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三木合戦ゆかりの地めぐり その42 ~山下城跡~

前稿の野上城跡(常泉寺)から直線距離にして4.5kmほど西の兵庫県加西市にある「山下城跡」を訪れました。

ここは三木合戦当時、別所長治の幕下・浦上久松の居城だったと伝わります。


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城跡近くに常行院という寺院があり、その横に駐車場があります。

寺院前には城跡までの案内板が設置されています。


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城跡に向かう遊歩道にも誘導表示が設置されていて、迷うことはありませんでした。


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しばらく進むと、丘の麓に登城口が見えます。


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おそらく、ここは大手口搦手口といった正式な城の入口ではなく、城巡り客用に作られた登城口だと思います。


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しばらく登ると、大きな堀切跡に目を奪われるのですが、写真じゃわかりづらいですね。


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登城道は整備されていて、簡単に登れます。


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二ノ丸跡です。

それほど広くはありません。


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上から見下ろした二ノ丸跡です。


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そして更に上を目指し・・・。


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本丸跡です。


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本丸跡には、常行院前にあった案内板より詳細は想定縄張り図が設置されています。

いま登ってきたルートは、左下の遊歩道入口から大堀切横を通って、二郭、本郭というルートです。


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ここ山下城主の浦上久松は、三木城主・別所長治の幕下として兵を伴い三木城籠城戦に参陣、最後は長治と共に自刃して果てたと伝わります。

その久松の母は、黒田官兵衛孝高の父・黒田職隆の娘とも言われます。

ということは、久松は官兵衛のということになりますね。

久松は長治と同じく若い城主だったのでしょうか?


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山下城は戦国期の城としては珍しい平山城で、本丸は比高約30mの丘上にあります。

その本丸跡からの南西の眺望です。

左端に少しだけ覗いているのが、善防山城跡です。


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本丸を下りて、大手口方向に向かいます。

立派な土塁跡です。


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上の縄張り図でいうところの大手守備郭から見た北西の景色です。

春日山城跡のある飯盛山が見えます。


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城跡の外周を散策しました。

田園が美しい。


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南西から見た山下城跡です。

さぞ立派な城だったんでしょうね。


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先ほどいた本丸跡を見上げます。

浦上久松が三木城に籠城したという記録は残っていますが、ここ山下城が三木合戦でどんな戦いをしたかはわかっていません。

これだけ立派な城ですから、別所方の拠点として何らかの役割を果たしていたのではないでしょうか?


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ちなみに、ここ山下城は、南北朝時代の光明寺合戦にも関わっていたようです。

その話は、また別の機会で。


次回に続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2016-11-30 18:20 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

真田丸 第47話「反撃」 ~大坂冬の陣講和~

 徳川方の砲撃に恐れおののいた淀殿は、一転して和議の申し出に応じる姿勢を見せます。ここに至るまでも、淀殿の叔父にあたる織田有楽斎長益が何度も和議を持ちかけていましたが、淀殿は一貫して強硬姿勢をとっていました。しかし、目の前で侍女が命を落とした出来事は、あまりにもショッキングだったのでしょう。とうとう有楽斎の進言をのみます。その有楽斎が初めから徳川方に通じていたことなど、もちろん知るはずもありませんでした。このとき、豊臣秀頼は頑強に和議に反対していたといいますが、結局、淀殿や有楽斎に押し切られてしまいます。

e0158128_22213540.jpg 徳川、豊臣両者による和議の話し合いが行われたのは、慶長19年(1614年)12月18日と19日の2日間。『大坂冬陣記』によると、徳川方の交渉役は徳川家康の信頼厚い側室・阿茶局と、この頃、父の本多正信に代わって家康付きになっていた本多正純で、豊臣方の使者に抜擢されたのは、淀殿の実妹・常高院(お初)でした。常高院は淀殿の妹であるとともに、徳川方の総大将・徳川秀忠(大坂の陣は実質、家康が指揮を採っていましたが、形式上は征夷大将軍である秀忠が総大将でした)の正室・お江の実姉でもあり、中立的な立場といえ(実際には、常高院の子である京極忠高は徳川方に与していたため、中立ではありませんでしたが)、交渉が行われたのも、京極家の陣所でした。戦後の交渉役に武士以外の僧侶や商人が抜擢されることは珍しくなく、女性が事に当たったという例もなくはなかったようですが、大坂冬の陣のような、動員兵力が桁外れに大きな合戦の和睦交渉で、双方ともに女性が使者に指名されたという例は、おそらく日本史上で初めてのことだったのではないでしょうか。

e0158128_22212613.jpg 同じく『大坂冬陣記』によると、豊臣方の示した和議の条件は、

一、本丸を残して二の丸、三の丸を破却し、外堀を埋めること。

 一、淀殿を人質としない替わりに大野治長、織田有楽斎より人質を出すこと。

とあり、これに対して徳川方の条件は、

 一、秀頼の身の安全と本領の安堵。

 一、大坂城中諸士についての不問。

というもので、これを約すことで和議は成立しました。一般に、家康が豊臣方を騙して堀を埋め立てたというイメージがありますが、実は、この堀の埋め立ては豊臣方から提示したものなんですね。この城の破却(城割)という条件は、古来より和睦条件において行われてきた方法でした。しかし、大抵の場合は堀の一部を埋めたり、土塁の角を崩すといった儀礼的なものだったといいます。つまり、これ以上戦う意志はありませんという意思表示のためのジェスチャーだったわけです。

ところが、家康はこれを機に徹底的な破壊を実行します。約定では、城の破却と堀の埋め立ては二の丸が豊臣家、三の丸と外堀は徳川家の持ち分と決められていたにも関わらず、徳川方は20万の軍勢を使ってまたたく間にすべての堀を一斉に埋め立て、大坂城の防御力を一気に削いでしまいました。最初から家康の狙いはこれだったんですね。家康にしてみれば、20万の兵を持ってしても大坂城を落とすのは容易ではなく、豊臣家の財力を考えれば、2年や3年の籠城戦は可能だろう。その間、この度の真田丸の戦いのように、味方の兵力の被害も多く予想され、さらには、家康自身の寿命だって尽きるかもしれない。そう考えると、一刻も早く決着をつけたい。そのためには、大坂城の防御力を奪い、城の外に引き出して家康の得意な野戦に持ち込みたかったわけです。いうまでもなく、家康ははじめから和睦する気などさらさらなかったんですね。その家康の目論見にまんまと掛かった豊臣方。秀頼も淀殿も、暗愚だったとはいいませんが、家康の政治力の前では、赤子同然だったといえるでしょう。

 かくして裸城となった大坂城内には、真田信繁をはじめ牢人たちがなおも残っていました。彼らの目的は、新たな仕官を求めてきたものや、最期の一花を咲かせるためにきたもの、死に場所を求めてきたものなど様々でしたが、いずれの者にとっても、この突然の和議成立は納得できるものではありませんでした。しかし、そんな牢人たちの存在が、家康が再び戦いに持ち込むための格好の材料になっていくんですね。歴史は家康の描いた筋書きどおりに運んでいきます。この最晩年の家康は、三谷幸喜氏も及ばない天才シナリオライターでした。



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by sakanoueno-kumo | 2016-11-28 22:24 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(2)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その41 ~野上城跡(常泉寺)~

兵庫県加西市にあった伝わる「野上城跡」を訪れました。

現在、城跡とされている場所は、常泉寺というお寺になっています。


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野上城の築城時期は不明ですが、城主は別所長治の幕下だった岩崎源兵衛という人物でした。

三木合戦に際に源兵衛は、三木城に篭って大いに奮戦したそうですが、三木城開城前に自刃して果てたと伝わります。


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その後、岩崎伝兵衛という人物(たぶん源兵衛の一族?)によってこの地に常泉寺が開かれ、源兵衛の菩提寺となりました。

そしてその子孫は、この地に代々永住したと伝えられます。


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現在の常泉寺周辺は、城跡の遺構は何も残されていません。

ただ、お寺は田園風景のなかの高台にあり、まわりは水路で囲まれていて、なんとなく、城跡っぽい雰囲気を醸しだしていました。


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まあ、城跡と知って見ると、そう見えるのでしょうけどね。

元来、寺院と城というのは、一対だった場合が多いですから。


次回につづきます。



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by sakanoueno-kumo | 2016-11-26 05:24 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その40 ~阿形城跡~

兵庫県小野市にあったとされる「阿形城跡」を訪れました。

ここも、三木合戦の際に別所氏に従って戦下に加わった城と伝えられます。


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現在、城跡の遺構は本丸跡と思われる「陣山」と名付けられた丘陵のみ残されています。


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陣山の入口には、小さな説明板のみ設置されています。


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陣山の頂上には、結構な樹齢と思われる巨木が聳えます。

でも、往時を知るほどではないかな。


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説明板によると、阿形城が文献などに出てくるのは、天正年間(1573~1594年)だけだそうで、それ以前のことはまったく不明だそうです。

『播磨古城軍記』によれば、阿形城の城主であった油井土佐守勝利別所長治の幕下であり、三木合戦の際に三木城籠城に参加したため、ここ阿形城は羽柴秀吉軍によって攻め落とされたと伝わります。


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現在、陣山の上は、ご覧のとおりになっています。


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陣山の周りには水路が巡らされていて、なんとなく、かつての堀跡の名残なのかなあといった雰囲気でした。


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ここ阿形城は加古川万願寺川の合流点の西に位置し、標高35mの高台にあります。

城の規模は南北150m、東西70mほどだそうで、陸上競技場くらいの広さがあったようです。

地方の田舎豪族としては、結構な大きさですよね。

油井氏というのはよく知りませんが、当時は、このあたりで結構な力を持っていたのかもしれません。


次回に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2016-11-24 23:52 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その39 ~豊地城跡~

小沢城跡から2kmほど南西に「豊地城跡」があります。

現在の住所でいえば、兵庫県小野市と加東市のちょうど境目あたりが城跡とされています。


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かつては小沢城主の依藤氏が豊地城を居城としていたようですが、三木合戦当時は、三木城主・別所長治の叔父・別所重宗の居城となっていました。

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三木合戦以前は、兄の別所吉親(賀相)と共に若き長治の補佐役を務めていた重宗でしたが、かねてから兄との折り合いが悪く、家内でそれぞれの派閥をつくり、政務のことごとくを対立していたといいます。

その延長線上からか、兄の賀相は毛利氏支持を、弟の重棟は織田氏支持を主張していました。


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一時は織田氏指示でまとまったかに見えた別所氏でしたが、「その18」で紹介した加古川評定の席で兄の吉親(賀相)が羽柴秀吉と衝突し、これをキッカケに別所氏は織田氏に叛旗を翻します。

しかし、重棟は納得がいかず、別所家を出奔して織田方につきました。

この、いわば兄弟喧嘩が、三木合戦のキッカケだったともいえます。

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現在城跡は田園地帯となっていますが、平成22年(2010年)の道路整備による発掘調査で、多くの遺構が発見されたそうです。

その後、また遺構は田畑に埋もれてしまいましたが、南側には、幅11m、高さ5mの立派な土塁跡が残されています。


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土塁の南側(写真右側)は外堀跡です。


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みごとな土塁跡ですね。


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土塁に登って北側を望みました。


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紺のプリウスαは、わたしの愛車です(笑)。


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豊地城の歴史は古く、南北朝時代の延元元年/建武3年(1336年)に北朝方に焼き払われたと伝わる東条城は、ここ豊地城の前身と考えられているそうです。

その後、赤松氏の有力家臣だった依藤氏の居城となり、その依藤氏から城を奪ったのが、別所氏だったと伝わります。

しかし、三木合戦終結後に重宗は但馬国に移封となり、同年6月に秀吉から播磨8城の破城令が下され、豊地城は破城となりました。




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by sakanoueno-kumo | 2016-11-23 19:36 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

真田丸 第46話「砲弾」 ~真田信繁調略失敗と、本町橋の夜襲~

 真田丸の戦いで甚大なダメージを受けた徳川家康は、ひとまず和議の方向に動きはじめます。その一方で、今や大坂方の英雄となった真田信繁に狙いを定め、調略の手を伸ばします。この時点で信繁が、今後の戦いにおけるキーパーソンと家康が睨んでいたことがわかる話ですね。信繫を寝返らせることができれば、今後の戦いが大いに楽になる。家康はそう考えていたに違いありません。真田丸の戦いは、それほど家康にとって手痛い敗北だったのでしょう。


 信繁の調略の使者として白羽の矢が立ったのは、信繁の叔父・真田信尹でした。このとき信尹は、徳川方の家臣になっており、家康の側近・本多正純を介して命令が下ったとされます。信尹と信繁の会見が行われたのは慶長19年(1614年)12月14日。真田丸の戦いから10日後のことでした。


 『慶長見聞録』によれば、信繁と信尹の会見は夜半に行われたといいます。しかし、その内容については、あくまでも伝承レベルにすぎません。『真武内伝』によれば、信繁が徳川方についてくれれば3万石を与えようと言ったとされ、また、『慶長見聞録』によれば、信濃国内に10万石を与えるとの意向を伝えたといいます。しかし、信繁は豊臣秀頼への恩義を重んじてこれを拒絶し、ただし、和睦が成立すれば、たとえ千石でも仕えると申し添えたといいます。つまり、ことの判断は報酬の大小ではない、ということですが、この報告を受けた正純は、10万石の報酬が不服だったのだろうととらえ、今度は信濃一国を与えるという条件で再び交渉に向かわせます。ところが、信繁はこの言葉を聞いて激怒し、信尹との面会を拒否したといいます。信濃一国といえば40万石以上あり、兄・真田信之を遥かに凌ぐ石高で、あまりにも現実味のない話。もし、信濃一国を信繁に与えるとなると、豊臣方を滅ぼさない限り領地が足らないんですね。信繁にしてみれば、「バカにするな!」といった心境だったのでしょう。


 ドラマでの信繁と信尹の会見は、そんな見え透いた駆引はなしでしたね。


信尹「寝返ったときの褒美が書いてある。読まんでいい。」


名シーンでした。


 徳川方からの和睦交渉の申し入れに困惑するなか、大野治房の指揮下にあった塙団右衛門直之が、夜襲を提案します。団右衛門は豪傑で知られた猛将で、このまま功を立てずに和議に持ち込まれることが不服だったのでしょう。進言を受けた治房もまた、ここまで大きな戦果をあげておらず、団右衛門の案を許可します。その夜襲が行われたのが、大坂城の東に流れる東横堀川に架かる本町橋です。


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慶長19年(1614年)12月17日未明、団右衛門は本町橋の南に陣を布いていた蜂須賀至鎮の陣を襲撃し、その家臣・中村右近を討ち取るなど戦果をあげます。このとき団右衛門は、本町橋の上に置いた床几に座ったまま兵を指揮し、「夜討ちの大将、塙団右衛門直之」と書いた木札をばら撒かせたというエピソードが伝わります。ドラマで団右衛門が名刺代わりのように小札を配っていたのは、この逸話からくるものです。浪人の彼らにとって、戦果は宣伝だったわけですね。


 なかなか和議に応じない豊臣方に対して、家康は矢文を使って盛んに投降を呼びかけるとともに、300挺という大量の大砲を用意し、城に向かって一斉に砲撃を開始しました。その轟音たるや凄まじいものだったようで、『時慶卿記』によれば、大砲の音が京都の朱雀あたりまで聞こえていたといいます。『台徳院殿御実記』によれば、「その響き百千の雷の落ちたるが如く、側に侍りし女房七八人たちまち打倒され、女童の泣き叫ぶことおびただし」と伝えています。


 片桐且元が家康に淀殿の居場所を教えたという話は『難波戦記』にみられるもので、同記によると、家康は城内の淀殿の居場所をめがけて砲を打ち込ませ、のひとつを打ち崩して淀殿の侍女7、8人が命を落としたといいます。それを目の当たりにした淀殿は震え上がり、それまでの強硬論から和議へと転じる姿勢を見せ始めたといいます。これも、家康が描いた筋書きどおりだったのか、あるいは、本気で淀殿を狙ったのかはわかりませんが、いずれにせよ、もし、このとき砲弾が淀殿に直撃していたら、歴史はもう少しシンプルな結末になっていたかもしれません。このときの砲弾が淀殿の命を奪わず、目の前にいた侍女の身体を粉砕したことで、歴史はよりドラマチックなストーリーに繋がっていくんですね。歴史って、つくづく偶然の産物だと思わざるを得ません。


 「私には、あの人が死にたがっているように思えてならないのです。心のどこかでこの城が焼け落ちるのを待っているような。私たちの父も母も城と共に命を絶ちました。姉も自分が同じ運命であると半ば信じています。姉を救ってやってください。」


 淀殿の妹・初(常高院)が信繁に語った台詞です。


 「あなたはきっと戻ってくる。そして、私たちは同じ日に死ぬの。」


 かつて若き日の信繁に向かってそう言った淀殿の心中が、少しだけ見えてきたような気がします。今までにない不思議ちゃんキャラの淀殿の最期をどう描くのか。彼女の心の闇をどう始末するのか。あと4話、楽しみですね。



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by sakanoueno-kumo | 2016-11-22 03:31 | 真田丸 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その38 ~小沢城跡・冷泉為勝、依藤太郎左衛門墓所~

前稿の細川城跡から直線距離で7kmほど北上した兵庫県加東市にあったとされる「小沢城跡」を訪れました。


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三木合戦が行われる直前、細川城主の冷泉為純・為勝父子が三木城主・別所長治の家臣で中村城主岡村秀治に攻められたとき、当時、ここ小沢城主だった依藤太郎左衛門が救援に駆けつけますが、力及ばず敗北。

為純は討死し、息子の為勝は依藤太郎左衛門とともに依藤野へ逃れますが、やがて観念して自刃します。


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写真の丘の上の森が、小沢城跡といわれています。

探索してみようと思ったのですが、柵がめぐらされていたため、森に入るのはやめました。


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小沢城の築城年代は定かではありませんが、一説によると、文治2年(1186年)に依藤豊季平家追討の功で播磨東条谷の地頭職に任ぜられたとき、ここ小沢城を築いたとの伝承があります。

それが事実なら、かなり古い歴史を持つ城ですね。

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小沢城跡から800mほど北西に、冷泉為勝と依藤太郎左衛門の自刃の地と伝わる場所があり、慰霊碑が建てられています。


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「冷泉為勝・依藤太郎左衛門自刃の碑」です。


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墓所です。

右が冷泉為勝、左が依藤太郎左衛の墓石です。


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「天正六年四月一日」と刻まれています。

羽柴軍が三木城の包囲を開始したのが3月29日。

二人が自刃したのは、その3日後だったわけです。

三木合戦最初の犠牲者だったかもしれません。




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by sakanoueno-kumo | 2016-11-19 01:07 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その37 ~細川城跡~

三木城から北東へ7kmほどのところにある「細川城跡」を訪れました。

城跡というより、居館跡といった方が正しいでしょうか。

ここは関白藤原氏の血を引く名門・冷泉家の居館でした。


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三木合戦が行われる直前、三木城主の別所長治は冷泉家に対して反織田方に与するよう誘いますが、当時の主だった冷泉為純とその長男・為勝がこれを断ったため、別所氏の家臣で中村城主岡村秀治に攻められて為純は討死。

為勝は救援に駆けつけた小沢城主依藤太郎左衛門とともに依藤野へ逃れますが、やがて自刃して果てます。

この戦いが、三木合戦関連の最初の戦いでした。


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居館跡に建つ銅像は、為純の三男で、のちに「近世日本儒学の祖」として名を成す藤原惺窩の像です。


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父・兄が討ち死にしたとき惺窩は17歳。

三男ということで幼いころから龍野の景雲寺で禅僧としての修行中だった惺窩は、凶報に接し、姫路の書写山に陣していた羽柴秀吉に面会して仇討家名再興を願い出ますが、秀吉から時期を待つよう諭され、やむなく母や弟妹を伴い京都の相国寺に逃れました。


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以後、としての学問に励みますが、やがて秀吉の天下となり、朝鮮国使節が来国した際、惺窩は秀吉から使者との筆話役を命じられました。

この縁で惺窩は儒学に目覚め、仏道を捨てて学者の道を進みます。


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以来、学ぶところ幅広く、特に、それまで学問の一部にすぎなかった儒学を体系化し、ひとつの独立した学問として作り上げたことにより、広く名が知れ渡りました。

しかし、時の権力に媚びることを嫌い、のちに徳川家康から高禄をもって招かれるもこれを辞退。

士官を好まず自由気ままな学者人生を送りました。

名門・冷泉家に生まれながら、権力争いのなかで滅びていった父や兄の姿を見たことで、権力とは無縁の暮らしを望んだのかもしれませんね。



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by sakanoueno-kumo | 2016-11-17 20:54 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

真田丸 第45話「完封」 ~大坂冬の陣と真田丸の戦い~

 いよいよ「大坂冬の陣」です。その戦端が開かれたのは、慶長19年(1614年)11月19日の「木津川口の戦い」でした。木津川口の砦は豊臣方・明石全登が兵800を率いて守っていましたが、その全登不在中に徳川方・蜂須賀至鎮軍の急襲を受け、豊臣方は壊滅します。


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 次に両軍が対峙したのは、11月26日の「鴫野・今福の戦い」でした。鴫野の戦いは豊臣方・井上頼次隊と徳川方・上杉景勝軍が衝突した戦いでしたが、ドラマでは井上頼次が出ていなからか省略。今福の戦いのみ描かれました。豊臣方の矢野正倫飯田家貞が兵300で守る今福の砦に、徳川方・佐竹義宣が兵1500を率いて襲撃。これを見た豊臣方は、木村重成隊が来援し、さらに後藤又兵衛基次隊も救援に駆けつけ、一時は佐竹隊を押し返す善戦を見せますが、その後、徳川方は鴫野の戦いを制した上杉軍らが来援し、結局、豊臣軍は後退します。


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 さらに11月29日には、豊臣方・大野治胤隊と徳川方・九鬼守隆軍らが対峙した「野田・福島の戦い」で徳川方が勝利し、同日に起きた博労淵の戦いでも、徳川方の圧勝に終わりました。この博労ヶ淵砦を守っていた豊臣方の薄田兼相は、あろうことか遊郭に行っている間に砦を落とされるという大失態を犯しており、味方から「橙武者」とあだ名されて嘲りを受けたといわれています(は、酸味が強くて食べられず、正月飾りくらいにしか使い道がないため、見かけ倒しを意味しました)。ドラマでは、この博労ヶ淵の戦いを、真田信繁織田有楽斎長益内通を確かめるために撒いたに使っていましたね。実際、このときの大阪城内は、内通者だらけだったと言われています。


 かくして、豊臣方の築いた砦はことごとく徳川軍の攻撃によって落とされ、残るは真田信繁隊の守る真田丸だけとなったわけです。


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 真田丸の兵は約5000だったといわれます。一方、寄手の徳川方は、前田利常、松平忠直、井伊直孝らの軍勢、約2万6000の兵だったといわれ、兵力の差は歴然としていました。真田丸を包囲した徳川方は、塹壕土塁を築いて戦いの準備を進めていましたが、これを見た信繁の兵は、真田丸近くの篠山からその作業を妨害すべく射撃を繰り返します。これに業を煮やした前田勢は、12月4日、本多政重らを先鋒として篠山に攻め込みますが、このとき真田隊の兵は既に真田丸に退却しており、篠山はもぬけの殻でした。そこへ真田軍の兵が盛んに前田勢の兵を挑発したため、前田勢は一気に篠山を駆け降りて真田丸に突撃します。しかし、これこそが信繁の策略だったわけです。


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 このとき、大阪城内で火薬庫が爆発する事故が起きるのですが、これを豊臣方に潜入した徳川方内通者の仕業と勘違いした前田勢は、いっそう勢いにのって突進します。ドラマでは、これも佐助が仕組んだ策略だったように描かれていましたね。あるいそうだったかもしれません。ここぞとばかりに真田丸に押し寄せた前田勢の兵たちは、一斉に柵を破って空堀のなかに飛び込み、そこから真田丸の城壁をよじ登りはじめます。この様子を見ていた真田方は、「待ってました」とばかりに一斉射撃を開始しました。このときの様子を『大坂御陣覚書』では、「弓・鉄砲にて打ち立てること雨の如く」と記されています。空堀のなかの前田勢の兵たちは為す術もなく、ただ弾丸の的となるばかりでした。松平勢の抜け駆けに遅れを取るなとばかりに続いた松平軍、井伊軍も同じで、徳川方はおびただしい数の戦死者を出します。


 『孝亮宿禰記』によると、「越前少将(松平忠直)の勢四百八十騎、松平筑前(前田利常)の勢三百騎死す。このほか雑兵の死者その数を知らざる風聞これあり」とあり、『東大寺雑事記』には、「大坂之城大ゼメ、今日迄ニヨセ衆一万五千人程打ルト云々」と記し、『言緒卿記』にも、「大坂城責アリテ、寄セ衆ノ人数多く損ズと」とあります。徳川方、痛恨の大敗北でした。真田信繁という名が、歴史に轟いた瞬間です。


春「いくさが終わったら、また豊臣の世が来るのですか?」

信繁「たとえ勝ったとしても、もはや徳川の天下が動くことはあるまい。」

春「では、秀頼公は?」

信繁「ひょっとすると、一大名としてどこかを治めることになるかもしれぬな。」

春「そのとき旦那さまは?」

信繁「思うところはあるが・・・。まだこれからどうなるか。」


信繁の「思うところ」というのは、なんだったのでしょうね。



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by sakanoueno-kumo | 2016-11-15 22:07 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その36 ~渡瀬城跡~

三木城から直線距離にして13kmほど北東の吉川町にある「渡瀬城跡」を訪れました。

ここも、三木合戦のときに別所方に与し、羽柴秀吉軍によって滅ぼされた城です。

渡瀬城は兵庫県立吉川高校の裏山にあります。

おそらく、高校の敷地も城の一部だったんじゃないでしょうか?


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高校前の県道354号線を南下すると、城跡の案内表示があります。

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どうやら、あの丘陵が城跡のようです。


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法光寺
という寺に向かう参道を少しだけ進み、すぐに道路脇の畑道を入っていきます。

そこから既に城跡は始まっていますが、案内表示等は何もないので、探りながら進みます。


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渡瀬城の歴史は古く、佐々木源十郎義範守護職として文治元年(1185年)にこの地に移り住んだのが始まりとされています。

その後、南北朝時代の明徳2年(1391年)に起きた明徳の乱において、渡瀬右衛門綱光赤松義則別所敦則らとともに戦功をあげ、その功により将軍・足利義満から摂津・播磨の境に2万石の領地を賜り、ここ渡瀬城を築いたとされます。


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時代は進んで三木合戦のときの城主・渡瀬小治郎好光は、妻を別所氏から迎えていたこともあって別所方に与し、弟の渡瀬左馬介好勝に兵を添えて三木城に送り込むと、自身は渡瀬城に立て籠もりました。

しかし、三木城が落ちる前に渡瀬城は落城。

その後、伊丹有岡城荒木村重をたよって落ち延びたと伝わります。


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城跡内の一角に、墓石が2つありました。


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ひとつは、家老の石田治重の墓。

治重は渡瀬城落城を機に帰農し、城下の渡瀬に永住し、地域の発展に尽力したそうです。


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そしていちばん高いところにある墓石は、城主・好光の弟で三木城に籠城していた好勝のものでした。

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なぜ城主・好光の墓ではないのか・・・と考えたのですが、おそらく弟の好勝は三木城の籠城戦で討死し、兄の好光は城を捨てて落ち延びたことから、弟の好勝が手厚く葬られたのではないかと・・・。


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最後に城跡東側の景観。

いい天気です。




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by sakanoueno-kumo | 2016-11-11 23:44 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)