「大手先艮角櫓(おおてさきうしとらすみやぐら)」と呼ばれていたそうです。

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毘沙門郭は現在庭園になっていて、中央にあずまやがあります。

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毘沙門郭に建つ「柳沢文庫」

郡山藩最後の藩主となった柳沢保申が建てた迎賓館で、現在は柳沢家に伝わる藩や城に関する古文書や絵図、文化作品などが展示されておいます。

中は撮影禁止だったので紹介できませんが、この日は夏真っ盛りの猛暑日だったので、冷房が効いた館内でしばらく涼みました(笑)。

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毘沙門郭西側にあったという「極楽橋跡」です。

かつてここに、本丸主郭と毘沙門郭を結ぶ「極楽橋」があったそうです。

現在、この極楽橋を復元する案があるとか。

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その極楽橋が架かっていたとされる堀です。

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現在、毘沙門郭と主郭を結ぶ通路は、この門だけとなっています。

次回は主郭に入ります。




大和国、郡山城跡を歩く。 その1 「二の丸」

大和国、郡山城跡を歩く。 その2 「天守台」

大和国、郡山城跡を歩く。 その3 「本丸(法印郭)」

大和国、郡山城跡を歩く。 その5 「本丸(主郭)」
大和国、郡山城跡を歩く。 その6 「三の丸・外堀」


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by sakanoueno-kumo | 2016-05-19 17:42 | 奈良の史跡・観光 | Comments(2)  

大和国、郡山城跡を歩く。 その3 「本丸(法印郭)」

郡山城の本丸は、堀を挟んで天守台のある西側と、法印郭、毘沙門郭のある東側に分かれます。

本稿では、城跡東側から本丸に向かいます。

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本丸東側の石垣です。

ここも「野面積み」ですね。

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写真は昭和62年(1987年)に復元された「追手向櫓」です。

青空に映えて美しいですね。

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その追手向櫓に繋がっているのが「追手門」、別名、「一庵丸門」とも「梅林門」とも言うそうです。

天正13年(1585年)8月、豊臣秀長が入城したときに、この場所に築かれたといわれますが、慶長20年(1615年)4月26日に起きた大坂夏の陣の前哨戦、郡山城の戦いの際に焼失。

その後、元和4年(1618年)に松平忠明が入封したとき再建され、「一庵丸門」と呼ばれたそうです。

更に時を経た享保9年(1724年)、柳沢吉里が入城した際、「梅林門」と名を変えました。

やがて明治に入って全ての建物が取り壊されましたが、昭和58年(1983年)に市民の寄付などにより復元されたそうです。


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外側から見た追手門。

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追手門側から見た「追手向櫓」です。

内枡形構造になっています。

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内側から見た追手門です。

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「法印郭跡」です。

写真は明治時代に建てられた旧奈良県立図書館跡で、現在は市民会館となっており、県指定の文化財になっています。

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法印郭南東隅にある、「追手東隅櫓」です。

こちらも、昭和59年(1984年)に復元されたものだそうです。

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かつては、「法印斜曲輪巽角櫓(ほういんななめのくるわたつみすみやぐら)」と呼ばれていたそうですが、柳沢吉里が入城した際、現在の名称になったそうです。

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豊臣秀長の時代、ここ法印郭に筆頭家老の桑山一庵法印良慶の屋敷があったとされ、法印曲輪または一庵丸と呼ばれるようになったそうです。

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鉄砲狭間が6ヶ所あります。

次回は法印郭の南に位置する毘沙門郭

をめぐります。



大和国、郡山城跡を歩く。 その1 「二の丸」

大和国、郡山城跡を歩く。 その2 「天守台」

大和国、郡山城跡を歩く。 その4 「本丸(毘沙門郭)」

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大和国、郡山城跡を歩く。 その6 「三の丸・外堀」

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by sakanoueno-kumo | 2016-05-18 17:32 | 奈良の史跡・観光 | Comments(0)  

真田丸 第19話「恋路」 ~信幸・小松姫の縁談と、淀殿の側室入り~

 大坂にて豊臣秀吉から徳川家康の与力となるよう命じられた真田昌幸は、その帰国の途次、家康の居城である駿府城に立ち寄ります。天正15年(1587年)3月18日のことでした。この日を境に昌幸は徳川氏に出仕することとなり、その対価として、真田氏の領土は安堵されます。ただ、真田氏と徳川氏の関係はあくまで与力であって家臣ではなく、真田氏の立場としては、豊臣家傘下の大名として認定されています。この辺の関係がややこしいですけどね。つまり、徳川会社も真田会社も、豊臣グループの系列会社であることには違いありませんが、業務上、徳川会社の傘下で働くことになったといったとこでしょうか。

ちなみに、このとき真田氏とともに、同じく信濃国衆の小笠原貞慶木曾義昌らも、徳川氏の与力となっています。ただ、のちに小笠原氏、木曾氏は徳川氏の家臣になってしまいますが、真田氏はそうはならなかったことを思えば、豊臣政権下における昌幸の存在感は、決して軽いものではなかったといえます。

e0158128_23052141.jpg 今話で昌幸の嫡男・真田信幸本多忠勝の娘・との縁談が持ち上がりましたね。のちに小松姫(小松殿)と呼ばれる稲と信幸の結婚については、諸説あって詳らかではありません。まずはその時期についてですが、天正11年(1583年)説(『甲陽軍鑑』)、天正14年説(1586)説(『沼田記』)、天正16年(1588年)説(『沼田日記』)などがあります。今回のドラマでは、最後の天正16年(1588年)説を採るようですね。ふつうに考えれば、昌幸が家康の与力となった天正15年(1587年)以降と見るのが自然だとわたしも思います。ただ、歴史家の平山優氏の著書では、信幸が家康の与力となった天正17年(1589年)以降で、最も可能性が高いのは、天正18年(1590年)と述べておられます。どうなんでしょうね。

 また、信幸に輿入れするにあたって、家康の養女になったというエピソードですが、これも、確かな史料は存在しないようです。一説には、家康が忠勝の娘と信幸との縁談を持ちかけたところ、昌幸が難色を示したため、家康の養女として嫁がせるとして承諾したとの逸話もあります。別の説では、忠勝が信幸の武勇に惚れて縁談を申し入れたというものや、秀吉が二人の縁談を指示したという説もあります。結局のところ、詳しいことは何もわかっていないのですが、いずれにせよ、徳川氏と真田氏の親密化のための縁談であったことは間違いないでしょう。

真田家にとって、この縁談がのちの運命を大きく変えることになります。先の話になりますが、関が原の戦いのあと、昌幸・信繁父子に切腹を命じようとする家康に対して、懸命に助命嘆願を訴えたのは、信幸と、他ならぬ義父の本多忠勝でした。もし、この縁談が成立していなければ、関が原の戦いで昌幸・信繁父子の生涯は終わっていたかもしれません。その意味では、この縁談は、徳川氏より真田氏において大きな意味があったといえます。

e0158128_23062489.jpg さて、大坂では茶々が秀吉の側室となることを承諾しました。実は、茶々が秀吉の側室になった時期も、正確にはわかっていません。天正15年(1587年)に妹・お初の結婚、同年9月、聚楽第竣工、10月に「北野大茶会」で、この翌々年の天正17年(1589年)には秀吉との最初の子・鶴松(お捨)を生んでいるので、おそらく天正15年から翌年の間だっただろうと考えられます。このとき茶々は18歳、秀吉は50歳でした。

 「あの方は私が死ぬときに、日の本一幸せなおなごにしてくれると約束してくれました。言ってみたいと私は思いました」

 切ないですね。最終回、彼女はどんな台詞を吐くのでしょう。

 「おかしな話をします。私と源次郎は不思議な糸で結ばれている気がするのです。離れ離れになっても、あなたがいつかまた戻ってくる。そして私たちは同じ日に死ぬの」

 無粋なことを言うようですが、茶々こと淀殿自害したのは、信繁が討死した翌朝でした。もっとも、夜が明ける前のことだったでしょうから、「同じ日」と言っていいかもしれませんね。淀殿といえば、気の強いヒステリックな女性として描かれることが多いですが、本ドラマでは、天真爛漫に振る舞いながらも心ここにあらずといったエキセントリックなキャラとして描かれています。大蔵卿局いわく、「悲しむことをやめた」のだとか。そんな心の闇が顕になったとき、どんな淀殿が出てくるのか・・・。今後が楽しみですが、胸が痛くもあります。



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by sakanoueno-kumo | 2016-05-16 23:09 | 真田丸 | Comments(4)  

大和国、郡山城跡を歩く。 その2 「天守台」

郡山城天守台は、石垣の倒壊の恐れがあるとして、現在は立ち入り禁止となっています。

そこで、「中仕切門」から「新宅郭跡」に入り、内堀沿いに天守台を見てみます。

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天守台です。

石垣は典型的な「野面積み」で、出隅だけのちに補強された跡が見えます。

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郡山城の天守閣が築かれたのは天正11年(1583年)、豊臣秀長が大規模工事を行う前の筒井順慶のときだったそうですから、野面積みが主流だった時代ですね。

伝承では、かつてここに五層六階の天守閣があったと伝えられますが、現在の建築学上から考えて、現存する天守台では不可能とされており、その真偽は定かではありません。

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ここ郡山城は、大坂夏の陣の火蓋が切られた場所でもあります。

豊臣秀吉の死後、豊臣五奉行の一人である増田長盛が城主となりますが、長盛は関が原の戦い西軍に与したため、高野山に追放され、その後、徳川家康のはからいで、もともとの城主だった筒井氏の一族・筒井定慶1万石を与えられ、郡山城に入城しました。

大阪冬の陣が終結し、大坂城の内堀が埋め立てられ、もはや決戦やむなしとの局面を迎えると、豊臣方は郡山城を守る筒井氏に使者を送り、「豊臣家が勝利した暁には、定慶に大和を、弟の慶之には伊賀を与える」との条件で協力を要請します。

しかし、定慶は長らく途絶えていた名跡を復活させてもらった徳川家康に対する恩義を捨てきれず、申し出を断ります。
これを受けた豊臣方は、慶長20年(1615年)4月26日、2000の兵で大和に進軍してきますが、戦なれしていない定慶は、豊臣軍を3万の軍勢と見誤り、早々に城を捨てて奈良方面に落ち延びてしまいます。

その後、豊臣軍は奈良方面に進軍するかまえを見せますが、徳川軍の水野勝成隊が奈良方面に進軍しているとの報を受けると、大坂城に引き上げます。

水野勝成は戦後、その功により郡山城主となります。

一方、城を捨てて逃げた筒井定慶は、大坂城が落城してから3日後の5月10日、弟と共に切腹して果てたと伝えられます。

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天守台の裏手にが見えますが、この祠は、石垣築造の際の石不足を補うため、付近から石地蔵などをかき集めて徴用しており(この当時の築城ではよく行われていたことですが)、それらの地蔵を祀ったものだそうです。

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残念ながら立ち入り禁止で観ることはできませんでしたが、石組みの間から奥を覗き込むと、逆さになった状態で石の間に埋もれている地蔵を確認することができ、これは「逆さ地蔵」と呼ばれているそうです。(参照:Google画像検索

かつては、この逆さ地蔵の祟りで天守が倒壊した、なんて俗説もあったそうです。

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天守台石垣は、平成25年10月から29年3月まで3年半かけて修復工事を行うそうです。

当分の間は立ち入り禁止のようですね。

でも、石垣保存のためには、必要な期間だと思います。

同じく野面積みの石垣で昨今人気の兵庫県朝来市にある竹田城は、急激な観光客の増加で踏み荒らされたため、地面の草が枯れ、雨水がたまった土が膨張し、石垣が崩壊の危機にあるといいますが、観光客を確保したい朝来市は立ち入り禁止などの策を施さないばかりか、あろうことか、観光客の通路確保のため、国指定の史跡にも関わらず国の許可なしで勝手に朝来市が史跡に手をいれて工事をすすめ、大問題になっていましたね。

観光誘致史跡の保存管理相反するところにありますが、やはり、優先すべきは史跡の保存管理で、その点、朝来市と違ってさすがに奈良や京都は、史跡保存に対する意識が成熟していますね。

次回に続きます。



大和国、郡山城跡を歩く。 その1 「二の丸」

大和国、郡山城跡を歩く。 その3 「本丸(法印郭)」

大和国、郡山城跡を歩く。 その4 「本丸(毘沙門郭)」

大和国、郡山城跡を歩く。 その5 「本丸(主郭)」
大和国、郡山城跡を歩く。 その6 「三の丸・外堀」

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by sakanoueno-kumo | 2016-05-13 00:52 | 奈良の史跡・観光 | Comments(4)  

大和国、郡山城跡を歩く。 その1 「二の丸」

だいぶん前になりますが、奈良県は大和郡山市にある郡山城を訪れました。

「郡山城」という名称の城は全国に複数あって混同しがちなので、便宜上ここを大和郡山城と呼んだりしますが、正式名称は郡山城です。

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郡山城の築城は天正8年(1580年)、筒井順慶が筒井から郡山に移ったときに始められ、天正11年(1583年)には天守閣が完成。

その後、天正13年(1585年)8月に、豊臣秀吉の実弟・豊臣秀長が入城。

秀長は紀伊国、和泉国、大和国の3カ国百万石の太守・大納言として、城の拡張工事を行いました。

現在のこる石垣などの遺構は、秀長時代のものだそうです。

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城跡公園北東の角にある「桜御門跡」です。

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時代を感じさせる「野面積み」ですね。

「野面積み」とは、自然石をそのまま積み上げる手法で、加工せずに積み上げただけなので石の形に統一性がなく、石同士がかみ合っていないので、隙間や出っ張りができ、敵に登られやすいという欠点がありましたが、逆に隙間があるおかげで排水性が良く頑丈でした。

主に関ヶ原の戦い以前の16世紀の城に用いられた手法です。

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城跡の東の堀に沿って近鉄橿原線が走っていて、そこから堀を挟んで「東隅櫓」が見えます。

全国金魚すくい選手権大会があるようです(笑)。

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南東の角にある「鉄御門」から城跡公園内に入ります。

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こちらの石垣も同じく野面積みです。

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まずは内堀に沿って歩いてみました。

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鉄御門跡から西へ進んだところにある「表門跡」です。

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道は石畳に整備されており、車の通行も可能です。

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本丸南西にある「中仕切門跡」です。

枡形虎口となっています。

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そのすぐ西側にある「松蔭門跡」

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ここに「松蔭郭」という曲輪があったようです。

松蔭門の北側にある松蔭池に面する石垣です。

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この石垣は、「打込み矧ぎ」に見えますね。

「打込み矧ぎ」とは、表面に出る石の角や面をたたき、平たくして石の接合面の隙間を減らして積み上げる方法で、主に関ヶ原の戦い以後に用いられた手法です。

ここは、秀長時代のものではないのかもしれません。

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更に西へ進んで「西御門跡」

ここは奈良県立郡山高校城内学舎の校門にあたります。

郡山高校といえば、かつて甲子園の常連校だった高校ですね。

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さて、次回は門の中に入ります。



大和国、郡山城跡を歩く。 その2 「天守台」

大和国、郡山城跡を歩く。 その3 「本丸(法印郭)」

大和国、郡山城跡を歩く。 その4 「本丸(毘沙門郭)」

大和国、郡山城跡を歩く。 その5 「本丸(主郭)」
大和国、郡山城跡を歩く。 その6 「三の丸・外堀」

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by sakanoueno-kumo | 2016-05-12 00:49 | 奈良の史跡・観光 | Comments(2)  

真田丸 第18話「上洛」 ~真田昌幸の上洛~

 豊臣秀吉からの再三の上洛要請にもなかなか応じようとしなかった真田昌幸でしたが、天正15年(1587年)2月、ようやくその重い腰を上げました。なぜこの時期に昌幸が上洛を決断したのかはわかりませんが、秀吉は同年1月4日付で越後国の上杉景勝に書状を送り、昌幸を上洛させるよう指示しています。ドラマでは直江兼続上田城まで説得にきていましたが、たぶん、そんな上杉氏からの説得工作があったのでしょうね。前年8月の秀吉の真田氏成敗命令撤回には、景勝の力が大いにはたらいたと言われますから、その景勝の顔を立てる意味でも、ここらで観念せざるを得なかったのでしょう。

e0158128_20435306.jpg もっとも、昌幸が上洛を拒んでいたのは、意地でもかけひきでもなく、留守中の北条氏の動きを懸念してのことだったと思われます。真田氏と北条氏・徳川氏の間では、相変わらず沼田・吾妻領譲渡問題を引きずっていました。この時期、ほぼ天下統一を実現しつつあった秀吉は、「惣無事令」を発令して大名独断の戦を禁じていましたので、先に秀吉に臣下の礼をとった徳川家康からの攻撃の懸念は払拭されましたが、秀吉に屈する姿勢を見せない北条氏直は、「惣無事令」など守る気はさらさらありません。昌幸としては、北条氏の動きを封じない限り、やすやすと自領を留守にはできなかったわけです。そう思えば、このとき昌幸が上洛を決意した背景には、秀吉もしくは景勝から、留守中の北条氏牽制についてなんらかの確約がもらえでいたのかもしれません。

 上洛した昌幸が、ドラマのように秀吉から邪険な扱いを受けたかどうかはわかりませんが、家康の与力となるよう命じられたのは史実です。あるいは、上洛前からその通達が届いていたかもしれません。実はすでに、秀吉と景勝の間で、真田昌幸、小笠原貞慶、木曽義昌を家康の配下にするよう決められていました。今回の上洛は、それを昌幸に正式に命じるためのものだったわけです。昌幸にしてみれば、この命令が嬉しいはずはなく、たぶん、ドラマのような反応だったことでしょう。これまで同盟相手をコロコロと変えてきた昌幸でしたが、それはすべて自身の策略によるものだったわけで、今回はじめて、命令によって配下を鞍替えさせられたわけです。中小企業大企業下請け契約を結ぶべく挨拶に来たところ、直接は取引してもらえず、グループ会社の傘下に入るよう言い渡されたわけで、そのグループ会社というのが、かつてコンプライアンス違反で契約破棄した企業だったわけです。これからの取引を思えば、愉快なはずがありません。

 「その代わり、真田の領地は徳川が守る。北条が攻めてきても、徳川が盾となってくれる。悪い話ではなかろう?」

e0158128_20022019.jpg 昌幸に家康の与力となるよう命じた際の秀吉の台詞ですが、なるほど、これは的を射た見方かもしれませんね。のちに真田氏と北条氏の間の領土問題が、やがて豊臣軍の北条攻めに繋がっていきます。秀吉はこの時点でそこまでを描き、昌幸を家康の麾下に組み入れたのかもしれません。秀吉にしてみれば、北条征伐を視野に入れたとき、崩しておきたいのが徳川氏と北条氏の同盟関係。ここで真田氏を徳川氏の与力とすることで、北条氏が真田領に攻め込んだ場合、徳川氏は真田氏を守って北条と戦わねばならない。はじめから秀吉はそうなることを望んでいたのではないかと・・・。このあとの歴史は、秀吉の描いたシナリオどおりに進んでいった・・・と。だとすれば、秀吉の権謀術数に比べれば、昌幸も家康も赤子同然ですね。

 ちなみに、ドラマではずいぶん前から大坂入りしていた真田信繁ですが、一般的には、このとき昌幸は信幸・信繁兄弟を伴って上洛し、以後、信繁が人質として秀吉の元に残されたと推測されています。

 ちなみにちなみに、信幸・信繁の姉・お松行方不明物語はドラマのオリジナルかと思っていましたが、真田家の史料『加沢記』に記されている話だそうですね。それによれば、「本能寺の変」以降、行方不明になっていたお松と、昌幸の上洛に付き従っていた真田の郎党が偶然にお松と遭遇して昌幸に報告、感動の再開となった・・・と。もっとも、記憶喪失というのはドラマのオリジナルのようですが・・・。今年の大河は現代劇風に描かれていますが、あまり知られていない伝承レベルの話までよく調べられていますね。



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by sakanoueno-kumo | 2016-05-09 20:15 | 真田丸 | Comments(1)