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おんな城主 直虎 第4話「女子にこそあれ次郎法師」 ~直虎の出家~

 今回は出家したおとわの話がメインでしたね。ドラマでは、今川家から本領安堵の条件として、おとわの出家を命じられるといった設定でしたが、実際には、井伊直虎がいつ、どのような理由で出家するに至ったかはわかっていません。前話の稿でも紹介しましたが、『井伊家伝記』によると、直虎は亀之丞(のちの井伊直親)出奔後に仏への信仰が深くなり、南渓瑞門和尚の弟子となることを決意して剃髪したと伝えていますが、『寛政重修諸家譜』によれば、「直親信濃国にはしり、数年にしてかへらざりしかば、尼となり、次郎法師と号す」と記されています。これが正しければ、直虎が出家したのは亀之丞が出奔した数年後ということになり、もう少し大人になってからということになります。


 また、『井伊家伝記』によると、直虎は亀之丞との婚約が破談になったことで、自らの意志で出家したとあります。この時代、夫に先立たれた妻は出家するのが慣わしで、直虎も、その慣例に則って操を通したのかもしれません。しかし、直虎の両親である井伊直盛夫妻は、そもそも結婚はしておらず婚約が破棄になっただけなので、出家する必要はないと猛反対したといいます。ドラマとはずいぶん話が違いますよね。


 結局、直虎の出家への決意は固いものでした。そこで、両親がせめてもの妥協案として、尼の名前は付けないでほしい、と要望したといいます。通常、尼の名とは法名のことで、俗世間との関係を断ち切ったことになります。そうなると、二度と還俗できません。直虎の両親には男子がいなかったので、家督を継がす養子を迎えなければなりません。もちろん、単に養子を迎えることも出来たのですが、できれば、実の娘と結婚させて婿養子として迎えたいという望みを捨てきれなかったのでしょう。そのためには直虎が出家していては望みが断たれるため、なんとしても法名は避けたかったのでしょうね。


 そこで、南渓和尚がひとつのアイデアを提示します。というのは、尼名ではなく、僧名を与えてはどうか、というものでした。尼名と僧名ではどう違うのか・・・。当時、尼から還俗することは許されませんでしたが、僧侶からの還俗は珍しくありませんでした。男の場合、戦で死ぬことはたびたびで、跡継ぎの男子がいなくなった場合、一度僧になった弟が呼び戻されるといった例は少なくありませんでした。その最も有名なところでは上杉謙信がそうで、井伊家の主家である今川義元もまた、仏門から還俗したひとりです。南渓の案は、直虎が変心して還俗できるよう含みをもたせたものだったわけです。


 そこで、直虎につけられた名が「次郎法師」でした。代々、井伊家惣領は「備中法師」と名乗っていたと伝えられ、また、井伊家の歴代当主の仮名が「次郎」だったことから、この2つをつなぎ合わせて「次郎法師」としたとされています。「法師」とは、法名ではなく、僧侶や俗人で僧形をした男子のことを言い、純粋な僧侶ではありません。つまり、井伊家の当主の証である「次郎」を名乗り、尚且つ純粋な僧侶の意味を持たない「法師」をつけることで、いつでも俗世に帰れるようにしたというんですね。両親の切実な願い込められた名だったといえるでしょうか。


 というのが、『井伊家伝記』による直虎出家のくだりです。ところが、ドラマではまったく違うストーリー展開で描かれていましたね。なんで変えちゃったのでしょうね。まあ、『井伊家伝記』にしても『寛政重修諸家譜』にしても江戸時代中期に記されたものですから、そこに書かれた話にどれほど信憑性があるかはわからないので、オリジナルの解釈で創作してもいいところだとは思いますが、『井伊家伝記』の伝承そのままのほうがドラマチックだったような・・・。でも、伝承そのままで描くには、おとわが少々幼すぎたのかもしれませんね。いよいよ、次回からは柴咲直虎の登場です。



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by sakanoueno-kumo | 2017-01-30 16:49 | おんな城主 直虎 | Comments(0)  

太平記を歩く。 その6 「大塔村」 奈良県五條市大塔町

後醍醐天皇(第96代天皇)が笠置山にて兵をあげると、その第2皇子・大塔宮護良親王も参向して父を助けます。

しかし、笠置山が落ちて父・後醍醐天皇が捕らえられると、大塔宮護良親王は幕府軍の追捕を逃れ、吉野、十津川、熊野などを転々とします。

その親王の名前が地名になった場所が、奈良県五條市の山奥にあります。


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和歌山県との県境に位置するこの地は、かつては奈良県吉野郡大塔村とされていましたが、現在は五條市に編入合併されています。

大塔村は「おおとうむら」と読みますが、大塔宮親王は「おおとうみや」とも「だいとうみや」とも読まれます。


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後醍醐天皇がまだ天皇になる前に生まれた大塔宮護良親王は、幼少期に比叡山に入り、20歳より同寺天台座主を務め、法名を尊雲と号しました。

この間、親王は比叡山の大塔周辺に門室を置いたことから、世に大塔宮と称されていました。

元弘元年(1331年)9月に後醍醐天皇が挙兵すると、還俗して参戦します。


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「道の駅・大塔」にある大塔村郷土館前には、大塔宮護良親王の騎馬像があります。


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逆光で顔が見難いですが、なかなか凛々しい姿です。


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アップです。


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後姿です。


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幕府の追捕を逃れた大塔宮護良親王は、熊野に落ち延びる途中にこの地に潜伏し、この地の豪族・竹原八朗、戸野兵衛の助けを得て全国各地に討幕の呼びかけを発し、機を窺っていました。

その縁で、この地は「大塔村」と呼ばれるようになったのだとか。

以後、赤松則祐、村上義光らとともに十津川、吉野、高野山などを転々として2にわたり幕府軍と戦い続けます。


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騎馬像の横には、「維新胎動の地」と刻まれた石柱が建てられています。

「胎動」とはいうまでもなく、生まれる前の胎児の動き。

このすぐ近くには、大塔宮護良親王の時代から500年以上あとの幕末騒乱期に立ち上がった吉村寅太郎ら反幕府勢力「天誅組」旗揚げの本陣跡があります。

彼らの挙兵は、あえなく幕府軍の追捕に散りますが、その後の討幕運動の起爆剤になりました。


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大塔宮護良親王の令旨も、天誅組の旗揚げも、この地から発せられた。

まさに、「維新胎動の地」だったわけですね。




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by sakanoueno-kumo | 2017-01-27 18:23 | 太平記を歩く | Comments(0)  

太平記を歩く。 その5 「鷲峰山金胎寺」 京都府相楽郡和束町

笠置山から10kmほど北にある鷲峯山山頂に金胎寺という寺院があります。

ここも、笠置寺と同じく山内に奇岩怪石が多く、古くから山岳修行の地とされてきたと伝わりますが、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が笠置山に落ち延びる途中、ここに立ち寄ったと伝えられます。


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『太平記』によると、元弘元年(1331年)8月24日の夜、三種の神器を携えて京の御所を脱出した後醍醐天皇は、四条隆資ら側近とともに奈良の東大寺に入りますが、東大寺内には幕府方の僧も多くいて歓迎されず、やむなく僧の聖尋の導きで26日にここ甲賀境の和束の里にある鷲峰山金胎寺に入ります。


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しかし、あまりにも山奥過ぎて、食糧の補給を不安視し、翌27日に笠置山に移動したと伝えられます。

かなりのドタバタ行幸だったようですね。

吉川英治の小説『私本太平記』の中で吉川氏は、この行幸について、「あわただしさのほど言いようもない。」と述べています。


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鷲峯山は山頂近くまで車で登れるのですが、かなり狭くて曲がりくねった道を5km以上走ります。

駐車場はないので路肩に車を停めて、10分ほど登山すると山門が見えてきます。

山門を潜って入山料を払うと、約2時間の行者めぐりができます。

につかまって岩場を降りたり、崖っぷちを歩いたり、なかなかハードな体験ができるようですが、高所恐怖症のわたしはパス。


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境内を目指して更に山を登ります。


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5分ほど登ると平地があり、本堂多宝塔があります。


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多宝塔は伏見天皇(第92代天皇)の勅願で、重要文化財に指定されています。

後醍醐天皇が見たであろう多宝塔は、まだ建てられて30年余りだったはずで、もっと色鮮やかだったのでしょうね。


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本堂は江戸時代のものだそうです。


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こちらも江戸時代に建てられた行者堂です。

その前の囲いの中で、おそらく護摩が焚かれるのでしょう。


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説明板です。


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さらに山頂にのぼると、西安2年(1300年)の銘が刻まれた宝篋印塔があります。

これも、後醍醐天皇がこの地にきたときには既にあったもので、国の重要文化財に指定されています。


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その説明板です。


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ここから琵琶湖比叡山が一望できるそうですが、木が覆い茂ってよくわかりません

とにかく話に聞いていたとおりの山奥で、こんなところまで、ほんとうに東大寺から1日で来られたのか疑問です。

今ですら曲がりくねった山道ですから、当時の山道を、天皇を乗せた輿が通れたとはとても思えません。

おそらく人の背をかりたか、あるいは自らの足で歩いての登山だったではないでしょうか。


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最後におまけ。

鷲峯山の山頂を目指して狭い道を車で走行中、一瞬、視界が開ける場所があるのですが、そこで見た光景がこれ。


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有名な和束の茶畑です。

なんと美しい光景でしょう。

それまでの道のりが険しかっただけに、得も言えぬ感動でした。




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by sakanoueno-kumo | 2017-01-26 15:08 | 太平記を歩く | Comments(2)  

太平記を歩く。 その4 「大覚寺・持明院仙洞御所跡」 京都市右京区・上京区

『太平記』の舞台である南北朝時代をめぐるには、まず、その動乱時代の発端となった背景を知らなければなりません。

そこで訪れたのは、京都市右京区にある大覚寺


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紅葉が残る晩秋の11月末に訪れました。


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鎌倉時代の仁治3年(1242年)に即位した後嵯峨天皇(第88代天皇)は、わずか4年で若干4歳の皇子・後深草天皇(第89代天皇)に譲位し、自らは上皇となって院政を行います。

ところが、その後に生まれたもう一人の皇子を溺愛した後嵯峨上皇は、後深草天皇を17歳の若さで退位させ、11歳の弟に帝位を継がせます。

これが、亀山天皇(第90代天皇)です。

その後、後嵯峨上皇は次の天皇を亀山天皇の皇子に定めますが、これには兄の後深草上皇も超不満

やがて、後嵯峨上皇が崩御すると、その遺言と称して亀山天皇は自身の皇子・後宇多天皇(第91代天皇)を帝位につけます。

これを不服とした後深草上皇は、鎌倉幕府に調停を願い出ます。

訴えを聞いた幕府は、後深草上皇の不服をもっともなこととし、後宇多天皇の次には後深草上皇の皇子・伏見天皇(第92代天皇)を即位させます。

しかし、今度はこれに対して後宇多天皇方が不服を申し立てます。

その後、両派すったもんだの泥仕合があったのち、幕府が提示した妥協案は、10年ごとに帝位を両派で交代に継承していくという、両統迭立でした。

この案に両者は納得し、以後、後伏見天皇(第93代天皇)、後二条天皇(第94代天皇)、花園天皇(第95代天皇)と、両派交代で帝位につきます。

これが南北朝の前身で、後深草天皇の子孫を持明院統といい、亀山天皇の子孫を大覚寺統といいます。

やがてその大覚寺統が南朝となり、持明院統が北朝となっていきます。

南北朝の動乱の発端は、皇室の兄弟喧嘩からはじまったのです。


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紅葉が綺麗です。


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現在の大覚寺は、広大な敷地面積を誇る国指定史跡となっており、桜や紅葉の名所として多くの観光客で賑わっています。


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一方、こちらは上京区にある持明院仙洞御所跡

かつては長講堂領という広い荘園を有していた持明院統ですが、現在は、光照院門跡の前に石碑だけが建てられており、この日も、ここを訪れていたのはわたしだけでした。

皇室の歴史の上では、南朝(大覚寺統)の方が正当とされているためなのか、寂しい姿でした。


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大覚寺統の血を引く後醍醐天皇(第96代天皇)は、この鎌倉幕府が調停した両統迭立に従おうとせず、それどころか、幕府を滅ぼして古代の天皇を中心とした政治を行おうと考えたんですね。

そして、その1~3で紹介した笠置山での決起に至るわけです。



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by sakanoueno-kumo | 2017-01-25 21:08 | 太平記を歩く | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第3話「おとわ危機一髪」 ~井伊家の血を引く築山殿~

 小野和泉守政直の息子・鶴丸(のちの小野政次)と夫婦になることを拒んで出家しようとしたおとわ。これが駿府の今川義元の怒りを買うところとなり、おとわを人質に差し出すよう命じられます。ところが、南渓瑞門和尚機転とおとわの情熱によって、出家を条件に人質を免除されるというお話。今話は、すべて創作の回でした。井伊直虎が許嫁だった亀之丞(のちの井伊直親)の出奔後に出家したのは事実ですが、いつ、どのタイミングで出家したのかはわかっておらず、今川家に人質として送られそうになったという記録もありません。


 『井伊家伝記』
によると、直虎は直親出奔後に仏への信仰が深くなり、南渓の弟子となることを決意して剃髪したと伝えていますが、『寛政重修諸家譜』によれば、「直親信濃国にはしり、数年にしてかへらざりしかば、尼となり、次郎法師と号す」と記されており、これが正しければ、直虎が出家したのは亀之丞が出奔した数年後ということになります。直虎の生年は不明ですが、亀之丞と同年代と考えると、この時点ではまだ10歳前後。『井伊家伝記』の伝えるように自らの意志で出家したとすれば、『寛政重修諸家譜』の記述どおり、もう少し分別の付く年齢となった数年後に出家したと考えたほうが妥当かもしれませんね。


 劇中、南渓が一策を講じて手紙を送った佐名という女性。直虎の曽祖父、井伊直平の娘で、南渓の妹(姉)にあたりますが、実名はわかっていません。『寛政重修諸家譜』によれば、直平には息子5人と娘1人がいたとされ、嫡子・直宗(直虎の祖父)、長女(名は不明)、次男・直満、三男・南渓、四男・直義、五男・直元と伝えます。当時の系図に娘の名が記されることはほとんどなく、長女も「女子」とあるだけですが、そこに、「今川義元が養妹となり、関口刑部少輔親永に嫁す」と記されています。おそらくこの女性が、ドラマの佐名ですね(この養妹の説については諸説あるなかの一説です)。


 ドラマでは、人質として今川に差し出された佐名は、義元お手つきとなったあと、関口親永に嫁いだとされていましたが、当然ながらそのような記録は残っていません。ですが、主君のお手つきを家臣の妻に下げ渡すという話は珍しくなく、あるいは事実もそうだったかもしれませんね。かくして関口親永の妻となった直平の娘は、その後、を生みます。この娘が、瀬名姫ことのちの築山殿です。つまり、築山殿は直平のにあたり、直虎とは従姉妹違い、従叔母ということになります。


 「瀬名は龍王丸様(のちの今川氏真)の妻となり、今川を手に入れるのです。」


 初対面のおとわに対して瀬名姫が言った台詞です。なかなか強欲でしたたかな姫様のようですね。この築山殿の存在が、やがて徳川家康の登場で井伊家にとって大きな恩恵となるのですが、それはずっと後年の話です。


 寿桂尼太原雪斎など今川家の主要人物が顔を揃えましたね。今回はその顔見せの回といったところだったでしょうか。今回、子役の物語が4週という異例の長さで、おとわを演じる新井美羽ちゃんの迫真の縁起が評判になっているようですが、それも次週で見納めですね。次回、いよいよ次郎法師の誕生です。



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by sakanoueno-kumo | 2017-01-23 18:45 | おんな城主 直虎 | Comments(0)  

太平記を歩く。 その3 「笠置山・後編」 京都府相楽郡笠置町

前編中編の続きです。

頂上近くまで登った東側に、「ゆるぎ石」と名付けられた石があります。


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この場所は、元弘元年(1331年)9月に起きた「元弘の乱」における笠置山の戦いにおいて、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が鎌倉幕府軍から奇襲を受けた場所だそうで、この「ゆるぎ石」は、奇襲に備えるための武器としてここに運ばれて来た石で、ここから石を落とす手筈だったようです。


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ところが、奇襲が雨の降る深夜だったので敵の進軍に気付かず、「ゆるぎ石」も結局使われることなく、いまだにここに置かれたままなんだそうです。


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ちなみに、説明版によると「ゆるぎ石」はその重心が中央にあり、人の力でも動くため「ゆるぎ石」と云われていると書かれていましたが、試しに押してみましたが、微動だにしませんでした。


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その「ゆるぎ石」の場所から見た北東の眺望です。

下に流れるのは木津川です。


ここで、なぜ後醍醐天皇がここ笠置山を拠点としたかについて触れておきます。

笠置山は六波羅のある京都から伊賀、伊勢に抜ける伊賀街道の中心にあり、南は柳生から吉野へ抜ける交通の要衝に位置しています。

また、笠置山は標高288メートルの急峻な小山で、北方には木津川、西側には打滝川が流れ、さらに、もとより修行道場としての笠置寺防御壁で守られていたため、大軍を寡兵で迎え撃つにはまさに絶好のポイントだったわけです。


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さらに山頂目指して登ります。


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雲が近い!!


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『太平記』によると、

「そもそも笠置の城と申すは、山高くして一片の白雲峯を埋め、谷深くして萬丈の岩道をさへぎる。つづら折りなる道をあがること十八町、岩を切つて堀とし、石をたたんで塀とせり。たとへ防ぎ戰ふ者なくとも、たやすくのぼるべきやうなし。」

とあります。

文中、「笠置の城」とありますが、『太平記』では、ここを「城」と考えていたようです。


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その笠置城二の丸跡です。


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といっても、ここ笠置山は後醍醐天皇の仮皇居として使用されただけで、築城されたわけではありません。

しかし、室町時代以降に山頂の行在所の跡を本丸とみたてたので、そこから一段下の広場を「二の丸跡」と呼ぶようになったそうです。


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こちらは西側にある「貝吹き岩」

説明板によると、勤皇軍の士気を高めるために、この岩上よりさかんに法螺貝を吹いたともいわれているそうです。


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「貝吹き岩」からのぞむ北西の空。


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そして、目的の「後醍醐天皇行在所跡」にやってきました。


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『太平記』によると、笠置山を包囲した北条幕府軍7万5千に対して、迎え討つ天皇方2千5百余りだったといいます。

この数字は多少盛ってるでしょうが、大軍を寡兵で迎え討ったことは間違いないでしょう。

この兵力差にもかかわらず天皇方は善戦し、約1か月間持ちこたえますが、暴風雨となった9月28日(10月30日)の夜、幕府軍の奇襲を受けて天皇方は総崩れとなります。

幕府側の陶山義高らによって火をかけられた笠置寺は、大磨崖仏をはじめ山内49ヶ寺すべてが焼失、後醍醐天皇は逃亡しますが、数日内にとらえられます。


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階段を上ると、行在所跡正面は石の柵が張り巡らされ、なかは樹木が鬱蒼と茂っています。


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しかし、柵は正面だけにしかなく、脇からなかへ入れます。

結構な広さです。


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行在所跡の片隅には、自然石に埋め込まれた後醍醐天皇の歌碑があります。


後醍醐天皇御製

うかりける 身を秋風に さそわれて おもわぬ山の 紅葉をぞ見る


つらいことになり、秋風に誘われるままたどり着いたこの山で、思いもよらぬ美しい紅葉を見ることになろうとは・・・といったところでしょうか?


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捕らえられた後醍醐天皇は神器を光厳天皇に譲渡し、翌年の元弘2年(1332年)春、隠岐島へ流されます。

「建武の新政」成立は、そのさらに翌年のことでした。


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最後に、下山して木津川の畔から笠置山を撮影。

約700年前に戦場となった場所とは思えない、のどかな風景です。




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by sakanoueno-kumo | 2017-01-20 22:18 | 太平記を歩く | Comments(0)  

太平記を歩く。 その2 「笠置山・中編」 京都府相楽郡笠置町

前編の続きです。

笠置町産業振興会館の東に見える標高288mの山が、笠置山です。


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登山口です。

車でも山頂近くまで登れると聞き、この日は車で登りました。


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古道の入口には、古い石碑があります。


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車を停めて5分ほど登ると、笠置寺の山門に到着します。

傍らには、「天武天皇勅願所、後醍醐天皇行在所」と刻まれた石碑があります。


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笠置寺の歴史は古く、その創建は不明ですが、出土品から見て飛鳥時代すでに造営されていたと考えられています。

木津川の南岸にそびえる笠置山は、古くからの修験道場信仰の山として崇められてきました。


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笠置山全景です。

このあと、このMAPを右回りにめぐっていきます。


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向こうに見えるのは本堂の「正月堂」

その頭上に、巨大な岩が見えます。

笠置山は、こんな巨石が至るところに見られます。


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写真では伝わりづらいですが、ド迫力の巨石群です。


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日本では、太古の時代から山岳、滝、巨岩、巨樹などの自然物が崇拝の対象とされ、巨岩は

磐座(いわくら)などと呼ばれて、神の依代(よりしろ)、すなわち目に見えない神の宿る場所とされてきました。

日本の神道には教祖などはなく、八百万の神ですからね。

山の神、海の神、森の神、水の神、自然を司るすべてのものに神が宿るという信仰です。

笠置山は、そんな巨石信仰山岳信仰が仏教思想と結び付き、山中の巨岩に仏像が刻まれ、聖地として崇められるようになったと考えられます。


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文殊石笠置石です。

縁起によると、のちに天武天皇(第40代天皇)となる大海人皇子が、鹿を追って狩りの途中にこの岩上に行き着き、岩から転落しそうになったときに山神に弥勒像を刻むことを誓願して助けられたといいます。

感謝した皇子は、身に付けていた笠を置いたことから、笠置山と呼ばれるようになった・・・と。

手前の十三重塔の鎌倉時代のものと推定され、重要文化財に指定されています。

一説には、元弘の乱の供養塔であるとも・・・。


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本堂を見下ろすようにそびえる弥勒石(大磨崖仏)です。

高さ約16メートル、幅約15メートルあります。

かつてはこの表面に弥勒磨崖仏が刻まれていたといいますが、元弘元年(1331年)9月の笠置山の戦いで石の表面が火の熱で剥がれおち、いまは見ることができません。


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写真では伝わりづらいですが、現地に行くとその巨大さに圧倒されます。


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本堂からさらに奥へすすんだところにある「虚空蔵菩薩磨崖仏」です。

こちらは元弘の乱の戦火をまぬがれ、現在でもその姿を見ることができます。

高さ約12メートル、幅約7メートルあります。


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弘法大師(空海)の作とも言われるそうです。


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岩と岩の狭い間を通る「胎内くぐり」です。

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その説明板。


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大人は体を斜めに傾けながらやっと通れる狭さです。


長くなっちゃったので、次回もう1回だけ笠置山を続けます。



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太平記を歩く。


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by sakanoueno-kumo | 2017-01-19 21:06 | 太平記を歩く | Comments(2)  

太平記を歩く。 その1 「笠置山・前編」 京都府相楽郡笠置町

京都府、奈良県、三重県の3県が交わる県境ちかくにあるJR笠置駅を訪れました。

ここは1日の利用客はがわずか200人余りしかいない小さな山奥の単線の駅で、電車は1時間に1本しか発車しません。


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そんなひっそりとした山奥で、約700年前にわが国の歴史が大きく動きました。

それが、これ!


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元弘元年(1331年)9月に起きた「元弘の乱」における笠置山の戦いのジオラマモニュメント。

笠置駅前のいちばん目立つ場所にあります。

「元弘の乱」とは、鎌倉幕府を倒すべく挙兵した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)と、鎌倉幕府北条氏の戦いのことで、ここ笠置山は、その決戦の場となりました。

『太平記』の3巻に出てくる最初のクライマックスです。


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なぜここを訪れたか・・・。

これからしばらく『太平記』に関連する史跡を、関西を中心にめぐってみたいと思い立ちました。

となると、まず最初に紹介すべきは、最初に歴史が大きく動いた、ここ笠置山の地からスタートすべきかと思い、神戸から車で約2時間かけてこの地を訪れました。


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『太平記』は、わが国中世の大乱を描いた戦記文学です。

乱世を描いて、なぜ『太平記』というのか不可解な作品で、その内容は『戦乱記』というに相応しいものです。

作者は宮方(後醍醐天皇方)に近い人物といわれますが、詳細はわかっていません。


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『太平記』の書き出しは、平安時代以来の院政を廃し、天皇親政の世を実現した後醍醐天皇の元亨元年ごろに始まり、北条氏鎌倉幕府の滅亡「建武の新政」の成立、朝廷の分裂南北朝の並立、その南北朝のいずれかに属した公家や武家の興亡、やがて足利尊氏室町幕府を開き、その後、幕府内の抗争「観応の擾乱」、そして二代将軍・足利義詮が死亡する後村上天皇の正平23年(1368年)に至る、46年間が描かれています。

現在伝えられている『太平記』は全40巻あり、日本の歴史文学の中では最長の作品とされています。

もちろん、600年以上前に書かれたものですから、あくまで伝承の域を出ない虚実取り混ぜた話もたくさんありますが、日本の中世を知るにおいて、外せない作品といえます。


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駅前の笠置町産業振興会館の外壁には、「笠置元弘の乱絵巻」と書かれた長い看板が設置されていました。


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絵の下の文末には、<笠置寺所蔵の「笠置寺縁起絵巻」より>とあり、どうやら笠置山上にある笠置寺が所蔵する絵巻を観光客用の看板に仕立てたもののようですね。

通常、絵巻物は右から左へ展開するものですが、駅から笠置山に向かう導線の左側に設置されていることから、左から右へ読んでいく構成になっています。

意図はわかるのですが、縦書きの文章を左から読むのは、けっこう難しい・・・。


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笠置町産業振興会館の館内には、後醍醐天皇楠木正成が初めて対面した場面のジオラマが展示されています。


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『太平記』の3巻によると、笠置山の笠置寺に行在所を設けた後醍醐天皇は、自身の周りに名のある武将が全くいないことに不安に感じていたところ、夢で「木に南」と書く者が自分を助けるとのお告げがあり、その後、河内国の金剛山に楠木正成という者がいると聞き及び、急遽、正成を笠置山に呼び寄せたといいます。

吉川英治『私本太平記』では、後醍醐天皇の呼びかけになかなか応じない正成の心の葛藤が描かれていましたね。

わたしにとっての『太平記』の知識は、ほとんど『吉川太平記』がメインです。

なので、楠木正成のイメージは、やはり武田鉄矢さん。

こんなイケメンではありません(笑)。


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さて、そんなこんなで、しばらく『太平記を歩く』シリーズにお付き合いください。

たぶん、かなり長いシリーズになります。

次稿は笠置山を登ります。





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by sakanoueno-kumo | 2017-01-18 22:19 | 太平記を歩く | Comments(0)  

阪神・淡路大震災から22年、いま思うこと。

本日1月17日は、わたしたち神戸市民にとって忘れることのできない阪神・淡路大震災の発生した日。

6,434人の方が亡くなられ、3人の方が行方不明になったあの震災から、今日で22年の年月が過ぎました。

そして、私事ながら今日はわたしの誕生日でもあります。

震災当日、28歳の誕生日だったわたしは、今日でとうとう50歳の大台を迎えました。

当時、バリバリの青年(?)だったわたしも、もう初老です。

あのとき生後4か月だったわが家の愚息も、この春、大学を卒業して社会人になります。

それだけ長い年月が流れたってことですね。


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上の写真は神戸市灘区に西灘公園内にある慰霊碑です。

神戸市内には、いたるところにこのような碑が建てられています。

その数、230を超すとか。

写真は今日の昼過ぎに撮影したものですが、震災記念日ということもあって、花が供えられていました。

普段、ここを通っても慰霊碑を気に留めることはありませんが、今日は別ですね。


さすがに20年以上も経つと、普段の生活のなかで震災のことを思い出すことはほとんどあまりありません。

まあ、それが年月の流れってやつでしょうから、無理に忘れないように努める必要は、わたしはないと思っているのですが、ただ、ひとつ節目として、今日1月17日だけは、当時を振り返る日であればいいと思います。

今日だけは、6,434人を追悼し、あの日幸運にも命を落とさずに今に至ることを感謝し、当時のことを語るべき日なのかなあと。

そう思いながら、毎年1月17日はブログを立ち上げています。


6,000人の以上の方の命日と同じ日になってしまったわたしの誕生日ですが、そのおかげで、いつまでも震災のことを忘れることが出来なくなりました。

わたしの誕生日は、立ち止まって思いを馳せる日です。


過去8年間の1月17日の拙稿です。

よければ一読ください。

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阪神・淡路大震災から21年、震災記念日の備忘録。

阪神・淡路大震災から20年の節目に思う。

阪神・淡路大震災から19年、いま思うこと。

阪神・淡路大震災から18年、いま思うこと。

阪神・淡路大震災から17年、今思うこと。

誕生日に思う。~阪神・淡路大震災から16年。

今日は私の誕生日。そして阪神・淡路大震災から15年。

震災から14年。そして私の誕生日。今、思うこと。


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by sakanoueno-kumo | 2017-01-17 21:37 | 日常 | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第2話「崖っぷちの姫」 ~井伊家と家老・小野家~

 井伊直満を陥れて死に追いやった小野和泉守政直は、駿府から井伊谷に帰国すると、次は、直満の息子・亀之丞(のちの井伊直親)の行方を探しました。『井伊家伝記』によると、「直満実子亀之丞を、失い申す可き旨、今川義元より下辞の旨申し候」とあります。つまり、政直は今川義元から亀之丞を殺すよう申しつかっていたわけです。しかし、これを事前に予想していた井伊家では、なんとしても亀之丞だけは殺させまいとして、家老の今村正實に託して逃亡させます。


 『井伊家伝記』によると、正實は亀之丞を叺(かます)に入れて背負い、追手の目をくらませて逃亡。いったんは井伊谷の山中、黒田郷に潜みますが、そこもすぐざま政直の知るところとなったため、やむなくさらに北に逃れて渋川の東光院へと逃げ込みます。東光院の住持・能仲は、龍潭寺の住持・南渓瑞門の弟子でした。南渓は井伊直平の次男で、おとわ(のちの井伊直虎)の父・井伊直盛の叔父にあたり、殺された直満とは兄弟になります。東光院に逃れた正實は能仲を通じて南渓と接触し、この先のことを相談したところ、信濃国松源寺へ逃れるようじ助言されました。こうした僧門ネットワークを使って、亀之丞は追手の目をからくもすり抜けます。


 ドラマでは、直満の謀反を見抜けなかったこと、亀之丞を逃したことに対する今川義元からの下知として、小野和泉守政直を目付けとし、その子・鶴丸(のちの小野政次)と夫婦にせよ、とのことでした。つまり、鶴丸がのちの井伊家の当主となるわけですね。家老が主家を乗っ取るかたちで、小野家にしてみれば、なんとも都合のいい話です。実際にこのような話があったのかはわかりませんが、作家・高殿円さんの小説『剣と紅』でも、同じ設定が採られています。この小説では、もともと政直は自身の息子と直虎を夫婦にして井伊家を乗っ取ろうと企んでおり、そのため、直満を陥れて死に追いやり、亀之丞との婚約を破談にさせるという展開でした。


 それにしても、いくら戦国の世といえども、家臣の身でありながら、なぜ政直はここまで主家を苦しめたのでしょう。歴史家の楠戸義昭氏は、その著書のなかで、井伊家の代々家老を務めてきた小野家は、今川家のスパイであったとみて間違いない、と述べられています。小野氏といえば、古代から八色の姓朝臣に列せられた由緒ある家柄で、遣隋使になった小野妹子『令義解』を編纂した小野篁世界三大美人で名高い歌人・小野小町など、錚々たる顔ぶれが思い出されます。『井伊氏と家老小野一族』によれば、小野和泉守政直は小野篁から数えて21代目だといわれているそうですが、この時代の系図はあてにならないものが多く、事実どうかは定かではありません。小野家は政直の父が井伊直平に取り立てられて以降、代々家老職を世襲する家柄になったといいます。ところが、先述したとおり、小野家は井伊家の様子を逐一内偵して、今川家に報告していた形跡があるようで・・・。むしろ、直平の時代に井伊家が今川家の配下に入ったとき、公認の目付役として小野氏が今川家から送り込まれたのかもしれませんね。井伊家にしてみれば、形式上は家臣でも、実際には腫れ物扱いだったのかもしれません。


 「答えはひとつとは限らぬからの。」


 南渓和尚がおとわに言った台詞ですが、どうやら、この言葉が物語のテーマになりそうですね。既成概念にとらわれない発想が、思いもよらぬ答えを導き出すことがある。それが、「おんな城主・直虎」につながっていくわけですね。物語は始まったばかりです。



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by sakanoueno-kumo | 2017-01-16 22:51 | おんな城主 直虎 | Comments(0)