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おんな城主 直虎 第43話「恩賞の彼方に」 ~戦の論功行賞~

 長篠の戦い手柄あらため(論功行賞)に頭を悩ませる徳川家康。徳川・織田連合軍の圧勝に終わったこの戦いでしたが、この敗北によって武田氏がたちまち滅亡したわけではなく、したがって、徳川の領地が急増したというわけでもありません。ところが、戦は大勝利だったわけですから、戦功をたてた武将はたらふくいたわけです。そんな中でバランスよく恩賞を与えるというのは、さぞかし難しい仕事だったことでしょう。


 劇中の家康は、岡崎城浜松城の恩賞のバランスに苦慮します。武功だけみれば、浜松の武将たちの活躍が目立ち、岡崎城を守備していた家康の嫡男・徳川信康の配下には、目立った活躍が見られません。しかし家康は、岡崎城の日頃のはたらきがあったから、織田の援軍を得ることができた、というところを思案の材料とします。岡崎城は織田領との国境に近く、信康の正室は織田信長の娘・徳姫です。織田氏との関係を良好に保つために、岡崎城は重要な役割を果たしていました。長篠の戦いの兵力を見ても、徳川勢8千に対して、織田の援軍が3万。本体より援軍の方がはるかに多かったわけで、織田の援軍なくしては、長篠の大勝はなかったでしょう。その意味では、岡崎城の戦功は、決して軽視はできないものでした。しかし、榊原康政は言います。


 「武功は命がけでございます。」


 たしかにそのとおりで、命がけで槍働きをした武将を蔑ろにすると、のちのちの士気に影響しかねません。武士は戦場で活躍してなんぼの時代ですからね。しかし、戦場で武勇を奮うだけがいくさではありません。このあたりのバランスは難しかったでしょうね。


 通常は、榊原康政のいうとおり武功第一でした。しかし、その常識を覆した論功行賞が行われた例があります。天才・織田信長でした。その舞台は、このときより遡ること15年前の永禄3年(1560年)5月19日に起きた桶狭間の戦い。織田方の奇襲によって大軍の今川軍を壊滅させたことで知られるこの戦いですが、このとき、敵将の今川義元に最初に槍をつけたのが服部小平太で、二番手に飛びこんでいった毛利新介が義元のをあげました。当然ながら、このとき、一番手柄は服部小平太か毛利新介のどちらかと誰もが予想しましたが、翌日の論功行賞の場で信長が最初に名をあげたのは、簗田政綱という武将でした。簗田は戦場で目立った活躍はなく、誰もが驚いたのは言うまでもありませんが、このときの簗田の戦功は、隠密行動によって今川義元の本陣の場所をつきとめ、信長に伝えたことでした。これによって織田軍の奇襲が可能になったわけで、信長は、義元の首を挙げた武功よりも、簗田の功績が大きいと判断したわけです。信長は、武功よりも情報が重要と考えたんですね。これは当時としては画期的な判断で、下手をすれば、家臣から不信を買って士気を下げかねません。信長だから出来た仕置だったといえるでしょうか。


 恩賞の与え方というのは、国を預かる領主にとっては重大な政治でした。その意味では、家康にしても信長にしても豊臣秀吉にしても、ときには手厚く、ときには冷酷に、上手く論功行賞を捌いたからこそ天下人たり得たといえるかもしれません。特に家康は、晩年の関ヶ原の戦いから大坂の陣に至るまで、その論功行賞の巧みさで力を拡大していきました。その政治感覚は、この頃に磨かれたものだったかもしれませんね。


 さて、次回は井伊万千代にも、大きな恩賞が与えられるようです。



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by sakanoueno-kumo | 2017-10-30 19:10 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その152 「丹下城跡(河内大塚山古墳)」 大阪府松原市

大阪府南部には、日本一大きな大仙古墳(仁徳天皇陵)をはじめとする大規模な古墳が数多くありますが、その中のひとつ、松原市にある河内大塚山古墳は、南北朝時代、北朝方に属する丹下氏が城を築いていました。

それが丹下城です。


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丹下氏は伊予橘氏の流れを汲む土豪武士で、河内国丹下を支配していました。

伊予橘氏の流れというと、楠木正成の楠木氏も同じで、おそらく遠縁にあたる一族だと思われますが、楠木氏は南朝方、丹下氏は北朝方に属していたんですね。


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延元2年/建武4年(1337年)3月、丹下三郎入道西念の大軍は、古市に陣を張っていた南朝軍を攻めました。

しかし、野中寺前で合戦となり、南朝軍の岸和田治氏によって、丹下氏は丹下城に追い立てられ、付近の民家も焼き払われたそうです。


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古墳がに利用されることは多く、河内にある古墳群のほとんどが、中世や戦国期に戦火に巻き込まれています。

丹下城が築かれた河内大塚山古墳は、日本で5番目に大きな古墳で、全長は335m、後円部直径は185m、後円部の高さは20mあり、周囲に広い堀をめぐらせ、陣を張るにはもってこいの環境ですからね。


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その後、丹下氏は丹下城がしばしば襲われることから、すぐ西側に松原城をつくったと伝わりますが、松原城の正確な位置はわかっていません。

延元3年/建武4年(1338年)、南朝側の和田正興橋本正義らは、丹下氏の勢力拡大を恐れ、松原城を攻撃して陥落させました。

このとき、和田正興軍の高木遠盛によって丹下八郎太郎の子である能登房が討ち取られます。

まもなく松原城は落城したと伝えられますが、丹下城はその後、戦国期まで存在したようで、天正3年(1575年)の織田信長による河内国城郭破却令によって廃城となり、丹下氏は城を退去して帰農したと伝わります。




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by sakanoueno-kumo | 2017-10-29 00:41 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その151 「北畠顕家供養塔」 大阪府堺市

前稿で紹介した阿倍野区にある北畠顕家の墓とは別に、堺市にも顕家の墓があります。


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阿倍野の墓は江戸時代に建てられたものですが、こちらは昭和12年(1936年)に顕家600回忌に町の有志によって建てられたものだそうで、墓というより、供養塔と言ったほうが正しいでしょうね。


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『太平記』では、顕家戦死の地摂津阿倍野と記されているので、一般には前稿の墓が有名ですが、近年の研究では、ここ堺市の石津で討死したという見方が主流だそうです。


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『神皇正統記』などでは、延元3年(1338年)5月22日朝、足利軍高師直率いる1万8千と戦い、ここ摂津国石津で戦死したと伝えています。

享年21。


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供養塔の前には、「此附近北畠顕家奮戦地」と刻まれた石碑があります。


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供養塔です。

「源顕家公 殉忠遺蹟供養塔 南部師行公」

と刻まれています。

南部師行とは、顕家と共にこの地で戦死した南朝方の武将です。


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その南部師行から数えることの33代目にあたる子孫の男爵・南部日実氏が揮毫した慰霊碑です。

残念ながら、右上が欠けてしまっています。


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隅にある「南無阿弥陀仏」と刻まれた石碑の裏には、「正徳3年(1711年)建立、行家」と刻まれており、古くからこの地が古戦場であったと知られていたことがわかりますが、この稿を起稿するにあたってネットで調べていると、行「家」ではなく、「蒙」の草冠がない字だそうです。

たしかに言われてみれば、そうです。


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これは、当時、徳川幕府の目を恐れた人たちが、こういう形で顕家の霊を弔ったものだそうです。

へぇ~、ですね。


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慰霊碑の前に流れる石津川です。

おそらく、当時は浜辺だったんじゃないでしょうか。




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by sakanoueno-kumo | 2017-10-28 09:32 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その150 「北畠顕家墓所」 大阪市阿倍野区

北畠顕家の墓所と伝わる場所に来ました。

現在は北畠公園として整備されています。


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公園入口の石碑は、昭和14年(1939年)に建てられたものです。


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由緒書です。


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墓石の周りは塀と柵で囲われていて、なかに入ることはできません。


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墓所の前の石碑は大正8年(1919年)のものです。


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こちらはの看板には、阿倍野合戦之図と、同合戦に顕家が出陣の際に後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)に送ったとされる上奏文要訳が記載されています。その内容は、


一、西府(九州)と東関(関東)を平定するために人を遣わし、あわせて山陽、北陸等に藩鎮を置くこと。

一、戦争で疲弊した民の租税を減免し、倹約すること

一、貴族、僧侶への恩賞は、働きに応じて与えること

一、臨時の行幸や酒宴は控えること

一、法令に尊厳をもたせること

一、公家・官女・僧侶などのうちに政治に介入して政務を害する者あり  益のないものは退けること

延元三年(1338)5月15日

従二位権中納言兼陸奥守大介 臣 源朝臣顕家 上


この上奏文は、若年ながら顕家の卓越した政治理念を知ることのできる資料として、後世に高く評価されいます。


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柵の隙間から墓石を撮影。


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碑文は、手前の看板で紹介されていました。

「別当鎮守府大将軍従二位行権守中納言兼右衛門督陸奥権守源朝臣顕家卿之墓」


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顕家の墓は、かつてこの地にあった「大名塚」と呼ばれていた塚を、江戸時代の国学者・並川誠所が享保年間(1720年頃)に北畠顕家の墳墓と比定し、建てられたものだそうです。


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公園の片隅にあるプレファブの前に、「北畠顕家公ご尊像」と書かれた看板がありました。

その窓を覗いてみると・・・。


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中に顕家の像があるのですが、ガラスが汚れている上に反射して、写真ではよくわからないですね。


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さて、次回はもう1ヶ所ある顕家の墓を訪れます。



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by sakanoueno-kumo | 2017-10-26 23:29 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その149 「阿部野神社」 大阪市阿倍野区

大阪市阿倍野区にある「阿部野神社」を訪れました。

ここは、前稿で紹介した北畠親房と、その子の北畠顕家二柱を祭神として祀る神社です。

全国にある「建武中興十五社」の一社でもあり、元別格官幣社でもあります。

「別格官幣社」とは、国家のために功労のあった人臣を祭神とする神社のことで、明治5年 (1872年) に神戸の湊川神社が定められたのに始り、昭和21年(1946年)に社格が廃止されるまで、日本全国に28社ありました。


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神社への参拝入口は複数あるのですが、この日は南側から入ります。


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境内に入ると、すぐに顕家の像が目に入ります。


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親房のことは前稿で紹介したので、本稿では顕家のみ紹介します。


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元弘3年/正慶2年(1333年)8月、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が開始した建武の新政下、わずか16歳陸奥守兼鎮守府将軍に任じらた顕家は、同年10月、父と共に義良親王(のちの後村上天皇)を奉じて奥州は陸奥国へ下向し、多賀城を国府として東国経営に努めます。

延元元年/建武3年(1336年)、足利尊氏謀反を起こすと、上洛して九州に敗走させることに成功。

この功績により、顕家は鎮守府大将軍に任じられます。

しかし、その後、湊川の戦い楠木正成新田義貞軍が敗北すると形勢は逆転。

やがて後醍醐天皇が吉野に落ちると、延元3年/建武5年(1338年)、京都回復のために兵を挙げて各地で転戦。

一時は北朝方を圧倒する戦いを見せますが、同年3月16日、摂津での戦いに敗れると、わずかな残兵を率いて和泉国の観音寺城に拠ります。

その後も顕家軍は和泉で奮戦しますが、やがて5月16日、足利方の高師直軍が堺の浦に出撃を開始し、5月22日、阿倍野・石津の戦いで壮烈な戦死を遂げます。

享年21。


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「花将軍 北畠顕家」という歌の歌詞だそうです。

聴いたことないですが(笑)。

顕家は紅顔の美少年だったと言われ、その貴公子ぶりからも「花将軍」と称されました。

平成3年(1991年)のNHK大河ドラマ『太平記』では、当時、「国民的美少女」と持てはやされた後藤久美子さんが演じて話題になりましたね。


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拝殿です。


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いたるところに北畠家の家紋菊の紋章が。

北畠家が天皇家直属の公卿だったことを意味しているのでしょうか。


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拝殿の周りには、「建武の中興六百五十年祭を迎へて」と題した木製のなが~い看板が設置されています。


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すべて楷書手書きです。

これ、凄いですね。


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そして、こちらは西側の参拝口。


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なぜ、この地に北畠父子を祀る神社が創建されたかというと、このあたりが顕家と足利軍が戦った古戦場跡と伝わり(異説あり)、この近くに顕家の墓があったからだそうです。

次回は、その顕家の墓を訪れます。



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by sakanoueno-kumo | 2017-10-25 22:27 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その148 「北畠親房の墓」 奈良県五條市

前稿で紹介した賀名生の里の裏山に、南朝方の公卿・北畠親房の墓と伝わる古い墓石があります。


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北畠親房は、当時、学識の高い万里小路宣房吉田定房とともに「後三房」と称された公卿で、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の信頼厚く、その第二皇子である世良親王の養育を任されるほどでした。

また、大塔宮護良親王は親房の娘で、親王から見れば親房は義父にあたります。

北畠親房といえば、「大日本ハ神国ナリ」で始まる『神皇正統記』の著者として有名ですね。


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建武の新政下では、鎮守府将軍となった嫡子の北畠顕家と共に義良親王(のちの後村上天皇)を奉じて奥州は陸奥国へ下向し、多賀城を国府として東国経営に努めますが、足利尊氏謀叛によって後醍醐天皇が吉野に落ちると、吉野朝(南朝)の中心人物として伊勢、あるいは陸奥において、京都回復に尽力します。

後醍醐天皇の崩御後は、跡を継いだ後村上天皇(第97代天皇・南朝2代天皇)の帝王学の教科書として、常陸国の小田城で中世二大史論のひとつである『神皇正統記』を著し、それ以外にも、後世に伝わる『職原抄』・『二十一社記』などを著しています。


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正平3年/貞和4年(1348年)に「四條畷の戦い」楠木正行ら南朝方が高師直に敗れると、南朝は賀名生行宮に落ち延びます。

その後、観応の擾乱による混乱で足利尊氏が南朝に降伏して正平一統が成立すると、これに乗じて親房は一時的に京都と鎌倉の奪回にも成功しました。

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しかし、その後、親房の動静を記す史料はなく、2年後の正平9年/文和3年(1354年)4月に賀名生で死去したと伝えられます。

享年62。


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墓所の隅には、「南朝三帝賀名生皇居之地」と刻まれた石碑があります。

その横には見える石碑は「五条高校賀名生分校跡」と刻まれていました。

墓所のある丘の上は、かつて五条高校賀名生分校があったそうです。


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親房の死後、南朝には指導的人物がいなくなり、南朝は衰退への道をたどっていくことになります。




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by sakanoueno-kumo | 2017-10-24 23:55 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(4)  

おんな城主 直虎 第42話「長篠に立てる柵」 ~長篠の戦い~

 虎松徳川家康の小姓となって井伊万千代と名乗りだした3ヶ月後(ドラマではまだ草履番ですが)、家康は織田信長に援軍を頼み、長篠城に出陣しました。武田信玄の死後、家康が武田氏から奪回した長篠城を信玄の息子・武田勝頼が囲んだからでした。長篠城は遠江と三河の国境付近に位置し、交通の要衝地にありました。


天正3年(1575年)4月に三河攻略を開始した勝頼は、5月に長篠城を包囲。長篠城を守っていた徳川方の奥平信昌は必死の防戦を見せますが、やがて劣勢が明らかになると、鳥居強右衛門を援軍要請の使者として、岡崎城の家康ももとに送ります。これを受けた家康は、5月18日、徳川軍8千と援軍に駆けつけた織田軍3万とともに、長篠城の支援に向かいます。そして、その決戦の舞台となったのが、長篠の手前にある設楽原でした。設楽原は平野ではなく、丘陵地が川に沿って南北に連なる地形でした。両軍は連吾川を挟んで陣を布き、川を自然の堀として防御線を築きました。織田・徳川連合軍は、丘陵地であるがゆえに相手陣を奥深くまで見渡せないという地形を利用し、さらに馬防柵を構えて万全を期します。


 5月20日夜、武田軍が付城として守備していた鳶ヶ巣山城を、織田・徳川連合軍が奇襲して落とし、武田軍の退路を断ちます。そして翌21日早朝、設楽原では、武田軍が織田・徳川軍への攻撃を開始。しかし、連吾川の中流域は水田があり、大軍が進撃するには足元が悪く、さらに、信長が用いた革新的な鉄砲攻撃が火を吹き、8時間の戦いのすえ武田軍は壊滅的な大敗北を喫します。有名な「鉄砲三千挺の三段撃」ですね。当時の火縄銃は、1発を撃ったら2発目を撃つまでには30秒ほどかかったといいます。この30秒の空白を埋めるため、鉄砲隊を3列にわけ、入れ替わりに撃つという戦法で、これにより、織田・徳川連合軍の鉄砲は間断なく火を吹き、当時、最強といわれた武田の騎馬隊は、為す術もなく屍を積み上げていったといいます。織田信長の天才伝説のひとつですね。


 ただ、この「三段撃」に関しては、近年の研究では否定的な見方が少なくありません。太田牛一が記した『信長公記』によると、鉄砲の数は「千挺ばかり」とあるだけで、三段撃ちのことはまったく記されていません。専門家の見解によると、三段撃ちのような複雑な動作をこなすには、よほど熟練した鉄砲隊と安定した性能の鉄砲が必要で、技術的には困難と指摘しています。では、なぜこの「三段撃」が通説となったのか。その出典元は、江戸時代前期の作家・小瀬甫庵『信長記』に記された、「鉄砲三千挺(中略)一弾ずつ立ち変わり打たすべし」という記述からのようで、以後、この逸話が多くの信長伝説に引用され、広く知られるようになったそうです。しかし、この『信長記』は、『信長公記』を元に創作された読み物で、現在では史料としてはほとんど認められていません。信長ファンにとっては残念なことかもしれませんが、「三段撃」は、実際にはなかったのかもしれませんね。


 いずれにせよ、武田軍の大敗に終わったのは事実で、織田・徳川連合軍に主だった戦死者が見られないのに対し、『信長公記』に記載される武田軍の戦死者は、山県昌景、馬場信春をはじめ、原昌胤、原盛胤、真田信綱、真田昌輝、土屋昌続、土屋直規、安中景繁、望月信永、米倉丹後守など重臣や指揮官を含む1万人以上に及んだといいます。武田軍の兵は1万8千ほどだったといいますから、半数以上の死者を出したということで、壊滅したといっても過言ではないでしょうね。


 この大敗北を機に、武田氏は一気に滅亡の道を進んでいった・・・と思われがちですが、実はそうではなく、武田氏が滅亡するのはこれより7年後のことで、それまでは、織田、徳川両氏と激しい攻防を繰り広げます。しかし、この戦いで武田氏は多くの人材を失い、衰退化に繋がったことは間違いないでしょう。歴史の大きなターニングポイントとなった長篠の戦いでした。



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by sakanoueno-kumo | 2017-10-23 02:01 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その147 「賀名生南朝皇居跡」 奈良県五條市

吉野山から西南西に15kmほどのところに、「賀名生の里」と呼ばれる場所があるのですが、ここにも、かつて南朝の行宮があったと伝えられます。


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延元元年/建武3年(1336年)12月28日、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)は京を逃れて吉野山潜行しますが、その途中、天皇は一時この地に滞在したと伝えられます。


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現在、ここは「賀名生の里歴史民俗資料館」と称して観光用に公園整備されています。


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後醍醐天皇がこの地に滞在の理由は、真言密教に大きく帰依していた天皇が、総本山である高野山金剛峯寺への行幸を強く願っていたといい、それがかなわない場合に吉野山金峯山寺へと向かう計画だったため、高野山と吉野山のほぼ中間地点に位置する賀名生で様子をうかがっていたと伝えられます。


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後醍醐天皇の跡を継いだ後村上天皇(第97代天皇・南朝第2代天皇)は、正平3年/貞和4年(1348年)、南朝の本拠地の吉野山が焼き討ちにあうと、ここ賀名生に行宮を定めました。

それから間もない正平6年/観応2年(1351年)、北朝の天皇を擁立した足利尊氏が、一時的に南朝に降伏して北朝の天皇は廃され、年号も統一されるのですが、しかし、具体的な和睦の条件は折り合わず、翌年には再び分裂します。

世にいう「正平の一統」です。

ただ、わずか数か月のことでしたが、南朝が唯一の朝廷となり、ここ賀名生はわが国の都になったことになるんですね。

その後、南朝の行宮は河内や摂津などにも移りますが、賀名生は南北朝時代を通して、度々その拠点となりました。


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公園内には、「賀名生皇居跡」と伝わる藁葺屋根の古い屋敷があります。

ここは、西吉野の郷士・堀孫太郎信増の屋敷で、立ち寄った後醍醐天皇を手厚くもてなし、その後も後村上天皇、長慶天皇(第98代天皇・南朝第3代天皇)、後亀山天皇(第99代天皇・南朝第4代天皇)はこの地に入られたときも、皇居となりました。


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冠木門に掲げられた「賀名生皇居」扁額は、幕末の志士団・天誅組吉村寅太の筆によるものだそうです。

墨の色がまったく褪せてないのが凄い。


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冠木門横に設置されていた説明板です。


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屋敷はいまも「堀家」様の住居として使用されておられるそうで、見学には事前の申込みが必要だそうです。

この日は申込みをしていなかったので、外観の写真のみ。


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南北朝時代に記された記録などによると、この地はもともと「穴生」・「穴太」・「阿那宇」などと表記され、「あなう」と呼ばれていたようです。

正平の一統のとき、後村上天皇は「願いがかなってめでたい」との思いから、この地を「加名生(かなう)」と名付けたと伝えられるそうです。

のちに、この地の人々は「加名生」はおそれ多いとの理由で「賀名生」に改めたといわれ、明治のはじめに読み方を「あのう」に統一したそうです。


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700年近く前、わずか数ヶ月間わが国の首都となった賀名生の里。

いまは熊野路の隠れ郷といった雰囲気の静かな里です。



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by sakanoueno-kumo | 2017-10-22 11:35 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その146 「花矢倉展望台」 奈良県吉野郡吉野町

吉野山シリーズの最後は、吉野朝廷の舞台がほぼ見渡せる花矢倉展望台からの眺望です。

のシーズンは観光客でにぎわう絶景スポットですが、真夏のこの日はわたしひとりでした。

標高約600mで、ここまで上がってくるのは結構たいへんですからね。


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眼下に目を落とすと、吉野山の町並みが南北に馬の背のような格好で尾根伝いに浮かびます。


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尾根伝いのいちばん向こうにひときわ高くそびえ立つ大建築が、「その127」で紹介した金峯山寺蔵王堂です。

こうして見ると、吉野山は蔵王堂を中心に発達した門前町だということがよくわかります。


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蔵王堂にズームイン。

その左側の山中から覗いている塔のような建物が、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が開いた吉野朝廷の皇居跡に経つ南朝妙法殿です。


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遠く西の方角に目を向けると、奈良県と大阪府の境にある金剛山系が望めます。

写真左のいちばん高い山が「その16」「その17」で紹介した金剛山、その右の山が葛城山、その右のラクダのふたつコブのような小さな山(小さいといっても標高517mあるのですが)が「その27」で紹介した二上山です。

金剛山系には、楠木正成が築いた千早城(その15)上赤坂城(その14)下赤坂城(その13)などがあります。

こうして見ると近いように思えますが、金剛山まで直線距離にして20km以上離れています。


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『太平記』では、この尾根伝いの吉野山全体を、「吉野城」としています。

吉野山の尾根は東西の深い谷にはさまれ、その尾根の落ちる北側には天然の堀ともいえる吉野川が流れ、さらに吉野山の背後は、大峯から熊野へ連なる急峻な山岳地帯であることを思えば、後醍醐天皇や大塔宮護良親王が、吉野山の僧兵の力を頼りながら、守りやすく攻められにくい自然の要塞ともいえるこの地に身を寄せた理由がよくわかる気がします。

まさに、ここは南朝方の城だったんだと。

それにしても、鷲峯山、笠置山、船上山、比叡山、そしてここ吉野山と、山の上を渡り歩いた後醍醐天皇の晩年でした。


さて、次稿から吉野山を離れます。



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by sakanoueno-kumo | 2017-10-20 23:17 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その145 「後醍醐天皇陵」 奈良県吉野郡吉野町

前稿で紹介した如意輪寺本堂の裏山に、後醍醐天皇陵があります。

この長い階段の上です。


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吉野山に自ら主宰する朝廷を開くも、日夜、京都に戻る日を夢見ていた後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)でしたが、しかし、天下の形勢は天皇に利あらず、さらには、そば近くに仕えていた吉田定房坊門清忠などの重臣が次々とこの世を去り、延元4年(1339年)8月9日、ついにに伏します。


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自らの余命幾許もないことを悟った後醍醐天皇は、8月15日、宗信法印を呼んで吉野朝の重臣たちを枕頭に集めさせ、わずか12歳義良親王攘夷する旨を告げ、諸国に最後の綸旨を発します。


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『太平記』巻二十一の「先帝崩御事」では、後醍醐天皇の遺言を次のように伝えます。


「妻子珍宝及王位、臨命終時不随者、是如来の金言にして、平生朕が心に有し事なれば、秦穆公が三良を埋み、始皇帝の宝玉を随へし事、一も朕が心に取ず。只生々世々の妄念ともなるべきは、朝敵を悉亡して、四海を令泰平と思計也。朕則早世の後は、第七の宮を天子の位に即奉て、賢士忠臣事を謀り、義貞義助が忠功を賞して、子孫不義の行なくば、股肱の臣として天下を鎮べし。思之故に、玉骨は縦南山の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕の天を望んと思ふ。若命を背義を軽ぜば、君も継体の君に非ず、臣も忠烈の臣に非じ。」


現代文に読み下すと、

「妻子珍宝及王位、臨命終時不随者(妻子や財宝、王位などは、死ぬときには全て置いていくものである)と言う言葉は釈迦如来の金言であり、常に私が心がけていることなので、秦国の穆公が三人の優秀な臣下を殉死させたことや、秦の始皇帝が死に望んで宝石などを来世に持って行こうとしたことなど、私には何ひとつ興味がない。ただ、この世に残す妄念は、朝敵を全て滅ぼし、天下を泰平の世にしたいう思いのみである。わが亡きあとは、すぐに第七の宮(義良親王)を天子の位に就かせ、忠臣賢臣らと相談の上、新田義貞や脇屋義助の忠義ある功績を賞し、その子孫に不義な行いがなければ、信頼できる朝臣として重用し、天下の鎮静をはからせるよう。私の骨はたとえ吉野山の苔に埋もれてしまっても、魂魄は常に北の空、都の空を望んでいる。もし私の命に背き大義を軽んずるようであれば、天皇であっても天皇ではなく、朝臣も忠義ある朝臣ではない」


凄まじい限りの執念ですね。

そして翌8月16日丑の刻(午前2時)、ついに波乱に富んだ生涯を閉じられます。

御齢52歳。

右手に剣を、左手に法華経5巻を持たれての崩御でした。

辞世の句

「身はたとえ 南山の苔に埋るとも 魂魄は常に 北闕の天を望まんと思う」


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後醍醐天皇の御遺骸はその形を改めず、ここ如意輪堂の裏山に葬られ、それも、わざわざ北向きに陵が築かれました。

これも、天皇の遺言にそったものだったと言われます。


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後醍醐天皇崩御から700年近い年月を経たいまも、ここ御陵の前に立つと、その無念の叫びが聞こえてくる気がします。



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by sakanoueno-kumo | 2017-10-19 22:52 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)