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太平記を歩く。 その61 「薬仙寺(後醍醐天皇御薬水)」 神戸市兵庫区

同じく神戸市兵庫区にある薬仙寺を訪れました。

ここには「後醍醐天皇薬水」という名の井戸跡があります。


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現地説明板によると、元弘の乱によって隠岐島に流されていた後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が、正慶2年(1333年)に島を脱出して還幸の途中、前稿で紹介した兵庫の福厳寺病床に伏したそうです。


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その際、当時の住職がここの霊水を薬水として献上したところ、たちまちにして快癒したことから、「薬仙寺」の号を賜ったといいます。


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井戸脇にある「薬師出現古跡涌水」の碑です。


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こちらの石碑はかなり古そう。


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説明板です。


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まあ、この種の伝承というのは、全国各地で数限りなくある話で、にわかに信じられる話ではありませんが、後醍醐天皇が兵庫津を通ったことは史実ですから、何らかの関わりはあったのかもしれませんね。


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また、太平記とは関係ないですが、ここ薬仙寺の場所には、平清盛後白河法皇を幽閉した「萱の御所」があったとされ、その石碑が建てられています。


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後醍醐天皇といい後白河法皇といい、帝が政治介入すると、歴史は乱れるんですよね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-05-31 23:18 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その60 「福厳寺(後醍醐天皇御駐蹕之處)」 神戸市兵庫区

神戸市兵庫区にある福厳寺の入口には、「後醍醐天皇御駐蹕之處」と刻まれた石碑があります。

ここも、配流先の隠岐島を脱出して京に帰る帰路の後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が立ち寄ったとされます。


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後醍醐天皇は元弘3年/正慶2年(1333年)5月31日から6月2日までの間滞在し、この地で楠木正成の参向を受け、また、東国で挙兵した新田義貞によって鎌倉幕府壊滅したという報せを受けたといいます。

『太平記』は、「兵庫の福厳寺といふ寺に、儲餉(ちょしょう)の在所を点じて、しばらく御座ありける」と伝えています。


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石碑の横には、説明看板があるのですが、色あせてしまって読めません(笑)。

ご関係者さまは、ぜひ作り直してください。


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本堂です。

もっとも、当時の福厳寺は、ここよりもっと北東の会下山にあったそうですけどね。


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その後、京に戻った後醍醐天皇は、天皇自らが政治を行う建武の新政を開始するんですね。

ところが、元弘の乱の論功行賞において赤松則村(円心)足利尊氏を怒らせてしまい、やがてそれが、南北朝の分裂に繋がっていきます。



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by sakanoueno-kumo | 2017-05-30 23:43 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第21話「ぬしの名は」 ~気賀宿と中村屋~

 浜名湖に面する商業の町・気賀が今話の舞台でしたね。気賀は現在の浜松市北区にあった地名で、かつては東海道の脇往還である本坂通の宿駅として栄え、江戸時代には気賀関所が設けられたまちでした。エンディングの『直虎紀行』でも紹介されていたとおり、かつて浜名湖は淡水湖だったそうですが、ドラマのこの時代より遡ること70年近く前の明応7年(1489年)に起きた「明応の大地震」によって南側が決壊し、海へと通じるようになったそうです。これにより浜名湖南側を走る大動脈、東海道分断されてしまい、北側を迂回する本坂通の往来が盛んになり、その街道沿いのまちだった気賀は、宿場として栄えました。気賀の東に流れる井伊谷川都田川には橋が架かっておらず、街道を往来する人々は渡し船で通行したそうで、まちには船着場がいくつもあったといいます。


ちなみに、ドラマでは気賀を「きが」と言っていましたが、「きが」と読まれるようになったのは昭和12年(1937年)からだそうで、それ以前は「けが」と読んでいたそうです。


 ドラマに出てくる盗賊の頭・龍雲丸は架空の人物ですが、気賀の商人を取り仕切っていた中村与太夫は実在の人物です。代々、浜名湖の航路を支配していた中村氏は、この時代、屋号『中村屋』をかかげて、今川家の代官として戦船も管理していたといいます。この頃の中村氏の当主は第18代・中村正吉で、ドラマに出てきた中村与太夫は正吉の次男です。これより少しあとの永禄11年(1568年)、松平(徳川)家康が遠江国に入ると、正吉は船を出してこれを迎えたといい、その後、主君を今川氏から松平氏に乗り換えました。さすがは商家、機を見るに敏ですね。もっとも、この頃の今川氏は支配下の相次ぐ離反に歯止めが効かない状態にありましたから、中村氏の判断は当然のことだったといえるでしょうが。中村氏が付いたことで、松平氏は浜名湖の航路を手中に治めたわけです。これは大きかったでしょうね。

 以後、中村氏は徳川家に仕え、今切軍船兵糧奉行代官を勤めました。次男の与太夫はその分家にあたる気賀中村家の始祖となり、その当主は代々「与太夫」を名乗り、気賀宿の本陣として繁栄を築きました。余談ですが、後年、家康が正室・築山殿(瀬名姫)侍女に手を付けて妊娠させてしまった子を、宇布見の本家中村家の屋敷で産ませたといわれています。のちに家康はたくさんの女性に子どもを産ませますが、正室以外の女性に産ませた子としては、たぶん、これが最初のお手付きだったと思われ、しかも、それが築山殿の侍女だったということもあり、多少は後ろめたい思いがあったのかもしれません。一説によると、侍女の懐妊を知った築山殿は超激怒し、侍女の身の危険すら感じられたため、その目を逃れるために城外で出産させたとも。その出産の場に中村家の屋敷が選ばれたわけですから、中村氏が家康からよほど信頼されていたことがわかりますね。

 ちなみに、そのお手付きとなった女性は於万の方(長勝院)で、中村屋敷で生まれた子が、のちの結城秀康です。

 少しだけドラマのストーリーの話しをすると、龍雲丸から武家は百姓が作ったものを召し上げる大泥棒と言われ、ガビーンとなった井伊直虎。まあ、税金なんてものは払わずにすむなら払いたくないと思うのが世の常で、取られる側からしてみれば「盗られてる」感覚になるのは今も同じですね。ましてや、この時代の百姓に課された年貢の税率は、現代の税金とは比較にならないほど重いものでしたから。


もっとも、農民と武家の関係は直虎が言ってた土地の貸借関係というより、荘園の警護と百姓の保護のために有力農民の中から自然発生的に生まれたのが武家ですから(異説あり)、百姓は米を作り、武家は命を張る、といった相互関係が成り立っていたんじゃないかと思います。むしろ、政務活動費と称して多額の公金を横領し、記者会見で無様な号泣を晒したどっかの県議や、政治資金を公私混同してピザの本やら家族旅行やら中国服やらに使って辞職に追い込まれたどっかの都知事など、わたしたちの血税を私物化する「税金泥棒」は、現代の政治家や役人のほうが多いかもしれませんよ。



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by sakanoueno-kumo | 2017-05-29 17:35 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(5)  

太平記を歩く。 その59 「法華山一乗寺」 兵庫県加西市

兵庫県加西市に「一乗寺」という大きな寺院があるのですが、ここも、配流先の隠岐島から帰京中の後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が立ち寄ったと伝わる寺です。


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後醍醐天皇の護持僧・文観は、東寺長者・醍醐寺座主をつとめた真言律宗の高僧ですが、もともとは、ここ一乗寺の僧だったそうです。


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南北朝時代の播磨国の地誌『峰相記』によると、建武2年(1335年)に後醍醐天皇のを受けた文観が一乗寺を訪れ、西国第一の大堂と称された講堂落慶法要が行われたと記されているそうです。


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大非閣(金堂)と呼ばれる本堂です。


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残念ながら後醍醐天皇が建てた大堂は火災で消失してしまい、現在の本堂は寛永5年(1628年)に姫路藩主・本多忠政の援助で再建されたものだそうです。


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一乗寺の創建は白雉元年(650年)、孝徳天皇(第36代天皇)の勅願で法道仙人が開いたとされています。


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安元年(1171年)に建てられた三重塔は平安時代後期を代表する和様建築の塔であり、日本国内屈指の古塔として国宝に指定されています。


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三重塔は本堂から見下ろすことができます。


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他にも、数多くの国指定重要文化財兵庫県指定文化財を所有しています。

下の写真は室町時代に建てられたと言われる弁天堂妙見堂


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続いて鎌倉時代に建てられたと言われる護法堂


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こちらは、正和5年(1316年)と刻印された石造笠塔婆です。


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ここを訪れたのはゴールデンウィーク中の5月4日。

でも、ケイタイも圏外になるほどの山奥にあるため参拝客もそれほど多くなく、うぐいすの声を聴きながら悠久の歴史にふれ、ゆったりとした時間を過ごしました。

ここ一乗寺は、西国三十三所二十六番札所となっています。




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by sakanoueno-kumo | 2017-05-27 18:38 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その58 「書寫山圓教寺」 兵庫県姫路市

兵庫県姫路にある、西の比叡山と称される天台宗の古寺「書寫山圓教寺」を訪れました。

書写山は、姫路市の北部にある標高370mの山で、圓教寺はその山上にあります。


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大塔宮護良親王楠木正成、さらには播磨国の赤松則村(円心)らが各地で倒幕の兵を上げると、その機に乗じて後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)は名和長年ら名和一族を頼って隠岐島から脱出し、伯耆船上山で挙兵します。

やがて六波羅陥落の知らせを聞いた後醍醐天皇は、元弘3年(1333年)5月23日に船上山を出発し、京へと向かいます。


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その帰路、後醍醐天皇はここ書寫山圓教寺に立ち寄り、一泊したといいます。

ここで、天皇方として摂津と山崎を何度も往復して幕府軍と戦っていた円心に会いました。

このとき後醍醐天皇は、円心を「天下草創之功」と称えたといいます。


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有名な「摩尼殿」です。

書寫山圓教寺で画像をググったら、まずこの画像が出てきますね。


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圓教寺は、康保3年(966年)に天台宗の僧・性空によって創建されたと伝えられ、花山法皇(第65代天皇)の勅願所となりました。

摩尼殿の号は承安4年(1174年)に参詣した後白河法皇によるものだそうです。

摩尼殿は、京都の清水寺と同じ舞台造りとなっています。

たしかに似てますね。


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こちらが有名な三之堂

右側の建物が大講堂、左奥に見えるのが食堂(じきどう)、写真左に屋根の先端が少しだけ見えているのが、常行堂です。

いずれも室町時代の再建で、国の重要文化財ですが、後醍醐天皇の行幸以降に再建されたものです。


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ここは、天正6年(1578年)に起きた羽柴秀吉別所長治三木合戦において、一時秀吉が本陣を置いた場所でもあります。


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ここ三之堂は、平成26年(2014年)のNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』、同じく平成15年(2003年)の 『武蔵-MUSASHI-』、そして、あのトム・クルーズ主演のハリウッド映画『ラスト・サムライ』のロケ地にもなっています。


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書寫山圓教寺については、他の稿でも紹介していますので、よければ。

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夏休み中播磨路紀行2016 その4 「書寫山圓教寺~前編~」

夏休み中播磨路紀行2016 その5 「書寫山圓教寺~後編~」

三木合戦ゆかりの地めぐり その46 ~書寫山圓教寺~


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by sakanoueno-kumo | 2017-05-26 00:50 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その57 「三人五輪」 鳥取県西伯郡大山町

前稿で紹介した名和一族郎党の墓とは別に、ここ大山町名和地区には名和氏ゆかりのものと伝わる五輪塔があります。


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それが、これ。

「三人五輪」と呼ばれる大型の五輪塔3基で、名和長年、その長男の名和義高、三男の名和高光首塚といわれています。


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後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)を護衛して上洛した名和長年は、北条幕府滅亡後に天皇が開始した「建武の新政」において天皇近侍の武士となり、記録所や武者所、恩賞方や雑訴決断所などの役人を務めました。

また、海運業を営んでいた経歴を買われ、京都の左京の市司である東市正にも任じられています。

天皇の忠臣であった長年は、伯耆守(キ)をとって、同じく後醍醐天皇に重用された楠木正成の(キ)、結城親光の(キ)、千種忠顕の(クサ)と合わせて「三木一草」と称されました。

しかし、足利尊氏が政権から離脱して後醍醐天皇に反旗を翻すと、楠木正成、新田義貞らと共に尊氏と戦い、京都大宮にて討死してしまいます。


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『太平記』巻17「義貞軍事付長年討死事」は、長年の最期を次のように伝えます。


義貞今日を限の運命也と思定給ければ、二万余騎を只一手に成て、八条・九条に引へたる敵十万余騎四角八方へ懸散し、三条河原へ颯と引て出たるを、千葉・宇都宮も、はや所々に引分れ、名和伯耆守長年も、被懸阻ぬとみへたり。仁科・高梨・春日部・丹・児玉三千余騎一手に成て、一条を東へ引けるが、三百余騎被討て鷺の森へ懸抜たり。長年は二百余騎にて大宮にて返し合せ、我と後の関をさして一人も不残死してけり。

要訳すると、

新田義貞は今日限りの命かと覚悟を決め、二万余騎の軍勢を一つにまとめて、八条、九条に陣取っている敵、十万余騎を四方八方に蹴散らし、三条河原まで退却しましたが、千葉、宇都宮らとも何処かで別れ別れになり、名和伯耆守長年とも引き離されたようです。仁科、高梨、春日部、丹、児玉らの三千余騎も一団になり、一条通りを東に向かって退却しようとしましたが、三百余騎が討ち取られ、鷺の森に逃げ込みました。名和長年は二百余騎を率いて大宮まで引き返し、退路を閉ざされた状況の中、一人残らず討ち死にしました。


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向かって左から長年、長男の義高、三男の高光のものであると言われています。


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長男の義高は父の死の2年後に河内国の堺浦で討死したと伝わり、三男の高光は父の死と時を同じくして、比叡山の西側にあたる西坂本(現滋賀県)にて討死したと伝わります。

その後、それぞれを家臣が故郷へ持ち帰り、ここへ祀ったと伝えられています。


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さて、「その48」から10稿に渡って伯耆国の史跡を巡ってきましたが、この稿にて終了です。

次稿から、時系列に戻ります。



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by sakanoueno-kumo | 2017-05-25 00:15 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その56 「名和一族郎党の墓」 鳥取県西伯郡大山町

前稿で紹介した長綱寺の裏山に、名和一族郎党の墓と伝わる300基以上の五輪塔があります。

墓所への参道は、境内に誘導板が設置されているので、すぐにわかります。


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急な階段を登ります。


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ここが、その場所です。


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この五輪塔群は、名和長年船上山で幕府軍と戦ったときに戦死した一族を祀ったものか、あるいは、そのとき館に残った一族の女性や子どもたちの墓とも伝えられています。


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後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が都を追われて足利尊氏の天下になったとき、足利方によって墓を荒らされることを心配した長年の子孫が見つからないように土中に埋めたといわれ、それが、昭和5年(1930年)になって偶然、地元の農家の人によって発見されたそうです。


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発見当時は何の墓かわからなかったそうですが、名和長年の妹婿の家に伝わる古文書によって判明したそうで、その後、現在のかたちに祀られたそうです。


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ほとんどが五輪塔ですが、最上段の中央に1基だけ、大きな宝篋印塔があります。


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これが、名和長年の墓と考えられているそうです。


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参道から西を見下ろします。

右端に見えるのが、日本海です。


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下山して長綱寺とその裏山を見上げます。




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by sakanoueno-kumo | 2017-05-24 00:04 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第20話「第三の女」 ~井伊直親の隠し子~

 死んだ井伊直親の娘と名乗る高瀬という少女が出現しました。ドラマでは唐突な設定に思えましたが、実はこれは根拠のない話ではなく、直親は11歳から21歳までの約10年間に及んだ信濃国は市田郷での潜伏生活のなかで、身の回りの世話をしていた地元島田村の代官・塩沢氏の娘とのあいだに子をなしたといわれています。


 『寛政重修諸家譜』によると、直親の子どもは二人になっていて、「女子」「直政」とあります。「直政」とは言うまでもなく虎松のことですが、この「女子」は、直政より先に記載されていて、「母は某。家臣川手主水良則が妻」と書かれています。この女子こそ、直親(当時は亀之丞)が市田郷での潜伏生活時代に、塩沢氏の娘に産ませた子ではないかと思われます。たぶん、この「女子」が、ドラマの高瀬なんでしょうね。


 隠し子(というわけではなかったでしょうが)の出現に動揺を隠せない井伊直虎でしたが、正妻のしのは気丈でしたね。自分と結婚する前のことだから、関係ない・・・と。むしろ、裏切られたのは、かつて許嫁だった直虎様ですよ・・・と。あの意外な反応が笑えましたが、たしかにしのの言うとおりで、この時代、正妻を娶る前に側女を作るなんて話はよくあることで、その程度のことで狼狽えていては、武家の妻はつとまりません。ましてや、雲隠れの身だったとはいえ、井伊家の後継者候補だった直親ですから、正妻として迎えるのはそれ相応の身分の女性でなければならなかったわけで、塩沢氏の娘では身分不相応だったのでしょう。


かといって、11歳から21歳という時期を、女性なしで過ごすには無理がありました。この時代、武家の男子には15歳ぐらいで三点セットともいうべき儀式がありました。元服初陣結婚です。直親の場合、潜伏生活のため元服も初陣もおあずけでした。しかし、ひとつだけ可能だったのは結婚。直虎という許嫁がいたため正妻を迎えるわけにはいかなかったでしょうが、側女を迎えて子をなすことはできました。武家の男子にとって、子どもを作るというのは最も大切な仕事でした。そう、仕事だったんですよ。男が妻以外の女性に惹かれるのは、その仕事の習性の名残なんです。決して好色ではありません(笑)。


 井伊家に残る史料では、直親の子どもは直政とこの女子だけですが、しかし、直親の潜伏先だった市田郷では、直親は塩沢氏の娘とのあいだに一男一女をもうけ、女の子は井伊谷につれていったが、男の子は置いていったという伝承がのこっているそうで、いまもその子孫の方が長野県飯田市にご健在だそうです。歴史家・楠戸義昭氏の著書によると、その男子の名は吉直といい、直親が帰国の際に一振の短刀を託したといいます。吉直はこの地に留まり塩沢家で養育されましたが、数代ののち、飯田城下大横町に出て麹屋を創業<推定:延享3年(1746年)>し、そこで旧姓の井伊氏を名乗り、吉右衛門を襲名、代々島田屋を屋号として飯田藩ご用達として栄え、今なお続いているそうです。この家に、直親が息子に託したという短刀が家宝として伝わっているんだそうです。


 その話の真偽はともかく、高瀬のことは井伊家の記録にも残っており、その後、高瀬は井伊家家老となる川手良則の妻となったといいますから、たぶん事実なんでしょうね。一説には、この事実が直虎出家の理由だったとも言われますが、それはどうでしょうね。なんたって直親にとっては仕事だったわけですから(笑)。


 ドラマでは、間者の疑いもあるとして追い出してもかまわないとする小野但馬守政次でしたが、高瀬の鼻歌を聴いた直虎が、直親の娘と認知します。まあ、間者だったらそれぐらいの予備知識は持っていそうですが、DNA鑑定などない時代ですから、疑うも信じるも当人次第だったでしょう。かくして高瀬は井伊家の姫子となって、めでたしめでたし・・・と思っていたら、徳川家康の諜報活動担当の松下常慶が飛び込んでくるや、意味深な眼差し。えっ? やっぱり間者なの? じゃあ、直親は直虎を裏切ってなかった? でも、じゃあ井伊家史料に残る高瀬の存在は? 今後の展開が楽しみです。



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by sakanoueno-kumo | 2017-05-22 21:11 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その55 「長綱寺(名和一族菩提寺)」 鳥取県西伯郡大山町

前稿的石前々稿名和氏館跡のすぐ東側に、名和氏一族の菩提寺・長綱寺があります。

この寺には、名和長年、その長男の名和義高、三男の名和高光、そして後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の位牌が祀られてあり、寺紋は帆掛け船で後醍醐天皇から名和氏に賜ったものと言われています。


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寺の創建は名和長年によるもので、元は長年の父・名和行高の還暦を祝って建てた隠居所だったそうです。

長綱寺(ちょうこうじ)という名称は、長年の以前の名である長高から取ったものだそうです。

ちなみに、船上山挙兵時は、長年は長高の名乗っていたといい、後醍醐天皇の「長くて高いのは危険なことではないか」との御言葉を受け、長年の名を贈られたと伝わります。


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説明板によると、創建当初は長高の名前にあやかって「長高庵」と言ったそうですが、後醍醐天皇が足利尊氏に追われて足利氏の天下になってからは、ここが長年(長高)に関係する場所であることを知られないため、「長高庵」を「長綱庵」と改名したそうです。


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その後、長綱庵が火災で焼けたのを機会に、屋敷を前々稿で紹介した場所に移し、再建した寺院は現在の長綱寺と再度改めまたそうです。


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境内の片隅には、「硯岩」と称する遺跡があります。


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その説明書きによると、長年が後醍醐天皇を船上山へ案内する途中に休憩した岩と言われ、上部に墨つぼの様なくぼみがある形状から、「後醍醐天皇の硯岩」と呼ばれ、伝承されてきた岩だそうです。


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ところが、昭和30年代に突然行方不明になり、人々が嘆いていたところ、住職の夢枕に名和長年が立ち、「米子の皆生温泉の辺りで硯岩が粗末に扱われている。持ち帰るよう。」とのお告げがあったそうです。

これを聞いた有志たちが手をつくして探し回ったところ、そのお告げ通り皆生温泉の近くで硯岩を発見。

平成22年に寺へ帰ってきたそうです。


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夢枕云々はどうかわかりませんが、昭和30年代の話ですから、岩がなくなったという話は本当なんでしょうね。

この岩は10トン300kgあるそうです。

誰が? どのようにして? 何のために?

なかなかミステリアスな話ですね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-05-20 00:44 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その54 「的石」 鳥取県西伯郡大山町

前稿で紹介した名和氏館跡のすぐ近くに、「的石」と呼ばれる遺跡があります。

この石は、名和長年を始めとする名和氏一族が、弓矢の修練に使用した的だと伝わります。


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広い公園内の一角に、大きな石と説明板が見えます。


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説明板です。


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縦170cm、横150cmの大きな石で、たしかに平らに削ったような面があるものの、それ以外は何の変哲もないただの石です。


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なんでも、この的石は、雨が降りやんだあとに太陽が照り出すと、石の表面に白い二重の輪がくっきり見えるのだそうで・・・。


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う~ん・・・この日は太陽は照っていたものの雨上がりではなかったので、なんとも言えません。


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長年が弓の名手であったことは、『太平記』にも記されています。

『太平記』巻7「先帝船上臨幸事」によると、隠岐島を脱出した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が名和の湊についたとき、船を降りた千種忠顕「この辺りに弓矢の名手はおらぬか?」と領民に尋ねたところ、「このあたりでは名和又太郎長年という者が一番でしょう。」と答え、長年を頼ることにしたとあります。(参照:その52

上の説明板にもありますが、長年は五人張りの強弓を引き、一矢で二人の敵兵を射抜いたとの伝説があります。


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五人張りの強弓とは、弓を張るのに5人必要だったという超強弓のことで、普通は強弓といっても3人張り程度だそうです。

現在のオリンピッククラスのアーチェリーでも、強いもので引き重量が25kgほどだそうで、これは、ひとりで十分張れるそうです。

そう考えれば、五人張りというのがいかに強弓であったかがわかり、凄まじい威力を発揮したであろうことが想像できます。


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ちなみに、日本の歴史上、有名な強弓の使い手といえば源為朝(源頼朝、義経の叔父)で、為朝の弓も五人張りだったといいます。

為朝の放った矢は、鎧武者を貫通し、後ろにいた武者の袖鎧を射抜いて止まったという伝説があります。

長年の一矢で二人の敵兵を射抜いたという伝説も、あながち盛った話ではないのかもしれません。



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by sakanoueno-kumo | 2017-05-18 23:21 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)