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山崎合戦のまちを歩く。 その13 「勝龍寺城跡 ~後編~」

勝龍寺城本丸跡は東西120m、南北80mの長方形で、現在は庭園として整備されています。


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向こうに人物像が2体見えます。


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像は細川藤孝の嫡子・細川忠興と、その妻・玉(ガラシャ)のものでした。

ふたりは勝龍寺城で盛大な結婚式を挙げ、天正8年(1580年)に丹後国宮津に移るまでの2年間、新婚生活をこの地で過ごします。


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15歳どうしの結婚でしたが、わずか2年の間に2人の子宝に恵まれます。

宮沢保浅井雪乃ですね(←これ、わかる人はわたしと同世代かな?)。


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しかし、ふたりが幸せだったのはつかの間

天正10年(1582年)に玉の父である明智光秀「本能寺の変」を起こして自らも滅んだため、忠興は「逆賊の娘」となった妻を丹後国の味土野に幽閉します。

その後、羽柴秀吉の執り成しもあって、玉は細川家に戻されますが、その頃から心の拠りどころをキリスト教に求め、洗礼を受けてガラシャと呼ばれるようになりました。


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管理棟内にある忠興とガラシャの肖像画です。

ガラシャは絶世の美女だったと伝えられます。

そのせいか、忠興のガラシャに対する愛情常軌を逸していたといわれ、玉の美しさに見とれた植木職人を手討ちにしたとか、玉のキリスト教信仰に影響を与えた侍女の鼻をそいだとか、異常といえる妻への愛情が伝えられます。

そして、慶長5年(1600年)の「関が原の戦い」の際は、大坂玉造の細川屋敷にいたガラシャは石田三成人質になることを拒み、壮絶な最期を遂げます。

忠興はその後も半世紀近く長寿しますが、ガラシャが幸せだったのは、ここ勝龍寺城で暮らした新婚時代だけだったといえるでしょうね。


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本丸南西の土塁上から、天王山が見えます。


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同じ場所から見下ろした南側の堀です。


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本丸の西側には、「沼田丸」という曲輪跡があります。

かつてここには、細川藤孝の妻の実家であった沼田氏の屋敷があったのではないかと伝えられているそうです。


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話を山崎合戦に戻して、一時、勝龍寺城に逃げ込んだ光秀でしたが、羽柴軍の追撃を受けて同城を脱出、自身の居城である坂本城に落ち延びる途中、小栗栖の藪で土民の竹槍に刺されて落命します。

光秀にとって勝龍寺城は、まさに「最後の砦」でした。


次回に続きます。





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by sakanoueno-kumo | 2016-07-29 16:06 | 山崎合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

山崎合戦のまちを歩く。 その12 「勝龍寺城跡 ~前編~」

前稿で紹介した恵解山古墳から北東へ500mほどのところに、勝龍寺城跡があります。

山崎合戦において羽柴秀吉に敗れた明智光秀は、一時、ここ勝龍寺城に逃げ込んだと伝えられます。

当時、勝龍寺城には光秀の三女・玉(ガラシャ)が嫁いでいました。


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応仁・文明の乱頃から、寺院としての勝龍寺が臨時的なとしてしばしば使われていたようですが、恒常的な城として確実な史料が残されているのは、元亀2年(1574年)に織田信長が京都の防御拠点として細川藤孝に勝龍寺城の普請を命じたことに始まります。

「幽斎」の雅号で知られる藤孝は、肥後細川家の中興の祖と言われる人物で、あの細川護熙元総理大臣のご先祖さんとして有名ですね。

藤孝は光秀との親交が深く、一説には、藤孝と信長を引き合わせたのも光秀だったといいます。


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現在の勝龍寺城は、昭和63年(1988年)から発掘調査が行われ、平成4年(1992年)に勝龍寺城公園として蘇ったものです。

発掘調査の結果、穴太積の石垣枡形虎口など、のちの安土城大坂城など織豊時代の城郭に見られる特徴の先行的城郭だったことがわかったそうです・・・と、現地のボランティアで解説されていたご老人がおっしゃっていました。


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現在公園として整備されているのは、本丸跡と西側の沼田丸跡です。

本丸跡の周辺は、で囲われています。


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本丸を囲む土塁の上に石垣を積んだを作り、角の隅櫓と連結して守りを固める構造の建物を「多聞櫓」といいますが、これも、確認された遺構としては、ここ勝龍寺城が最古なんだそうです。


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南門です。

枡形虎口になっています。

「枡形」とは、出入り口の通路を直角に曲げて、大軍が侵入しづらく考えられた設計のことを言います。


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城門の向こうに見えるのは、模擬天守(櫓?)です。


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天守が存在していたことは間違いないようですが、文書の史料しかなく、復元はできません。

現在の建造物は、あくまで模擬です。


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こちらは北門跡

やはり、枡形になっています。


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外側から見た北門跡です。


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北門跡の側には、発掘調査の際に石垣跡から多数出土した石仏五輪塔が祀られていました。

当時、石垣にそれらの石材を使用することは、珍しくありませんでした。


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やっぱ、城跡レポートは長くなっちゃいますね。

もう一回、勝龍寺城の続きをやります。




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by sakanoueno-kumo | 2016-07-28 14:17 | 山崎合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

真田丸 第29話「異変」 ~秀吉の認知症説と慶長伏見地震~

e0158128_20022019.jpg 豊臣秀吉が急激に老いはじめましたね。秀吉の晩年の病状については様々な説がありますが、今回のドラマでは、どうやら認知症を患っている様子です。秀吉が認知症だったのではないかという見方は実際にあって、その説によれば、ドラマで描かれていた失禁も、その症状のひとつだとされます。他にも認知症の症状として、千利休の死後数年経ってからの秀吉の書簡のなかに、「昨日、利休の茶にて御膳も上がり、面白く芽出度く候まま、御心易く候べく候」と書かれていることや、伏見城築城に際しても、普請役の前田玄以宛の書簡のなかで、「伏見の普請の事、利休に好ませ候て、懇ろに申し付けたく候」と、伏見城を利休好みで設計せよと命令していることなどがみられ、これらを秀吉が認知症を患っていた証拠としています(別の見方では、この書簡は利休を殺してしまったことへの後悔の念とするのが一般的です)。認知症だったと考えれば、晩年の秀吉の奇行が、すべて説明がつくというんですね。


 この説に従えば、この翌年から始まる「慶長の役」も、認知症が原因だったことになります。だとしたら、大名たちはたまったもんじゃなかったでしょうね。「認知症」という医学的見地は当時なかったにしても、「老人ボケ」という症状は当時の人も認識していたはず。もし、認知症説が事実なら、石田三成ら奉行衆が秀吉を制止したと思うんですけどね。


 慶長伏見地震が起きたのは文禄5年(1596年)閏7月13日。子の刻と伝わりますから、深夜0時前後の人々が寝静まった時間帯でした。地震の規模は六甲・淡路島断層帯を震源としたマグニチュード7以上と推定されているそうで、その約400年後の平成7年(1995年)1月17日に起きた阪神・淡路大震災によく似た地震だったと考えられているそうです。なんでも、その阪神・淡路大震災は、慶長伏見地震で破壊された六甲・淡路島断層帯における地下深くの滑り残しが原因で発生したとする説が発表されたのだとか。ということは、阪神・淡路大震災は慶長伏見地震の余震?・・・まあ、地球規模でみれば、400年なんて一瞬の時の流れなのかもしれませんが、つくづく、日本の歴史というのは地震と背中合わせなんですね。


慶長伏見地震による死者1000人を超えたといわれ、完成したばかりの伏見城天守もこの地震により倒壊し、城内だけで600人が圧死したと伝えられます。ドラマで、伏見城普請中の真田昌幸が本丸近くの木幡山出城を置くというアイデアを出していましたが、実際には、震災後に再建された伏見城の場所が木幡山になります。これが、現在、伏見桃山城公園として模擬状があるところですね。


一方、慶長伏見地震によって倒壊した最初の伏見城は、木幡山の南西にあったとされていましたが、地震後すぐに埋め立てられたため、その所在すらはっきりしない伝説の城でした。ところが、平成27年(2015年)、京都市伏見区桃山町のマンション造成地から石垣や多数の金箔瓦片が出土し、最初の伏見城の存在が正式に確認されたそうです。2015年といえば、豊臣家が滅びてちょうど400年の節目の年。偶然とはいえ、何かの縁を感じますね。ちなみに、便宜上、最初の伏見城を指月伏見城といい、震災後の再建された伏見城を木幡伏見城と呼びます。倒壊した指月伏見城は、聚楽第に勝るとも劣らない絢爛豪華な城だったといいます。


 この地震をきっかけに、元号は「文禄」から「慶長」へ改元されました。この慶長は20年続き、このドラマのクライマックスとなる大坂夏の陣が慶長20年(1615年)に起こり、そのすぐあとに「元和」に改元されます。いよいよ物語は、そんな慶長年間に突入します。



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by sakanoueno-kumo | 2016-07-25 19:52 | 真田丸 | Trackback | Comments(8)  

山崎合戦のまちを歩く。 その11 「明智光秀本陣(境野1号墳・恵解山古墳)」

石碑のある公園から北東へ500mほど歩いたところに、山崎合戦において明智光秀本陣を布いたと考えられている場所があります。


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『太閤記』の記述に、光秀の本陣は「御坊塚」に布かれたとありますが、その「御坊塚」というのが、かつてこの地にあった境野古墳群のなかの境野1号墳と推定されているそうです。


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現在、古墳はサントリーの工場敷地内になっており、中には入れません。

フェンスの外に、説明看板が建てられているだけです。


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ただ、その横には墓地があり、そこにはかなり古い墓石や祠がありました。


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地蔵はいつの時代のものでしょう・・・あるいは、合戦を知っているかもしれませんね。


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また、光秀本陣と考えられているもうひとつの説として考えられているのが、境野1号墳から500mほど北上したところにある恵解山古墳(いげのやまこふん)です。

こちらは大山崎町のお隣の長岡京市になります。


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もともと、2つの説があって結論をみていなかったそうですが、平成23年(2011年)の発掘調査で、火繩銃の玉や、兵が駐屯するために古墳を平らに整形した曲輪の跡、幅4~5m、深さ約2mで、49mにわたる堀跡などが見つかったそうで、現在では、こっちの説のほうが有力になりつつあるようです。


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全長120m、後円部径60m、高さ8m、前方部幅55m、高さ6.5mの前方後円墳で、幅30mの周濠を持ちます。

陣城(付城)として使用するには、最適な大きさなんじゃないでしょうか。


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現在は史跡公園として整備され、市民憩いの場となっています。


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すぐ北側にある歩道橋から撮影した眺望です。


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歩道橋には、古墳及び山崎合戦を紹介する説明板がありました。


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墳丘の上から見た天王山です。

いまは建物がひしめき合っていますが、当時は、ここから天王山の麓までが開けていて、合戦の舞台になりました。

光秀はこの地で、次々に敗走する自軍の兵を見ながら、何を思っていたでしょう。

次回に続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2016-07-22 18:16 | 山崎合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

山崎合戦のまちを歩く。 その10 「山崎合戦古戦場碑」

名神高速道路の大山崎インターチェンジを降りてすぐのところに、「山崎合戦古戦場碑」があると聞いてやってきました。

当時の合戦図を検証すると、ちょうどインターチェンジあたりを境に、明智光秀軍と羽柴秀吉軍が対峙していたと考えられているそうで、その中心あたりに近年石碑を建てたとか。


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で、現地に足を運んでみたのですが、なかなか石碑が見つからない。

ネットの情報では、大山崎中学校の校門付近に建っているとのことだったのですが・・・。


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学校の周りをいくら探しても見当たらず、途方にくれていたのですが、ふと、道路を挟んで西側にある高速道路の高架下に、「天王山」と書かれたが目に入り、行ってみることに・・・。


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やっと石碑が見つかりました!

どうやら、ここに移設されていたみたいですね。


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ここは「天王山夢ほたる公園」という名称で、昨年5月にオープンしたばかりの公園だそうです。

どうりで、ネットにもカーナビにも出てこないはずです。


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石碑は教育委員会が建てたものだそうですが、残念なことに字がきたない(苦笑)。

この日は、わが家の中2の娘も一緒だったのですが、書道有段者の娘曰く、「わたしのほうが上手い」と・・・。

たしかに(笑)。


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公園から見た天王山です。


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何度も言いますが、「天下分け目」「関ヶ原」です!!!


次回に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2016-07-21 22:20 | 山崎合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

真田丸 第28話「受難」 ~新説・秀次事件~

 豊臣政権のターニングポイントとなった「秀次事件」ですが、従来の話では、継嗣となる(のちの豊臣秀頼)の誕生によって関白・豊臣秀次の存在が邪魔になった豊臣秀吉が、あの手この手を使って秀次を追い詰め、やがてはあらぬ嫌疑をかけて切腹に追いやる・・・というもので、後世に秀吉の悪評を残すことになった事件です。しかし、この度のドラマでは、秀次の被害妄想的自滅行為として描かれていましたね。真相はどうだったのか・・・。まずは、従来の説から紹介します。


e0158128_19341615.jpg まず、秀吉は伏見城を築城し、拾とともに聚楽第からそちらに移ります。秀吉が伏見城に移ると、後を追うように豊臣家重臣たちも挙ってそちらに移り始めます。寂れていく聚楽第に残された秀次。このとき、関白職は単なる「飾り」で、豊臣政権は未だ叔父・秀吉のものであるということを改めて実感したに違いありません。そして自身の立場にも危機感を覚え始めたのか、しばしば奇行をとるようになったといわれます。


 文禄4年(1595年)7月3日、石田三成、増田長盛、前田玄以ら奉行たちが秀次のもとに訪れ、秀吉に対しての謀反の疑いを言い立てます。秀次は懸命に弁明しますが受け入れられず、7月8日、秀次は秀吉に直に釈明すべく伏見城に出向きますが、秀吉との面会は叶わず、「高野山への追放」という厳しい処分を言い渡されます。高野山へ入った秀次は出家しますが、そのまま隠遁生活とはいかず、それから1週間後の7月15日、秀吉の命により切腹して果てます。享年28歳。


 その後、秀吉の秀次に対する仕置は彼ひとりの命にとどまらず、一族すべての抹殺を命じ、秀次の死から半月後の8月2日、京都三条河原にて梟首された秀次の首の前で、遺児(4男1女)及び正室・側室・侍女ら併せて39名処刑されます。彼女たちは牛車に乗せられて市中を引き回された後、三条河原へと到着。その変わり果てた秀次の首と対面したのち、次々と惨殺されていったといいます。戦国時代の京都三条河原といえば、処刑場の代表地ともいえる場所で、死刑執行や処刑見物が日常茶飯事のことであったにもかかわらず、このときの秀次妻子に対する処刑は、見物人の中から卒倒・嘔吐する者が相次いだと伝えられます。彼女たちの死骸はその場に掘られた大穴に次々と放り込まれ、その上に四角推の大きな塚が築かれ、頂上には秀次の首を納めた石櫃が据えられました。秀吉はこの塚を「畜生塚」と名付け、道行く人たちへの見せしめとしたと伝えられます。


 以上が従来の「秀次事件」で、わが子可愛さに暴走する晩年の秀吉の狂気として描かれることの多い事件ですね。ところが今回の「秀次事件」は、秀次に愛情を注ぐ秀吉の思いとは裏腹に、秀次自身が被害妄想を膨らませて自滅していくというストーリー。蟄居や切腹の理由も、すべて後付とう設定でした。今までにない解釈で面白い物語でしたが、通説とはあまりにかけ離れていて、三谷さん、ちょっとやり過ぎなんじゃない?・・・と思ったのですが、調べてみると、この設定は三谷さんの完全オリジナルというわけではなく、国学院大の矢部健太郎教授が提唱する新説を下敷きにしているそうです。


e0158128_20022019.jpg 矢部説によると、江戸時代初期に記された『太閤記』に、「切腹命令」の文書に石田三成ら五奉行が7月13日付で署名したと記されていることを指摘し、京都から高野山まで約130kmあり、しかも厳しい登り坂が多く、とても2日で歩くのは不可能だと「13日に書かれた命令書を持って高野山まで多くの兵を連れて赴き、15日に切腹させるのは難しい」としています。さらに、秀吉が同月12日に、高野山の僧・木食応其へ宛てた書状に着目。そこには「秀次が高野山に住むにあたっては見張り番を付け、料理人や世話係などを用意してほしい」と記されているそうで、「数日後には切腹させる人に、料理人が必要だろうか。秀吉は秀次を長期間、高野山に住まわせようと考えていたと思う」としています。たしかに、そう言われてみれば・・・ですね。


 また、秀次切腹の情報を最初に朝廷へ伝えた「御湯殿上日記」文禄4年(1595年)7月16日条に、「関白殿 昨十五日の四つ時に御腹切らせられ候よし申す 無実ゆえかくのこと候のよし申すなり」とあるそうですが、矢部教授はこの「切らせられ」という記述は、秀吉が「切らせた」のではなく、敬語の「お切りになった」と読むべきだ、と指摘しており、秀次は高野山での幽閉に耐えられず、身の潔白を証明するために自らの決断で切腹したと説いています。ドラマとは少し違いますが、自ら腹を切ったという解釈は同じですね。


 さらに矢部説では、『太閤記』の「秀次に謀反の動きがあった」という記述は、事態収拾のために秀吉と三成らが作り上げた後付けの公式見解だったのではないか、と推測しています。まさに、ドラマのとおりですね。事ここに至った以上、秀吉の命令で行われたことにしなければ、豊臣政権の威光の失墜に繋がりかねませんから、後付けで公式見解をこじつけたという見方は、十分に有り得る解釈だと思います。


 しかし、であれば、一族皆殺しまで行う必要があったのか、という疑問が浮かびます。ところが、これに対しては時代考証担当の丸島和洋氏が自身のツイッター上で、秀次の嫌疑が「謀反人」である以上、「妻子の処刑はやむを得ないこと」と発言されています。その容疑が事実であれ後付であれ、謀反人の妻子を生かしておくことは、豊臣政権の威光の失墜に繋がりかねない、ということですね。いずれにせよ、惨い話です。


 というわけで、今回の設定は、その真偽はどうであれ、新説に基づいたストーリーだったんですね。よく勉強されているなあと関心します。また、秀吉の好意のすれ違いと、真田信繁、信幸兄弟の好意のすれ違いを合わせて描いていたのは、実に秀逸だと思いました。さすが三谷さんですね。


 ちなみに、生き残った秀次の娘で信繁の側室になったとされる隆清院という女性については、確実な史料に乏しく、真偽は定かではありません。従って、呂宋行きの話も、すべてドラマのオリジナルです。まあ、これはこれでいいんじゃないでしょうか。



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by sakanoueno-kumo | 2016-07-19 19:42 | 真田丸 | Trackback | Comments(4)  

山崎合戦のまちを歩く。 その9 「油祖離宮八幡宮」

JR山崎駅の南側に、離宮八幡宮があります。

門前にある神社の縁起によると、貞観元年(859年)に清和天皇(第56代天皇)が九州は大分の宇佐八幡宮より大安寺の僧行教が勧進したといい、淀川を挟んで対岸にある石清水八幡宮はここから分祀されたもので、石清水の名はこの地に涌き出ている霊泉『石清水』に因んだとしています。


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その後、嵯峨天皇(第52代天皇)の離宮「河陽(かや)離宮」跡であったので、社名を離宮八幡宮としたそうです。


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離宮八幡宮は、わが国におけ製油発祥地とされ、「油祖」の称号をとして知られます。

平安時代の後期(貞観年間)、時の神官が神示を受けて「長木」という搾油器を発明し、荏胡麻(えごま)油の製油を始めたところ、次第にこの業が全国に広まり、離宮八幡宮は朝廷より「油祖」の名を賜ったそうです。


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境内には、「本邦製油発祥地」と刻まれた石碑があります。


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油脂販売業者の店頭標識だそうです。


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こちらは油祖像だそうで・・・。


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山崎の油の関係は、司馬遼太郎氏の小説『国盗り物語』にも出てきますね。

素浪人から山崎の油商人となり、その冨と策略を駆使してついには美濃国主となった「美濃の蝮」こと斎藤道三の物語で、離宮八幡宮が油の専売特許を持ち、「油座」として栄えていた当時の様子がわかりやすく描かれています。


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やがて、楽市楽座を推し進めた織田信長が室町幕府を倒したことにより、独占販売の特権を持つ「座」のシステムが崩壊し、油のまち山崎も衰退していきました。

しかし、それ以後も、離宮八幡宮は油の神様として、全国の油商人から崇敬されていたそうです。

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幕末の「禁門の変」時には、周りの民家とともに焼失し、明治9年(1876年)には鉄道の開通により、その敷地は大幅に縮小されました。

現在の社殿は昭和初期に再建されたものだそうです。

その社殿には「崇敬発起人」として日本製油・カネダ・吉原製油・昭和産業・豊年製油・味の素・日本油脂など、日本の製油大企業の名が連なっています。




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by sakanoueno-kumo | 2016-07-15 18:42 | 山崎合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

天皇陛下が「生前退位」のご意向を示され、200年ぶりの譲位へ。

天皇陛下が、天皇の位を生前に皇太子さまへ譲る「生前退位」のご意向を示されていることが明らかになり、話題になっていますね。

今上天皇は現在、御年82歳

年齢も然ることながら、数年前に手術をされたお身体を考えると、やはりご公務は相当なご負担かと推察します。

わたしは、4年前に起稿した「院政と上皇について」でも少しふれましたが、かねてからご高齢の天皇の「生前退位」があっていいんじゃないかと思っていました。

というか、そうあるべきなんじゃないかと。

e0158128_17541463.jpg125代
続く歴代天皇の歴史を見れば、「生前退位」は珍しいことではなく、実に半数以上が生前に譲位しています。

譲位した天皇は太上天皇(上皇)となります。

日本の歴史上、初めて生前に退位して譲位を行ったのは、第35代・皇極天皇とされています。

皇極天皇4年(645年)6月12日、中大兄皇子らが宮中で蘇我入鹿を討ち、翌13日、入鹿の父の蘇我蝦夷が自害した「乙巳の変」、世に言う「大化の改新」ですが、その翌日の6月14日、皇極天皇は同母弟の軽皇子に譲位し、第36代・孝徳天皇となりました。

皇極天皇は女性天皇で、夫の第34代・舒明天皇の崩御後、継嗣となる皇子が定まらなかったため即位した暫定天皇だったということもありましたが、譲位した孝徳天皇が在位9年で崩御したため、再び皇位に就き、第37代・斉明天皇となりました。


e0158128_17541992.jpg平安時代末期には、藤原氏が国政の実権を掌握する摂関政治に疑問を持った第72代・白河天皇が、応徳3年(1086年)にまだ8歳の善仁親王(第73代・堀河天皇)に譲位し、上皇として政治を主導する「院政」を始めました。

以後、第74代・鳥羽上皇、第77代・後白河上皇、第82代・後鳥羽上皇と、院政が慣例化します。

第76代・近衛天皇のときには、鳥羽上皇、第75代・崇徳上皇2人の上皇が存在し、また、承久3年(1221年)に「承久の乱」が起きたときは、わずか4歳で即位した第85代・仲恭天皇の上に、第82代・後鳥羽上皇、第83代・土御門上皇、第84代・順徳上皇という3人の上皇がいたという例もあります。

もちろん、これらはすべて政治的な思惑の元で行われた譲位であり、今上天皇のご意向である「生前退位」とは、ずいぶん趣旨が違いますが。


e0158128_17542120.jpg日本史上、最後に生前での譲位が行われたのは、江戸時代後期、第119代・光格天皇で、30年以上在位したのち、文化14年(1817年)に47歳で譲位、その後、上皇として天保11年(1840年)70歳まで長寿します。

第122代・明治天皇の曽祖父にあたる天皇ですね。

この頃の譲位は、政治的意図は薄く、高齢による隠居だったのでしょう。

当時は武家でも40代後半になれば家督を継嗣に譲って隠居する時代でしたから、天皇家も同じだったのでしょうね。


その後、天皇の生前の譲位は約200年行われていません。

明治22年(1889年)に制定された旧皇室典範「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」との規定が設けられ、天皇は死去によって皇位を継承されると定められました。

これは、「院政」による政治構造の二極化を避けようとしたためとも言われます。

一方、天皇が病気事故など理由で職務を行えない場合や、天皇が未成年である場合には、天皇の代理者として「摂政」を置けることになっていて、最近では第124代・昭和天皇が皇太子だった大正10年(1921年)、病弱だった父、第123代・大正天皇の摂政についています。

しかし、今上天皇は「摂政」を置くことは望まれていないとか。


医学の進歩によって人の寿命が長くなった現代においては、天皇の高齢化は避けられません。

神話時代の天皇を除いた第26代・継体天皇以降の歴代天皇のなかで、最も長寿だったのは昭和天皇満87歳で、現在82歳の今上天皇も現時点で第3位の長寿です。

これからも、長寿ランキングの上位は未来の天皇が占めていくことになるでしょう。

また、高齢で即位(践祚)した天皇のランキングも、今上天皇の満55歳第2位だそうです。

現在、皇太子徳仁親王56歳ですから、すでに父の即位年齢を超えられており、このまま数年経てば、歴代最高齢での即位になるかもしれません。

一般のサラリーマンが定年退職を迎える年になってようやく天皇に即位するというのも、どうかなあという気もしますよね。

ましてや、現在の皇位継承順位は、(1)皇太子徳仁親王、(2)秋篠宮文仁親王、(3)悠仁親王ですから、その順番通りになるとすれば、あるいは30~40年後、秋篠宮文仁親王80~90歳代のご高齢で即位なさることになります。

これはどう考えても気の毒ですよね。


「生前退位」を認めるとなれば、一定の年齢になると退位する「定年制」にするのか、あるいは、その時々の天皇陛下ご自身の意志によるものとするのか、その他、さまざまな議論が必要だろうと思います。

でも、現在82歳の陛下のご負担を思えば、一刻も早く現実化してほしいですね。

天皇に隠居の自由がないというのは、気の毒な話です。

現憲法下の象徴天皇という位置づけで、かつてのような権力の二極化といった心配はする必要はなく、「院政」ならぬ「院制」にすぎないわけですから。



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by sakanoueno-kumo | 2016-07-14 17:48 | 時事問題 | Trackback(1) | Comments(2)  

山崎合戦のまちを歩く。 その8 「山崎宗鑑冷泉庵跡~妙喜庵」

天王山登山口のすぐ横に、「山崎宗鑑冷泉庵跡」があります。

山崎宗鑑「俳諧の祖」と称される室町時代後期の歌人で、出家後、この地に隠棲していたと伝わります。


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宗鑑は本名を志那弥三郎範重といい、寛正6年(1465)頃に近江国で生まれたと伝わります。

生家は支那地区を幼少時より室町幕府9代将軍足利義尚に仕え(近習とも祐筆とも)、あの一休禅師とも親しかったとか。

しかし、義尚が佐々木高頼との合戦(鈎の陣)で没したため、世の無常を感じて剃髪し、入道となってここ山崎の地に隠棲したそうです。


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宗鑑は、この近くにある離宮八幡宮社頭で月例会として開かれていた連歌会の指導や、ここ冷泉庵での講を主催しながら、後世に知られた『犬筑波集』を生み出した。

また書も宗鑑流として多くの人々から珍重されたそうです。


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「霊泉連歌講跡」と刻まれた石碑の横には、宗鑑の句碑があります。


「うつききて ねぶとに鳩や 郭公(ほととぎす)」


この句は掛詞を巧みに使い、その手法は、のちの俳諧の基礎となったそうです。


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冷泉庵跡の南に位置するJR山崎駅の近くには、宗鑑が隠棲場所として建立したつ伝わる「妙喜庵」があります。

山号は豊興山

「妙喜禅庵」とも称します。


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ここには、二つの国指定文化財があります。

まずひとつは、千利休山崎合戦直後に建立したと言われる草庵風の茶屋「待庵」で、後世に多大な影響を与えた日本最古の茶室建造物であるとともに、日本に唯一現存している利休が建てたと確証できる茶屋として、国宝に指定されています。


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また、もうひとつは、室町時代の文明年間(1469年~1487年)に妙心寺霊雲院書院を模して建てられたとされた書院「明月堂」があり、こちらも国の重要文化財に指定されています。


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ただ、残念ながら、建物内を見学するには1ヵ月以上前からの予約が必要だそうで、無計画に訪れたわたしは、外観のみの見学です。

入口の説明書きによると、予約は往復ハガキで1ヵ月以上前に申し込み、見学時間は午前中のみで、高校生以下は謝絶とのこと。

めっちゃ厳しいやん!

まあ、利休ゆかりの国宝ですから、やむを得ないかな。


次回に続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2016-07-13 17:14 | 山崎合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

真田丸 第27話「不信」 ~真田信幸、信繁兄弟の叙任と、豊臣秀保の急死~

e0158128_19341615.jpg 鶴松の死後、自身の年齢から考えてもはや実子は見込めないと考えた豊臣秀吉は、養子となっていた甥の豊臣秀次を後継者と定め、関白職も譲ります。しかし、それからほどなくして淀殿(のちの豊臣秀頼)を出産。これにより、秀吉は次第に秀次を疎んじるようになり、あの手この手を使って秀次を追い詰め、やがてはあらぬ嫌疑をかけて切腹に追いやる・・・というのが、これまでの作品で描かれてきた一般的な「秀次事件」のあらましです。後世に悪評を残すことになった大きな要因のひとつですね。


 ところが、このたびのドラマでの「秀次事件」は、少し様相が違うようです。秀吉は拾が生まれたことによってこれまで以上に秀次に期待をかけ、将来、拾の力になってもらうために教育しようとしている様子ですが、秀次のほうが被害妄想的恐怖におののき、すれ違いが生じ始めました。これまでにない解釈ですね。どのような結末に描かれるのか、次週に期待です。


「お待ち下さい! 太閤殿下は何か思い違いをされているようでございます。官位を与えるのは関白のつとめ。誰にいついかなる位を授けるかこれ全て関白がいたすべきこと。源次郎に官位を与えるかどうかは私が決めることです! 源次郎、そなたには従五位下の位を授ける。そして源次郎の兄だが、私はその者をよう知らぬ。まずはよく調べよう。その上で支障がなければ兄にも従五位下を授けてやろう。太閤殿下、さようつかまつろうと存じますがよろしゅうございますか?」

「よくぞ申した!おぬしの言うとおりこれは関白の仕事であった。この件、そちに任せる。それでこそ関白じゃ!」


 関白秀次、カッコ良かったですね。結果を知っているにもかかわらず、このまま関係が上手くいってほしいと思ってしまいました。でも、歴史はそれを許しません。辛いですね。


 秀次の弟、豊臣秀保が17歳の若さで急逝したのは史実ですが、その死因については、さまざまな説があります。通説となっているのはドラマのとおり病死ですが、別の説では、兄の秀次と同じく拾が生まれたことによる邪魔者扱いで殺されたという説や、無双の悪人だったため、理不尽な仕打ちを受けた小姓に道連れにされて溺死したという話など、不可解な死の伝承が複数あります。たしかに、兄の最期を思えば、いろいろ勘繰りたくなりますよね。思えば、秀吉の実姉の子であったために豊臣政権に組み込まれた秀次、秀勝、秀保の三兄弟は、3人とも若くして不幸な最期を遂げることになります。叔父の秀吉が天下人にならなければ、彼らは一介の百姓として、貧しくとも穏やかな人生を送れたかもしれません。


e0158128_20004830.jpg 文禄二年(1593年)9月1日、真田信幸、信繁兄弟が揃って従五位下の位階に叙位され、信幸は伊豆守、信繁は左衛門佐に任官されました。さらに、翌年に朝廷より下された口宣案には、「豊臣信幸、豊臣信繁」とあり、ふたりが「豊臣姓」を許されていたことがわかります。もちろん、信繁の計らいで信幸も叙任してという話はドラマのオリジナルで、実際には、信幸は父・真田昌幸から独立した沼田を領する大名ですから、それ相応の処遇を受けたということでしょう。むしろ、人質として秀吉の馬廻を務めていた信繁が、兄同様の扱いを受けたということのほうが異例で、これにより、信繁も父、兄とは別個の大名扱いとなったわけです。よほど秀吉から気に入られていたのでしょうね。


「もらえるものは病気以外もらっておけばいいんだ。」


昌幸、最高です(笑)。



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by sakanoueno-kumo | 2016-07-11 19:35 | 真田丸 | Trackback | Comments(2)