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夏休み中播磨路紀行2016 その3 「林田大庄屋旧三木家住宅」

姫路市林田町にある「林田大庄屋旧三木家住宅」を訪れました。

ここは、かつての英賀城主・三木氏の流れをくむ大庄屋の邸跡と伝えられます。


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天正8年(1580年)、織田信長の命で播磨国に侵攻してきた羽柴秀吉により英賀城が落城した際、そのときの英賀城主の三木氏一族は、各地に逃れました。

英賀城最後の城主となった三木通秋の弟にあたる三木定通が、ここ林田村に逃れて帰農し、林田村構の三木家の祖となったと伝えられ、江戸時代を通じて大庄屋を務めたそうです。

大庄屋はふつうの庄屋とは違って、数ヶ村から十数ヶ村を統括し、身分は農民ですが、名字帯刀を許され、格別の特権と扱いを受けていました。


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建物の建築年代は江戸時代初期と推定され、大庄屋の建築としては県下で年代が推定できる最古の遺構だそうです。

広大な敷地には主屋、長屋門・長屋、米蔵、内蔵、新蔵を有しています。


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母屋は17世紀建築だそうで、入母屋造り茅葺屋根です。


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中はこんな感じ。


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米蔵、内蔵は土蔵造で、19世紀前期の建築だそうです。


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庭園に面して縁側があります。

こういう光景は、都会でマンション暮らしの私らにしてみれば、憧れの空間です。


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その縁側で記念撮影。


次回につづきます。





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by sakanoueno-kumo | 2016-09-30 22:14 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

夏休み中播磨路紀行2016 その2 「もちむぎのやかた~辻川山公園」

前稿の「夢さき夢のさとコテージ村」から車で20分ほど東の兵庫県神崎郡福崎町にある、「もちむぎのやかた」を訪れました。

「もちむぎ」とは大麦の一種で、この地域の名産品だそうです。


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“もち”というくらいですから、たぶん、普通の麦より「もちもち」した食感なんだろうというのは想像がつきますよね。

食べてみると想像どおり、「そば」と「うどん」の間のような食感でした。

結構、食べごたえがありましたね。


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もちむぎのやかたのすぐ北側に、標高126mの辻川山があるのですが、その麓にある「辻川山公園」に、面白いものがあります。

それが、これ。

  ↓↓↓

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河童の河次郎です(笑)。

これが15分毎にため池から出現します(笑)。

以下、説明板の文を引用。


河童の河太郎(ガタロウ)と河次郎(ガジロウ)


福崎町には、市川という大きな川が流れています。

この川の岸に駒々岩(こまがいわ)という大きな岩がありますが、そこには以前、河童の兄弟、兄の河太郎(ガタロウ)と弟の(ガジロウ)が住んでいました。二匹は、川へ水遊びにやってきた子どもの足を掴んで引きずり込み、「尻子玉」を抜いてしまうのです。

やがて、子どもたちは河童を怖がって誰も駒々岩で遊ぼうとしなくなりました。二匹の兄弟は、自分たちのせいだと後悔しました。

ある日、みんなの寝静まった夜、河太郎たちは柳田國男先生に会いたくて、毎日毎日この池で待っていました。

兄の河太郎は池のほとりで、弟の河次郎は皿が乾くと困るので池の中で、それぞれ待つことにしました。

二匹は、何年も何年も柳田國男先生を待ち続けました。

とうとう兄の河太郎は頭の皿の水がなくなって、固まって動けなくなってしまったのです。

こうして河太郎は、池の畔で動けなくなったまま、今も巌橋の方を見て柳田國男先生の帰りを待っているのです。

一方、弟の河次郎は池の中にいたので、今でも池の中から出てくることがあります。池の中をずっと覗いていると、尻子玉を抜かれるかも知れませんよ?

※この物語はフィクションです。

ということだそうです(笑)。

柳田國男という人物は、日本民俗学の創始者と呼ばれる学者さんで、明治、大正、昭和を生き、官僚も務めた方です。

この河童の話は、柳田國男が幼い頃を過ごした福崎町辻川での暮らしぶりなど、自身の人生を回顧して書いた著書『故郷七十年』に登場する話だそうです。

これが最近、TVのバラエティー番組で紹介されて、一気に有名になったのだとか。

この日もたくさんの観光客が訪れていました。

でも、幼い子は泣いて怖がってましたけどね(笑)。


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こちらは、池の畔で動けなくなったという河太郎です。


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河太郎と記念撮影です(笑)。


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河太郎の近くには、「天狗の森の妖翁」と名付けられた翼を持つ爺さんの像がありました。


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そして、その隣の広場では、逆さづり天狗が迎えてくれます。

これも、河童の河次郎と同じく定期的に出現します。


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よく見ると、和菓子を食べてます(笑)。

なんでも、町の特産品なんだとか。

これも、柳田國男の著書『妖怪談義』にまつわる演出だそうで、町おこしの目的で約1500万円かけ製作したそうです。

でも、これも幼い子はめっちゃ泣いてましたけどね(笑)。


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近くには、柳田國男の生家跡があります。


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その説明板です。


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生家跡のすぐ隣にある鈴の森神社です。


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柳田國男生家跡から辻川山山頂までの登山道は、「学問成就の道」と名付けられ、この地域出身の学者さんなどの胸像や、万葉集の歌碑などが各所に設置されています。


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辻川山山頂からの眺望。

福崎町が一望できます。


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まあ、河童も天狗も、話のネタにはなったかな?

次回に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2016-09-29 03:58 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

真田丸 第38話「昌幸」 ~二条城会見と真田昌幸の死~

e0158128_18432594.jpg 真田昌幸・信繁父子が紀伊国九度山村に流された慶長5年(1600年)12月から、昌幸が死去する慶長16年(1611年)6月までの約10年余りが一気に描かれましたね。この間、征夷大将軍となった徳川家康は江戸に幕府を開き、その2年後には息子の徳川秀忠に将軍の座を譲り、徳川政権の盤石化を図りました。一方で、慶長8年(1603年)にはわずか7歳の孫娘・千姫を大坂の豊臣秀頼に嫁がせ、旧主である豊臣家との関係が良好であること世間に知らしめます。一般に、関ケ原の戦い後すぐに家康は豊臣家を滅ぼすつもりだったように思われがちですが、決してそうではなかったことがわかります。


e0158128_18385012.jpg その家康に豊臣家を滅ぼす決意をさせたのが、慶長16年(1611年)3月38日に行われた家康と秀頼の二条城における会見だったと描かれることが多いですよね。成長した秀頼の器量の大きさとわが息子・秀忠の凡庸さを比較し、秀頼を殺す決意を固めた・・・と。この話自体は後世の創作ですが、たしかに、この二条城会見を境に家康が豊臣家滅亡への謀略をはじめたのは事実で、このとき、家康に何らかの意識変化があったのかもしれません。何よりこの会見に随伴した加藤清正、浅野幸長、池田輝政など旧豊臣恩顧の武将たちが、会見直後にことごとく死んでいったことから、家康の差し金による暗殺説が、当時からささやかれていました。ドラマでも、清正の死去は暗殺説が採られていましたね。これは、現在では歴史家さんのあいだでは邪説とされているのですが、物語的には、そっちのほうが面白いですからね。


e0158128_02592871.jpg で、九度山村での真田父子に目を移します。蟄居生活を強いられた昌幸・信繁でしたが、罪人としての幽閉生活というほどではなく、山狩り釣りなど、高野山領内であればある程度自由に動き回れたようです。この間、信繁には子供も生まれ、ある意味、平穏で幸福な日々だったともいるかもしれません。ただ、経済的には困窮していたようで、昌幸は嫡男・信之に何度も援助金を催促する書状を送っています。くさっても五万石の大名だったわけですから、わずかな家臣を従えた貧乏暮しは、耐え難い屈辱だったでしょうね。そんななか、昌幸を唯一支えていたのは、家康から赦免されて上田に戻るという一縷の希望でした。


 昌幸は信之や浅野長政を通じて赦免嘆願を繰り返し行っています。時期は定かではありませんが、その赦免嘆願は本多正信を通じて家康の耳にまで届いていたようで、それを伝え聞いた昌幸は、「赦免される日が近いゆえ、下山したら一度お会いしたい」と、楽観視した書状を旧知の人物に送っています。しかし、家康は二度も煮え湯を飲まされた昌幸を、決して許すことはありませんでした。


 やがて赦免の希望が叶わないことを悟った昌幸は、日に日に衰えていきます。このころ書かれた書状では、すっかり気力を失った弱気な言葉がつづられ、かつての名将の面影はもはやありませんでした。そして慶長16年(1611年)、いよいよ自らの死期を悟った昌幸は、信繁を枕頭に呼び、徳川と豊臣の決戦がはじまった際の秘策を授けたと伝わります。それが、ドラマに出てきた『兵法奥義』ですね。原本は大坂城とともに灰となったと伝えられますが、実在したかどうかは定かではありません。その秘策とは、籠城戦では勝ち目がなく、積極的に討って出て勝負をかけよ、というものでした。ドラマでは、この秘策を聞いて「自分には場数が足りないので自信がない」と発言した信繁に対して、「わしの立てる策に場数などいらん。」と昌幸は言っていましたが、伝承では、この秘策も家康を二度も破った自分の意見ならば豊臣家も従うだろうが、無名の信繁では握りつぶされるであろうと予言しています。で、実際そうなるんですよね。今年の大河ドラマでは、そういった千里眼的予知能力の持ち主はまったく出てきません。そこもいいですよね。


 慶長16年(1611年)6月4日、昌幸没。享年65。真田家を近世大名までのし上げた、真田家にとってはまさに中興の祖ともいうべき人物の波乱の生涯が幕を閉じました。



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by sakanoueno-kumo | 2016-09-26 18:46 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(2)  

夏休み中播磨路紀行2016 その1 「夢さき夢のさとコテージ村」

ちょっと時期がずれちゃいましたが、夏休みの備忘録です。

今年もお盆休みを利用して、毎年恒例のアウトドア旅行に行ってきました。

今年から8月11日が新しく祝日になった兼ね合いで、盆休みが長くなったという方が多いんじゃないでしょうか?

ところで8月11日って、何の日でしたっけ?

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毎年、神戸から2時間ほどで行けるキャンプ場にコテージなどを借りて1泊するのですが、今年訪れたのは、兵庫県姫路市夢前町にある「夢さき夢のさとコテージ村」

「夢前」と書いて「ゆめさき」と読みます。

素敵な地名ですよね。

夢前町は、かつては独立した自治体として姫路市の北部にあった飾磨郡に属していましたが、「平成の大合併」によって姫路市に編入合併となり、現在は、「姫路市夢前町○○」といったかたちでその名称を残しています。


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以前は4家族18人が集まっていたこの夏のイベントも、子供たちが大きくなってなかなか都合も合わなくなり、今年は3家族9人の参加でした。

まあ、それでも何だかんだで20年近く続いているというのは、われながらスゴイと思います。

可能な限り続けたいですね。


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キャンプ場といえば、なんといってもバーベキューでしょう。


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そして毎年恒例のスイカ割


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これも、子供たちが幼稚園児の頃からやっているので、かれこれ17~8年目になります。

今年はとうとう小学生がひとりもいないスイカ割となりました。


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この日はペルセウス座流星群がよく見えるとのことで期待したのですが、夜になって雲が出てきたのと、ご覧の通りの月明りだったので、流星群はおろか、ほとんど星が見られませんでした。

残念。


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思い出した!

8月11日は「山の日」ですね!

私たちのキャンプは毎年、山に行っていますから、言わずもがなです。

もっとも、この日は8月12日でしたが・・・。

次回に続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2016-09-25 16:23 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

真田丸 第37話「信之」 ~関ケ原の戦い・第二次上田合戦エピローグ~

 第二次上田合戦徳川秀忠軍を撃破した真田昌幸・信繁父子でしたが、誤算だったのは、慶長5年(1600年)9月15日に起きた関ケ原の戦いがわずか1日で決着がつき、西軍の大敗に終わったことでした。信繁の舅・大谷吉継は壮絶な最期を遂げ、石田三成、小西行長、宇喜多秀家らは戦場から落ち延び、大坂城にて豊臣秀頼を守っていた毛利輝元は、大坂城を退去して徳川家康に恭順の意を示しました。家康は9月22日に輝元と和睦し、27日には大坂城に入城します。家康の大勝でした。

e0158128_19301095.jpg 石田三成は間もなく捕縛され、10月1日、京の六条河原で小西行長、安国寺恵瓊らと共に斬首されます。享年41。三成の処刑に際しては、数々の逸話が伝わります。たとえば、処刑直前の三成が、警護の人間に喉が乾いたのでを所望したところ、「水はないので、代わりに柿を食せ。」と言われ、これを聞いた三成は「柿は痰の毒だ!」といって拒否します。これを聞いた警護の者は、「いまから処刑される者が毒を気にしてどうする。」と笑いますが、三成は「大志を持つものは、最期の時まで命を惜しむものだ!」と、泰然としていたといいます。

また、別の逸話では、処刑前の三成、行長、安国寺の3人に、家康が小袖を与えた際、他の二人は有りがたく受け取りますが、三成は「この小袖は誰からのものか?」と聞き、「江戸の上様(家康)からだ」と言われると、「上様といえば秀頼公より他にいないはずだ。いつから家康が上様になったのか。」と言い放ち、受け取らなかったといいます。これらの逸話がどこまで実話かどうかは定かではありませんが、江戸期を通じて天下の大悪人に仕立て上げられてきた三成でありながら、このような賞賛すべき伝承が残されていることを思えば、遠からずの立派な最期だったのかもしれませんね。

e0158128_02592871.jpg 西軍の敗北を知った真田昌幸は、それでも戦いをやめようとせず、9月18日、上田城に近い虚空蔵山城坂木葛尾城に陣を布いていた森忠政の軍勢に夜襲を仕掛け、さらに23日には、信繁率いる軍勢が坂木葛尾城を攻めます。ドラマでは父を抑えていた信繁でしたが、実際には、信繁が先頭を切って軍事行動を起こしていたようです。昌幸らにしてみれば、自分たちは秀忠軍を撃破していたわけですから、敗北を認められなかったのでしょう。しかし、最後の悪あがきもここまで。嫡男・真田信幸の説得もあって、渋々降伏します。ドラマで昌幸は廊下に拳を打ち続けて悔しがっていましたが、たぶん、400年前の昌幸も、あんな感じだったんじゃないでしょうか・・・。そりゃ悔しいでしょうね。勝ってたんだから・・・真田は・・・。

e0158128_02593024.jpg 昌幸・信繁が降伏すると、ひとり徳川方についていた信幸は、懸命にふたりの助命嘆願を訴えます。家康にしてみれば、二度も煮え湯を飲まされた昌幸を許さず、殺すつもりだったといいます。しかし、信幸の懸命な訴えに、舅の本多忠勝の援護も加わり、どうにかこうにか命だけは助けられました。ドラマでもありましたが、このとき忠勝は、「もし真田父子に死を与えるというのであれば、某は婿の信幸とともに真田父子を支援して上田城に籠り、主君・家康と戦うも辞さぬ」と言い放ち、家康を驚かせたと伝わります。よほど、婿の信幸のことを気に入っていたんでしょうね。

 信幸は父と弟の命乞いの代償として、「信之」に改名します。これについて、多くの小説などでは、父から受け継いだ「幸」の字を使うことを憚り、自ら改名したように描かれてきましたが、今回のドラマでは、家康から「捨てよ」と命じられての改名でしたね。それに対して、「文字」は変えても「読み」は変えないという信之なりの意地だったと・・・。この設定、なかなか良かったんじゃないでしょうか?

 かくして昌幸・信繁父子の流罪が決まり、紀州高野山の麓、九度山に流されます。その後、家康はよほど上田城が目障りだったのか、徹底的に破壊したといいます。そのせいで、真田時代の上田城の遺構は、ほとんど残されていません。

 昌幸・信繁が上田を後にしたのは慶長5年(1600年)12月13日のことでした。昌幸は信之と別れるに際して、「それにしても悔しい限りだ。家康こそこのような目にあわせてやろうと思っていたのに」と嘆き、悔し涙を流したと伝わります。昌幸54歳、信繁34歳でした。



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by sakanoueno-kumo | 2016-09-20 23:38 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(0)  

真田丸 第36話「勝負」 ~第二次上田合戦~

e0158128_23052141.jpg 犬伏で真田信幸と決別した真田昌幸・信繁父子が自領の上田城に戻る途中、信幸の居城である沼田城に立ち寄りますが、留守を預かる信幸の正妻・小松姫が、夫の敵となった義父・義弟の入城を拒んだという話は有名ですね。軍記物などの記述によれば、「孫の顔を見たい」という昌幸の言葉を、城を乗っ取るための昌幸の計略とみた小松姫は、鉄砲隊を狭間に配置させ、自らも薙刀を持って門扉に立ち、開門を拒んだといいます。これを見た昌幸は、「さすがは日本一の本多忠勝の娘である。武士の妻はこうあるべきた!」と、褒め称えたとか。小松姫を語るに、外せない逸話です。

 しかし、近年の研究によれば、実際には、このとき小松姫は大阪で石田三成方に人質として取られていたと考えられているそうで、このエピソードは、後世の創作とみられています。ただ、あまりにも有名な話なので、ドラマでこれを描かないわけにはいかなかったでしょう。そこで、今回の物語では、石田方が人質を取り始めたことを受けて、急遽、上方を脱出してきたという設定でしたね。実際、黒田家山内家など、上手く捜査網を掻い潜って脱出した奥方たちはたくさんいますから、ない話ではありません。史実と逸話を上手くつなげた設定でしたね。

e0158128_02592871.jpg 上田城に帰った昌幸は、すぐさま反徳川の姿勢をとらず、しばらく自らの去就を明らかにしませんでした。その狙いは、石田方に自らを高く売るためだったと見られます。昌幸を味方に引き入れたい三成は、慶長5年(1600年)8月5日付けの書状で信濃一国を与えると明言し、さらに6日付の書状では、甲斐国も与えると約束しています。この条件を得た昌幸は、ようやく西軍に与することを言明します。さすがは抜け目ない昌幸といえますが、この書状から、たかだか5万石程度の領主である昌幸を、三成はそれほど価値があるとみていたことがわかりますね。

 小山評定で旧豊臣恩顧の大名の多くを味方に引き入れることに成功した徳川家康は、大坂の石田三成を討つべく軍を西上させます。その際、家康率いる約3万3000の軍勢は東海道を、息子の徳川秀忠率いる約3万8000の軍勢は中山道を進軍しました。中山道のルートには、昌幸、信繁が籠る上田城があります。この秀忠軍を、上田城に籠るわずか2500ほどの兵力の真田軍が大いに翻弄し、その結果、秀忠軍は足止めをくって関ケ原の戦いに遅参してしまうんですね。これが有名な第二次上田合戦です。

 合戦の内容をここで詳細に解説するのは、長くなりすぎるのでやめます。超簡単に説明すると、籠城している真田軍が徳川方の兵を可能な限り引きつけた上で、機をみて攻撃するという奇襲戦法を繰り返し、そうとは知らない徳川軍は真田の術中に嵌り、かなりの打撃を受けました。第一次上田合戦のときもそうですが、昌幸は、大軍相手に寡兵で戦う術を心得ていたんですね。逆に言えば、二度も同じ手を食って惨敗した徳川軍の軍法はどうよ!・・・と言いたくなりますが、大軍というのは、寡兵相手では得てして油断が生じるものなのかもしれません。このとき総大将の秀忠は初陣でしたしね。

e0158128_22593837.jpg ただ、一説には、上田城など捨て置いて西上すればいいものを、まだ若い秀忠が軍功にはやって上田城攻めを強行し、その結果、関ケ原の戦い大遅参したといわれますが、これらの話はすべて江戸時代の創作だそうで、近年明らかになった説では、そもそも秀忠軍が中山道を進軍したのは上田城攻めが目的で、その途中で家康が作戦を変更し、上田城攻めを中断して関ケ原に呼び寄せたことがわかっています。このたびのドラマは、その新説に則って描かれていましたね。どうりで、本多正信榊原康政大久保忠隣酒井家次など徳川家譜代のビッグネームがことごとく秀忠軍につけられているはずです。家康にしてみれば、それほどまでに昌幸の存在が目障りだったのでしょう。小山評定で豊臣恩顧の武将がことごとく徳川方に与するなか、ひとり反旗を翻した昌幸・信繁父子を、捨て置くわけにはいかなかったのでしょうね。でも、結局、手玉に取られたのは徳川軍のほうでしたが。

 秀忠軍の大遅参のおかげで、関ヶ原の戦いでは徳川家譜代の家臣の活躍がほとんど見られず、戦後の論功行賞で、家康は外様大名に多くの恩賞を与えるはめになったと言われます。しかし、そのおかげで、家康は後継者である秀忠や譜代の家臣を失わずにすんだのも事実で、穿った見方をすれば、あえて兵を関ヶ原に遅参させることで、徳川軍の兵力を温存させるという家康の策略だったのではないかという説もあります。まあ、すべては結果論にすぎず、後付説の感は拭えません。家康とて、関ヶ原の戦い前から勝利を確信していたなんてことはなかったでしょうからね。すべては偶然の結果かと。

 第二次上田合戦で改めてその存在感を見せつけた真田昌幸でしたが、大きな誤算だったのは、関ヶ原の戦いがわずか1日で終わってしまったことだったでしょうね。もし、関ヶ原の戦いが長期戦になっていれば、秀忠軍退却後、昌幸は甲斐国、信濃国を席巻していたに違いありません。しかし、歴史は彼らに味方しませんでした。



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by sakanoueno-kumo | 2016-09-17 23:05 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(0)  

真田丸 第35話「犬伏」 ~犬伏の別れ~

 8月後半から仕事が忙しくなり、特に今週は超激務をこなす毎日となり、昨夜、ほぼ1週間ぶりに家に帰り、ようやく大河ドラマを視聴しました。真田一族の物語を語るにあたって、いちばんの見せ場といってもいい「犬伏の別れ」。遅ればせながらの起稿です。

 慶長5年(1600年)6月16日、徳川家康は会津の上杉景勝討伐を掲げて大坂を出陣。7月2日には江戸城に入り、諸大名に上杉攻めに加わるよう要請します。家康は上杉征討にあたって、豊臣家より軍資金二万両と米二万石をもらい、上杉攻めを豊臣秀頼の命というかたちにしていました。豊臣の御旗が掲げられた以上、諸大名はこれに参加せざるを得なくなります。このあたり、家康の政治力の巧みさがうかがえますね。

 一方、家康の上杉征討を知った石田三成は、家康の元に向かおうとしていた大谷吉継を蟄居中の佐和山城に呼び寄せ(ドラマでは、三成が吉継の元を訪れていましたが)、打倒家康の挙兵を持ちかけます。吉継はその無謀を説きますが、三成の決意が固いことを知るや、「わしがおぬしを勝たせてみせる」と言ったかどうかはわかりませんが、三成に同心します。吉継を味方につけた三成は、毛利輝元を大坂城に呼び、秀頼を奉じて挙兵するんですね。

 上杉征伐の要請を受けた真田昌幸、信幸、信繁父子は、家康の元に合流すべく宇都宮に向けて進軍し、下野国の犬伏に着陣します。ここで彼らのもとに、三成挙兵の報せが届きました。これを聞いた昌幸が「早すぎるわ!」と言ったかどうかはわかりませんが、たしかに、三成の挙兵は少し早すぎました。歴史のタラレバはナンセンスですが、もし、三成の挙兵がもう少し遅く、上杉との戦端が開かれてから行われていれば、家康は簡単には引き返せなくなり、歴史はまた違ったものになっていたでしょう。一説には、三成と会津の直江兼続が共謀して家康を挟撃するシナリオだったという見方がありますが、その説に否定的な意見の根拠としては、この三成の挙兵のタイミングを指摘します。電話もメールもない時代ですが、共謀していたのなら、三成の挙兵はもう少しあとだったんじゃないかと・・・。真相はどうだったんでしょうね。

e0158128_02592871.jpg 三成の挙兵を知った昌幸は、7月21日、信幸、信繁兄弟を呼び寄せて密談を行ったとされます。これが、世に言う「犬伏の別れ」を決定した密談ですね。この密談で、真田家は昌幸と信繁が三成方につき、信幸が家康方につくことを決めたとされますが、ただ、この密談の内容は、一級史料では確認することができず、すべて後世の軍記物に頼るしかありません。確かなのは、その日の夜に昌幸・信繁は戦陣を離脱し、上田に向けて帰還したこと、それらの家来たちはあわててその後を追っていったこと、信幸だけが戦陣に残り、24日、家康の元に参陣したことくらいだそうです。でも、それらの事実を見る限り、この密談で兄弟父子が敵味方に別れる決意をしたことは、間違いなさそうですね。

e0158128_02593242.jpg 兄弟父子が敵味方に別れた理由については様々な説がありますが、どちらが勝っても家が存続できるため、というのが、通説となっている理由ですね。実際、合戦時にお家存続のために親兄弟が別れるという話は、他にもたくさんありました。この時代、家の存続というのは、武士にとって何より大切な仕事でしたからね。さらには、信繁の妻は三成方の大谷吉継の娘であり、信幸の妻が徳川家家臣の本多忠勝の娘だったことも、大いに作用したでしょうね。信繁も信幸も、舅への義理は蔑ろにはできないですからね。そうみれば、この密談の結論は、はじめから見えていたといえます。

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 また、密談中に様子を伺いに来た家臣の河原綱家が信幸から水筒を投げつけられるシーンがありましたが、あれは、三谷脚本らしいコメディーシーンに見えましたが、実は、河原家の伝承で残っている逸話です。それによると、投げたのは信幸ではなく昌幸で、投げたものは水筒ではなく下駄だったとか。下駄は綱家の前歯にあたり、彼は生涯、前歯が欠けたままだったといいます。入れ歯もインプラントもない時代ですからね。少々気の毒な気がしますね。

「もし徳川が勝ったならば、俺はどんな手を使ってもお前と父上を助けてみせる!」

 本当にそうなっちゃうんですよね。温厚篤実な人物だったという信幸。弟や父の神出鬼没ぶりばかりが目立つ真田家ですが、真田家でもっとも優れていたのは、実は信幸だったのかもしれません。



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by sakanoueno-kumo | 2016-09-11 03:02 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(2)