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太平記を歩く。 その79 「宝林寺(円心館)」 兵庫県赤穂郡上郡町

松雲寺赤松居館跡がある赤松から千種川を挟んだ西側の河野原に、宝林寺という寺院があるのですが、ここは、赤松則村(円心)の三男・赤松則祐が、円心の死後、播磨国守護・惣領家を継いだときに建てたといわれています。


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もともと宝林寺は円心の生前から、則祐の自領だった備前国新田荘中山に創建されていましたが、惣領を継いだ後の文和4年(1355年)にこの地へ移されたとつたわります。

その後、赤松惣領家の氏寺として、代々手厚く保護されました。


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かつては河野原集落の全域が境内地であったとみられているそうですが、戦国時代には赤松氏とともに衰微したとみられています。


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現在、境内には赤松氏の資料館「円心館」が設けられ、館内には、赤松則村(円心)、赤松則祐、雪村友梅別法和尚説も)、覚安尼(千種姫)木坐像が安置されています。


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本来は撮影禁止ですが、館を管理する松雲寺の住職さんに、フラッシュをたかないという条件で特別に撮影の許可をいただきました。


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まずは赤松則村(円心)坐像

右手に、左手にを携えた法体姿で、禅僧の九条袈裟と異なる五条袈裟を掛けているは、円心が半僧半俗の沙弥(しゃみ)であったことを示すそうです。


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アップです。

眼球は水晶球だそうですが、眼光鋭く、圧倒されます。


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こちらは、円心の三男・赤松則祐坐像

ここ宝林寺の建立者ですね。

こちらも右手に扇を持っていますが、刀は携えていません。

則祐坐像は、元は京の建仁寺にあったのが、後に宝林寺に移されたといわれているそうです。

禅僧の九条袈裟を掛けた姿は、若くから出家して僧侶のまま武将として活躍した則祐の人生を物語ります。


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アップです。

円心に比べると、顔が小さく首も細いようです。


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こちらは雪村友梅坐像

宝林寺の開山「別法和尚」坐像と伝えられていますが、実際の開山・雪村友梅の像とみられるそうです。

雪村友梅は、「その74」で紹介した法雲寺の開山でもあります。

その隣の坐像は、覚安尼坐像

覚安尼は、円心もしくは則祐の娘千種姫が出家剃髪した姿と伝えられます。


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友梅のアップです。


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この際なので、いろんな角度から。


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ご住職の話によれば、坐像を調査したところ、のちの時代に手を加えた修理銘が見られるため、「国宝」扱いににはならなかったそうです。


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でも、鎌倉彫刻の名残をとどめる価値を認められ、「赤松三尊像」として兵庫県の指定文化財となっています。


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館内には、他にも甲冑太刀書簡など、赤松氏関連の史料が展示されています。

見学料300円は安いです。



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by sakanoueno-kumo | 2017-06-30 21:48 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その78 「松雲寺」 兵庫県赤穂郡上郡町

前稿で紹介した五社八幡神社のすぐ西隣にある「松雲寺」を訪れました。

ここは、元は白旗城の麓にあった栖雲寺(参照:その72)を継承する寺院として、江戸時代に創建されたと伝わります。


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元の栖雲寺は、赤松則村(円心)の次男・赤松貞範が建立したといわれ、禅宗寺院でしたが、この地に移って松雲寺と名を改めたとき、真言宗に改宗したそうです。


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貞範は『太平記』の中で、勇猛果敢な戦いぶりや情け深く敵と交わり味方に引き入れるなど魅力的な人物として描かれ、白旗城の籠城戦でも大きな戦果をあげたことから、その軍功として丹波春日部荘足利尊氏より与えられ、以後、春日部家として足利将軍家に仕え、播磨守護職の赤松惣領家同格の存在となります。


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ちなみに赤松惣領家は、円心の長男・赤松範資が病死したため、三男の赤松則祐が継ぎました。


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境内には、推定樹齢700年から800年といわれるカヤの大樹が聳えます。

説明板の解説によると、樹高は約24.8m、目通り直径約1.6m、根周り約8.3m、枝の広がりは東西約19m、南北16mあるそうです。


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樹齢700年以上といえば、ここ松雲寺はもちろん、赤松居館が作られる以前からこの地にあったかもしれない木です。

「その74」で紹介した法雲寺ビャクシンの大樹は、円心手植えの木という伝説があります。

あるいは、このカヤの大樹も、円心もしくは貞範、則祐らと関わりがあるのかもしれませんね。


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赤松の集落にそびえるその大樹は、今なお樹勢は衰えていません。



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by sakanoueno-kumo | 2017-06-29 21:10 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その77 「赤松五社八幡神社」 兵庫県赤穂郡上郡町

前稿で紹介した赤松居館跡のすぐ西隣にある「五社八幡神社」を訪れました。

「五社八幡神社」という名の神社は「その33」で紹介したように神戸市北区にもありますので、ここでは便宜上、「赤松五社八幡神社」と呼ぶことにします(このあたりの住所は、上郡町赤松といいます)。


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参道には、「赤松圓心廟影堂」と刻まれた石碑がありましたが、これは近くの「宝林寺」のもののようです。


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赤松五社八幡神社は、赤松則村(円心)の三男で領家を継いだ赤松則祐が建立したといわれ、明治32年(1899年)には、白旗城麓にあった白旗神社を合祀したそうです(参照:その57)。


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拝殿です。

拝殿内には、中世から戦国時代にかけての武将が描かれた絵馬が、数多く奉納されていましたので、紹介ます。

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まずは、左から北畠親房、源頼朝、源義経


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左から毛利元就、源為朝


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左から吉川元長、小早川隆景、山名宗全


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左から平知盛、細川幽斎(藤孝)


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左から太田持資(道灌)、鈴木重幸、児島高徳


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左から足利義詮、大内義弘


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左から北条時宗、源義朝、北条時頼


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右が加藤清正


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左から源義家、平忠度


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左から斯波義将、武田信玄、楠木正行


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左から柴田勝家、豊臣秀吉


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左から伊達政宗、北条氏政


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左から織田信長、北畠信雄、名和長年


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左から平重盛、上杉謙信


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左から新田義貞、源頼政、新羅三郎義光(源義光)


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左は佐々木高綱、右は・・・明記されていません。だれでしょう?


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そして最後に細川勝元


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というわけで、人選配列も何を基準にしているのかよくわかりませんが、時代が違った英雄たちの絵馬がずらりと掲げられていました。

『太平記』関連でいえば、南朝方の児島高徳、楠木正行、新田義貞、北畠親房、名和長年の絵馬があるのに、なんで楠木正成がいないんでしょうね?

それに、どういう理由か、郷土の英雄である赤松氏からの人選がありません。

ただ、こんなのがあります。


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左は長山遠江守、右が赤松弾正と明記されています。

長山遠江守がよくわからないのですが、名門・土岐氏の人物のようで、赤松弾正というのは、円心の四男で則祐の弟にあたる赤松氏範のことだそうです。

氏範は3人の兄と仲が悪く、円心の死後はひとり南朝方に与し、幾度となく兄弟対決を繰り返しながら、最後は京都の清水寺自害した人物です。

絵馬には、明治11年と記されています。

明治以降の天皇家の歴史認識では南朝が正統とされていますから、赤松氏では唯一南朝方に与した氏範だけが、絵馬としてここに祀られたのかもしれませんね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-06-28 22:38 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その76 「赤松居館跡」 兵庫県赤穂郡上郡町

少し北に戻って、「その72」で紹介した白旗城跡のある白旗山の西麓にある「赤松居館跡」を訪れました。

国道373号線沿いにある駐車場には、「赤松円心の郷」と書かれた大きな観光用看板があります。


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駐車場内には、赤松則村(円心)を紹介する大きな陶板があります。

とにかく、町全体で円心推しですね。


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居館跡です。


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何もないただの広場です。


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説明板です。


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説明板によると、東西105m、南北約55mのほぼ方半町に削平された台地上の字「御屋敷」にあり、ここが「赤松居館跡」と伝えられているそうです。

史料によると、円心の三男・赤松則祐により建てられ、のちにその子・赤松義則によって修理されているそうです。

また、その子孫で赤松氏を再興した赤松政則も、一時ここに住んでいたとか。


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東側の幼稚園(現在は廃園となり、「赤松の郷昆虫文化館」となっている)の建設前に行われた調査では、土師器皿などの中世の遺物が出土したそうで、ここが赤松氏代々の居館跡と考えて間違いなさそうです。


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居館跡の一角には、なぜか「苔縄城址」と刻まれた石碑があります。

ここは「その73」で紹介した苔縄城跡からは、3km以上離れています。

どういう意味でしょう?


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居館跡から望む白旗城跡です。

この時代の山城というのは居住スペースではなく、臨戦態勢に入ったときに籠るためのであって、平時は麓の居館に住むのが一般的でした。

いつもあんな山の上に居たんじゃ、領民に目を配れないですからね。


さて、次稿では、居館跡のすぐ隣りにある寺社をめぐります。



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by sakanoueno-kumo | 2017-06-27 23:57 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第25話「材木を抱いて飛べ」 ~経済封鎖政策・塩留~

 「敵に塩を送る」

 という上杉謙信の有名な美談が生まれた「塩留」に絡めた話でしたね。甲相駿三国同盟が瓦解すると、武田信玄幽閉していた長男・武田義信廃嫡し、その妻で今川氏真の妹・嶺松院とも強制的に離縁させ、駿河へ送り返します。そして、四男の武田勝頼の正室に織田信長の娘を迎えました。これは、今川氏との同盟関係を断ち切り、今川氏の仇敵である織田氏と手を結ぶという意思表示でした。


 これに怒った今川氏真は、相模の北条氏康と相談し、武田領である甲斐に塩を売らないよう商人たちに命令します。山国で海を持たない甲斐では、自国で塩を精製することはできず、駿河湾からの輸入に頼っていました。言うまでもなく塩は人が生きていくうえで不可欠なもので、塩を絶たれた武田氏は、たちまち困窮して降伏せざるを得なくなるだろう・・・というのが、今川氏、北条氏の狙いです。


 この経済封鎖政策のことを「荷留」と言い、戦国時代から明治初頭にかけてしばしば行われていました。今川氏の場合は塩でしたが、の輸出を止める場合や、港で船の荷揚げ荷下ろしを制限する「津留」という政策などもあったようです。江戸時代以降のそれは、飢饉時などによる自領内の食料を確保する目的で行われるものでしたが、戦国時代の場合、今川氏の塩留のように敵国に対する経済制裁の目的が多かったようです。このやり方を「卑怯」だと批判した上杉謙信が、敵国である武田領に塩を送ったという逸話が、後世に「敵に塩を送る」という故事を伝えることになるんですね。もっとも、この話は、現在では史実ではないと言われていますが。


 経済制裁は現代でも行われており、国連主導のものや個別国家によるものなど、世界中で複数の制裁政策が現在進行形です。わが国の身近なものとしては、北朝鮮への国連安保理決議のものや、日本が独自に行う特定船舶入港禁止法などの制裁政策も行われていますね。しかし、北朝鮮はいっこうにダメージを受けていないようにも見えます。また、わが国が受けた経済制裁としては、太平洋戦争開戦に至るまでのアメリカによる石油などの禁輸在米資産凍結などの対日措置が知られていますね。その結果、何が起こったか・・・。経済制裁を受けて追い詰められた国が、猛省して態度を改めることはまずなく、暴挙にでることがほとんどです。その結果、苦しむのは民なんですね。その意味では、経済制裁も結局は武力制裁と変わらない非人道的な行為といえるでしょうか。それを450年も前に見通していた上杉謙信はスゴイ!!・・・って、史実じゃないんですけどね。


 で、ドラマに戻って、「荷留」による経済封鎖政策を打ち出した今川氏ですが、そうなれば、武田氏も困りますが、それを生業にしていた商人たちも商売上がったりになるわけで、そうすると、瀬戸方久らのように塩の密輸入を始める輩も当然出てきていたでしょう。そんな時勢の中で、井伊領で伐採した材木の商い先である成川屋が、三河の徳川に材木を流していることが発覚。またもや、井伊は今川より謀反の嫌疑をかけられるはめに・・・。もちろん、これも史実ではありませんが、時勢に絡めた面白い設定だったんじゃないでしょうか?材木の話を何話も引っ張ってきたのは、今話を描くためだったんですね。なるほど納得。


 井伊直虎成長ぶりもいいですね。これまでのような熱意だけの拙い施策とは違い、第二、第三の対応策を練り、毒薬を飲んで時を稼ぐ荒業など、強かさを身につけています。また、直虎と小野但馬守政次が、それぞれ別の場所で碁盤に向かいながら意志を通じ合わせる場面も秀逸でした。そしてその政次に寄り添うなつが切ない・・・。


今川氏真への申し開きも、以前、寿桂尼に申し開きしたときは村人からの嘆願書に救われ、今回は龍雲丸たちが取り戻した材木が持ち込まれて救われるという、一見、ワンパターンの結末にも見えますが、その申し開きの口上は以前のものより明らかにスキルアップしています。おんな城主直虎、覚醒ですね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-06-26 17:12 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その75 「駒山城跡」 兵庫県赤穂郡上郡町

「その73」で紹介した苔縄城跡の南に見えていた駒山城跡を訪れました。

駒山城跡は、苔縄城跡とされる愛宕山から2.5kmほど南下した場所にある標高263メートル生駒山頂上にあります。


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登山道は2コースあるようでしたが、この日は、距離はあるものの比較的緩やかな南側からの登城コースを選びました。


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登山口には、説明版と案内板が設置されています。


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たしかに登山道は整備されていて藪をかき分けていくようなことはなかったのですが、楽に登れるというわけでもありませんでした。


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しばらく登ると、「馬の蹄跡」と書かれた立札が設置されており、その先に、大きな岩が見えます。


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よく見ると、確かに馬の蹄ほどの大きさのが、岩の表面にたくさんあります。

立札の案内によると、これは礫岩の礫が抜けてできた穴だそうですが、これが馬の蹄によく似ていることから、そう呼ばれているそうです。


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山頂まで400m

こういう立札は、目安になってありがたいですね。


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山頂が目の前にそびえます。

いかにも、山の形状そのものは城跡らしい山頂ですね。


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そろそろ山頂が近づいてきた感じです。


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荷置岩

たしかに、上部が平らな形状で物が置きやすそうですが、こじつけじゃね?(笑)


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そして登ること約40分

ようやく城跡にたどり着きました。


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本丸跡の登り口には、案内板が設置されています。


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本丸跡です。


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本丸の面積はそれほど広くありませんので、それほど規模の大きな城ではなかったのでしょう。


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駒山城の歴史ははっきりとされていないがませんが、『播磨古城記』には「赤松律師則祐妙善が居城」とあり、『赤松家播備作城記』には「安室五郎義長が天文年間に築城した」とあるそうです。

赤松則祐は言うまでもなく赤松則村(円心)の三男ですが、安室義長という人物のことはよくわかりません。

ただ、その立地から考えても、赤松氏の拠点であることは間違いなさそうですから、おそらく、白旗城を中心とする赤松の里の南の砦として、白旗城合戦でも大いにその役目を果たしたのではないかと想像します。


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本丸から北側を望めば、苔縄城跡や白旗城跡が見えるはずなのですが、樹木が覆い茂っていて展望できません。

やはり城跡めぐりはに来なけりゃだめですね。


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それでも、隙間から辛うじて望む苔縄城跡です。


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こちらは白旗城跡。


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本丸を降り、二の丸へと続く道を進んでいくと、大きな空堀跡が出現します。


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堀の縁には石垣跡が見られるのですが、これが当時の遺構かどうかはわかりません。


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二の丸跡です。


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二の丸は3段構成になっており、ここは最上段の二の丸です。

本丸はそれほど広くはありませんでしたが、二の丸は結構な面積です。


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二の丸中段から再下段を見下ろします。


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二の丸再下段から望む南側の景色です。

千種川上郡のまちを一望できます。

白旗城の南側の見張り場としては、最適ですね。

それにても、白旗城、苔縄城、そして駒山城と立て続けに近隣三城も攻めると(日はそれぞれ違いますが)、周辺の山々がすべて城跡に思えてきました。


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下山後、麓から見上げた駒山城跡です。


さて、上郡の三城を制覇しましたが、もうちょっと赤松氏の里をめぐります。




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by sakanoueno-kumo | 2017-06-24 10:26 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その74 「法雲寺」 兵庫県赤穂郡上郡町

苔縄城跡のある愛宕山の麓にある「法雲寺」を訪れました。

背後に見えるのが愛宕山です。


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ここ苔縄の地は赤松氏挙兵の地と伝えられ、建武4年(1337年)に赤松則村(円心)がこの地に新寺を建立し、雪村友梅を開山に招請したと伝えられます。


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以後、ここが赤松氏の菩提寺になりました。


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境内には、推定樹齢600年から800年とされるビャクシン杉の大樹がそびえます。

この木は、法雲寺建立の際に、円心が自ら植えたものと伝わります。


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樹高33.5m、最長幹周り9.83m、根周り14.3m、枝の広がりは東西23.5m、南北22mにも及び、日本最大級だそうです。


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とにかくデカイ


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写真ではなかなかその大きさが伝わりづらいので、スケール感を伝えるため、石碑の上にわたしのキャップを置いてみました。


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樹齢700年を経てなお、樹勢はいたって盛んだそうです。


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境内には、「赤松円心公六百年遠諱」と刻まれた石碑があります。


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後年、「嘉吉の乱」によって赤松惣領家が滅ぶと、山名氏によって寺領が押領され、享徳3年(1454年)には、室町幕府に反乱を起こして山名宗全に敗死した赤松則尚首実検が、ここ法雲寺で行われたと伝わります。
その後、赤松政則による惣領家再興後に寺領の回復が図られますが、戦国時代には赤松氏とともに衰微したとみられているそうです。

それらすべての歴史を詳らかに見てきたのは、ビャクシン杉だけでしょうね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-06-23 00:39 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その73 「苔縄城跡」 兵庫県赤穂郡上郡町

前稿で紹介した白旗城から千種川を挟んで西へ3kmほど離れたところに、標高411m愛宕山があるのですが、この山上が白旗城と同じく赤松氏の拠点だった苔縄城があった場所だと伝えられます。


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登城口は、いまは廃校となっている旧赤松小学校の敷地裏にあります。


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駐車スペースにあった案内板。

愛宕山への登山道は、「苔縄ふれあいの森」と名付けられたハイキングコースになっているようです。


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旧小学校敷地内にあった案内板。


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入山するとすぐに、防獣柵があります。

ここを開けて中に入り、登山道を進みます。


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道中は各所に誘導板が設置されていて、迷うことはありません。


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所々に休憩所が設けられています。


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道中、石塔のようなものを見つけたのですが、よく見ると、上に乗っかっているのは首のない地蔵のようです。


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台座には、『寛政四子七月日』と刻まれています。


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首なし地蔵を過ぎると、傾いた鳥居があります。


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鳥居を抜けると、展望台が見えます。


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展望台付近に石垣跡のようなものがあったのですが、よく見ると石が新しく、たぶん、城跡とは関係ないでしょうね。


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ただ、展望台が設置されている場所は急斜面に突然あらわれた平坦地で、あるいは、ここに曲輪のようなものがあったのではないでしょうか。


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説明板です。

苔縄城は(伝)となっていますね。

ここが苔縄城だったという確証は得られていないようです。


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左端の山が説明板に解説されていた、展望台から見た白旗城です。
下はその拡大。


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『太平記』によると、苔縄城の城主は赤松則村(円心)とあります。

円心は大塔宮護良親王の令旨を持って都から帰った子・赤松則祐の勧めで、一族に奮起を促し、「赤松城に集まる」ように伝えたといわれますが、その赤松城というのが、かつては「その30」で紹介した神戸大学キャンパス敷地内との説もありましたが、現在ではここ苔縄城と考えられています。

しかし、『播磨鑑』では「赤松円心の三男・則祐は元徳3年(1331年)に大塔宮の令旨を受けて、ここに城を築き、義兵を挙げて軍功があり、領国安穏であった」と記されているそうで、初代城主を則祐としています。

また別説として「城主ハ伊豆守祖妙善入道トモ」、あるいは「一説、則祐感状山ニ居住ノ後、又、此城ヲ築キ居ス」、さらに「子息義房其譲ヲ受ケテ居住ス」など、さまざまな記述があるようですが、初代城主は円心と考えるのが正しいとされているそうです。


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東側山麓に千種川が流れ、自然の要害をなしています。


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南側の眺望です。


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真南に見える山の山頂は、同じく赤松氏の拠点・駒山城があった場所です。


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拡大です。

ここも後日足を運びましたので、別の稿で紹介します。


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さて、ここから山頂に向けて登山、といきたかったのですが、ここを訪れたのは初夏で、ここからの道中は見てのとおりシダが生い茂っており、マムシが怖いので登山はここで断念しました。

説明板に(伝)とあったように、特に目を見張る遺構は確認されていないようですしね。


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愛宕山を背後に、下山です。



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by sakanoueno-kumo | 2017-06-21 23:31 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その72 「白旗城跡」 兵庫県赤穂郡上郡町

兵庫県の西の端にある白旗城を訪れました。

ここは、播磨国守護の赤松氏の居城とされたところで、『太平記』によれば、東上する足利尊氏軍を迎え撃つ新田義貞軍約6万を、赤松則村(円心)がここ白旗城にて50日あまりの間足止めさせたと伝わります。

この標高440m比高390mの登山にチャレンジしました。


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城跡への登山の手引は、上郡町のHPで懇切丁寧に紹介してくれていましたので、迷うことなく登れます。

写真に記したように、山頂の北から南へと連なる尾根筋に三の丸・本丸・馬場の丸・二の丸・櫛橋丸と曲輪が梯郭式に並ぶ縄張りとなっています。

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ここを訪れたのはGW初日の4月29日。

新緑が美しい麗らかな日でした。



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登山口には獣除け金網の扉が閉じられて針金で縛られていますが、「扉を開閉できる方はご自由にお通りください」と書かれています。

開けたらちゃんと閉めて、針金で縛って進みます。


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しばらく歩きやすい山道を進むと、城跡の説明看板が表れます。


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城跡まで、約1.6kmとあります。


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ここからの道のりが、大きな岩がゴロゴロ転がった険峻な山道で、たいへん進みにくい。


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これって、元は石垣だったものが崩れた跡じゃないでしょうか?


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更に登ると、どうみても石段跡らしき道があります。


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約1.6kmの標識から歩くこと険峻な道を30分強、城跡南側の分岐にたどりついたのですが、標識はまだ残り0.8km

あれから800mしか進んでいませんでした。


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でも、ここからは尾根道で歩きやすく、北へ5分ほど進むと、はっきりとした遺構が始まります。

まずは堀切跡


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さらに北へ5分ほど進むと、櫛橋丸への誘導表示が。

登ってみます。


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櫛橋丸です。


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櫛橋丸からの眺望です。


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さらに5分ほど進むと、二の丸跡にたどり着きます。


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結構な面積です。


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そして、さらにそこから5分進んだところに、本丸跡があります。


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標高440mの山頂です。


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本丸跡に設置されている案内板。


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縄張り図です。


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九州で勢力を立て直した足利尊氏は、再び兵庫へ攻め上ってきますが、これを阻止すべく新田義貞が西へ向かいます。

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ところが、その動きを見た播磨国の守護大名・赤松則村(円心)がこれを食い止めます。

この戦いを「白旗山合戦」と呼びます。


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『太平記』によれば、東上する足利軍を迎え撃つ新田軍約6万を、ここ白旗城にて50日あまりの間足止めさせたといいます。

その結果、楠木正成はわずかな兵力で、負けるとわかっていた湊川の戦いに出て行かなければならなくなったわけです。


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本丸跡のさらに北側を下ると、三の丸跡があります。


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ここも山頂近くとは思えないほど広い面積の平滑な地で、周りは土塁で囲われています。


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登山は麓から約70分、なかなかハードな道のりでした。


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下山途中、麓にある白旗城跡五輪塔群と、白旗八幡神社、栖雲寺跡に立ち寄りました。


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栖雲寺は円心の次男・赤松貞範が建てたといわれ、ここにある五輪塔群は、白旗城合戦で落命した兵たちの供養塔と言われています。


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麓にある「円心の里」記念碑

その後方に見えるのが、白旗山です。

もう少し、円心の里をめぐってみます。




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by sakanoueno-kumo | 2017-06-20 23:46 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第24話「さよならだけが人生か?」 ~新野親矩の娘たちの縁組~

今話は井伊家にまつわる縁組の回。龍雲丸盗賊団が去り、久々に実在の人物の逸話です。


 新野親矩の三女・の元に持ち込まれた縁組の相手は実在の人で、名は庵原助右衛門朝昌。ドラマ中でも紹介されていたように、今川家の譜代の重臣・太原雪斎の一族にあたる人物です。イケメンの好青年に描かれていましたが、実際には、この頃の朝昌は数えで12~3歳少年だったと見られます。だから、ドラマでは長女、次女を差し置いて三女の桜との縁談という設定にしたのでしょうね。ドラマでは三人姉妹ですが、実際には、親矩には一男七女があったとされます。親矩は井伊直虎の母・祐椿尼の実兄で、この頃の直虎が30歳前後だったとすると、親矩は生きていれば50歳以上だったと思われます。その娘と考えれば、ドラマのとおり、たぶん、末の方の娘が朝昌の相手だったんでしょうね。


 ちなみにこの朝昌ですが、今川氏滅亡後は武田氏に仕え、武田氏滅亡後は羽柴秀吉家臣の戸田勝隆に仕え、その後、井伊直政の家臣になります。ところがほどなく直政ともめて出奔。各地を流浪したのち、再び直政の元に戻ってきます。ドラマでは、その誠実さが直虎のお眼鏡に叶った朝昌ですが、桜はこの先けっこう苦労しそうです(笑)。


 で、もうひとりの親矩の娘・桔梗の縁組。こちらも史実のようで、相手は北条氏家臣の狩野泰光の子息。狩野泰光は別名・狩野一庵宗円としても知られ、後年の豊臣秀吉による小田原征伐の際、あの凄惨八王子城の戦いで討死する人物です。桔梗の縁談相手であるその息子のことはよくわかりませんが、父と一緒に八王子城を守備していたとすれば、その妻・桔梗も城に篭っていたと考えていいでしょうね。八王子城の戦いは、女、子どもに至るまで容赦なく斬り捨てられた大虐殺の戦いとして知られます。ということは桔梗も・・・。直虎死後のことですから、そこまでドラマで描かれることはありませんが。


 とまあ、その後の歴史を知っている後世からみれば、ふたりとも決していい縁談とはいえそうにありませんが、この時点の井伊家がそれを知るはずがありません。落ちぶれたとはいえ、「海道一の弓取り」とうたわれた今川氏が、このわずか2年後に滅亡するなど思いもよらなかったでしょうし、20余年後には北条氏までもが滅亡に至るなど、予期できるはずがないですね。この時点での弱国・井伊家にとっては、大国に挟まれながら生き残っていくための必死の知恵だったのでしょう。


直虎「桔梗殿の縁談も取り持ってはくれぬか」

政次「お相手は今川の家臣にございますか?」

直虎「北条じゃ。北条ならば、今川の唯一の味方。今川に怪しまれることもなかろうし、動きを知りたいところでもある」

政次「・・・・なかなか、よろしきお考えかと・・・」


南渓「しかし、思うたよりそなたの働きは認められておったようじゃの」

直虎「あれは迷惑な話にございましたねぇ。阿呆なおなごが治める取るに足らぬところよと見なされておったほうが、井伊はよほど動きやすいではございませぬか」

南渓「もうおとわはおらぬのじゃのぅ。つまらんのぅ・・・」


しの「なんだか、いっぱしの殿様のようになってまいりましたね」


皆が直虎の成長を認めはじめたのか、皆が認めるようになったから成長したのか、直虎が名実ともに城主となりつつあるようです。

もっとも、それも長くは続かないのですが・・・。



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by sakanoueno-kumo | 2017-06-19 20:55 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)