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千利休ゆかりの地めぐりと、その人物像に迫る。

今週の大河ドラマ『真田丸』で、千利休が切腹しました。

同作品の千利休は、これまでの作品で描かれてきた悟りを開いた高僧のような厳かな人物像ではなく、小田原合戦において豊臣方、北条方の双方に武器弾薬を売りつけるなど、悪徳商人まがいのいままでにないキャラでしたね。

実際の利休とは、いったいどんな人物だったのか。

そこで今日は、以前に訪れた堺の利休関連史跡を紹介しながら、その人物像に迫ってみます。


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写真は大阪府堺市にある千利休屋敷跡

阪堺電車宿院駅のすぐ近くのビルとビルの間に、異質な空間として残されています。


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千利休は大永2年(1522年)、堺今市町の豪商・魚屋(ととや)の当主・田中与兵衛の長男として生誕。

幼名は与四郎といいました。

17歳のときに北向道陳に茶湯を学び、のちに武野紹鷗に師事し、「わび茶」を大成させます。

その後、茶の湯をもって織田信長に接近し、その死後は豊臣秀吉の茶頭として仕えながら、北野の大茶会を取り仕切るなど天下一の茶匠として権勢を振るいます。

しかし、小田原合戦の後、何らかの理由で秀吉の怒りにふれ、自刃して果てます。

享年70。


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屋敷跡には「椿の井」が残っています。

この井戸は、利休が産湯につかったと伝えられるものだそうで、いまなお清水が湧き出ているそうです。


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井戸屋形は利休ゆかりの大徳寺山門の古い部材を用いて建てたものだそうです。


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一般に「利休」という名で広く知られていますが、実は、その名を名乗ったのは晩年のことで、茶人としての人生の大半は「宗易」という名で過ごしています。

「利休」という名は、天正13年(1585年)の禁中茶会にあたって町人の身分では参内できないために、正親町天皇(第106代天皇)から与えられた居士号です。


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同じく堺市内にある南宗寺には、利休一門の供養塔があります。

ここは、若き利休が修行したと伝わるゆかりの寺院です。


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豊臣秀吉が千利休を切腹させたことは歴史上の事実として、過去、多くの小説やドラマで描かれてきました。

しかし、その理由については定かではなく、すべては作家独自の想像の世界なんですね。

というのも、利休という人物が注目され始めたのは意外にも最近のことで、昭和11年(1936年)に海音寺潮五郎氏が直木賞を受賞した作品『天正女合戦』の中で、初めて秀吉との関係が描かれたんだそうです。

現在では、千利休=芸術界の巨人という認識は常識ですが、海音寺氏が発掘する以前は、単なる茶坊主としか見られていなかったそうですね。

この『天正女合戦』の構想をさらに発展させた作品が、昭和15年(1940年)に刊行された同氏の『茶道太閤記』という作品で、これは秀吉と利休の対立を中心に描かれた物語だそうですが、この作品の連載当時には、「国民的英雄の豊臣秀吉と一茶坊主の千利休を対等の立場で描くとは何事だ!」という批判が多く寄せられたそうです。

現代でも、大河ドラマの設定に難癖つける自称歴史マニアがたくさんいますが、あれと同じですね。

「千利休英雄説」が定着するまでには、それなりの困難があったようです。

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海音寺氏によって描かれた秀吉と利休の対立の構図は、その後、今東光氏の『お吟さま』野上彌生子氏の『秀吉と利休』井上靖氏の『本覚坊遺文』など、多くの一流作家の作品に継承され、描かれてきました。

そのなかでも、秀吉が利休に切腹を言い渡した理由については様々で、利休の等身大の木像を紫野大徳寺の山門の2階に設置してその下を秀吉に通らせたという大徳寺木像事件や、利休が朝鮮出兵に強硬に反対したため疎んじられた・・・とか、二人の茶道に対する考え方の違いからの確執・・・とか、利休が安価の茶器類を高額で売り私腹を肥やしているという疑い・・・とか、利休の政治介入を快く思っていなかった石田三成の陰謀・・・などなど、どの説にもそれなりの信憑性はありますが、どれも決定力に欠けます。

のちの朝鮮出兵豊臣秀次を切腹させた秀吉の愚行からみて、利休の切腹が秀吉の狂気の狼煙のように描かれる場合が多いですが、はたしてそうだったのでしょうか。

最も信頼していた豊臣秀長の死から2ヵ月余りで、もうひとりの補佐役であったはずの利休を死罪に追いやるには、もっと重大な、死罪に値する理由があったのでは・・・と考えられなくもありません(たとえば、予てから秀吉に憤懣を抱いていた利休が、秀長が死んだことによって豊臣政権を見限り、諸大名を扇動して謀反を企てていた・・・とか)。

その意味では、今回の大河ドラマでの「死の商人」として暗躍していた利休なら、じゅうぶん死罪に値しますよね。

ない話ではないのかな・・・と。


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中央に利休の供養塔、左右に表千家、裏千家、武者小路家の供養塔があります。


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こちらが利休の供養塔です。


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「天正19年 利休宗易居士」と刻まれています。


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隣には、利休の師匠である武野紹鴎の墓があります。


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利休が愛した茶室「実相庵」です。


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その前庭には、利休遺愛の「向泉寺伝来袈裟形手水鉢」があります。


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結局のところ、千利休という人物については茶道千家流の始祖ということ以外はなんですね。

その人物像がどうだったのか、切腹させられた理由がなんだったのか、そもそも、豊臣政権において利休の存在がどの程度の影響力を持っていたのか、すべては想像するしかありません。

千利休=芸術界の巨人という今日の常識自体が、実は後世が創りだした虚像かもしれませんね。


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ちなみに余談ですが、ここ南宗寺には、実は大坂夏の陣で死んでいた徳川家康がここに埋葬されたという伝承があります。

以前の稿ですが、よければ一読ください。

   ↓↓↓

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その40 ~伝・徳川家康の墓(南宗寺)~




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by sakanoueno-kumo | 2016-06-29 18:11 | 大阪の史跡・観光 | Comments(0)  

真田丸 第25話「離別」 ~豊臣秀長、鶴松の死、千利休の切腹~

e0158128_19071167.jpg小田原征伐を終えて天下統一を成し遂げた翌年の天正19年(1591年)、豊臣秀吉の身の回りを立て続けに不幸が襲います。1月には最も信頼していた実弟・豊臣秀長を亡くし、2月には、これまた側近中の側近だった千利休を自らの命によって切腹させるに至り、その半年後の8月には愛息・鶴松を病で失うという、秀吉にとっては厄年のような年となります。

 秀長が病没したのは1月22日。温厚篤実な人物だったと伝わる秀長は、秀吉の数少ない一族のナンバー2として、秀吉が木下藤吉郎と名乗っていた時代から兄の片腕として働き、秀吉が天下人となってからは、から豊臣政権を支えました。そんな秀長を、秀吉は誰よりも信頼していたといい、まさに、「縁の下の力持ち」という言葉が相応しい人物だったといいます。その秀長を失ったことで、秀吉はブレーキが効かなくなった車のように暴走し始めます。その手始めが、千利休の切腹だった・・・というのが、これまでの一般的な描かれ方でした。

e0158128_19072829.jpg 秀吉が利休を切腹させたことは歴史上の事実ですが、その理由については定かではなく、これまで小説やドラマなどで描かれてきた設定も、すべて作家さんの想像の世界です。一般的には、朝鮮出兵に強硬に反対したため・・・とか、利休が安価の茶器類を高額で売り私腹を肥やしているという疑い・・・とか、紫野大徳寺の山門に置かれた利休等身大の休像が秀吉の逆鱗にふれた・・・といった描かれ方が多かったと思いますが、今回のドラマでは、小田原城攻めにおいて利休が豊臣軍、北条軍の双方に弾薬を売りつけていたことが露見するという設定でした。

「いくさは儲かりまっせ。」

 いわゆる「死の商人」ってやつですね。今も昔も、戦争を食い物にする営利団体がいる限り、戦いは世の中から消えません。今回、それを利休にやらせていたのは斬新でした。実際、堺の商家の出といわれる利休ですから、ない話ではありません。悟りを開いた高僧のようなキャラに描かれることの多い利休ですが、実は、それらの人物像というのは、すべて後世の虚像に過ぎません。今回のダーティー利休、あながち的外れでもないかもしれません。

また、利休を切腹に追いやったのは、利休をはじめ堺の商人の力を失墜させようという石田三成大谷吉継策謀という設定。これも秀逸でしたね。実際、利休の豊臣政権への影響力を、三成ら吏僚たちは苦々しく思っていたといいますから、これも、ない話ではないように思えます。それも、積極的に利休を追い込んだのは三成ではなく、吉継だったというのも面白かった。冷徹なキャラで描かれることの多い三成ですが、今回のドラマでは、加藤清正福島正則の誘いに応じて水垢離に付き合ったりと、ときおり人間味が見え隠れします。

e0158128_19074758.jpg そして同じ年の8月5日、秀吉と淀殿の愛息・鶴松が死去します。鶴松は生まれつき虚弱で床に伏すことが多かったといわれ、日本一権力を持つモンスターペアレントの秀吉は、天下の名医をかき集めて治療にあたらせ、全国の寺社に祈祷を命じますが、その甲斐むなしく、わずか2年2ヵ月の生涯を閉じます。このときの秀吉の落胆ぶりは傍目にも痛々しいもので、一説には、この悲しみを紛らわすために、無謀な朝鮮出兵に走ったともいわれます。実際、鶴松の死の直後すぐに肥前名護屋城を築き、着々と朝鮮出兵を始めとする外征に専念するようになっていきます。悲しさを紛らわすために無理矢理仕事に没頭する・・・。同じ男としてわかるような気がしますね。

 この時代、5人中3人は成人することなく死んだといわれますから、鶴松の夭逝は決して珍しい話ではありませんでしたが、鶴松の死後に始まった「文禄の役」が、この翌々年の秀頼の誕生から和議に向かったことを思えば、鶴松という一人の幼児の死が、外征と内政に与えた影響は決して小さくありません。鶴松の死は、豊臣家にとっての不幸であるとともに、日本の不幸だったといえるかもしれません。わずか2年2ヵ月しか生きていない鶴松自身が、歴史上に何かを残したということは当然ありませんが、彼が生まれたことによって歴史が大きく動いたことは間違いなく、日本史上に大きな存在感を残しました。人生というのは、つくづく長さじゃないんですね。



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by sakanoueno-kumo | 2016-06-27 19:09 | 真田丸 | Comments(0)  

山崎合戦のまちを歩く。 その4 「山崎合戦旗立松」

天王山八合目あたりに、「旗立松」と刻まれた石碑石灯籠があり、その横に松の木が植えられています。

説明板によると、山崎合戦の際に羽柴(豊臣)秀吉がここにあった老松の樹上高くに旗印を掲げ、自軍の士気を高めたと伝えられるそうです。


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当時の旗立松は明治中期ごろまでは、その姿をとどめていたそうですが、朽ちてしまったそうです。

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その後、幾度か植樹を繰り返し、説明看板には5代目とありますが、現在の松はその6代目だそうです。


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オリジナルの松は、きっと麓からも見えるほど大きな松だったのでしょう。


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すぐ横には、「山崎合戦の地」と刻まれた石碑があります。

実際には、合戦は山中ではなくで行われたんですけどね。


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こちらは裏面。




その側には、説明板があるのですが・・・。


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読めません(笑)。


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近くには、古戦場を望める展望台があります。


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木が茂ってよく見えないですが、高速道路が見えるあのあたりを境に、北に明智軍、南に羽柴軍が陣取っていました。


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展望台にある説明板です。


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『太閤記』によれば、秀吉の軍勢4万人に対し明智光秀1万6千人とあります。

夕方4時頃から始まった合戦は、わずか3時間ほどで決着がつき、軍勢に勝る羽柴軍の一方的な勝利に終わります。

その後、光秀は敗走し、落ち延びる途中、小栗栖の藪で土民の竹槍に刺されて落命します。

世に言う「光秀の三日天下」ですね。


次回に続きます。




このシリーズの記事は、こちらから。

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by sakanoueno-kumo | 2016-06-24 07:29 | 山崎合戦ゆかりの地 | Comments(0)  

山崎合戦のまちを歩く。 その3 「天王山登山道~秀吉の道陶板絵図」

宝積寺をあとにして天王山山頂を目指します。

登山道はハイキングコースになっていますので、そう苦もなくのぼれます。


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この日は昨秋10月18日の気候のいい日だったので、絶好のハイキング日和で多くの登山客とすれ違いました。


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途中の休憩所から見た天王山南側の眺望

中央の高いビルとビルの間に、かすかに大坂城が見えるとのことですが・・・。


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う~ん・・・見えるような見えないような・・・。


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登山道の道中には、頂上まで数カ所に分けて「秀吉の道」というタイトルの大きな陶板絵図が設置されています。

説明書きを見ると、堺屋太一氏の監修・解説、岩井弘氏の屏風画なんだとか。

お金かけてますねぇ。

せっかくなので、まとめて紹介しておきます。


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最初に目にしたのが、ハイキングコース最初の展望台「青木葉谷展望台」に設置された陶板絵図。

題名は「秀吉の中国大返◆勝負を決めた判断と行動◆」

わずか1週間足らずで備中高松城から引き返していた、有名な羽柴(豊臣)秀吉中国大返しが解説されています。


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続いて、ハイキングコース八合目あたりの酒解神社大鳥居をくぐったところに大きな陶板絵図が2枚。


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まずは、山崎合戦直前の各部隊のを描いた絵図。

題名は、「頼みの諸将来たらず◆明智光秀の誤算◆」

明智光秀があてにしていた諸将の援軍は来なかったという、光秀の誤算がテーマです。


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そのすぐ隣の絵図は、まさに合戦の様子を描いたもの。

題名は、「天下分け目の天王山◆勝負は川沿いで決まった◆」

前々稿でも言いましたが、天下分け目は「関ヶ原」だと思うんですけどね。


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さらに山を登って、酒解神社を過ぎたあたりにある絵図。

タイトルは「明智光秀の最後◆古い常識人の敗北◆」

たしかに、光秀はこの時代の常識人、秀吉や信長は非常識人でした。

時代を変える英雄というのは、その時代の人から見れば非常識な人じゃないとだめなんでしょうね。

秀吉に敗れた光秀は、落ち延びる途中、小栗栖の藪で土民の竹槍に刺されて落命しますが、絵図は、まさにその寸前を描いたものです。


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最後は、山頂にある絵図。

題名は「秀吉の『天下人への道』はここからはじまった」

秀吉は光秀との戦いに勝利すると、ここ天王山山頂に山崎城を築城し、大坂城に移るまでの拠点とします。

まさに、秀吉の天下への道はここからはじまりました。

陶板の堺屋氏の解説では、「秀吉のきらびやかな天下。-それはこの天王山の東側で行われた合戦からはじまったのである。」と結んでいます。


それにしても、登山道の道中にこのような立派な陶板を設置するなんて、運搬がたいへんだったでしょうね。

次回につづきます。


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by sakanoueno-kumo | 2016-06-23 00:02 | 山崎合戦ゆかりの地 | Comments(0)  

真田丸 第24話「滅亡」 ~小田原城落城~

 北条氏の居城・小田原城は、当時、関東一の規模の惣構えを誇る堅城でした。それだけに、北条氏政・氏直父子の目算に誤りが生じたといえるでしょう。特に氏政は、小田原城と支城の防衛力過信し、同時に豊臣軍の力を侮っていました。当初の氏政の作戦では、まず進軍する豊臣軍を箱根の山で防ぎ、さらに、関東一円に配置された100ヶ所以上ある支城に豊臣軍を引きつけて兵力を分散させ、そこを攻めあぐんでいるところを、小田原城の本軍が背後から攻撃するというもので、さらには、同盟関係にあった奥羽の伊達政宗の援軍や、徳川家康の離反も視野にあったといいます。そのため、小田原城には2、3年分の兵器や食料が運び込まれていました。

e0158128_21204350.jpg 籠城兵は約5万6千。その2、3年分の食料を備蓄していたということですから、その規模の大きさがわかりますね。城攻めが得意な豊臣秀吉でしたが、たとえば、かつてその秀吉が兵糧攻めで落とした三木城攻めでは、籠城兵は約7千500、支城は30ヶ所にも満たない数でした。それでも、三木城を落とすのに約2年という月日を費やしたのです(もっとも、当時、織田信長傘下の一武将に過ぎなかった秀吉と、天下統一を目前にした小田原城攻めの秀吉とでは、軍事力の違いは歴然としていましたが)。そんな経験値からか、小田原城攻めは1年から2年はかかると、秀吉自身も覚悟していた様子が当時の書簡などからもうかがえます。

 ところが、総勢20万以上の大軍を結集した秀吉は、北条氏の誇る箱根の山の堅城・山中城をあっけなく1日で落とすと、陸と海から小田原城を完全に包囲します。そのため、小田原城に籠る兵たちはどこにも援軍を出せなくなり、そして、100ヶ所以上ある北条氏自慢の支城は、援軍が期待できなくなったため兵の士気が下がり、豊臣軍の前に次々と落城していきました。

e0158128_22054082.jpg そんななか、北条氏が最も頼みにしていた伊達政宗が、小田原城を包囲する秀吉の下に屈します。政宗は、北条氏が名胡桃城を乗っ取ったときにも連絡を取り合い、出兵準備をしていたほどでしたから、氏政は伊達軍の応援を大いに期待していたんですね。しかし、秀吉としてもそんな両者の関係を捨て置くはずがなく、前田利家浅野長政を介して調略の手を伸ばしていました。両者の板挟みとなった伊達家内部では、重鎮の伊達成実は豊臣軍との合戦を主張し、正宗の重臣・片倉景綱は秀吉への恭順を唱えるなど、意見が真っ二つに分かれていました。これが、伊達家の小田原への遅参の原因でした。

 ちなみに余談ですが、正宗の重臣・片倉景綱の嫡子・重綱が、後年(たぶん最終回)、真田信繁深い縁を持つことになりますので、知らない方は覚えておいてください。

 結局、正宗は景綱の意見に従い、打首覚悟で小田原に参陣。秀吉に下りました。この事実は北条方にとっては大打撃となり、一気に戦意を萎えさせました。これが、北条氏の降伏に繋がった最大の出来事だったといっていいでしょう。秀吉はこの機を逃さんとばかりに側近の黒田官兵衛孝高を交渉役として小田原城に送り(信繁ではありません)、降伏を促します。そして、小田原城籠城からわずか3ヶ月の天正18年(1590年)7月6日、ついに小田原城は開城し、氏政とその弟で主戦論を唱えていた八王子城主の北条氏照切腹。氏直は家康の嘆願もあり死罪を免れるも、高野山へ送られました。ここに、北条早雲以来、5代、100年に渡って関東に覇を唱えた北条氏は滅亡します。

 北条氏の滅亡、伊達氏の降伏をもって、秀吉の天下統一事業はほぼ完成しました。ちなみにドラマでは、天下統一のことを「天下一統」といっていましたが、時代考証担当の黒田基樹氏の解説によれば、「天下統一」という言葉が使われだしたのは江戸時代以降のことだそうで、この時代は、「一統」といっていたそうです。なかなか、細部にこだわってますね。しかし、その天下一統が実現したときから、すでに豊臣政権は崩壊の道をたどり始めていました。



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by sakanoueno-kumo | 2016-06-20 22:08 | 真田丸 | Comments(2)  

ついに前人未到のピート・ローズ超え!祝、イチロー選手の偉業達成!

イチロー、とうとうやりましたね!

ピート・ローズ超え!

今朝起床したら、いきなりスマホの速報でローズ氏の記録に並んだと知り、会社に着いてPCを立ち上げたら、9回の最終打席で記録を塗り替えたと知りました。

日米通算4,257安打

かつて米国ではピート・ローズの持つ歴代最多安打記録4,256本を評して、「向こう100年破られることはないであろう」と言われていましたが、15年前にイチロー選手が渡米して、いきなり初年度に242安打を記録したときから、われわれ日本のファンは、「ひょっとしたらピート・ローズ超えも夢ではないかも」と、期待に胸を膨らませました。

それが、今日、現実のものとなったわけです。

つくづくスゴイやつですね。


まだ映像を見てないので報道だけの情報ですが、新記録達成の瞬間、敵地ながらスクリーンでイチローの偉業が紹介され、スタジアム全体がスタンディングオベーションだったとか。

日米通算記録が米国でどれほど注目されていたかがわかりませんが、こういう報道を聞くと、日本人ファンとしては喜ばしいかぎりです。

ただ、あちらでは、日米通算記録を記録として認めるべきという意見と、認めるべきではないという意見で、世論は大きく分かれているとも聞きます。

まあ、でもこれは仕方がないでしょうね。

そもそも別の土俵で積み上げた数字を、同じ土俵で比べようっていうのが無理な話で、ましてや、MLBNPBのレベル差を考えると、日本での1,278安打が低く見られてもやむを得ないかもしれません。

かつて王貞治氏が持っていたシーズンホームラン記録55本を、韓国プロ野球リーグのイ・スンヨプ選手が塗り替えてアジア記録となったとき、「オイオイ、それは違うだろう!」と、日本人側からすれば思いたくなりましたからね。


ただ、ファン心理はやむを得ないとしても、ピート・ローズ氏本人が、イチロー選手の記録を認めない旨の発言をしておられるようで、それはちょっと残念ですよね。

イチロー選手の記録に敬意を払って称賛してこそ、ローズ氏自身の価値も上がるってもんでしょう。

これって、日本人的感覚なのかな?


ちなみに、ピート・ローズ氏とイチロー選手の4,256安打のスピードを比較すると、ローズ氏の15,861打席に対してイチロー選手は14,331打席と、イチロー選手の方が1,500打席以上速く達成していますし、MLBだけの数字を比較しても、イチロー選手の現時点の安打数2,977本を比較して、600打席以上イチロー選手のほうが速く到達しています。

この数字だけを見ても、イチロー選手がローズ氏に決して劣っていないことは歴然としています。

NPBとMLBの試合数の違いを考慮すれば、もし、イチロー選手が最初から渡米していれば、記録達成はもっと速かったのではないか、という想像もしたくなりますよね。


もちろん、それはあくまで「もしも」の世界であって、もしイチロー選手が日本での実績がない状態で渡米しても、指揮官の目にとまることなく埋もれていたかもしれませんから、そういった想像はナンセンスといえます。

でも、それを言い出せば、同じMLBの土俵でも、現代のイチロー選手と30年以上前のローズ選手、さらには、100年以上前タイ・カッブ選手とでは、ボールもバットも、相手投手のレベルも野球の質も、条件がすべて違うわけですから、時代の違う選手の数字を比較すること自体に意味がなくなります。

つまりは、数字の記録というのは、ひとつの指標であって優劣を決めるものではない。

かつての大選手と比べてどうこうというのではなく、積み重ねた偉大なる業績を称えるという観点でいえば、日米通算であっても米国だけであっても関係ないんじゃないでしょうか。

だって、誰もやったことがないんですから。


「小さいことを重ねることが、とんでもないところに行くただひとつの道」


2004年、メジャー年間最多安打記録を84年ぶりに更新したときのイチロー選手の言葉です。

次は、あと21本に迫った史上30人目となるメジャー通算3,000本安打

その次は、どんな「とんでもないところ」にわたしたちを連れて行って切れるのか、楽しみはつきません。



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by sakanoueno-kumo | 2016-06-16 16:28 | プロ野球 | Comments(2)  

舛添要一東京都知事の政治資金私的流用問題に思う、民無信不立。

政治資金私的流用問題で連日「針のむしろ」となっていた舛添要一東京都知事が、ようやく辞意を表明したようですね。

まあ、当然の結末ではないでしょうか。

一部では、新たな知事選にかかる何十億もの無駄な支出を思えば、舛添さんの横領額なんてたかが知れた額で、辞職は不要だといった意見もありましたが、こんなものを損得勘定で語るべきではないでしょう。

「民信なくんば立たず(民無信不立)」

「人民に政治が信頼されなければ、国は成り立たない」という孔子の言葉です。

これを許して、このあと真っ当な都政が成り立つはずがありません。


東京都知事は前任の猪瀬直樹氏から2代連続して「政治とカネ」問題で辞職に追い込まれましたが、猪瀬さんの方が額はデカかったかもしれませんが、やったことは猪瀬さんの方が百倍マシだとわたしは思います。

だって、猪瀬さんの場合は、いわゆる選挙資金を不正に受け取ったわけで、つまりは、選挙にはそれだけ金がかかるってことが問題で、私利私欲に走ったわけではないでしょ。

舛添さんの場合は、ピザの本やら家族旅行やら中国服やら、まぁぁぁ、公私混同も甚だしいというか、誰かが言ってたとおり、あまりにも「セコい」

これは「政治とカネ」問題ではありません。

政治とは一切関係なく、単なる「ネコババ」です。

軽蔑というか、失笑というか、やってることは、あの野々村竜太郎元兵庫県議と同じですからね。

猪瀬さんと舛添さんでは、不正の質がまったく違う。

ファーストクラススイートルームがどうこうって言ってたあたりまでは、許せたんですけどね。

ただ単に、庶民感覚からずれた人ってな感じで。

でも、そのあと出るわ出るわで、もうウンザリでした。


ただ、少しだけ舛添さんを擁護するとすれば、彼は本当はもっと早く辞めたかったんじゃないですかね。

でも、いろんなしがらみがそれを許さなかった。

ところが、事態の悪化を見て、彼に続投を強要していた勢力までもが不信任決議案に賛成する姿勢を見せ、はしごを外されたかたちで今日の辞意表明に至った、と。

まあ、それも自業自得と言ってしまえばそれまでですが、まな板の上の鯉状態だったであろうこの数週間は、しんどかったでしょうね。


これで都政の混乱は沈静化するでしょうが、舛添さんの問題が解決したわけではなく、辞めたあとは、裁きは法廷の場に移るでしょう。

もう、政治家としての復帰は難しいでしょうし、何のしがらみもなくなるわけですから、せめて法廷では素直に罪を認めてほしいですね。

でないと、ほんとに野々村元県議と一緒になっちゃいますよ。



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by sakanoueno-kumo | 2016-06-15 21:29 | 政治 | Comments(0)  

真田丸 第23話「攻略」 ~東山道軍の進軍~

 天正18年(1590年)3月、豊臣秀吉は総勢23万という大軍を引き連れ、北条氏政・氏直父子の居城・小田原城に向かいました。一方の北条軍は、小田原城に惣構を築いて迎え撃つ体制を整えます。かつては上杉謙信武田信玄ですら落とせなかった難攻不落の小田原城。兵糧武器弾薬は豊富に備蓄され、100ヶ所以上ある支城とのネットワークを活用すれば、豊臣軍とて跳ね返せる自信があったのでしょう。しかし、九州も平定して天下統一目前の豊臣軍は、これまでの敵とはすべてにおいて桁違いでした。


 豊臣軍は北条攻めの軍勢を大きく2つに分けます。ひとつは、秀吉本隊とともに東海道を進軍する主力軍20万で、もうひとつは、前田利家軍、上杉景勝軍を中心とする東山道軍3万5千。ドラマで描かれていたように、徳川家康の与力である真田昌幸は、本来であれば家康とともに東海道軍に加えられるはずでしたが、石田三成が示した陣立てでは、北国勢に組み込まれます。その理由は、ドラマのように家康が信用出来ないから・・・ではなく、碓氷峠から上野国という真田家本領をルートとしていたからでしょう。


 北国勢における真田軍の活躍があまり描かれなかったので、ここで簡単に追っていきます。


e0158128_23584558.jpg 東山道における北条方の防衛拠点は、碓氷峠の山麓にある松井田城でした。上野方面では、松井田城の背後には、氏政の弟・北条氏邦が守る鉢形城、そしてその支城となる箕輪城、さらに、秀吉の裁定により真田家から奪った沼田城があります。昌幸らは、まずはその重要拠点である松井田城を攻めます。しかし、城代・大道寺政繁の守りは堅く、攻城は約1ヶ月に及びました。このとき、事前に物見に出た真田信幸の部隊が敵の部隊と戦闘になり、敵将の首を上げる武功をあげたと伝わります。


 4月20日に松井田城を落として勢いに乗った真田軍ら北国勢は、箕輪城調略によって4日間で落とし、さらに他の軍と合流し、鉢形城を攻め、6月14日に落とします。城主の北条氏邦は前田家に預けられ、のちに金沢で死去します。


 箕輪城、鉢形城と、味方の兵の損傷を避けて調略で城を落としましたが、その手緩さに秀吉が怒り、次の八王子城攻めでは見せしめとして徹底的に叩くように命じられます。八王子城は北条家内では第一の実力者であった北条氏照の居城で、北条家にとっては小田原城に次ぐ重要拠点でした。このとき氏照は小田原城に籠城していたため不在でしたが、秀吉は、この八王子城を力で落とすことが、小田原城の戦意喪失に繋がると考えたのでしょう。従来の前田、上杉、真田ら東山道軍にさらに援軍を加え、総勢5万もの大軍を投入します。そのため、八王子城はわずか1日で落城。このとき豊臣軍は、降伏する者も容赦なく斬り捨て、女、子どもに至るまで、すべて大虐殺します。


 翌日には、討ち死にした武将たちのたくさんの首が小田原に届けられ、小田原城から見えるように晒されました。その中には、小田原城に籠る兵たちの妻子の首も数多くあったとか。惨いですね。さすがの氏照も、この仕打ちには声を上げて号泣したと伝えられます。


 いままで数々のドラマで北条征伐が描かれてきましたが、この「八王子城攻め」が描かれることはあまりありませんね。今回のドラマでも、やはりスルーでした。日曜8時の家族団らんの時間帯にはあまり相応しくないヘビーな内容ですが、虚構の正義を掲げた安っぽい反戦を描くよりも、こういった惨たらしい歴史的事実を描くほうが、戦争の愚かさというものを大いに喧伝できると思うんですけどね。


e0158128_21314160.jpg ドラマでは、苦戦する忍城攻めに業を煮やした石田三成が、後から司令官として現地入りし、上杉や真田ら諸将の不手際を責めて鉢形城と八王子城攻めに向かうよう指示していましたが、史実では、忍城攻めの司令官は最初から三成で、時系列から考えると昌幸たちは八王子城攻めのあと、忍城攻めに加わったと見るのが正しいと思われます。この忍城攻めは、映画『のぼうの城』でも描かれていましたが、小田原城の支城の中で唯一最後まで落城しなかった城で、三成の面目が丸つぶれとなった戦いとして知られます。


 ちなみに、この北条征伐が真田信繁初陣だったと言われ、秀吉の許しを得て北国勢の真田軍に同行したと描かれる場合が多いのですが、実際には、それを証明する確かな史料はないそうです。それもあってか、今回のドラマでは、秀吉の馬廻り衆として父・兄とは別行動でした。これは、じゅうぶんにあり得る話だと思います。しかし、北条との交渉の使者として小田原城に入るというのは、もちろん史実ではありません。もっとも、徳川家康が家臣を城内に入れて北条氏直と交渉していたことは史実なので、その役目を、主人公である信繁にやらせたということでしょう。


 ちなみにちなみに、小田原征伐に欠かせない「石垣山一夜城」の逸話は、今回はやらなかったですね。今年の大河は、「本能寺の変」「山崎合戦」といった、真田家が直接関わっていない誰もが知っているエピソードは描かないといった方針のようですね。それ自体は良いと思うのでうが、であれば、今話で八王子城攻めを描いて欲しかったんですけどね。



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by sakanoueno-kumo | 2016-06-13 21:32 | 真田丸 | Comments(2)  

山崎合戦のまちを歩く。 その2 「大念寺~宝積寺」

登山口からしばらく急な坂道を登っていくと、これまた急勾配の石段があります。

ここを登ったところに、大念寺という小さなお寺があったので、立ち寄ってみました。


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大念寺は弘治元年(1555年)、この地に住む井尻但馬守長助が、京都知恩院徳誉光然上人を開山として建立したお寺だそうです。

本尊には「阿弥陀如来立像」(国指定の重要文化財)があるそうですが、拝観するには予約が必要だそうで、この日は見送り。


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小さな鐘楼があります。


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かつては力のあったお寺だったそうですが、元治元年(1864年)の「禁門の変」の際、長州藩士の一部が大念寺に布陣していたことで巻き込まれて焼失し、再興されたのは明治12年(1879年)になってからだったそうです。

当時、山崎地区は長州藩の屯所となっていました。


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大念寺からさらに坂を登ると、宝積寺という広い敷地を持つ立派な寺院があります。


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山門に立つ金剛力士像は鎌倉時代のものだそうで、重要文化財指定されています。


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山門から一直線にのびる参道の右側には、桃山時代の建築で重要文化財の三重塔があります。


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その側には、「豊臣秀吉一夜之塔」と書かれた立て札がありました。

なんでも、山崎合戦で明智光秀を討った羽柴(豊臣)秀吉が、その勝利を記念し、一夜で建立した塔なんだとか。

そんなわけないやろ!・・・と言うのは無粋というもの。

墨俣一夜城といい石垣山一夜城といい、秀吉は一夜で仕事を済ませる達人なんです(笑)。


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宝積寺は、奈良時代に聖武天皇が僧・行基に命じて建立したといわれる由緒ある古寺です。

この近くには、同じく行基が建てたと伝わる「山崎院」跡もあり、王山周辺は行基にゆかりの深い地なんだそうです。

ただ、宝積寺は貞永元年(1232年)の火災で行基時代の建造物はすべて焼失しており、現存する仏像等は、すべてそれ以降のものだそうです。


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天正10年(1582年)の山崎合戦では、ここに秀吉の本陣が置かれました。

その後、秀吉は天王山の山頂に山崎城を築城し、大坂城に移るまでの拠点としますが、その際、ここ宝積寺も城郭の一部として取り込まれたため、「宝寺城」とも呼ばれたそうです。


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「秀吉の出世石」だそうです。

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何の変哲もないただの石ですが、秀吉はこの石に座して天下統一を考えたんだそうです。

座るだけで史跡になっちゃう秀吉です(笑)。


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時代は進んで幕末の「禁門の変」の際には、尊皇攘夷派真木和泉を始めとする十七烈士らの陣地が置かれた歴史があり、また、大正4年(1915年)には夏目漱石がここを訪れ、「宝寺の隣に住んで桜哉」の句を詠みました。

1300年近く、ずっとこの地に歴史を刻んできたお寺なんですね。


次回に続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2016-06-10 00:23 | 山崎合戦ゆかりの地 | Comments(4)  

山崎合戦のまちを歩く。 その1 「天王山登山口」

「ここが勝負の天王山」という言葉がありますよね。

ここ一番の勝負どころのことを「天王山」と表現して、スポーツの実況放送などでよく使われていますが、このたとえの由来が、羽柴(豊臣)秀吉明智光秀が激突した山崎合戦であることは周知のところだと思います。

「本能寺の変」で主君の織田信長を討った光秀が、備中高松城から猛スピードで帰ってきた秀吉に討たれた戦いで、この敗北によって、いわゆる「光秀の三日天下」となってしまったわけですね。

一方の秀吉は、この戦いを制したことで一気に天下人への階段を上ることになるのですが、この山崎の戦いを有利にすすめるうえでの要所となったのが、山崎地区にある標高270.4mの天王山だったことから、勝負のヤマ場のことを「天王山」と言うようになりました。


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天王山は、現在の京都府大阪府府境に位置しますが、その昔も、山城国摂津国国境でした。

関西の人にとっては、名神高速道路の天王山トンネルとして耳馴染みの地名だと思いますが、実はわたし、関西に住む歴史好きを自称しながら、これまで天王山を訪れたことがなかったんです。

で、過日、思い立って天王山を登ってみました。


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JR山崎駅を降りて北へ向かいます。

歴史的に有名な山崎という地名ですが、駅は小さくてローカル感いっぱいです。

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駅前には、秀吉のシンボル「千成瓢箪」の馬印をデザインしたオブジェがあります。


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周辺観光マップです。

左端にサントリー山崎蒸溜所という場所がありますが、洋酒の好きな方はご存知だと思いますが、ここ山崎はサントリーウイスキー「山崎」の発祥の地でもあります。


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踏切の向こうに見えるのが登山口です。

前のリュックを背負った外国人のお姉さんも、天王山の登山客でした。


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登山口です。

写真では伝わりにくいかもしれませんが、かなりの急勾配です。


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「歴史街道百選」だそうです。


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「天下分け目の天王山」って、「天下分け目の関が原」と混同してません?

たしかに山崎合戦は歴史のターニングポイントではありますが、「天下分け目」という表現はちょっと違うような・・・。

やっぱ、「ここが勝負の天王山」のほうがニュアンス的にしっくりきますよね。


次回へ続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2016-06-08 23:43 | 山崎合戦ゆかりの地 | Comments(0)