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真田丸 第43話「軍議」 ~積極策と籠城策~

 大坂城では、徳川方との決戦を前に軍議が開かれます。このとき真田信繁(幸村)は、城を討って出る積極策を献策しますが、大野治長をはじめとする豊臣方の首脳により却下され、籠城策に押し切られた、というのが、一般的に知られるストーリーだと思います。この逸話は、江戸時代に編纂された複数の軍記物に見られる話で、多少の違いはありますが、概ね一致しています。


e0158128_02593242.jpg 最も有名なものとしては、豊臣方はまず尾張を奇襲し、そこで小さな勝利を収めたのち、時期をみはからって兵を近江まで下げ、大津の勢田橋、そして京の宇治橋を落として防備を固め、徳川家康を牽制する。そして二条城を焼き払ったうえで大阪城に籠城するというもの。ただ籠城するのではなく、まず前哨戦で小さな勝利を得て敵の出鼻をくじくことが得策で、そうすれば、敵の警戒心を煽り、士気が落ち、そのうち旧豊臣系大名のなかで、大坂方に身を転じる者もでてくるだろうという目論見で、この作戦は、『真武内伝』『武将感状記』などみ見られるものです。しかし、『真武内伝』によると、この策は、当時、大野治長に寄宿していた小幡景憲に却下されます。今回のドラマに小幡景憲は出てきていませんが、のちに甲州流軍学の創始者となる人物で、司馬遼太郎の小説『城塞』では、徳川方のスパイとして大坂城に入った人物として描かれていますね。


 また、『幸村君伝記』によると、大野治長は関ヶ原の戦いで家康の出馬が遅かったために諸大名が気勢を削がれたことを例に出し、家康は「耳臆病」な大将と評価。大挙して豊臣方が蜂起すれば、家康は大いに驚き、世評が心配になり、諸大名の心境をうかがいつつなかなか動かないだろうと考えます。そのうち、大名たちは自然に豊臣方になびくだろうと。これを聞いた信繁は「浅はかである」一刀両断し、宇治・勢田に積極的に討って出て、一刻も早く家康の首をとるべし、と主張します。治長がその理由について質問すると、信繁は「先んずれば人を制す(史記)」と言い、籠城策は後詰(援軍)が期待できてこその策であり、孤立無援の状況では、どんな堅固な城であっても、やがて落ちる、という主張でした。しかし、これも治長と景範によって否定されます。


e0158128_13071626.jpg ほかにも、『列祖成績』では、摂津の北の玄関口である山崎に軍勢を出兵し、三軍で天王寺に陣を布き、自身(信繁)と毛利秀秋に先鋒を任せてほしいと提案。その間に長宗我部盛親後藤又兵衛基次が攻め上がって伏見城を落とし、京のまちを焼き払う。そうすれば、徳川方は進路を塞がれて大坂に入ることができず、やがて戦意を喪失すると主張します。しかし、この作戦に異議を唱えたのは、意外にも又兵衛でした。又兵衛は天下無双の大坂城が簡単に落城することはないとし、大坂城を前に徳川方の諸将が屈する姿を見て、旧豊臣系の大名たちが必ず寝返ってくるとし、籠城策を主張したといいます。ドラマで又兵衛が信繁の案に反対していましたが、その下敷きはこの説を採ったものだったのでしょうか?


 こして見ても、どの逸話も共通しているのは、信繁が一貫して積極策を献策するも、豊臣方の無能な首脳たちによって一蹴され、やむなく籠城策に身を投じるというもの。今回のドラマでは、大野治長の立場や大坂五人衆の心境を少しアレンジしていましたが、概ね逸話に沿った設定でした。しかし、これらの逸話は、いずれも江戸時代中期以降に編纂された軍記物に記されたもので、どこまでが本当の話か判然としません。当時の史料に、信繁が積極策を献策したという史料はみられないんですね。ではなぜ、これほど複数の書物で似たような逸話が描かれたのか・・・。それはたぶん、「信繁の作戦を採れば勝っていたかもしれないのに」という、後世の判官贔屓な思いが生んだエピソードなんでしょう。


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by sakanoueno-kumo | 2016-10-31 18:44 | 真田丸 | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その30 ~稚児ヶ墓山城跡~

前稿で紹介した丹生山城跡から西へ4kmほど離れたところに、「稚児ヶ墓山」という変わった名称の山があります。

標高596.4mのこの山には、三木合戦における悲しい伝説が残されています。


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別所長治らが籠る三木城に兵糧を輸送する拠点となっていた丹生山城は、天正7年(1579年)5月、羽柴秀吉によって攻め滅ぼされ、城は焼き払われ、城兵たちもことごとく処刑されました。

このとき一緒に焼き討ちにあった丹生山明要寺には、幼い侍童や稚児たちが大勢いました。

子どもたちは丹生山城の羽柴軍の戦闘がはじまると、一団で北東の尾根伝いに落ち延びようとしますが、5月22日、ついにこの地で羽柴軍に捕まり、全員虐殺されたと伝わります。

この地に住む人々はこれを哀れみ、「稚児ヶ墓」と呼ばれる墓をこの山上に作って弔いました。

以来、この山を「稚児ヶ墓山」と呼ぶようになったと伝えられます。


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登山道は丹生山から帝釈山という標高585.9mを経て稚児ヶ墓山へ向かう6時間コースもあるそうですが、登山は素人のわたしはそんな無茶をせず、丹生山を一旦下山して、車で稚児ヶ墓山の標高350mほどの地点まで移動し、そこから登山です。


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比高250mほどの道のりですが、道中は大きな岩がゴロゴロ転がった険しい道で、なかなかハードでした。

でも、たぶんここを稚児たちは必死に逃げたんでしょうね。


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30分ほど岩道を登ると、歩きやすい尾根道に出ます。


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そして山頂。

片道約45分の登山でした。

頂上には手書きの看板と、その横に消えかかった説明板が。


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説明板の上には「稚児ヶ墓山城址」と書かれたプレートが。

え???・・・ここ城跡なの?


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たしかに、山頂の周りは土塁で囲われたようなかたちになっています。

たぶん、城というよりのような場所だったのでしょうね。


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山頂の近くの見晴らしのいい場所に、「稚児墓山伝説遺跡」と記された木碑が建てられていました。

たぶん、ここに墓があったのでしょうね。


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木碑は近年建て替えられたであろう新しいものでした。

碑に記された説明文によると、稚児たちの亡骸を村人たちがこの地に葬り、その側に椿を植えて冥福を祈ったといいます。

その椿は長年枯れていましたが、平成元年(1989年)に植え替えられたそうです。


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素晴らしい眺望です。


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でも、ここで多くの幼い命が酷くも失われたんですね。

殺された子どもたちは、たぶん、この戦の意味さえ理解していなかったでしょう。

殺戮が当たり前の戦国の世でも、罪のない子どもたちが殺されることへの憤りは、当時もあったのでしょうね。

だから、このような伝説が残されているのでしょう。


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下山して西側から撮影した丹生山系です。

手前から稚児ヶ墓山、帝釈山、そして丹生山です。

かつて凄惨な戦場となった山々は、現在も長閑な田園地帯を見下ろしています。



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by sakanoueno-kumo | 2016-10-28 20:58 | 三木合戦ゆかりの地 | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その29 ~丹生山城跡~

約1年半ぶりの三木合戦シリーズ再開です。

今回は神戸市北区にある丹生山城跡を訪れました。

標高514mの丹生山山頂にあった丹生山城は、三木合戦の際には別所長治側に与し、兵糧補給ルートの拠点となっていた城です。


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写真正面の山が丹生山です。

1年半前の三木合戦ゆかりの地めぐりの際に、ここを訪れるかどうか迷ったのですが、標高514m、比高370mの約1時間の登山はさすがに躊躇し、パスしていました。

歴史は好きですが、登山は素人ですからね。


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ところが、やはり歴史オタクの悲しい性で、自身の住む神戸市内に城跡があると知りながら捨て置くに忍びず、意を決して登山に訪れました(今回ここを訪れるにあたって、わざわざリュックとトレッキングパンツを購入しました)。


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季節はが散りかけた4月中旬。

たぶん、ハイカーの人たちに言わせれば、最もいい季節なんでしょうが、素人のわたしには、じゅうぶんキツかったです。


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写真では伝わりづらいですが、結構な勾配です。


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道中、古い墓石群を見つけました。


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ひとつの墓石には「天保五年」と刻まれていますので、三木合戦とは関係ないようです。


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およそ2.5kmの山道をひたすら登ること約1時間強、ようやく城跡にたどり着きました。

現在は、何らかの建物跡と思われる石垣上に、「丹生山城跡 丹生山明要寺跡」と刻まれた石碑があるのみです。


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丹生山明要寺とは、6世紀に百済から渡来した童男行者という人物がこの地に建立した寺院で、平安時代末期には多くの僧兵と幾多の伽藍を擁し、一大勢力を誇りました。

この時代、大きな寺院では多くの僧兵をかかえ、時として合戦に参加することもありました。

ここ丹生山城は、武将が構える城ではなく、寺院が要塞化した僧兵たちの城でした。


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天正6年(1578年)に始まった三木合戦では、羽柴秀吉の包囲網を掻い潜って三木城に兵糧を輸送していたのが、ここ丹生山城を経由したルートでした。

城を守っていたのは、備中勢の中島左京、祢屋与七郎、日幡八郎左衛門、生石中務らが300騎と、近隣の野武士や農民ら500名あまりでした。


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これに対し羽柴秀吉は、天正7年(1579年)5月、籠城する近隣の農民の妻子を生け捕り、城内から内応させることを強要。

内部からあがった火により丹生山城は混乱に陥り、落城したそうです。

丹生山城が秀吉の手に落ちたことで、三木城の補給路は完全に絶たれます。


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本丸跡と思われる山頂には、現在、丹生神社があります。


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丹生神社境内からの眺望です。

見えているのは南側、三木城方面ではありません。

霞がかっていてわかりづらいですが、うっすら明石海峡大橋が見えます。


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ここ、丹生山城は、三木合戦より遡ること250年前の南北朝時代にも、戦乱に巻き込まれています。

その話は、また別の稿でふれてみたいと思います。


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下山は緩やかなハイキングコースをくだりました。

時間はかかりましたが、こっちの方が素人向けでしたね。


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麓のバス停横には、丹生神社の鳥居が。

その鳥居の中に映っているのが、丹生山です。


さて、次稿では、その丹生山城の戦いで命を落とした幼子たちの悲話が残る稚児ヶ墓山を訪れます。




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by sakanoueno-kumo | 2016-10-27 20:19 | 三木合戦ゆかりの地 | Comments(0)  

真田丸 第42話「味方」 ~大坂五人衆~

 今回は「大坂の陣」における豊臣方の主役たちの顔見せの回、プロローグでしたね。慶長19年(1614年)10月以降、大坂城に集まった牢人はおよそ10万といわれますが、それら全てが勇猛果敢な武士たちだったわけではなく、金銀のみめあての者たちが多く含まれていたはずです。また、歴戦の武将たちにおいても、「豊臣家のため」といった忠義の者は少なく、新たな仕官が目的だったり、あるいは起死回生の成り上がりが望みであったりで、ほとんどが利己的な者たちの集まりだったといえます。このとき、実質豊臣家を仕切っていたのは大野治長でしたが、これら烏合の衆といえる集団を一枚岩にまとめるのは至難の業でした。


 そんな集団であっても、戦にのぞむためには大将が必要です。しかし、総大将をひとり定めるのも難しい。そこで、苦肉の策で5人の大将格を定めたのが、「大坂五人衆」だったというのがドラマの設定でした。長宗我部盛親、毛利勝永、真田信繁(幸村)の大名格三人衆に加え、陪臣格ではあるものの猛将として名高い、後藤又兵衛基次、明石全登を加えて五人衆となります。この「大坂五人衆」という呼称は江戸時代中期にまとめられた軍記物のなかに見られるもので、当時からこう呼ばれていたかは定かではありません。ただ、彼ら5人がそれぞれ一軍の将だったことは間違いないので、呼称はどうでもいいかもしれませんね。


e0158128_23464972.jpg 長宗我部盛親は土佐の国主として関ヶ原の戦いでは西軍に加担しますが、盛親はこの前年に国主になったばかりで経験も浅く、西軍についたのも、その未熟さゆえの判断ミスだったといいます。合戦当日においても、背後に陣を布いていた毛利隊の動向を気にして動けず、結局、戦うことなく力が発揮できないまま関が原の敗軍となります。その後、兄の津野親忠を殺害したことなどで徳川家康の怒りを買い、土佐一国を召し上げられてしまいます。牢人となった盛親は、寺子屋の師匠などをして身を立てていたといいますが、やがて豊臣と徳川の間の雲行きが怪しくなると、土佐時代の旧臣1000人を引き連れて大坂城入りします。


 毛利勝永の父・毛利勝信は、もとは豊臣秀吉の配下で黃母衣衆を務めており、天正15年(1587年)には武功により豊前小倉6万石を与えられていました。しかし、関ヶ原の戦いで西軍に与したため改易となり、その後は肥後の加藤清正のもとに身柄をあずけられ、やがて土佐の山内一豊のもとに移されました。しかし、山内家と毛利家は旧知の間柄だったこともあり、囚われの身とはならず厚遇されます。やがて父の勝信は死にますが、勝永は土佐で子宝にも恵まれ、平穏無事な暮らしをしていました。そんななか、大坂からの出陣要請が届きます。勝永は豊臣家の恩顧と山内家の恩義のなかで大いに悩みますが、結局、豊臣家に身を投じる決意をします。このとき、その決意を聞いた妻は、「主君のために働くのは家の名誉。残されるものが心配ならば、私たちはこの島の波に沈み命を絶ちましょう」と言って送り出した逸話は有名で、第2次世界大戦中、軍人の妻の鏡として国民教育に利用されました。


 明石全登は、関ヶ原の戦い前は宇喜多秀家の重臣で、キリシタン大名としても有名です。その経歴には不明な点が多いのですが、関ヶ原の戦いで敗軍となって宇喜多家が没落すると、3000人のキリシタンとともに黒田長政の筑前国で匿われていたといいますが、その間の詳しい消息はわかっていません。大阪の陣が終わったあとの消息も定かではないので、ほぼ謎の人物といえます。


e0158128_13071626.jpg そして後藤又兵衛基次「黒田二十四騎」「黒田八虎」のひとりとして名高い又兵衛は、黒田官兵衛孝高のもとで武功を重ね、一時は大隈1万6千石もの大封を与えられていましたが、官兵衛の死後、新しい主君の黒田長政とそりが合わず、慶長11年(1606年)に黒田家を出奔してしまいます。それでも、又兵衛の武勇は天下に轟いており、細川忠興、福島正則、前田利長、結城秀康など名立たる大名から誘いがかかりますが、長政がしいた「奉公構」によって実現しませんでした。「奉公構」とは、出奔した家臣を他家が召抱えないように釘を刺す回状を出すことで、豊臣政権によって始まった制度でした。その後、又兵衛は京に流れて牢人生活となりまずが、信繁らと同じく大坂方からの要請を受け、大坂城入りします。


 以上が、信繁を含めた「大阪五人衆」の経歴。このあと、この5人を中心に話が展開していくことになるのでしょうね。他にも、塙団右衛門直之も出てきましたね。団右衛門は名前を書いた木札を信繁に渡していましたが、あれも、大坂冬の陣における本町橋夜襲の際の逸話からくるものです。


 あと、信繁が大坂城入りした報せを受けた家康が、「それは親か子か?」と質問し、掴んだ戸をガタガタと震わせて怯えるシーンがありましたが、これは江戸時代に編纂された『幸村君伝記』のなかにでてくるエピソードで、後世の創作でしょう。家康が昌幸の死を知らなかったとは思えませんし、家康がそれほど信繁を警戒していたとも思えません。ただ、あまりにも有名なエピソードだけに、採り上げないわけにはいかなかったのでしょうね。

 大阪の陣の役者は揃いました。いよいよ物語はクライマックスに向かいます。



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by sakanoueno-kumo | 2016-10-25 23:48 | 真田丸 | Comments(0)  

後藤又兵衛基次ゆかりの地をたずねて。 その3 「蛇塚~又兵衛田」

「その1」で紹介した周辺の後藤又兵衛史跡マップに「蛇塚」なるスポットが載せられていたので、足を運んでみました。


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これがその「蛇塚」です。

なにやら古墳跡のようにも見えますが、これが又兵衛ゆかりの史跡なんだとか。

以下、説明板の文章をそのまま引用します。


むかし、南山田の池田という所におった大蛇が田畑を荒らし回り、村人を苦しめていた。近くの城山に城があって、そこに後藤又兵衛が住んでいた。その近くの射場という所で弓の稽古をしていた又兵衛は、「拙者が退治をしてやろう」と言ったそうだ。

 やがて池田に大蛇が出た。又兵衛が、射場から弓を射ると見事に大蛇に命中して退治してくれた。しかし、大蛇は余りに大きかったので、頭の方を寺垣内に埋め、胴体を四畑に、尻尾は奥の谷へ埋めた。それでこの辺りを蛇塚というそうな。 (口伝により)


つまり、又兵衛が大蛇退治し、ここに埋めたんだそうです(頭か胴体か尻尾かはわかりませんが)。

ただ、又兵衛がこの地に住んでいたのは少年時代だったはずですから、にわかに信じがたい話ではありますけどね。

ていうか、そもそも大蛇自体が伝説ですけど。


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もう1ヶ所、又兵衛ゆかりの史跡を紹介。

南山田城跡の北側は、現在、田園地帯になっているのですが、その1角に、「又兵衛田」と呼ばれる田んぼがあります。


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以下、説明板の文をそのまま引用します。


「又兵衛田」

1611年(慶長16年)以降、姫路城の城主・池田輝政の配慮で後藤又兵衛の扶持米を作ったとされる田で、「又兵衛田」と言い伝えられてきた。

黒田家を出奔後の後藤又兵衛の命をつないできた貴重な田である。


晩年の又兵衛が、一時、播磨に戻ってきたとは知っていましたが、この地に戻ってきてたの?


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黒田官兵衛の元で武功を重ね、一時は大隈1万6千石もの大封を与えられていた又兵衛でしたが、新しい主君の黒田長政とそりが合わず、慶長11年(1606年)に黒田家を出奔してしまいまず。

それでも、又兵衛の武勇は天下に轟いており、細川忠興、福島正則、前田利長、結城秀康など名立たる大名から誘いがかかりますが、長政がしいた「奉公構」によって実現しませんでした。

「奉公構」とは、出奔した家臣を他家が召抱えないように釘を刺す回状を出すことで、豊臣政権によって始まった制度でした。

その後、又兵衛は京に流れて浪人生活となり、そして、慶長19年(1614年)に大坂と幕府の関係に暗雲が立ち込めると、大野治長の招きで大坂城に入ります。

そして、翌年の5月6日、道明寺の戦いにおける小松山の攻防戦壮絶な死を遂げるんですね。

大坂の陣では真田信繁(幸村)と並び称される英雄の又兵衛ですが、大坂城の浪人衆からは、又兵衛が最も慕われていたといいます。

あのまま自分を押し殺して長政に従っていれば、大隈1万6千石で穏やかな余生を迎えていたことでしょう。

でも、後世にはそれほど名を知られていなかったでしょうね。

又兵衛にとってどちらが幸せだったかはわかりませんが、自身の生き方を貫いた又兵衛の生き様に、後世のわたしたちは魅せられるのでしょう。


又兵衛関連の史跡は、大坂の陣シリーズでも紹介しています。

よければ一読ください。

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by sakanoueno-kumo | 2016-10-21 18:34 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

後藤又兵衛基次ゆかりの地をたずねて。 その2 「福田寺」

南山田城跡の公園から150mほど西にある福田寺を訪れました。

ここは、南山田城主・後藤家の菩提寺だそうです。


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後藤氏の出自は諸説ありますが、藤原氏の流れをくむ後藤基清の子、基重が、承久の乱の後に播磨国安田荘の地頭となったことに始まったといいます。


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その後、建武年間、播磨国の守護職・赤松則村(円心)の幕下であった後藤基明が、ここから2kmほど北にある春日山城の初代城主となり、時代は下ってその9代目にあたる後藤基信のとき、中国征伐に向かう羽柴秀吉によって城は攻め落とされました。

その後藤基信の弟が、後藤又兵衛基次の父・元国でした。


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山門の横に、最近建てられたと思われる「後藤又兵衛顕彰碑」と刻まれた石碑がありました。

その背後に見える森が、南山田城跡の公園です。


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高さは約2.5mあります。

やりの名手として知られた又兵衛にちなみ、やりの穂先の形に仕上げられたのだとか。


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石碑裏面の説明書きです。

「又兵衛400年祭」と記されているように、没後400年を記念して建てられたようですね。

2015年5月6日とあります。

又兵衛が討ち死にしたのは、大坂夏の陣大坂城が落城する1日前の慶長20年(1615年)5月6日、現在の住所でいえば大阪府柏原市で行われた道明寺の戦いにおける小松山の攻防戦でした。

石碑は、その400年後の命日に建てられたわけですね。

ちなみに、又兵衛は一般に「基次」の名で知られていますが、実は、当時の記録に「基次」と記された史料は存在せず、「正親」が実名だったようです。

真田信繁における「幸村」という名と同じく、「基次」も後世の創作と考えてよさそうです。


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境内です。


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本堂です。

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本堂裏の墓苑の一角に、「後藤又兵衛父母の供養塔」があります。


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又兵衛の父母の没年は定かではありません。

別所氏滅亡後は仙石秀久に仕えたといわれますが、この地に供養塔が残っていることを思えば、あるいは三木合戦時に落命したのかもしれませんね。

息子の又兵衛が有名にならなければ、父の名前すら後世に残らなかったかもしれません。


もう1回だけ続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2016-10-20 19:03 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(2)  

後藤又兵衛基次ゆかりの地をたずねて。 その1 「南山田城跡」

後藤又兵衛基次といえば、若き日は「黒田二十四騎」「黒田八虎」のひとりとして、晩年は大坂の陣の大坂方の武将として、真田信繁(幸村)と並び称される英雄として後世に人気の人物ですが、その又兵衛の生誕地と伝わる姫路市山田町を訪れました。


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といっても、ここを目当てに訪れたわけではなく、別の目的でこの道を通ったところ、たまたま「後藤又兵衛」と書かれたを見つけ、つい立ち寄った次第です。

こういう偶然を想定して、休日はいつもカメラを持参しています。

ただ、この日はあいにく小雨がパラつく天気で、暗い写真ばかりなのが残念ですが。


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看板にあった史跡マップを参考に、「南山田城跡」を目指します。


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手前に見える森が、城跡のようです。


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城跡といっても遺構などはほとんど残っておらず、現在は公園として整備されています。


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公園内は広場になっており、北側から東側ののなかに、わずかに土塁っぽい遺構が残されています。


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公園内ある古い祠と、城跡の説明板です。


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南山田城の築城年代は定かではありませんが、又兵衛の父である後藤基国によって築かれたと伝えられます。

天正6年(1678年)に織田信長の命を受けた羽柴秀吉が播磨国に侵攻すると、三木城主・別所長治らがこれに反旗を翻し、別所氏の配下にあった後藤氏は、運命を共にします。

しかし、当時まだ幼かった基国の子・又兵衛は、姫路城代だった黒田官兵孝高に預けられました。

しかし、官兵衛が荒木村重によって有岡城幽閉された際、黒田家家臣一同の誓紙への署名を、又兵衛の叔父である春日山城主後藤基信が拒否したため、後藤氏一族は追放となり、又兵衛も黒田家を去ることになります。

その後は仙石秀久に仕えたといわれますが、確かではありません。


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公園の周辺は曲がりくねった道で囲われていて、かつての堀跡を思わせるロケーションです。


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ここは明らかに土塁跡でしょうね。


南山田城跡のその後は定かではありませんが、ここから2kmほど北にある又兵衛の叔父・基信の春日山城が秀吉軍によって攻め落とされたとき、共に落城したとみていいのではないでしょうか。

次稿では、又兵衛の父・母が眠る福田寺を訪れます。


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by sakanoueno-kumo | 2016-10-19 22:15 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

真田丸 第41話「入城」 ~九度山村脱出と真田家嫡男問題~

 「方広寺鐘銘事件」徳川家との関係が急速に悪化した豊臣家は、旧豊臣恩顧の大名たちを味方に引き入れようと試みますが、そのすべてに拒否されてしまいます。そこで、淀殿豊臣秀頼の側近・大野治長は、浪人たちを大坂城に招いて軍備を整える計画を立てます。関ケ原の戦い以降、西軍に加担して改易減封となった武将たちが、他家に召し抱えられずに牢人として全国に多く潜んでいました。それらの浪人たちは当然、江戸幕府を苦々しく思っており、起死回生のタイミングを待っていました。彼らにしてみれば、大坂城からの招集は願ってもないチャンスだったわけです。


e0158128_02593242.jpg 九度山村にて不遇をかこっていた真田信繫(幸村)のもとにも、大坂城からの密使かやってきます。そして、信繁に大坂城入りしてもらう支度金として黄金200枚、銀30貫を贈ったといいます。現在の価値で5億円以上だそうで、これを信繁をはじめ浪人たちにバラまいてたわけですから、いまだ豊臣の財力が衰え知らずだったことがうかがえます。大金をもらったからというわけではないでしょうが、信繁はこの要請を快諾し、慶長19年(1614年)10月9日に九度山村を脱出、大坂城に向かいます。


 信繁が九度山村を脱出した方法については、様々な伝承が残っていますが、その最も有名なものとしては、九度山村の庄屋、百姓たちを招待してをふるまい、彼らが酔いつぶれて寝込んだ隙に脱出したというもの。ドラマでも、この伝承をベースにしていましたね。この話は、信繁が死んで60年以上のちに編纂された戦国武将の逸話集『武辺拙聞書』によるものです。実際には、信繁たちを監視する代官もいたはずで(ドラマではその代官にも酒を飲ませていましたが)、もしこれが実話なら、信繁の監視を任されていた浅野家は、幕府から相当なお咎めを受けていたことでしょう。たぶん、後世の創作でしょうね。実際のところは、大坂の陣以前は、真田信繁という存在など幕府はさして重要視しておらず、監視もそれほど厳重ではなかったため、脱出もそれほど難しいことではなかった、といったところではないでしょうか?


 ただ、九度山村から信繁に従って大坂城に入った百姓がいたという話は『蜂須賀家文書』のなかに見られ、『九度山町史』にも記されているそうです。これは十分に考えられる話ですよね。九度山村で暮らすこと十余年。地元農民との交流のなかで、心を通じ合わせていたとしても何ら不思議ではありません。のちの大阪の陣における真田隊の結束などを見ても、信繁は人を引きつける魅力を持った人物だったのではないでしょうか。宴の話は創作としても、九度山脱出において、農民たちの協力があったというのは、本当の話かもしれませんね。


 大坂城入城の際のあの変装についてですが、これは、軍記物などに見られる「伝心月叟という山伏に身をやつして入城した」という逸話をベースにしたものでしょう。また、信繁はこれより少し前に姉に宛てた書状のなかで、「このところ急激に年を取り、ことのほか病身になり、歯も抜け、髭も黒いところがありません」と伝えており、これもあの変装で処理したのでしょうね。実際、主人公をこんな風貌にしてしまったら視聴者が引くでしょうし、この書状の事実をドラマでどう扱うのかと思っていたのですが、山伏の変装エピと絡めるとは・・・。毎度のことながら、三谷脚本スゴイ!


e0158128_02593024.jpg 沼田城真田信之に目を移します。信之がこの時期病身だったのは事実で、二度の大坂の陣にも参戦しませんでした。その代わり、長男・信吉と次男・信政を出陣させます。ドラマでは、未熟な息子二人を心配して、矢沢三十郎頼幸と姉婿の小山田之知に援助を頼んでいましたが、実際にも、二人を守りたててほしいと何度も三十郎と之知に書状を送って頼んでいます。私にも、来春大学を出て東京に就職が決まった息子がいますが、子供というのはいくつになっても親の目から見れば未熟にしか見えず、心配は拭いきれません。


 この信吉と信政の嫡男問題が描かれていましたが、実はこの後継者となった信吉という人物は、結構が多いんですね。というのも、生年自体が諸説あって定まっていません。また、生母についても詳らかではなく、真田家の公式記録『真田家御事績稿』のなかの『天桂院殿御事績稿』には、生母は小松姫とあるのですが、『真田家御事績稿』には、生母は真田信綱の息女だったと記されています。つまり、ドラマでいうところのおこうですね。また、別の説では、信之が侍女に産ませた子という説もあります。ドラマでは、小松姫の輿入れによっておこうは侍女となり、信之の子を産み、小松姫の養子となって家督を継いだという設定でしたね。つまり、すべての説をミックスさせて辻褄を合わせたかたちです。この設定を視野に入れて、おこうを侍女にしていたんですね。いや~、お見事です。


 史実では、こののち信之は信繁と会うことはありませんが、信吉と信政は、大坂冬の陣の和睦後に対面します。そこでどんなドラマが用意されているのか、楽しみですね。



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by sakanoueno-kumo | 2016-10-17 18:17 | 真田丸 | Comments(0)  

夏休み中播磨路紀行2016 その5 「書寫山圓教寺 ~後編~」

前稿に引き続き書寫山圓教寺です。

圓教寺の敷地内はあまりのも広大で、すべてをじっくり観光するには1日中かかるくらいの規模です。

この日は午後からの限られた時間での観光だったので、摩尼殿を訪れたあとは、その西奥にある有名な三之堂へ。


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摩尼殿から西へ向かう参道です。

豪壮な石垣群は、まるで城跡のよう。


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でも、城跡じゃないとわかるのは、石垣の上に無数の地蔵群が・・・。

なんとも神秘的な空間です。


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数分歩くと、有名な3つの堂の建つ空間にたどり着きます。

右側の建物が大講堂、左奥に見えるのが食堂(じきどう)、写真左に屋根の先端が少しだけ見えているのが、常行堂です。

いずれも室町時代の再建で、国の重要文化財です。

写真では伝わりにくいですが、目の前に広がる雄大な光景に、しばし言葉がでませんでした。


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こちらが、大講堂側から見た常行堂


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こちらは、食堂2階から見た常行堂


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こちらも、食堂2階から見た大講堂です。


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ここ三之堂は、映画やドラマのロケ地に何度もなっていますが、そのいちばん有名なものとしては、あのトム・クルーズ主演の『ラスト・サムライ』でしょうね。

トム・クルーズ演じる主人公のオールグレン大尉と、渡辺謙さんが演じる勝元の絡みのシーンは、ここ食堂で撮影されました。


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なんでも、映画スタッフがロケ地候補の姫路城の視察に訪れた際、近くのこの地に観光がてらに立ち寄ったところ、ひどく気に入られ、ロケ地に決まったそうです。

ということは、トムもあのロープウェイに乗って来たのかと思ったのですが、宿泊先の神戸からヘリでここまで着たそうです。

さすがは超スーパーハリウッドスターですね。

庶民的な謙さんは、たぶんロープウェイで来たんじゃないでしょうか?


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他にも、NHK大河ドラマでは平成15年(2003年)の 『武蔵-MUSASHI-』や、平成26年(2014年)の『軍師官兵衛』でもロケ地となっています。

宮本武蔵と圓教寺の関りについては記録に残っていませんが、武蔵と姫路の関りは深く、武蔵の養子となった宮本三木之の墓が、ここ圓教寺にあります。


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黒田官兵衛
と圓教寺の関係は、天正6年(1578年)、織田信長の命により播磨攻めを開始した羽柴秀吉に、ここ書写山に陣を布くよう勧めたのが官兵衛だったと伝えられます。

食堂には、そのときの羽柴秀長の家臣の落書きが残されていました。


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毎年夏の旅行で子供たちには何か体験学習をさせているのですが、今年はこの食堂で、なんと写経体験に挑戦。

写経は、本格的な般若心経と、初心者向けの簡易な花びら写経があります。

花びら写経は約10分程度でできるのですが、般若心経は1時間以上かかります。

ほとんどのメンバーは花びら写経を体験しましたが、一応、書道の有段者である中3のわが娘だけは、高校合格祈願をかけて般若心経に挑戦。

集中力と根気を要する作業です。


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トム・クルーズと渡辺謙さんが絡んだシーンと同じ場所での写経です。


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わたしも、花びら写経に挑戦。

筆をとる前に、まずは手を合わせて般若心経を唱えます。


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皆が無言で机に向かう姿は、なかなか貴重な光景です。


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前日に転んで肘と膝を怪我したOL1年生の彼女の願掛けは、「ケガをしない!」


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そして、わが娘の般若心経が完成。

果たして志望校合格のご利益があるか!

静寂に満ちた空間で、背筋を正して写経。

たまには、そういった非日常な時間を過ごしてみるのもいいですね。


圓教寺を後にすると、中播磨といえばやはり世界遺産の姫路城

最後に少しだけ足を運びました。


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姫路城については、以前たっぷりレポートしていますので、よければ一読ください。

  ↓↓↓

白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 


以上、2016年の夏休みレポートを終わります。



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by sakanoueno-kumo | 2016-10-14 18:57 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

夏休み中播磨路紀行2016 その4 「書寫山圓教寺 ~前編~」

西の比叡山と称される天台宗の古寺「書寫山圓教寺」を訪れました。

書写山は、姫路市の北部にある標高370mの山で、圓教寺はその山上にあります。


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山頂までは麓から登山すると1時間以上かかるそうで、この日はロープウェイで登ります。


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ロープウェイは黒田官兵衛キャラでラッピングされています。

2014年の大河ドラマ『軍師官兵衛』以降、姫路市周辺はこの官兵衛くんキャラでいっぱいです。


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ロープウェイを降りたらすぐ圓教寺というわけではなく、そこから20分ほどの登山です。

この日は8月13日の真夏日

私はこのところ休日は史跡めぐりばかりしているため、こういったシチュエーションは慣れているのですが、山に慣れてない人は、結構キツイかもしれません。

体力に自信のない人のために、バスもあります。

ちなみに私の妻は、迷わずバスに乗車しました。


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登山道途中の展望台からの眺望です。


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そこに設置されたベンチに、眺望の詳細な説明書きが・・・。

これって、落書き?

落書きとしては、かなりクオリティ高いです。

この説明(落書き)によると、ここから姫路城が見えるとのことでしたが、見えるような見えないような・・・。


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展望台で記念撮影。


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しばらく登ると、ようやく仁王門にたどり着きました。

ここから、書寫山圓教寺です。


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圓教寺は、康保3年(966年)に天台宗の僧・性空によって創建されたと伝えられ、花山法皇(第65代天皇)の勅願所となりました。

以後、後白河法皇(第77代天皇)や後醍醐天皇(第96代・南朝初代天皇)など多くの皇族が行幸、また勅願により建物の改築・改修、建立が行われています。


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有名な「摩尼殿」です。

書寫山圓教寺で画像をググったら、まずこの画像が出てきますね。


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摩尼殿の号は承安4年(1174年)に参詣した後白河法皇によるものだそうです。

摩尼殿は、京都の清水寺と同じ舞台造りとなっています。

たしかに似てますね。


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姫路の人は、「摩尼殿の舞台から飛び降りる」って言うんですかね?(笑)


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圓教寺は広大すぎて、とても一回では紹介できません。

次回に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2016-10-13 19:11 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)