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おんな城主 直虎 第8話「赤ちゃんはまだか」 ~しのと瀬名姫~

 今話は、そのタイトルどおり、井伊直親・しの夫婦になかなか子ができない苦悩のお話。「嫁して三年、子なきは去る」と言われた時代ですから、武家の正妻に子ができないというのは大問題だったことはわかりますが、大河ドラマの1話を使ってやるほどの話か?・・・と思わなくもないです。正直、どうでもいい話かな・・・と。井伊直虎という、ほぼ無名の人物を主人公に物語を描くには、こんな回も必要なんでしょうが・・・。ただ、1ヵ所だけ頷ける台詞が・・・。


 「私がおとわ様じゃったらと誰もが思うておる。口には出さねど、殿も、お方様も、皆も、直親様も・・・。」


 思いつめたしのが次郎法師に向けて吐いた台詞ですが、次郎法師と直親が結婚できなかった本当の理由は定かではありませんが、当主・井伊直盛にとっては、実の娘である次郎法師と直親を娶せて後継者としたかった思いは強かったでしょう。でも、何らかの理由でそれが出来ず、一族の奥山因幡守朝利の娘と結婚します。たしかに、「次郎法師だったら・・・」という目で見られていたでしょうね。


 直親の正妻となった女性については、その事績をうかがう史料は皆無に等しく、奥山因幡守朝利の娘(奥山親朝の娘という説もある)ということ以外はわかっていません。ドラマでは「しの」と名乗っているその名前も、定かではないようです。つまり、ほとんど謎の人物といっていいでしょう。ただ、結婚から約6年後の永禄4年(1561年)、直親との間に待望の男児を生んだことは間違いなく、その男児が、のちの徳川四天王の一角となる井伊直政です。後年、井伊家は徳川幕府体制のなかで5人の大老を輩出するに至るわけですが、その井伊家が滅亡寸前のこの時代、その血をかろうじて繋いだ女性が、この人だったわけですね。ある意味、歴史に大きな役割を担った女性といえるでしょうか。


 舞台を駿府に移して、前話で夫婦縁組が整った松平元康(のちの徳川家康)と瀬名姫(のちの築山殿)でしたが、今話では、もはや嫡男の竹千代(のちの松平信康)が生まれていました。史実では、瀬名姫と元康が結婚したのは弘治3年(1557年)、竹千代が生まれたのは永禄2年(1559年)とされています。瀬名姫の生年は詳らかではなく、結婚したとき共に16歳だったともいわれますが、瀬名姫が8歳年上の姉さん女房だったとの説もあります。ドラマでは、後者の設定のようですね。


寿桂尼「よい縁であろ。2人はよく話もしておるようじゃし。」

元康「身に余るお話にございます。」

瀬名「私も身が余っておりまする。」


 このくだりは笑えましたね。今回のドラマでは、今のところ面白ろキャラの瀬名姫ですが、でも、瀬名姫の人生が笑えない結末となることは周知のところだと思います。これからどんな風に描かれるのか注目しましょう。ちなみに、桶狭間の戦いは永禄3年(1600年)5月19日ですから、「ご武運を!」と言った竹千代は、このとき満1歳になったばかり。なかなかな神童ぶりですね。さすがは、家康が晩年までその死を悔やんだといわれる息子です。



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by sakanoueno-kumo | 2017-02-27 21:33 | おんな城主 直虎 | Comments(2)  

太平記を歩く。 その19 「楠公産湯の井戸」 大阪府南河内郡千早赤阪村

前稿で紹介した「楠公生誕地」碑のすぐ近くに、「楠公産湯の井戸」と呼ばれる古い井戸跡があります。

その伝承によれば、楠木正成がこの地で生まれたとき、この井戸の水を産湯に使ったのだとか。


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青々とした稲の絨毯のなかに、「楠公産湯井北エ一丁」と刻まれた石柱があります。

石柱はかなり古いもののようで、この伝承が昔から存在したことを物語ってくれています。


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こちらには、千早城跡にあったものと同じ藁人形を模したブリキの人形が。


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田畑の間の谷底に井戸があるようで、観光客用にヒノキで作られた階段が設置されています。


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井戸には屋根が作られています。


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で、これがその伝承の井戸です。

いまも水が湧き出ています。

何の変哲もない、ただの古い井戸です。

石垣はきっと、当時のものではないでしょう。


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当時、井戸は集落ごとに共同で使われていたでしょうから、正成の産湯というよりも、この一帯で生まれた赤子の産湯は、おおかたこの井戸の水を使っていたのでしょう。

だから、正成がこの地に生まれたのであれば、ここが産湯だった可能性は十分にあるでしょうね。

『太平記』では、楠木正成は河内国金剛山の西、赤阪村水分(みくまり)山の井で生まれたと伝えており、楠木氏は橘諸兄の後裔としています。

吉川英治『私本太平記』でも、正成の生まれは水分としていますね。


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ただ、前稿でも述べたとおり、そもそも正成の生誕地は諸説あって、ここ水分の地に生まれたことを立証する史料はなにもありません。

もっとも、そう言ってしまえば身もふたもないんですけどね。

この地が楠公さんの生誕地とうたっている以上、ここは楠公産湯の井戸と言っていいでしょう。

まあ、話のネタですね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-02-25 00:09 | 太平記を歩く | Comments(0)  

太平記を歩く。 その18 「楠公生誕地」 大阪府南河内郡千早赤阪村

ここで少し時系列を離れて、楠木正成に関連した千早赤阪村の史跡を巡っていきます。

まずは、「楠木正成生誕地」の伝承地を訪れました。


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その伝承によると、楠木正成は永仁2年(1294年)、現在の大阪府南河内郡千早赤阪村水分(みくまり)に生まれたといいます。


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しかし、正成の出自については様々な説があり、詳しくはわかっていません。

『太平記』では、楠木氏は橘氏の後裔と伝えていますが、これも、その真偽は定かではありません。

つまり、正成以前の楠木氏のことは、ほとんどといっていいようです。


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現地説明板によると、このすぐ横にある「くすのきホール」の建設に伴い発掘調査を行った際には、2重の堀を周囲にめぐらせた建物跡が発見され、14世紀のものとみられる出土品も見つかったことから、周囲の中世山城群と合わせて考え、楠木氏関連の建物であったと推定したそうです。


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文禄年間には増田長盛豊臣秀吉の命を受け、土壇を築き、建武以降、楠邸にあった百日紅を移植したという記録が残っているそうです。

また、元禄年間には、領主の石川総茂が保護を加えました。


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現在残る石碑は、明治8年(1875年)、大久保利通によって建立されたそうで、碑文の「楠公生誕地」は、幕末三剣豪のひとりで、明治8年当時、誉田八幡宮の祠官だった桃井春蔵直正の揮毫だそうです。


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幕末には尊皇派の精神的支柱となり、第二次世界大戦前は忠臣の象徴的存在に祀り上げられた正成ですが、戦後は価値観の転換とともにその評価も変わりました。

吉川英治『私本太平記』では、戦前までのイメージとはまったく違う正成像を描いています。

その時代背景によって政治利用されてきた楠木正成。

本人が知ったら、決して気分のいいものじゃないでしょうね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-02-24 02:22 | 太平記を歩く | Comments(0)  

太平記を歩く。 その17 「金剛山(國見城跡)・後編」 大阪府南河内郡千早赤阪村・奈良県御所市

金剛山後編です。

葛木神社境内の西側の参道に、「宝剣塔」という名称の宝篋印塔があります。


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これは、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)とその第2皇子・大塔宮護良親王追善供養のために建てられたもので、足利時代のものだそうです。


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足利の誰の時代でしょうね?


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後醍醐天皇も大塔宮も、最期は足利尊氏と敵対する立場で死んでいきますから、政敵からの追善供養ということですね。

まあ、尊氏はほかにも京の嵐山に、後醍醐天皇の菩提を弔う天龍寺を建立していますから、この宝篋印塔も、尊氏が建てたものかもしれませんね。

天皇の敵となった自責の念があったのでしょう。


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そして、葛木神社の西側にある転法輪寺です。

真言宗醍醐派大本山である金剛山転法輪寺は、今から約1300年前、山岳での修験道の開祖とされる役小角が建立したといわれ、奈良時代より明治維新に至るまで修験道七高山のひとつに数えられ、全国にその名が轟いていたと言われます。

あの行基、鑑真、最澄も来山し、聖宝も修行したと記録されているそうです。


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本堂です。


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境内には、豊臣秀吉がこの地を訪れたときに掘ったと伝わる瓢箪形の池「ひさご池」があります。


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で、転法輪寺の西側、山頂尾根伝いの最西端にある削平地に、「金剛山國見城址」と書かれた看板があります。


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ここは見晴らしがよく、登山客の憩いのスポットとなっています。


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大阪府が一望できます。

この日は霞がかっていたので遠くまで見えませんでしたが、空気の澄んだ日は、大阪湾を経て遠く神戸の六甲山系から淡路島まで見渡せるそうです。

たしかに、わが町神戸からも空気が澄んだ日は、金剛山が見えます。

直線距離で言うと60km以上離れているんですけどね。


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ここからも、某教団の平和の塔が見えます。


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その伝承によると、元弘2年(1332年)12月に再挙兵した楠木正成は、自身は上赤坂城に入り、金剛山の正面に國見城を設け、まだ少年だった息子の楠木正行とその傅役の湯浅孫六を配置し、転法輪寺の僧兵との連携をとらせたといいます。

城といっても、たぶん突貫の砦のようなものだったのでしょうね。


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その後、正成は千早城に移り、寡兵で大軍を寄せ付けなかったのですが、その理由のひとつに、背後の金剛山の僧兵の援助が大きかったといいます。


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城址公園の一段下にも、削平地があります。

二ノ丸跡?・・・即席で作った城にそんなもんないかな?


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余談ですが、太平洋戦争時に活躍した戦艦「金剛」は、ここ金剛山に因んでいます。

「大和」「武蔵」「長門」「陸奥」など、当時の戦艦の名称は旧国名が多かったと思いますが、「金剛」という山の名がつけられたのはなんででしょうね?

当時、楠木正成が忠臣の象徴的存在だったこともあり、大軍相手に落ちなかった城に因んで付けられたのでしょうか?

でも、沈没しちゃいましたけどね。

現在は、海上自衛隊のイージス艦「こんごう」に、その名は引き継がれています。


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この日の山頂は気温17度。

快適な秋のハイキングでした。




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by sakanoueno-kumo | 2017-02-23 01:33 | 太平記を歩く | Comments(2)  

太平記を歩く。 その16 「金剛山(國見城跡)・前編」 大阪府南河内郡千早赤阪村・奈良県御所市

千早城を背後から見下ろすように聳える金剛山を登りました。

見下ろすというか、千早城も上赤坂城も、金剛山系の一部なんですね。

その金剛山の最高峰に、楠木正成が築いたとされる國見城があったと伝わります。


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金剛山を登ったのは、千早城を訪れた日とは別日です。

千早城から金剛山に登る登山道もあるのですが、この日は楽してロープウェイで。


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ロープウェイは正成ラッピングです。


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ロープウェイからの景観です。


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ロープウェイを降りると、山頂までは緩やかな尾根伝いに登ります。

ゆっくり歩いて40分くらいの登山道です。


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標高1,053m大阪府最高地点だそうです。

ということは、金剛山の山頂は奈良県ということですね。


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頂上近くまで登ると、「史跡金剛山」と刻まれた石碑と、木製の鳥居が表れます。

これは、山頂にある葛木神社への参道を意味する鳥居です。


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その横に設置された説明書きです。


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樹齢500年と推定される「仁王杉」です。

残念ながら、『太平記』の時代には及びません。


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葛木神社にたどり着きました。


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葛木神社の境内が、標高1,125mの山頂にあたります。


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金剛山は、古代は高天山と呼ばれ、『日本書紀』によると、神武天皇(初代天皇)の大和平定の際、葛(くず)の網をきせて土賊を掩殺せられてから葛城という名がついたと言われています。

「人皇第十代崇神天皇戌寅七年 御造営神戸祠を附し給う。」とあり、神社の創始は約2000年前の崇神天皇(第10代天皇)の御代で事代主を奉祀していました。


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また、『古事記』『日本書紀』では、雄略天皇(第21代天皇)が金剛山に御狩に登山した話が記されています。


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葛木神社の向かいには、その「雄略天皇御猪狩の跡」があります。


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その説明書きです。


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神武天皇は別として、崇神天皇と雄略天皇は、神話に出てくる古代天皇のなかでは、実在していた可能性があると考えられている天皇ですね。

いずれにせよ、神話の時代まで遡れるほど歴史の深い山ということですね。


『太平記』の時代に関係ない話で長くなっちゃったので、もう一回、金剛山の続きをやります。



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by sakanoueno-kumo | 2017-02-22 02:15 | 太平記を歩く | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第7話「検地がやってきた」 ~隠田・忍田・隠地・隠没田~

 今回は全編創作の回だったので、特にここで補足、解説するネタはありません。もちろん、井伊家が隠し里を持っていたなんて話もドラマでのフィクションです。「隠し里」という言葉はあまり耳なじみがありませんが、「隠田」というのは実際にあったようで、「おんでん」あるいは「かくしだ」と読みます。ほかにも、「忍田(しのびだ)」、「隠地(おんち)」、「隠没田(おんぼつでん)」などといった言葉もあったそうで、これらはすべて同義語。読んで字のごとく、年貢の徴収を免れるために密かに耕作した水田のことです。つまり、脱税行為ですね。


 隠田は重罪で、発覚すれば土地は没収され、追放されたそうです。ただ、隠田はふつう農民が行うことで、今回のドラマのように、領主が隠し里を持っていたという例が、本当にあったのかどうかはわかりません。


井伊直平「ここはもしもの時に井伊の民が逃げ込むところでな。かつて今川に追い込まれたとき、わしらはここに隠れ住み、時を稼ぎ、命脈を保ったのじゃ。ここがなければ、井伊は滅んでおったかもしれぬ。」


ということだそうですが、でも、農民にとっては今川か井伊かに年貢を吸い取られることに変わりはないわけで、「井伊の民」にとっては、あまりメリットはなかったんじゃないかと・・・。


 この隠し里をめぐっての井伊直親小野但馬守政次のかけひきは、なかなか面白かったですね。


直親「川名の隠し里をないことにしてしまいたい」


と、政次に対してストレートにぶつけたあと、小野家の置かれた辛い立場を思いやったうえで、


直親「もし鶴が隠すことに加担したくないと思うなら、この冊子をつけてだしてくれ。もし、ひと肌脱いでくれるというなら、そのまま破り捨ててくれ。俺は鶴の決めたほうに従う。」


と、政次に判断を委ねます。これは、政次にとってはキツイですよね。


政次「あいつめ、俺の了見を見越した上で最後は俺に決めよと言い放ちおった。俺に決めよと。」


 この怒りは当然だと思います。これでは、どちらを選んでも政次自身の責任。直親は汚れないですみます。ずるいですよね。主家である以上、「加担しろ!」と命令すべきでしょう。ここまで聖人君子キャラに思えた直親でしたが、実は、なかなかしたたかな男なのかもしれません。


政次「それがしを信じておられぬなら、おられぬで構いませぬ。されど、信じているふりをされるのは気分がいいものではありませぬ。」


 君を信じてこの仕事を任せる・・・といっておきながら、いざというときに責任逃れする上司みたいなもんですね。現代でもよくある話です。そんなこんなで、直親、政次の間の溝が深まっていくのでしょうか・・・。今後、ふたりの関係はどんな展開を見せるのか、ドラマ前半のいちばんの見どころかもしれません。。



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by sakanoueno-kumo | 2017-02-21 02:06 | おんな城主 直虎 | Comments(0)  

太平記を歩く。 その15 「千早城跡」 大阪府南河内郡千早赤阪村

上赤坂城跡から直線距離にして5kmほど南東にある、千早城跡を訪れました。

数ある楠木正成の築いた城のなかで、たぶん、ここがいちばん有名なんじゃないでしょうか?


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『太平記』によると、わずか1000人足らずで幕府軍100万と対峙した城として伝えられます。

その兵数の真偽は別にしても、大軍に攻められながらも落城しなかった城として、後世に伝説的な存在となります。

現在、日本100名城のひとつにも数えられています。


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現在、城跡は千早神社となっており、比高150mの急斜面に敷かれた約600段の石段を登ります。


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ここを訪れたのは初夏の7月3日。

600段の階段はめちゃめちゃハードでした。


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「四の丸跡」です。


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振り返ると、和泉国が見渡せます。


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ところどころで、兵の人形が迎えてくれます。

これは、楠木正成が用いた奇策のひとつ、藁人形作戦をイメージしたものだと思いますが、残念ながら藁人形ではなくブリキ人形でした。


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四の丸奥の鳥居をくぐると、長い参道が続きます。


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その奥が「三の丸跡」


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そして石段を上がったところが「二の丸跡」です。

二の丸跡には「千早城跡」と刻まれた石柱があります。


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「昭和十四年三月建設」とあります。

下赤坂城、上赤坂城に建てられていた石柱と同じときに造られたもののようですね。


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そして、石段を上ると「本丸跡」です。

現在、千早神社の本殿があります。


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元弘3年(1333年)2月27日、上赤坂城を落とした幕府軍は、楠正成の籠るここ千早城を包囲しました。

『太平記』によると、

「城の四方ニ三里が間は見物相撲の場の如く、打井んで尺寸の地をも余さず充満せり」

とあり、数十倍の大軍が千早城に押し寄せて来た様子がうかがえます。


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幕府軍は上赤坂城の戦いと同じく城方の水源を断とうとしますが、千早城には長期戦を睨んで水も食料も十分に蓄えられていました。

そして正成は、城に攻めあがる幕府軍に対して、石礫や大木の丸太糞尿などを浴びせかけて応戦し、敵兵を退けます。

また、長引く籠城戦で士気に緩みが見えてくると、武装させた藁人形を夜のうちに城外のに並べて敵兵をおびき寄せ、大量の大石を投げ落として撃退したといいます。

この攻撃で、幕府兵300人が即死、500人が負傷しました。
また、幕府軍がむかい近くの山から100尺(約300m)のを架けて城に攻め入ろうとした際には、かねてより用意していた水鉄砲の中にを入れ橋に注ぎ、松明を投げ入れて敵兵もろとも橋を焼き落としました。

谷底には敵兵のが積み重なり、『太平記』では、数千名が猛火に落ち重なって火地獄になったと伝えています。


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これらの伝承のどこまでが史実でどこからが虚構なのかはわかりませんが、実際に寡兵で大軍から城を守り切ったという話は事実で、まさに難攻不落の城として後世に名を遺すことになりました。


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本殿の裏山もおそらく城跡だと思われますが、山全体がご神体ということで、立入禁止となっていました。


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こちらは、千早赤阪村郷土資料館にある千早城の縄張り模型です。


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千早城の戦いは翌月の閏2月29日まで1か月以上続きます。

幕府軍が千早城に釘付けになっている間に、隠岐国の配所を脱出した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の討幕の綸旨に呼応した武将が各地で挙兵し、千早城を攻めていた武将が次々に帰国。

関東では手薄となった鎌倉を新田義貞が攻め、鎌倉幕府は滅亡することとなります。

千早城の戦いが終了した12日後のことでした。


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城跡近くには、楠木正成の三男・楠木正儀の墓(異説あり)があったのですが、時系列的にずいぶん先になるので、また稿を改めます。



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by sakanoueno-kumo | 2017-02-17 18:19 | 太平記を歩く | Comments(2)  

太平記を歩く。 その14 「上赤坂城跡」 大阪府南河内郡千早赤阪村

隠岐に流された後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)でしたが、それでも意気消沈することなく、隠岐から全国の反北条派の武士たちに檄を飛ばし、鎌倉幕府倒幕を呼びかけます。

そんななか、元弘2年(1332年)11月、後醍醐天皇の皇子・大塔宮護良親王吉野挙兵

それに呼応するかたちで12月、楠木正成も挙兵します。


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再挙兵した楠木正成下赤坂城を奪回しますが、再び下赤坂城が落城すると、新たに築いた上赤坂城が楠木氏の本城となります。


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上赤坂城は足谷川城ノ谷で囲まれた自然の要害で、標高約350m、比高150mの山頂に築かれた山城です。

上の案内板にあるように、上赤坂城を中心として猫路山城、国見山城、枡形城などの出城が築かれており、この一帯を赤坂城塞群と呼びます。

この城塞群は、尾根伝いに南方の金剛山まで続きます。


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登山口に設置されていた上赤坂城の縄張り図です。


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登山口です。


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登山口を登るとすぐに、「一の木戸跡」があります。

「木戸」とは城門という意味で、「一ノ木戸」は、いわば大手門ですね。


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登山道はこんな感じで、それほど険しい道ではありません。


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一ノ木戸跡から約50m登ると、「二の木戸跡」があります。


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さらに200mほど登ったところにある「三の木戸跡」です。


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「そろばん橋跡」です。

この両側に2重の堀切跡があったそうですが、草深くてよくわかりません。

やっぱ、城跡の遺構を見るには、雑草の枯れたに来ないとだめですね。


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二ノ丸本丸の分岐点です。

この辺りを「茶碗原」と呼びます。


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「二ノ丸跡」です。

結構な面積の削平地でしたが、人の胸ぐらいの高さの雑草が覆い茂っており、季節がらマムシが怖くて中には踏み込めませんでした。

やっぱ、城跡は冬に来るべきです。


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そして「四の木戸跡」を経て本丸に向かいます。


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「本丸跡」です。


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「史蹟 楠木城趾」と刻まれた石柱は、「昭和十四年三月建設」とありますが、その土台部分は、「昭和五十八年建立」と刻まれています。

40年以上、どこか他の場所にあったのでしょうか?


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「上赤坂城趾」と刻まれた石柱の方は、「昭和十一年四月二十五日」に建てられたもののようです。


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本丸跡からは、大阪平野が一望できます。


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上の写真の左に見える塔は、某教団の平和の塔です。

下の写真は、千早赤阪村郷土資料館にある上赤坂城の縄張り模型


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元弘3年(1333年)2月22日、大手筋から押し寄せた幕府軍は四の木戸まで迫り、激しい攻防戦が展開されますが、やがて幕府軍によって水路が断たれると、楠木軍の大将・平野将監(重吉)ら約300の城兵は堪えきれず、10日間の攻防戦の末、降伏

ときを同じくして、大塔宮護良親王の吉野山も陥落し、鎌倉北条幕府の大軍は楠木正成の千早城に殺到することになります。


次回は、その千早城跡をめぐります。




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by sakanoueno-kumo | 2017-02-16 18:20 | 太平記を歩く | Comments(0)  

太平記を歩く。 その13 「下赤坂城跡」 大阪府南河内郡千早赤阪村

大阪府は南河内郡の千早赤阪村にある、下赤坂城跡にやってきました。

元弘元年(1331年)、倒幕計画が発覚した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が逃亡先の笠置山で挙兵した際、楠木正成がこれに呼応してこの地で挙兵したと伝えられます。


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別名「赤阪城」とも呼ばれる下赤坂城は(の違いに注意)、城跡としての遺構は残っていませんが、現在、想定される千早赤坂村立中学校の丘の上に、石柱が建てられています。


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石柱には、「昭和十四年三月建設」と刻まれています。


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『太平記』によると、正成は笠置山が危なくなったときにはここに天皇を迎えようと考え、急いでこの地に城を築いたと伝えられます。


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9月27日に笠置山を追われた後醍醐天皇は、この地に落ちる途中に捕らえられてしまいますが、大塔宮護良親王はこの地に落ち延びることができました。

このため、下赤坂城は10月中旬から鎌倉幕府軍大攻撃の的となりますが、正成は熱湯二重塀の活用、大木の投下等の奇策を用いて幕府軍を翻弄したと伝えられます。


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しかし、所詮はにわか造りの城であったための、しだいに大軍の攻撃に耐え切れなくなり、10月21日に落城

正成は城に火を放って金剛山に逃げました。

このとき、下赤坂城の大穴に見分けのつかない焼死体が20体以上見つかり、これを楠木正成とその一族と思い込んだ幕府軍は、11月に鎌倉に帰陣したといいます。

翌年12月、再挙兵した正成は夜襲をかけてこの城を奪回しますが、間もなく落城。

しかし、その後、千早城の戦いの最中に、鎌倉幕府滅亡します。


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下赤坂城跡は石碑が建てられているのみで、城跡としての魅力はさほどありませんが、わたしはかねてから一度ここを訪れてみたいと思っていました。

というのが、これ。


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石碑の建つ丘から見下ろす、広大な棚田です。

どうです、実に美しい光景でしょ。


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この日は梅雨真っ只中の7月3日。

でも、どうしてもこの景色が見たくて、田植えが終わって稲穂が育ち始めるこの季節で、天気の良い日をずっと狙っていました。

やっと、来ることが出来ました。


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この美しい景色を見ると、ここで幾度と無く戦が行われたなどとは、想像もつかないですね。




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by sakanoueno-kumo | 2017-02-15 17:50 | 太平記を歩く | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第6話「初恋の別れ道」 ~井伊直親の元服・結婚~

 弘治元年(1555年)3月、井伊谷に帰還した亀之丞は、早速、井伊直盛の養子となり、元服して井伊肥後守直親と名乗ります。このとき、直親21歳。遅すぎる元服ですが、逃亡、潜伏生活を強いられていたわけですから、やむを得なかったのでしょうね。晴れて井伊家の後継ぎとなった直親は、10年前の約束どおり、出家した次郎法師還俗させて結婚・・・というのが直盛の希望だったでしょうが、残念ながらそうはいきませんでした。


 第4話の稿でも述べましたが、出家した井伊直虎が尼の名前を名乗らず、「次郎法師」という僧名を名乗ったのは、再び還俗しやすいように、との直盛の願いだったといいます。当時、尼から還俗することは許されませんでしたが、男の場合、戦で死ぬことはたびたびで、後継ぎの男子がいなくなった場合、僧侶からの還俗は珍しくありませんでした。そこに目をつけた南渓瑞門和尚が、直虎に僧名をつけ、いつでも俗世に帰れるようにしたと伝えられます。次郎法師の還俗は両親の切実な願いだったんですね。


 ドラマでは、井伊家の本領安堵と引き換えに出家させられた次郎法師でしたが、史実では、そのような記録はありません。即ち、還俗しようと思えばいつでも出来たわけで、直親が帰還したこのタイミングが、まさに直盛の望みを叶えるチャンスだったといえます。しかし、実際には次郎法師の還俗は行われず、直親は一族の奥山因幡守朝利の娘と結婚します。なぜ、次郎法師と結婚しなかったのか・・・。


 これについては、様々な推理があるだけで、実際の理由はわかりません。『寛政重修諸家譜』「井伊直親」の項によると、直親の信濃国逃亡の際、朝利(その父の親朝とも)が直親を匿うべく尽力したと伝えています。つまり、奥山家は直親の命の恩人であり、無下にはできない間柄だったわけです。そんな事情から、直盛は出家した実の娘ではなく、奥山家から直親の嫁を選んだのではないか、と、推測されます。


 また、別の説では、直親は潜伏先の信濃国で代官・塩沢氏の娘との間に一男一女をもうけたといわれ、井伊谷にはその娘を伴っての帰還だったため、次郎法師がこれを嫌った、とも言われます。元服していなかったとはいえ、帰還時の直親は21歳。当時の習慣からいえば、子どもがいても何ら不思議ではありません。ただ、それを理由に次郎法師が還俗、結婚を拒んだというのは、いささか現代チックな見方かもしれませんね。この時代、正妻より先に側女を持つなどよくあることで、その程度のことで目くじらを立てる次郎法師ではなかったでしょう。おそらく、ふたりが添えない何らかの事情があったのでしょうね。


次郎法師「直親とわれは、それぞれ1つの饅頭なのじゃ。2つの饅頭を一時に食べたり与えてしまっては、のうなってしまう。なれど、1つを取り置けば、まことに困ったときに、もう1度食べたり与えたりできる。」

直親「おとわが還俗するのは俺と一緒になるときではなく、俺に何かがあったときでありたいということか?」

次郎法師「井伊のためには、死んでしまったことにするわけにはいかぬ。次郎の名を捨てるわけにはいかぬ。」

直親が「おとわはそれでよいのか? 一度きりの今生と言うたではないか。一生、日の目を見ることなどないのかもしれぬのだぞ!」

次郎法師「それこそ上々であろ? われがかびた饅頭になることこそ、井伊が安泰である証しであろ?」


 これが、ドラマにおける理由でした。つまり、次郎法師はリザーブになる・・・と。実際には、この時点での次郎法師を井伊家の後継ぎ候補と考えるようなことはなかったとは思いますが、そこはドラマですから、多少の千里眼的設定はいいんじゃないでしょうか? 実際、次郎法師はかびた饅頭になれなかったわけですから。



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by sakanoueno-kumo | 2017-02-13 21:43 | おんな城主 直虎 | Comments(0)